樋口 紀男(ひぐち のりお、1940年11月 - )は商学者… 樋口 紀男(ひぐち のりお、1940年11月 - )は商学者、マーケティング論研究者、クリエイティブ・ディレクター。元日本大学商学部教授。 1964年、中央大学商学部商業学科を卒業。1967年、中央大学大学院商学研究科修士課程を修了。その後、同大学で研究者、講師として勤務したのち、博報堂に転職。 1987年、東芝機械ココム違反事件において、共産主義国側との交渉役を務めた。 2010年11月、日本大学商学部教授を退職。大学教授退職後も、大学の非常勤講師としてだけではなく、実業家、政府・企業アドバイザー、ブレーンとして活動。 博報堂勤務時代は、『日清・カップヌードル』・『日清・どん兵衛』、『白鶴酒造・まる』等のマーケティング・ビジネスモデルの設計、デザイン・パッケージ作り、市場導入等の仕事を担当。
神戸 文彦(かんべ ふみひこ、1940年9月7日 - )は、… 神戸 文彦(かんべ ふみひこ、1940年9月7日 - )は、日本のテレビプロデューサー・テレビディレクター。 日本テレビ放送網の制作局エクゼクティブディレクターで、長年に渡って日本テレビのバラエティ番組の演出を手掛けている。
岩崎 信子(いわさき のぶこ、1940年5月26日 - )は… 岩崎 信子(いわさき のぶこ、1940年5月26日 - )は、日本のディレクター、プロデューサー、俳人、元アナウンサー。 東京府生まれ。長野県茅野市育ち。1959年長野県諏訪清陵高等学校卒業。信越放送テレビアナウンサー第一期公募試験に合格し入社。アナウンサーとしてテレビ草創期のテレビ・ラジオ番組(「日曜教室」、「暮らしのターミナル」等)担当。1981年上田放送局に転勤し、ディレクター・プロデューサーとして「カクテルトークかるいさわいろ」、「ヒーリングラジオ木の子守唄」、「ぷらっとほーむ小海線」、「里枝子の窓」等の番組を手がける。1994年俳句結社「梟」入会、矢島渚男に師事。2000年信越放送定年退職。
龍村 仁(たつむら じん、1940年4月23日 - 2023… 龍村 仁(たつむら じん、1940年4月23日 - 2023年1月2日)は、ドキュメンタリー監督、元NHKディレクター。有限会社龍村仁事務所代表。 兵庫県宝塚市出身。1963年、京都大学文学部美学科卒業後、NHKに入局。報道局を経て教育局でフィルムドキュメンタリーの演出に従事。 NHK 教養部のディレクターだった 1973年3月、龍村は、当時矢沢永吉などが所属していたロックバンド・キャロルに密着したドキュメンタリー番組を企画・製作したが、完成した作品にNHKの上層部が難色を示し、再編集した上で音楽番組として放送した。これに憤った龍村はその後、NHKを欠勤し、同じくNHK職員だった小野耕世(現マンガ評論家)と共に、ATGで龍村の監督によるドキュメンタリー映画『キャロル』を製作。
浅葉 克己(あさば かつみ、1940年3月18日 - )は、… 浅葉 克己(あさば かつみ、1940年3月18日 - )は、アートディレクター。日本グラフィックデザイン協会(JAGDA)五代目会長。東京タイプディレクターズクラブ会長。 広告、タイポグラフィ制作の第一人者。ライトパブリシティ出身。卓球六段。 神奈川県横浜市金沢文庫に生まれる。神奈川県立神奈川工業高等学校図案科を卒業後、友人の父親の紹介で 伊勢佐木町の松喜屋百貨店(後のピアゴイセザキ店)宣伝部に入り広告制作や内装に携わる。そこでの先輩の紹介で5年ほど佐藤敬之輔タイポグラフィ研究所において文字設計を学ぶ。1年勤めた後、桑沢デザイン研究所リビングデザイン科基礎コースに入る。 1964年ライトパブリシティに入社、東レ、キユーピーマヨネーズなどの仕事で注目を集める。
鶴橋 康夫(つるはし やすお、1940年1月15日 - 20… 鶴橋 康夫(つるはし やすお、1940年1月15日 - 2023年10月9日)は、日本のテレビディレクター・映画監督。本名:倉田 康夫(くらた やすお)。新潟県村上市出身。長男は、ドラマ制作を手がける日本テレビ社員・倉田貴也。 兄妹は自身を含め2男1女で、弟は新潟日報編集委員。出生名は鶴橋康夫であるが、婿取婚であるために改姓している。 新潟県立村上高等学校、中央大学法学部卒業。当初は新聞社志望だったが、読売新聞記者だった伊藤一男に讀賣テレビ入社を勧められる。 1962年、讀賣テレビ放送(読売テレビ)入社。東京支社制作部に所属し、一貫してドラマ演出を手がける。 社会派ドラマの名手として知られ、特に「木曜ゴールデンドラマ」枠における単発作品群で数多くの賞を獲得したことから「芸術祭男」の異名を取る。
伊藤 勝一(いとう かついち、1940年 - )は、横浜市出… 伊藤 勝一(いとう かついち、1940年 - )は、横浜市出身のグラフィックデザイナー、アートディレクター、タイポグラファー。 伊藤勝一デザイン室代表。多摩美術大学造形表現学部非常勤講師。JAGDA会員・日本タイポグラフィ協会 OB会員。 1962年 武蔵野美術大学商業デザイン科卒。 (株) エージー、(株) グレイ大広を経て1977年 伊藤勝一デザイン室創設。
河内 紀(かわち かなめ、1940年 - )は、音楽プロデュ… 河内 紀(かわち かなめ、1940年 - )は、音楽プロデューサー、映像ディレクター。劇作家・演出家の佐藤信は義弟。 東京生まれ。早稲田大学在学中、大和屋竺や田中陽造らと 「稲門シナリオ研究会」に属し、ドキュメンタリー映画を製作。 1962年、TBS入社。ラジオを中心に活躍し、1974年に退社。宍戸錠主演のラジオ番組「ヤング・パンチ」シリーズに、鈴木清順をはじめとする具流八郎グループを起用して話題となる。 その後、鈴木清順監督の映画『ツィゴイネルワイゼン』、『陽炎座』などの音楽監督、キース・ジャレットの全ビデオ作品の演出などを手掛ける。 1970年ラジオドキュメンタリー「ヤッホー」でイタリア賞グランプリ受賞。
面高 昌義(おもだか まさよし、1940年 - 2006年1… 面高 昌義(おもだか まさよし、1940年 - 2006年1月2日)は、元日本テレビ放送網のディレクター・リポーター・テレビ番組制作会社「モンド」代表取締役社長。 フリー・制作会社時代 レポーターで出演した番組
松尾 武(まつお たけし、1939年4月14日 - )は、元… 松尾 武(まつお たけし、1939年4月14日 - )は、元NHK所属のテレビドラマのディレクター・プロデューサー。 1962年NHKに入局、1997年に理事に就任、1999年に専務理事・放送総局長に就任する。2001年の退任後には日本放送出版協会の社長に就任する。第14、15期著作権審議会委員。日本映画テレビプロデューサー協会監事。
石上 三登志(いしがみ みつとし、本名:今村昭、1939年1… 石上 三登志(いしがみ みつとし、本名:今村昭、1939年1月3日 - 2012年11月6日)は、日本のCMディレクター。映画評論家。 電通でCM制作に携わる傍ら、1960年代から映画・SFなどの評論活動をおこなってきた。大林宣彦監督の映画を中心に、俳優としての活動もある。 ペンネームの由来は、石の上にも三年。美術監督の今村力は、従兄弟。 東京都世田谷区池尻出身。福島県立磐城高等学校、明治大学文学部文学科(英米文学専攻)卒業。早稲田大学で結成されたワセダミステリクラブ(仁賀克雄、間羊太郎、山口剛、西田恒久ら)に、特別に参加。また、ワセダミステリクラブで知り合った曽根忠穂や宮田雪らと同人誌『OFF』の活動をした。
金子 満(かねこ みつる、1939年(昭和14年)1月 - … 金子 満(かねこ みつる、1939年(昭和14年)1月 - 2018年(平成30年)6月15日)は、日本のアニメーション・プロデューサー、ディレクター、シナリオライター。「日本のコンピュータグラフィックスの父」と称される。 東京都生まれ。東京工業大学大学院後期博士課程修了。学位は博士(学術)。 慶應義塾大学、東京工科大学教授を務めた。 父は映画配給会社・東宝の重役を務めた。 慶應義塾大学法学部を卒業後、フジテレビジョンに入社。編成部で『日清オリンピックショウ 地上最大のクイズ』や『第7の男』『ゼロファイター』などを手掛ける。1964年に担当した『ゼロファイター』では制作方針の混乱から、当時のスポンサーが完成作品を敬遠して1969年まで「お蔵入り」を招く失敗を経験した。
石岡 瑛子(いしおか えいこ、1938年7月12日 - 20… 石岡 瑛子(いしおか えいこ、1938年7月12日 - 2012年1月21日)は、東京府出身のアートディレクター、テキスタイルデザイナー。 妹は同じくアートディレクター、イラストレーターの石岡怜子。米国映画芸術科学アカデミー協会 (Academy of Motion Picture Arts and Sciences) 会員。 お茶の水女子大学附属中学校・ お茶の水女子大学附属高等学校を経て、東京藝術大学美術学部図案計画科を卒業後、資生堂宣伝部に入社。村瀬秀明、中村誠らとともにグラフィックデザイナー、アートディレクターとして活動した。 1970年、石岡瑛子デザイン室として独立し、パルコや角川書店などの広告で1970年代の日本で活躍。
荒木 保夫(、1938年〈昭和13年〉6月17日 - )は、… 荒木 保夫(、1938年〈昭和13年〉6月17日 - )は、日本の俳優、CMディレクターである。別名は荒木保男(読み同じ)。東京出身。 日本大学芸術学部を卒業後、東宝の専属俳優となり、ジャンルを問わず多くの作品に出演した。 1971年(昭和46年)、俳優専属制度廃止後もテレビドラマを中心に1990年代まで活動を続けた。[独自研究?]また、CMディレクターとして活動した時期もある。[要出典]
中島 銀兵(なかじま ぎんぺい、1938年〈昭和13年〉6月… 中島 銀兵(なかじま ぎんぺい、1938年〈昭和13年〉6月6日- 1996年〈平成8年〉2月23日)は、元日本テレビ放送網のプロデューサー・ディレクター。 富山県出身。富山県立福野高等学校、成城大学文芸学部卒業。1963年に日本テレビ入社。同期入社に小林完吾(南日本放送から移籍)、今村倫子、青尾幸、徳光和夫、細川知正(元日本テレビ取締役最高顧問)がいる。 テレビ業界を志望した理由は、学生時代に当時の人気番組『お笑い三人組』(NHK)を観覧して、番組制作に憧れたためだと言う。 念願叶い開始直後の『笑点』にADとして配属、漫才ブーム時も『お笑いスター誕生!!』など多数の漫才番組を担当、その後も一貫して演芸・お笑い番組の制作を手掛けた。
小田桐 昭(おだぎり あきら、1938年 - )は、日本のC… 小田桐 昭(おだぎり あきら、1938年 - )は、日本のCMディレクター、イラストレーター。小田桐昭事務所代表。 北海道生まれ。1961年に金沢美術工芸大学美術工芸学部産業美術学科(現・デザイン科)を卒業し、同年に電通入社。松下電器、資生堂などのクリエイティブディレクター、トヨタ自動車やサントリーなどのクリエイティブスーパーバイザーを務め、クリエイターとして国内外で高く評価される。松下担当時代の部下に、鏡明、関三喜夫らがいる。大林宣彦をCMディレクターに引き込んだのは小田桐である。 2010年には、オグルヴィ・アンド・メイザー・ジャパン名誉会長に就任。 イラストレーターとしても活躍し、数々の作画を手掛けている。
草野 浩二(くさの こうじ、1937年11月20日 - 20… 草野 浩二(くさの こうじ、1937年11月20日 - 2025年10月17日)は、日本の音楽プロデューサー・ディレクター。 東京府出身で、暁星学園を経て早稲田大学第一商学部を1960年3月に卒業する。 1960年4月に東京芝浦電気へ入社してレコード事業部制作部ディレクターとなり、坂本九の「悲しき六十才」を手掛け初仕事で初ヒット作品を輩出する。以来1960年代初期はカバーポップスの全盛時代を作り、1970年代は邦楽ポップスの黄金時代を築いた。 東芝EMI退社後はファンハウスを経てフリーランスの音楽プロデューサーとして活動し、コンピレーション・アルバム監修、コンサートプロデュース、新人育成などを手掛ける。
大原誠(おおはら まこと、1937年10月24日 - 201… 大原誠(おおはら まこと、1937年10月24日 - 2018年10月6日)は、元NHKのディレクター。京都府出身。 1960年京都大学文学部イタリア文学科卒業後、NHKに入局。テレビ文芸部に所属し、大河ドラマなど数々のドラマ作品を演出。 1990年、NHKドラマスペシャル『不熟につき…』の演出で芸術選奨文部大臣賞を受賞。その他数々の賞を受賞している。 ディレクターを務めた大河ドラマ『草燃える』の家庭用VTRを16回分寄贈した。本業だけでなく、東京芸能学園高等部アクターズコース顧問も務めた。 NHK退職後は民放のドラマ演出を手掛けている。 2018年10月6日、肺癌のため死去。80歳没。 次男の大原拓もNHKに入局し、演出家となっている。
砂原 幸雄(すなはら ゆきお、1937年(昭和12年)5月8… 砂原 幸雄(すなはら ゆきお、1937年(昭和12年)5月8日 - 2020年(令和2年)8月12日)は、日本の実業家・テレビディレクター。 東京放送 (TBS) の社長・会長、横浜ベイスターズの球団オーナー、東京エレクトロンの取締役を務めた。 香川県出身。慶應義塾大学文学部卒業。 1961年(昭和36年)、TBSに入社。1967年(昭和42年)に制作部に配属され、『半七捕物帳』『時間ですよ』などのサブプロデューサーを務めた。1977年(昭和52年)にはテレビ編成部専任部長、1984年(昭和59年)にはニューヨーク支局長にそれぞれ異動となり、ニューヨーク支局長時代にはマスターズゴルフの中継権交渉などを担当した。
広田 茂穂(ひろた しげほ、1937年3月22日 - )は、… 広田 茂穂(ひろた しげほ、1937年3月22日 - )は、日本のテレビディレクター。長野県出身。 日本大学芸術学部映画学科卒。東映東京撮影所で助監督を経て、東映テレビ・プロダクションに所属。後にフリーとなる。
鈴木 八朗(すずき はちろう、1937年2月25日 - 20… 鈴木 八朗(すずき はちろう、1937年2月25日 - 2005年12月29日)は、日本のアートディレクター。 1937年香川県生まれ。 高松市立二番丁小学校、高松市立紫雲中学校、香川県立高松高等学校卒業。1961年マッキャンエリクソン博報堂入社。コカ・コーラの日本上陸キャンペーンに従事。1963年桑沢デザイン研究所卒業。1968年東京芸術大学美術学部インダストリアルデザイン科卒業。同年電通クリエイティブ局入社。電通のアートディレクターとして多数の作品を手がける。17年担当した日本国有鉄道(JNR)の各種キャンペーンでは「エキゾチックジャパン」や「フルムーン」などのキャッチコピーを生み出した。1997年電通退職、八朗ART&AD設立。
脇田 直枝(わきた なおえ、1937年2月11日 - )は、… 脇田 直枝(わきた なおえ、1937年2月11日 - )は、コピーライター、クリエイティブ・ディレクター。AXNエンタテインメント放送番組審議会委員、東京都出身。 早稲田大学を卒業後、森永乳業へ入社。早大の同窓生に作家の阿刀田高がいる。森永でコピーライターとして広告に携わり、同社退社後フリーを経て、電通へ入った。 電通が時代に合わせて女性だけの広告代理店「電通EYE」を立ち上げることが決まり、脇田は専務取締役に就任。1985年に代表取締役社長ヘ就任。少数精鋭を好むスタイルで徒党を組むことを嫌い、電通EYEを大きくした。その後、時代の変貌と自らの年齢により退任。脇田の退任と同時に電通EYEも解散した。
加藤 久晴(かとう ひさはる、1937年 - )は、日本のテ… 加藤 久晴(かとう ひさはる、1937年 - )は、日本のテレビディレクター、ジャーナリスト、メディア学者。 早稲田大学文学部卒。日本テレビ勤務、東海大学文学部広報メディア学科教授。2008年に退任。メディア総合研究所研究員。 主な担当番組「NNNドキュメント」「田英夫リポート」ほかでJCJ賞・地方の時代映像賞・ギャラクシー賞などを受賞。
岸川 均(きしかわ ひとし、1937年 - 2006年11月… 岸川 均(きしかわ ひとし、1937年 - 2006年11月17日)は、日本のラジオ番組制作ディレクター。KBCメディア顧問。 西南学院大学卒業後、1962年九州朝日放送(KBC)入社。1969年から約10年間、アマチュア歌手が出演する深夜のラジオ番組『歌え若者』の制作を担当。チューリップ、海援隊、甲斐バンド、石橋凌、CHAGE and ASKA、長渕剛らを見出した。1998年に定年退職。退職時、それを惜しんだ山下達郎、浜田省吾、南こうせつ、さだまさし、イルカら18組のミュージシャンが福岡サンパレスで4日連続のライブを開いた。 大学時代にはグリークラブに所属し、サークル活動としてカルテットを組み、地元放送局に出演していた。
岩崎 富士男(いわさき ふじお、1937年または1938年 … 岩崎 富士男(いわさき ふじお、1937年または1938年 - 2016年4月9日)は、日本のクリエイティブ・ディレクター、作詞家。広告業界大手の博報堂関西支社長代理で、その後大阪芸術大学放送学科長として教鞭をとった。クロード・Q(クロード・キュー)名義で手掛けたテレビアニメ『キューティーハニー』の同名オープニング主題歌の作詞で知られる。 福岡県出身。法政大学卒業後、博報堂にてクリエイティブ・ディレクターとして活躍した。カンヌ国際広告フェスティバルグランプリなど、国際広告賞を多数受賞した。カンヌで受賞した作品は、パナソニックのCMで、果物の中で電球が光る「光のメニュー」だった。 2000年に大阪芸術大学教授となり、学生にコピーライティングなどを指導。
佐々木 昭一郎(ささき しょういちろう、1936年(昭和11… 佐々木 昭一郎(ささき しょういちろう、1936年(昭和11年)1月25日 - 2024年(令和6年)6月14日)は、日本のディレクター、映像作家、映画監督。NHKディレクター、文教大学情報学部教授を務めた。東京出身。 立教大学経済学部卒業後、1960年にNHKに入局し、芸能局ラジオ文芸部でラジオドラマの演出を手がけた。処女作は『都会の二つの顔』(1963年、ラジオテレビ記者会年間最優秀作品賞、芸術祭奨励賞)。 1968年、テレビドラマ部に異動し、『銀河テレビ小説』のアシスタントディレクターなどを務めると同時に多くの受賞作を生んだ。 1995年に定年もあってNHKを退局。その後はフリーディレクターとして活動。
鎌田 豊成(かまだ とよしげ、1936年 - )は日本のアー… 鎌田 豊成(かまだ とよしげ、1936年 - )は日本のアートディレクター、クリエイティブディレクター、造形作家。元長岡造形大学学長。 東京で生まれる。東京芸術大学美術学部工芸科図案計画専攻を卒業後、株式会社大広のアートディレクターとなる。その後、株式会社グレイ大広でクリエイティブディレクターを経て、1991年に有限会社カマダデザイン事務所を設立する。1994年に長岡造形大学教授となり、2004年に同大学学長に就任。2008年に学長を退任し、現在は長岡造形大学名誉教授である。 2002年~2003年に韓国の東西大学客員教授を務める。また、社団法人中越防災安全推進機構理事、新潟総合テレビ番組審議会委員、長岡市復興委員会委員など新潟県の地域活動に参画した。
齋藤 太朗(さいとう たかお、1936年 - )は、日本のテ… 齋藤 太朗(さいとう たかお、1936年 - )は、日本のテレビプロデューサー、テレビディレクター。東京都出身。 日本テレビエグゼクティブディレクター、日本テレビエンタープライズ(後の日テレイベンツ)専務取締役などを歴任し、日テレイベンツが運営する日テレ学院で映像クリエイタークラスの講師を務める。 成蹊高等学校、成蹊大学政治経済学部卒業。 1958年、大学を卒業後日本テレビに入社。大学在学中から同局でアルバイトしており、そのまま居ついた格好になったという。以後音楽・バラエティ番組を中心にディレクターとして数多くの番組を手がけたほか、『カリキュラマシーン』では番組のカリキュラムの説明などを行う「ギニョさん」としてテレビ出演も果たしている。
小池 一子(こいけ かずこ 1936年 - )は日本のクリエ… 小池 一子(こいけ かずこ 1936年 - )は日本のクリエイティブディレクター、コピーライター。東京都出身。父は教育学者の矢川徳光、姉は作家、詩人、翻訳家の矢川澄子。
西久保 弘光(にしくぼ ひろみつ、1935年12月12日 -… 西久保 弘光(にしくぼ ひろみつ、1935年12月12日 - 2019年11月12日)は、CMディレクター、CMプランナー。 1935年に上海市で生まれ。1945年の敗戦後に兵庫県姫路市へ引き揚げ、その後、神戸市灘区で育つ。神戸市立鷹匠中学校時代に親友であるギャラリスト西岡務と、藤本弘(藤子・F・不二雄)、楳図かずお、水谷武子らとともに漫画サークル「改漫クラブ」の設立に参加。 兵庫県立神戸高等学校卒業後、阪急百貨店、大阪コマーシャルフィルムを経て、中学時代からの親友である西岡務の紹介によりフォルム画廊(大阪市)へ就職。交通事故により片目を失明し退職。その後梁瀬次郎が立ち上げた日本テレビジョン株式会社(後のTCJ)に就職し、テレビCMディレクター、プランナーとして活動。
佐藤 孝吉(さとう たかよし、1935年12月7日 - )は… 佐藤 孝吉(さとう たかよし、1935年12月7日 - )は、日本テレビ顧問、エグゼクティブディレクター、大正大学招聘教授、サイバー大学客員教授。東京府出身。 立教高等学校(現・立教新座高等学校)から一橋大学社会学部を経て、1959年に日本テレビに入社。当初はドラマ班に配属され「ダイヤル110番」などを演出。1965年の「ビートルズ日本公演」も担当。 その後バラエティ班に異動、娯楽ドキュメンタリーの分野で才能を開花させる。最大のヒット作は『アメリカ横断ウルトラクイズ』。彼によるとこの番組は単なるクイズ番組の枠を超えて人間ドキュメンタリー番組までに発展していったと言う。また、徳光和夫を目標、そして鑑として見習って来た福留功男を鍛え直した逸話がある。
白井 荘也(しらい そうや、1935年9月4日 - 2018… 白井 荘也(しらい そうや、1935年9月4日 - 2018年3月)は元日本テレビ放送網のディレクター、プロデューサー。元日本テレビエンタープライズ常務取締役。元オフィスG (野口五郎プロダクション)社長。元桐朋学園芸術短期大学ステージ・クリエイト専攻教授。 成蹊大学政治経済学部卒業後、1959年日本テレビ放送網株式会社芸能局音楽部に入社し、音楽と笑いを融合させた番組を多数作り上げた。1960年代〜1970年代に『味の素ホイホイ・ミュージック・スクール』、『ドリフターズ大作戦』、『カックラキン大放送!!』など、高視聴率の音楽番組を製作。その傍ら視聴者公開の特撮番組『突撃! ヒューマン!!』を手がける。
矢追 純一(やおい じゅんいち、1935年〈昭和10年〉7月… 矢追 純一(やおい じゅんいち、1935年〈昭和10年〉7月17日 - )は、日本のディレクター、テレビタレント、実業家、UFO・超常現象研究家。1970年代から1990年代までに制作を指揮したオカルト関連のテレビ番組で特に有名となったが、1995年からは宇宙塾を主宰するなど、実業家としてテレビ番組制作以外での活動に比重を置いている。 1935年、満洲国新京生まれ。元々裕福な家庭であったが、名古屋帝国大学を首席級の成績で卒業したエリートであった父親を亡くした上に、日本が太平洋戦争の敗戦国となった途端、大連で敵国民としての扱いを受けて極貧生活に転落。当時病弱だった純一の体の健康を気にした母親は自宅学習を禁止し、自宅では運動をして遊ばせるとともに、授業だけで好成績を取るように厳命する。
小林 昭男(こばやし あきお 1935年4月26日 - )は… 小林 昭男(こばやし あきお 1935年4月26日 - )は、日本の俳優、テレビ番組ディレクター。新潟県新井市(現・妙高市)出身。 三浦雄一郎のいとこ。 趣味はスキー、ゴルフ、自動車(A級ライセンス所持)、野球、釣り、ボウリング、射撃、フリーダイビング、ビリヤード、麻雀、カメラ、料理、海外旅行など。草野球では1972年当時「東京ライタース」というチームでスイッチヒッターとして活躍していたという。私生活では双子の娘がいる。 新潟県立新井高等学校卒業後、日活俳優学校、大映養成所を経て水島道太郎に師事し。テレビデビューはドラマ『ダイヤル110番』(日本テレビ)。当初は俳優として活動していたが、その後テレビディレクターとして『11PM』(日本テレビ)、『歌のグランドヒットショー』(NET)などの番組を担当するようになる。
石津 祥介(いしづ しょうすけ、1935年1月31日 - 2… 石津 祥介(いしづ しょうすけ、1935年1月31日 - 2023年11月2日)は、日本のファッションデザイナー・ファッションディレクター。有限会社石津事務所、代表取締役。社団法人日本メンズファッション協会常任理事。公益財団法人日本ユニフォームセンター理事。ヴァンヂャケット創業者・石津謙介の長男。岡山県岡山市生まれ。 明治大学中退。桑沢デザイン研究所、セツ・モードセミナー卒業後、婦人画報社入社。創刊初期の「男の服飾」〜「MEN'S CLUB」編集部勤務。 1960年にヴァンヂャケット入社。その後、高度成長期のファッション界を席巻したヴァンヂャケット社創業者で父親の石津謙介の片腕として活躍。
木村 栄文(きむら ひでふみ、1935年1月22日 - 20… 木村 栄文(きむら ひでふみ、1935年1月22日 - 2011年3月22日)は、日本のテレビ番組ディレクター、プロデューサー。愛称はエイブンさん。
小山 幹夫(こやま みきお、1934年12月7日 - )は日… 小山 幹夫(こやま みきお、1934年12月7日 - )は日本の映画監督、テレビディレクター、舞台演出家、脚本家、日本映画監督協会会員。日本大学芸術学部映画科卒業、神奈川県茅ヶ崎市出身。福島県西白河郡矢吹町在住。 神奈川県茅ヶ崎市生まれ。神奈川県立湘南高等学校、日本大学芸術学部映画科を卒業。 1957年(昭和32年)東映東京撮影所の助監督として入社。関川秀雄、佐伯清、深作欣二らに師事。 1965年(昭和40年)東映東京撮影所・監督に昇進。初監督作品は藤田まこと主演映画『喜劇・一発かましたれ!』、キャッチコピー「昼はサラリーマン、夜はギャングのボス!腰抜け社員で笑わせて、恐いギャングでまた笑わせる、爆笑必至の底抜けコメディー!!」。
阿部 昭(あべ あきら、1934年9月22日 - 1989年… 阿部 昭(あべ あきら、1934年9月22日 - 1989年5月19日)は、日本の小説家・元テレビディレクター。 父は海軍職業軍人。東京大学文学部仏文科卒。ラジオ東京(現・TBS)で番組制作に従事しながら創作をはじめた。 『子供部屋』により『文学界』新人賞受賞。私小説的な短編を得意とし、「内向の世代」の代表作家として活躍した。 大日本帝国海軍の将校、阿部信夫(本籍は愛知県)の息子として広島県広島市白島(現中区白島)に生まれ、父の転勤に伴い、1935年春から神奈川県藤沢市鵠沼に育つ。 1935年12月に、市内の鵠沼海岸下鰯に転居。1939年、片瀬乃木幼稚園(現在の湘南白百合学園幼稚園)に入園。1941年、藤沢第一国民学校(現在の藤沢市立藤沢小学校)に入学。
田中 知己(たなか ともみ、1934年7月7日 - 2015… 田中 知己(たなか ともみ、1934年7月7日 - 2015年10月21日)は東京都出身のテレビディレクター、テレビプロデューサー兼鉄道雑誌編集会社社長およびその編集者。早稲田大学卒業。 1957年日本テレビ入社。1959年にドラマ「恋人」でデビュー後、愛の劇場、日産スター劇場、サスペンス劇場といった連続ドラマ枠を担当。その後も「気になる嫁さん」、「ほおずきの唄」、「オレの愛妻物語」などのドラマや、「巨泉×前武ゲバゲバ90分!」といったバラエティー番組の演出も手掛けた。1989年に日本テレビを退社しフリーとなった。 その後は鉄道月刊誌「鉄道ピクトリアル」を発行する電気車研究会に転職し同社の社長を務め、その後会長を務めた。
加藤 辿(かとう たどる、1934年5月22日- )は、日本… 加藤 辿(かとう たどる、1934年5月22日- )は、日本のテレビディレクター。 朝鮮京城生まれ。1958年東京大学文学部仏文科卒、NHK科学産業番組班、チーフディレクターとして科学番組を制作。東京ハイビジョン。東京都公害研究所、立教大学非常勤講師を務めた。
髙嶋 弘之(たかしま ひろゆき、1934年〈昭和9年〉5月1… 髙嶋 弘之(たかしま ひろゆき、1934年〈昭和9年〉5月18日 - )は、日本の音楽ディレクター・プロデューサー。髙嶋音楽事務所代表。「ビートルズの日本での仕掛人」として有名。一男二女の父親で、次女はヴァイオリン奏者の高嶋ちさ子。 兵庫県武庫郡御影町(現:神戸市東灘区御影)生まれ。兵庫県立神戸高等学校を経て、早稲田大学第一文学部(演劇専修)を卒業。1959年東京芝浦電気(株)レコード事業部(のちの東芝音楽工業→東芝EMI→EMIミュージック・ジャパン)入社、洋楽ディレクターとしてスタート。1964年、ビートルズの初代ディレクターとなり、訪日時にも担当。その後、邦楽担当となり和製ポップスで数々のヒットを作る。
松本 明(まつもと あきら、1934年1月22日 - 202… 松本 明(まつもと あきら、1934年1月22日 - 2022年7月18日)は、日本のテレビディレクター・プロデューサー・小説家である。京都市右京区出身。 1952年、京都府立嵯峨野高等学校を卒業し、1957年、早稲田大学第一文学部演劇科を卒業。同年6月、大映京都撮影所企画部に入社。同年末に退社。 大映退社後、大阪テレビ放送(のちにラジオ単営局だった朝日放送と合併)に移籍。演出部に配属され、フロアディレクターとして活躍後、1960年、『サンドイッチマン物語』の演出で正ディレクターとしてデビュー。『スチャラカ社員』、『てなもんや三度笠』といった公開コメディの先駆けとなった。 のちにドラマ部門に移籍し、『女の劇場』(帯ドラマ)、『近鉄金曜劇場』、『東芝日曜劇場』(当時のキー局であるTBS制作で、系列局も持ち回りで制作していた)などの単発ドラマをはじめ、マルチカメラのスタジオドラマに勝新太郎を起用した『悪一代』(1969年)、町工場を舞台にした庶民派喜劇『おやじ火山』(1970年)などを演出。
間部 耕苹(まなべ こうへい、1934年(昭和9年)1月20… 間部 耕苹(まなべ こうへい、1934年(昭和9年)1月20日 - 2013年(平成25年)5月7日)は、日本の実業家、テレビディレクター。日本テレビ放送網代表取締役社長や、日テレ・グループ・ホールディングス代表取締役会長、日本民間放送連盟副会長、デジタル放送推進協会理事長等を歴任した。富山市出身。
守分 寿男(もりわけ としお・1934年(昭和9年)1月9日… 守分 寿男(もりわけ としお・1934年(昭和9年)1月9日 - 2010年(平成22年)12月27日)は、北海道放送(HBC)に所属していたテレビディレクター・映像プロデューサーである。 参考資料:テレビドラマデータベース この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
磯野 恭子(いその やすこ、1934年(昭和9年)1月6日 … 磯野 恭子(いその やすこ、1934年(昭和9年)1月6日 - 2017年(平成29年)8月2日)は、山口放送に在籍していたテレビディレクター、実業家。ドキュメンタリーの制作を多く手がけ、同局の取締役や岩国市の教育長も歴任した。 広島県高田村(現・江田島市)出身。地元の高田小学校に登校する途中、原爆投下のキノコ雲を能美島で目撃した。 12歳で能美島を離れ、広島県立第一高等女学校に通う。第一高女はのちに男女共学の県立皆実高等学校となり、恭子もそのまま皆実高に進んだ。皆実高の同級生に亀井郁夫(政治家)がいて、晩年まで交流があった。東京大学を目指したが、受験に失敗し、単身上京。予備校に通い、アルバイトをしながら浪人生活を送ったものの、心身ともに疲れ果て、1年で広島に戻り、広島大学政経学部の夜間部に入学する。
高嶋弘之(たかしま ひろゆき、1934年 - )は、日本の音… 高嶋弘之(たかしま ひろゆき、1934年 - )は、日本の音楽ディレクター・プロデューサー。高嶋音楽事務所代表。「ビートルズの日本での仕掛人」として有名。娘はバイオリニスト・高嶋ちさ子。
浦 達也(うら たつや、1933年12月14日 - 2016… 浦 達也(うら たつや、1933年12月14日 - 2016年4月)は、元NHKディレクター、江戸川大学名誉教授。 広島県生まれ。特別科学学級の生徒であった。 慶応義塾大学経済学部卒業後、NHKに入局し、『現代文明展望』『現代キーワード探検』などの番組を手がける。 東京大学講師を経て、江戸川大学教授となり、2004年、特任教授。
水野 卓史(みずの たくし、1933年11月21日 - )は… 水野 卓史(みずの たくし、1933年11月21日 - )は日本のグラフィックデザイナー、アートディレクター。元・資生堂宣伝文化部顧問。水野デザイン事務所主宰。大阪府大阪市西区靭町出身。多摩美術大学卒業。子に川柳家の水野タケシ。 日本画家の父を持つ家庭に生まれる。のちに大阪府立寝屋川高等学校に進学後、美術部に入部し、デッサンを学んだことから、本格的なデザインへの道を志すと共に、そのまま多摩美術大学に進学。1955年、多摩美術大学図案科を卒業後、資生堂に入社。大阪支社宣伝文化部別室に配属される。 元々は大阪支社の別室チーフになるべき存在であったが、その当時、宣伝部に所属していた主任デザイナーが交通事故で物故したことから、急遽1959年に東京へ異動。
湯浅 憲明(ゆあさ のりあき、1933年〈昭和8年〉9月28… 湯浅 憲明(ゆあさ のりあき、1933年〈昭和8年〉9月28日 - 2004年〈平成16年〉6月14日)は、映画監督やテレビ番組の監督やディレクター。 特撮映画『ガメラシリーズ』のうち昭和期の作品をすべて手がけており、「ガメラの父」としても知られる。 東京都世田谷区赤堤に生まれる。実母は憲明を出産した当時は未成年であったため、息子を養子に出すことを望まなかった父・星ひかるによって私生児扱いにされており、就職のために戸籍謄本を取得した際に初めてそのことを知ったという。 恰幅がよく丸顔でもあり、『大怪獣ガメラ』の撮影時に島耕二からは「ガメラはぬいぐるみじゃなくて、湯浅監督がそのまま演じればいいんだよ」と冷やかされ、回顧録でもガメラに演技をつける湯浅は「まるで兄弟のようだ」と表現されている。
野田 昌宏(のだ まさひろ、1933年8月18日 - 200… 野田 昌宏(のだ まさひろ、1933年8月18日 - 2008年6月6日)は、日本の小説家、SF作家、翻訳家、宇宙開発評論家、テレビディレクター、プロデューサー、経営者。元日本テレワーク株式会社代表取締役社長(後に相談役)。株式会社ガイナックスの元監査役。 1960年代には主に本名の野田宏一郎(のだ こういちろう)名義を用い、1970年代以降は野田昌宏名義を用いた。また、作詞家としては「山本圭一」の変名も使用した。 1933年8月18日、野田健三郎とツヤ子の長男として福岡県で生まれる。1946年、福岡第一師範学校男子部附属国民学校(現在の福岡教育大学附属福岡小学校)を卒業。泰星中学校・高等学校入学。