福原 有信(ふくはら ありのぶ、嘉永元年4月8日〈1848年… 福原 有信(ふくはら ありのぶ、嘉永元年4月8日〈1848年5月10日〉 - 大正13年〈1924年〉3月31日)は、日本の実業家。第3代日本薬剤師会会長、資生堂創業者として知られる。 安房国松岡村(現:千葉県館山市竜岡)の郷士の家に、平民である福原市左衛門の次男として生まれる。1865年、18歳で幕府医学所に入って西洋薬学を学び、現代で言う薬剤師として2年後の1867年から同所で雇われる。1868年7月に東京大学病院雇、1869年に大学東校(現在の東京大学医学部)中司薬(職員)となり、1871年海軍病院薬局長となる。 その翌年の1872年、23歳の時には、官を辞して、民間初の洋風調剤薬局となる「資生堂」を銀座に開業。
滝沢 喜平治(瀧澤、たきざわ きへいじ、1848年4月26日… 滝沢 喜平治(瀧澤、たきざわ きへいじ、1848年4月26日〈弘化3年2月13日〉 - 1916年〈大正5年〉7月16日)は、明治から大正時代前期の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。地主、肥料商。 滝沢武平の長男として、下野宇都宮藩領塩谷郡桜野村(栃木県塩谷郡氏家町を経て現さくら市氏家)に生まれる。父は穀物問屋を営んだ。1868年(明治元年)庄屋となり、以後戸長を経て、1879年(明治12年)栃木県会議員に当選する。ついで塩谷郡会議員、氏家町長を務めた。氏家きっての大地主で、明治新政府の殖産興業に呼応し、荒地の開墾や多くの会社、銀行に出資し経営に参画した。1872年(明治5年)氏家、上野原を開発・植林し、約600ヘクタールの山林を造成。
江角 柳四郎(えすみ りゅうしろう、1848年4月10日(嘉… 江角 柳四郎(えすみ りゅうしろう、1848年4月10日(嘉永元年3月7日)- 1906年(明治39年)3月22日)は日本の地主、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 出雲国出雲郡、のちの原鹿村(簸川郡久木村を経て現島根県出雲市斐川町原鹿)で、豪農の家に生まれる。機業を営み、簸川銀行取締役などを務めた。また、島根県元出雲郡連合村戸長、島根県会議員、久木村会議員、同村長などを歴任。1904年、貴族院多額納税者議員に選出され、同年9月29日に就任し、死去するまで在任した。 公益事業にも関心が高く、貧民救済、公共建築・道路修繕・衛生事業、居村児童への奨学金支給などに多額の寄付を行った。
日比谷 平左衛門(ひびや へいざえもん、弘化5年2月21日(… 日比谷 平左衛門(ひびや へいざえもん、弘化5年2月21日(1848年3月25日) - 大正10年(1921年)1月9日)は、明治期の紡績実業家。東京富士瓦斯紡績や日清紡績など紡績業に深く関わり、東京商業会議所副会頭を務めた。鐘淵紡績、東京毛織物各社長。 越後国蒲原郡裏館村(現・三条市)の旅宿営業者・大島栄造の3男として生まれる。万延元年(1860年)より江戸日本橋堀留の綿糸棉花問屋松本屋・斎藤弥助のもとで奉公し、のち日比谷家の養子となる。明治11年(1878年)に独立して浅草区茅町に綿糸染糸店を開くが、松本屋廃業によりそれを受け継ぎ、事務所を堀留に移して 綿糸・綿花を扱う卸商・日比谷商店を設立。
金田一 勝定(きんだいち かつさだ、1848年3月16日(弘… 金田一 勝定(きんだいち かつさだ、1848年3月16日(弘化5年2月12日) - 1920年(大正9年)12月31日)は、日本の実業家、和算家。 陸奥国岩手郡仁王村四ツ家町(現・岩手県盛岡市本町通二丁目)にて豪商「大豆屋」金田一伊門とリセの長男として生まれる。金田一京助は勝定の妹やすの子。金田一國士の養父。 1868年(慶応4年)、戊辰戦争鹿角口の戦いに従軍して足を負傷した。明治から大正初期の岩手県内実業界で盛岡銀行頭取、盛岡電気株式会社、岩手軽便鉄道株式会社など多くの企業を創立して社長となり、金田一財閥と呼ばれるまでに成長させ、県会議員、盛岡市会議員を務めた。勝定は幼少より学問を好み、盛岡和算に通じた最後の人で、和算書の収集に努力し、多大な費用をかけて和算家の阿部家、鬼柳家の蔵書を購入し、1912年(明治45年)、松原正固の蔵書とともに東北大学に寄贈した。
園田 孝吉(そのだ こうきち、弘化5年1月19日(1848年… 園田 孝吉(そのだ こうきち、弘化5年1月19日(1848年2月23日) - 大正12年(1923年)9月1日)は、日本の外交官、実業家。男爵。 1848年、薩摩藩士・宮内健吉の長男として大隅国太良村(現・鹿児島県伊佐市)に生まれる。藩内のお家騒動(平佐崩れ)により父親が処罰を受けたため、同藩士・園田沢右衛門の養子となる。鹿児島の洋学校「開成所」で、有島武らとともに英学を学ぶ。維新後は大学南校に学んだ後、1871年10月に外務省に出仕。翌1874年から約15年もの間、外交官としてイギリスに派遣された。1879年には一旦帰国し、卿補付書記心得として井上馨外務大臣の秘書となり、井上の紹介で富永銈子と結婚。
福井 直吉(ふくい なおきち、1848年2月19日(弘化5年… 福井 直吉(ふくい なおきち、1848年2月19日(弘化5年1月15日)- 1917年(大正6年)11月13日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 相模国大住郡小嶺村(現神奈川県平塚市)で、素封家・名主、福井源兵衛の長男として生まれる。宮崎拡堂の成器塾で漢学を修めた。 小嶺村総代人、神奈川県第二十二大区議員、神奈川県会議員、同常置委員、同議長などを務め、板垣退助に共鳴し自由民権運動に加わり民選議院設立運動に尽力した。1892年2月、第2回衆議院議員総選挙に神奈川県第六区から出馬して当選。さらに第3回総選挙でも再選され、衆議院議員を連続二期務めた。議員在任中、治水対策に取り組んだ。 衆議院議員当選後に実業界に入り、神奈川県農工銀行頭取、江ノ島電気鉄道取締役、東亜火災保険監査役などを務めた。
野波 令蔵(野波 令藏、のなみ れいぞう、1848年2月17… 野波 令蔵(野波 令藏、のなみ れいぞう、1848年2月17日〈嘉永元年1月13日〉 - 1917年〈大正6年〉12月)は、日本の醸造家、実業家、政治家、地主。鳥取県会議員(憲政党系中立)。野波商店。幼名は安太郎。族籍は鳥取県平民。 鳥取県西伯郡米子町法勝寺町(現・米子市法勝寺町)の人。常重の長男。生家は紺屋業を営む。幼時、村夫子に従い、漢学句読を受け、算数習字を修学する。家督を継承し、令蔵と改め、7代の主となる。1872年以来公職公事に就いたが、1872年に法勝寺町肆長を申付けられたのを初めとする。 1886年に紺屋業を廃止し、醤油醸造業を開始する。醤油醸造業を営み、また米子米綿取引所監査役、西伯家畜会社社長、鳥取県会議員・同副議長、米子町会議員、学務委員、米子銀行監査役、米子町名誉助役などをつとめる。
熱海 孫十郎(あずみ / あたみ まごじゅうろう、1848年… 熱海 孫十郎(あずみ / あたみ まごじゅうろう、1848年2月13日(嘉永元年1月12日)- 1924年(大正13年)3月19日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)。貴族院多額納税者議員。 陸奥国栗原郡文字村(栗駒町を経て現:栗原市)に千葉忠蔵の子として生まれる。のち、一迫の熱海多藏の養子になる。1879年宮城県会が発足するとその議員になる。その後、栗原、志田、玉造の各郡長となり、1890年の第1回衆議院議員総選挙に宮城県第4区(当時)から立候補して当選した。1892年の第2回衆議院議員総選挙で落選。1897年9月29日に貴族院議員に就任し、1900年8月29日まで在職した。 この他七十七銀行頭取や宮城県農会副会長なども歴任した。
臼井 儀兵衛(うすい ぎへえ、1848年1月25日(弘化4年… 臼井 儀兵衛(うすい ぎへえ、1848年1月25日(弘化4年12月20日)- 1904年(明治37年)11月9日)は明治時代の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。幼名・嘉吉。 相模国三浦郡西浦賀村(浦賀村、浦賀町を経て現横須賀市)で生まれ、同村の米穀商先代臼井儀兵衛の養子となる。養父の死後、17歳で家督を相続した。22歳の時、同村紺屋町に大黒屋を開業し食塩を商い、巨万の富を得た。1879年(明治12年)浦賀町会議員に当選。ほか、浦賀船渠監査役、浦賀銀行頭取、神奈川県農工銀行設立委員などを歴任した。 1899年(明治32年)神奈川県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年5月8日から翌年の9月5日まで在任した。
坂本 則美(さかもと のりみ、または のりよし、1848年1… 坂本 則美(さかもと のりみ、または のりよし、1848年1月2日(弘化4年11月26日) - 1913年9月15日)は、明治時代の日本の実業家、政治家。土佐藩出身。貧困児童救育事業で明治初頭に活躍し、高知県会議員を務めた。その後、琵琶湖疏水建設事業に携わり、さらに衆議院議員を務めた。さらにその後、実業界に転身し、総武鉄道社長、夕張炭鉱社長などを務めた。 1848年1月2日(弘化4年11月26日)、高知県土佐郡一宮村(現在の高知市)に生まれる。高知藩士坂本覚次郎の三男。明治7、8年ごろから貧児救育事業を始め、貧児救育事業団体の詵々社の社長となり、高知慈善協会の設立にも関わった。1879年に高知県会議員に当選し、議会副議長などに選ばれ、1882年まで議員を務めた。
天春 文衛(あまがす ぶんえい、1847年12月16日(弘化… 天春 文衛(あまがす ぶんえい、1847年12月16日(弘化4年11月9日) - 1927年(昭和2年)8月24日)は、日本の政治家、実業家。帝国議会において、衆議院議員(政友本党所属)や貴族院多額納税者議員を務めた。朝明郡の大地主・天春家の当主。伊勢国三重郡保々村出身(現在の三重県四日市市保々地区出身)。 明治時代から大正時代にかけての政治家で、農事改良や地価改良運動に取り組んだ。 天春文衛は、朝明郡中野村の名門地主の天春家の跡継ぎとして弘化年間に誕生した。朝明郡の中野村は以下の変遷の地方自治体となる。 東京に上京して、島田元林の塾に入塾して学業を積み政治家となった。三重郡保々村の大地主であった。
渋沢 市郎(しぶさわ いちろう、弘化4年10月15日〈184… 渋沢 市郎(しぶさわ いちろう、弘化4年10月15日〈1847年11月22日〉 - 1917年〈大正6年〉1月19日)は、日本の政治家、実業家、養蚕家、篤農家。深谷銀行取締役。族籍は埼玉県平民。幼名は須永才三郎。子爵・渋沢栄一の妹婿で従弟。 幕領上野国新田郡成塚村(後・群馬県新田郡強戸村、現・太田市)に生まれた。須永惣次郎の二男。母は渋沢宗助(2代目)の娘で渋沢市郎右衛門(先代の市郎)の妹。兄は須永伝蔵。渋沢栄一が東京に移り、別に一家を創立したため、その妹婿となり渋沢市郎右衛門家(中ノ家)を承継した。1892年、選ばれて八基村会議員となり1899年、名誉村長に推薦された。1905年、職を辞し県会議員に当選した。
法橋 善作(ほっきょう ぜんさく、1847年11月12日〈弘… 法橋 善作(ほっきょう ぜんさく、1847年11月12日〈弘化4年9月28日〉 - 1923年〈大正12年〉2月19日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(鳥取県郡部選出、当選1回)。大阪商業会議所副会頭。族籍は大阪府平民。 鳥取県日野郡阿毘縁村(現日南町)に生まれる。法橋助作の二男。漢学を学ぶ。明治初年郷里を出て、大阪に来る。後に東京に遊ぶ。この間翻訳書を読んで略世界の事情に通じ、官民の間に多くの交友を有する。 1882年頃洋銀相場に手を出して一敗地に塗れ、ほとんど起つことができなくなる。しかしようやくにして失敗を挽回し1887年頃より、小泉清左衛門、森作太郎、播本孝良等と共に公共事業に奔走する。
小渕 志ち(おぶち しち、1847年11月9日(弘化4年10… 小渕 志ち(おぶち しち、1847年11月9日(弘化4年10月2日) - 1929年(昭和4年)3月16日)は、上野国勢多郡石井村(現・群馬県前橋市)出身の女性実業家(製糸家)。愛知県東三河地方の玉糸製糸業の先覚者とされ、特に豊橋市では「玉糸製糸の祖」として顕彰されている。 座操器による玉糸の操糸法を確立させ、玉繭という屑繭から高品質の生糸を繰ることに成功した。1885年(明治18年)に渥美郡二川町に製糸工場(後の糸徳製糸)を建設した。糸徳製糸の経営の傍ら、東三河地方で同業組合の結成を促進するなど、製糸業の発展に大きな功績をあげた。 弘化4年(1847年)10月2日、上野国勢多郡石井村(現・群馬県前橋市富士見町石井芝110番地)に生まれた。
荘田 平五郎(しょうだ へいごろう、1847年11月8日(弘… 荘田 平五郎(しょうだ へいごろう、1847年11月8日(弘化4年10月1日) - 1922年(大正11年)4月30日)は、豊後国臼杵藩出身の明治・大正期の三菱財閥の実業家・教育者。 長崎造船所第2代所長、三菱造船所支配人等を経て、三菱合資会社理事長、日本郵船社長、会長、東京海上火災保険会社会長等三菱の要職を歴任して大番頭といわれた。海員掖済会や日本勧業銀行、満鉄等の創立にも携わり、三菱商業学校(明治義塾)校長、三菱工業予備学校所長として三菱社員の教育にあたった。勲四等旭日小綬章、賜・銀杯一組。 弘化4年(1847年)、豊後国臼杵(現・大分県臼杵市)に、百石の世禄を食む臼杵藩士の儒者・荘田雅太郎允命の長男として生まれる。
古川 黄一(黃一、ふるかわ きいち、1847年8月21日(弘… 古川 黄一(黃一、ふるかわ きいち、1847年8月21日(弘化4年7月11日)- 1914年(大正3年)11月3日)は、幕末の平戸藩士、明治期の実業家・政治家。衆議院議員。 肥前国松浦郡平戸村(長崎県北松浦郡平戸村、平戸町を経て現平戸市)で、平戸藩士・吉川右衛門兵衛の長男として生まれる。藩儒の平田貞次郎、楠本瑞山らから漢学を学んだ。慶応2年(1866年)藩校維新館学員に就任。王政復古の際には藩主松浦詮に従って京都に滞在し、明治2年(1869年)藩主の近侍職となった。 廃藩置県後は実業界に転じた。1885年(明治18年)平戸士族授産生産社副社長に就任し、その後同社長に就任。1887年(明治20年)第九十九銀行(現十八親和銀行)取締役頭取に就任し、1902年(明治35年)7月、同頭取を退任。
10代 佐藤 助九郎(さとう すけくろう、1847年7月29… 10代 佐藤 助九郎(さとう すけくろう、1847年7月29日(弘化4年6月18日)- 1904年(明治37年)10月20日)は、日本の実業家・慈善家。総合建設会社(ゼネコン)の佐藤工業株式会社創業者。富山県砺波郡柳瀬(現砺波市)生まれ。多くの橋の架設に私費を投じ、又、本願寺富山別院が焼失した際、2ヵ月後に「蓮如上人400回忌法要」という大行事を控えていた本願寺の為に結果的に無償で昼夜突貫で再建した。 1500年代の佐藤家の祖佐藤助左衛門から数えて9代目佐藤助九郎の子で、名は10代目貞次であるが、佐藤工業の創業者、初代助九郎と称している。 貞次は近郷に並ぶ者のない豪力と胆力の優れた父の資質を受け継ぎ、相撲・盤持ちなどを得意とし“力持ち貞次”といわれた。
知花 朝章 (ちばな ちょうしょう、1847年7月9日(尚育… 知花 朝章 (ちばな ちょうしょう、1847年7月9日(尚育13年5月27日) - 1929年(昭和4年)5月18日)は、琉球王国時代から大正にかけての沖縄県の唐手家、実業家、政治家。 琉球藩時代は砂糖奉行等を務め、廃藩後は尚家経営の沖縄広運(株)社長。1908年には初の民選首里区長に選ばれた。 唐手は松村宗棍に師事した。 1847年、首里当蔵町(しゅりとうのくら)に生まれる。知花家は尚質王の第五王子、東風平王子朝春(こちんだあんじちょうしゅん)を始祖とする勝連御殿(かちれんうどぅん)から分家した首里士族であり、琉球王国時代は知花殿内(ちばなどぅんち)と呼ばれた名家であった。小林流開祖の知花朝信は甥に当たる。
岡村 新三郎(おかむら しんさぶろう / しんざぶろう、18… 岡村 新三郎(おかむら しんさぶろう / しんざぶろう、1847年5月31日(弘化4年4月17日)- 1921年(大正10年)1月4日)は、日本の農業経営者、政治家。衆議院議員、埼玉県大里郡熊谷町長、同北埼玉郡下忍村長。 武蔵国埼玉郡樋上村(のちの埼玉県北埼玉郡下忍村大字樋上、現:行田市)で生まれる。忍藩士から漢学を学んだ。農業を営む。 明治3年(1870年)、樋上村名主役となる。副戸長、戸長、長野村連合戸長、下忍村会議員などを務め、1890年、初代熊谷町長に就任。その後、埼玉県会議員、北埼玉郡会議員、同議長を歴任。 1902年8月、第7回衆議院議員総選挙で埼玉県選挙区から立憲政友会所属で出馬して当選。
杉浦 銀蔵(すぎうら ぎんぞう、弘化4年4月17日〈1847… 杉浦 銀蔵(すぎうら ぎんぞう、弘化4年4月17日〈1847年5月31日〉 - 1899年〈明治32年〉10月2日)は、明治時代における愛知県岡崎市の実業家。同地の電力会社岡崎電灯の創業者の1人であり、電源開発の功により岡崎市の名誉市民に選ばれている。「杉浦銀蔵」の名は養父の名を襲名したもの(2代目杉浦銀蔵)で、前名は仙吉。 本項では、2代目銀蔵の死後に岡崎電灯の経営を引き継いだ3代目杉浦銀蔵(文久2年3月18日〈1862年4月16日〉 - 1941年?)についても記述する。 2代目杉浦銀蔵、幼名仙吉は、弘化4年(1847年)に三河国幡豆郡西尾順海町(現・西尾市順海町)に生まれた。11歳のとき地元西尾の古着商「河内屋」で働き始める。
清水 静十郎(しみず せいじゅうろう、1847年4月29日(… 清水 静十郎(しみず せいじゅうろう、1847年4月29日(弘化4年3月15日)‐ 1915年(大正4年)3月27日) は、明治から大正期の実業家・政治家。衆議院議員。 伊予国宇和郡日土村(愛媛県西宇和郡日土村を経て現八幡浜市日土町) で清水庄一の長男として生れ、同郡卯之町(東宇和郡宇和町を経て現西予市宇和町卯之町)の庄屋・清水谷男の養子となった。漢学を修めた。1913年(大正2年)2月に分家した。 戸長、副区長などを歴任。1877年(明治10年)6月の特設愛媛県会は、議員資格が戸主に限定されていたが、選挙人10分の8以上の推薦と区内戸長11名の連名申請によって特例で県会議員に選ばれた。以後、1886年(明治19年)3月から1889年(明治22年)1月までと1892年(明治25年)3月から1896年(明治29年)3月までの2期県会議員に在任し、この間、立憲改進党、進歩党に所属した。
千葉 禎太郎(ちば ていたろう、1847年4月3日(弘化4年… 千葉 禎太郎(ちば ていたろう、1847年4月3日(弘化4年2月18日)- 1931年(昭和6年)4月21日)は、幕末・明治から昭和時代前期の大地主、政治家、実業家、銀行家。衆議院議員(7期)。 上総国市原郡今富村(千葉県海上村、三和町を経て現市原市)出身。千葉氏の末裔。漢学を修める。1868年(明治元年)里正に就任。1875年(明治8年)千葉県代議人となり、村会議員、郡会議員、郵便局長、小学校長を歴任する。この間、戸長も務めた。1879年(明治12年)県制発布とともに千葉県会議員に当選し、市原倶楽部を設立した。ほか、大日本農会、大日本水産会連合品評会各評議員および協賛会長、千葉県教育会評議員、神国生命保険社長、興業貯蓄銀行、成田鉄道各監査役、千葉県農工銀行頭取、東京米穀取引所理事および監査役などを歴任した。
5代 大針 徳兵衛(德兵衞、おおばり とくべえ、1847年3… 5代 大針 徳兵衛(德兵衞、おおばり とくべえ、1847年3月17日(弘化4年2月1日)- 1908年(明治41年)8月11日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員、福井県坂井郡雄島村長。幼名・長之助。 越前国坂井郡安島浦(福井県坂井郡安島浦、雄島村安島、三国町安島を経て現坂井市三国町安島)で、回漕業・4代大針徳兵衛の長男として生まれた。明治のはじめに5代徳兵衛を襲名した。回漕業を営む。 里正、組合総代、敦賀県第53大区小2区戸長、第14大区23小区戸長、浦役人、学務委員、所得税調査委員などを務めた。1889年(明治22年)5月、雄島村会議員となり、1890年(明治23年)2月、雄島村長に就任し、安島道の改修に尽力した。
西村 甚右衛門(甚右衞門、にしむら じんうえもん、1847年… 西村 甚右衛門(甚右衞門、にしむら じんうえもん、1847年2月24日(弘化4年1月10日)- 1926年(大正15年)10月24日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。 下総国海上郡成田村(千葉県海上郡成田村、旭町を経て現旭市)で、呉服商、醤油醸造業「成田屋」当主・西村醇治の二男として生まれた。鹿島の儒学者・吉川松浦に師事し漢学を修め、塾頭を務めた。 1879年(明治12年)3月、第1回千葉県会議員選挙で当選し、当時の議員半数改選の制度により再選されたが、日本の府県会は有名無実で自らの意思を貫徹することはできないとして、再任を辞退し1880年(明治13年)8月に議員を退任した。 その後、1881年(明治14年)同志と東京醤油会社を設立し、醤油の共同販売と品質向上を図り、また、1883年(明治16年)アムステルダムで開催された植民地博覧会(en:International Colonial and Export Exhibition)に出品するなど、醤油の海外への販路を開拓した。
伊庭 貞剛(いば ていごう、1847年2月19日(弘化4年1… 伊庭 貞剛(いば ていごう、1847年2月19日(弘化4年1月5日) - 1926年(大正15年)10月22日)は、近江国出身の明治時代の実業家、第2代住友総理事である。 「別子銅山中興の祖」と言われ、「東の足尾、西の別子」と言われた、住友新居浜精錬所の煙害問題の解決にあたった。植林など環境復元にも心血を注ぎ、企業の社会的責任の先駆者とも言われている。 近江源氏佐々木氏支流伊庭氏の一族である。 1847年(弘化4年)、近江国蒲生郡西宿村(現・滋賀県近江八幡市)に伯太藩代官伊庭正人の長男として、母、北脇田鶴子の実家で生まれ、7歳まで母方の実家で育つ。幼名は耕之助。 八幡町の児島一郎に剣道を、西川吉輔に国学を学んだ。
2代 馬場 道久(ばば みちひさ/どうきゅう、1847年1月… 2代 馬場 道久(ばば みちひさ/どうきゅう、1847年1月8日(弘化3年11月22日) - 1916年(大正5年)5月20日)は、明治から大正時代前期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。幼名は吉次郎。 北前船主馬場九兵衛の二男として越中国新川郡東岩瀬村(富山県上新川郡東岩瀬村、東岩瀬町を経て現富山市)に生まれる。長男大次郎の病死により7代九兵衛(初代道久)の跡を継いだ。1881年(明治14年)北陸通船会社創設に資金援助し、北陸における小蒸気船、貨物蒸気船の導入を進めた。1885年(明治18年)上野から直江津間の鉄道が開通すると翌年、伏木の二上兵吉とともに直江津までの小蒸気船業の経営に当たる。
福澤 英之助(ふくざわ えいのすけ、新字体:福沢 英之助、1… 福澤 英之助(ふくざわ えいのすけ、新字体:福沢 英之助、1847年 - 1900年)は、日本の教育者、実業家。中津藩士で、旧名は和田慎二郎(慎次郎)。江戸幕府によるイギリス留学(慶応二年幕府イギリス留学生)の際に福澤諭吉により福澤姓に改められて名を英之助とし、諭吉の実弟ではないが対外的に弟となった。東京・築地に童蒙学舎を設けたほか、横浜で貿易商を営んだ。 豊前国中津藩(現在の大分県中津市)出身。旧名は和田慎二郎(慎次郎)で、兄の和田克太郎と2人兄弟。 1863年(文久3年)初夏に慶應義塾(鉄砲洲時代)に入塾。また、文久2年4月から慶應2年10月まで福澤諭吉に従い、地理書究理書などを研究したとある。
新田 甚左衛門(甚左衞門、にった じんざえもん、1847年(… 新田 甚左衛門(甚左衞門、にった じんざえもん、1847年(弘化4年3月)- 1908年(明治41年)10月12日)は、明治期の篤農家、実業家、政治家。衆議院議員。北陸の繊維産業の振興に大きな貢献をした。 加賀国能美郡浜開発村(石川県能美郡江ノ島村、根上村字浜開発、根上町を経て現能美市浜開発町)で、代々農業の家に生まれた。 1877年(明治10年)長野県、群馬県から良質の桑苗を導入して桑園の改良を試みた。1879年(明治12年)から1881年(明治14年)にかけて私費で長野県から養蚕教師を招聘し、自宅を会場として近隣の農家に技術習得の機会を提供した。1884年(明治17年)5月、北陸繭改良本部小松出張所管内第11区総組長に就任。
杉本 重遠(すぎもと しげとお、弘化3年11月14日〈184… 杉本 重遠(すぎもと しげとお、弘化3年11月14日〈1846年12月31日〉 - 1921年〈大正10年〉2月24日)は、幕末の館林藩士、明治期の内務官僚・実業家。大分県知事。従四位勲四等。幼名、太郎吉。 弘化3年(1846年)、江戸浜町の館林藩中屋敷に生まれる。父は杉本重好。3歳の時に父とともに館林へ移った。館林藩主・秋元志朝が創設した藩校・求道館(のち造士書院)に学び、表小姓として出仕した。また藩外交官補助、国事外交係を務める。 明治維新後は鎮将府に召し出された。明治2年(1869年)館林藩権少参事となり、権少検事、大警部などを歴任する。1884年(明治17年)には欧米を歴訪。徳島県書記官、警視庁警務局長、新潟県書記官などを歴任する。
山本 貴三郎(やまもと きさぶろう、1846年12月20日(… 山本 貴三郎(やまもと きさぶろう、1846年12月20日(弘化3年11月3日)- 1899年(明治32年)12月22日)は、幕末の佐賀藩士、明治期の実業家・政治家。衆議院議員。 肥前国高来郡、のちの長崎県北高来郡諫早町(現諫早市)で生まれた。郷校で学び、その後、熊本に遊学し漢学、武術を修めた。16歳で帰郷し、佐賀藩の選抜生となり長崎の江戸町英学校で学び、さらに何礼之に師事し英学を修めた。 1868年(慶応4年)戊辰戦争が開戦すると、副島種臣らと長崎に赴き、振遠隊として長崎、島原、大村から隊員を募り、その後、秋田に向かい新政府軍に加わった。 その後、官途には就かず天草、肥前松島、平戸などで採炭事業を営む。
5代淡谷 清蔵(あわや せいぞう、1846年11月11日(弘… 5代淡谷 清蔵(あわや せいぞう、1846年11月11日(弘化3年9月23日) - 1923年(大正12年)7月10日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員、青森市長。幼名・清作。 陸奥国津軽郡青森(現青森県青森市)で、淡路島を祖とする呉服商「大世」の家に生まれる。成人となり家業に従事し、安方町組頭となる。1889年(明治22年)5月22日に清蔵と改名した。同年、青森町会議員に当選した。1891年(明治24年)、銀行に類似した「盛融会」(ため講)を創立。1892年(明治25年)にも町会議員に当選したが、1895年(明治28年)4月に辞職した。その後、商業会議所会頭、農工銀行取締役、青森電燈会社取締役、青森倉庫会社社長、青森貯蓄銀行専務取締役、青森銀行頭取、第五十九銀行取締役などを務めた。
田宮 勇(たみや いさむ、1846年11月5日(弘化3年9月… 田宮 勇(たみや いさむ、1846年11月5日(弘化3年9月17日)- 1895年(明治28年)11月13日)は、明治期の農業経営者・政治家。衆議院議員。幼名・千太郎。号・松雨。 山城国綴喜郡上村(京都府綴喜郡普賢寺村大字上小字小田垣内、田辺町大字普賢寺を経て現京田辺市普賢寺)で、南山郷士、組頭、農業・田宮喜平次の長男として生まれる。相楽郡木津町の沢井石芸に師事し漢学を修めた。 1872年(明治5年9月)大区小区制の設置に伴い副区長に就任し1874年(明治7年)まで在任。1876年(明治9年)6月、西川義延の後任として地租改正事件郡総代人となり、事業終了の1877年(明治10年)7月まで務めた。
雨宮 敬次郎(あめのみや けいじろう、あめみや けいじろう、… 雨宮 敬次郎(あめのみや けいじろう、あめみや けいじろう、弘化3年9月5日〈1846年10月24日〉 - 1911年〈明治44年〉1月20日)は日本の実業家・投資家。「天下の雨敬」「投機界の魔王」「明治の鉄道王」などの異名をとった。 結束して商売にあたった甲州商人、いわゆる「甲州財閥」と呼ばれる集団の一人であり、「政治の伊藤博文、金の安田善次郎」とともに「事業の雨宮敬次郎」とまで謳われた。最も知られる功績として、現在の長野県軽井沢町の基礎となる植林事業や、日本製粉の設立、東京市街鉄道や大日本軌道といった鉄道分野での事業などがある。 甲斐国山梨郡牛奥村(現・山梨県甲州市塩山牛奥)に名主・雨宮總右衛門の三男として生まれる。
池松 豊記(豐記、いけまつ とよき、1846年7月23日(弘… 池松 豊記(豐記、いけまつ とよき、1846年7月23日(弘化3年6月1日)- 1921年(大正10年)9月13日)は、明治期のジャーナリスト、農業経営者、政治家。衆議院議員、熊本県球磨郡上村長。 肥後国玉名郡上小田村(熊本県玉名郡上小田村、小田村を経て現玉名市上小田)で、医師・池松玄操の二男として生まれた。 明治の初めころに東京に出て自由民権運動に加わる。1875年(明治8年)評論新聞が創刊され、記者となる。西南戦争後に帰郷し、民権活動家に呼びかけ1878年(明治11年)5月、民権結社・相愛社を組織し社長に就任。1881年(明治14年)7月、その機関紙「東肥新報」発刊して民権思想を広めた。1882年(明治15年)2月、相愛社は実学党と公議政党を形成し、その後、九州改進党となった。
佐藤 清右衛門(さとう せいえもん、1846年6月7日(弘化… 佐藤 清右衛門(さとう せいえもん、1846年6月7日(弘化3年5月14日)- 1929年(昭和4年)2月5日)は、明治から昭和時代初期の政治家、実業家。徳清の9代目、貴族院多額納税者議員。幼名は種次郎。 盛岡出身。佐藤徳次郎の長男として生まれる。幼少期に小野組の銭店で丁稚奉公する。1879年(明治12年)10月、祖父清右衛門から家督を相続した。ほか、北上回漕会社、交話会、第九十国立銀行重役などを歴任した。1896年(明治29年)には盛岡銀行の創立に参画し、岩手農工銀行の重役も務めた。 1892年(明治25年)岩手県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年6月29日から1897年(明治30年)9月28日まで在任。
白井 遠平(しらい えんぺい、1846年5月24日(弘化3年… 白井 遠平(しらい えんぺい、1846年5月24日(弘化3年4月29日)- 1927年(昭和2年)10月9日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・佐藤、幼名・常松。 父・佐藤愛之助(幸助)は三春藩領陸奥国田村郡菅谷村(現田村市)の名主を務めていたが、天保の大飢饉の際に藩主の許可を得ずに蔵米の放出を行ったため一家で他国に逃れた。その後、下野国芳賀郡真岡(現栃木県真岡市)の円林寺の寺代官となり、その地で遠平は誕生した。その後一家は水戸藩の西丸帯刀の食客となり、遠平は松霜塾で学問を修めた。1856年(安政3年)陸奥国磐城郡上小川村(福島県石城郡上小川村、小川町を経て現いわき市)の名主、酒造業・白井佐平太の死跡を継いで一家養子となり白井に改名した。
荒木 徳三郎(あらき とくさぶろう、1846年4月18日〈弘… 荒木 徳三郎(あらき とくさぶろう、1846年4月18日〈弘化3年3月23日〉 - 没年不明)は、日本の商人(荒木屋、肥料・綿・米穀商)、海運業、醤油醸造業、鳥取県の大地主、荒木合名会社社員、実業家、政治家。鳥取県西伯郡境町会議員。 鳥取県西伯郡境町(現・境港市)の人で、生家は代々醤油醸造業を営む。 海運業を営み、主に地方の物産を蒐集し、これを北国中国等に輸送し帰港には肥料を積載して年数回往復航行する。危難や損失がなかったため収利は夥しく頓に資財を増殖し声望が大いに起り、地位は益々高まる。 1902年、境製糸社員の荒木久九郎、渡辺広太郎、里見五平は各々その出資額全部を共に社員の荒木徳三郎へ譲渡して退社し、荒木徳三郎はこれを譲り受けてその出資額を金3400円と変更する。
渡辺 兵四郎(渡邉、わたなべ ひょうしろう、1846年4月1… 渡辺 兵四郎(渡邉、わたなべ ひょうしろう、1846年4月16日(弘化3年3月21日) - 1932年(昭和7年)5月11日)は、日本の実業家、漁業家、政治家。衆議院議員、小樽区長。初名・佐助。 出羽国能代港(現秋田県能代市)で渡辺甚四郎の二男として生まれる。12歳まで能代の商家で奉公し、万延元年(1860年)家出して小樽に渡り、山田兵蔵家の店員として勤め、主人からの信頼を得てその一字をもらい受けて兵四郎と改名。1877年に独立し荒物商を営む。 また漁業経営にも乗り出し、ニシン漁網の改良を行い、漁業組合、水産組合を創設して、小樽郡漁業組合頭取、小樽外六郡漁業組合連合会長、小樽水産組合長など務め、北海道水産界の振興に貢献した。
浮田 桂造(うきた けいぞう、1846年3月2日(弘化3年2… 浮田 桂造(うきた けいぞう、1846年3月2日(弘化3年2月5日)- 1927年(昭和2年)9月16日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員、大阪商業会議所会頭。旧姓・梅咲。 大和国十市郡池之内村(奈良県磯城郡安倍村、桜井町を経て現桜井市)で梅咲善六の二男として生まれ、1870年(明治3年9月)五龍円の販売で知られた売薬卸小売業・先代浮田桂造の養子となり、1871年(明治4年)家督を相続し浮田桂造を襲名した。 1873年(明治6年)10月、南大組第6区安堂寺橋通4丁目戸長に就任。南大組第6区3等戸長、第2大区6小区3等戸長、第2大区4小区2等戸長兼5等学区取締、書籍館掛、中学校事務掛、学監などを歴任。
太田 紋助(おおた もんすけ、1846年2月11日(弘化3年… 太田 紋助(おおた もんすけ、1846年2月11日(弘化3年1月16日) - 1892年4月3日)は日本の実業家。北海道厚岸郡厚岸町の開拓に尽力し、屯田兵村、太田村の村名にその名を残した。日本人とアイヌの混血である。 1846年2月11日(弘化3年1月16日)に場所請負人山田文右衛門の番人、中西紋太郎と奔渡村のアイヌの女性であるシャリコトムの間に生まれる。庶子であった上、幼少期に父を失ったことで母親に女手一つで育てられていたが、それを不憫に思った国泰寺の住職、香山聞禅に引き取られて読み書きそろばんや農業を教わり、8年間同寺の寺男として働いている。1867年(慶応3年)には22歳でアイヌの女性、真歌と結婚する。
大滝 龍蔵(大瀧 龍藏、おおたき りゅうぞう、1846年2月… 大滝 龍蔵(大瀧 龍藏、おおたき りゅうぞう、1846年2月5日(弘化3年1月10日)- 1914年(大正3年)1月8日)は、明治期の公吏、実業家、政治家。衆議院議員、初代山形県米沢市長。 出羽国置賜郡米沢屋代町下ノ町(山形県南置賜郡米沢屋代町下ノ町を経て現米沢市)で生まれた。 1873年(明治6年)置賜県学区取締・十三等出仕となる。権少属、小属、権中属を歴任し、1882年(明治15年)置賜県廃止となり失職した。その後、沖縄県三等属に発令され、租税課権勧業課長を務めた。1883(明治16年)に退官。 その後実業界に転じ、米沢元商社副社長、同社長、米沢製糸場社長などを務めた。1889年(明治22年)7月、初代米沢市長に就任し、1899年(明治32年)7月まで2期在任。
草郷 清四郎(そうごう せいしろう、1846年1月28日〈弘… 草郷 清四郎(そうごう せいしろう、1846年1月28日〈弘化3年1月2日〉 - 1924年〈大正13年〉8月9日)は、幕末の武士、明治・大正期の実業家である。 和歌山出身で元は紀州藩士。福澤諭吉の慶應義塾で学び、明治維新後は義塾の塾監や大学東校総幹事など教育に関わっていたが1880年(明治13年)より実業界に転身。主として鉄道会社の経営に関わり小田原電気鉄道(小田急箱根の前身)を長く務めた。 草郷清四郎は、弘化3年1月2日(新暦:1846年1月28日)、草郷久次郎の三男として生まれた。出身地は紀伊国和歌山城下の岡領町(現・和歌山県和歌山市)で、父は紀州藩士であった。13歳で父が死去すると遠縁にあたる勢州奉行三木家に寄居し文武を修める。
花島 兵右衛門(はなじま ひょうえもん、1846年〈弘化3年… 花島 兵右衛門(はなじま ひょうえもん、1846年〈弘化3年〉- 1929年〈昭和4年〉)は日本の実業家。静岡県三島市(旧田方郡三島町)出身。日本で初めて練乳(煉乳、コンデンスミルク)の量産化に成功し「金鵄ミルク(きんしミルク)」として販売。このほか、女子教育の推進や三島銀行の設立、伊豆箱根鉄道の前身である豆相鉄道の創設に参加するなど、駿東地域の経済発展に貢献した。 幕末の1846年(弘化3年)に、現在の三島市中央町三丁目にあたる田方郡三島町竹林寺小路(ちくりんじこうじ)地区に生まれる。家業は造り酒屋だったが、ジェームス・ハミルトン・バラに出会い1886年(明治19年)にキリスト教(プロテスタント)に入信して酒屋を廃業。
中山 平八郎(なかやま へいはちろう、1845年12月13日… 中山 平八郎(なかやま へいはちろう、1845年12月13日(弘化2年11月15日)- 1930年(昭和5年)10月2日)は、明治から昭和初期の農業経営者、政治家。衆議院議員、奈良県会議長。旧姓・飯田、幼名・格太郎。 大和国山辺郡長柄村(奈良県〔第一次〕山辺郡長柄村、堺県山辺郡長柄村、大阪府山辺郡長柄村、奈良県山辺郡長柄村、朝和村を経て現天理市長柄町)で、飯田嘉市の三男として生まれ、1872年(明治5年)同郡田村(山辺村、丹波市町を経て現:天理市)の中山平四郎の養嗣子となる。国学、漢学を修めた。農業を営む。 1881年(明治14年)大阪府会議員に当選。奈良県再設置運動に参加、1887年(明治20年)に奈良県が再設置され奈良県会議員となり、1894年(明治27年)まで在任し、同議長も務めた。
松尾 徳三郎(まつお とくさぶろう、1845年12月5日(弘… 松尾 徳三郎(まつお とくさぶろう、1845年12月5日(弘化2年11月7日)- 1915年(大正4年)5月31日)は、明治期の実業家、政治家、衆議院議員(1期)。 大和国宇陀郡松山町(のち奈良県宇陀郡松山町、大宇陀町を経て現宇陀市)で松尾四良三郎の長男として生まれた。1885年(明治18年)4月、家督を相続。学区取締、奈良県会議員、大阪府会議員、同常置委員、勧業諮問会委員、町村会議員、連合町村会議員となる。大和銀行頭取、奈良県農工銀行取締役も務めた。 1894年9月の第4回衆議院議員総選挙において奈良2区から大手倶楽部所属で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1898年3月の第5回衆議院議員総選挙は不出馬。
大坂 金助(おおさか きんすけ、1845年11月26日〈弘化… 大坂 金助(おおさか きんすけ、1845年11月26日〈弘化2年10月27日〉 - 1925年〈大正14年〉3月12日)は、日本の政治家(貴族院議員、衆議院議員、青森市会議員)、青森県の大地主、醸造家、青森県多額納税者、資産家、実業家。青森商業会議所会頭。族籍は青森県平民。 陸奥国津軽郡蜆貝村(現・青森県青森市)出身。大坂彌吉の長男。漢学を修めた。幼くして両親と死別して孤児となった。一時ヤクザの世界に身を置いた。塩町に貸座敷・大金楼を開業した。のち酒造業、質屋を開いた。清酒醸造兼金銭貸付業を営んだ。 青森商業銀行、青湾貯蓄銀行、青森電燈会社、青森瓦斯会社などを設立した。青森商業銀行、青湾貯蓄銀行各頭取、青森電燈、青森倉庫、青森瓦斯各社長、青湾貯蓄銀行、歌舞伎座各取締役などをつとめた。
井上 省三(いのうえ せいぞう、弘化2年10月15日〈184… 井上 省三(いのうえ せいぞう、弘化2年10月15日〈1845年11月14日〉 - 1886年〈明治19年〉12月14日)は、日本の実業家、技術者。明治時代初期の官吏。「日本の毛織物工業の父」と呼ばれた。 1845年11月14日(弘化2年10月15日)に厚狭郡宇津井村(現下関市)の庄屋である伯野家に次男として生まれ、同郡厚狭村(現山陽小野田市)の厚狭毛利家の家臣である井上家の養子となる。山口兵学校で蘭学を学び、奇兵隊隊長として倒幕に参加、1869年(明治2年)に木戸孝允と出会う。翌年に上京し、半年後に北白川宮能久親王に随行しドイツのベルリンへ留学。 当初は兵学を目的としていたが、殖産興業に変更し織物工場にて製絨技術を学ぶ。
田辺 有栄(たなべ ゆうえい、1845年11月6日(弘化2年… 田辺 有栄(たなべ ゆうえい、1845年11月6日(弘化2年10月7日) - 1911年(明治44年)9月14日)は、日本の政治家、実業家。 甲斐国山梨郡下於曽村(現・山梨県甲州市塩山下於曽)に生まれる。幼名は栄次郎。田辺家は御三卿領である田安家領で郡中総代を務める家柄で、当主・田辺周右衛門の長男。『東山梨郡誌』による略歴によれば、田辺は甲府の徽典館で学んだという。幼くして村内抗争で両親を失い一時は駿河国の幕臣河辺家に移る。1870年(明治3年)、明治維新後に帰郷し、下於曽村の名主となる。 明治維新を経た山梨県では、1872年(明治5年)に県庁が甲斐独自の税制であった大小切税法廃止を断行し、国中三郡の百姓を中心に反対運動が激化し、大小切騒動が起こる。
宮本 谷蔵(みやもと たにぞう、1845年10月15日(弘化… 宮本 谷蔵(みやもと たにぞう、1845年10月15日(弘化2年9月15日)- 1932年(昭和7年)3月20日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 阿波国勝浦郡中郷村(現徳島県小松島市中郷町)で、素封家・宮本本右衛門の長男として生まれ、その後、家督を相続した。 1897年7月3日、徳島市前川町に徳島県初の紡績工場を経営する阿波紡績株式会社が設立され、宮本が初代社長に就任した。次の社長に板東倹吉が就任したが、赤字経営のため再び宮本が社長に就任して整理に当り、会社は堺紡績に合併した。 1904年6月10日に執行された、徳島県下15名の互選による貴族院多額納税者議員選挙で当選し、同年9月29日に就任し、1911年9月28日まで1期在任した。