水野 吉太郎(みずの きちたろう、1874年(明治7年)12… 水野 吉太郎(みずの きちたろう、1874年(明治7年)12月18日 - 1947年(昭和22年)2月14日)は日本の政治家、弁護士。衆議院議員、高知弁護士会長。族籍は高知県平民。 1874年(明治7年)12月、高知県香美郡富家村に生まれる。水野源兵衛の長男。1899年(明治32年)に和仏法律学校法律科(現・法政大学)を卒業し、判事検事登用試験及び弁護士試験に合格する。 1900年(明治33年)に高知県で弁護士を開業するも、北海道に移住する。しかし、北海道での新聞事業の失敗、材木商との争いなどで、大連に渡る。 その後、高知県に帰郷し、1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選する(政友会)。
小島 源三郎(こじま げんざぶろう、1874年〈明治7年〉1… 小島 源三郎(こじま げんざぶろう、1874年〈明治7年〉11月15日 - 1934年〈昭和9年〉5月19日)は、日本の内務官僚、弁護士。官選秋田県知事、静岡市長。 群馬県勢多郡駒形町(現・前橋市)出身。小島彦右衛門の二男として生まれる。群馬県尋常中学校、私立日本中学校を経て、第一高等学校を卒業。1911年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(仏法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し総務局属となる。 以後、広島県参事官、内務省参事官、関東州民政署事務官・旅順支署長、関東都督府民政署長、長崎県事務官・第四部長、静岡県事務官・内務部長などを経て、1913年6月、兵庫県内務部長となる。
志賀 和多利(しが わたり、1874年(明治7年)10月7日… 志賀 和多利(しが わたり、1874年(明治7年)10月7日 - 1945年(昭和20年)6月14日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 岩手県胆沢郡西根村(現在の金ケ崎町)出身。日本法律学校(現在の日本大学)を卒業し、1901年(明治34年)に高等文官試験と判検事登用試験に合格し、盛岡地方裁判所に司法官試補・検事代理として勤務した。しかし間もなく退官して弁護士を開業した。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、7回の当選を重ねた。その間、田中義一内閣で鉄道参与官を、齋藤内閣で逓信政務次官を務めた。 1942年(昭和17年)の翼賛選挙では非推薦で立候補したが落選した。
斎藤 賞資(さいとう しょうすけ、1874年(明治7年)9月… 斎藤 賞資(さいとう しょうすけ、1874年(明治7年)9月28日 - 没年不明)は、日本の弁護士、日本興業銀行副支配役。族籍は島根県平民。 島根県美濃郡二条村大字桂平(現・益田市)出身。斎藤真佐加の三男。1899年、第二高等学校第一部法科を卒業。1908年、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。司法官試補を拝命し、横浜地方裁判所に勤務したが間もなく官を辞し、東京で弁護士並びに特許弁理士の事務に従事する。 後に不動貯金銀行に入り、貸付課長、名古屋・日本橋各支店支配人、本店検査課長等をつとめた。後に日本興業銀行に入り、同行副支配役に挙げられる。住所は東京市本郷区菊坂町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
青木 徹二(あおき てつじ、1874年(明治7年)9月9日 … 青木 徹二(あおき てつじ、1874年(明治7年)9月9日 - 1930年(昭和5年)10月12日)は、明治期の検察官、弁護士、法学者。 岐阜県生まれ。岐阜中学校を中退し、1891年(明治24年)慶應義塾に入学。1897年(明治30年)に慶應義塾大学部法律科を卒業後時事新報社に勤める。翌年判検事試験に合格し、神戸区裁判所検事代理となるも1899年(明治32年)これを辞任し、再び時事新報社に入った。その後、慶應義塾の大学部教員養成のためドイツに派遣され、ベルリン大学などで学ぶ。1902年(明治35年)7月帰国後、大学部法律科で商法を講じた。1910年(明治43年)法学博士となる。1920年(大正9年)、雑誌『東方時論』に「続世相審かし論」を投稿し、不敬罪の廃止を唱えたため、新聞紙法違反で禁固4ヶ月の判決を受ける。
池田 敬八(いけだ けいはち、旧姓・赤坂、1874年(明治7… 池田 敬八(いけだ けいはち、旧姓・赤坂、1874年(明治7年)7月3日 - 1963年(昭和38年)3月23日)は、日本の政治家・衆議院議員(立憲民政党)、大蔵官僚、弁護士。カナモジ会理事。 三重県度会郡宇治山田町(宇治山田市を経て現在の伊勢市)出身。三重平民・赤坂敬二の三男、あるいは六男として生まれ、池田房明の養子となった。 1901年(明治34年)、東京帝国大学法科大学仏法科を卒業し、翌年に高等文官試験に合格した。大蔵省専売局事務官、専売局参事、専売局長官官房監理課長などを経て、1917年(大正6年)からは印刷局長を務めた。 1928年(昭和3年)、退官。三重県第二区より第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
大島 実太郎(おおしま じつたろう、1874年6月28日 -… 大島 実太郎(おおしま じつたろう、1874年6月28日 - 1924年9月3日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(1期)。 大阪府出身。1895年、東京高等蚕糸学校(現・東京農工大学)、1901年、東京法学院(現・中央大学)卒。京都府蚕糸同業組合立高等養蚕伝習所(現・京都府立綾部高等学校)教師を経て、弁護士の業務に携わる。花屋敷土地、四国生糸、大阪証券交換所各(株)取締役となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において京都6区から立憲政友会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1924年の第15回衆議院議員総選挙で落選した。落選から間もなく死去した。
板野 友造(いたの ともぞう、1874年(明治7年)5月18… 板野 友造(いたの ともぞう、1874年(明治7年)5月18日 - 1945年(昭和20年)12月12日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員。 岡山県吉備郡足守町(現在の岡山市北区)で生まれる。関西法律学校(現在の関西大学)を卒業後、明治法律学校(現在の明治大学)に学び、1901年に卒業した。同年、判検事試験に合格し、司法官試補として高松区裁判所に赴任するが、半年で辞した。1902年(明治35年)より大阪市で弁護士を開業。 1913年(大正2年)、大阪市会議員に選出され、副議長を務めた。1920年(大正9年)1月、衆議院に補欠当選。以後、当選回数は合計5回を数えた。当初は立憲国民党所属であったが、立憲国民党解党後は革新倶楽部を経て立憲政友会に参加した。
岩崎 幸治郎(いわさき こうじろう、1874年(明治7年)4… 岩崎 幸治郎(いわさき こうじろう、1874年(明治7年)4月6日 - 1946年(昭和21年)1月9日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 大阪府河内郡、のちの中河内郡英田村(河内市を経て現東大阪市)に岩崎九郎平の四男として生まれる。1898年(明治31年)、弁護士試験に合格。1900年(明治33年)よりドイツに留学して、1904年(明治37年)にライプツィヒ大学を卒業し、法学博士の称号を得た。帰国後、弁護士のほか、関西大学講師も務めた。1908年(明治41年)に横浜地方裁判所判事に任命され、東京控訴院判事を経て、1911年(明治44年)には元田肇拓殖局総裁の秘書官に就任したが、翌年に官を辞した。
安村 竹松(やすむら たけまつ、1873年(明治6年)10月… 安村 竹松(やすむら たけまつ、1873年(明治6年)10月16日 - 1946年(昭和21年)12月2日)は、日本の政治家、弁護士。 1873年(明治6年)10月、和歌山県日高郡南部町(現在のみなべ町)にて出生。 1901年(明治34年)、明治法律学校卒業。第9回文官高等試験に合格し、司法省に入省。司法官試補に任ぜられる。 1903年(明治36年)、司法省を退職し、東京で弁護士を開業。大逆事件の弁護人などを務めた。 1910年(明治43年)、横浜市に移り、1912年(明治45年)5月に神奈川県郡部から第11回衆議院議員総選挙に当選。立憲政友会所属の衆議院議員として活動した。 横浜弁護士会常議員議長、同会長を歴任した。
加瀬 禧逸(かせ きいつ、1873年(明治6年)9月25日 … 加瀬 禧逸(かせ きいつ、1873年(明治6年)9月25日 - 1928年(昭和3年)5月4日)は、日本の衆議院議員(政交倶楽部→猶興会→又新会→亦楽会→中正会)、弁護士。 千葉県海上郡旭町(現在の旭市)出身。1894年(明治27年)、東京法学院(のち中央大学に改称)に入学したが、日清戦争で召集を受け、歩兵第2連隊に入った。翌年、威海衛守備のため再び召集された。1897年(明治30年)、東京法学院を卒業。1900年(明治33年)、弁護士試験に合格し、翌年に開業した。1918年(大正7年)には東京弁護士会副会長に就任し、また日本弁護士協会理事も2回務めた。 1904年(明治37年)、第9回衆議院議員総選挙に出馬し当選。
野村 嘉六(のむら かろく、1873年〈明治6年〉8月10日… 野村 嘉六(のむら かろく、1873年〈明治6年〉8月10日 - 1952年〈昭和27年〉1月17日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(立憲国民党→立憲同志会→憲政会→立憲民政党→翼賛議員同盟)、富山市長、貴族院勅選議員などを務めた。幼名は安次郎。 富山県婦負郡鵜坂村(現在の富山市)生まれ。1893年(明治26年)東京法学院(現在の中央大学)卒業。1898年(明治31年)に弁護士試験に合格し、1902年(明治35年)から判事として、富山・敦賀・大津の裁判所で勤務した。1906年(明治39年)に退官して富山市で弁護士を開業した。富山弁護士会長も務めた。 1911年(明治44年)3月、富山県会議員補欠選挙に婦負郡選挙区から立候補して当選した。
岡田 庄作(おかだ しょうさく、1873年(明治6年)3月6… 岡田 庄作(おかだ しょうさく、1873年(明治6年)3月6日 - 1937年(昭和12年)5月4日)は、日本の裁判官、弁護士、法学博士。 1873年3月、島根県邇摩郡波積村生まれ。 島根県師範学校を卒業後、小学校校長となるが、1900年に上京し、1902年に明治法律学校を卒業。大分、熊本、水戸、東京の各地方裁判所検事を歴任。1909年、ドイツに留学してミュンヘン大学に学び、帰国後東京控訴院判事となる。 1919年、裁判所を退職して弁護士を開業。東京弁護士会会長となり、のちに明治大学教授。1924年、明治大学より法学博士号を取得(論文タイトルは『錯誤論』)。 1937年5月4日死去。65歳。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
三浦 倫吉(みうら りんきち、1873年(明治6年)2月21… 三浦 倫吉(みうら りんきち、1873年(明治6年)2月21日 - 1916年(大正5年)8月7日)は、衆議院議員(立憲同志会)、弁護士。 島根県那賀郡浜田町(浜田市)出身。山口高等学校を経て、1901年(明治34年)に東京帝国大学法科大学英法科を卒業した。卒業後は司法官となり、岡山区裁判所判事、京都区裁判所兼地方裁判所判事を歴任した。1904年(明治37年)に退官した後は、京都市で弁護士・弁理士・破産管財人として活動した。 1915年(大正4年)、第12回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。
岡田 栄(おかだ さかえ、1873年〈明治6年〉1月10日 … 岡田 栄(おかだ さかえ、1873年〈明治6年〉1月10日 - 1940年〈昭和15年〉7月19日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(立憲政友会)。位階は正七位。勲等は勲四等。 高知県高岡郡松葉川村(窪川町を経て現四万十町)生まれ。東京法学院(現在の中央大学)を卒業。判事検事登用試験・弁護士試験に合格。神戸地方裁判所判事、大阪地方裁判所判事を経て、関東総督府審理官、関東都督府法院判官を歴任し、韓国政府法務補佐官を務めた。その後、官を辞して弁護士を開業した。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。1918年(大正7年)の衆議院補欠選挙で再選された。 その他、北海道と朝鮮で農場を経営した。
張 一鵬(ちょう いちほう、1873年〈同治12年〉 - 1… 張 一鵬(ちょう いちほう、1873年〈同治12年〉 - 1944年〈民国33年〉7月14日)は、清末民初の政治家・法学者・司法官・官僚・弁護士・ジャーナリスト。字は雲搏(あるいは雲博)。北京政府、南京国民政府(汪兆銘政権)で要人となった。兄の張一麐も政治家である。 南洋公学で学んだが卒業せず、兄の張一麐が創始した蘇学社に加入した。1893年(光緒19年)、癸巳科挙人となる。その後、日本に留学し、1906年(光緒32年・明治39年)6月に法政大学法政速成科第二班を卒業した。なお、同期には汪兆銘(汪精衛)や李文範、胡漢民、古応芬、孫潤宇らがいる。帰国後、法部主事、京師地方検察庁庁長、呉江地方検察庁庁長、雲南高等検察庁検察長を歴任した。
田中 昌太郎(たなか しょうたろう、1872年11月20日(… 田中 昌太郎(たなか しょうたろう、1872年11月20日(明治5年10月20日) - 1964年2月25日)は、日本の法曹(検察官、弁護士)。立命館大学元学長。立命館中学校父兄会会長。京都府船井郡園部村(のち園部町、現・南丹市)生まれ。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
工藤 吉次(くどう きちじ、明治5年9月29日(1872年1… 工藤 吉次(くどう きちじ、明治5年9月29日(1872年10月31日) - 昭和11年(1936年)1月9日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 山形県西村山郡溝延村(現在の河北町)に、工藤浅吉の二男として生まれる。1893年(明治26年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業し、1897年(明治30年)に判事検事登用試験に合格した。判事となったが、やがて官を辞して、盛岡市で弁護士を開業した。後に盛岡弁護士会長を務めた。 盛岡市会議員を経て、1912年(明治45年)の第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は3回を数えた。墓所は多磨霊園。
宮崎 三之助(みやざき さんのすけ、1872年10月22日〈… 宮崎 三之助(みやざき さんのすけ、1872年10月22日〈明治5年9月20日〉 – 1941年〈昭和16年〉9月1日)は、日本の裁判官、弁護士、政治家(立憲政友会)。 富山県富山市に出生。1892年(明治25年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業。判事検事登用試験に合格し、判事として七尾、木更津の各地方裁判所と千葉区裁判所に勤務した。後に弁護士を開業し、本所区会議員を務めた。また第12代本所区会議長も務めた。1911年(明治44年)6月から本所区選出の東京市会議員を3期務めた。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に立憲政友会から東京府第6区で立候補し、当選。1921年(大正10年)4月26日付で市議を辞職した。
鵜澤 總明(うざわ ふさあき、1872年9月4日(明治5年8… 鵜澤 總明(うざわ ふさあき、1872年9月4日(明治5年8月2日)- 1955年(昭和30年)10月21日)は、日本の弁護士、政治家。学位は法学博士。新字体で鵜沢 総明(うざわ ふさあき)とも表記される。旧名・惣一。 第一東京弁護士会会長、衆議院議員、貴族院議員、大東文化学院総長、明治大学総長、明治大学理事長、国際基督教大学評議員会議長などを歴任した。 青山学院大学学長を務めた経営学者の鵜澤昌和は次男。 1872年、千葉県長柄郡上太田村(長生郡新治村、本納町を経て現在の茂原市上太田)にて、富農、鵜沢巳之松の長男・惣一として誕生する。1886年に地元の太田小学校高等科を卒業。間もなく、校長鶴岡清治郎との縁故もあって、最年少の教員として同校に就職する。
八束 可海(やつか かかい、明治5年3月1日(1872年4月… 八束 可海(やつか かかい、明治5年3月1日(1872年4月8日) - 大正5年(1916年)1月13日)は、日本の衆議院議員(中央倶楽部)、弁護士。家紋は丸に杏葉紋。 愛媛県伊予郡北伊予村(現在の松前町)出身。1893年(明治26年)、日本法律学校(現在の日本大学)を卒業し、弁護士試験に合格した。翌年、静岡県浜松市に事務所を開き、1900年(明治33年)に東京市に移した。その後、東京市会議員に選出された。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙で当選を果たした。 その他、藤枝競馬倶楽部理事を務めた。 大正5年1月13日没。戒名は泰雲院通義可海大居士。墓所は本所(墨田区)立川の新義真言宗・弥勒寺旧子院墓地。
大瀧 新之助(おおたき しんのすけ、1871年12月9日〈明… 大瀧 新之助(おおたき しんのすけ、1871年12月9日〈明治4年10月27日〉 - 没年不明)は、日本の弁護士、実業家。族籍は京都府士族。 旧米沢藩士・大瀧忠徳の長男。1899年、東京帝国大学法科大学英法科を卒業、法学士の学位を得る。1900年、家督を相続する。 弁護士を開業し、京都市に於いて訴訟事務に従事する。傍ら会社の重役である。東亜組社長、昭和電球相談役、山城銀行取締役、京都精米、山城銀行、日本硬化煉瓦各監査役などをつとめる。 趣味は囲碁、俳句、書画。宗教は禅宗。住所は京都市上京区寺町通今出川上ル。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
赤尾 藤吉郎(あかお とうきちろう、1871年9月1日〈明治… 赤尾 藤吉郎(あかお とうきちろう、1871年9月1日〈明治4年7月17日〉- 1938年〈昭和13年〉10月3日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(立憲政友会)。 山梨県東八代郡英村(現・笛吹市)に生まれる。1895年(明治28年)に和仏法律学校(法政大学の前身)を卒業、弁護士試験に合格し、東京地方裁判所所属弁護士として弁護士業に従事する。1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙と、1924年(大正13年)の第15回総選挙に立候補しているが、いずれも落選している。1925年(大正14年)11月、四谷区会議員に当選した。 1928年(昭和3年)に第16回総選挙に当選する。1930年(昭和5年)の第17回総選挙に立候補したが、落選した。
米岡 規雄(よねおか のりお、明治4年2月5日(1871年3… 米岡 規雄(よねおか のりお、明治4年2月5日(1871年3月25日) - 没年不詳)は、日本の弁護士。旅順市長。 鳥取県鳥取市に谷口卯三郎の二男として生まれ、米岡勘十郎の養子となった。鳥取中学校を卒業し、1892年(明治25年)より鳥取県属、西伯郡書記となり、さらに鳥取県内務部、大蔵省専売局、大蔵省主税局に勤務した。1901年(明治34年)、和仏法律学校(現在の法政大学)を卒業。1903年(明治36年)、弁護士試験に合格した。1906年(明治39年)、関東州民政署属となり、旅順民政署財務課長を務めた。翌年に退官した後は、旅順で弁護士事務所を開き、さらに大連市にも事務所を設けた。旅順市会議員に選ばれ、1932年(昭和7年)には同市会議長に就任した。
松井 郡治(まつい ぐんじ、明治4年1月20日(1871年3… 松井 郡治(まつい ぐんじ、明治4年1月20日(1871年3月10日) - 昭和18年(1943年)10月21日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、弁護士。 新潟県中頸城郡津有村(現在の上越市)出身。東京専門学校(現在の早稲田大学)法律科卒業後、司法官試補、検事代理を経て、新潟・旭川・長岡の各区裁判所、新潟地方裁判所判事を歴任した。1902年(明治35年)に判事を退職し、弁護士を開業。新潟市弁護士会会長、新潟新聞監査役も務めた。 新潟市会議員・新潟県会議員を経て、1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙に新潟1区(小選挙区)から憲政会で出馬し、当選。以後、4回の当選回数を重ねた。
高野 金重(たかの かねしげ、1871年2月11日(明治3年… 高野 金重(たかの かねしげ、1871年2月11日(明治3年12月22日) - 1932年(昭和7年)4月4日)は、日本の政治家・衆議院議員(中正会)、弁護士。族籍は愛媛県士族。 伊予松山藩士高野金光の長男として松山湊町に生まれる。広島英語学校に英学を修め、芸備日日新聞や大阪毎日新聞に執筆した。1894年(明治27年)、上京して東京法学院(現在の中央大学)に入学して1896年(明治29年)に卒業した。1898年(明治31年)、弁護士試験に合格し、翌年に東京で事務所を開業した。一時期花井卓蔵弁護士事務所で実務を練習し刑事事件に精通したが、高野の得意とする所は民事・商事に関する事件であった。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
櫛部 荒熊(くしべ あらくま、1871年 - 1950年)は… 櫛部 荒熊(くしべ あらくま、1871年 - 1950年)は山口県出身の弁護士。納税額の多寡によらない普通選挙の実現を目指し、全国普選連合会の幹部を務め、後に衆議院議員(静岡県第2区、当選1回)に選出された。 長門国萩(後の山口県萩市)で1871年2月23日(明治4年1月5日)出生。山口県士族・櫛部善人の長男。川島小学校より萩中学校及び山口中学校を経て司法省文部省認定。1886年(明治19年)に家督を相続。1903年(明治36年)、明治法律学校(後の明治大学)を卒業し、翌年弁護士試験に合格した。 東京弁護士会評議員、台湾台中弁護士会長、日本弁護士協会理事などを務める。 荒熊は全国普選連合会の幹部を務めるなど普選運動に深く関わった論客の一人であり、連合会員の先頭に立って原敬首相邸へ辞職勧告デモも行った。
北井 波治目(きたい はじめ、明治3年10月15日(1870… 北井 波治目(きたい はじめ、明治3年10月15日(1870年12月9日) - 昭和11年(1936年)10月16日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 駿河国豊田郡佐久間村出身(現在の静岡県浜松市天竜区)。1893年(明治26年)、日本法律学校(現在の日本大学)を卒業した。翌年に弁護士試験に合格し、弁護士業務に従事した。1898年(明治31年)、判事となり、五條区裁判所判事、名古屋区裁判所判事、岐阜地方裁判所判事を歴任した。1901年(明治34年)、退官して弁護士に復帰した。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第14回衆議院議員総選挙でも再選された。 その他、福川汽船株式会社・セミ肥料株式会社取締役、福川林業株式会社・入山採炭株式会社・国光印刷株式会社監査役などを務めた。
大久保 雅彦(おおくぼ まさひこ、1870年8月2日(明治3… 大久保 雅彦(おおくぼ まさひこ、1870年8月2日(明治3年7月6日)- 1922年(大正11年)6月6日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 伊予国越智郡蔵敷村(現在の愛媛県今治市)出身。1886年(明治19年)、松山中学校を卒業。英吉利法律学校(東京法学院、現在の中央大学)で英語法学を学び、1889年(明治22年)に首席で卒業。その後も穂積陳重のもとで学んだ。1892年(明治25年)に弁護士試験に合格し、松山市に事務所を開いた。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 三・一運動の際には、花井卓蔵・木尾虎之助らとともに、騒擾罪に問われた孫秉煕ら指導者の弁護にあたった。
野添 宗三(のぞえ そうぞう、明治3年3月30日(1870年… 野添 宗三(のぞえ そうぞう、明治3年3月30日(1870年4月30日) - 大正8年(1919年)8月28日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党)、弁護士。 丹波国氷上郡和田村(現在の兵庫県丹波市)出身。1896年(明治29年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業すると、司法官試補として神戸区裁判所に配属された。1898年(明治31年)に検事となり、1900年(明治33年)には判事となった。1901年(明治34年)に退官すると、神戸市で弁護士事務所を開き、神戸弁護士会会長も務めた。 神戸市会議員を経て、1910年(明治43年)の衆議院議員補欠選挙に当選。以後、4回の当選回数を数えた。
小川 平吉(おがわ へいきち、1870年1月2日〈明治2年1… 小川 平吉(おがわ へいきち、1870年1月2日〈明治2年12月1日〉- 1942年〈昭和17年〉2月5日)は、日本の政治家、弁護士。号は射山。東京府平民。 衆議院議員、国勢院総裁、司法大臣、鉄道大臣等を歴任した。警視総監を務めた斎藤樹は娘婿、宮沢喜一は孫にあたる。 1892年(明治25年)、弁護士となり、1901年(明治34年)には近衛篤麿に従って上海の東亜同文書院創立に参画。 1903年(明治36年)、衆議院総選挙に出馬し当選、以来当選10回。 日露主戦論の急先鋒となった。日比谷焼打事件が起きた1905年(明治38年)9月5日の国民大会の主催者8名の1人であったことなどから芝警察署に検挙されたが無罪。
大場 茂馬(おおば しげま、1869年12月19日(明治2年… 大場 茂馬(おおば しげま、1869年12月19日(明治2年11月17日) - 1920年(大正9年)12月30日)は、日本の刑法学者、弁護士、政治家。元公安審査委員会委員長の大場茂行は息子。 明治から大正の日本の刑法学は、富井政章、穂積陳重らがよってたつ主観主義を前提とする新派・近代学派と、客観主義を前提とする旧派・古典学派が対立しており、当時、旧派を代表する学者であり、ギュスターヴ・エミール・ボアソナードの弟子でもある宮城浩蔵は、犯罪を社会的害悪であると同時に道徳的悪であるとしてフランス新古典派がよってたつ折衷主義の立場をとっていた。 1871年のドイツ刑法典を参考にし、ドイツの近代学派が主張した新しい刑事政策的思想を取り入れた現行刑法が1907年に成立すると、新派の牧野英一は、独自の法律進化論の立場から、刑法は旧派刑法理論から新派刑法理論に進化していくものであると主張し、現行刑法の成立こそ新派の勝利の証であるとして凱歌をあげた。
森下 亀太郎(もりした かめたろう、旧字体: 森下 龜太郞、… 森下 亀太郎(もりした かめたろう、旧字体: 森下 龜太郞、1869年12月5日(明治2年11月3日) - 1946年(昭和21年)4月26日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(当選1回)。族籍は岡山県士族。 備中国上房郡高梁町(現在の岡山県高梁市)生まれ。岡山県士族・森下良諒の三男。 有終館で荘田霜渓より漢学を学ぶ。1894年(明治27年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業。 甲府・前橋・大阪・大津の各地方裁判所判事、大阪控訴院検事などを歴任。 1905年(明治38年)、退官して大阪市で弁護士を開業。 大阪市会議員を経て、1920年(大正9年)に衆議院議員に当選し、庚申倶楽部に所属した。
江原 節(えはら せつ、1869年11月9日〈明治2年10月… 江原 節(えはら せつ、1869年11月9日〈明治2年10月6日〉 - 1921年〈大正10年〉1月19日)は、日本の政治家・衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。族籍は栃木県平民。 下野国河内郡、のちの栃木県河内郡平石村(現宇都宮市)に生まれる。栃木県平民・吉沢直次郎の弟。1889年(明治22年)、江原常蔵の死跡を相続する。はじめ栃木県師範学校に入学したが、東京専門学校(現在の早稲田大学)に移り、法律学を研究し、1890年(明治23年)に邦語法律科を卒業した。 代言人試験に合格した。1893年(明治26年)、弁護士事務所を宇都宮に設け、訴訟事務に従事する。宇都宮市会議員、同参事会員に選出された。 1906年(明治39年)、衆議院議員に補欠当選を果たした。
小田切 磐太郎(おたぎり いわたろう、明治2年10月3日〈1… 小田切 磐太郎(おたぎり いわたろう、明治2年10月3日〈1869年11月6日〉 - 1945年〈昭和20年〉9月22日)は、明治後期から大正初期にかけての日本の内務官僚・官選県知事、昭和戦前期にかけての弁護士・政治家・実業家である。 現在の長野県須坂市の出身で、政界では衆議院議員(当選2回)、実業界では信濃電気の副社長や長野商工会議所会頭を務めた。 小田切磐太郎は、明治2年10月3日(新暦:1869年11月6日)、小田切豊太郎の長男として生まれた。父・豊太郎は長野県上高井郡須坂町、現在の須坂市の豪商小田切家(屋号は「東糀屋」)の一族で、3代目小田切新蔵の弟にあたる。1875年(明治8年)より須坂の地場産業である製糸業(山ヨ製糸所)を経営していた。
福田 辰五郎(ふくだ たつごろう、明治2年10月1日(186… 福田 辰五郎(ふくだ たつごろう、明治2年10月1日(1869年11月4日) - 大正7年(1918年)8月5日)は、衆議院議員(維新会→新政会)、弁護士。旧姓・丸山。 武蔵国入間郡南畑村(現在の埼玉県富士見市)出身。自由民権運動活動家で埼玉県会議員・衆議院議員の福田久松の養子となる。1890年(明治23年)、東京高等商業学校(現在の一橋大学)を卒業し、翌年には東京法学院(現在の中央大学)を卒業。高等文官試験に合格して、前橋地方裁判所検事に任命された。1894年(明治27年)、横浜地方裁判所上席検事に昇進した。1898年(明治31年)、司法大臣曾禰荒助の勧めでアメリカ合衆国に留学した。アメリカではイェール大学・コロンビア大学で学び、博士号を取得した。
磯田 粂三郎(いそだ くめさぶろう、1869年6月28日(明… 磯田 粂三郎(いそだ くめさぶろう、1869年6月28日(明治2年5月19日) - 1934年(昭和9年)8月17日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。旧姓・米田。 大和国吉野郡六田村(現在の奈良県吉野郡吉野町)に米田六右衛門の二男として生まれ、弁護士・衆議院議員の磯田和蔵の養子となった。1890年(明治23年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業し、翌年に代言人試験に合格した。1892年(明治25年)に和蔵と共同で奈良市に事務所を開いた。商法が施行されて以降、破産管財人を務めた。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
山隈 康(やまくま やすし、1869年6月24日(明治2年5… 山隈 康(やまくま やすし、1869年6月24日(明治2年5月15日)- 1953年(昭和28年)5月10日)は、明治後期から昭和前期の弁護士、政治家。貴族院多額納税者議員、熊本市長。 肥後国菊池郡合志村(現在の熊本県合志市)出身。1898年(明治31年)3月、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業し、翌年に弁護士試験に合格した。熊本市に事務所を開業し、後には熊本弁護士会長に選出された。さらに市会議員に選ばれ、議長に就任した。 1932年(昭和7年)熊本県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日に就任し、研究会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任。さらに1934年(昭和9年)5月には熊本市長に選出され、1942年(昭和17年)5月まで在任した。
村田 不二三(むらた ふじぞう、1869年5月4日〈明治2年… 村田 不二三(むらた ふじぞう、1869年5月4日〈明治2年3月23日〉 - 1957年〈昭和32年〉11月10日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(当選1回)。 鳥取県西伯郡淀江町(現在の鳥取県米子市)出身。村田晋の長男。父の下に専ら漢学を修め、傍ら小学校に通う。 1883年(明治16年)に上京し、二松學舍(現在の二松學舍大学)で学んだ後、獨逸協會學校(現在の獨協大学)を卒業。 神奈川県足柄上郡で役所雇及び小学校授業生をした後、1888年(明治21年)に東京法学院に入学した。1891年(明治24年)には東京法学院(現在の中央大学)を卒業し、翌年に代言人試験に合格した。1893年(明治26年)、札幌で弁護士事務所を開業し、後には札幌弁護士会長に選出された。
高木 益太郎(たかぎ ますたろう、1869年3月7日〈明治2… 高木 益太郎(たかぎ ますたろう、1869年3月7日〈明治2年1月25日〉 - 1929年〈昭和4年〉12月11日)は、日本の実業家、政治家、資産家、弁護士。 衆議院議員(当選6回)。法律新聞社長。尾西鉄道社長。法政大学総務部長、同大理事。従五位勲三等。族籍は東京府平民。 1869年1月25日、東京に生まれる。高木益喜の長男。幼少の頃、日本橋元浜町の尾張屋質店の丁稚小僧に出される。当時知人某が法律の不知からある高利貸しのためさんざんな目に遭わされたことに憤慨し、「弱者の味方となり、正義公正な権利擁護に尽くそう」と心機一転して法律の勉強を志す。 銀行に勤めるかたわら東京法学校(現・法政大学)に通学し、1887年に卒業する。
蔵園 三四郎(くらその さんしろう、旧姓・瀬戸川、1869年… 蔵園 三四郎(くらその さんしろう、旧姓・瀬戸川、1869年2月24日〈明治2年1月14日〉 - 1939年〈昭和14年〉4月6日)は、日本の政治家、弁護士、会社役員。衆議院議員(鹿児島県第一区選出、当選6回)。族籍は鹿児島県平民。鉄道政務次官、鉄道会議議員、南洋拓殖設立委員、薩摩製糸取締役などを務めた。 薩摩国日置郡田布施村(のち鹿児島県日置郡金峰町、現在の南さつま市)出身。鹿児島県平民・瀬戸川利右衛門の長男で、1876年、先代次郎の養子となった。元より富裕ではない家庭であったため、少年時代より人生の苦を味わわされた。14歳の時小学校の先生となり其の報酬として地所三段五畝歩を贈られた。 17歳の時の1886年、大阪に出て、大阪開成中学館、三一学校で学んだ。
佐々木 文一(ささき ぶんいち、明治元年12月15日〈186… 佐々木 文一(ささき ぶんいち、明治元年12月15日〈1869年1月27日〉 - 昭和5年〈1930年〉1月16日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 美濃国可児郡伏見村(岐阜県御嵩町から可児市)出身。1893年(明治26年)、日本法律学校(現在の日本大学)を卒業。弁護士試験に合格し、1894年(明治27年)から開業した。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。その後、4回の当選回数を数えた。 その他、神中鉄道株式会社・東北起業株式会社取締役や日本大学理事を務めた。
津田 毅一(つだ きいち、明治元年12月6日(1869年1月… 津田 毅一(つだ きいち、明治元年12月6日(1869年1月18日) - 昭和12年(1937年)10月5日)は、衆議院議員(新政会)、弁護士。 上総国山辺郡片貝村(現在の千葉県山武郡九十九里町)出身。東京専門学校(現在の早稲田大学)法律科を卒業し、1893年(明治26年)に判事検事登用試験に合格した。司法官試補を経て、1896年(明治29年)より、鹿児島区裁判所、姫路区裁判所、神戸区裁判所の判事を歴任した。 1899年(明治32年)、台湾総督府法院検察官に就任。1905年(明治38年)、台湾総督府で検察官制度廃止の議論が起きると、反対の議論を展開した。これが児玉源太郎台湾総督や後藤新平民政長官に認められ、桃園庁長に登用された。
加藤 幹雄(かとう みきお、明治2年(1869年) - 大正… 加藤 幹雄(かとう みきお、明治2年(1869年) - 大正5年(1916年))は、日本の弁護士。 明治2年、庄内藩に生まれる。旧制山形中学校、共立中学校、司法省正則法学校、第一高等中学校を経て、帝国大学法科大学に入学し、首席で卒業後、同大学院で国際法を研究し、弁護士となる。仙台で活躍した後、山形に戻り、鶴岡で生涯を送った。
横山 金太郎(よこやま きんたろう、1868年12月14日〈… 横山 金太郎(よこやま きんたろう、1868年12月14日〈明治元年11月1日〉 - 1945年〈昭和20年〉9月25日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(広島県第三区選出、当選9回)。文部政務次官。第16代広島市長。族籍は広島県平民。 広島県比婆郡東城村(後の東城町、現在の庄原市)で、行商人の家庭に生まれる。横山要平の長男。3歳の時に父・要平が死去する。家督を相続する。 役場の書記をつとめる。1886年(明治19年)、代言人・渡邊又三郎を頼って家出、渡邊は「見処がある」と直覚して世話することにしたという。 横山は玄関番・書生となり広島法律学校に入り、1890年(明治23年)3月に同校を卒業、同年4月に東京法学院(現在の中央大学)3年級に編入。
山田 福三郎(やまだ ふくさぶろう、1868年11月30日(… 山田 福三郎(やまだ ふくさぶろう、1868年11月30日(明治元年10月17日) - 1914年(大正3年)5月18日)は、日本の弁護士、特許弁理士、政治家。 埼玉県北埼玉郡小曽根村(現・熊谷市小曽根)出身。山田充八の息子。熊谷中学校に学ぶ。1885年に上京し、東京電信学校の官費生として入学する。卒業後逓信技手となり函館郵便電信局に在勤し、傍ら英米人に就き英学を修め兼ねて哲学法律学を独修する。 1894年、明治法律学校(現・明治大学)卒業。判検事試験に及第し、司法官試補に任ぜられる。横浜地方裁判所の判事を経て、渡米してコロンビア大学に学び、帰国後横浜で弁護士を開業する。大日本共同運輸監査役、横浜市会議員、横浜英語学校校長、横浜商業会議所特別議員などをつとめる。
卜部 喜太郎(うらべ きたろう、1868年11月25日〈明治… 卜部 喜太郎(うらべ きたろう、1868年11月25日〈明治元年10月12日〉 - 1942年〈昭和17年〉11月13日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(埼玉県郡部選出、当選1回、立憲国民党)。中央大学理事。東京弁護士会会長、東京弁護士会常議員会議長などを歴任。族籍は埼玉県平民。 1868年(明治元年)、武蔵国児玉郡沼和田村(埼玉県児玉郡旭村を経て現本庄市沼和田)に生まれた。卜部喜平の長男で、先代キンの養子である。幼くして怜悧であり、よく物の理義を悟った。児玉中学校を卒業した。18歳の時埼玉県師範学校に於いて小学校教員試験に応じて及第し、埼玉県小学校訓導に任ぜられ本庄小学校に在勤した。 1887年(明治20年)、家督を相続した。
津原 武(つはら たけし、1868年11月22日(明治元年1… 津原 武(つはら たけし、1868年11月22日(明治元年10月9日) - 1953年(昭和28年)5月20日)は、日本の弁護士・実業家・政治家。衆議院議員、加悦鉄道社長、宮津銀行監査役、丹後縮緬工業組合理事長。 1868年11月22日(明治元年10月9日)、因幡国鳥取に生まれた。関西法律学校、明治法律学校、和仏法律学校(現・法政大学)で学び、京都府与謝郡宮津町(現・宮津市)で弁護士を開業した。 与謝郡会議員・議長、宮津町長、京都府会議員などを経て、1915年(大正4年)に第12回衆議院議員総選挙に当選した。民政党に所属して5回の当選を果たしている。 また、加悦鉄道社長、宮津銀行・橋北汽船などの役員、丹後縮緬工業組合理事長などを歴任した。
仁井田 益太郎(にいだ ますたろう、1868年11月18日(… 仁井田 益太郎(にいだ ますたろう、1868年11月18日(明治元年10月5日)- 1945年1月17日)は、日本の法学者・裁判官・弁護士。学位は、法学博士。京都帝国大学法科大学教授、東京帝国大学法科大学教授を歴任。 守山藩士県吏仁井田隠重の長男。妻は貴族院議員奥山政敬の娘アイ、甥の陞は中国法制史家、東大教授。 富井政章付きの民法典起草補助委員として活躍し、ドイツ民法草案第一・第二を翻訳して富井に提供したほか、各国の法制度を調査して貢献した。 他の起草補助委員との合著『帝国民法正解』は、民法典施行後出版された最初の書物であり、大体純粋なドイツ法学派の見解から書かれたものであった。 京都帝国大学では民事訴訟法、商法の講座を担当し、東京帝国大学では民事訴訟法、民法、ドイツ法の講座を担当。
前田 兵郎(まえだ ひょうろう、1868年9月13日〈明治元… 前田 兵郎(まえだ ひょうろう、1868年9月13日〈明治元年7月27日〉 - 1920年〈大正9年〉7月8日)は日本の政治家、弁護士。衆議院議員。 1868年(明治元年)7月、出雲国島根郡、のちの松江市に生まれる。1890年(明治23年)に和仏法律学校(現・法政大学)邦語法律科を卒業し、弁護士業に従事する。 若松市会議員、同市参事会員、同市学務委員長、同市会議長、福島県会議員、同県参事会員、同県会副議長・議長を経て、1920年(大正9年)に第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選する。また、会津連合教育会長、会津電力取締役などを務めた。 1920年(大正9年)7月8日に死去。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。