前田 黙鳳(まえだ もくほう、嘉永6年(1853年)3月 -… 前田 黙鳳(まえだ もくほう、嘉永6年(1853年)3月 - 大正7年(1918年)11月19日)は、播州龍野(兵庫県たつの市)生まれの書家。名は圓、字は士方、黙鳳は号で、別号に龍野人がある。 明治から大正時代に活躍した書家で、書道会の発足や会報の発行に尽力し、展覧会の開催や法帖類などの古典資料の普及に努め、近代書道界の発展に大きく貢献した。作品には古銅器の銘文を臨書したものなど篆書体が多くあり、また六朝風の楷書体も得意とした。 嘉永6年(1853年)播州龍野藩士、前田忠作の次男として生まれる。20歳で上京し、明治9年(1876年)書肆博文社の手代となった。明治15年(1882年)京橋南鍋町に自ら書肆鳳文館を開き、『資治通鑑』・『佩文韻府』などの翻刻刊行を行った。
江南 哲夫(えなみ てつお、嘉永6年〈1853年〉 - 19… 江南 哲夫(えなみ てつお、嘉永6年〈1853年〉 - 1916年〈大正5年〉11月21日)は、会津藩士、白虎隊士、実業家、書家。旧姓林、諱は哲夫、号は蝦農。勲六等瑞宝章。 文久元年(1861年)に会津藩の南学館友善社に入り漢学を修めると、大学試験に及第し藩校日新館に入る。会津戦争では、数え15歳で白虎隊士(寄合組一番隊)として越後口の防衛戦に出動、戦後は越後高田に謹慎となる。その間、南摩羽峯に学び、明治3年(1870年)に赦されて上京、増上寺徳水院の藩塾に入る。のち淀藩主稲葉正邦公の給費生として同藩校に入り、転じて同年大阪開成所に入り英学を修める。次いで、鹿児島兵学校、東奥義塾、共慣義塾等を転々とした。
黒崎 研堂(くろさき けんどう、嘉永5年2月15日(1852… 黒崎 研堂(くろさき けんどう、嘉永5年2月15日(1852年3月5日) - 昭和3年(1928年)1月16日)は、江戸時代から昭和時代にかけての書家。庄内藩士。鶴岡町会議員、金融機関済急社社長(第3代)、松ヶ岡開墾場総監督。出羽国庄内(現・山形県鶴岡市)出身。別名は与八郎、馨、聚、敬治、子芳、東瀛。 庄内藩家老・酒井了明の3男として生まれ、後に黒崎友信の養子となる。 藩校致道館で学び、戊辰戦争の際には農兵小隊長として出陣。1870年には酒井忠篤に従い、鹿児島に赴き練兵を学ぶ。帰郷後、松ヶ岡開墾場の経営に従事。この間に黒崎たき(14歳)と結婚した。 研堂は幼き頃から書をよくし、1886年に斯界の第一人者であった日下部鳴鶴が鶴岡を来訪した際に入門した。
野村 素介(のむら もとすけ、1842年6月26日(天保13… 野村 素介(のむら もとすけ、1842年6月26日(天保13年5月18日)- 1927年(昭和2年)12月23日)は、幕末から昭和初期にかけての日本の武士(長州藩士)、官僚、政治家、書家。正二位勲一等 男爵。幼名は範輔、字は絢夫、号は右仲、素軒。 1842年(天保13年)5月18日に長州藩士 有地留之助の次男として周防国吉敷郡長野村(現在の山口県山口市)に生まれる。はじめ、萩の藩校明倫館で学ぶ。1859年(安政6年)4月、江戸へ行き、長州藩上屋敷内の有備館で学ぶ。さらに儒学者 塩谷宕陰から漢籍・経書・歴史を、書家 小島成斎から書道を学ぶ。1862年(文久2年)に帰国して明倫館舎長となる。 1863年(文久3年)10月に同じく長州藩士 野村正名の養子となり、1866年(慶応2年)2月、家督を継ぐ。
跡見 花蹊(あとみ かけい、天保11年4月9日〈1840年5… 跡見 花蹊(あとみ かけい、天保11年4月9日〈1840年5月10日〉 - 1926年〈大正15年〉1月10日)は、日本の教育者、日本画家、書家。学校法人跡見学園の創設者。甥は浦和画家の跡見泰。本名は跡見瀧野(たきの)。 摂津国西成郡木津村(現在の大阪市浪速区)生まれ。父重敬は寺子屋を営んでいた。幼少時より書や画などを習い、12歳の時石垣東山に入門、その後禎野楚山について画を学ぶ。 17歳の時の1856年(安政3年)に京都に遊学する。頼山陽門下の宮原節庵に漢籍、詩文、書を学ぶ。画は円山応立・中島来章から円山派(写生派)を、日根対山から南宗派(文人派)をそれぞれ学び、それぞれを生かした画風を作り上げた。
渡辺 信(わたなべ まこと、天保11年2月1日(1840年3… 渡辺 信(わたなべ まこと、天保11年2月1日(1840年3月4日) - 明治44年(1911年)12月13日)は、明治時代の素封家、政治家、実業家、蔵書家。号は青洲(せいしゅう)。市川大門村(現在の市川三郷町)の自宅内に青洲文庫という私立図書館を設立した。 甲斐国島上条村(現・甲斐市島上条)の小田切五郎右衛門の三男、小田切五三郎として生まれる。万延元年(1860年)、甲斐国西八代郡市川大門村の豪農・豪商渡辺寿の次女ふじのの婿養子となり、名を信(まこと)に改める。1871年(明治4年)家督を相続する。 1877年(明治10年)、甲州葡萄の主要生産地である八代郡祝村(甲州市勝沼町)で、雨宮広光を社長として大日本山梨葡萄酒会社が発足し、渡辺は藤村紫朗・栗原信近・若尾逸平・初鹿野市右衛門らとともに株主の一人となっている。
巖谷 一六(いわや いちろく、天保5年2月8日〈1834年3… 巖谷 一六(いわや いちろく、天保5年2月8日〈1834年3月17日〉 - 1905年〈明治38年〉7月12日)は、近江国(滋賀県)出身の書家、官僚、漢詩人。本名は修(しゅう)(幼名は辨治、ついで迂也)、字は誠卿。特に書家として名高く、一六(一六居士)はその号で、別号に迂堂・古梅・金粟道人などがある。日本近代児童文学の創始者と評される巖谷小波はその三男。 天保5年(1834年)、近江国甲賀郡水口(現在の滋賀県甲賀市)に生まれる。巌谷家は代々水口藩加藤家の侍医で、姓は正しくは「巖谷」と記す。ただしもとは「岩谷」で一六の時に字を改めたものである。 父玄通が天保10年(1839年)一六が6歳の時に亡くなり、家督を嗣ぐも幼少のため、しばらくして母利子とともに京都に赴き、同地で医術を三角棣園に、漢籍を皆川西園・家里松嶹に、書を安見氏に学んだ。
長 三洲(ちょう さんしゅう、天保4年9月23日(1833年… 長 三洲(ちょう さんしゅう、天保4年9月23日(1833年11月3日) - 明治28年(1895年)3月13日)は、豊後国生まれの勤皇の志士、官僚、漢学者、書家、漢詩人。諱は炗(ひかる)。幼名は富太郎、のち光太郎、太郎。字は世章。号は三洲(三州)のほか、蝶生、韻華、秋史、紅雪、楂客など。 勤皇の志士として倒幕運動に半生を捧げ、戊辰戦争を戦う。その後、山口藩の藩政改革に携わる。明治3年、上京し、太政官制度局の官僚となる。明治5年には文部官僚として、師の広瀬淡窓の咸宜園の学制を基礎に据え、日本の学制の礎を築いた。また、明治書家の第一人者で、近代学校制度の中に習字を位置づけた第一の功労者である。また漢学者、漢詩人としての名声高く、漢学の長三洲、洋学の福澤諭吉として明治前半期の教育界の双璧を成した。
金井 之恭(かない ゆきやす、天保4年9月18日(1833年… 金井 之恭(かない ゆきやす、天保4年9月18日(1833年10月30日) - 明治40年(1907年)5月13日)は幕末期の志士、明治期の官僚、書家。通称は文八郎。字は子誠。号は金洞(きんどう)・錦鶏など。変名に金井五郎・桑原梧楼などがある。長女は弁護士で政治家の小川平吉に嫁ぐ。錦鶏間祗候。 1833年9月、上野国佐位郡島村(現在の群馬県伊勢崎市)に画家で勤皇家の父・烏洲の四男として生まれる。金井氏は新田氏支族岩松氏の流れを汲むとされる。幼少の頃から文学を好み、また書もよくした。1867年、新田義貞の末裔とされる新田満次郎を擁し倒幕の挙兵を企てるが、事が露顕して投獄される。1868年9月、東京府市政局に出仕。
中林 梧竹(なかばやし ごちく、文政10年4月19日(182… 中林 梧竹(なかばやし ごちく、文政10年4月19日(1827年5月14日) - 大正2年(1913年)8月4日)は、日本の書家。明治の三筆の一人。名を隆経、通称は彦四郎、字は子達。号は梧竹、別号に剣閣主人など。家は代々鍋島藩の支藩小城藩の家臣であった。 肥前国小城藩(現在の佐賀県小城市)出身。幼い時に草場佩川に師事する。19歳の時に藩命により江戸に留学し、山内香雪、市河米庵の門に入って書を学んだ。 1877年(明治10年)清国の余元眉(よげんび、長崎の清国理事府理事官)から中国の碑版法帖の提供を受け、梧竹の六朝書の研究が始まった。1882年(明治15年)梧竹は帰国する余元眉とともに清国に渡り、余元眉の師潘存のもとで古碑、拓本の蒐集・研究に没頭する。
成瀬 大域(なるせ たいいき、文政10年(1827年)1月 … 成瀬 大域(なるせ たいいき、文政10年(1827年)1月 - 明治35年(1902年)2月5日)は、書家である。字は子直。通称は久太郎。大域、賜硯堂主人と号する。本名は温(ゆたか)。 遠江国佐野郡日坂(現・静岡県掛川市日坂)出身。書を母方の祖母巣甫に学ぶ。明治初年、東京に出て、漢学を安井息軒・芳野金陵・川田甕江に学ぶ。安井の塾にいたとき、安井の作詩を代書した。明治8年(1875年)、宮中に出仕し、明治12年(1879年)、勅命によって王羲之の『集字聖教序』を模して献じ、明治天皇はこれを嘉して楠木正成の遺物である尚方の硯を賜り、その居に賜硯と扁した。ついで諸葛孔明の「出師表」の真草2幅、明治14年(1881年)、十体書幅を献じた。
奥 並継(おく なみつぐ、文政7年(1824年)12月 - … 奥 並継(おく なみつぐ、文政7年(1824年)12月 - 明治27年(1894年)2月26日)は、幕末・明治期の志士、国学者、書家、明治期日本の大蔵官僚である。字は子紹、菱池(菱池は宇佐神宮境内の池名)と号す。 豊前国宇佐村(現大分県宇佐市)の藤波氏に生まれ、宇佐神宮祠官漆島姓の奥氏の養嗣子になる。12歳で広瀬淡窓の門に入り、後に帆足万里に学んだ。 嘉永5年(1852年)、宇佐神宮官人代に任じられ、従五位下対馬守に叙せられた。安政2年(1855年)、江戸に出て平田篤胤の門に入り国学を修めた。 文久3年(1863年)、飄然して京都に出遊して憂国の志士と交わり、国事疾走の生活が始まる。丁度三条実美卿らの七卿落ちとなり、勤王攘夷党の蹉跌をみるや、憤慨し直ちに宇佐に帰り、豊前国、豊後国の志士らと語らい勤王倒幕の先鞭をつけんとしてならず、弟の時枝重明と共に日田の獄舎に投じられ、3年を経て即位の大赦により出獄した。
松田 雪柯(まつだ せっか、文政6年3月5日(1823年4月… 松田 雪柯(まつだ せっか、文政6年3月5日(1823年4月15日) - 明治14年(1881年)9月3日)は、伊勢山田(現在の三重県伊勢市)生まれの書家。名は元修、字は子践、幼名は慶太郎、通称は縫殿(ぬい)、雪柯は号で、別号に澹所などがある。 幕末の三筆と称される貫名菘翁の書法を日下部鳴鶴・巖谷一六などに指導した。また、明治13年(1880年)清の楊守敬が漢魏六朝の碑帖を携えて来日した後、巌谷一六・松田雪柯・日下部鳴鶴の3人は楊守敬に師事して書法を研究し、六朝書道を提唱し興隆させた。 文政6年(1823年)、伊勢山田一志久保町に生まれる。家は代々伊勢神宮の祠官であり、幼少の頃から父(適翁)に書画を習い、のちに貫名菘翁などの門人となって、書画の鑑識・書法・水墨画などを学んだ。
山中 静逸(やまなか せいいつ、文政5年9月2日(1822年… 山中 静逸(やまなか せいいつ、文政5年9月2日(1822年10月16日) - 明治18年(1885年)5月25日)は、三河国碧海郡棚尾村東浦(現在の愛知県碧南市)出身の書家・政治家である。山中 信天翁(やまなか しんてんおう)として知られる。 幼名は松寿。諱(いみな、生前の実名)は献(まつる)。号を信天翁、静逸と称した。 三河国碧海郡棚尾村の豪農(素封家)の家に次男として生まれる。父の山中七左右衛門(山中子敏、しびん)は京都で学び、日本各地を歩いて地理を探求し、東浦で子弟の教育を行っていた。 早いうちから大坂の篠崎小竹に入門したが、嘉永元年(1848年)に父が死去すると、家業を継いだうえで寺子屋を開いた。
浅野 長祚(あさの ながよし、文化13年6月9日〈1816年… 浅野 長祚(あさの ながよし、文化13年6月9日〈1816年7月3日〉 - 1880年〈明治13年〉2月17日)は、江戸時代末期(幕末)、明治時代の幕臣(旗本)、蔵書家、書画家、芸術鑑定家。字は胤卿、通称は金之丞、号の梅堂で知られる。官途は中務少輔、和泉守、備前守など。他に池香、蔣潭、蝦侶斎漱芳閣、楽是幽居、柏洪楼とも名乗った。 文化13年(1816年)、江戸飯田町(現・千代田区)で旗本浅野長泰(号は金谷)の子として生まれる。家系は播磨赤穂藩浅野家の支族(家原浅野家)で、家禄3500石の上級旗本であった。幼少より父から漢詩・和歌・俳句等を学び、書画をよくした。出羽亀田藩主岩城隆喜の3女直子と結婚。
井田 磐山(いだ ばんざん、明和4年〈1767年〉 - 文久… 井田 磐山(いだ ばんざん、明和4年〈1767年〉 - 文久3年3月18日〈1863年5月5日〉)は日本の書家。名は直、号は磐山、俗称は要人。 書をもって僧位の最高位である「法印」に補任された。 大篠津村(現鳥取県米子市大篠津町)の本池家に生まれ、養われて佐斐神村(現境港市佐斐神町)の井田家に入った。 幼いときから書に親しみ、若くして郷里を出て、京都で苦学し書法の奥義を体得した。書をもって諸方に遊び、東海、北陸、奥州に足跡を残す。中でも宮城県志田郡古川の地では数年もとどまり、多くの子弟に書を教えている。 80歳を過ぎてからふたたび京都へ至り比叡山延暦寺に身をよせた。 1848年5月14日書をもって法橋に叙せられ同年7月1日比叡山曼陀羅院の額を書しその功によって法眼に任ぜられた。
木下 真理子(きのした まりこ、3月1日 - )は、日本の書… 木下 真理子(きのした まりこ、3月1日 - )は、日本の書家。翠風会主宰。雅号は秀翠(しゅうすい)。古来受け継がれている伝統文化としての書を正統的に継承しつつ、現代における書の在り方を探求している。茨城県出身。 6歳より祖父の影響で筆を持ち、より専門的な知識と高度な技術を習得するために、書道の研究では第一線として知られる大東文化大学に進学。そこで戦後の日本書道界を牽引した、 青山杉雨(文化勲章受章、大東文化大学元教授)の継承者である髙木聖雨に師事。大東文化大学文学部日本文学科卒業後は日本を代表する書展[どこ?]で作品を発表し、数々の賞を受賞。『国際女性筆墨展』(参加国:中国、台湾、韓国、日本、シンガポール、フランス、イタリア、ドイツ、アメリカなど)では、日本代表の女流書家として選出された。
國重 友美 は、日本の書家、芸術家、元タレント。山口県山口市… 國重 友美 は、日本の書家、芸術家、元タレント。山口県山口市出身。神戸松蔭女子学院大学文学部卒。
井上 有一 は、昭和時代の教育者・書家。
森 舞扇(もり まいせん)は、日本の書家。千葉県千葉市稲毛区… 森 舞扇(もり まいせん)は、日本の書家。千葉県千葉市稲毛区にて書道教室運営。日本国内だけでなく、海外の美術展にも出品を行う国際的書家。 小学校6年より種谷扇舟に教えを受ける。東京学芸大学書道科卒業。田邊古邨、伊藤参州、續木湖山に教えを受ける。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術)。
小野 道風(おの の みちかぜ/とうふう)は、平安時代前期か… 小野 道風(おの の みちかぜ/とうふう)は、平安時代前期から中期にかけての貴族・能書家。参議・小野篁の孫で、大宰大弐・小野葛絃の三男。官位は正四位下・内蔵頭。 それまでの中国的な書風から脱皮して和様書道の基礎を築いた人物と評されている。後に、藤原佐理と藤原行成と合わせて「三跡」と称され、その書跡は野跡と呼ばれる。 小野葛紘が尾張国春部郡上条(愛知県春日井市松河戸町)に滞在中、里女を母に葛紘の三男として生まれたとされる。この説は史実としては確認できない伝承の類で、南北朝期の『麒麟抄』や江戸時代前期の天野信景らの考証によってこの説が広まった。 醍醐朝の延喜5年(905年)には弱冠12歳にして大嘗会の屏風の色紙形を書く。
日向 伯周(ひなた はくしゅう) は、日本の書家。 本名:日… 日向 伯周(ひなた はくしゅう) は、日本の書家。 本名:日向 雅之(ひなた まさゆき)。 長野県生まれ。長野県野沢北高等学校卒業。 1999年、東洋大学文学部卒業。駒沢女子大学講師、毎日書道会審査会員、創玄書道会一科審査会員、日向書道教室主宰、松風閣書藝院理事長。元東洋大学文学部書道講座講師、元NHK文化センター青山教室講師。 2018年、一般社団法人最先端表現技術利用推進協会「羽倉賞」毛筆題字。 2021年映画「KAPPEI」毛筆題字。同年、日中韓名家オンライン書法展出品。 『比較して学ぶ 王羲之と董其昌』編著(アートライフ社) ISBN 4908077002
河野 重陽(かわの ちょうよう)は日本の書家、現代破体書道家… 河野 重陽(かわの ちょうよう)は日本の書家、現代破体書道家。女性。東京都八王子市生まれ。東洋書道芸術学会副会長。全部門師範。評議員。松本書道会主幹。幼少のころから書に囲まれて育つ。破体書に関心を持ち、国内にとどまらず、世界各地の破体展に出品する。 二松学舎大学文学部中国文学科書道専攻卒業。 大学在学中は、祖父・石橋犀水に学ぶ。卒業後は一貫して父・松本筑峯に師事する。母親は、石橋犀水の長女である女流破体書家・松本子游。 破体書の教育・普及活動を国内外を問わず積極的に展開する。東京都美術館で開催される東洋書芸展大賞を受賞した。中国、韓国、イギリス、ポーランド(トルン)、スロバキア(ブラチスラバ)などの海外展にも出品している。
橘 紅樂(たちばな こうらく、本名:蒲池由香里)は橘流寄席文… 橘 紅樂(たちばな こうらく、本名:蒲池由香里)は橘流寄席文字書家。女性。 福岡県出身。日本福祉大学卒。大学卒業後鹿児島県の実家に戻っていたが寄席文字に興味を抱く。落語協会に連絡をして橘右樂を紹介してもらい、1998(平成10年)1月より師事。当初は鹿児島でファクスを通して指導を受けていた。1999(平成11年)1月に上京、寄席文字橘会勉強会に参加。2003(平成15年)11月、橘流寄席文字一門の総意のもと「橘紅樂」の名前を許される。寄席文字伝承者として普及と啓蒙のために幅広く活動中。 大師匠にあたる橘右近の遺品については一門の橘右龍と共に資料の散逸を恐れて一括収蔵先を探し、2013(平成25)年に3466点が江戸東京博物館に「橘右近コレクション」として収蔵されるまで奔走した。
游高(ゆうこう)は日本の書家、現代破体書道家。女性。東京都八… 游高(ゆうこう)は日本の書家、現代破体書道家。女性。東京都八王子市生まれ。東洋書道芸術学会理事。全部門師範。松本書道会銀座ルーム長。 松本筑峯、松本子游、河野重陽に師事。4歳から筆を持つようになる。日々、書の世界に囲まれた生活を過ごす。小学生のとき、書き方の授業の教科書は曽祖父の石橋犀水が監修した教科書で授業をうけていた。小学校3年生の時、初めての海外渡航である中国に行き、松本筑峯、松本子游、河野重陽などの筑峯の門下生である現代破体書道家と一緒に浙江省の美術館で開催された揮毫会に参加し、中国の能書家たちと揮毫を通して交流し、エネルギッシュな書道の壮大な世界に魅了された。 現代破体書道家である祖父母、松本筑峯と松本子游が他界したことをきっかけに、破体書にさらに関心を持ち、国内にとどまらず、世界各地の破体展に出品し、破体書の魅力を伝えるべく、精力的に普及活動を行う。
春亭 右乃香(しゅんてい うのか、本名:名村佐和)は寄席文字… 春亭 右乃香(しゅんてい うのか、本名:名村佐和)は寄席文字書家。女性。 東京都出身。1986年早稲田大学第一文学部入学、卒業。大学では落語研究会に所属。 1987年に橘右近に入門。1994年に「橘右乃香」の名前を許される。 師匠没後の2001年に「春亭右乃香」を名乗り独立、活躍中。
本田 定年(ほんだ さだとし)は明治時代の地方行政官・民権家… 本田 定年(ほんだ さだとし)は明治時代の地方行政官・民権家・書家。通称は孫三郎、号は退庵。武蔵国多摩郡下谷保村名主、神奈川県第十大区一小区戸長、北多摩郡役所書記。書記時代は公務の傍ら自由民権運動に関わり、晩年は東京に書法専修義塾を開いて書道を教えた。 幼名は簡蔵。幕末の政情不安の中、府中宿の近藤勇、日野宿の佐藤彦五郎の道場に通い、天然理心流剣術を学んだ。元治2年(1865年)2月21日父覚庵、慶応3年(1867年)9月15日兄東朔が急死して急遽家督を継ぐことになったが、医術は未熟だったため、伊豆国賀茂郡長津呂村(南伊豆町)から覚庵の同門武田宗堅を招いて医業を任せ、診療収入を宗堅のものとする代わりに無償で医業を学んだ。
白川 芝山(しらかわ しざん、宝暦9年(1759年) - 嘉… 白川 芝山(しらかわ しざん、宝暦9年(1759年) - 嘉永3年1月25日(1850年3月8日)は、日本の江戸時代後期の南画家、書家。名を景皓、通称は芳介。号は芝山、大観堂や東山外史。 淡路国洲本金屋の賀集家に生まれる。賀集家は代々醸造業を営み、裕福だったという。芝山は最初書を学び、草書に優れる唐の張旭を手本とした。絵の師匠は不明だが、現存作品を見ると南画風、長崎派風、或いは四条派風などを使い分けている。また俳句にも堪能で、玉蕉庵と号して俳画も残している。地元の淡路では、長崎派風の虎の絵で知られている。 天明2年(1782年)24歳で上京、白川宮主催の席画会で賞賛を受け、白川姓を許されたと言われる。
大橋 陽山[読み疑問点]は、日本の書家である。 1962年生… 大橋 陽山[読み疑問点]は、日本の書家である。 1962年生まれ。東京都在住。5歳より書の世界に入り、書家である父より薫陶を受ける。“書”の伝統と古典を重んじながらも、現代との融合にベクトルを合わせ独自の活動を展開している。【然美会 会長、 墨心会 主宰】 福井県敦賀市で育ち、1歳から筆を持ち始める。5歳より、書家であり父でもある 大橋洸風( 新日本書道会 師範、現日書道会 同人 )の指導を受け本格的に書の世界に入る。8歳より、京都 「新日本書道会総本部 代表 秋山公道先生」より直接指導を受けるようになり、京都に通う日々を送る。高校2年生で師範を取得。 合格通知が届いた当日の朝、自宅兼書道教室の窓から見える大きな山に燦々と太陽が降り注ぐ様が美しかったことから、書家としての雅号「陽山」の命名を受ける。
石田 壱城(いしだ いちじょう、本名:石田 孝一(いしだ こ… 石田 壱城(いしだ いちじょう、本名:石田 孝一(いしだ こういち))は書家。昭和15年生。北海道登別市出身。北広島市在住。 読売書法展理事審査会員。北海道書道展審査会員。北広島市文化連盟顧問。北広島市書道連盟会長。平成13年「北広島市文化賞」受賞。北海道新聞文化センター「書と表装入門」講師。書道研究『尚志会』代表。元高等学校教諭(英語、書道)