戸塚 哲也(とつか てつや、1961年4月24日 - )は、… 戸塚 哲也(とつか てつや、1961年4月24日 - )は、東京都世田谷区出身の元サッカー選手(元日本代表)、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)、サッカー解説者。都立世田谷工業高校自動車科卒。 息子はギタリストのTAIKING。 世田谷区二子玉川で育ち、都並敏史とは小中学校の同級生で、ペレに憧れたサッカー少年であった。読売クラブの下部組織で育ち、天才少年と呼ばれた。 1979年4月25日の東洋工業戦において、18歳と1日で日本サッカーリーグデビューを飾った。これは当時の最年少出場記録でもあった。 1981年にはスペインのバレンシアCFにサッカー留学。 1983年に監督に就任したルディ・グーテンドルフによってMFからFWへコンバート。
織田 秀和(おりた ひでかず、1961年4月22日 - )は… 織田 秀和(おりた ひでかず、1961年4月22日 - )は、日本の実業家、元サッカー選手(MF)。広島県広島市佐伯区出身。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)・ロアッソ熊本のゼネラルマネジャー(GM)。 広島大学附属中学校入学後からサッカー班に所属し、進学した広大付属高でもプレーした。1979年宮崎国体サッカー少年の部広島県国体選抜メンバー。広大付属サッカー班の3年後輩に河野俊嗣がいる。 筑波大学卒業。筑波大学蹴球部では松田浩が1年先輩、同期に風間八宏・鈴木淳・望月一頼、一年後輩に小野剛がいる。 1984年、地元企業のマツダ入社、マツダSC(現サンフレッチェ広島F.C)に所属する。松田と望月、白石聡は同期入団にあたる。
菅野 裕二(すがの ゆうじ、1961年4月14日 - )は、… 菅野 裕二(すがの ゆうじ、1961年4月14日 - )は、日本の元サッカー選手、指導者である。現役時代のポジションはミッドフィールダー。愛知県出身。 選手時代にはトヨタ自動車などに所属し、スルーパスを得意とするMFであった。日本代表としては1988年1月から2月にかけて行われた中東遠征に参加。同年2月2日のオマーンとの親善試合に出場するなど国際Aマッチ1試合出場を記録した。 2012年12月よりNGUラブリッジ名古屋(旧・NGU名古屋FCレディース)監督。
城福 浩(じょうふく ひろし、1961年3月21日 - )は… 城福 浩(じょうふく ひろし、1961年3月21日 - )は、徳島県徳島市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 1983年から6年間、JSL2部の富士通サッカー部に所属。同じくサッカー指導者である城福敬(仙台育英高校サッカー部監督)は実兄。 小学校3年生時に兄の影響でサッカーを始めた。周囲が強豪徳島商業を選ぶ中、大学進学のために徳島県立城北高等学校へ進学。同校在学時に国体に2度出場。国体選抜でのプレーが松本育夫の目に留まり3年生時にはFIFAワールドユースに向けた日本代表候補に選出された。1979年に早稲田大学に進学し、ア式蹴球部で活動。部内ではトリッキーなパスを多用する異端派だったが、宮本征勝監督からは重用され全日本大学選手権での準優勝に貢献した。
柱谷 幸一(はしらたに こういち、1961年3月1日 - )… 柱谷 幸一(はしらたに こういち、1961年3月1日 - )は、京都府京都市出身の元日本代表サッカー選手、サッカー指導者。 現役時代のポジションはMF、FW。同じく元日本代表でサッカー指導者の柱谷哲二は実弟。 国士舘大学在学中より日本代表に選ばれ、1979年に日本で開催されたワールドユースで日本代表に選出。ロサンゼルス五輪予選や1986 FIFAワールドカップ・アジア予選にもFWとして出場。 1983年には日本サッカーリーグの日産自動車サッカー部に所属し、当時国内三冠を達成し最強と言われたクラブの主力として木村和司や水沼貴史らと共に活躍。ヘディングでのゴールが多かったことから「ヘッドの(柱谷)兄」と当時のサッカーファンから称された。
山田 松市(やまだ まついち、1961年2月21日 - )は… 山田 松市(やまだ まついち、1961年2月21日 - )は、静岡県沼津市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 国士舘大学で教員免許を取得、一時は教員を志したが、本田技研工業サッカー部の練習に参加した事から同サッカー部に入部。攻撃的MFとしてプレーした。 1990年に本田技研のヘッドコーチに就任。1992年にはJリーグ入りを目指すヤマハ発動機(現・ジュビロ磐田)に転じて、10年間にわたって磐田のコーチングスタッフとして活動する。 2002年から湘南ベルマーレのコーチに就任。2003年から就任したサミアが監督を辞任したため、2003年5月に湘南の監督に就任。翌2004年シーズンも引き続き指揮を執ったが低迷し、7月に解任された。
大友 正人(おおとも まさと、1961年1月22日 - )は… 大友 正人(おおとも まさと、1961年1月22日 - )は、神奈川県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはフォワード。 日本大学高校時代にチームのエースとして、第56回全国高校サッカー選手権へ出場。 卒業後は大学進学を目指して予備校に通っていたが、1979年のシーズン途中より、日本サッカーリーグ(JSL)1部に所属する読売クラブの選手として追加登録されると、同年のJSLカップでは準決勝・決勝戦合わせて3得点の活躍で、クラブに初タイトルをもたらした。その後も快足の左ウイングとして長きに渡りレギュラーに定着。80年代に世界的スーパースターであったアルゼンチンのディエゴ・マラドーナになぞらえて「和製マラドーナ」の異名をとった。
境田 雅章(さかいだ まさあき、1961年1月14日 -)は… 境田 雅章(さかいだ まさあき、1961年1月14日 -)は、愛知県東海市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはMF(攻撃的MF)。 選手時代は日産自動車サッカー部に在籍。当初は同じポジションに木村和司やマリーニョが存在した為、出場機会に恵まれなかったが、西ドイツ留学を経て左利きのゲームメーカーとして徐々に頭角を表し、貴重な控え選手として同サッカー部の黄金時代を支えた。また1990年には日本サッカーリーグ選抜に選出され、同年7月のFCバルセロナ戦に出場した。 引退後の現在は母校の愛知学院大学教養部准教授とサッカー部監督を兼任して務めている。
松井 清隆(まつい きよたか、1961年1月4日 - )は、… 松井 清隆(まつい きよたか、1961年1月4日 - )は、大阪府高槻市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 京都西高校・大阪体育大学を経て日本鋼管サッカー部、清水エスパルスでプレーしたGK。ポジショニングに優れた80年代の日本を代表するGKの一人で、日本代表として15試合に出場。特に1985年のワールドカップ・メキシコ大会アジア1次予選、敵地の北朝鮮戦における神がかり的なプレーは、諸般の事情によりTV中継がなかったにも関わらず、取材した数少ないメディア関係者を通じて語り草となっている。同時期に代表でプレーした森下申一は学年が同じでGKとしての能力も同じように高く、良きライバルとして共に日本代表を支えていた。
森下 申一(もりした しんいち、1960年12月28日 - … 森下 申一(もりした しんいち、1960年12月28日 - )は、静岡県静岡市出身の元サッカー選手。サッカー指導者。日本サッカー協会公認S級ライセンス取得。元日本代表。 静岡学園高校1年生の時に第55回全国高等学校サッカー選手権大会で準優勝。東京農業大学卒業後の1983年にヤマハ発動機サッカー部(現・ジュビロ磐田)に入部後、直ちに正GKの座を獲得した。 1985年にサッカー日本代表に選出され、その年の1986 FIFAワールドカップ・アジア予選に参加。正GKに松井清隆の存在があった為に控えに甘んじたが、同年9月のアウェー、香港戦に出場。松井に劣らないスーパーセーブを連発。相手のラフプレーにも動じない冷静な守備で、1点は失うものの、2-1の勝利に貢献した。
布 啓一郎(ぬの けいいちろう、1960年12月21日-)は… 布 啓一郎(ぬの けいいちろう、1960年12月21日-)は、千葉県習志野市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 体育教師志望で日本体育大学に一般入試で受験し合格した。所属したサッカー部では三軍からレギュラーを勝ち取り全日本大学サッカー選手権大会(インカレ)でも優勝している。 日体大卒業後、1984年に船橋市立船橋高等学校に赴任し、サッカー部監督に就任。これ以降、1987年、88年の高校総体連覇をはじめ、高校選手権4回の優勝などの成績を残した。2000年に日本サッカー協会公認のS級ライセンスを取得した。 2003年、船橋市立船橋高校を退職し、U-16日本代表監督に就任したが、日本で開催されたAFC U-17選手権2004は1次リーグで敗退し、2005 FIFA U-17世界選手権出場は成らなかった。
池田 誠剛(いけだ せいごう、1960年12月16日 - )… 池田 誠剛(いけだ せいごう、1960年12月16日 - )は、埼玉県浦和市(現:さいたま市)出身の元サッカー選手、サッカー指導者。元サッカー選手の池田伸康の兄にあたる。
砂金 伸(いさご しん、1960年11月29日 - )は日本… 砂金 伸(いさご しん、1960年11月29日 - )は日本のサッカー指導者。
今川 正浩(いまがわ まさひろ、1960年10月28日 - … 今川 正浩(いまがわ まさひろ、1960年10月28日 - )は、広島県福山市出身の元サッカー選手(FW)・指導者(JFA 公認S級コーチ)。現東海大学競技スポーツ学科専任准教授、サッカー部総監督(2024年–)。 福山市立樹徳小学校–福山市立城北中学校–福山葦陽高等学校–東海大学卒。大学卒業後、1983年にマツダに入社。同期に小林伸二、信藤克義ら。現役時代はマツダSCでプレー。1987年、信藤と共にマツダのプロ契約第1号となる。同年には、高橋真一郎、猿沢茂、ディド・ハーフナーらと共に天皇杯決勝進出に貢献した。 現役引退後、母校の東海大学体育学部特任教員などを経て、1999年に東海大学体育会サッカー部監督に就任。
関塚 隆(せきづか たかし、1960年10月26日 - )は… 関塚 隆(せきづか たかし、1960年10月26日 - )は、千葉県船橋市出身の元サッカー選手、指導者。JFA 公認S級コーチ。現役時代のポジションはフォワード。 千葉県立八千代高等学校から1年の浪人期間を経て一般入試で早稲田大学教育学部に進学。当時の早大蹴球部には3学年先輩に原博実がおり、また吉田靖、城福浩らともチームメイトだった。卒業後、日本サッカーリーグ1部に昇格したばかりの本田技研工業(現Honda FC)に進み、チーム隆盛の礎を築いた。自身は1年目の1984年に得点ランキング2位(11得点)となり、新人王とベストイレブンのタイトルを獲得している。翌1985年も10得点の活躍でチーム初のリーグ3位に導いた。
越田 剛史(こしだ たけし、1960年10月19日 - )は… 越田 剛史(こしだ たけし、1960年10月19日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはDF(センターバック、サイドバック)。 石川県立金沢桜丘高等学校時代は無名の選手であったが、2年次に石川県選抜の一員として参加した国体予選で関係者の目に留まり、日本ユース代表候補に選出された。 筑波大学に入学後は蹴球部に所属し、1年次にユース代表として1979 FIFAワールドユース選手権に出場すると、2年次の1980年には日本代表に選出され、同年12月22日の1982 FIFAワールドカップ・アジア・オセアニア予選のシンガポール代表戦でデビューすると、1982年アジア競技大会など、国際Aマッチ19試合に出場した。
田中 真二(たなか しんじ、1960年9月25日 - )は、… 田中 真二(たなか しんじ、1960年9月25日 - )は、日本のサッカー選手、サッカー指導者。選手時代には左右のサイドバック、センターバック、守備的MFをこなす、守備のユーティリティープレイヤーとして活躍した。 1976年に浦和市立南高等学校(現さいたま市立浦和南高等学校)に進学。同級生の水沼貴史と共に1年次からレギュラーとなり、同年の全国高等学校サッカー選手権大会優勝に貢献、2年次にはベスト4に進出した。3年次には水沼と共に日本ユース代表に選出。1979年に中央大学へ進学すると同年夏に日本で開催されたFIFAワールドユース選手権に出場した。大学2年次の1980年には全日本大学サッカー選手権大会優勝に貢献した。
信藤 健仁(しんとう かつよし、1960年9月15日 - )… 信藤 健仁(しんとう かつよし、1960年9月15日 - )は、日本の元サッカー選手(DF)、指導者(JFA 公認S級コーチ)。広島県広島市出身。元サッカー日本代表。中央大学文学部国文科卒業。JSL時代の登録名は信藤 克義(しんとう かつよし)で、Jリーグ後は信藤 健仁と登録されている。 広島のサッカー無名校である広島県立安古市高等学校(2期生)、中央大学を卒業後の1983年、今西和男総監督と二村昭雄監督に誘われ日本サッカーリーグ1部所属のマツダSC(現 サンフレッチェ広島)に入団。その年、チームは最下位となりチームは2部転落してしまう。 翌年ハンス・オフトおよびディド・ハーフナーがコーチに招聘され、双方からプロとして大きな影響を受けた。
松田 浩(まつだ ひろし、1960年9月2日 - )は、長崎… 松田 浩(まつだ ひろし、1960年9月2日 - )は、長崎県長崎市出身の元サッカー選手、サッカー指導者(S級指導者ライセンス所持)。 高校時代は長崎県立長崎北高等学校でプレーする。ちなみに小林伸二(長崎県立島原商業高等学校卒)は同県出身の同い年である。 筑波大学時代の1年後輩に風間八宏・鈴木淳・望月一頼、2年後輩に小野剛がいる。交換留学の1期生としてブラジルにサッカー留学も経験した。1984年に望月らとともにマツダへ入社した。 マツダSC(現 サンフレッチェ広島F.C)に入団、当初は恵まれた体格からFWとして起用されていたが、コーチにハンス・オフトが就任するとCBに固定される。その後は信藤克義(信藤健仁)とコンビを組み、1987年天皇杯決勝進出、1989年-1990年のJSL2部ベスト11、2度のJSL1部昇格を経験した。
小林 伸二(こばやし しんじ、1960年8月24日 - )は… 小林 伸二(こばやし しんじ、1960年8月24日 - )は、長崎県出身の元サッカー選手(FW)・指導者(JFA 公認S級コーチ)。現AC長野パルセイロ監督。 中学3年の時に島原商業高の小嶺忠敏監督が自宅に直々に勧誘に来たことがきっかけで同校に入学し、雨や台風でも休みなしで練習、練習後に12kmのコースを走らされることもあった。1年次の1976年からFWとして頭角を現し、2年次の1977年にはインターハイを優勝。ちなみに長崎北高出身の松田浩は同県出身で同い年である。元々はサッカーは高校までで終え、卒業後は両親が国見町(現・雲仙市)で営む家業の菓子店を継ぐための修行に入るつもりであったが、小嶺の影響により指導者を志し、1979年に大阪商業大学へ入学。
菅野 将晃(かんの まさあき、1960年8月15日 - )は… 菅野 将晃(かんの まさあき、1960年8月15日 - )は、神奈川県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 息子は元サッカー選手でサッカー指導者の菅野将太。 神奈川県立旭高等学校卒業後、古河電気工業入社。 現役時代は古河電工サッカー部、ジェフユナイテッド市原、当時ジャパンフットボールリーグ所属の京都パープルサンガを最後に現役引退。 現役引退後の1995年から京都パープルサンガのユースチームコーチに就任、1998年からはトップチームコーチ兼サテライト監督、1999年からはジュニアユースの監督を務めた。この間、1997年にJFA公認S級コーチライセンス研修を受講し合格している。 2001年からは水戸ホーリーホックのヘッドコーチとなっていたが、7月に小林寛監督がゼネラルマネージャーに転身したのに伴い監督に昇格、2002年まで務めた。
吉田 靖(よしだ やすし、1960年8月9日 - )は、東京… 吉田 靖(よしだ やすし、1960年8月9日 - )は、東京都練馬区出身の元サッカー選手、指導者。現役時代のポジションはフォワード。愛称は「ヤッコ」。 國學院久我山高校から早稲田大学教育学部へ進学しア式蹴球部へ入部。1年次よりフォワードのレギュラーを獲得し、4年次には主将を務めた。また全日本学生選抜にも選出され、日韓学生代表定期戦やマラハリムカップなどの国際大会に出場した。当時の日本学生選抜のメンバーは、左ウイングに早大の関塚隆、センターフォワードに国士舘大学の柱谷幸一らがいた。 1983年に日本サッカーリーグ(JSL)の三菱重工(現浦和レッドダイヤモンズ)に入団。11秒台前半の俊足を生かした右ウインガーとして活躍しJSLでは1部通算146試合出場24得点を記録した。
梶野 智幸(かじの ともゆき、1960年7月11日 - )は… 梶野 智幸(かじの ともゆき、1960年7月11日 - )は、愛知県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。弟の梶野智も元サッカー選手である。 岡崎城西高等学校、東京農業大学卒業。1983年にヤンマーに入団。1988年からは日本代表に選出され、1989年のW杯イタリア大会アジア地区1次予選では5試合に出場した。Jリーグ開幕後はガンバ大阪で活躍したが、チームの大幅な選手入れ替えにより退団。94年にはミューレル(ルイス・アントニオ・コレイア・ダ・コスタとは別人)と共に旧JFLの柏レイソルへ移籍し、途中加入の柱谷幸一、戸塚哲也らとJリーグ昇格に貢献し、1995年限りで引退した。 ・JSLオールスターサッカー 3回出場(1988年、1989年、1990年)
吉武 博文(よしたけ ひろふみ、1960年6月8日 - )は… 吉武 博文(よしたけ ひろふみ、1960年6月8日 - )は、大分県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。元中学校教諭。 大分県立大分上野丘高校ではサッカー部に所属して、1年および3年次にインターハイ、2年次に国民体育大会にそれぞれ出場した。 1983年に大分大学を卒業後は蒲江町立深島中学校に数学教師として赴任。その後、大分市立明野中学校に赴任してサッカー部監督に就任。同校では永井秀樹や三浦淳宏らを指導した。1992年から1995年はチェコに渡り、プラハの日本人学校にて教師を務める。1996年に大分トリニータU-15コーチに就任、その後は大分県サッカー協会県トレセンコーチ、日本サッカー協会ナショナルトレセン九州担当チーフコーチ等を歴任。
水沼 貴史(みずぬま たかし、1960年5月28日 - )は… 水沼 貴史(みずぬま たかし、1960年5月28日 - )は、埼玉県浦和市(現:さいたま市浦和区)出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)、サッカー解説者。現役時代のポジションはフォワード、ミッドフィールダー。元日本代表。 Jリーグ発足前に、人気が低迷していた日本サッカー界を支えた人物の一人。 長男の水沼宏太もプロサッカー選手(Aリーグ・ニューカッスル・ユナイテッド・ジェッツ所属)。 本太少年団でプレーし、浦和市立本太中学校(現:さいたま市立本太中学校)では3年生の時に全国制覇。その後進学した浦和市立南高等学校(現:さいたま市立浦和南高等学校)では、名将・松本暁司監督の指導の下で1年次からレギュラーに定着。
杉山 誠(すぎやま まこと、1960年5月17日 - )は、… 杉山 誠(すぎやま まこと、1960年5月17日 - )は、静岡県藤枝市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 ポジションはDF。双子の弟の杉山実 も元サッカー選手である。 藤枝市立藤枝中央小学校でサッカーを始める。藤枝市立藤枝中学校3年次には全国中学校サッカー大会に出場し準優勝に貢献した。高校は地元の藤枝を離れ、静岡学園高校に進学。井田勝通監督の下で1年次に高校サッカー選手権準優勝。2年次には静岡県国体選抜に選出され、国民体育大会サッカー競技で優勝。3年次には日本ユース代表に選出、松本育夫監督の厳しい指導を受けた結果、最終メンバーに残り、1979年のFIFAワールドユース日本大会に出場した。 東京農業大学卒業後、1983年に日本サッカーリーグ1部の日産自動車サッカー部に加入。
小林 幸一(こばやし こういち、1960年5月5日 - )は… 小林 幸一(こばやし こういち、1960年5月5日 - )は福岡県出身の元サッカー選手。ポジションはFW(センターフォワード)。 大学卒業後の1983年にフジタ工業(現在の湘南ベルマーレ)に加入。当時のフジタのFWは長年エースとして活躍したカルバリオは移籍していたものの、手塚聡、谷中治、吉浦茂和ら厚い選手層を有しており、当初は出場機会に恵まれなかった。3年目の1985年シーズンに身体能力の高さを買われてレギュラーの座を掴み10得点を上げ得点ランキングの4位に入るなど、リーグ戦4位の原動力となった。 翌シーズンからは再び控えに回る事が多くなったが、1988年に監督に就任した石井義信が従来の南米路線から欧州路線(イングランドスタイル)のサッカーへ転換を試みた事もあってレギュラーへ復帰を果たし1988-89シーズンに9得点を挙げ得点ランク4位となり、リーグ戦4位に貢献した。
有田 一矢(ありた かずや、1960年4月2日 - )は、新… 有田 一矢(ありた かずや、1960年4月2日 - )は、新潟県出身の元サッカー選手、ポジションはセンターバック。サッカー指導者。日本サッカー協会公認S級コーチ。 新潟工業高等学校が1978年度の全国高等学校サッカー選手権大会に初出場した時にはフォワードのポジションでプレー。その後、ヤマハ発動機に入ってからディフェンダーに転向。 ヤマハでは森下申一(後にサッカー日本代表GK)と同期入社。石神良訓、内山篤、柳下正明、吉田光範などと共にプレーし、1988年の日本サッカーリーグ1部優勝に貢献した。 1990-91年シーズンを最後に現役を引退。その後はサッカー指導者の道に入り、現在に至る。
築舘 範男(つきたて のりお、1960年4月2日 - )は、… 築舘 範男(つきたて のりお、1960年4月2日 - )は、愛知県出身の元サッカー選手、指導者。 愛知県立豊田西高校卒業後トヨタ自動車工業に入社、当時日本サッカーリーグ(JSL)2部所属の同社サッカー部に入部。その後、同部コーチを経て1992年に同部を母体とした名古屋グランパスエイトのトップチームコーチに就任。ユース強化責任者、スカウトを経て日本文理大学附属高校、清水エスパルスユースの監督を歴任。2005年2月よりグアム代表監督に就任。2010年の東アジアサッカー選手権予選では初戦のモンゴル戦に勝利し、FIFA加盟国・地域から初勝利を挙げた。2勝1分で予選大会優勝を果たし、FIFAランキング最下位(201位タイ)であったグアム代表の歴史的快挙を達成した。
前田 隆司(まえだ たかし、1960年3月25日 - )は、… 前田 隆司(まえだ たかし、1960年3月25日 - )は、京都府出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションは、ゴールキーパー。 現役時代はマツダサッカー部、京都パープルサンガなどでプレー。 引退後は指導者の道へ進み、京都パープルサンガや大学のサッカー部などでGKコーチを歴任。2010年からは3年間、東京ヴェルディのGKコーチを務めた。2013年より、AC長野パルセイロのGKコーチに就任。
大井 成元(おおい なりもと、1960年3月20日 - )は… 大井 成元(おおい なりもと、1960年3月20日 - )は、広島県大竹市出身の元サッカー選手(MF)・監督。 5歳上の兄・一成の影響で小学5年からサッカーを始め、中学卒業後の1975年に県立広島工高へ入学。兄の薦めもあり、当時広島で一番の強豪校で憧れの県工サッカー部で、松田輝幸監督から指導を受けてサッカーが上達したいという思いから入学したが、練習の厳しさは想像を絶していた。春に70名程いた新入部員が、夏には30名に減っていったほどで、大井もその厳しい練習に何とか付いて行く。2学年上の金田喜稔や1学年上の木村和司ら一流選手のプレーを手本にできたことで、徐々に上達していった。3年次の1977年には猿沢茂、沖野隆幸、中本邦治、沖宗敏彦、木村ら強力メンバーが揃って社会人や大学生を含んだ全広島大会で優勝し、県内ではJSLの東洋工業を除いて敵なしの力を誇った。
尾崎 加寿夫(おざき かずお、1960年(昭和35年)3月7… 尾崎 加寿夫(おざき かずお、1960年(昭和35年)3月7日 - )は、東京都出身の元サッカー選手、サッカー解説者。ポジションはフォワード。奥寺康彦に次いで日本人として2人目のサッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)でプレーした選手となった。 日本大学高校では3年次の1977年に全国高校サッカーに出場し、卒業後の1978年に三菱重工へ入社。1979年10月には三菱の4年ぶりのJSL制覇に貢献し、アシスト王と日本年間最優秀選手賞を受賞。この頃のメディア等では「若大将」と表現される事もしばしばあった。 1983年6月には1984年のロス五輪出場に向けて重要なトレーニングとなるジャパンカップ'83を体調不良を理由に欠場するが、この期間に無断で渡独しアルミニア・ビーレフェルトの練習に参加していた事が発覚すると、選手規定に抵触するとして大問題に発展した。
猿沢 茂(さるさわ しげる、1960年1月30日 - )は広… 猿沢 茂(さるさわ しげる、1960年1月30日 - )は広島県安芸郡府中町出身の元サッカー選手(MF、FW)。 府中中学に入学後から本格的にサッカーをはじめ、1年次からセンターフォワード(CF)として活躍。2年次には中国大会優勝を飾った。また、中学時代に広島大河FCに入ってプレーしている。 県立広島工業高等学校(通称・県工)時代 は高校1年次からCFとしてレギュラーとなり高校選手権出場。2年次にはインターハイ出場。3年次では攻撃的なMFとしてチームの軸となりインターハイ、選手権の両大会で活躍した。かつて御三家と言われながら、永らく低迷が続く広島高校サッカーが久しぶりに輝いた瞬間だった。現在では県工出身者の中でも知名度は低いが、当時はこの猿沢の才能が最も注目され、ルックスの良さもあり一番人気が高かった。
勝野 正之(かつの まさゆき、1960年1月22日 - 20… 勝野 正之(かつの まさゆき、1960年1月22日 - 2019年12月21日)は、長野県木曽郡南木曽町出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションは、フォワード(FW)。 選手時代は西濃運輸サッカー部でフォワードとして活躍し、引退後は同サッカー部で監督を務めた。 2001年、FC岐阜の設立に関わり、東海社会人リーグ1部に昇格する2005年まで初代監督を務めた。2009年からFC岐阜SECONDのコーチを務め、2013年8月、辛島啓珠のトップチーム監督就任に伴い、SECONDの監督に就任した。2015年からは総監督を務める。 2019年12月21日、致死性不整脈のため死去。59歳没。
上間 政彦(うえま まさひこ、1960年1月17日-)は、日… 上間 政彦(うえま まさひこ、1960年1月17日-)は、日本のサッカー指導者。天理大学卒業。2001年にS級ライセンスを取得。 1983年に教師として奈良育英高等学校に赴任。同時にサッカー部監督に就任した。これまでサッカー日本代表となる楢﨑正剛、柳本啓成をはじめとし、多数のJリーガーを送り出した。楢﨑が3年、中谷勇介、矢部次郎、東幸一が1年次に在籍していた1994年の第73回全国高校サッカー選手権大会では3位という成績を残している。 また、奈良県トレーニングセンターの設立や、プリンスリーグの前身である「U-18関西リーグ」設立の際には中心的役割を果たす等、関西地区のユース年代育成にも貢献した。
柳下 正明(やなぎした まさあき、1960年1月1日 - )… 柳下 正明(やなぎした まさあき、1960年1月1日 - )は、静岡県浜松市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 静岡県立浜名高等学校3年次に第56回全国高校サッカー選手権に出場。優勝候補と目されたが、1回戦で同じ優勝候補の北陽高校にPK戦の末敗退。東京農業大学在学中に1979 FIFAワールドユース選手権で3試合に出場した。 卒業後はヤマハ発動機サッカー部(後のジュビロ磐田)でDFとして活躍。1982年度の天皇杯優勝、1987年の日本リーグ優勝などに貢献した。本人は現役時代の自分を「もともとは激しいプレーヤー。だんだん経験を積み、また体もそんなに大きくなかったので、徐々にポジショニングや予測を生かしてボールを奪うという守備をするようになった」と回想している。
鈴木 康仁(すずき やすひと、1959年12月19日 - )… 鈴木 康仁(すずき やすひと、1959年12月19日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者。サッカー選手の鈴木雄斗は実子。 ヤンマーディーゼルサッカー部に所属し、日本ユース代表の正GKとして1979年のワールドユース東京大会に出場。日本代表としても国際Aマッチにも4試合に出場した。 1983年にヤンマーを退社し、国士舘大学へ入学。大学時代は宮澤ミシェルや柱谷哲二らと共に多くのタイトル獲得に貢献した。卒業後はGKコーチとして桐蔭学園高校の指導を長く務めた後、Jリーグを始め各分野の指導を行い、2007年は柏レイソルのスカウト、2008年からはヴィッセル神戸のスカウトを務めている。また同年にJリーグの監督を務めることが可能となるJFA 公認S級コーチを取得している。
宮内 聡(みやうち さとし、1959年11月26日 - )は… 宮内 聡(みやうち さとし、1959年11月26日 - )は、東京都出身の元サッカー選手、指導者。 帝京高校時代は攻撃的MFとしてプレー。1976年の第55回全国高等学校サッカー選手権大会で3位になり優秀選手に選出。1977年は早稲田一男、金子久らと共に第56回全国高等学校サッカー選手権大会優勝に貢献し優秀選手に選出された。卒業後の1978年に早稲田、金子と共に日本サッカーリーグ1部の古河電気工業(現ジェフユナイテッド市原・千葉)に入部。同年に日本ユース代表に選出され、1979 FIFAワールドユース選手権のメンバーに選ばれたが、試合出場機会は与えられなかった。 所属する古河電工では2年目の1979年からスタメンに定着しリーグ戦第4節の東洋工業(現サンフレッチェ広島F.C)戦で初得点を記録したが古河での練習中に右膝半月板を損傷。
奥谷 彰男(おくたに あきお、1959年11月1日 - )は… 奥谷 彰男(おくたに あきお、1959年11月1日 - )は、大阪府高槻市出身のサッカー審判員(元・国際副審)。日本体育大学卒業。
中本 邦治(なかもと くにはる、1959年10月29日 - … 中本 邦治(なかもと くにはる、1959年10月29日 - )は広島県出身の元サッカー選手。 広島工業高校では大井成元、沖宗敏彦、室野哲雄らとディフェンスラインを組み2年次1976年、新潟高校総体ベスト8、国体準優勝(1-4静岡県選抜)、3年次1977年、岡山高校総体ベスト4進出に貢献した。 中央大学を経て日本鋼管サッカー部に所属。小柄ながら俊足とジャンプ力に優れた主力DFとして日本サッカーリーグ(JSL)151試合に出場した。日本鋼管では田中孝司、倉又寿雄、GK松井清隆らとゴールを守りJSLで1985年からの優勝争い(1985年、1986年-1987年、1987年-1988年シーズン三年連続2位)、1987年JSLカップ制覇に貢献した。
三浦 哲治(みうら てつじ、1959年10月15日 - )は… 三浦 哲治(みうら てつじ、1959年10月15日 - )は、日本のサッカー指導者・経営者である。 静岡県静岡市生まれ。静岡産業大学サッカー部(1994年創部)初代監督。静岡産業大学磐田ボニータ(2008年創部)初代監督。静岡SSUボニータ代表理事CEOを経て、現在は、サンヨークリーニング顧問•日本トリム顧問•静岡県サッカー協会評議員•静岡産業大学サッカー部アドバイザー、日ノ本学園サッカー部総監督兼学園アドバイザー、ブレス浜松取締役 甥(姉の子)はサッカー指導者の泰年とプロサッカー選手の知良。 小学校からサッカーを始めたが、当時は野球との掛け持ちで静岡県学童少年野球大会の優勝投手・主将を務めるなど両競技で活躍していた。
高橋 貞洋(たかはし さだひろ、1959年10月7日 - )… 高橋 貞洋(たかはし さだひろ、1959年10月7日 - )は埼玉県出身の元サッカー選手(FW)。元サッカー日本代表。 帝京高校時代は俊足の左ウイングとして活躍。3年時に全日本に選出され、1977年6月1日の1.FCケルン戦で史上最年少の17歳227日でデビューを果たす(ただし国際Aマッチではないため、市川大祐の17歳322日を最年少デビューとする)。帝京高の同級生には宮内聡、金子久、早稲田一男、大園浩一、1学年上には佐々木則夫、2学年下には名取篤がいた。 その後、国士舘大学へ進学し、1979年にはユース代表に選ばれ、日本で行われた第2回FIFAワールドユース選手権に出場した。 卒業後は、フジタ工業(現 湘南ベルマーレ)に入団した。
大園 浩一(おおぞの こういち、1959年10月6日 - )… 大園 浩一(おおぞの こういち、1959年10月6日 - )は日本の元サッカー選手。ポジションはディフェンダー(主に右サイドバック)。 東京都の私立帝京高等学校3年時の、第56回全国高等学校サッカー選手権大会(1977年度)に早稲田一男、金子久、宮内聡、高橋貞洋、名取篤とともに出場し優勝。駒澤大学を卒業後の1982年に、日本サッカーリーグ1部の日本鋼管サッカー部に入る。一対一の粘り強いディフェンスと右サイドからの上りも見せた。
金子 久(かねこ ひさし、1959年9月12日 - )は、日… 金子 久(かねこ ひさし、1959年9月12日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代は屈強な体を活かしたセンターバックとして活躍した。 与野市立下落合小学校でサッカーを始める。与野市立与野東中学校 を経て、帝京高等学校に進学。古沼貞雄監督の下で1年次の高校総体予選から出場機会を掴みレギュラーへ定着した。 3年次の1977年の高校サッカー選手権では早稲田一男、宮内聡らと共に優勝に貢献。東京都予選から10試合連続無失点の守備の要として活躍したほか、決勝の四日市中央工業戦で決めた豪快なヘディングシュートは語り草となっている。 卒業後の1978年に古河電気工業サッカー部に加入。同年に日本ユース代表に選出されると、1979年のFIFAワールドユース選手権に出場した。
沖宗 敏彦(おきむね としひこ、1959年9月7日 - )は… 沖宗 敏彦(おきむね としひこ、1959年9月7日 - )は広島県出身の元サッカー選手、元日本代表選手。 広島工業高校時代 の2年次の1976年、新潟高校総体ベスト8、国体準優勝(1-4静岡県選抜)、3年次の1977年、岡山高校総体ベスト4進出に貢献した。 その後は川崎フロンターレの前身である富士通サッカー部に11年所属。望月豊仁、来海章、中村一義、城福浩、岩渕弘幹、沈祥福らとプレー。フィジカルの強さとテクニックに優れた左利きのディフェンダーで、センターバックや左サイドバックをこなした。1979年、U-20サッカー日本代表としてワールドユース日本大会に出場。また日本代表として1981年のムルデカ大会など、国際Aマッチ2試合にも出場した。
山口 悟(やまぐち さとし、1959年8月1日 - )は、日… 山口 悟(やまぐち さとし、1959年8月1日 - )は、日本の元サッカー選手。ポジションはGK。 大分県立大分工業高等学校3年次に全国高等学校サッカー選手権大会に出場。卒業後の1978年に日本サッカーリーグ1部の三菱重工業サッカー部へ入部すると、日本ユース代表に選出され、1979年の1979 FIFAワールドユース選手権日本大会のメンバーに選ばれたが、試合出場機会は与えられなかった。 日本代表としては、川淵三郎監督が若手選手を積極的に採用する方針もあって1981年2月の東南アジア遠征で招集され、同月19日のシンガポール戦で代表デビューを飾った。 しかしながら所属する三菱重工では、同じポジションに当時の日本代表正GKである田口光久が在籍していた為、ポジション獲得には至らず、田口が現役を引退した1984年には背番号1を与えられたが、三菱養和SC出身の園部晃久とのポジション争いに敗れ、ポジションを獲得することは出来なかった。
副島 博志(そえじま ひろし、1959年(昭和34年)7月2… 副島 博志(そえじま ひろし、1959年(昭和34年)7月26日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者。佐賀県佐賀郡川副町(現:佐賀市)出身。 佐賀県立佐賀商業高等学校を卒業後、ヤンマークラブを経て、1980年にヤンマーディーゼルサッカー部(現在のセレッソ大阪)に入部。現役時代のポジションは守備的ミッドフィールダー、ディフェンダー。1991年(平成3年)に住友金属工業蹴球団(現在の鹿島アントラーズ)に移籍し、翌年引退。そのままアントラーズでサテライトコーチやフィジカルコーチを務める。 その後、ガンバ大阪やセレッソ大阪のサテライトでコーチや監督を務めた後、1999年(平成11年)に初めてトップチームのコーチに就任。
内山 篤(うちやま あつし、1959年6月29日 - )は、… 内山 篤(うちやま あつし、1959年6月29日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者。元ジュビロ磐田監督。ポジションはミッドフィールダー。静岡県出身。実兄の内山勝も元サッカー選手。 国士舘大学サッカー部を経て1983年に日本サッカーリーグ1部のヤマハ発動機(現 ジュビロ磐田)に入部。中心選手として1987-88シーズンに同サッカー部の日本サッカーリーグ初制覇に貢献した。日本代表としてもワールドカップ・メキシコ大会(1986)予選など、国際Aマッチ2試合に出場した。 現役引退後は指導者の道へ進み、2004年から古巣の磐田に復帰し、ユース監督に就任。2004年の高円宮杯で準優勝し、大量6人の選手をトップに昇格させるなど実績を積む。
小川 佳実(おがわ よしみ、1959年6月23日 - )は静… 小川 佳実(おがわ よしみ、1959年6月23日 - )は静岡県出身の元サッカー審判員(国際主審)。アジアサッカー連盟 (AFC) 審判部長(レフェリーディレクター)、日本サッカー協会 (JFA) 審判委員長を歴任した。 静岡県立藤枝東高等学校を経て筑波大学体育専門学群に進学。在学中は蹴球部でプレーし、帰郷後高校教諭を務める傍ら、教員チームでもプレーをした。現役引退後審判としての活動を本格化させ、1994年のヤマザキナビスコカップでは決勝の主審も務めた。 1997年3月に教員を辞め、翌月から日本サッカー協会 (JFA) の職員となり、審判部部長代理としてサッカー審判関係の取りまとめに従事(この時の業務負担の兼ね合いから1998年に審判員としての活動から退いている)。
石井 肇(いしい はじめ、1959年5月26日 - )は、神… 石井 肇(いしい はじめ、1959年5月26日 - )は、神奈川県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 日本大学高校から日本大学へ進み、1982年に日産自動車サッカー部へ入部した。選手時代のポジションはディフェンダー。JSL1部における試合出場は8試合にとどまった。 1988年に徳島県リーグの大塚製薬サッカー部へコーチ兼選手として移籍し、チームの四国リーグ、そして日本サッカーリーグ2部への昇格に貢献。1991年にコーチ専任となり、1993年には監督に就任。1995年、S級ライセンスを取得し、翌年には総監督に就任した。 1997年にジャパンフットボールリーグのコンサドーレ札幌にヘッドコーチとして招かれた。