池上 三郎(いけがみ さぶろう、1855年3月14日〈安政2… 池上 三郎(いけがみ さぶろう、1855年3月14日〈安政2年1月26日〉 - 1914年〈大正3年〉11月10日)は明治期の司法官、検事。函館控訴院検事長。従三位勲二等。族籍は福島県士族。実弟に、第6代大阪市長、第6代朝鮮総督府政務総監を務めた池上四郎がいる。 安政2年(1855年)1月26日、若松城下本三ノ丁に会津藩士の父池上武輔と母ウメの長男として生まれる。初め八三郎と称し後に三郎と名乗る。元治元年(1864年)藩校日新館に入学、抜群に優秀な成績を修めた。 慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、14歳で隊頭西郷寧太郎の率いる中軍護衛隊に加わり北出丸の篭城戦で敵を防いだ(会津戦争)。開城後の明治2年(1869年)、上窪村(現塩川町)の肝煎鈴木家に家族と寄寓。
安香 堯行(あこう たかゆき、1855年3月2日(安政2年1… 安香 堯行(あこう たかゆき、1855年3月2日(安政2年1月14日) - 1928年(昭和3年)1月5日)は、日本の薬学者。正五位勲四等。薬学博士。陸軍三等薬剤正。九州薬学専門学校(のち熊本薬学専門学校)長。族籍は静岡県士族。叔父に榎本武揚。 静岡県出身。1882年、東京大学医学部製薬学科を卒業して製薬士の称号を得た。大阪薬専、名古屋薬専の教授をつとめた。1913年5月、薬学博士の学位を授与された。1928年1月5日死去。遺族宅は東京市渋谷区渋谷。二男の愛二は厚生技師、衛生局勤務。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
寺原 長輝(てらはら おさてる / ながてる、1855年3月… 寺原 長輝(てらはら おさてる / ながてる、1855年3月2日(安政2年1月14日)- 1912年(大正元年)12月23日)は、日本の内務官僚、政治家。官選県知事、貴族院勅選議員、錦鶏間祗候。幼名・研輔。一時期、園田姓。 薩摩国伊佐郡大口郷(現:伊佐市)で、寺原用右衛門の三男として生まれる。園田家の養子となり一時期その姓を名乗るが、1878年から元の寺原に姓を戻した。 1874年8月、陸軍省十五等出仕となり、台湾出兵収拾のため渡清した大久保利通に随行。1875年3月、警視庁十四等出仕となる。以後、少警部、中警部と昇進。鹿児島で私学校生徒の暴発の危険性が伝えられ、1876年1月、同郷の同僚である高崎親章、中原尚雄ら20名と共に帰郷したが、私学校の生徒らに捕らえられ拷問を受けた。
前田 慧雲(恵雲、まえだ えうん、安政2年1月14日(185… 前田 慧雲(恵雲、まえだ えうん、安政2年1月14日(1855年3月2日) - 昭和5年(1930年)4月29日)は、伊勢国桑名(現・三重県桑名市)出身の浄土真宗本願寺派の学僧。第2代東洋大学長、龍谷大学学長。「含潤」、「止舟斎」とも号した。 1855年(安政2年)、桑名の西福寺に生まれた。漢文を大賀旭川、佐藤牧山の下で学び、また仏教学を西山教校、比叡山で修めた。松島善譲にも学んでいる。 1888年に上京して大内青巒と共に尊皇奉仏を唱え、新欲主学問所の主事となった。東京大学講師として教鞭を執り、1904年からは高輪仏教大学学長を務めた。1906年、井上円了の意志を継いで哲学館大学を東洋大学と改称し、第2代学長に就任(1914年に退任)。
工藤 精一(くどう せいいち、1855年3月 - 1906年… 工藤 精一(くどう せいいち、1855年3月 - 1906年12月)は、明治時代の教育者、化学者、地質学者。開拓使派遣留学生として米国留学し、帰国後に札幌農学校(現・北海道大学)教授(助教)、立教学校及び立教大学校(現・立教大学)教授、専修学校(現・専修大学)教授を務めた。札幌農学校教員時代には、演武場(現・札幌市時計台)の時計保守も担い、運用を開始した。開拓使官員、陸軍通訳官も務めたほか、英語学習書を出版するなど、明治期の英語教育の発展に尽くした。別名、精一郎。 東京生まれ。1872年3月26日(旧暦明治5年2月18日)、17歳の時、開拓使派遣留学生として横浜港から飛脚船「アメリカ号」で米国サンフランシスコへ向けて出航。
4代 桜井 伊兵衛(さくらい いへえ、安政元年3月〈1854… 4代 桜井 伊兵衛(さくらい いへえ、安政元年3月〈1854年〉 - 1896年〈明治29年〉10月7日)は、明治時代の大地主、政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。幼名は勝太郎。雅号・富香。 3代桜井伊兵衛、なお子の長男としてのちの群馬県西群馬郡高崎本町(高崎町を経て現高崎市)に生まれる。絹太織問屋松屋を経営。1881年(明治14年)高崎町会議員に当選。1885年(明治18年)長野堰連合町村会議員を経て、1887年(明治20年)2月、西群馬、片岡両郡の所得税調査委員となった。日本鉄道創立の際にはその発起人に名を連ね、ほか多数の会社重役を歴任した。 1890年(明治23年)6月10日、群馬県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から務めたが、在任中に死去した。
木村 九兵衛(きむら くへえ、安政元年2月28日(1854年… 木村 九兵衛(きむら くへえ、安政元年2月28日(1854年3月26日) - 昭和8年(1933年)7月28日)は、日本の明治初頭から昭和にかけて活動した大地主、両羽農工銀行と荘内貯蓄銀行の創業者、電力会社役員、政治家。山形県田川郡水沢村(現:鶴岡市)出身、東京大学農学部卒。 伊藤知正の4男として田川郡水沢村(後の上郷村)に生まれ、民吉と名付けられる。明治18年(1985年)に矢馳村(のちの大泉村)の豪農である木村九兵衛の婿養子に入る。明治24年(1891年)に家督相続。九兵衛を襲名した。 耕地整理事業に取り組んでいた九兵衛は東大卒業後、耕作地の水不足を解消するためにドイツからドイツ製の15馬力の電動機を輸入し、石川島造船所(IHI)製のポンプと組み合わせた「電力揚水機」を設置した。
加藤 杲(かとう あきら、1854年3月22日〈安政元年2月… 加藤 杲(かとう あきら、1854年3月22日〈安政元年2月24日〉 - 1938年〈昭和13年〉9月20日)は、明治時代後期から昭和時代戦前の政治家。銀行家。和歌山県和歌山市長。旧姓は茨木、旧名は六之助。 和歌山城下出身。紀州藩家臣の茨木藤助の三男として生まれ、のち加藤仁左衛門の養子となる。1880年(明治13年)和歌山区書記となり、和歌山市収入役、助役を経て、1897年(明治30年)9月から1914年(大正3年)11月まで和歌山市長を務める。その間、1890年(明治23年)3月に和歌山県会議員に当選し、再選を経て1898年(明治31年)9月まで務めた。 財界では、1916年(大正5年)紀陽貯蓄銀行取締役となり、1920年(大正9年)頭取に就任。
加藤 正義(かとう まさよし、1854年3月21日(嘉永7年… 加藤 正義(かとう まさよし、1854年3月21日(嘉永7年2月23日) - 1923年(大正12年)12月24日)は日本の実業家、政治家。元日本郵船副社長。幼名源太郎。 元中央大学総長・東京大学名誉教授加藤正治の養父(岳父)。 1854年3月21日(嘉永7年2月23日)、伯耆国日野郡渡村(現・鳥取県日野郡日野町別所)の農家に生まれた。加藤良吉の二男。7歳の頃から寺子屋に通った。12歳に達した時、根雨の大庄屋近藤喜八郎のもとに奉公に出された。 1873年、鳥取県庁を皮切りに山形県庁、兵庫県庁に勤務した。1885年、兵庫県令森岡昌純が農商務少輔に転出すると、その推薦で農商務権少書記官となり 当時過当競争の弊害で産業発展にブレーキをかけていた三菱汽船と共同汽船の合併に奔走、日本郵船の創立をみた。
加藤 平四郎(かとう へいしろう、1854年3月21日(嘉永… 加藤 平四郎(かとう へいしろう、1854年3月21日(嘉永7年2月23日) - 1935年(昭和10年)3月18日)は、日本の政治家。衆議院議員、自由党系官選県知事、甲府市長。 美作国真島郡高田村(のち勝山村、現真庭市)で、岡山藩士・加藤量の四男として生まれる。岡山師範学校卒業後、小学校教員となる。その後、自由民権運動に加わる。国会開設運動に狂奔し、演説会を中止解散させられた腹癒せに、「国安院妨害中止居士」と大書した白木の位牌を造り、弁士一らとそれを水葬に附した逸話などがある。 1890年7月、第1回衆議院議員総選挙で岡山県第七区に自由倶楽部から出馬し当選。1894年3月の第3回総選挙まで連続3回当選。
留川 一路(とめかわ いちろ、1854年3月17日(安政元年… 留川 一路(とめかわ いちろ、1854年3月17日(安政元年2月19日) - 没年不詳)は日本基督教会の牧師である。 山脇藤吉、ブンの次男として、豊前国中津(現・大分県中津市)に生まれ、留川家の養子になる。留川家の家督を継ぐ。中津藩の儒学の大久庭家塾をへて、1872年(明治5年)より、3年間藩校の修徳館で、英語と数学を学んだ。続いて、1875年(明治8年)秋にヘンリー・スタウトの塾に入り英語を学ぶ。スタウトの家庭礼拝に出て、スタウトから聖書を学ぶ。1876年(明治9年)頃スタウトの影響でキリスト教に入信し、1876年12月25日に長崎一致教会(現・日本基督教団長崎教会)でスタウトから洗礼を受ける。
箕浦 勝人(みのうら かつんど、1854年3月13日〈嘉永7… 箕浦 勝人(みのうら かつんど、1854年3月13日〈嘉永7年2月15日〉- 1929年〈昭和4年〉8月30日)は、日本の新聞記者、実業家、政治家。 豊後国臼杵で、臼杵藩の武道師範の実相寺常之丞の次男として生まれる。15歳で藩士箕浦又生の養子となる。慶應義塾出身で福澤諭吉の弟子。福澤諭吉の子孫の家庭教師を担当した。1880年(明治13年)、神戸新報(慶応義塾―交詢社系の新聞)を主筆(兵神交詢社会員、神戸商法講習所所長)として、社主安倍清誠五郎、代表三木善八(のち『郵便報知新聞』社主)、主幹鹿島 秀麿(のち兵庫県会議員をへて改進党系代議士)等と共に、創刊に関わった。郵便報知新聞社に入社し、新聞記者の後、社長となる。
先代 植竹 三右衛門(うえたけ さんえもん、1854年3月1… 先代 植竹 三右衛門(うえたけ さんえもん、1854年3月13日〈安政元年2月15日〉 - 1933年〈昭和8年〉7月6日)は、日本の政治家(貴族院議員)、実業家、資産家、篤農家、味噌醤油醸造家、栃木県の大地主、栃木県地主会顧問、栃木県多額納税者、宇都宮商業会議所特別議員。従六位。勲四等。族籍は栃木県平民。 下野国那須郡、のちの栃木県那須郡川西町(現・大田原市)で三右衛門(のち三重郎)の二男として生まれた。1874年、家督を相続し、幼名・虎次郎を改め、三右衛門を襲名した。農業、味噌醤油醸造業を営む。傍ら殖産興業に鋭意し、実業界に活躍し、公共慈善事業に尽くした。 1897年、栃木県農工銀行設立委員を命ぜられた。
巨智部 忠承(こちべ ただつね、1854年3月11日(嘉永7… 巨智部 忠承(こちべ ただつね、1854年3月11日(嘉永7年2月13日) - 1927年(昭和2年)3月29日)は、明治から大正時代の地質学者。農商務省地質調査所長。統監府農商工部技監。 巨智部英三郎の長男としてのちの長崎市爐粕町に生まれる。東京大学を卒業し、1880年(明治13年)7月、同校理学部地質学教授となる。勧農局事務取扱、地質課勤務を兼ね、1883年(明治16年)11月、農商務省御用掛となり、翌年文部省御用掛を兼ねる。ついで農商務権少技長に任じ地質局に奉職し、1888年(明治21年)地質局課長心得となり、1893年(明治26年)地質調査所所長に任じた。応用地質学の先駆者で地質図の作製、鉱床調査や油田開発などを手掛けた。
江口 襄(えぐち のぼる、1854年3月8日(嘉永7年2月1… 江口 襄(えぐち のぼる、1854年3月8日(嘉永7年2月10日) - 1924年(大正13年)7月31日)は、栃木県烏山町出身の医師、陸軍二等軍医正。作家江口渙の父。 1881年(明治14年)、東京医学校卒。同期に森鷗外、小池正直らがいた。軍医となり、日本で最初に肺外科手術に成功した。小倉師団では森鷗外の前任軍医部長を務めた。鷗外の『雁』のモデルの一人と言われている。 1885年(明治18年)東京府が「郡区医職務章程」を制定した際、郡医志願者の試験委員を務め、死体検案試験を担当した。 1892年(明治25年)相馬事件の解剖主任を務める。相馬誠胤(陸奥中村藩6万石第13代藩主)の死因に疑義がもたれたため青山霊園に葬られた遺骸を掘り起こし、胃部、心臓部などの局部を解剖した。
小笠原貞信(おがさわら ていしん、1853年3月31日(嘉永… 小笠原貞信(おがさわら ていしん、1853年3月31日(嘉永6年2月22日)- 1903年(明治36年)2月18日)は、福島県出身の法律家、衆議院議員(第2回、第3回)。福島民報初代社長(在任:1892年 - 1896年)。旧姓・今江。 陸奥国安達郡、のちの福島県安達郡二本松町(現二本松市)で二本松藩士・今江又兵衛の子として生まれる。12歳の時に二本松藩士の小笠原是馬助の養子となる。1875年に上京し、翌年の9月に司法省法学校の第二期生として入学する。その後、1884年7月に修業年限8年(予科4年、本科4年)を終え、法律学士の称号を得る。検事試補となり、千葉始審裁判所に勤務し、1885年12月に検事として任命される。
下山 順一郎(しもやま じゅんいちろう 嘉永6年2月18日(… 下山 順一郎(しもやま じゅんいちろう 嘉永6年2月18日(1853年3月27日) - 明治45年(1912年)2月12日)は、明治時代の日本の薬学者。薬学博士第1号であり、日本薬剤師会第2代会長、私立薬学校(現東京薬科大学)初代校長。 嘉永6年2月18日(1853年3月27日)、尾張国犬山藩士、藩校「敬道館」助教下山健治・よしの長男として生まれる。諱忠興。「敬道館」で漢学と本草学を修める。明治3年(1870年)10月犬山藩の貢進生に選ばれ神田一ッ橋の大学南校に入学。獨二之部(獨逸語科)に学び、明治6年(1873年)9月第一大学区医学校(現:東京大学)製薬学科に進学。明治11年(1879年)3月第1回生として首席で卒業し、翌年製薬士の学位を受け、その後、陸軍薬剤官と大学助教授を兼任する。
関 信之助(關、せき しんのすけ、1853年3月26日(嘉永… 関 信之助(關、せき しんのすけ、1853年3月26日(嘉永6年2月17日)- 1917年(大正6年)1月21日)は、明治から大正前期の日本の弁護士・政治家。衆議院議員。 常陸国久慈郡薬谷村(茨城県久慈郡久米村、金砂郷村、金砂郷町を経て現常陸太田市)で、医師・関文友(文雄)の二男として生まれた。 1875年(明治8年)法律学を学ぶため水戸に遊学し、北辰社を設立。1878年(明治11年)法典研究と自由民権運動推進のため水戸法学館を設け幹事に就任。有志と自由党茨城地方部を結成し、その後、茨城自由党に改称し主事に就任した。 1882年(明治15年)代言人試験に合格し代言人(弁護士)を開業。代言人組合会長、水戸弁護士組合会長なども務めた。
山根 武亮(やまね たけすけ、1853年3月24日〈嘉永6年… 山根 武亮(やまね たけすけ、1853年3月24日〈嘉永6年2月15日〉- 1928年〈昭和3年〉4月4日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。貴族院議員、男爵。勲一等受章。 長州藩士・山根修平の二男として生まれる。明倫館で学び、警視庁巡査を経て、1875年(明治8年)2月、陸軍士官学校に入学。少尉試補、工兵少尉・工兵第1大隊付を経て、1878年(明治11年)12月、陸軍士官学校(旧1期)を卒業する。 参謀本部出仕(清国駐在)、参謀本部管西局、清国差遣、ドイツ駐在、ドイツ・オーストリア留学、工兵第1大隊長、参謀本部第1局員などを経て、日清戦争に第2軍兵站参謀長として出征した。続けて台湾平定(乙未戦争)に臨時台湾鉄道隊隊長として従軍。
谷村 計介(たにむら けいすけ、1853年3月22日(嘉永6… 谷村 計介(たにむら けいすけ、1853年3月22日(嘉永6年2月13日) - 1877年(明治10年)3月4日)は、日本の陸軍軍人である。最終階級は伍長。幼名は諸次郎。 嘉永6年(1853年)2月13日、日向国諸県郡倉岡村(現宮崎県宮崎市)の郷士坂本利右衛門、ウメの次男として生まれる。生後三カ月で母ウメが急死。しばらく近所の間でたらい回しにされたが、最終的に当時九歳だった姉のワサが親代わりとなり、一里も離れたところへ計介を抱いて「もらい乳」に出かけたり、重湯を飲ませたりして育てた。 4歳の時、谷村平兵衛の養子となるが、平兵衛は1821年(文政4年)に死亡していたため形のみの縁組であり、その後も実家で育てられた。
坂井 敬義(さかい たかよし / けいぎ、1853年3月21… 坂井 敬義(さかい たかよし / けいぎ、1853年3月21日(嘉永6年2月12日)- 1925年(大正14年)7月19日)は、明治から大正期の地主、政治家。衆議院議員、富山県射水郡下村長。 越中国射水郡下村宿(富山県射水郡下村を経て現射水市)で、本陣を務めた坂井家に生まれた。富山藩儒・岡田呉陽に師事し漢籍を修めた。 1873年(明治6年)新川県14大区副戸長に就任。自由民権運動に加わる。1884年(明治17年)富山県会議員に選出された。1899年(明治32年)1月10日から同年1月27日まで下村村長に就任。同村会議員も務めた。 1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙(富山県第3区、自由党)で当選し、衆議院議員に1期在任。
永江 純一(ながえ じゅんいち、1853年3月18日(嘉永6… 永江 純一(ながえ じゅんいち、1853年3月18日(嘉永6年2月9日)- 1917年(大正6年)12月9日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 筑後国三池郡江浦村(現:福岡県みやま市)で、永江藤次郎の長男として生まれる。中野南強から漢学を学び、西田幹治郎の私塾を経て、平戸に遊学。明治維新後、長崎で英学を東京で法律を学んだ。弟の死去に伴い帰郷した。野田卯太郎らの同志と自由民権運動に尽力。また、同志と筑後白日会を結成し国権主義を主張した。 1878年、永治村戸長に就任。その後、江浦村戸長を兼務し、三池郡町村連合会議員、福岡県会議員を歴任。1892年2月の第2回衆議院議員総選挙の選挙運動中に政敵の迫害を受け、大牟田川畔で襲撃を受けて足を負傷し歩行が困難となった。
金子 堅太郎(かねこ けんたろう、嘉永6年2月4日〈1853… 金子 堅太郎(かねこ けんたろう、嘉永6年2月4日〈1853年3月13日〉- 1942年〈昭和17年〉5月16日)は、日本の官僚、政治家。大日本帝国憲法起草者の一人。栄典は従一位大勲位伯爵。 大日本帝国憲法、皇室典範を筆頭に近代日本の諸法典を整備した。明治の元勲として、司法大臣、農商務大臣、枢密顧問官、日本大博覧会会長、日本速記会会長、語学協会総裁、東京大博覧会会長などを歴任。後の維新史編纂会の発足に関わり、臨時帝室編修局総裁、『明治天皇紀』編纂局総裁、維新史料編纂会総裁を経て、帝室編纂局総裁。『明治天皇紀』完成の功により伯爵を叙爵。教育者としては帝国大学法科大学や慶應義塾で法学を講じ、日本法律学校(現:日本大学)初代校長、二松學舍舎長などを務めた。
宮内 翁助(みやうち おうすけ、1853年3月13日(嘉永6… 宮内 翁助(みやうち おうすけ、1853年3月13日(嘉永6年2月4日)- 1912年(大正元年)12月6日)は、日本の農業経営者、教育者、政治家。衆議院議員。 武蔵国埼玉郡江面村(のちの埼玉県南埼玉郡江面村、現:久喜市)で、宮内烈之助、きよ夫妻の長男として生まれる。茅野金陵、中島撫山から漢学を学び、1885年、神田秀親から田宮流剣道の免許皆伝を受けた。農業を営む。 戸長、副区長、学務委員、埼玉県会議員、同参事会員、所得税調査委員などを務めた。1893年、中島端蔵(中島撫山の二男)とともに私費で私立専門学校・明倫館を開設し、のちに館長となり中等教育に尽力した。 1902年8月、第7回衆議院議員総選挙で埼玉県選挙区から出馬して当選。
中田 時懋(なかた ときしげ、1853年3月12日(嘉永6年… 中田 時懋(なかた ときしげ、1853年3月12日(嘉永6年2月3日) - 1927年(昭和2年)1月13日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級、功四級。 薩摩鹿児島藩領熊毛郡西之表村(鹿児島県熊毛郡北種子村、西之表町を経て、現西之表市)出身。中田貢の長男。1871年(明治4年9月)御親兵となり、1873年(明治6年)陸軍教導団に入り、1877年(明治10年)12月、陸軍士官学校旧1期卒業。西南戦争に従軍した。第1軍兵站部司令官として日清戦争に出征した。1897年(明治30年)10月、陸軍砲兵大佐に進級と同時に野戦砲兵第9連隊長に補され、1903年(明治36年)5月、陸軍少将に進級と同時に澎湖島要塞司令官に任じた。
古賀 庸蔵(こが ようぞう、1853年3月10日(嘉永6年2… 古賀 庸蔵(こが ようぞう、1853年3月10日(嘉永6年2月1日) - 1935年(昭和10年)8月2日)は、日本の弁護士、政治家、衆議院議員(2期)。 福岡県出身。和仏法律学校卒。福岡県警部、企救郡参事会員、弁護士となり、小倉市会議員、同議長、福岡県会議員となる。また、扶桑海産会社、豊川炭坑(株)各社長、田川銀行取締役を務めた。 1904年の第9回衆議院議員総選挙において小倉市選挙区から立憲政友会公認で立候補して当選した。1908年の第10回衆議院議員総選挙でも再選。1912年の第11回衆議院議員総選挙で落選した。1935年に死去した。
坂本 元明(さかもと げんめい、1853年3月5日(嘉永6年… 坂本 元明(さかもと げんめい、1853年3月5日(嘉永6年1月26日)- 1919年(大正8年)7月6日)は、明治から大正初期の農業経営者、政治家、衆議院議員(1期)。 大隅国大島郡、現在の鹿児島県大島郡和泊町で生まれた。1877年(明治10年)鹿児島師範学校卒。小学校訓導、和泊村会議員、同糖業議員、戸長、郵便局長心得となる。 1908年(明治41年)の第10回衆議院議員総選挙において大島選挙区から立憲政友会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1912年(明治45年)の第11回総選挙には出馬しなかった。その後、農業に専念し、1919年に死去した。
佐藤 敏郎(さとう としろう、1853年3月2日(嘉永6年1… 佐藤 敏郎(さとう としろう、1853年3月2日(嘉永6年1月23日)- 1912年(明治45年)6月19日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(1期)。 出羽国由利郡の矢島藩領内(秋田県由利郡矢島町を経て現由利本荘市矢島町)で平治衛門の二男として生まれる。矢島藩校・日新堂で学んだ。1874年(明治7年)上京し、慶應義塾に入る。のち秋田県会議員に当選し、常置委員となり、副議長、議事課長を歴任した。ほか、秋田県文書、地方、財務各課長を歴任した。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では秋田県第3区から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。在任中は弥生倶楽部に所属した。
遠藤 董(えんどう ただし、えんどう ただす、嘉永6年1月2… 遠藤 董(えんどう ただし、えんどう ただす、嘉永6年1月22日(1853年3月1日)‐ 昭和20年(1945年)1月22日)は、日本の教育者。 「鳥取県教育の源流」、「郷土教育の父」とされる。鳥取県立図書館の前身となる鳥取県初の公共図書館を設立した。鳥取県立鳥取盲学校と鳥取県立鳥取聾学校の前身である鳥取盲聾唖学校を設立した。鳥取県立図書館の敷地内には遠藤の銅像(胸像)がある。 嘉永6年1月22日(1853年3月1日)、因幡国鳥取(現在の鳥取県鳥取市材木町)に生まれた。父は鳥取藩士の遠藤重嘉、母は雪であり、董は長男だった。幼名は東造。 文久元年1月(1861年1月または2月)には鳥取藩の藩校である尚徳館に入り、坂田潤蔵の門弟となる。
大山 綱介(おおやま つなすけ、嘉永6年1月22日〈1853… 大山 綱介(おおやま つなすけ、嘉永6年1月22日〈1853年3月1日〉 - 1911年〈明治44年〉8月21日)は、日本の外交官。駐イタリア公使。 薩摩国川辺郡加世田村(現・鹿児島県南さつま市)出身。1875年(明治8年)、外務省に出仕。西南戦争の際には柏田盛文・安楽兼道と共に警視として西郷軍に対して説得を試みた。その後、オーストリア・ハンガリー帝国公使館臨時代理公使、イタリア公使館附、フランス公使館附、外務書記生、外務書記官、公使館書記官、外務大臣秘書官、弁理公使を歴任。1899年(明治32年)より駐イタリア公使を務めた。ジャコモ・プッチーニはオペラ蝶々夫人を制作するにあたり、綱介の妻・久子に話を聞くことで日本の事情を取材していた。
前田 黙鳳(まえだ もくほう、嘉永6年(1853年)3月 -… 前田 黙鳳(まえだ もくほう、嘉永6年(1853年)3月 - 大正7年(1918年)11月19日)は、播州龍野(兵庫県たつの市)生まれの書家。名は圓、字は士方、黙鳳は号で、別号に龍野人がある。 明治から大正時代に活躍した書家で、書道会の発足や会報の発行に尽力し、展覧会の開催や法帖類などの古典資料の普及に努め、近代書道界の発展に大きく貢献した。作品には古銅器の銘文を臨書したものなど篆書体が多くあり、また六朝風の楷書体も得意とした。 嘉永6年(1853年)播州龍野藩士、前田忠作の次男として生まれる。20歳で上京し、明治9年(1876年)書肆博文社の手代となった。明治15年(1882年)京橋南鍋町に自ら書肆鳳文館を開き、『資治通鑑』・『佩文韻府』などの翻刻刊行を行った。
寺内 正毅(てらうち まさたけ、旧字体: 寺內 正毅、185… 寺内 正毅(てらうち まさたけ、旧字体: 寺內 正毅、1852年3月25日〈嘉永5年閏2月5日〉 - 1919年〈大正8年〉11月3日)は、明治・大正期の日本の陸軍軍人、政治家。軍人としての階級は元帥陸軍大将。位階は従一位。勲等は大勲位。功級は功一級。爵位は伯爵。 書の雅号は桜圃、魯庵。「ビリケン宰相」の異名を持つ。 陸軍大臣(第7代)、外務大臣臨時兼任(第2次桂内閣・寺内内閣)、韓国統監(第3代)、朝鮮総督(初代)、内閣総理大臣(第18代)、大蔵大臣(第19代)などを歴任した。 明治から大正にかけて陸軍軍人として活躍し、第1次桂内閣では児玉源太郎の後任として陸軍大臣に就任した。以来、第1次西園寺内閣や第2次桂内閣でも陸軍大臣を務めた。
兵頭 昌隆(ひょうどう まさたか、1852年3月20日(嘉永… 兵頭 昌隆(ひょうどう まさたか、1852年3月20日(嘉永5年2月30日)- 1911年(明治44年)3月13日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員、愛媛県宇和郡川之石村長。旧姓・竹村、田中。 伊予国宇和郡宇和島城下(愛媛県宇和郡宇和島、北宇和郡宇和島町を経て現宇和島市)で宇和島藩士・竹村佐平の長男として生れ、宇和郡川之石浦(川之石村、川之石町、保内町を経て現八幡浜市保内町川之石)の郷士・田中孫右衛門の養子となり、その後、資産家・兵頭吉蔵の娘婿となった。 1885年(明治18年)3月、川之石浦戸長となり、川之石郵便局長も務めた。1886年(明治19年)3月、愛媛県会議員に選出され、1890年(明治23年)10月、病のため辞任。
白田 省吾(しらた せいご、1852年3月19日(嘉永5年2… 白田 省吾(しらた せいご、1852年3月19日(嘉永5年2月29日)- 1915年(大正4年)6月7日)は、明治から大正初期の農業指導者、政治家。衆議院議員、山形県会議長、山形県東村山郡蔵増村長。 出羽国村山郡、のちの山形県東村山郡蔵増村(蔵増村大字蔵増、天童町を経て現天童市大字塚野目)で、白田弥右衛門の長男として生れた。年少の頃、館林藩漆山陣屋の藩士から漢学、剣術を学び、その後、天童藩士、剣術指南役・大武平蔵につき一刀流の修行を行い、父弥右衛門から珠算を学んだ。 1879年(明治12年)1月、北蔵増村用掛に就任。以後、同戸長、蔵増村長、同村会議員、東村山郡会議員、同参事会員、同議長などを務めた。
井上 信八(いのうえ しんぱち、1852年3月17日〈嘉永5… 井上 信八(いのうえ しんぱち、1852年3月17日〈嘉永5年2月21日〉 - 1922年〈大正11年〉7月9日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 信濃国筑摩郡笹賀村(のち東筑摩郡笹賀村、現・長野県松本市)出身。材木商を営み、町会議員、所得税調査委員、学務委員、高等小学校組合会議員等を務める。また、野口(合)業務担当社員、愛知農工銀行、熱田銀行、愛知燐寸各(株)取締役、愛知木材、中央煉瓦各(株)専務取締役、(株)鉄道車輪製造所取締役となる。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において愛知2区から無所属で立候補したが落選する。8月の第6回衆議院議員総選挙では日吉倶楽部から立候補して当選する。
長谷川 豊吉(はせがわ とよきち、1852年3月12日(嘉永… 長谷川 豊吉(はせがわ とよきち、1852年3月12日(嘉永5年2月22日)- 1923年(大正12年)9月1日)は、幕末の名主、明治から大正期の政治家、実業家。衆議院議員。 相模国足柄下郡曽我谷津村(現:神奈川県小田原市)で、名主・長谷川文右衛門の長男として生まれる。漢学を修める。自由民権運動に加わり自由党に属して活動した。戸長、学務委員、郡徴兵参事員、下曽我村長、同村会議員、神奈川県会議員、同常置委員、県徴兵参事員、学校組合会議員、水利組合会議員などを歴任。その他、小田原通商銀行監査役、小田原電気鉄道取締役、足利肥料 (株) 監査役などを務めた。 1902年8月、第7回衆議院議員総選挙において神奈川県郡部区で立憲政友会から出馬し当選。
松村 雄之進(まつむら ゆうのしん、1852年3月11日(嘉… 松村 雄之進(まつむら ゆうのしん、1852年3月11日(嘉永5年2月21日) - 1921年(大正10年)2月22日)は、明治・大正期の政治家。衆議院議員(1期)。 筑後国久留米鍛冶屋町(現福岡県久留米市中央町)で神官の家に生まれる。17歳で故郷を離れて京都、摂津で諸藩の名士と親交を持ち国事に奔走した。1872年(明治4年)大楽源太郎が久留米藩に逃れたことにより藩主が政府の嫌疑を受けたため、同志と大楽を暗殺して禁獄7年の刑に処せられた(久留米藩難事件)。 1878年(明治11年)に出獄。1880年(明治13年)3月、旧久留米藩士を集めて福島県に移住して安積原野開拓を開始し、久留米開墾社を設立して副社長、社長を歴任した。
小野 梓(おの あずさ、1852年3月10日(嘉永5年2月2… 小野 梓(おの あずさ、1852年3月10日(嘉永5年2月20日) - 1886年(明治19年)1月11日)は、日本の法学者。明治の政治運動家。専門は英米法。 土佐国宿毛(高知県宿毛市)出身。男性。親友であった大隈重信を助け、東京専門学校(現在の早稲田大学)の創立の中心者で早稲田大学建学の母と言われている。ジェレミ・ベンサムの思想を分析した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、法学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。
永見 林三郎(ながみ りんざぶろう、1852年3月5日〈嘉永… 永見 林三郎(ながみ りんざぶろう、1852年3月5日〈嘉永5年2月15日〉 - 1924年〈大正13年〉4月2日)は、日本の政治家。 中浜村長(第3代)、中浜村会議員。第6代中浜村長永見勘太郎の父。 1898年(明治31年)当選期の補欠と、1904年(明治37年)の2期中浜村会議員を務めた。また、1905年(明治38年)12月から1909年(明治42年)12月まで第3代中浜村長を務めた。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
荒井 閑窓(あらい かんそう、嘉永5年2月15日〈1852年… 荒井 閑窓(あらい かんそう、嘉永5年2月15日〈1852年3月5日〉 - 1925年〈大正14年〉12月11日)は明治・大正期の俳人。本名は荒井 清三郎。別号に竹幹道人、華崖、不染居士がある。 館林町鞘町(現・館林市仲町)で綿糸問屋「荒清」を営む荒井家の嫡子として生まれ、幼名を胤太郎といった。善導寺住職・満成から漢学を学んだ。俳諧は横山見左に学び、養志堂閑窓と号した。見左が1875年(明治8年)に死去した後は、下平可都美(現在の高崎市倉渕町水沼の人)に師事し、俳画も作るようになった。1880年(明治13年)に三森幹雄が『俳諧明倫雑誌』を創刊した際は資金面で援助を行っている。 閑窓は家督を弟に継がせ自身は俳諧に専念することを望んだが、資産50万円ともいわれる大商店でそれは許されなかった。
黒崎 研堂(くろさき けんどう、嘉永5年2月15日(1852… 黒崎 研堂(くろさき けんどう、嘉永5年2月15日(1852年3月5日) - 昭和3年(1928年)1月16日)は、江戸時代から昭和時代にかけての書家。庄内藩士。鶴岡町会議員、金融機関済急社社長(第3代)、松ヶ岡開墾場総監督。出羽国庄内(現・山形県鶴岡市)出身。別名は与八郎、馨、聚、敬治、子芳、東瀛。 庄内藩家老・酒井了明の3男として生まれ、後に黒崎友信の養子となる。 藩校致道館で学び、戊辰戦争の際には農兵小隊長として出陣。1870年には酒井忠篤に従い、鹿児島に赴き練兵を学ぶ。帰郷後、松ヶ岡開墾場の経営に従事。この間に黒崎たき(14歳)と結婚した。 研堂は幼き頃から書をよくし、1886年に斯界の第一人者であった日下部鳴鶴が鶴岡を来訪した際に入門した。
近藤 重三郎(こんどう じゅうさぶろう、1852年3月5日〈… 近藤 重三郎(こんどう じゅうさぶろう、1852年3月5日〈嘉永5年2月15日〉 - 1910年〈明治43年〉3月6日)は、明治時代における愛知県岡崎市の実業家・政治家である。 味噌・醤油醸造業「伊勢屋」を営む傍ら、有志とともに同地の電力会社岡崎電灯を起業し、同社を中心に電気事業に関わる。政界では岡崎町会議員・愛知県会議員を歴任した。死後は養嗣子が2代目近藤重三郎(1886年 - 1953年)を襲名している。 近藤重三郎は、嘉永5年2月15日(新暦:1852年3月5日)、三河国御油(現・愛知県豊川市御油町)の中村家に生まれた。幼名は安吉。生家の中村家は東海道の宿場御油宿で味噌・醤油醸造業と旅籠「大津屋」を営む旧家で、7代目当主の慶蔵は名望家として知られた。
間中 進之(まなか しんし、1852年3月3日〈嘉永5年2月… 間中 進之(まなか しんし、1852年3月3日〈嘉永5年2月13日〉 - 1890年〈明治23年〉9月5日)は、日本の政治家。衆議院議員。所属は弥生倶楽部 武蔵国葛飾郡惣新田村(のち埼玉県北葛飾郡吉田村、現幸手市)で生まれる。漢学を学んだ。 1874年(明治7年)、22歳で学区取締となる。1879年(明治12年)、北葛飾郡・中葛飾郡選出の埼玉県会議員に選ばれた。議会では、立案委員、組合監事などを務めた。1880年(明治13年)6月、議員を辞職して南埼玉郡長に就任。1890年(明治23年)3月に郡長を辞任した。 同年7月、第1回衆議院議員総選挙に埼玉県第3区から出馬して当選したが、2ヵ月後に死去した。
服部 一三(はっとり いちぞう、1851年3月13日(嘉永4… 服部 一三(はっとり いちぞう、1851年3月13日(嘉永4年2月11日) - 1929年(昭和4年)1月25日)は明治時代の日本の文部・内務官僚。族籍は山口県士族。 東京英語学校、東京大学法・理・文各学部綜理(1880年(明治13年)6月4日)、東京大学予備門(いずれも東京大学教養学部の前身)校長・予備門長、大阪専門学校(京都大学の前身の1つ)綜理、日本地震学会初代会長、東京大学法学部初代学部長、共立女子職業学校(共立女子中学校・高等学校の前身)校長、文部省普通学務局長、岩手・広島・長崎・兵庫の各県知事、貴族院議員を歴任した。 長州藩士槍術指南役渡辺兵蔵の三男として周防国吉敷郡吉敷村(現山口県山口市)で誕生する。
伊夫伎 資弼(いぶき としすけ、1851年3月12日〈嘉永4… 伊夫伎 資弼(いぶき としすけ、1851年3月12日〈嘉永4年2月10日〉 - 1911年〈明治44年〉2月14日)は、明治時代の政治家、篤農家。衆議院議員(2期)。旧名は出雲。 近江国坂田郡伊吹村(滋賀県坂田郡伊吹町を経て、現米原市)で、伊吹神社社家・伊夫伎専右衛門の長男として生まれる。1871年(明治4年)10月に今の名前に改名する。国学を学んだのち神官となる。また、所得税調査委員、破産管財人、郡農会副会頭、県農会副会頭、県農工銀行取締役を務めた。 1889年(明治22年)6月に伊吹村会議員、同村長となった。1890年(明治23年)3月には、滋賀県会議員に阪田郡選挙区から立候補して当選した。
真鍋 斌(まなべ あきら/さかり、1851年3月7日(嘉永4… 真鍋 斌(まなべ あきら/さかり、1851年3月7日(嘉永4年2月5日)- 1918年12月14日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。貴族院議員、男爵。幼名・熊槌。 長門国阿武郡萩城下(現山口県萩市)で長州藩中士・真鍋安信の長男として生まれる。明倫館で学び、1866年、干城隊に入隊。1870年、大坂兵部省屯所に入営し、1871年、陸軍青年学舎を卒業。陸軍教導団出仕を経て、1872年、陸軍少尉任官。以後、陸軍兵学寮付、陸軍省第1局第3課などを経て、1877年4月から10月まで西南戦争に出征した。 陸軍省第1局第3課長心得、総務局武学課長、同局第3課長心得、同課長、歩兵第3連隊長、第1軍事課長、第4師団参謀長、第1軍事課長、総務局人事課長などを歴任し、1897年7月、陸軍少将に進級。
原田 良太郎(はらだ りょうたろう、1851年3月5日〈嘉永… 原田 良太郎(はらだ りょうたろう、1851年3月5日〈嘉永4年2月3日〉- 1903年〈明治36年〉3月24日)は、幕末の徳山藩士、明治期の大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階は正四位、勲等は勲二等、軍功は功四級。幼名・正良、1878年6月、良太郎に改名。 周防国都濃郡、後の山口県都濃郡久保村(現下松市)で原田亀之丞の二男として生まれた。明治元年(1868年)徳山藩兵として鳥羽・伏見の戦いに従軍した。長州藩諸隊脱走兵反乱に出動した。 大阪兵学校で学び、1872年(明治5年)陸軍省に出仕。1874年(明治7年)陸軍騎兵少尉に任官した。西南戦争に出征。1887年(明治20年)3月、輜重兵少佐に昇進し輜重兵第1大隊長に就任。
湯浅 貞太郎(湯淺、ゆあさ さだたろう、1850年3月30日… 湯浅 貞太郎(湯淺、ゆあさ さだたろう、1850年3月30日(嘉永3年2月17日)- 1911年(明治44年)8月16日)は、日本の政治家。衆議院議員、徳島県勝浦郡小松島町長。 阿波国勝浦郡田野村(現徳島県小松島市田野町)で、庄屋湯浅家・4代佐平次の長男として生まれる。私塾で学び、漢学、剣術、馬術を修めた。 徳島藩主蜂須賀家の家債整理について尽力した。1870年4月(明治3年3月)勝浦郡四番里長に就任し、以後、同郡第二小区用係、学校世話係、地租改正委員総代を歴任。徳島県が高知県に属していた1879年(明治12年)1月から名東郡、勝浦郡各書記を務めた。 1882年(明治15年)に結成された立憲改進党に参加。
清浦 奎吾(きようら けいご、旧字体: 淸浦 奎吾、1850… 清浦 奎吾(きようら けいご、旧字体: 淸浦 奎吾、1850年3月27日〈嘉永3年2月14日〉- 1942年〈昭和17年〉11月5日)は、日本の官僚、政治家。位階勲等爵位は従一位大勲位伯爵。幼名は普寂(ふじゃく)。旧姓大久保(おおくぼ)。 肥後(現在の熊本県)出身。司法・内務官僚として活躍した後に貴族院議員となり、官界や貴族院に大きな影響力を持った。その後、司法大臣、農商務大臣、内務大臣、枢密顧問官、枢密院副議長、枢密院議長を歴任。 1924年(大正13年)に第23代内閣総理大臣として組閣したが、超然主義との批判を受け、選挙に大敗したため5か月で総辞職した。その後は重臣として国事に関与した。 嘉永3年(1850年)2月14日、肥後国山鹿郡上御宇田村(現:山鹿市鹿本町来民)の明照寺(浄土真宗本願寺派)住職・大久保了思の五男に生まれ、後に清浦の姓を名乗った。
角田 秀松(つのだ ひでまつ、1850年3月25日(嘉永3年… 角田 秀松(つのだ ひでまつ、1850年3月25日(嘉永3年2月12日) - 1905年(明治38年)12月13日)は、日本の武士(会津藩士)、海軍軍人。最終階級は海軍中将。戊辰戦争において「朝敵」とされた会津藩出身者として最初の海軍将官となった人物である。 会津藩医、角田良智の二男として生まれる。父の蝦夷地赴任に同行し、南摩綱紀に学んだ。秋月悌次郎に従って上洛し、林権助に洋式訓練を受ける。鳥羽・伏見の戦い、会津戦争と歴戦したが、藩の降伏を迎えた。古川庄八らに学んだ後、商船の水夫となり船長代理に昇る。征台の役に運送船に乗組んだ際に西郷従道の知遇を得て、1874年10月、長崎海軍出張所雇となる。