菊池 九郎(きくち くろう、1847年10月26日(弘化4年… 菊池 九郎(きくち くろう、1847年10月26日(弘化4年9月18日) - 1926年(大正15年)1月1日)は、日本の武士(弘前藩士)、教育者、官吏、政治家。東奥義塾創立者。新聞『東奥日報』創刊者。東津軽郡郡長、初代・第7代弘前市長、山形県知事、農商務省農務局長、衆議院全院委員長等を歴任。諱は武行。 「東奥の西郷隆盛」と言われ絶賛された。正五位勲四等旭日小綬章。 弘前藩(津軽藩士)・菊池新太郎の長男として弘前城下に生まれる。幼名は喜代太郎。 藩校・稽古館に学び、皇漢の学を修め、1864年(元治元年)より藩の勤務。藩校・稽古館で司監を務める。戊辰戦争に際して藩論が新政府支待に傾くと脱藩して庄内藩に向かう。
月形 潔(つきがた きよし、弘化4年6月27日(1847年8… 月形 潔(つきがた きよし、弘化4年6月27日(1847年8月7日) - 明治27年(1894年)1月8日)は、江戸時代末期の福岡藩士、明治時代の官僚。北海道樺戸集治監典獄、樺戸・雨竜・上川三郡郡長として北海道開拓に携わる。樺戸郡月形町の町名は彼の姓に由来している。 弘化4年(1847年)、筑前国遠賀郡中底井野村(現福岡県中間市中底井野)で旭迎堂を開いていた儒学者でもある福岡藩士月形健(春耕)と伊藤常足の門人の宮崎省庵の娘の竹との間に生まれ、直吉と名付けられる。 嘉永3年(1850年)鞍手郡植木村(現福岡県直方市)に伯父(父の長兄)の月形深蔵(漪嵐)が隠居して教授所を開き、直吉は深蔵の元に足しげく通い、朱子学や剣術を学ぶ。
武部 小四郎(たけべ こしろう、弘化3年7月(1846年) … 武部 小四郎(たけべ こしろう、弘化3年7月(1846年) - 明治10年(1877年)5月3日)は、幕末の福岡藩士、勤皇家、自由民権運動家。名は(建部)自成。通称は小四郎、燕之允。父は建部武彦、伯父に黒田一葦(母の兄)、従兄弟に加藤堅武(父の妹の子)が居る。
内藤鳴雪(ないとう めいせつ、1847年5月29日(弘化4年… 内藤鳴雪(ないとう めいせつ、1847年5月29日(弘化4年4月15日) - 1926年(大正15年)2月20日)は、幕末の伊予松山藩の武士、明治期の官吏、明治・大正期の俳人。幼名は助之進、元服して師克(もろかつ)、のち素行(もとゆき)。俳号の「鳴雪」は、「何事も成行きに任す」の当て字という。鳴雪の号のほか、南塘・破蕉・老梅居も用いた。 伊予松山藩の上級武士内藤房之進と八十(やそ)の長男として、藩の江戸中屋敷に生まれた。嘉永2年(1849年)に実母が死去すると、曾祖母と祖母のもとで育てられた。安政元年(1854年)頃から父に漢籍を教わり、軍記物や草双紙、寄席や義太夫に親しんだ。なお、同時期に小使として出仕していた原田左之助(後の新撰組幹部で十番隊隊長。
河島 醇(かわしま あつし / じゅん、弘化4年3月6日(1… 河島 醇(かわしま あつし / じゅん、弘化4年3月6日(1847年4月20日) - 明治44年(1911年)4月28日)は、幕末から明治時代に活躍した武士(薩摩藩士)、官僚、政治家。衆議院議員、貴族院議員。幼名・新之丞。 薩摩藩士・河島新五郎長寛の長男として鹿児島長田町に生まれる。藩校造士館で学ぶ。戊辰戦争に従軍。明治2年(1869年)、昌平学校に入り、さらに川田甕江塾で学び、明治3年12月(1871年1-2月)にドイツへ留学し、ローレンツ・フォン・シュタインに学ぶ。 明治7年(1874年)3月に帰国。同年8月、外務省に入り八等出仕となる。9月、一等書記生に発令され、ドイツ公使館在勤を命ぜられた。
渋谷 礼(澁谷 禮、しぶや れい、1847年1月20日(弘化… 渋谷 礼(澁谷 禮、しぶや れい、1847年1月20日(弘化3年12月4日)- 1912年(大正元年)12月6日)は、幕末の武士(人吉藩士)、明治期の政治家。衆議院議員、熊本県球磨郡一武村長。幼名・練助。 肥後国球磨郡人吉麓町(熊本県球磨郡人吉麓町、人吉町字麓を経て現人吉市麓)で、人吉藩家老・渋谷巴山の息子として生れた。藩校時習館で学び、田代自養に師事し朱子学を修めた。槍術も習った。1862年3月7日(文久2年2月7日)人吉で大火(寅助火事)が発生し、その後、犬童権左衛門とともに薩摩藩に復興資金5千両借財の依頼に赴き目的を果たした。また、薩摩藩士・中原尚介に西洋兵法、英国式砲術を学び、藩兵分隊長、小隊長を務めた。
山本 貴三郎(やまもと きさぶろう、1846年12月20日(… 山本 貴三郎(やまもと きさぶろう、1846年12月20日(弘化3年11月3日)- 1899年(明治32年)12月22日)は、幕末の佐賀藩士、明治期の実業家・政治家。衆議院議員。 肥前国高来郡、のちの長崎県北高来郡諫早町(現諫早市)で生まれた。郷校で学び、その後、熊本に遊学し漢学、武術を修めた。16歳で帰郷し、佐賀藩の選抜生となり長崎の江戸町英学校で学び、さらに何礼之に師事し英学を修めた。 1868年(慶応4年)戊辰戦争が開戦すると、副島種臣らと長崎に赴き、振遠隊として長崎、島原、大村から隊員を募り、その後、秋田に向かい新政府軍に加わった。 その後、官途には就かず天草、肥前松島、平戸などで採炭事業を営む。
草郷 清四郎(そうごう せいしろう、1846年1月28日〈弘… 草郷 清四郎(そうごう せいしろう、1846年1月28日〈弘化3年1月2日〉 - 1924年〈大正13年〉8月9日)は、幕末の武士、明治・大正期の実業家である。 和歌山出身で元は紀州藩士。福澤諭吉の慶應義塾で学び、明治維新後は義塾の塾監や大学東校総幹事など教育に関わっていたが1880年(明治13年)より実業界に転身。主として鉄道会社の経営に関わり小田原電気鉄道(小田急箱根の前身)を長く務めた。 草郷清四郎は、弘化3年1月2日(新暦:1846年1月28日)、草郷久次郎の三男として生まれた。出身地は紀伊国和歌山城下の岡領町(現・和歌山県和歌山市)で、父は紀州藩士であった。13歳で父が死去すると遠縁にあたる勢州奉行三木家に寄居し文武を修める。
石井 収(いしい おさむ、弘化3年(1846年) - 大正1… 石井 収(いしい おさむ、弘化3年(1846年) - 大正14年(1925年)10月10日)は、日本の武士、警察官、地方官吏である。会津藩士として戊辰戦争を、また西南戦争を戦った。田山花袋は義弟。旧姓生亀、雅号盤石。 会津藩士の生亀家に生まれる。父は可汲。戊辰戦争では佐川官兵衛麾下として北越戦争を戦い、重傷を受け若松へ後送されている。明治5年(1872年)に警察官となり、少警部に昇進。また明治10年(1877年)には陸軍歩兵中尉に任官した。西南戦争に出征し、再び負傷している。警察官としては五等警視 に昇り、淀橋警察署、富岡門前警察署、本郷警察署でそれぞれ署長を務めた。明治19年(1886年)から明治25年(1892年)まで東白川郡郡長を務めて退官した。
小倉 処平(おぐら しょへい、弘化3年(1846年)-明治1… 小倉 処平(おぐら しょへい、弘化3年(1846年)-明治10年(1877年)8月18日)は、日本の武士(飫肥藩士)、官僚、思想家。大学南校少舎長、大学権大丞、大蔵省七等出仕。通称は処平。諱は良儔。明治維新以降も小倉処平で知られる。 郷党からは「飫肥西郷」とも言われる。また小村寿太郎を見出したことで有名で、平田東助と共に貢進生制度を建議した。西南戦争では西郷隆盛率いる私学校党中心の西郷軍側についた党薩諸隊の一つ飫肥隊を統率し、西郷軍奇兵隊総軍監となる。和田越の戦いで戦傷し、可愛岳近くの高畑山で屠腹自害する。 石高65石で乗馬以上(馬廻)の飫肥藩士である長倉喜太郎の次男かつ長倉訒の弟として出生。父の妹で処平の叔母は平部嶠南の妻である。
岩村 高俊(いわむら たかとし、弘化2年11月10日(184… 岩村 高俊(いわむら たかとし、弘化2年11月10日(1845年12月8日)- 明治39年(1906年)1月4日)は、日本の江戸時代後期から明治期の武士(土佐藩士)、官僚、華族である。初名は鉄五郎、のち精一郎。 宿毛領主伊賀家に仕えた岩村英俊(礫水)の三男で、岩村通俊、林有造の弟。位階勲等は従二位、勲二等、男爵。美術評論家・美術史家の岩村透は長男、次男は建築家の竹腰健造。 土佐国幡多郡、のちの宿毛村貝塚(宿毛町を経て現宿毛市)に生まれる。藩校の文武館で蘭学や砲術を学ぶ。慶応3年(1867年)9月に通俊の鉄砲購入に随行して長崎へ行く。ここで監察・佐佐木高行の添え書きを得て11月に上京し、陸援隊に入隊した。
山川 浩(やまかわ ひろし、弘化2年11月6日〈1845年1… 山川 浩(やまかわ ひろし、弘化2年11月6日〈1845年12月4日〉- 明治31年〈1898年〉2月4日)は、日本の武士(会津藩家老)、陸軍軍人、政治家、教育者。最終階級は陸軍少将、位階勲等・爵位は従三位勲三等・男爵。 陸軍省人員局長 兼 輜重局長、陸軍省総務局制規課長、高等師範学校長・附属中学校初代校長、貴族院議員を歴任した。明治初年までの諱は重栄、字は士亮、通称は大蔵(おおくら)、与七郎。号は屠竜子。 祖父は、会津藩家老・山川兵衛 重英。父は、山川尚江 重固。山川家の家禄は1千石。 祖父の重英が高齢まで隠居せずに家老職にあったため、父の重固は山川家の嗣子の立場で会津藩に出仕して郡奉行主役を務めていた。
立見 尚文(たつみ なおふみ/なおぶみ、1845年8月21日… 立見 尚文(たつみ なおふみ/なおぶみ、1845年8月21日(弘化2年7月19日) - 1907年(明治40年)3月6日)は、幕末の桑名藩士、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将。男爵。通称は鑑三郎。号は快堂。変名に倉田巴。 実父は桑名藩士(江戸詰め、200石)の町田伝太夫。桑名藩士・立見尚志の養子となった。松平定敬が桑名藩を継いだときに小姓となる。少年期より風伝流の槍術、柳生新陰流の剣術の使い手として知られる。藩校立教館、湯島の昌平坂学問所に学ぶ。 藩主松平定敬の京都所司代就任に伴い京都で藩の周旋役を任される。その後幕府陸軍に出向。歩兵第3連隊に籍を置きフランス式用兵術を学ぶ。フランス教官をして「立見は天成の軍人である。
鳥居 義処(とりい よしずみ、弘化2年(1845年)6月6日… 鳥居 義処(とりい よしずみ、弘化2年(1845年)6月6日 - 大正15年(1926年)1月25日)は江戸時代の武士、明治時代の開拓者。幼名は軍次郎、通称は半蔵。 信濃国佐久郡小諸城下に小諸藩士・神戸安右衛門の次男に生まれ、同藩士の鳥居氏の養子となった。明治3年(1870年)知藩事牧野康済に抜擢され、為政党の幹事となり、藩命により御牧ヶ原の開墾に着手し、21年間のあいだに田畑1500ヘクタール、山林700ヘクタール、農家300戸を数えるほどになり、馬産と植林事業にも尽力した。また明治8年(1875年)からは軽井沢の官有原野100町歩と民有地を買収し、優良馬の牧場経営と大農法による飼料作物栽培を行い、防風のために落葉松林を植樹した。
川路 寛堂(かわじ かんどう、弘化元年12月21日(1845… 川路 寛堂(かわじ かんどう、弘化元年12月21日(1845年1月28日) - 昭和2年(1927年)2月5日)は、江戸時代末期(幕末)から昭和の旗本、大蔵省官僚、教育者。川路聖謨の孫に当たる。通称は太郎、諱は温、寛堂は号だが、伊藤博文秘書役時代、公文書に寛堂と署名していたため、本名も寛堂になったという。 弘化元年(1844年)12月21日、江戸番町冬青木坂上に川路彰常の長男として生まれた。弘化3年(1847年)9月25日、2歳で父と死別し母も再婚して別離、大叔父の井上清直夫妻に引き取られ養育された。嘉永3年(1850年)2月27日に下総佐倉藩医鏑木仙安の手で牛痘を接種、嘉永4年(1851年)6月22日に6歳で奈良奉行を退任して江戸へ召還された祖父川路聖謨と面会して川路家に戻り、祖父の庇護を受けた。
小出 光照(こいで みつてる、弘化2年〈1845年〉 - 明… 小出 光照(こいで みつてる、弘化2年〈1845年〉 - 明治7年〈1874年〉2月18日)は、幕末の会津藩士、明治時代の地方官吏である。通称は鉄之助、号は斗南。 父・小出只五郎は篠田家の出身である。妻・操は山川浩の妹、山川健次郎・大山捨松の姉で、のちに明治天皇フランス語通訳兼昭憲皇太后付女官で権掌侍。 藩校・日新館の秀才として知られ、通常より3年早く15歳で一等試学に及第。藩主・松平容保の小姓に抜擢される。小出は江戸遊学を許されて古屋佐久左衛門の私塾に通い、洋学を学んだ。しかし花見の帰りに番所役人に咎めを受け、揚屋入りを命じられる。藩は小出に帰藩を命じたが、古屋と相談した小出は脱藩して外国に赴くことを決意。
神 辰太郎(じん たつたろう、1844年10月23日〈弘化元… 神 辰太郎(じん たつたろう、1844年10月23日〈弘化元年9月12日〉- 1925年〈大正14年〉12月16日)は、幕末の弘前藩士、明治期の海軍軍人。のちに機関長を歴任した。最終階級は海軍機関少監(機関少佐相当官)。本名・手塚冝道(のりみち)、宜道の表記あり。 陸奥国津軽郡弘前城下瓦ケ町(現青森県弘前市)で弘前藩の手塚家の生まれ。幕末に活躍した同藩士・神東太郎がいるが関係は不詳。 神家を継いで、慶応元年(1865年)に江戸に出て鉄砲洲慶應義塾に入学。明治2年(1869年)に兵部省「飛龍丸」二等士官、明治4年(1871年)に海軍少尉に任官。以後20年以上を機関関係の海軍士官として活躍し、「龍驤艦」機関長、「天城艦」機関長などを経て、1888年(明治21年)海軍機関少監に進み「金剛」機関長となる。
陸奥 宗光(むつ むねみつ、天保15年7月7日〈1844年8… 陸奥 宗光(むつ むねみつ、天保15年7月7日〈1844年8月20日〉- 明治30年〈1897年〉8月24日)は、日本の幕末の武士。明治期の外交官、政治家。江戸時代までの通称は陽之助(ようのすけ)。家紋は仙台牡丹。位階勲等爵位は正二位勲一等伯爵。「カミソリ大臣」とも呼ばれた。 版籍奉還、廃藩置県、徴兵令、地租改正、議会の先駆けである元老院の設立に多大な影響を与え、第1次山縣有朋内閣では農商務大臣として第1回帝国議会を成功させる支柱となった。外務大臣としては幕末期以降に結ばれていた全15か国の不平等条約(領事裁判権の撤廃、関税自主権の一部を回復)改正に成功した。日清戦争において陸奥外交と呼ばれる外交を行い、戦中・戦後処理に尽力し、三国干渉を日本の有利な形で収まるように立ち回った。
岡沢 精(おかざわ くわし、1844年8月20日〈弘化元年7… 岡沢 精(おかざわ くわし、1844年8月20日〈弘化元年7月7日〉- 1908年〈明治41年〉12月12日)は、日本の武士(長州藩士)、陸軍軍人、華族。正二位勲一等功二級子爵。 長州藩士岡沢甚内の子として萩に生まれる。1862年(文久2年)以降は江戸の長州藩邸に滞在しながら京都を往来し、文久の政変に巻き込まれたこともあった。大村益次郎の塾に学んだ後は尊皇攘夷運動に携わる。南国隊を組織し戊辰戦争に従軍した。 維新後は陸軍に進み、1870年(明治3年)10月に大坂第2教導隊に入営。1871年(明治4年)2月に四等軍曹、4月に御親兵大隊長、6月3日には陸軍准中尉となり、さらに同年中には中尉・大尉・少佐と昇任した。
小柳津 要人(おやいづ かなめ、弘化元年2月15日(1844… 小柳津 要人(おやいづ かなめ、弘化元年2月15日(1844年4月2日) - 1922年(大正11年)6月21日)は、明治・大正期の実業家、武士(岡崎藩士)。丸善の専務取締役社長を務めた。 三河国岡崎にて岡崎藩士・小柳津宗和の長男として生まれる。幼少時は志賀重昂の父重職の下で学ぶ。岡崎藩主・本多忠民に仕え藩の要人となる。 1863年(文久3年)、西洋流大砲方の命を受けて江戸にのぼったが、英書を学ぶ必要を感じて大鳥圭介の塾縄武館に入る。また中浜万次郎に師事し、兵学・洋学の手ほどきを受けた。同年秋より開成所に転じ、英学得業士となる。 1868年(慶応4年)の戊辰戦争時には、志賀熊太に血判状を提出した後に脱藩して遊撃隊に加わる。
中村 博愛(なかむら ひろなり / ひろやす、天保14年12… 中村 博愛(なかむら ひろなり / ひろやす、天保14年12月29日〈1844年2月17日〉 - 1902年〈明治35年〉10月30日)は、幕末の薩摩藩士、明治期の外交官・官僚・政治家。元老院議官、貴族院勅選議員、錦鶏間祗候。旧名・宗見、変名・吉野清左衛門。 根占郷の麓集落(現鹿児島県肝属郡南大隅町根占川北)生まれ。薩摩藩士の家に生まれる。長崎の長崎養生所でオランダ軍医・アントニウス・ボードウィンから医学を学ぶ。帰藩し開成所で英学を学ぶ。薩摩藩第一次英国留学生に選ばれ、元治2年3月22日(1865年4月17日)吉野清左衛門と変名して鹿児島から密出国し、イギリスで化学を学ぶ。慶応2年1月(1866年)シャルル・ド・モンブラン伯爵の勧めで田中静洲と共にフランスへ留学。
沼間 守一(ぬま もりかず/ぬま しゅいち、1844年1月2… 沼間 守一(ぬま もりかず/ぬま しゅいち、1844年1月21日〈天保14年12月2日〉 - 1890年〈明治23年〉5月17日)は、幕末の幕臣。明治時代の政治家、ジャーナリスト。雅号は不二峰楼主人(ふじほうろうしゅじん)、弄花生(ろうかせい)。幕府軍に参加し戊辰戦争で捕縛されるも放免され、大蔵省・司法省出仕。岩倉使節団の一員であり、嚶鳴社を組織し自由民権運動を展開。立憲改進党の結党に参画し、東京府会議長も務めた。実業家としても『横浜毎日新聞』を買い取り、『東京横浜毎日新聞』を創刊した。 天保14年12月(1844年1月)、江戸牛込にて幕臣・高梨仙太夫の第2子として生まれる。幼名は慎次郎。兄に銀行家の須藤時一郎、弟に高梨哲四郎がいる。
小牧 昌業(こまき まさなり / しょうぎょう、1843年1… 小牧 昌業(こまき まさなり / しょうぎょう、1843年10月5日(天保14年9月12日)- 1922年(大正11年)10月25日)は、幕末から大正期の薩摩藩士、漢学者、官僚、政治家。内閣書記官長、官選県知事、貴族院議員。学位は、文学博士。幼名・善次郎、字・偉卿、号・桜泉。 大隅国大隅郡田代郷大禰田村(鹿児島県南大隅郡田代村、肝属郡田代村、田代町を経て現錦江町)で、薩摩藩士・小牧良助の二男として生まれた。江戸で塩谷宕陰に学び、藩校造士館の教員を務めた。 1869年(明治2年)議政官史官試補に就任し、小史、権大史を歴任。その後、官僚として黒田清隆に仕え、開拓幹事、文部大臣秘書官、内閣総理大臣秘書官、内閣書記官長などを歴任。
内海 忠勝(うつみ ただかつ、1843年9月12日〈天保14… 内海 忠勝(うつみ ただかつ、1843年9月12日〈天保14年8月19日〉- 1905年〈明治38年〉1月20日)は、日本の武士、官僚、政治家。内務大臣(第16代)、長崎県令、三重県令、兵庫県知事(第9代)、長野県知事(第2代)、神奈川県知事(第3代)、大阪府知事(第8代)、京都府知事(第8代)、会計検査院長、貴族院議員などを歴任。吉田治助の四男。長州藩士である。従三位勲三等、死後に従二位勲一等旭日大綬章。男爵。 周防国吉敷郡吉敷村(現在の山口県山口市)出身。長州藩士として禁門の変に参加。維新後新政府に登用され、岩倉使節団に大使随行員として参加。地方官として長崎、三重、兵庫、長野、神奈川、大阪、京都の各県令・知事を歴任。
井上 勝(いのうえ まさる、天保14年8月1日(1843年8… 井上 勝(いのうえ まさる、天保14年8月1日(1843年8月25日) - 明治43年(1910年)8月2日)は、日本の幕末から明治にかけて活躍した武士(長州藩士)、官僚。正二位勲一等子爵。幼名は卯八(うのはち)、通称は弥吉(やきち)。鉄道発展に寄与し、日本の鉄道の父と呼ばれる。長州五傑の1人。ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン卒業。
西村 捨三(にしむら すてぞう、天保14年7月29日(184… 西村 捨三(にしむら すてぞう、天保14年7月29日(1843年8月24日) - 明治41年(1908年)1月14日)は、日本の武士、官僚、政治家。沖縄県令(第4代)、大阪府知事(第6代)、初代内務省警保局長などを務めた。
岡村 為蔵(おかむら ためぞう、天保14年5月25日〈184… 岡村 為蔵(おかむら ためぞう、天保14年5月25日〈1843年6月22日〉 - 1915年〈大正4年〉2月21日)は、幕末期の桑名藩士、明治時代の司法官僚、大審院判事。 越後国山室(現在の新潟県柏崎市)に、行田常冶改め常左衛門の次男として生まれ、まもなく山室の庄屋岡村家第14代権之丞の娘と入婿して岡村家を継ぐ。14歳で庄屋見習。慶応3年(1867年)桑名藩柏崎陣屋から郡中取締役を申し付けられ、その年の6月には一代苗字帯刀を許され武士となる。桑名藩が戊辰戦争で鯨波戦争を最後に敗走し、新政府が柏崎民政局を置くと、民政局御用掛となり、敗戦処理の経験を買われて会津戦争の戦後処理のため、若松県に2年出向。
逸見 宗助(へんみ そうすけ、1843年〈天保14年〉 - … 逸見 宗助(へんみ そうすけ、1843年〈天保14年〉 - 1894年〈明治27年〉)は、幕末から明治の武士、剣術家、警察官。 生年は1834年(天保5年)ともいわれる。佐倉藩藩士・逸見信敬(立身流第17代宗家)の子として生まれ、家伝の立身流を修行する。立身流は袋竹刀で打ち合う古式の剣法であったが、江戸で竹刀防具を用いる撃剣試合が盛んになると、佐倉藩も1850年(嘉永3年)に他流試合を許し、北辰一刀流や鏡新明智流などを招いて学んだ。鏡新明智流からは高弟の上田馬之助が来て、逸見は上田の指導を受けた。 1860年(万延元年)、父より立身流居合目録を受ける。父の計らいで藩から剣術留学の許しを得て、1861年(万延2年)に江戸に出て、鏡新明智流士学館道場を主として1年間撃剣を修行。
小森沢 長政(こもりさわ ながまさ、1843年(天保14年)… 小森沢 長政(こもりさわ ながまさ、1843年(天保14年) - 1917年(大正6年)3月13日)は、幕末の米沢藩士、明治期の海軍法務官。初期海軍の法制度確立に努め、海軍省法務部長に至る。また郷里の後進を海軍に勧誘し、米沢海軍の祖とされる人物である。米沢有為会第二代会長。 旧名は宮島琢蔵。父は米沢藩右筆・宮島吉利、兄は宮島誠一郎である。 明治維新後に米沢藩少属となり、次いで兵部省海軍所文官に採用され、海軍省発足とともに海軍大録に任じられた。小森沢の海軍入りは兄の宮島誠一郎と親しかった勝海舟の影響があったともいわれる。 長く海軍大臣を務めた西郷従道の知己を得たといわれ、1877年(明治10年)太政官権大書記官、翌年には海軍大書記官を兼ねる。
下条 正雄(下條、げじょう / しもじょう まさお、1842… 下条 正雄(下條、げじょう / しもじょう まさお、1842年8月29日(天保13年7月24日) - 1920年(大正9年)12月1日)は、幕末の米沢藩士、明治・大正期の海軍軍人、政治家、日本画家。最終階級は海軍主計大佐。貴族院勅選議員。雅号・桂谷(けいこく)。 出羽国置賜郡米沢(現山形県米沢市)で、米沢藩士・下条半兵衛の長男として生まれ、慶応2年6月(1866年)下条武兵衛の養子となり家督を相続。明治2年12月(1870年1月)権少属任官。1873年以降、海軍少秘書、同大秘書、同少書記官、同主計少監、同督買部理事官、横須賀鎮守府会計監督部長、佐世保鎮守府主計部長、海軍主計学校長、海軍部内の諸課長、海軍主計大監等を歴任し、1893年5月予備役に編入。
野村 素介(のむら もとすけ、1842年6月26日(天保13… 野村 素介(のむら もとすけ、1842年6月26日(天保13年5月18日)- 1927年(昭和2年)12月23日)は、幕末から昭和初期にかけての日本の武士(長州藩士)、官僚、政治家、書家。正二位勲一等 男爵。幼名は範輔、字は絢夫、号は右仲、素軒。 1842年(天保13年)5月18日に長州藩士 有地留之助の次男として周防国吉敷郡長野村(現在の山口県山口市)に生まれる。はじめ、萩の藩校明倫館で学ぶ。1859年(安政6年)4月、江戸へ行き、長州藩上屋敷内の有備館で学ぶ。さらに儒学者 塩谷宕陰から漢籍・経書・歴史を、書家 小島成斎から書道を学ぶ。1862年(文久2年)に帰国して明倫館舎長となる。 1863年(文久3年)10月に同じく長州藩士 野村正名の養子となり、1866年(慶応2年)2月、家督を継ぐ。
岡内 重俊(おかうち しげとし、天保13年4月2日〈1842… 岡内 重俊(おかうち しげとし、天保13年4月2日〈1842年5月11日〉 - 1915年〈大正4年〉9月20日)は、幕末の土佐藩士、明治期の司法官僚・政治家。元老院議官、貴族院勅選議員、男爵、錦鶏間祗候。通称・俊太郎。 土佐国土佐郡潮江村(現高知県高知市)で、土佐藩士・岡内清胤、鹿子夫妻の長男として生まれる。土佐藩の横目職を務めた。その後、海援隊に加わり坂本龍馬の秘書役を務め、土佐藩の武器調達に尽力。 明治維新後、新政府に出仕し、明治2年2月15日(1869年3月27日)刑法官鞫獄判司事に任じられた。以後、鞫獄副知判司事、徴士・鞫獄司知事、刑部大解部、刑部少判事、刑部中判事、司法少判事、司法権中判事を歴任。
赤松 則良(あかまつ のりよし、天保12年11月1日〈184… 赤松 則良(あかまつ のりよし、天保12年11月1日〈1841年12月13日〉 - 大正9年〈1920年〉9月23日)は、日本の武士(幕臣)、華族、海軍軍人、政治家。貴族院議員。栄典は海軍中将。位階勲等爵位は従二位勲一等男爵。通称は大三郎。「日本造船の父」と呼ばれる。 中世の播磨の名族赤松氏の末裔と称する播州網干(現姫路市網干区)新在家の龍野藩御用商人であった廻漕業赤松良則を実父とする幕府十五番組御徒士(御家人)・吉沢雄之進の次男として江戸深川に生まれる。弘化4年(1847年)、祖父赤松良則の後を継ぎ父の実家である赤松姓となる。先祖の出自から父の経歴まで「赤松則良半生談」に本人が詳しく述べている。
今井 信郎(いまい のぶお、天保12年10月2日(1841年… 今井 信郎(いまい のぶお、天保12年10月2日(1841年11月14日) - 大正7年(1918年)6月25日)は、江戸時代末期(幕末)から明治初期の武士(幕臣)、佐幕活動家、警察官、教育者、農事指導者、キリスト教活動家、政治家。 今井は江戸に育ち、安政5年(1858年)、18歳で直心影流剣術の榊原健吉道場に入門、免許取得後講武所の師範代の任に就いた。慶応3年(1867年)5月、京都見廻組への入隊を拝命、同年11月15日に発生した近江屋事件に関わった。戊辰戦争では衝鋒隊副隊長として各地を転戦し、箱館戦争まで戦った。明治3年(1870年)2月、近江屋事件の件で嫌疑をかけられ、身柄を刑部省の伝馬町牢舎へ移され取り調べを受けた。
足立 正声(正聲、あだち まさな、天保12年9月22日〈18… 足立 正声(正聲、あだち まさな、天保12年9月22日〈1841年11月5日〉 - 1907年〈明治40年〉4月19日)は、日本の武士(鳥取藩士)、官僚、華族。男爵。字は興卿、通称は八蔵。雅号は老狸、天瀑、克己斎、礫室、碌々山房、楽石山人、鼓腹庵、古狸窟。 因幡国邑美郡鳥取庖丁人町(現鳥取県鳥取市)で、鳥取藩士・足立次郎八中和の二男として生まれる。文久元年(1861年)学正堀庄次郎(熙明、敦斎)の推挙で江戸の芳野金陵に学ぶ。文久2年(1862年)冬、国事周旋方に就任。 文久3年8月17日(1863年9月29日)本圀寺事件に参加したため、京都藩邸に拘留され、伯耆国日野郡黒坂、鳥取に幽閉された。第二次長州征討が始まり、慶応2年7月(1866年)幽閉先の荒尾直就邸から同志と共に脱出し、長州藩諸隊の南園隊に加わり、備前、京都で活動して長州藩のために周旋し、大村益次郎から西洋軍学を学んだ。
国貞 廉平(くにさだ れんぺい、天保12年3月22日〈184… 国貞 廉平(くにさだ れんぺい、天保12年3月22日〈1841年5月12日〉 - 1885年〈明治18年〉1月18日)は、日本の武士(長州藩士)、官僚。愛知県令。諱は景孝、景廉、景行。通称は鶴之進、直之進、直人、晩年には廉平。変名は逸水清助。雅号は韓山。 天保12年3月(1841年5月)、長門国萩城下松本村で長州藩士・国貞要助の嫡男として生まれた。藩校・明倫館で学び、万延元年(1860年)江戸の有備館に入り、大橋訥庵の指導も受けた。文久2年(1862年)藩世子・毛利元徳の近侍となる。 慶応2年正月(1865年)、鎮静会議員に加わり内乱の収拾に尽力。慶応2年5月(1866年)、干城隊頭取兼文学寮都講となり、さらに国政方を務めた。
山口 小一(やまぐち こいち、1841年3月29日(天保12… 山口 小一(やまぐち こいち、1841年3月29日(天保12年2月7日)- 1911年(明治44年)8月27日)は、幕末の佐賀藩武雄領主・武雄鍋島家家臣、明治期の政治家。衆議院議員。 肥前国杵島郡武雄村小楠(現佐賀県武雄市)で武雄鍋島家家臣(足軽)の家に生まれる。幕末には名誉とされていた武雄領の時報役を務めた。戊辰戦争では主君鍋島茂昌に従い羽州を転戦した。 その後、武雄軍団所史生、副戸長を務め、1880年、長崎県会議員に当選。1883年、佐賀県会議員に選出され、1887年、鎌田景弼佐賀県知事により抜擢され佐賀県属・土木課副長に就任。その後、退官して県会議員に復帰し、1902年、県会議長に就任した。
品川 忠道(しながわ ただみち、天保11年12月19日〈18… 品川 忠道(しながわ ただみち、天保11年12月19日〈1841年1月11日〉 - 1891年〈明治24年〉2月18日)は、江戸時代のオランダ語通訳、幕臣。明治時代の官僚。通称・英輔。 肥前国長崎で品川権左衛門の子として生まれる。兄の品川九十九は大村藩の御用商人で、義理の兄弟に石鹸工場創業の吉村又作(現在のマリンフード創業者)、甥に平野富二がいる。同族のオランダ通詞の品川徳三郎の養子となる。オランダ語をはじめ英語も習得していたため、ペリーの浦賀来港により幕臣に抜擢され、横浜で通弁となる。安政6年(1859年)に幕府が各国と通商条約を締結する際通弁を務めた。また通弁のかたわら横浜で洋学教授を行った。
何 礼之(何 禮之、が のりゆき/れいし、天保11年7月13… 何 礼之(何 禮之、が のりゆき/れいし、天保11年7月13日(1840年8月10日) - 大正12年(1923年)3月2日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代にかけて活躍した日本の翻訳家、幕臣、官僚、裁判官、教育者、唐通事。通称は礼之助。姓は「か」ではなく「が」と読む。 英語稽古所学頭を務めたほか、長崎で創設した塾は、塾生が300名を越え、維新後に活躍する多くの英才を輩出したが、その実績は幕末蘭学における緒方洪庵の適塾、伊東玄朴の象先堂、佐倉の順天堂と対比すべく、同じ英学においては福澤諭吉の慶應義塾に匹敵するものであった。開成所(現・東京大学)教授も務め、大阪洋学校(現・京都大学)の創設者でもある。
岩村 通俊(いわむら みちとし、1840年7月8日〈天保11… 岩村 通俊(いわむら みちとし、1840年7月8日〈天保11年6月10日〉- 1915年〈大正4年〉2月20日)は、日本の武士、官僚、政治家。鹿児島県令や初代北海道庁長官などを務めた。貫堂と号し、素水を俳号とする。栄典は正二位勲一等男爵。 明治時代に農商務大臣、宮中顧問官、北海道庁長官を務める。開拓官僚として赴任した北海道を調査し、北海道庁設置の必要性を政府に働き掛け、初代北海道庁長官となる。 土佐藩陪臣・岩村英俊を父に、長男として土佐国(現在の高知県)宿毛で生まれた通俊は、酒井南嶺の下で学問を学び岡田以蔵の下で剣術を学んだ。1869年(明治2年)には政府に出仕し聴訟司判事、箱館府権判事開拓判官を務める。
池田 成章(いけだ なりあき、天保11年5月26日〈1840… 池田 成章(いけだ なりあき、天保11年5月26日〈1840年6月25日〉 - 大正元年〈1912年〉10月11日)は、日本の武士(米沢藩士)、官僚、実業家。 三井財閥筆頭常務理事、大蔵大臣などを務めた池田成彬は長男。 出羽米沢藩士五十騎組香坂昌邦の三男として生まれ、1864年(元治元年)に同じく藩士の五十騎組池田峰蔵の養子となった。 初め、貞吉、丈八と改め、のちに新次郎、さらに成章と改めた。 藩校興譲館で書・文学を学び、上杉茂憲の小姓となる。町奉行[要出典]、江戸留守居役を歴任。茂憲の側役として麻布邸に起居し、甘糟継成と行動を共にし、ここで慶應義塾の福澤諭吉や小幡篤次郎、シーボルトを初めとする人物らと知己を得た。
渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、天保11年2月13日(184… 渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、天保11年2月13日(1840年3月16日) - 昭和6年(1931年)11月11日)は、江戸時代末期(幕末)から大正初期にかけての日本の武士(幕臣)、官僚、実業家。第一国立銀行や東京証券取引所などといった多種多様な企業の設立・経営に関わり、「日本資本主義の父」ともいわれる。理化学研究所の創設者でもある。
永岡 久茂(ながおか ひさしげ、天保10年(1840年) -… 永岡 久茂(ながおか ひさしげ、天保10年(1840年) - 明治10年(1877年)1月12日)は、江戸時代後期(幕末)から明治時代の会津藩士、志士。通称敬次郎。当肉楼主人とも号した。 天保10年(1840年)、永岡冶左衛門の子として若松城下に生まれる。藩校日新館や江戸の昌平黌で学び詩作に優れた。江戸留学中に起きた戊辰戦争では初め江戸大砲隊の一員として鳥羽・伏見の戦いに参戦。これに敗れてからも北越戦争に赴き、奥羽列藩同盟時には同盟締結のため梶原平馬の片腕として奔走した。また、会津戦争で若松城が包囲された際には榎本武揚より兵100名を借り受けるが救援に失敗。会津三絶と言われる「独木誰支大力傾」という詩を詠み、これを嘆いた。
岡崎 惟素(おかざき これもと、1840年(天保11年) -… 岡崎 惟素(おかざき これもと、1840年(天保11年) - 1905年(明治38年)5月20日)は、日本の武士(岡山藩士)、実業家(三菱商会本社副支配人、日本郵船長崎支店長、日本逓業取締役、東京株式取引所理事)、茶人(織部流)。幼名は滝吉、のち滝之助。号は淵冲、谷神。 1840年(天保11年) 、備前国御野郡内田村(現・岡山市)生まれ。1870年(明治3年)、30歳の時は、岡山藩家老で金川領主の日置健太郎支配の下級藩士(陪臣)であった。廃藩置県後は東京に出て、官吏となるも、1877年(明治10年)36歳の時に岩崎弥太郎が創設した三菱商会に書記係として入社。のちに本社副支配人となる。1887年(明治20年)、三菱の荘田平五郎・内田耕作・浅田正文・岡本健三郎らと共に日本郵船(共同運輸と三菱汽船との合併会社)を創立した。
関 義臣(せき よしおみ、1839年12月15日(天保10年… 関 義臣(せき よしおみ、1839年12月15日(天保10年11月10日) - 1918年(大正7年)3月30日)は、日本の武士・越前福井藩士、政治家。別名を山本龍二郎、関龍二。号は湘雲。正三位勲二等男爵。 1839年、福井藩の家老である本多家の越前府中(現在の越前市、旧武生市)領にて、本多家家臣・山本五郎の三男に生まれる。当初名乗っていた名前は山本龍次郎であった。嫡男ではないため、福井本藩の家臣であった山本家の分家で育つ。 藩校明道館に学び、幹事の橋本左内に認められて、文久2年(1862年)に昌平坂学問所に学んだ。1866年(慶応2年)、長崎の坂本龍馬を訪ねて亀山社中に加盟し、のちに海援隊に属した。
山口 尚芳(やまぐち ますか / なおよし / ひさよし、天… 山口 尚芳(やまぐち ますか / なおよし / ひさよし、天保10年5月11日〈1839年6月21日〉 - 1894年〈明治27年〉6月12日)は、日本の士族(佐賀藩士)、官僚、政治家。父は山口尚澄。通称は範蔵(はんぞう)、範造、範三、繁蔵。 「尚芳」の読みは「なおよし」とされることが一般だった。しかし、当時の官僚たちの履歴資料が『勅奏任官履歴原書』(国立公文書館所属)として1995年に刊行され、そこに載っていた読みが「ますか」であった。同資料は掲載された人々自身の閲読を経ていることから信頼性は高く、「ますか」の読みが併記されることが増えている。 幼少のころから佐賀藩武雄領主・鍋島茂義に将来性を見込まれ、佐賀藩主・鍋島直正(閑叟)の命令により、他の藩士子弟らとともに長崎に遊学し、オランダ語や英語を学んだ。
大島 貞敏(おおしま さだとし、1839年1月8日(天保9年… 大島 貞敏(おおしま さだとし、1839年1月8日(天保9年11月23日) - 1918年(大正7年)4月15日)は、但馬国養父郡の旗本・大藪領主小出英道の家臣。明治時代の司法官僚。東京地方裁判所長、長崎控訴院検事長、大阪控訴院検事長。関西法律学校(のちの関西大学)の創立者の1人で名誉校員。 江戸、のちの東京市神田区錦町(現東京都千代田区神田錦町)に生まれる。但馬国養父郡の旗本・大薮領小出英道(播磨守)の家臣であった父・大島貞薫に従い、小出家の江戸屋敷に勤番し、幕末の混乱期には江戸と大薮領の間を往来した。大村益次郎の江戸在中時代の門下生。 1870年(明治3年)弾正少巡察となり、1871年(明治4年)司法少大解部から司法権少判事となる。
岩崎 長武(いわさき ながたけ、1839年(天保9年12月)… 岩崎 長武(いわさき ながたけ、1839年(天保9年12月)- 1898年(明治31年)12月27日)は、幕末の土佐藩士。明治期の内務官僚、自由民権運動家。高知県権令。位階は正六位。 土佐国土佐郡高知金子橋(現高知県高知市)で土佐藩槍術指南役・岩崎長幸の二男として生まれる。 1872年、浜松県権参事、同参事を務めた。明治5年11月27日(1872年12月27日)、高知県権令に転任。立志社の民権運動に寛容で、1875年6月の第1回地方官会議で、民会の公選制を主張した。立志社系の人物を県庁に登用したことなどで、保守派の反発を受け1876年8月に権令を罷免された。 その後、民権運動家として活躍した。植木枝盛らと共に土佐国州会結成に尽力し、副議長に就任している。
小野 隆助(おの りゅうすけ、天保10年4月(1839年) … 小野 隆助(おの りゅうすけ、天保10年4月(1839年) - 1923年(大正12年)9月4日)は、日本の幕末から明治にかけての武士・政治家。筑前共愛公衆会会長。旧姓から三木隆助とも。 筑前国御笠郡、のちの福岡県筑紫郡太宰府町(現太宰府市)で、安楽寺天満宮(神仏分離令前の太宰府天満宮の旧名称)の社家のひとつである小野加賀家に生まれる。父親は小野氏伸、伯父は幕末の勤皇家真木保臣であるところから、和漢、尊王思想を修める。三条実美をはじめとする公卿五名が小野加賀家の邸に隣接する延寿王院に3年余滞在し、その間、小野加賀家も三条実美等の警護の士の宿舎となる。この延寿王院には公卿5名が滞在したことを示す碑があり、門前には西郷隆盛、坂本龍馬が訪れたと記す案内看板がある。
青木善平(あおき ぜんぺい、天保10年〈1839年〉 - 明… 青木善平(あおき ぜんぺい、天保10年〈1839年〉 - 明治4年1月6日〈1871年2月24日〉)は、江戸時代末期(幕末)の福岡藩士。英学者。教育者。 福岡藩士藤井宅之進の子として筑前国博多に生まれ、福岡藩の蘭学者安部龍平の養子となる。幼名は菊次郎。 安政2年(1855年)養父龍平の跡目を継ぎ、龍平を名乗り、福岡藩合薬製作所手伝となる。万延元年(1860年)安部家が断絶し、青木善平と改名。 文久2年(1862年)松下直美らと長崎遊学を果たし、さらに慶応3年(1867年)藩の留学生として、同じ福岡藩の平賀義質、本間岩吉、井上良一、船越慶次、松下直美らとともに、アメリカ船コロラド号で渡米し、ハーバード大学に学んだ。