増原 惠吉(ますはら けいきち、1903年〈明治36年〉1月… 増原 惠吉(ますはら けいきち、1903年〈明治36年〉1月13日 - 1985年〈昭和60年〉10月11日)は、日本の内務及び防衛官僚、政治家。香川県知事(官選第37代、公選初代)、参議院議員(4期、自由民主党)、行政管理庁長官(第25-26代)、北海道開発庁長官(第23-24代)、防衛庁長官(第26・29-30代)。 愛媛県北宇和郡宇和島町(現宇和島市)で増原定蔵の次男として生まれる。 宇和島中学校、第一高等学校を経て1928年(昭和3年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業。高等試験に合格して内務省に入省。京都属。 和歌山県保安課長、特高課長、北海道庁警視保安課長、兵庫県警務課長、山形県警務部長など警察畑を歩いたのち1946年(昭和21年)6月、香川県知事に就任した。
土方 浩平(ひじかた こうへい、1903年1月13日 - 1… 土方 浩平(ひじかた こうへい、1903年1月13日 - 1981年1月11日)は日本の演出家、人形劇団主宰者。俳優としての活動歴もある。 現在の北海道小樽市色内町に生まれる。1903年4月、翌1904年5月の大火に罹災。時計店を営んでいた生家は門別(現・日高町)に移り、1908年秋には両親の故郷である山形県酒田市に移る。このころ、神社の祭りで初めて人形芝居(活動人形)を観て魅せられる。土方が(尋常小学校)2年生の8月に父が死去して、時計店は廃業となる。その後、寺に預けられたり、1914年夏から1915年春まで親戚の伝で東京上野に洋菓子店の小間使として出される等、家庭は困窮した。帰郷して約半年後の1915年8月、兄とともに上京した。
西田 信春(にしだ のぶはる、1903年1月12日 - 19… 西田 信春(にしだ のぶはる、1903年1月12日 - 1933年2月11日)は、日本の戦前の社会運動家・平和運動家。 北海道新十津川村出身。出生は岩見沢市で4歳から新十津川で幼児期をすごす。札幌第一中学校、第一高等学校を経て東京帝国大学文学部倫理学科に入学。東大時代はボート部に所属し、社会科学、社会主義を学ぶ。小樽高等商業学校での軍事演習に対する抗議行動に端を発した軍事教育批判が全国の大学に広がる中、治安維持法改悪により私有財産制の否定や平和運動が処罰の対象となった1925年秋、新人会に参加し、石堂清倫らと活動を始める。1926年5月より大衆教育同盟本部書記などを務め、社会科学研究会でも活動。
ハナヤ勘兵衛(はなや かんべい、または、はなや かんべえ、1… ハナヤ勘兵衛(はなや かんべい、または、はなや かんべえ、1903年1月12日 - 1991年5月15日)は、日本の写真家。本名は桑田和雄。 1903年に大阪市西区江戸堀で生まれる。大阪府立堺中学校(現・大阪府立三国丘高等学校)を卒業後、写真家になるために上海に渡り、その後香港やシンガポールにも渡る。1927年に帰国後、玉子と結婚。1929年に芦屋で写真材料店を開き、「ハナヤ勘兵衛」と名乗るようになった。 1930年に、中山岩太が中心となり結成された「芦屋カメラクラブ」に紅谷吉之助、高麗清治らとともに参加し、関西での新興写真運動の中心的存在の一人として活躍。その作品には、多重露光やフォトモンタージュを駆使したものが多く、強烈なモダニズムを感じさせ、1932年に創刊された雑誌『光画』にも、その作品が掲載された。
安川 寛(やすかわ ひろし、1903年1月12日 - 199… 安川 寛(やすかわ ひろし、1903年1月12日 - 1999年2月18日)は、日本の経営者、工学博士。安川電機社長、会長を務めた。福岡県北九州市出身。 旧制小倉中学校を経て、1927年に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業し、1934年に東京帝国大学大学院を修了。東京大学で講師、航空研究所嘱託として勤務し、1936年に安川電機製作所取締役に就任。1944年に社長に就任し、1972年に会長を経て、1985年に名誉顧問に就任。 北九州商工会議所会頭、福岡大学理事長、エフエム九州社長、日本電機工業会会長、日本経営者団体連盟常任理事なども歴任。 1964年に藍綬褒章を受章し、1973年に勲二等瑞宝章を受章。
加瀬 俊一(かせ としかず、1903年(明治36年)1月12… 加瀬 俊一(かせ としかず、1903年(明治36年)1月12日 - 2004年(平成16年)5月21日)は、日本の外交官、外交評論家。第二次世界大戦前後に活躍し、国際連合加盟後初の国連大使や外務省顧問、内閣総理大臣顧問などを歴任した。外交評論家の加瀬英明は息子。
加瀬 俊一(かせ としかず、1903年(明治36年)1月12… 加瀬 俊一(かせ としかず、1903年(明治36年)1月12日 - 2004年(平成16年)5月21日)は、日本の外交官、外交評論家。第二次世界大戦前後に活躍し、国際連合加盟後初の国連大使や外務省顧問、内閣総理大臣顧問、日本を守る国民会議議長などを歴任した。外交評論家の加瀬英明は息子であり、オノ・ヨーコは姪。 終戦時にポツダム宣言受諾の日本政府の決定を連合国側に通知したスイス駐在公使の加瀬俊一(しゅんいち)(1956年死去)とは同姓同名の別人である。外務省内では入省年度が早い(1920年入省)彼と区別するため「小加瀬」とも称された。 1903年(明治36年)に最年少代議士・弁護士・中央大学副学長であった父・加瀬禧逸の五男として千葉県旭町(現在の千葉県旭市大田)に生まれた。
岩橋 英遠(いわはし えいえん、1903年1月12日 - 1… 岩橋 英遠(いわはし えいえん、1903年1月12日 - 1999年7月12日)は、日本画家、文化勲章受章者、日本芸術院会員。位階は従三位。 北海道空知郡江部乙村(現在の空知管内滝川市江部乙町)に、熊本県出身の屯田兵岩橋浅次と妻きくの長男として生まれる。本名・英遠(ひでとお)。 同村立北辰尋常高等小学校を卒業後、農業を手伝いながら独学で絵を描く。21歳で上京、山内多門の画塾に入る。師の死後は安田靫彦門下となる。院展同人として活躍し、日本画新時代の一翼を担う。洋画の手法も取り入れつつ、独自の自然観照による写実的でありながら幻想的でもある印象のある絵画世界を創造し続け、享年まで日本画壇の重鎮として活躍した。
磯村 英一(いそむら えいいち、1903年1月10日 - 1… 磯村 英一(いそむら えいいち、1903年1月10日 - 1997年4月5日)は、日本の都市社会学研究者。
谷野 せつ(たにの せつ、1903年1月10日 - 1999… 谷野 せつ(たにの せつ、1903年1月10日 - 1999年1月28日)は、日本の官僚。日本における最初期の女性行政官であり、女性の労働環境を調査した先駆的な取り組みで知られる。 千葉県出身。1926年3月、日本女子大学校社会事業部女工保全科を卒業し、内務省社会局労働部監督課で工場監督官補を務める初の女性となった。1939年に厚生省労働局監督課兼指導課を務める。1941年には大日本産業報国会中央本部に参加した。 戦時中の谷野は、既婚女性や女性労働者の過酷な労働環境を書きつつ、皇国史観にもとづいた精神論を報告している。他方で、女性労働者への技術協力や職業教育を行って養成を充実させ、労働災害の減少を進めた。
藤田 信男(ふじた のぶお、1903年1月9日 - 1992… 藤田 信男(ふじた のぶお、1903年1月9日 - 1992年4月25日)は、大学野球の選手・指導者として活躍した人物である。元法政大学名誉教授。中国・天津市生まれ。 天津市で料亭「敷島桜」を営む家の長男として生まれる。兵庫・伊丹中学(現兵庫県立伊丹高)から法政大学に進み外野手として活躍、主将も務めた。1927年卒業後、監督代理を経て1929年に法大野球部の3代目監督に就任した。日本遠征で訪れたハワイチームのエース若林忠志を勧誘するなどチーム強化に努め、1930年東京六大学秋季リーグ戦でチームを創部初の優勝に導いた。その後1940年まで12年の任期中4回のリーグ優勝を達成、法大野球部の第一次黄金時代を創り上げた 監督を退いた後は東京六大学野球連盟(就任当時は東京大学野球連盟)の理事に就任、戦時下の野球統制に対して飛田穂洲らとともに軍部・文部省による弾圧阻止に奔走した。
大石 義雄(おおいし よしお、1903年1月8日 - 199… 大石 義雄(おおいし よしお、1903年1月8日 - 1991年4月29日)は、日本の法学者(憲法)。法学博士(立命館大学・論文博士・1947年)。京都大学名誉教授。従三位勲二等瑞宝章。山形県出身[要出典]。 戦後、押し付け憲法論、憲法無効論、改憲論を積極的に唱えた。 旧制弘前高等学校(弘前大学の前身)を経て、1929年に京都帝国大学法学部卒業。同大では佐々木惣一に憲法を学ぶ。1947年立命館大学より法学博士の学位を取得。 1930年、和歌山高等商業学校(和歌山大学経済学部の前身)講師、1939年、同教授。1947年、大阪府立淀川工業専門学校(大阪府立大学工学部の前身)校長、1947年12月京都大学法学部教授(国法学講座)、1950年から1956年まで大阪大学教授兼任、1956年9月京都大学法学部長(1958年12月まで)、1966年4月京都大学を定年退官し名誉教授となる。
山崎 知二(やまざき ともじ、1903年〈明治36年〉1月8… 山崎 知二(やまざき ともじ、1903年〈明治36年〉1月8日 - 1994年〈平成6年〉2月26日)は、日本の文学者(フランス文学)。愛知大学名誉教授。 京城帝国大学法文学部助教授、愛知大学文学部教授、愛知大学文学部学部長、愛知大学教養部部長などを歴任した。 静岡県出身のフランス文学を専攻する文学研究者である。シャルル・ボードレールやアンドレ・ジッドの作品の研究で知られている。当初は京城帝国大学で教鞭を執り、太平洋戦争後は長年に亘り愛知大学で教鞭を執った。 1903年(明治36年)1月8日に山崎豐太郞の二男として生まれ、静岡県小笠郡で育った。愛知県名古屋市に所在する旧制高等学校にて学んだ。東京府東京市に所在する東京帝国大学に進学し、文学部の仏文学専攻で学んだ。
森 茉莉(もり まり、1903年〈明治36年〉1月7日 - … 森 茉莉(もり まり、1903年〈明治36年〉1月7日 - 1987年〈昭和62年〉6月6日)は、日本の小説家・エッセイスト。翻訳も行っていた。 東京市本郷区駒込千駄木町出身。文豪森鷗外と、その2人目の妻志げの長女である。幻想的で優雅な世界を表現することに優れており、主な著作には『父の帽子』『恋人たちの森』『甘い蜜の部屋』などがある。また、独特の感性と耽美的な文体を持つエッセイストとして、晩年まで活躍した。 森家の長女として生まれた茉莉は、鷗外を始め非常に多くの人に囲まれ、かわいがられて育った。特に鷗外の溺愛ぶりは有名で、彼女は16歳まで鷗外の膝の上に座っていたという。 東京女子高等師範学校附属小学校(現・お茶の水女子大学附属小学校)に入学したが、10歳の時に教師と衝突して中退し、仏英和尋常小学校(現・白百合学園小学校)に転校。
藤田 六朗(ふじた ろくろう、1903年1月7日 - 200… 藤田 六朗(ふじた ろくろう、1903年1月7日 - 2004年[要出典])は、日本の医師。元北陸大学教授。専門は、東洋医学。 石川県生まれ。1930年旧制金沢医科大学(現・金沢大学)卒業。金沢医科大学大里内科に勤務。1935年に医学博士の学位を取得し、1936年から金沢市に内科・心臓病科・腎臓病科・循環器病科の専門で病院を開業する。1955年から約20年間、金沢女子短期大学教授として生理学と衛生学講座を担当した。1975年から学校法人松雲学園理事、北陸大学教授となって経絡学講座を担当した。1978年に藤田東洋医学研究所を開設する。1955年にドイツ鍼学会年次大会へ招聘され講演を行う。1965年に東京で開催された第1回国際鍼学会に出席して、経絡経穴学学名委員長となり、同年、ウイーンで開催された第13回欧州鍼学会に出席する。
松尾 吾策(まつお ごさく、1903年(明治36年)1月6日… 松尾 吾策(まつお ごさく、1903年(明治36年)1月6日 - 1988年(昭和63年)6月16日)は、日本の政治家。元岐阜市長。父は元岐阜市長で貴族院議員であった松尾国松。
権 煥(クォン・ファン、朝鮮語: 권환/權煥、1903年1月… 権 煥(クォン・ファン、朝鮮語: 권환/權煥、1903年1月6日 - 1954年7月30日)は、日本統治時代の朝鮮及び大韓民国の詩人。本貫は安東権氏。 本名は権 景完(クォン・ギョンワン、권경완)、または権 允煥(クォン・ユヌァン、권윤환)。 大韓帝国慶尚南道昌原郡鎮田面に生まれ、渡日し山形高校を経て京都帝国大学(現・京都大学)独文科卒業。1925年に雑誌『学潮』に作品を発表し、それに関連して拘束された。同時期に留学中であった金孝植や安漠、林和らと親交を結び、朝鮮プロレタリア芸術家同盟東京支部などで活躍した。1930年に林和らとともに帰国し朝鮮プロレタリア芸術家同盟を主導し、『行くなら行こう』(朝鮮之光1930年3月)、『頭を地まで下げるまで』(音楽と詩1930年8月)や、そのほか『無産芸術運動の別故と将来の展開策』、『朝鮮芸術運動の当面の具体的過程』などの文学批評を発表している。
志賀 夘助(しが うすけ、1903年1月6日 - 2007年… 志賀 夘助(しが うすけ、1903年1月6日 - 2007年4月15日)は、日本の昆虫調査機器商、昆虫商。 新潟県東頸城郡松之山村(現十日町市)生まれ。1931年に志賀昆虫普及社を設立し、日本の昆虫学普及に力を注ぐ。1974年、黄綬褒章受章。十日町市名誉市民。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
林 雲渓(林 雲谿、はやし うんけい、本名:林 勇、1903… 林 雲渓(林 雲谿、はやし うんけい、本名:林 勇、1903年(明治36年)1月6日 - 1990年(平成2年)9月11日)は、日本画家。徳島県麻植郡鴨島町(現吉野川市)出身。 1984年(昭和59年)に南画に優れた功績を挙げた第一人者として徳島県文化賞を受賞。 四国八十八箇所11番札所である藤井寺本堂の天井絵には雲渓の描いた雲龍が描かれている。30畳ほどの大きさがあり、繊細な線と睨みをきかせた迫力のある顔が薬師如来を守つているかのように見える。 現在、鴨島町の吉野川市立森山小学校に雲渓の記念碑が建てられている。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
小林 英夫(こばやし ひでお、1903年1月5日 - 197… 小林 英夫(こばやし ひでお、1903年1月5日 - 1978年10月5日)は、日本の言語学者、東京工業大学名誉教授。 東京府出身。1927年東京帝国大学言語学科卒。1928年、ソシュールの『一般言語学講義』(仏: Cours de linguistique générale)を『言語学原論』として世界にさきがけて翻訳する。1929年京城帝国大学講師、1932年助教授(ギリシア語、言語学)、敗戦により東京に引き揚げ、1946年京都帝国大学文学博士。1948年東京工業大学教授(フランス語、言語学)、1950年名古屋大学教授兼任。1963年東工大を定年となり名誉教授、早稲田大学教授、1973年退職。
田宮 博(たみや ひろし、1903年(明治36年)1月5日 … 田宮 博(たみや ひろし、1903年(明治36年)1月5日 - 1984年(昭和59年)3月20日)は、日本の理学、植物博士。微生物学者。専攻は、植物生理学、細胞生理学。光合成の研究により世界的評価を得た。国際生物学事業計画(International Biological Programme)副会長。 大阪市出身。医学者の田宮猛雄の弟。また、チェロの演奏家でもあり、民谷宏の変名で、諸井三郎、河上徹太郎らと共に樂團スルヤを組織した。 1926年(大正15年)東京帝国大学理学部植物学教室卒。ドイツ国、フランスに留学後、1933年(昭和8年)東帝大助手、1939年(昭和14年)同大学助教授、1943年(昭和18年)東京帝大教授(理学・植物学)。
古井 喜実(ふるい よしみ、別表記 : 古井 喜實、1903… 古井 喜実(ふるい よしみ、別表記 : 古井 喜實、1903年 <明治36年> 1月4日 - 1995年 <平成7年> 2月3日)は、日本の内務官僚、政治家。日中友好議員連盟会長を務めた。位階は正三位。 鳥取県八頭郡国中村(現・八頭町)に、古井實壽の二男として生まれる。生家は祖父久次郎の代からすでに田五町歩、山林三町歩をもつ小地主だった。父實壽は古井が生まれたころ、郡役所の書記だったが後に国中村の村長を務めた。 旧制鳥取中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)、第三高等学校を経て、1922年東京帝国大学法学部英法科に入学する。なお中学時代の同期生に政治学者の矢部貞治がいる。1925年内務省に入省する。
石島 房太郎(いしじま ふさたろう、1903年1月4日 - … 石島 房太郎(いしじま ふさたろう、1903年1月4日 - 1981年12月1日)は、日本の俳優。本名は同じ。 山口県下関市出身。旧制豊浦中学校(現山口県立豊浦高等学校)を中退。 初めは工芸の仕事をしていたが、舞台俳優を目指して1924年に松竹に入り、後に前進座に移る。1935年に『街の入墨者』で映画デビューする。 1937年、石島と同じく前進座に所属していた原ひさ子と結婚した。 1944年に夫婦揃って東宝の専属となり、後に東映などに所属、『ひめゆりの塔』(1953年)や『警視庁物語シリーズ』などの映画に出演した。またテレビドラマにも多く出演した。
岩野 喜久代(いわの きくよ、1903年1月3日 - 199… 岩野 喜久代(いわの きくよ、1903年1月3日 - 1996年3月7日)は、歌人、大東出版社代表。 広島県江田島海軍兵学校官舎に生まれる。1922年東京府女子師範学校(現東京学芸大学)卒業。1924年東洋大学倫理教育部入学。1925年10月大東出版社創立者、浄閑寺第24世岩野真雄と結婚。同11月仏教学者・高楠順次郎に師事する。1930年1月與謝野寛・晶子夫妻に師事し、新詩社同人となる。1942年9月與謝野晶子のあとを受け、文化学院にて短歌を指導。『明星』の後継誌『浅間嶺』を主宰。1948年1月法学者であり仏教研究者であった小野清一郎の聖典講座に参加。1968年夫の岩野真雄が死去、大東出版社の代表となる。
下村 三郎(しもむら かずお、1903年1月2日 - 198… 下村 三郎(しもむら かずお、1903年1月2日 - 1980年8月4日)は。日本の裁判官、弁護士。最高裁判所判事を務めた。東京都出身。 1920年、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業[要出典]。附属中学の同級生には、市原豊太(元獨協大学学長)、菊池正士(物理学者)、坪井忠二(東京大学名誉教授)、中島健蔵(フランス文学者)などがいた[要出典]。 旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学法学部を卒業[要出典]。 裁判官生活と司法省への出向を2度繰り返した後、松江地方裁判所所長、東京高等裁判所判事、最高裁判所事務総長、仙台高等裁判所長官、東京高等裁判所長官を経る。東京高裁判事時代にチャタレイ事件で一審無罪を有罪に逆転させた。
神田 健治(かんだ けんじ、1903年〈明治36年〉1月2日… 神田 健治(かんだ けんじ、1903年〈明治36年〉1月2日 - 1958年〈昭和33年〉1月22日)は、愛知県宝飯郡神ノ郷村(現・蒲郡市)出身の農業技術者・政治家。愛知県議会議員(2期)。蒲郡みかんの発展に貢献した。 1903年(明治36年)1月2日に愛知県宝飯郡神ノ郷村(現・蒲郡市)に生まれ、愛知県立蒲郡農学校(現・愛知県立蒲郡高等学校)を卒業した。 蒲郡におけるウンシュウミカン栽培の発展に傾注し、1933年(昭和8年)には母樹園(現・愛知県農業総合試験場蒲郡支所)の設立に関与した。また、1933年(昭和8年)には神ノ郷に農業用ため池の白龍池が造成されたが、神田はこの難事業の会計係を担っている。
江家 義男(こうけ よしお、1903年〈明治36年〉1月2日… 江家 義男(こうけ よしお、1903年〈明治36年〉1月2日 - 1958年〈昭和33年〉5月11日)は、日本の法学者。北海道出身。専門は刑法、刑事訴訟法。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、法学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
鳴瀬 恒太郎(なるせ つねたろう、1903年〈明治36年〉1… 鳴瀬 恒太郎(なるせ つねたろう、1903年〈明治36年〉1月1日 - 1976年〈昭和51年〉)は、日本の哲学者であり言語学者でもある。関東学院大学等の大学講師も努めた。岡山県高梁市出身。 1903年(明治36年)岡山県上房郡高梁町(現:高梁市)に生れる。地元の旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、同期には、京都大学医学部名誉教授になる三宅儀がいる。1920年(大正9年)3月に同校を卒業。同年旧制第六高等学校へ入学する。1924年(大正13年)3月に卒業し、京都帝国大学文学部哲学科へ入学。 その後、1927年(昭和2年)3月に京大を卒業し、そのまま京都帝国大学大学院文学研究科宗教学専攻科へ進学する。
南雲 正朔(なぐも せいさく、旧姓・鳥山、1903年(明治3… 南雲 正朔(なぐも せいさく、旧姓・鳥山、1903年(明治36年)1月1日 - 1954年(昭和29年)4月7日)は、日本の弁護士、政治家。立憲民政党所属の衆議院議員で大東亜参与官を務めた。 群馬県勢多郡横野村(現在の渋川市)に生まれる。鳥山源吉の二男。後に南雲貞三の養子となった。1926年(大正15年)に高等試験司法科に合格し、翌年に同行政科に合格した。1928年(昭和3年)に中央大学法学部を卒業し、弁護士を開業した。 1936年(昭和11年)、民政党公認で第19回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。その後3回連続当選を果たした。その間、鈴木貫太郎内閣で大東亜参与官を務めた。 戦後、公職追放となり、追放解除後の1952年の第25回衆議院議員総選挙に改進党から立候補したが、落選した。
相川 広秋(あいかわ ひろあき、1903年(明治36年)1月… 相川 広秋(あいかわ ひろあき、1903年(明治36年)1月1日 - 1962年(昭和37年)1月27日)は、昭和期の日本の水産学者。 1925年(大正14年)、東京帝国大学農学部水産学科を卒業後、農林省(現 農林水産省)水産講習所・水産試験場技師を経て、1942年(昭和17年)より九州帝国大学の教授となり、同大天草臨海実験所長、長崎大学教授、水産庁調査研究部長、津屋崎水産実験所長を兼任。その他、中央漁業調整審議会委員、日本学術会議会員などを歴任した。プランクトンの研究に従事し、国内の水産資源学の発展に尽力した。1938年(昭和13年)、「日本産短尾甲殻類ノ幼形ニ関スル研究」で農学博士。1949年(昭和24年)5月31日、熊本県に昭和天皇の戦後巡幸が行われた際には、九州大学付属天草臨海実験所の所長を務めており、昭和天皇に無脊椎海棲動物標本の説明役を担った。
千明 康(ちぎら やすし、1903年1月1日 - 1986年… 千明 康(ちぎら やすし、1903年1月1日 - 1986年7月19日)は、日本の実業家、馬主、競走馬生産者。株式会社丸沼温泉ホテル会長、千明牧場代表を務めた。 1903年1月1日、群馬県利根郡片品村出身。千明賢治の長男。旧制沼田中学校、旧制新潟高等学校を経て東京帝国大学農学部林学科に進学し、1930年に卒業。大学院で2年間学んだのち南満洲鉄道に入社し、1937年退社。この間1936年に日光華厳滝エレベーター株式会社、株式会社丸沼温泉ホテル各社長に就任。また1949年6月より日光国立公園観光株式会社社長に就任し、1950年8月に辞任するまで同職に在任。このほか群馬官材事業協会、国有林材生産組合、群馬県養鱒漁業協同組合などで要職を務めた。
内田 一郎(うちだ いちろう、1903年1月1日 - 198… 内田 一郎(うちだ いちろう、1903年1月1日 - 1983年6月9日)は、日本の経営者。広島県出身。 1922年に東京歯科医学専門学校を中退し、1923年に中国新聞社に入社。1952年に中国放送に転じ、1958年に取締役に就任し、1959年10月に常務、1968年10月に専務を経て、1970年5月から1973年5月までに社長を務めた。 1973年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1983年6月9日結腸腫瘍のために死去。80歳没。
雨宮 庸蔵(あめみや ようぞう、1903年〈明治36年〉1月… 雨宮 庸蔵(あめみや ようぞう、1903年〈明治36年〉1月1日 - 1999年〈平成11年〉12月2日)は、日本の編集者。 山梨県南巨摩郡鰍沢町(現・富士川町)生まれ。早稲田大学社会哲学科卒。在学中から、早稲田の先輩である嶋中雄作宛に毎月『中央公論』の精細な批評を書き送り、1928年(昭和3年)中央公論社に入社、1929年(昭和4年)7月『中央公論』編集長に就任。谷崎潤一郎を担当し、1932年(昭和7年)出版部長に転じる。1934年(昭和9年)より『谷崎潤一郎訳源氏物語』を担当し、山田孝雄に校閲を頼む傍ら、谷崎との相談で皇室に関する部分の削除を決めた。 1937年『中央公論』編集長に復帰するも、1938年(昭和13年)同誌3月号に石川達三「生きてゐる兵隊」を掲載したことで石川とともに刑事告発され、責任をとって退社。
佐藤 慶二(さとう けいじ、1903年1月1日 - 1998… 佐藤 慶二(さとう けいじ、1903年1月1日 - 1998年6月4日)は、日本の哲学者、早稲田大学名誉教授。 岩手県西磐井郡花泉町(現・一関市)出身。早稲田大学哲学科卒業。1975年まで早大教授。1998年、肺炎のため死去。
穐田 弘志(あきた ひろし、1903年(明治36年)1月1日… 穐田 弘志(あきた ひろし、1903年(明治36年)1月1日 - 1969年(昭和44年)2月28日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大佐。陸士36期(騎兵、優等)・陸大46期。 岡山県岡山市出身(福岡県とも)。広島陸軍幼年学校を経て1924年(大正13年)7月、陸軍士官学校(36期)を優等卒業し、騎兵第4連隊附となる。陸軍騎兵学校も優等卒業し、陸士教官を経て陸大に入学。卒業後は原隊復帰したが、日中戦争勃発後は北支那方面軍参謀。駐独武官輔佐官在任中の1940年12月から、山下奉文陸軍中将を団長とする独伊軍事使節団に随行し、ドイツでの新兵器開発状況について視察した。帰国後は参謀本部ドイツ班長。独ソ戦直前、駐日武官のアルフレート・クレッチマー大佐にソ連軍の情報を渡した疑いが当時武官輔佐官のフリッツ=ユリウス・フォン・ペータースドルフ中佐の証言にあり、のち極東国際軍事裁判では「一度だけソ連軍の動向について尋ねられたことがあったためロシア班に持ち込んだものの、確証が持てないため「よく分からない」と回答した」と答弁している。
土井 静雄(どい しずお、1902年1月30日 - 1974… 土井 静雄(どい しずお、1902年1月30日 - 1974年4月21日) は、日本の機械工学者。名古屋大学名誉教授。元沼津工業高等専門学校校長。 鳥取県出身。1927年九州帝国大学工学部機械工学科卒業、旅順工科大学講師。1928年旅順工科大学助教授。1937年九州帝国大学工学博士。1938年旅順工科大学教授。1944年名古屋帝国大学教授。1964年沼津工業高等専門学校校長。1965年名古屋大学名誉教授。1973年勲二等瑞宝章受章。旋盤の研究などを行った。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。
矢野 謙三(やの けんぞう、1902年(明治35年)1月30… 矢野 謙三(やの けんぞう、1902年(明治35年)1月30日 - 没年不明)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚、大日本帝国陸軍軍人。基隆市尹。 矢野槌太郎の三男として福岡県福岡市に生まれる。1920年(大正9年)福岡県立中学修猷館、1923(大正12年)年第五高等学校文科甲類を経て、1926年(大正15年)東京帝国大学法学部法学科卒業後、高等文官試験行政科試験に合格する。 同年12月、野砲兵第6連隊に入隊し、1929年(昭和4年)4月に陸軍砲兵少尉に進む。同年6月、台湾総督府属に転じ、総督官房文書課勤務となる。1931年(昭和6年)5月、同府地方理事官となり、新竹州竹南郡守に発令され、1934年(昭和9年)9月に同州内務部教育課長、1936年(昭和11年)10月に台北州内務部地方課長を経て、1937年(昭和12年)9月29日に基隆市尹に就任した。
片岡 久兵衛(久兵衞、かたおか きゅうべえ、1902年 <明… 片岡 久兵衛(久兵衞、かたおか きゅうべえ、1902年 <明治35年> 1月30日 - 1988年 <昭和63年> 10月11日)は、日本の経営者、銀行家。京都銀行頭取を務めた。京都府福知山市出身。位階は従五位。 1923年に東京商科大学を卒業。1946年に京都銀行の前身である丹和銀行頭取に就任。1972年に相談役を経て、1980年には顧問に就任。 1988年10月11日急性呼吸不全のために死去。86歳没。死没日付をもって従五位に叙された。
北山 淳友(きたやま じゅんゆう、1902年(明治35年)1… 北山 淳友(きたやま じゅんゆう、1902年(明治35年)1月29日 - 1962年(昭和37年)1月19日)は、日本の仏教哲学者。マールブルク大学名誉教授。Ph.D(ハイデルベルク大学)。 静岡県志太郡焼津町(現・焼津市)出身。静岡県立静岡中学校に学ぶ。1923年(大正12年)、宗教大学(大正大学の前身校の一つ)哲学科卒業。1924年(大正13年)、浄土宗より欧州留学を命じられ、ドイツのフライブルク大学に入学、エトムント・フッサールにインド哲学、サンスクリットをエルンスト・ロイマンに学ぶ。1927年(昭和2年)にハイデルベルク大学に移り、哲学をハインリッヒ・リッケルト、カール・ヤスパースに、インド哲学、チベット学をマックス・ワレーザーに学ぶ。
熊川 良太郎(くまかわ りょうたろう、1902年〈明治35年… 熊川 良太郎(くまかわ りょうたろう、1902年〈明治35年〉1月29日 - 1965年〈昭和40年〉8月8日)は群馬県出身の飛行家。後に群馬県議会議員。栗村盛孝と共に青年日本号を操り、日本からローマまでの欧州訪問飛行を成し遂げた。レオポルド2世勲章及びレジオンドヌール勲章受賞。 1902年(明治35年)1月29日、吾妻郡嬬恋村の大字今井にて農業を営む熊川澗八郎と母なほの長男として生まれる。弟が一人おり、家は代々上田藩士。元は藩主と同じ真田姓を名乗っていたが、後に熊川に移って姓も地名に合わせ改称したとされる。 勉学での立身を考えた良太郎は東京の学校への進学を望んでいたものの、父は許可を与えなかった。
勝 承夫(かつ よしお、1902年(明治35年)1月29日 … 勝 承夫(かつ よしお、1902年(明治35年)1月29日 - 1981年(昭和56年)8月3日)は、東京市四谷区(現・東京都新宿区)出身の詩人。元日本音楽著作権協会会長。元東洋大学理事長。 旧制中学時代から詩人として活躍。1920年(大正9年)に、正富汪洋の勧めで東洋大学に入学し、正富が主催する『新進詩人』に参加。宵島俊吉のペンネームで「白痴を誘って野に出て」などの作品を著し、中央文壇に登場する。 また在学中には、1921年(大正10年)に井上康文らと『新詩人』を、1923年(大正12年)に同大出身の赤松月船・岡村二一・岡本潤・角田竹夫らと『紀元』を創刊した。勝のこうした活動により、当時勝と同世代の詩人を志していた者の中では、東洋大学を志望する者が多かったと言われ、東洋大学は「詩・歌人大学」と呼ばれていた[要出典]。
東井金平(とうい きんぺい、1902年1月27日-?)は、日… 東井金平(とうい きんぺい、1902年1月27日-?)は、日本の農業経済学者。 石川県出身。慶應義塾大学経済学部卒。1959年「欧米における日本農業の研究」で慶大経済学博士。農林省農業総合研究所勤務。1962年『欧米における日本農業の研究』で日経・経済図書文化賞受賞。
春日井 秀雄(かすがい ひでお、1902年1月27日 - 1… 春日井 秀雄(かすがい ひでお、1902年1月27日 - 1986年1月11日)は日本の政治家。荒川区議(2期)、東京市議(2期)、東京都議(8期)、第22代都議会議長を歴任した。 1902年1月27日、岐阜県に生まれる。1934年に中央大学法学部を卒業。1936年から荒川区会議員を2期11年務める。また、1939年3月14日から1943年6月30日まで東京市会議員を務めた。1949年3月2日の東京都議会議員補欠選挙で荒川区選挙区より立候補して、初当選する。都議会では、決算委員会委員長(1951年から1952年)、東京都議会改進党政調会長(1953年から1954年)、東京都議会改進党幹事長(1954年)、日本民主党都議団幹事長(1954年から1955年)、都議会自民党幹事長(1958年から1959年)、財務主税委員会委員長(1962年から1963年)、都議会自民党幹事長(再任・1965年から1966年)を歴任した。
與賀田 辰雄(よがた たつお、1902年 <明治35年> 1… 與賀田 辰雄(よがた たつお、1902年 <明治35年> 1月27日 - 1986年 <昭和61年> 1月7日)は、日本の経営者。東京書籍社長を務めた。位階は正五位。 佐賀県出身。1923年に長崎高等商業学校を卒業し、同年に大蔵省に入省。1941年に凸版印刷取締役に就任し、1944年12月に常務、1953年7月に専務を経て、1967年9月には東京書籍社長に就任。1973年12月に会長に就任し、1978年12月に監査役を経て、1982年8月には相談役に就任。 1972年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1986年1月7日悪性リンパ腫のために死去。83歳没。死没日付をもって従六位から正五位に進階した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
華頂宮博忠王(かちょうのみや ひろただおう、1902年(明治… 華頂宮博忠王(かちょうのみや ひろただおう、1902年(明治35年)1月26日 - 1924年(大正13年)3月19日)は、日本の皇族、海軍軍人。 博恭王が華頂宮当主であった時の王子。1902年(明治35年)1月26日に誕生した第2王子。2月1日、博忠と命名される。博恭王が実系である伏見宮を継承するにあたり、博忠王は僅か2歳(明治37年1月15日附)で華頂宮の家督を継承する。学習院初等科時代は、裕仁親王(後の昭和天皇)と同級だった。中等学科4年より海軍兵学校予科へ進む。博忠王の海軍兵学校時代初期、校長は鈴木貫太郎海軍中将であった。 海軍兵学校を卒業(49期)した博忠王は1921年(大正10年)7月16日附で海軍少尉候補生となり、装甲巡洋艦八雲乗組を命じられる(同級の朝融王は出雲乗組)。
蔵原 惟人(くらはら これひと、1902年(明治35年)1月… 蔵原 惟人(くらはら これひと、1902年(明治35年)1月26日 - 1991年(平成3年)1月25日)は、日本の評論家である。ペンネームは古川荘一郎。駄じゃれが好きという一面もある。
李 泰圭(イ・テギュ、朝鮮語: 이태규、1902年1月26日… 李 泰圭(イ・テギュ、朝鮮語: 이태규、1902年1月26日 - 1992年10月26日)は、大韓民国の化学者。日本の植民地統治期には数少ない朝鮮人の博士号取得者・帝国大学教員の一人であった。 本貫は全州李氏。政治家の李会昌の伯父に当たる。 大韓帝国忠清南道礼山郡に生まれた。京城高等普通学校を経て1922年に広島高等師範学校(現・広島大学)を卒業。 1927年に京都帝国大学理学部(現在の京都大学理学部)化学科を卒業し、1931年に『還元ニッケルの存在に於ける一酸化炭素の分解』という論文で理学博士号を取得した。 その後、同大学で教鞭を執り、1935年には同大学化学研究所助教授、1938年にプリンストン大学に派遣され研究者として在職し、1941年に京都帝国大学に戻り量子化学を研究、1943年に化学研究所教授となった。
吉田 小五郎(よしだ こごろう、1902年1月26日 - 1… 吉田 小五郎(よしだ こごろう、1902年1月26日 - 1983年8月20日)は、日本の歴史学者、教育者。 新潟県柏崎市出身。1924年、慶應義塾大学文学部史学科卒。大学では幸田成友に師事。慶應義塾幼稚舎職員を1965年まで務める。幼稚舎長、慶大講師などを務め、東西交渉史などに業績を残す。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
五十嵐 丈吉(いからし じょうきち、1902年〈明治35年〉… 五十嵐 丈吉(いからし じょうきち、1902年〈明治35年〉1月26日 - 2013年〈平成25年〉7月23日)は、新潟県三条市在住だった長寿の男性。存命人物のうち日本における男性最高齢だった。 1902年(明治35年)1月26日、三条市で6人兄弟の長男として生まれた。 小学校を卒業後、農業で生計を立てる。病気がちだった妻のミテ(1973年に68歳で死去)や、孫の面倒をみるため50代で隠居。酒やたばこはせず、趣味の菊づくりに励み、左大腿部を骨折する91歳までは庭の松の木に登り、枝にはさみを入れていた。酢をよく使うため、長男はそれが長寿の秘訣ではないかと思うと語っていた。 2008年(平成20年)に特別養護老人ホーム「つかのめの里」に入所。
西川 寧(にしかわ やすし、1902年〈明治35年〉1月25… 西川 寧(にしかわ やすし、1902年〈明治35年〉1月25日 - 1989年〈平成元年〉5月16日)は、20世紀を代表する日本の書家、金石学者、中国文学者、西域出土晋代墨蹟の書道史的研究で文学博士(慶應義塾大学)。字は安叔。号は靖闇。贈正三位(没時叙位)、贈勲一等瑞宝章(没時陞叙)。息子の西川杏太郎は奈良国立博物館長、東京国立文化財研究所所長を歴任した仏像を中心とした日本彫刻史の研究者。 明治の大家、西川春洞の三男として東京に生まれる。俗に「昭和の三筆」の一人とも言われる。現代の書壇に最も影響を及ぼし、書の巨人と呼ばれ、文字学研究者として、また書壇を驚かす強烈なインパクトの作品を数々残した。子に美術史研究者の西川杏太郎がある。