別所 孝治(べっしょ たかはる、1935年8月30日 - 2… 別所 孝治(べっしょ たかはる、1935年8月30日 - 2006年2月4日)は、日本のテレビプロデューサー。 フジテレビにてテレビアニメの企画、特撮ヒーロー番組の編成、映画事業の企画・プロデューサーを務めた。 1935年に東京で5人兄弟の長男として出生。父は国鉄勤務。東京写真大学(現:東京工芸大学)在学中は映画館でフィルム運びのアルバイトをして、映写技師の免許も取得。1958年に大学を卒業し、第1期生としてフジテレビへカメラマンとして入社。子会社の共同テレビにフジテレビのカメラマンが移籍する中でフジテレビに残留し、プロデューサーとなる。1961年に外国アニメ『恐妻天国』を担当。次いで、1963年から日本初の本格的な30分のテレビアニメシリーズである虫プロダクションの『鉄腕アトム』を担当。
蔵原 惟二(くらはら これつぐ、1935年7月15日 - )… 蔵原 惟二(くらはら これつぐ、1935年7月15日 - )は、日本の映画監督、映画プロデューサー。映画監督蔵原惟繕の実弟。詩人蔵原伸二郎の甥。 東京・田園調布出身。高校時代を神戸市で過ごす。1958年、日本大学芸術学部卒業。日活入社後、助監督として長谷部安春らに師事し、1971年に旧日活体制最後の一般向け映画『不良少女 魔子』で監督デビュー。退社後は兄・惟繕と共に蔵原プロダクションを設立し、プロデューサーとして多くの映画を手掛ける。
針生 宏(はりゅう ひろし、1935年6月2日 - )は日本… 針生 宏(はりゅう ひろし、1935年6月2日 - )は日本映画のプロデューサー。宮城県仙台市出身。美術評論家針生一郎は兄。 仙台一高を経て、東京大学経済学部を卒業。1960年に東宝へ入社。東宝撮影所に配属され、映画『慕情の人』より助監督を務める。演出部からテレビ部企画係、文芸部を経て、1971年に東宝映画へ出向。その後東宝テレビ部に移籍。 映画『モスラ』では、チーフ助監督の野長瀬三摩地からの指示で劇中歌「モスラの歌」のインドネシア語歌詞をカタカナに書き起こした。針生は、曲をつける際に歌いやすいよう変えるだろうと考えていたが、完成作品では針生の書いたものがそのまま使われており驚いたという。
菅野 国春(かんの くにはる、1935年5月14日 - )は… 菅野 国春(かんの くにはる、1935年5月14日 - )は、日本の作家、出版プロデューサー、フリーライター。 岩手県奥州市出身。國學院大學卒業。編集者、ルポライター等を経て作家に。 1990年、菅野ペンオフィスを設立し出版プロデューサーとしても活動している。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
円谷 皐(つぶらや のぼる、1935年5月10日 - 199… 円谷 皐(つぶらや のぼる、1935年5月10日 - 1995年6月11日)は、円谷プロダクション第3代社長で第2代会長、演出家、プロデューサー、歌手、作詞家。別名に谷のぼる。 円谷英二の次男として生まれる。円谷一(演出家・円谷プロダクション第2代社長)は兄、円谷粲(英語版)(円谷映像社長)は弟、円谷一夫(円谷プロダクション第4代社長・同社第3代会長)は息子にあたる。 玉川学園卒。同社で特撮スタッフとして長年活躍した高野宏一とは小学校で同級生だった。脚本家の金城哲夫はこの玉川学園の後輩である。 1954年(昭和29年)、成城大学文芸学部入学。大学では演劇に熱中。石井伊吉(現毒蝮三太夫)は劇団仲間だった。
加藤 哲夫(かとう てつお、1935年5月-)は、日本の元テ… 加藤 哲夫(かとう てつお、1935年5月-)は、日本の元テレビプロデューサー、元KBS京都代表取締役社長。
桑原 秀郎(くわはら ひでろう、1935年4月29日 - 2… 桑原 秀郎(くわはら ひでろう、1935年4月29日 - 2022年10月5日)は、日本のテレビドラマプロデューサー。東映のプロデューサーとして知られた。 東京都出身。慶應義塾大学文学部(社会心理学専攻)卒業後の1959年に東映に入社、制作部を経て、東映テレビ企画営業部でテレビドラマの企画・プロデューサーを務めた。1983年にテレビ企画部第一営業部チーフとなり、1999年にはエランドール賞・プロデューサー賞を受賞した。 定年後も嘱託として東映に残ったが、2009年に退社し、製作からも退いた。 2022年10月5日、肺結核のため東京都葛飾区の病院で死去。87歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
久世 光彦(くぜ てるひこ、1935年4月19日 - 200… 久世 光彦(くぜ てるひこ、1935年4月19日 - 2006年3月2日)は、日本の演出家、小説家、実業家、テレビプロデューサー。テレビ制作会社「株式会社カノックス」創業者。テレビドラマ、小説ともに受賞多数。 歌謡曲作詞や脚本家としてのペンネームに市川 睦月(いちかわ むつき)、小谷 夏(こたに なつ)、林 紫乃(はやし しの)など。兄は元参院議員・金融再生委員長を務めた久世公堯。母方叔母に置塩壽。 当時の東京市杉並区阿佐谷生まれ。 父親は陸軍少将の久世弥三吉で転属により、小学校2年のとき北海道札幌市へ移り、終戦の年に両親の故郷・富山県富山市へ疎開し、その後高校卒業まで富山で育つ。富山市立西田地方小学校、富山大学教育学部附属中学校、富山県立富山高等学校、東京大学文学部美学美術史学科卒業後、ラジオ東京(現・TBSHD)入社。
柳井 満(やない みつる、1935年3月30日 - 2016… 柳井 満(やない みつる、1935年3月30日 - 2016年2月1日)は、日本のテレビプロデューサー、演出家。東京都出身。1958年、TBSに入社。1995年、TBSを定年退職後はドラマプロデューサーとしてTBSと専属契約を結んでいた。 東京都立大学附属高等学校、東京大学文学部社会学科を卒業後、1958年にラジオ東京入社。東大時代は日高六郎に師事していた。当時は民放テレビはまだ本放送を開始して間もないころであり、柳井も当初は新聞社入社を志していた。同じくドラマ演出家である鴨下信一、久世光彦は東大文学部・TBSの同期である。 入社当時は報道部への配属を希望していたが、ドラマ制作部に配属された。1980年代を代表するテレビプロデューサーであり、1980年代の世相を反映した「問題児」をテーマにした作品を多数制作した。
鴨下 信一(かもした しんいち、1935年3月17日 - )… 鴨下 信一(かもした しんいち、1935年3月17日 - )は、日本のテレビプロデューサー・演出家・TBSテレビ相談役。東京都出身。
今田 美奈子(いまだ みなこ、1935年〈昭和10年〉3月5… 今田 美奈子(いまだ みなこ、1935年〈昭和10年〉3月5日 - )は、日本の洋菓子研究家、食卓芸術プロデューサー、実業家。 株式会社今田美奈子食卓芸術サロン代表取締役社長、日仏生活芸術協会会長、国際食卓芸術アカデミー協会会長、TPPを考える国民会議世話人を務める。 芸術文化勲章オフィシエ受章者(2003年)。 1935年3月5日、東京府東京市(現在の東京都)に生まれる。父は愛光商会(1939年創立)社長の今田冨雄。 函嶺白百合学園中学校・高等学校を経て、白百合短期大学(現・白百合女子大学)を卒業。のちに父の後継者として愛光商会社長となる今田潔と結婚。1971年(昭和46年)、スイスに招かれ、洋菓子の世界を知る。
金子 明雄(かねこ あきお、1935年3月 - )は、日本の… 金子 明雄(かねこ あきお、1935年3月 - )は、日本のテレビプロデューサー。元テレビ東京ミュージック社長。東京都中野区出身。学習院大学政経学部卒業。 大学在学中の1958年に第4期東映ニューフェイスに合格、俳優活動を始める。当時は会社側から「佐久間良子のボディーガードをやれ」と言われ、佐久間と同じ現場となることが多かった。 翌1959年に大学を卒業するが、たまたま日本テレビのドラマに出演する機会があり、そこでテレビの現場に触れたことで「これからはテレビの時代が来る」と考え、1960年に東映を退社し東京放送(TBS)でアルバイトのアシスタントディレクター(AD)として働き始めた。当初はTBSで正社員になることを目指したものの登用試験に不合格となり、ちょうど新たにテレビ局(東京12チャンネル)の開設準備を進めていた日本科学技術振興財団が社員募集をしていたことから、その試験を受け合格し1964年1月に財団に入社した。
岡田 晋吉(おかだ ひろきち、1935年2月22日 - )は… 岡田 晋吉(おかだ ひろきち、1935年2月22日 - )は、神奈川県出身のテレビドラマプロデューサー。 日本テレビのドラマプロデューサーとして知られ、同局芸能局長、中京テレビ取締役制作本部長、取締役副社長を歴任した。 定年退職後は川喜多記念映画文化財団常務理事(常勤)、日本テレビ顧問を務めた。 鎌倉学園高等学校、慶應義塾大学卒業後、1957年に日本テレビ入社。 入社と同時に海外ドラマの吹き替え版制作を担当し、1963年の「宇宙Gメン」を皮切りに自局制作のテレビドラマに携わる。「青春とはなんだ」「これが青春だ」や「おれは男だ!」などの青春シリーズ、「東京バイパス指令」を経て「太陽にほえろ!」、「俺たちの旅」、「大都会」シリーズ、「あぶない刑事」などを手がけた。
難波 昭二郎(なんば しょうじろう、1935年2月19日 -… 難波 昭二郎(なんば しょうじろう、1935年2月19日 - 2009年8月14日)は、プロ野球選手(内野手)、実業家、音楽プロデューサー。 大阪府生まれ。高槻高等学校を経て、1954年に関西大学に入学。1年生の春季・秋季リーグとも規定打席不足ながら.444の高打率を挙げると、2年生から四番打者を務め、関西六大学野球リーグでは1956年春季リーグ、1957年春季リーグで優勝。1年下のエース村山実とともに投打の両輪として活躍し、1956年の全日本大学野球選手権大会でも、決勝でエース島津四郎を擁する日大を降し、西日本の大学としては初の優勝を飾る。リーグ通算86試合出場、283打数73安打、打率.258、7本塁打。
木村 栄文(きむら ひでふみ、1935年1月22日 - 20… 木村 栄文(きむら ひでふみ、1935年1月22日 - 2011年3月22日)は、日本のテレビ番組ディレクター、プロデューサー。愛称はエイブンさん。
奥田 哲雄(おくだ てつお、1935年 - )は、朝日放送所… 奥田 哲雄(おくだ てつお、1935年 - )は、朝日放送所属のプロデューサー。現在は同社を定年退職している。 大阪府出身。大阪市立大学卒の1959年に朝日放送入社。ラジオ編成部を経て、1970年にテレビ制作部プロデューサーに就任。その1970年代には『ラブアタック!』などのバラエティ番組の制作を担当し、1980年4月にドラマ制作部に移る。推理小説好きで、特に作家・和久峻三の大ファンで、土曜ワイド劇場枠の藤田まこと主演『京都殺人案内』シリーズ、金曜夜9時枠のフランキー堺主演『赤かぶ検事奮戦記』シリーズなどの和久の原作作品のドラマ化に力を入れた。ほかにも、『ザ・ハングマン』シリーズなど数々のヒットドラマを生み出す。
近藤 伯雄(こんどう はくお、1935年 - )は、日本のテ… 近藤 伯雄(こんどう はくお、1935年 - )は、日本のテレビプロデューサー、児童文学作家。 1935年、ブラジル出身。日本大学芸術学部卒業後、東京12チャンネルに入社。主にアニメや特撮番組を担当。その後退職し児童文学作家として活動。 この項目は、アニメ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:アニメ/PJアニメ)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
近藤康弘(こんどう やすひろ、1935年 - 2025年頃)… 近藤康弘(こんどう やすひろ、1935年 - 2025年頃)は、元NHKエデュケーショナル エグゼクティブプロデューサー。『おかあさんといっしょ』に放送準備から関わった。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
栗山 章(くりやま しょう、1935年 - )は、日本の小説… 栗山 章(くりやま しょう、1935年 - )は、日本の小説家、音楽プロデューサー。
渡邊 一雄(渡辺 一雄、わたなべ かずお、1935年 - 2… 渡邊 一雄(渡辺 一雄、わたなべ かずお、1935年 - 2010年10月11日)は、日本のテレビプロデューサー。 元毎日放送(MBS)プロデューサーで、ラジオ局次長、スポーツ局長、役員待遇テレビ制作部長、同社特別顧問を歴任した。 ラジオ番組『MBSヤングタウン(ヤンタン)』初代プロデューサー。兵庫県出身。 1959年に大阪学芸大学音楽科を卒業し、1960年にMBS入社。1967年よりヤンタンのプロデューサーを20年に渡り務め、パーソナリティからは「大ナベさん(オオナベさん)」の愛称で親しまれた(この愛称は、後に同姓の後輩社員渡辺高志がディレクターを担当する事になったため、後輩を「コナベさん」として区別した上でついたもの)。
小川 欽也(おがわ きんや、1934年12月28日 - 20… 小川 欽也(おがわ きんや、1934年12月28日 - 2024年12月10日)は、日本の映画監督、脚本家、俳優、映画プロデューサーである。監督としての別名に三川 和久(みかわ かずひさ)、小川 卓寛(おかわ たかひろ)、小川 和久(おかわ かずひさ)、上田 光生(うえだ みつお)があり、俳優としては姿 良三(すがた りょうぞう)、脚本家としては水谷 一二三(みずたに ひふみ)と名乗る。成人映画の黎明期からの映画作家として知られ、異分野で活躍する山本晋也を除けば、成人映画の世界で長く現役として作品を発表し続けた人物であった。監督作は400本を超える。 1934年(昭和9年)12月28日、京都府京都市下京区烏丸通綾小路下ルに生まれる。
西崎 義展(にしざき よしのぶ、正式には「西﨑義展」、193… 西崎 義展(にしざき よしのぶ、正式には「西﨑義展」、1934年〈昭和9年〉12月18日 - 2010年〈平成22年〉11月7日)は、日本のプロデューサー、アニメーション監督。本名:西崎 弘文(にしざき ひろふみ)。 アニメ作品『宇宙戦艦ヤマト』のプロデューサーであり、『海のトリトン』、『ワンサくん』『宇宙空母ブルーノア』、『オーディーン 光子帆船スターライト』、『超神伝説うろつき童子シリーズ』などを企画製作した。 東京府東京市小石川区原町(現・東京都文京区白山)に西崎正・秋子のもと、姉と弟がいる3人きょうだいの長男として生まれる。 父親は東京大学法学部卒で、企画院、日本興業銀行勤務ののち、日本曹達などの重役を務め、不振企業の"再建屋"として知られた実業家・西崎正。
日下部 五朗(くさかべ ごろう、1934年7月23日 - 2… 日下部 五朗(くさかべ ごろう、1934年7月23日 - 2020年2月7日)は、日本の映画プロデューサー。岐阜県出身。 早稲田大学卒業後、1957年に東映に入社。映画『現代任侠史』『日本の首領シリーズ』などをプロデュースした。1996年、映画『藏』で日本アカデミー賞 特別賞企画賞を受賞。また、映画『楢山節考』(監督:今村昌平)でパルム・ドールを受賞。2020年、腎不全により京都府で没した。 製作総指揮を務めた『鬼龍院花子の生涯』に関しては、企画を東映に持ち込んだ梶芽衣子から批判されている。梶は『オール讀物』の連載「自伝 梶芽衣子」2017年8月号で「間違った情報がまるで事実であるかのように世間に広がっているので、野放しにできない」と初めてその経緯を話し、この日下部の話は事実無根で、日下部は自身(梶)の企画を横取りした卑劣な人間と批判している。
田中 知己(たなか ともみ、1934年7月7日 - 2015… 田中 知己(たなか ともみ、1934年7月7日 - 2015年10月21日)は東京都出身のテレビディレクター、テレビプロデューサー兼鉄道雑誌編集会社社長およびその編集者。早稲田大学卒業。 1957年日本テレビ入社。1959年にドラマ「恋人」でデビュー後、愛の劇場、日産スター劇場、サスペンス劇場といった連続ドラマ枠を担当。その後も「気になる嫁さん」、「ほおずきの唄」、「オレの愛妻物語」などのドラマや、「巨泉×前武ゲバゲバ90分!」といったバラエティー番組の演出も手掛けた。1989年に日本テレビを退社しフリーとなった。 その後は鉄道月刊誌「鉄道ピクトリアル」を発行する電気車研究会に転職し同社の社長を務め、その後会長を務めた。
木村 英俊(きむら ひでとし、1934年6月10日 - 20… 木村 英俊(きむら ひでとし、1934年6月10日 - 2019年7月16日)は、北海道出身の音楽プロデューサー。ジーベック音楽出版代表取締役。 実娘はシンガーソングライターの木屋響子(本名・木村恭子)。妻はマリンバ奏者の安倍圭子。 慶應義塾高等学校、慶應義塾大学経済学部卒業。日東金属鉱山を経て、1963年に日本コロムビア入社。1965年に志願して営業部から学芸部へ移籍し、1977年から学芸部長、1989年から制作本部長を歴任した。アニメーション作品・特撮作品の楽曲や子供向けの楽曲をプロデュースし、日本コロムビアの隆盛期の一分野を担う。 1992年、日本コロムビアが新規設立したグループ会社「フォルテミュージックエンタテインメント」(FME)の社長に就任。
髙嶋 弘之(たかしま ひろゆき、1934年〈昭和9年〉5月1… 髙嶋 弘之(たかしま ひろゆき、1934年〈昭和9年〉5月18日 - )は、日本の音楽ディレクター・プロデューサー。髙嶋音楽事務所代表。「ビートルズの日本での仕掛人」として有名。一男二女の父親で、次女はヴァイオリン奏者の高嶋ちさ子。 兵庫県武庫郡御影町(現:神戸市東灘区御影)生まれ。兵庫県立神戸高等学校を経て、早稲田大学第一文学部(演劇専修)を卒業。1959年東京芝浦電気(株)レコード事業部(のちの東芝音楽工業→東芝EMI→EMIミュージック・ジャパン)入社、洋楽ディレクターとしてスタート。1964年、ビートルズの初代ディレクターとなり、訪日時にも担当。その後、邦楽担当となり和製ポップスで数々のヒットを作る。
田中 寿一 (たなか じゅいち、1934年5月13日 - )… 田中 寿一 (たなか じゅいち、1934年5月13日 - )は、日本映画のプロデューサー。元妻は女優の沢井桂子と烏丸せつこ。 1957年に青山学院大学経済学部を卒業と同時に、東宝撮影所に入社。1962年に三船プロダクション設立に参加。1968年に東宝女優の沢井桂子と結婚。1979年に三船プロの内紛騒動が起こり、独立を強行する形で田中プロモーションを設立(後に和解が成立)。 1982年、沢井との間には子どももいたが、離婚の末、自社の所属女優だった烏丸せつこと結婚。21歳の歳の差婚だった。その後、烏丸との間に2女を儲ける。 1983年には田中プロ内で分裂騒動が起こり、大部分がアクターズプロモーションとして独立した。
居作 昌果(いづくり よしみ/いずくり よしみ、1934年3… 居作 昌果(いづくり よしみ/いずくり よしみ、1934年3月31日 - 2005年4月10日)は、日本のテレビプロデューサー。 元TBSにてプロデューサー、演出三部長、第一制作局長、制作局長を歴任後、制作会社・タイクスを設立し、代表取締役社長を務めた。 バラエティ番組のプロデューサーとしての手腕を、日本テレビの井原高忠、フジテレビの横澤彪、テレビ朝日の皇達也と、また自社の後輩である桂邦彦らとしばしば比較される。 息子は元電通プロモーションプラス専務執行役員の居作和果。 1934年、東京府(現在の東京都)生まれ、東京府東京市京橋区銀座(現在の東京都中央区銀座)出身。早稲田大学第一文学部英文科卒業。
磯田 啓二(いそだ けいじ、1934年(昭和9年)3月8日 … 磯田 啓二(いそだ けいじ、1934年(昭和9年)3月8日 - 2019年(令和元年)11月12日)は、日本の映画プロデューサー。 京都府京都市出身。妻は映画プロデューサーの大西悦子(本名:磯田悦子)。 松竹京都撮影所、松竹大船撮影所を経てフリーランスとなり、個人事務所「株式会社磯田事務所」を設立。多数の映画・テレビドラマを手掛ける。 2019年(令和元年)11月12日午前3時8分、多臓器不全のため、東京都渋谷区の自宅で死去。85歳没。 この項目は、映画に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
鈴木 淳(すずき じゅん、1934年2月7日 - 2021年… 鈴木 淳(すずき じゅん、1934年2月7日 - 2021年12月9日)は、日本の作曲家、音楽プロデューサーである。本名:藤田 順二郎(ふじた じゅんじろう)。 夫人は元女優で作詞家の悠木圭子、前妻は作詞家の有馬三恵子。鈴木淳音楽事務所所属。 1934年(昭和9年)2月7日、山口県防府市の防府天満宮の宮司の子息として生まれる。 山口県立防府高等学校、早稲田大学教育学部国語国文学科卒業後、音楽之友社に入社、音楽雑誌の編集を手がけるが、過労により郷里に戻り、入院生活を送る。2年間の療養生活を経て、さらに2年間、同地の女子高校に国語科教諭として勤務する。合計4年の時期を経て東京に戻り、音楽之友社に復帰、音楽雑誌『教育音楽』『ポップス』の編集に携わり、『ポップス』編集長に就任する。
春日 千春(かすが ちはる、1934年2月6日 - 2016… 春日 千春(かすが ちはる、1934年2月6日 - 2016年10月16日、男性)は、日本のテレビプロデューサー。最終的な役職は大映テレビ顧問。大映テレビ制作の多くのテレビドラマにおいて、企画・プロデューサーを務めた。 長野県上伊那郡高遠町(現:伊那市)にて、5人兄弟の末っ子として出生。兄弟の上が4人とも男子で、両親は「今度こそ女の子を」と願っていたが、5人目も男子と分かるや父親はやけ気味に、当時まだ幼かったすぐ上の四男に「この中から好きなのを選べ」と命名の候補を見せて、四男が選んだのが「千春」だった。 小学1年生の時に、医師の大叔父が居た千葉県夷隅郡大多喜町に転居。旧制千葉県立千葉中学校(現:千葉県立千葉中学校・高等学校)に入学。
西谷 尚雄(にしたに ひさお、1934年2月 - )は、日本… 西谷 尚雄(にしたに ひさお、1934年2月 - )は、日本の音楽プロデューサー・演出家、作詞家。京都府出身。ペンネームは多木比佐夫。 京都府立大学卒業後、梅田コマスタジアム、東京録音スタジオ制作部に勤務して、舞台とラジオ放送、映画製作関連の実務をオーディオ・エンジニアーとして担当。 電通入社。CMプランナー、クリエイティブ・ディレクターとして30年間で1000本のテレビCM企画制作に関与多くの作品がACC,カンヌ、CLIO等、内外のCMコンクールで多数受賞。特に1970年チャールズ・ブロンソンを起用した、「マンダム」のデビューキャンペーンは外国人タレント起用の画期的な成功例として評価され、日本のCM史100傑に選出された。
網野 鉦一(あみの しょういち、1934年1月30日 - 2… 網野 鉦一(あみの しょういち、1934年1月30日 - 2006年1月17日)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサー、養成学校経営者である。網野映画株式会社、網野学園株式会社代表。日本映画監督協会物故会員。 1934年(昭和9年)1月30日、千葉県に生まれる。 1952年(昭和27年)3月、千葉県立長生高等学校を卒業、その後1956年(昭和31年)、満22歳のときに脚本家になった。日本映画監督協会公式ウェブサイトの網野の項目には、その6年後の1962年(昭和37年)に「新東宝映画演出部入社」と記載されているが、新東宝は前年1961年(昭和36年)8月31日に倒産しており、製作部門はその年の11月15日に切り離されて、ニッポン・アートフィルム・カンパニー(NAC)になっており、同年に同社が「新東宝」の名で製作したものは、2月11日公開の『俺が裁くんだ』(監督橋田寿久年、配給日活)、6月3日公開の『悲しみはいつも母に』(監督中川信夫、配給大映)の2作のみで、現在の新東宝映画の前身である新東宝興業が映画を製作するのは1963年(昭和38年)6月22日に公開された『日本残酷物語』(監督中川信夫・小森白・高橋典)を待つことになる。
松本 明(まつもと あきら、1934年1月22日 - 202… 松本 明(まつもと あきら、1934年1月22日 - 2022年7月18日)は、日本のテレビディレクター・プロデューサー・小説家である。京都市右京区出身。 1952年、京都府立嵯峨野高等学校を卒業し、1957年、早稲田大学第一文学部演劇科を卒業。同年6月、大映京都撮影所企画部に入社。同年末に退社。 大映退社後、大阪テレビ放送(のちにラジオ単営局だった朝日放送と合併)に移籍。演出部に配属され、フロアディレクターとして活躍後、1960年、『サンドイッチマン物語』の演出で正ディレクターとしてデビュー。『スチャラカ社員』、『てなもんや三度笠』といった公開コメディの先駆けとなった。 のちにドラマ部門に移籍し、『女の劇場』(帯ドラマ)、『近鉄金曜劇場』、『東芝日曜劇場』(当時のキー局であるTBS制作で、系列局も持ち回りで制作していた)などの単発ドラマをはじめ、マルチカメラのスタジオドラマに勝新太郎を起用した『悪一代』(1969年)、町工場を舞台にした庶民派喜劇『おやじ火山』(1970年)などを演出。
守分 寿男(もりわけ としお・1934年(昭和9年)1月9日… 守分 寿男(もりわけ としお・1934年(昭和9年)1月9日 - 2010年(平成22年)12月27日)は、北海道放送(HBC)に所属していたテレビディレクター・映像プロデューサーである。 参考資料:テレビドラマデータベース この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
世志 凡太(せし ぼんた、1934年1月4日 - 2025年… 世志 凡太(せし ぼんた、1934年1月4日 - 2025年11月18日)は、日本のソングライター(作詞家・作曲家)、俳優、コメディアン、演出家、音楽プロデューサー。本名は市橋健司(いちはし・けんじ)。東京都豊島区出身。芸名は、フランス語の「C'est si Bon.」(セシボン・「とってもいい」の意)から来ている。事実上の内縁関係にあった女優の浅香光代と35年間生活を共にしていた。浅草喜劇人協会会長。 18歳の時からアルバイトでバンドに加わって進駐軍のキャンプを回り、1957年に「原信夫とシャープス&フラッツ」にベーシストとして参加。渡邊プロに所属しバンドマンとしての活動他に同時期にコメディアンとして朝日放送の「てなもんや三度笠」などのテレビ番組、ハナ肇とクレージーキャッツ主演の映画、東宝・松竹の喜劇映画、NHKの音楽番組等に出演する。
折田 至(おりた いたる、1934年1月3日 - 2006年… 折田 至(おりた いたる、1934年1月3日 - 2006年9月27日)は、映画監督、演出家、テレビプロデューサー、UFO研究家、発明家。アイデア開発研究所代表、発明協会会員。鹿児島県鹿児島市出身。千葉大学工学部工業化学科(写真映画専攻)卒業。 1958年に東映に入社し、助監督として配属された東映京都撮影所を経て、1965年より東映東京制作所に所属する。『丸出だめ夫』・『悪魔くん』・仮面ライダーシリーズなど、特撮テレビドラマの監督として活躍した後、1978年には東映テレビ事業部プロデューサーに昇進し、スーパー戦隊シリーズの『バトルフィーバーJ』からはプロデューサーとして東映キャラクター路線を支える。
片野 満(かたの みつる、1934年 - )は、日本の映画脚… 片野 満(かたの みつる、1934年 - )は、日本の映画脚本家・演出家・監督・プロデューサー。 東京都出身。長野県諏訪清陵高等学校を経て、日本大学芸術学部卒業。岩波映画製作所にて科学映画、教育放送番組の脚本・演出・監督・プロデューサーを歴任し、内閣総理大臣賞ほか多数の受賞作品に携わった。安井電子出版取締役制作本部長を務めた。
高嶋弘之(たかしま ひろゆき、1934年 - )は、日本の音… 高嶋弘之(たかしま ひろゆき、1934年 - )は、日本の音楽ディレクター・プロデューサー。高嶋音楽事務所代表。「ビートルズの日本での仕掛人」として有名。娘はバイオリニスト・高嶋ちさ子。
荻原 達子(おぎはら たつこ、1934年 - 2007年5月… 荻原 達子(おぎはら たつこ、1934年 - 2007年5月2日)は、日本の能楽プロデューサー。 長野県岡谷市生まれ。東京女子大学短期大学部卒。能楽書林の編集部を経て、社団法人「銕仙会」の事務局長。退職後、同人組織の能楽座のゼネラルマネージャーを務めた。 様々な分野で演劇コーディネーターを務め、一貫して能・狂言の伝統の継承と創造活動を、裏方で支え、国内外を問わずあらゆる種類の能・狂言公演を手がけた。能楽師観世栄夫運転の自動車に同乗し帰宅中に東京都八王子市の中央自動車道で事故に遭い、頭部を負傷し亡くなった。73歳没。なお観世自身も衝撃で、闘病中だった事も重なり1ヶ月後に病没した。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
田波 靖男(たなみ やすお、1933年12月12日 - 20… 田波 靖男(たなみ やすお、1933年12月12日 - 2000年3月21日)は、日本の脚本家・作家・プロデューサー。東京都出身。ペンネームに「梅野かおる」「大井みなみ」がある。名前の表記は「靖」の右下の「月」が「円」になっている旧字も使われている。
天尾 完次(あまお かんじ、1933年(昭和8年)9月20日… 天尾 完次(あまお かんじ、1933年(昭和8年)9月20日 - 2011年(平成23年)7月3日)は、日本の映画プロデューサー。山口県出身。早稲田大学卒業。 1933年9月20日、山口県生まれ。早稲田大学文学部国文科卒業。小説家志望だったが、石原慎太郎『太陽の季節』(1955年)に打ちのめされて文学を断念、映画界に活路を求めた。 1956年、東映に入社。京都撮影所で量産体制のピーク期にあった時代劇の進行主任を多数つとめ、内田吐夢監督を師と仰いだ。プロデューサーとしての第一作は『若さま侍捕物帖 お化粧蜘蛛』(1962年)。その後、『十三人の刺客』(1963年)、『武士道残酷物語』(1964年)、『十一人の侍』(1967年)等、批評家から高く評価される作品を手がけたが、興行的には振るわなかった。
池田 文雄(いけだ ふみお、1933年(昭和8年)8月23日… 池田 文雄(いけだ ふみお、1933年(昭和8年)8月23日 - 2003年(平成15年)1月23日)は、日本のテレビプロデューサー。ニッポン放送、日本テレビのプロデューサーを務めた。 東京日本橋の商家の4代目として生まれた。小学校時代は、疎開先のお寺の本堂でドラマを作り、地元の老人たちを泣かせた。 慶應義塾大学在学中はグリークラブでアレンジやコンダクターをしていたほか、先輩のダークダックスに駆り出されて、アルバイトで日劇や国際劇場のステージにも立った。 大学卒業後、広告代理店の三晃社に入社。音楽プロデューサーとして『日石ドライブ・イン・アワー』等を担当した。1958年には担当していた番組が縁でニッポン放送に移る。
野田 昌宏(のだ まさひろ、1933年8月18日 - 200… 野田 昌宏(のだ まさひろ、1933年8月18日 - 2008年6月6日)は、日本の小説家、SF作家、翻訳家、宇宙開発評論家、テレビディレクター、プロデューサー、経営者。元日本テレワーク株式会社代表取締役社長(後に相談役)。株式会社ガイナックスの元監査役。 1960年代には主に本名の野田宏一郎(のだ こういちろう)名義を用い、1970年代以降は野田昌宏名義を用いた。また、作詞家としては「山本圭一」の変名も使用した。 1933年8月18日、野田健三郎とツヤ子の長男として福岡県で生まれる。1946年、福岡第一師範学校男子部附属国民学校(現在の福岡教育大学附属福岡小学校)を卒業。泰星中学校・高等学校入学。
石川 一彦(いしかわ かずひこ、1933年7月30日 - 2… 石川 一彦(いしかわ かずひこ、1933年7月30日 - 2001年6月19日)は、日本の経営者、プロデューサー。福岡放送社長を務めた。東京都出身。 1958年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に日本テレビ放送網に入社。 主に制作畑を歩み、『巨泉・前武ゲバゲバ90分!』の演出を担当。 1976年に制作局チーフプロデューサーに就任し、『アメリカ横断ウルトラクイズ』の発案や、「木曜スペシャル」にてカンボジアのアンコール・ワットの潜入取材ルポ番組『アンコール・ワットの謎をさぐる~密林に眠る東洋の神秘~』、『太平洋戦争秘話 ~欧州から愛をこめて~ 緊急暗号電「祖国ヨ和平セヨ!」』などのドキュメンタリー番組などを手掛ける。
細野 邦彦(ほその くにひこ、1933年7月21日 - 20… 細野 邦彦(ほその くにひこ、1933年7月21日 - 2021年4月25日)は、日本の元テレビディレクター、プロデューサー。元東京MXテレビ顧問。 東京都出身。幼少期に石川県金沢市、京都府宇治市に住む。立教大学経済学部卒業後、1959年に日本テレビに入社し、バラエティ畑を歩く。1960年代半ば~1970年代に『踊って歌って大合戦』『コント55号の裏番組をぶっとばせ!』『TVジョッキー』『テレビ3面記事 ウィークエンダー』など、高視聴率の低俗番組で一世を風靡する。 1993年に日本テレビを退社し、2000年に東京MXテレビに迎えられて同社のエクゼクティブプロデューサーや常務取締役に就任、その後は顧問を務めた。
小泉 修吉(こいずみ しゅうきち、1933年6月7日 - 2… 小泉 修吉(こいずみ しゅうきち、1933年6月7日 - 2014年11月12日)は、ドキュメンタリー映画監督、プロデューサー。 ドキュメンタリー映像制作会社「グループ現代」元・代表取締役会長。神奈川県横浜市生まれ。 「民族文化映像研究所」取締役事務局長。「環境テレビトラスト日本委員会(TVEジャパン)」委員長。 父は、映画監督・記録映画作家の上村修吉。義妹は、滋賀県環境生活協同組合理事長、NPO法人「菜の花プロジェクトネットワーク」代表の藤井絢子(ふじい あやこ)。 早稲田大学文学部ロシア文学科卒業。上野耕三の「記録映画社」を経て、フリーのドキュメンタリー映画ディレクターとなる。 レイチェル・カーソンの『沈黙の春』 に啓発され、1967年、農村医学の先駆者である、長野県の佐久総合病院の若月俊一院長の協力を得て、自主制作映画『農薬禍』を制作・演出。
林 功(はやし いさお、1933年5月28日 - 没年不明)… 林 功(はやし いさお、1933年5月28日 - 没年不明)は日本の映画監督、映画プロデューサー、俳優。 東京都出身。1956年、早稲田大学教育学部卒業。大仁東映と日活で働いている間、多くのコメディ、犯罪、冒険と歴史を題材とした作品を撮った。また、各映画に出演し、中平康、鈴木清順、舛田利雄、鍛冶昇などの他の監督と協力した。 時期は不明だが会員である日本映画監督協会公式サイトでは物故者となっている。
逸見 稔(へんみ みのる、1933年4月1日 - 1995年… 逸見 稔(へんみ みのる、1933年4月1日 - 1995年12月9日)は、日本のテレビプロデューサー、オフィス・ヘンミ創業者。神奈川県出身。 慶應義塾大学法学部を卒業すると同時に松下電器産業に入社して、東京宣伝部に配属される。初仕事はCMソング「明るいナショナル」の担当。やがてドラマを任されることとなり、スポンサー側プロデューサーという立場の「クライアントプロデューサー」としてテレビ番組作りに参加し、青春ドラマのはしり『青年の樹』、ホームドラマのはしり『七人の孫』(森繁久彌主演)、クイズ番組のはしり『ズバリ!当てましょう』(フジテレビ)等を制作した。 1966年に開始した、NETテレビのナショナルゴールデン劇場で、時代劇、サスペンス、現代劇、フルーツ・シリーズ等ジャンルにとらわれない多数の作品を制作し、『だいこんの花』が大ヒットを飛ばした。
澤田 隆治(さわだ たかはる、1933年〈昭和8年〉3月18… 澤田 隆治(さわだ たかはる、1933年〈昭和8年〉3月18日 - 2021年〈令和3年〉5月16日)は、日本のテレビプロデューサー、テレビディレクター、ラジオプロデューサー。テレビランド代表取締役社長。 東阪企画創立者で元代表取締役会長。その他にも日本映像事業協会会長、大阪放送芸術学院校長、全日本テレビ番組製作社連盟顧問、笑いと健康学会会長等を務める。 弟は放送作家の尾上たかし。 “さわだ りゅうじ”の読み方をされることもある。 大阪府吹田市出身。大阪商船に勤めた父の転勤で2歳から京城で育ち、終戦で父の故郷・富山県高岡市に引き揚げ、寂しい心を癒やしたのが喜劇映画だった。旧制富山県立高岡中学校(現・富山県立高岡高等学校)1年に編入、中学3年で住まいを移し、旧制兵庫県立尼崎中学校(現・兵庫県立尼崎高等学校)へ転入する。