宇多 五郎(うだ ごろう、1901年6月30日 - 1982… 宇多 五郎(うだ ごろう、1901年6月30日 - 1982年10月11日)は、ドイツ文学者、翻訳家。 東京出身。1927年上智大学文学部独文科卒。上智大学講師、助教授、教授。外国語学部を創設し初代学部長。1972年定年、名誉教授。高村光太郎に師事した。次男は宇多文雄。
6月生まれ:9,344人
宇多 五郎(うだ ごろう、1901年6月30日 - 1982… 宇多 五郎(うだ ごろう、1901年6月30日 - 1982年10月11日)は、ドイツ文学者、翻訳家。 東京出身。1927年上智大学文学部独文科卒。上智大学講師、助教授、教授。外国語学部を創設し初代学部長。1972年定年、名誉教授。高村光太郎に師事した。次男は宇多文雄。
小林 富佐雄(こばやし ふさお、1901年6月30日 - 1… 小林 富佐雄(こばやし ふさお、1901年6月30日 - 1957年10月1日)は、日本の実業家、東宝、東洋製罐代表取締役社長。 小林一三の長男として山梨県に生まれる。東京外国語学校(現東京外国語大学)卒業。1929年に東洋製罐入社。1936年に取締役に就任。その後常務を経て1946年に代表取締役社長に就任。1941年8月29日に東京宝塚劇場取締役、大阪電気軌道を経て、阪神急行電鉄取締役、帝国劇場代表取締役社長を経て1950年9月28日に東宝代表取締役社長に就任。それ以外に日経連常任理事を務めた。新東宝分裂後の東宝再建などに尽力した。1951年9月28日に社長の座を父・一三に譲り代表取締役に退く。
藤岡 信吾(ふじおか しんご、1901年 <明治34年> 6… 藤岡 信吾(ふじおか しんご、1901年 <明治34年> 6月27日 - 1977年 <昭和52年> 9月3日)は、日本の経営者。三菱石油社長を務めた。位階は正四位。 茨城県出身。1925年に慶應義塾大学法学部を卒業し、同年に三菱商事に入社。1949年6月に三菱石油に転じ、195年11月に取締役に就任し、1955年11月に常務を経て、1961年5月には社長に就任。1973年5月に会長に就任し、1974年5月には取締役相談役に退いた。1965年5月には石油連盟会長に就任。 1963年11月に藍綬褒章を受章し、1971年11月に勲二等旭日重光章を受章。 1977年9月3日腎盂腎炎のために死去。76歳没。
山田 順子(やまだ ゆきこ、1901年6月25日 - 196… 山田 順子(やまだ ゆきこ、1901年6月25日 - 1961年8月27日)は、日本の小説家。徳田秋聲、竹久夢二などの愛人として知られる。 本名ユキ。秋田県由利郡本荘町(現由利本荘市)に廻船問屋の長女として生まれる。山田家は明治維新以前は本荘藩に仕える士族だったが、明治期に炭の商いから成功して金貸しなども手がけ、父親の代に廻船業に転じた。気丈で美貌の祖母を慕っていたが、順子が7歳のころにその祖母が投身自殺し、精神的に多大な影響を受ける。 秋田県立秋田高等女学校(現秋田県立秋田北高等学校)を卒業し、1920年に19歳で東京帝国大学出の弁護士増川才吉と結婚して小樽に住む。長女出産後、病で片方の乳房を失う。
高橋 敏雄(たかはし としお、1901年〈明治34年〉6月2… 高橋 敏雄(たかはし としお、1901年〈明治34年〉6月24日 - 1967年〈昭和42年〉11月15日)は、日本の内務・厚生官僚。官選群馬県知事。 長崎県東彼杵郡佐世保村(現佐世保市)で、父・高橋敏二郎、母・三九重の長男として生まれる。1909年(明治42年)1月、東京市に移り、府立第一中学校(現東京都立日比谷高等学校)、第一高等学校を卒業。1924年11月、高等試験行政科試験に合格し、翌年12月、高等試験司法科試験にも合格した。1926年3月、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。内務省に入省し社会局属となる。 以後、地方事務官、宮内書記官、厚生書記官、厚生大臣官房人事課長、厚生大臣秘書官、内務省大臣官房人事課長、内務大臣秘書官などを歴任。
小寺 駿吉(こでら しゅんきち、1901年〈明治34年〉6月… 小寺 駿吉(こでら しゅんきち、1901年〈明治34年〉6月23日 - 1975年〈昭和50年〉2月4日)は、日本の造園家・農学者。造園学分野で東京大学、千葉大学等で教鞭をとり、学究の途を一貫して歩む。位階は正四位。勲三等瑞宝章。 北海道小樽市に岐阜県士族の父、小寺芳次郎、母ただの五男として生まれる。二男は小寺健吉(画家)、三男は小寺廉吉(桃山学院大学教授等)、四男は小寺融吉(日本舞踊研究家)、七男は俳優の中村伸郎。 九州帝国大学に進学、永見健一に師事。1927年、農学部林学科卒業後、東京帝国大学大学院に進学、本多静六に師事し更に田村剛の指導をうける。この間1929年から東京大学農学部講師もつとめ造園学を担当。
天野 潔(あまの きよし、1901年(明治34年)6月23日… 天野 潔(あまの きよし、1901年(明治34年)6月23日 - 没年不明)は、日本の実業家。 島根県能義郡広瀬町(現在の安来市)出身。神山昌毅の弟、天野蓮夫の養子。大正15年(1926年)東京帝国大学英法科卒業。安田保全社、昭栄製糸専務、日本蚕糸製造常務取締役等を歴任したが、戦後は健康上の理由から退職し静養した。その後は不明。 妻光枝は大日本麦酒(現在のサッポロビール)の元常務橋本卯太郎の次女。橋本卯太郎の孫に橋本龍太郎(第82代・第83代内閣総理大臣)、橋本大二郎(元高知県知事)などがいる。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
古田 重二良 (ふるた じゅうじろう、1901年(明治34年… 古田 重二良 (ふるた じゅうじろう、1901年(明治34年)6月23日 - 1970年(昭和45年)10月26日)は、日本の教育者。昭和時代戦後期の日本大学第四代理事長および会頭を歴任し、日大のマンモス化を達成した。私立大学の経営者(教育者)として昭和戦後期の高等教育機関が少なかったころに、マスプロ大学(マスプロ教育)のシステムを導入して大学進学率上昇に貢献し、理系学部を重視した政策をとった。また、戦後期に財界から期待されてサラリーマン育成機関となった私立大学のなかで、日大におけるビジネス教育の推進といった日本の大学経営における手法を確立した。大学闘争では最大規模となる日大紛争(日大闘争)を招いた当事者になる。
倉島 至(くらしま いたる、1901年(明治34年)6月19… 倉島 至(くらしま いたる、1901年(明治34年)6月19日 - 1993年(平成5年)3月4日)は、日本の政治家。長野県長野市長(2期)。 長男はジャーナリストの倉嶋康、弟は気象学者の倉嶋厚。 長野市生まれ。旧制長野中学(現長野県長野高等学校)、旧制松本高校文科甲類を経て、1925年東京帝国大学法学部法律学科卒業。1925年朝鮮総督府に奉職。終戦時は慶尚北道内務部長、1946年引揚げ。1947年法政大学工業専門学校の教授から長野市助役となる。1951年長野県地方労働委員会事務局長。 1954年の長野市長選挙に立候補して初当選し、2期務めた。 在任中は飯綱高原の観光開発に乗り出し、スキー場やキャンプ場などを開設。
瀧 巖(たき いわお、1901年(明治34年)6月19日 -… 瀧 巖(たき いわお、1901年(明治34年)6月19日 - 1984年(昭和59年)5月31日)は、日本の軟体動物学者、分類学者。表記揺れにより、瀧巌や滝巌と表記されることもある。兄である滝庸や波部忠重、黒田徳米らと共に、多板類、頭足類や腹足類など、多くの軟体動物を記載した。 1901年(明治34年)6月19日に愛媛県松山市に生まれる。兄に勧められ、1920年(大正9年)広島高等師範学校理科第3部(博物・地理)に入学し、1924年(大正13年)卒業し福岡県立中学伝習館教諭となる。1925年(大正14年)京都帝国大学理学部動物学科に入学し、1928年(昭和3年)に卒業とともに嘱託として瀬戸臨海実験所で働く。
野口 謙蔵(のぐち けんぞう、1901年(明治34年)6月1… 野口 謙蔵(のぐち けんぞう、1901年(明治34年)6月17日 - 1944年(昭和19年)7月5日)は、日本の洋画家。滋賀県出身。 1901年(明治34年)6月17日、野口謙蔵は滋賀県蒲生郡桜川村綺田(現東近江市綺田町)で造酒業を営む裕福な家の次男として生まれた。父は桜川村初代村長を勤めた野口正寛、母は近在の素封家岡崎銀兵衛の娘で屋恵と言った。祖父野口正忠は美術愛好家で漢詩家、柿村と号し滋賀・京都の多くの文人と親交厚く、富岡鉄斎は正忠との交遊から長く野口家に居候をしていた。伯父(野口正忠の長男)野口正章の妻野口小蘋は明治時代の人気女流画家であり、謙蔵は一流の画家・美術品に囲まれて育ち、幼い頃から絵を描くことが好きだった。
本間 嘉平(ほんま かへい、1901年 <明治34年> 6月… 本間 嘉平(ほんま かへい、1901年 <明治34年> 6月17日 - 1993年 <平成5年> 1月16日)は、日本の経営者。大成建設社長を務めた。位階は従四位。 福島県出身。1922年に東京高等工業学校建築学科を卒業し、同年に大成建設に入社。1947年3月に取締役に就任し、1950年6月に常務、1957年5月に専務を経て、1960年12月に副社長に就任し、1963年5月に社長に昇格。1969年5月に会長に就任し、1973年5月から相談役を務めた。 1971年11月に勲二等瑞宝章を受章した。 1993年1月16日心不全のために死去。91歳没。死没日付をもって従四位に叙された。
小野 さつき(おの さつき、明治34年(1901年)6月14… 小野 さつき(おの さつき、明治34年(1901年)6月14日 - 大正11年(1922年)7月7日)は、日本の教育者。水難事故に遭った教え子を救おうとして殉職し、全国的な反響を呼んだ。 宮城県刈田郡福岡村(現・白石市)出身。5人兄弟(兄3人・姉)の末っ子で二女。中岡小学校へ入学。3年生の終わり頃に中岡小学校が福岡小学校との合併に伴い福岡小学校に転校する。白石実科高等女学校(現・宮城県白石高等学校)から1918年(大正7年)宮城県女子師範学校(現・宮城教育大学)へ進学。宮城県女子師範学校在学中は3度も級長に選出された。1922年(大正11年)師範学校を卒業し、同年4月4日に宮城県刈田郡宮尋常高等小学校(現・蔵王町立宮小学校)へ訓導として赴任。
山際 正道(やまぎわ まさみち、1901年6月12日 - 1… 山際 正道(やまぎわ まさみち、1901年6月12日 - 1975年3月16日)は第20代日本銀行総裁。大蔵次官。東京出身。
秋山 利恭(あきやま としちか、1901年〈明治34年〉6月… 秋山 利恭(あきやま としちか、1901年〈明治34年〉6月12日 - 1981年〈昭和56年〉3月30日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(4期)。 奈良県出身。1926年(大正15年)東京農業大学を卒業した。 東洋製糖取締役、東和醸造監査役、全国農業共済協会顧問、奈良県花卉園芸組合連合会長、奈良県至誠会顧問、奈良県農地解放者同盟会長などを務めた。 1952年(昭和27年)10月の第25回衆議院議員総選挙に奈良県全県区から立候補して当選した。その後、26回、28回、第29回総選挙でも当選し、衆議院議員に通算4期在任した。自由民主党に所属して、自民党奈良連合会顧問、第1次池田内閣大蔵政務次官などを務めた。
内海 清(うつみ きよし、1901年6月12日 - 1977… 内海 清(うつみ きよし、1901年6月12日 - 1977年7月1日)は、日本の政治家。衆議院議員(7期)。 広島県御調郡御調町(現尾道市)生まれ。1921年(大正10年)に広島師範学校を卒業し広島県内で教員として勤務の後、1939年(昭和14年)に日立造船向島工場に入社。日立造船では因島工場総務部長などを務める。1953年(昭和28年)には因島市議会議員に当選。 1955年(昭和30年)第27回衆議院議員総選挙で広島3区から出馬するも落選。1958年(昭和33年)第28回衆議院議員総選挙にて初当選を果たし民主社会党の結党に加わる。1968年(昭和43年)衆議院交通安全対策特別委員長。1971年(昭和46年)秋の叙勲で勲二等瑞宝章受章。
松沢 令之助(まつざわ れいのすけ、1901年(明治34年)… 松沢 令之助(まつざわ れいのすけ、1901年(明治34年)6月10日 - 没年不明)は、昭和期の医師、政治家。長野県須坂市長。号は秋嶺。 長野県上高井郡高甫村(現須坂市)で、松沢新太郎、なわ の長男として生まれた。1916年(大正7年)3月、長野県上高井農学校(現長野県須坂園芸高等学校)を卒業。さらに、1941年(昭和16年)12月、哈爾濱医科大学(現ハルビン医科大学)開拓学院卒業、1952年(昭和27年)10月、東京医科大学専門部を卒業した。この間、1926年(大正15年)陸軍一等看護長となり、1942年(昭和17年)拓務省嘱託の医師として満州に派遣された。 1947年(昭和22年)上高井郡高甫村で医院を開業。
潮田 江次(うしおだ こうじ、1901年(明治34年)6月9… 潮田 江次(うしおだ こうじ、1901年(明治34年)6月9日 - 1969年(昭和44年)5月9日)は日本の政治学者。慶應義塾創立者福澤諭吉の孫で慶應義塾長、日本政治学会初代理事、第3代理事長を歴任。「政治概念論争」の口火をきったことで知られる。 1901年(明治34年)東京で、芝浦製作所技師・潮田伝五郎の次男として生まれる。福澤諭吉の五女光を母とする。つまり、福澤の孫にあたる。 慶應義塾幼稚舎から普通部を経て、1922年(大正11年)3月法学部政治学科第2学年を修了したのち、アメリカのコーネル大学に留学し、1923年(大正12年)7月帰国、1924年(大正13年)4月から法学部で教鞭をとった。
岩田 専太郎(いわた せんたろう、旧字体:專太郞、1901年… 岩田 専太郎(いわた せんたろう、旧字体:專太郞、1901年〈明治34年〉6月8日 - 1974年〈昭和49年〉2月19日)は、日本の画家、美術考証家。連載小説の挿絵を多く手がけ、数多くの雑誌・書籍の表紙で「専太郎張り」と呼ばれる画風の美人画を発表した。昭和の挿絵の第一人者として知られる。妹は女優の湊明子。 1901年(明治34年)6月8日、東京市浅草区黒船町(現在の東京都台東区寿)に生まれる。生家は印刷業で、版木の名人と言われた父方のおじや絵双紙屋のおばがいるという環境だった。幼い頃から絵が好きで画才を示し、妹の湊明子の回想では、彼女が尋常小学校に入学したときに講堂に兄の絵が飾られていたという。
比嘉 秀平(ひが しゅうへい、1901年(明治34年)6月7… 比嘉 秀平(ひが しゅうへい、1901年(明治34年)6月7日 - 1956年(昭和31年)10月25日)は、沖縄県の官僚、教育者、琉球政府の政治家。1952年4月から1956年10月まで琉球政府行政主席を務めた。琉球民主党初代総裁。 沖縄県中頭郡読谷村に生まれる。小学校時代に事故で右腕を失うも、勉学に励み、1925年(大正14年)早稲田大学文学部英文学科を卒業する。 和歌山県の高野山中学に勤務後、約20年間の教員生活を送り、母校である沖縄県立第二中学校の教諭および沖縄県立第三中学校の教頭を務める。 沖縄戦では県立第三中学校の学徒隊を率いたが生還し、終戦後、沖縄民政府に採用されて、翻訳課長や官房長などを歴任した。
石田 民三(いしだ たみぞう、1901年6月7日 - 197… 石田 民三(いしだ たみぞう、1901年6月7日 - 1972年10月1日)は、日本の映画監督。 秋田県平鹿郡増田町(現・横手市)生まれ。1926年に『愛傷』で監督デビュー。東亜キネマでは主に剣戟映画を手がけていたが、帝キネ、新興キネマ時代に鈴木澄子主演の女性映画、明治もので頭角を現し、東宝京都時代には花街映画の傑作を立て続けに発表した。浪曲映画から戦後は観光映画まで、生涯に手がけた映画は約90本。戦後は京都の花街・上七軒で妻とお茶屋を営みながら北野をどりの作・演出を行った。 新東宝に在籍していた映画監督の加戸野五郎は実弟。 この項目は、映画監督に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
中村 幸四郎(なかむら こうしろう、1901年6月6日 - … 中村 幸四郎(なかむら こうしろう、1901年6月6日 - 1986年9月28日)は日本の数学者。専攻は数学基礎論、数学史。大阪大学名誉教授、関西学院大学名誉教授、兵庫医科大学名誉教授、文学博士。従四位勲三等旭日中綬章。
風間 道太郎(かざま みちたろう、1901年6月6日 - 1… 風間 道太郎(かざま みちたろう、1901年6月6日 - 1988年8月25日)は、日本の平和運動家、伝記作家。 東京出身。暁星中学、第一高等学校、1928年東京帝国大学法学部法律学科卒業。太陽生命保険株式会社、谷村製鉄鉄工所、東京商工会議所、大政翼賛会、長野県鉄商工経済会などで勤めた。戦時中は大政翼賛会文化部副部長を務めるが、ほどなく退き農村生活を送る。戦後は、世界画報社や志摩書房の編集者、日本学園高等学校教諭などを歴任した。 大学で尾崎秀実と親しく、1946年尾崎の『愛情はふる星のごとく』を出版。新日本文学会に属し、平和運動家として活動しつつ、伝記などを書いた。
笹野 堅(ささの けん、1901年〈明治34年〉6月6日 -… 笹野 堅(ささの けん、1901年〈明治34年〉6月6日 - 1961年〈昭和36年〉11月6日)は、日本の国文学者。号は葵園。 静岡県志太郡藤枝町出身。静岡県立静岡中学校を経て、1927年、早稲田大学文学部国文科卒業。東京帝国大学文学部国文学研究室藤村作のもとで学び、1929年、同文学部副手、1930年、東京女子大学教授を兼任。北京師範大学、善隣大学教授を歴任した。 広島市で缶詰製造・精米業を営み広島市会議員や広島女子商業初代理事長等をつとめた笹野雄太郎の長男である。 狂言研究の先駆者として知られ、天正狂言本を初めとする狂言の諸資料を発掘、調査、紹介し、文献資料に基づく狂言研究の基礎を築いた。
安久 榮太郎(あんきゅう えいたろう、1901年(明治34年… 安久 榮太郎(あんきゅう えいたろう、1901年(明治34年)6月5日 - 1945年(昭和20年)4月13日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争で潜水艦輸送を23回成功させた伊38潜水艦長である。最終階級は海軍少将。 安久は福井県出身の海兵50期生である。海軍兵学校時代の校長は鈴木貫太郎、千坂智次郎で、安久は272名中95番で卒業した。練習艦隊は谷口尚真司令官に率いられ、片桐英吉、岸本鹿子治、田中頼三らの幹部に指導を受けた。術科学校で初級士官教育を受け、中尉進級後に呂59(駒沢克己艦長)に乗組んだのが潜水艦歴のはじまりである。水雷学校高等科、潜水学校乙種を履修し、安久は潜水艦専攻士官となる。 潜水学校乙種は潜水艦水雷長を養成する課程である。
北脇 昇(きたわき のぼる、1901年6月4日 - 1951… 北脇 昇(きたわき のぼる、1901年6月4日 - 1951年12月18日)は、日本のシュルレアリスムの画家。 愛知県名古屋市出身。父が単身朝鮮半島に渡ったことから、1910年、母親と京都に住む叔父の広瀬満正(元貴族院議員、実業家)の元へ移る。爾来、北脇は死亡するまで京都をほとんど離れなかった。1915年、京都市立銅駝尋常小学校卒業。同年、同志社中学校に入学。1917年、同校を中途退学。 1919年2月、鹿子木孟郎の画塾に入る。1930年4月、津田青楓の画塾に入る。1932年、第19回二科展に初入選。同年9月、京都洋画協会の結成に参加。1933年10月、独立美術京都研究所が開設され、その委員となる。
益富 壽之助(ますとみ かずのすけ、1901年6月3日 - … 益富 壽之助(ますとみ かずのすけ、1901年6月3日 - 1993年3月10日)は、日本の薬学者・鉱物学者。薬学博士(京都大学)。京都府生まれ。 1901年6月3日、益富豊松・常尾夫妻の三男として生まれる。 1920年、京都薬学専門学校(現京都薬科大学)卒業。薬局経営とともに、京都薬科大学、立命館大学、大阪大学の講師を務めた。1932年、日本鉱物趣味の会(現日本地学研究会)を創設し、その代表となる。 1973年、日本地学研究会館を設立、1993年には財団法人益富地学会館となる。正倉院の石薬の調査・研究でも知られる。 1974年、滋賀県で発見された新鉱物が益富雲母 (masutomilite) と命名された。
岡村 長之助(おかむら ちょうのすけ、1901年6月2日 -… 岡村 長之助(おかむら ちょうのすけ、1901年6月2日 - 1990年代頃?)は、日本の古生物(化石)研究者、医師。愛知医科大学(名古屋大学の前身)卒。 市井の化石研究家であり、岡村化石研究所を主宰していた。本業は内科医師。病院と研究所は名古屋市にあった。 岩手県大船渡市から出土した石灰岩より、4億年前の1mmに満たないミニ人類、あらゆる種類の動物及び工芸品等の微化石を発見し、独自の進化論に昇華させた。1970年代から1980年代には古生物学会において数度の発表を行うとともに、国内外の多数の大学に論文を寄贈した(B5判の薄い研究論文の冊子。地質学研究室が設置されている大学の研究室・図書館に保存されていることがある)。
山崎 剛平(やまざき ごうへい、1901年6月2日 - 19… 山崎 剛平(やまざき ごうへい、1901年6月2日 - 1996年7月8日)は、日本の歌人、出版者、実業家。 兵庫県赤穂郡上郡町の酒造家に生まれる。早稲田大学文学部国文科卒。窪田空穂のもとで作歌、1926年『槻の木』を創刊、尾崎一雄らと同人誌を出し、1935年砂子屋書房を創業。43年には廃業し、実家の山崎酒造の社長を務めた。砂子屋ははじめ「まなごや」と読ませるつもりだったが、人々が「すなこや」と呼ぶためこれに任せた。
青山 二郎(あおやま じろう、明治34年(1901年)6月1… 青山 二郎(あおやま じろう、明治34年(1901年)6月1日 - 昭和54年(1979年)3月27日)は日本の装丁家・美術評論家。骨董収集鑑定でも著名であった。
高橋 敏雄(たかはし としお、1901年(明治34年)6月 … 高橋 敏雄(たかはし としお、1901年(明治34年)6月 - 1967年(昭和42年)11月15日)は、日本の内務・厚生官僚。官選群馬県知事。
島田 謹介(しまだ きんすけ、1900年6月28日 - 19… 島田 謹介(しまだ きんすけ、1900年6月28日 - 1994年6月30日)は、日本の写真家。 長野県埴科郡松代町(後の長野市松代)に、医師の息子として生まれ、旧制長野中学(長野県長野高等学校の前身)を卒業する。中学校時代は画家志望であったが、結核にかかり療養を余儀なくされる中で、病床で目にしたシベリア出兵の報道写真をきっかけに、報道カメラマンを志すようになり、1920年に中学校を卒業して上京した。 1920年、朝日新聞東京本社に入社して社会部写真係に所属する報道カメラマンとなり、1923年に『アサヒグラフ』が創刊されるとその写真班員となった。以降、関東大震災(1923年)、五・一五事件(1932年)、二・二六事件(1936年)などの取材にあたった。
阿部 金剛(あべ こんごう、1900年6月26日 - 196… 阿部 金剛(あべ こんごう、1900年6月26日 - 1968年11月20日)は、日本の洋画家。 岩手県盛岡市出身。父は内務省官僚で、東京府知事でもあった阿部浩。東京府立第一中学校を経て、慶應義塾大学文学部予科中退。在学中から岡田三郎助に師事し、1926年渡仏。1929年東郷青児と共に油絵展覧会を開催。同年二科会展に初入選した。以後もメキシコやアメリカにて創作活動に励む。二科会会員。 超現実主義(シュルレアリスム)的な作品で脚光を浴び、また萩原朔太郎の「詩人の運命」の装丁もした。 1930年三宅艶子との結婚も当時の新聞紙上を賑わした。娘はエッセイストの三宅菊子、息子は彫刻家の阿部鷲丸。1968年11月20日、心筋梗塞のため東京逓信病院で死去。
小笠原 明峰(おがさわら めいほう、1900年6月26日 -… 小笠原 明峰(おがさわら めいほう、1900年6月26日 - 1946年6月20日)は、日本の映画監督、脚本家、無声映画時代の京都の映画会社「小笠原プロダクション」を率いた実業家である。名は明峯とも表記される。本名は長隆(ながたか)。子爵小笠原長生の長男である。 1900年6月26日、旧唐津藩主、子爵小笠原家第14代当主小笠原長生(元海軍中将、元宮中顧問官、元学習院御用掛)を父とし、秀子(元前橋藩主、伯爵松平直方の長女)を母とし、その長男として東京府東京市に生まれる。 1923年、「小笠原明峰」を名乗り、23歳にして京都で「小笠原プロダクション」を設立、片岡千恵蔵(当時本名の植木進)らが専属となった。
湯地 孝(ゆち たかし、1900年6月26日 - 1973年… 湯地 孝(ゆち たかし、1900年6月26日 - 1973年3月10日)は、日本近代文学研究者。 第一高等学校を経て、1925年東京帝国大学文学部国文科卒。1926年、卒業論文を『樋口一葉論』として刊行し、以後片岡良一とともに近代文学研究に先鞭をつける。「たけくらべ」の末尾における美登利の変貌を、初潮ゆえと論じたのは孝が最初である。1950年4月、開学して間もない山梨大学に着任。同大学の近代文学文庫は湯地の提案により設立された。1961年(昭和41年)退官。その後は、青山学院大学教授、淑徳大学学長を務めた。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
竹下 勇造(たけした ゆうぞう、1900年〈明治33年〉6月… 竹下 勇造(たけした ゆうぞう、1900年〈明治33年〉6月25日 - 1984年〈昭和59年〉3月21日)は、日本の実業家、政治家。掛合町名誉町民。島根県議会議員、掛合村長、竹下酒造代表取締役などを務めた。旧姓は武永(たけなが)。 第74代内閣総理大臣・竹下登の実父。漫画家・影木栄貴、ミュージシャン・DAIGOの曾祖父。 島根県簸川郡今市町(現:出雲市)出身。武永貞一の弟。掛合町(現:雲南市)竹下儀造の養子となった。旧制島根県立松江中学校(現・島根県立松江北高等学校)を経て、1923年(大正12年)早稲田大学専政科(現、政治経済学部)卒業。 竹下家は日本三大山林王の一家として出雲一円に権勢を誇っていた田部家の傘下で庄屋を務めており、掛合一の旧家であった。
出光 計助(いでみつ けいすけ、1900年6月24日 - 1… 出光 計助(いでみつ けいすけ、1900年6月24日 - 1994年1月8日)は、日本の実業家。出光興産第2代社長。石油連盟会長も務め、勲二等旭日重光章を受章した。 出光興産の創業者である出光佐三の末弟。出光謙介元出光興産厚生年金基金理事長は長男。株式公開や脱創業家を行い、出光家出身の最後の社長となった出光昭第7代出光興産社長は二男。 福岡県の生まれ。旧制東筑中学(のちの福岡県立東筑高等学校)、旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒業。内池廉吉ゼミ出身。卒業後南満洲鉄道に入社。系列の鉄鋼会社や商社を経て、戦後、兄である出光佐三社長に勧められ出光興産入社。 1952年に専務を務めていた際、石油メジャーから原油購入を拒否されていたモハンマド・モサッデク政権下のイランに渡航、原油購入契約を締結、自社タンカーの日章丸でイギリス海軍の海上封鎖を突破してイラン原油を日本に持ち帰り、世界の注目を集めた(日章丸事件)。
井口 海仙(いぐち かいせん、1900年6月24日 - 19… 井口 海仙(いぐち かいせん、1900年6月24日 - 1982年6月8日)は、日本の茶道家。京都市に、13代千宗室の3男として生まれた。名は三郎、号は宗含。裏千家宗家の父に茶道を学ぶ。茶道教授をしながら、機関誌「茶道月報」を主宰。戦後は淡交社社長として茶道書の出版、執筆に活躍した。
桑田 笹舟(くわた ささふね、1900年〈明治33年〉6月2… 桑田 笹舟(くわた ささふね、1900年〈明治33年〉6月24日 - 1989年〈平成元年〉7月31日)は、日本の書道家。福山市名誉市民。本名・桑田 明。 広島県福山市坪生町出身。1922年、神戸市立教員養成所に入学し、安東聖空に師事。1924年、文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験習字科に合格し、教員生活を始める一方、西谷卯木らとかな書の研究を始め、古筆研究家の田中親美に師事。同年、一楽書学院(一楽書芸院)を設立して笹舟と号す。1927年『かなとうた』発刊。1932年、関西書道会展、東方書道会展で最高賞受賞。1940年、教員を退職し、創作と学院の運営に専念する。 戦後は日本かな書道界を牽引し、現代かな書の先駆けとなる。
柳 満珠雄(やなぎ ますお、1900年6月22日 - 198… 柳 満珠雄(やなぎ ますお、1900年6月22日 - 1983年6月25日)は、日本の銀行家である。三井銀行(現・三井住友銀行)の社長を務め、全国銀行協会連合会会長、日本ポルトガル協会初代会長を歴任した。 柳満珠雄は1900年6月22日、東京府(現在の東京都)に生まれた。父親は、三井家再興および三井銀行の基礎を築いた三井財閥の重鎮・柳荘太郎である。満珠雄は慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部を経て、1923年に慶應義塾大学経済学部を卒業した。 大学卒業と同年の1923年、三井銀行に入行した。同行では、ニューヨーク支店長や大阪支店長などを務めた。戦後は1958年に副社長に就任し、翌1959年には佐藤喜一郎の後を継ぎ、三井銀行の社長に就任した。
平山 洋三郎(ひらやま ようざぶろう / ようさぶろう、19… 平山 洋三郎(ひらやま ようざぶろう / ようさぶろう、1900年(明治33年)6月22日 - 1970年(昭和45年)10月11日)は、大正から昭和期の農林官僚、政治家、華族。貴族院男爵議員。 貴族院勅選議員・平山成信の三男として生まれる。父の死去に伴い、1929年(昭和4年)12月2日、男爵を襲爵した。 第一高等学校を経て、1925年(大正14年)東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。1924年(大正13年)11月、高等試験行政科試験に合格し、1925年、農林省に入省し農林属に就任。以後、山林事務官、農林事務官、営林局事務官、農林書記官、東京営林局長、日本高等女学校長事務取扱、日本高等家政女学校長事務取扱、帝国女子専門学校長(現相模女子大学)などを務めた。
山越 邦彦(やまごし くにひこ、1900年6月22日 - 1… 山越 邦彦(やまごし くにひこ、1900年6月22日 - 1980年4月7日)は、日本の建築家。建築設備設計技術者。東京出身。 東京帝国大学工学部(現東京大学工学部)建築学科を経て戸田組に入社。建築家として勤務の傍ら、モダニズムの啓蒙雑誌『建築時潮』を編集。分離派建築に代表される芸術家としての建築家像を否定し、自ら「構築家」と称して科学性と社会性のある建築を提唱した。戸田組退社後は横浜国立大学理工学部教授となり、環境問題にも関心を持った。 主な作品のうち、1933年に発表した自邸・ドモディナミカ(動力学の家)では、乾式工法と床暖房、ピロティを採用し設備や間取りの考え方など、当時としては画期的な提案を行っている。
伊藤 顕道(伊藤 顯道、いとう あきみち / けんどう、19… 伊藤 顕道(伊藤 顯道、いとう あきみち / けんどう、1900年〈明治33年〉6月20日 - 1982年〈昭和57年〉4月26日)は、昭和期の教育者、労働運動家、政治家。参議院議員。柔道八段。 群馬県前橋市向町(現住吉町)で、食品製造業・伊藤勝次郎、かめの三男として生まれる。1915年(大正4年)前橋久留万高等小学校を卒業、同年関口孝五郎の弘道館に入門し柔道を習う。1920年(大正9年)群馬師範学校本科一部を卒業し、久留万高等小学校訓導に就任。その後、東京高等師範学校に入学し、1924年(大正13年)同校本科を卒業した。 1924年、神奈川県立湘南中学校(現神奈川県立湘南高等学校)教諭に就任し、横浜高等商業学校嘱託を務めた。
林 賢材(はやし けんざい、1900年6月19日 - 199… 林 賢材(はやし けんざい、1900年6月19日 - 1995年9月1日)は、日本の経営者。三井信託銀行社長を務めた。東京都出身。 1924年に東京帝国大学経済学部経済学科を卒業し、同年に三井信託銀行に入行。1945年に常務に就任し、1947年から1960年までに社長を務めた。 1971年4月に勲二等瑞宝章を受章。 1995年9月1日にがん性腹膜炎のために死去。95歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
松井 麻之助(まつい あさのすけ、1900年6月18日 - … 松井 麻之助(まつい あさのすけ、1900年6月18日 - 1989年3月19日)は、日本の陸軍軍人、競馬騎手、調教師。 大日本帝国陸軍において一貫して騎兵畑を進み、1936年にはベルリンオリンピックに総合馬術競技日本代表として出場した。太平洋戦争後に軍籍を離れ、1956年より騎手、翌1957年より調教師として日本中央競馬会に所属した。1985年引退。 1900年、秋田県雄勝郡三輪村(現羽後町)に、農業を営む菅原良吉、ヨシの間に五男として生まれる。小学校卒業後に母方の叔父に当たる陸軍中将・松井庫之助の養子となり、東京に移った。旧制早稲田中学入学後、3年次から陸軍幼年学校に転じ、軍人への道を進み始める。
徐 淳永(ソ・スニョン、朝鮮語: 서순영、1900年6月17… 徐 淳永(ソ・スニョン、朝鮮語: 서순영、1900年6月17日 - 1983年5月9日)は、大韓民国の法曹、政治家。制憲韓国国会議員。 号は然斎。法曹の徐柱演(朝鮮語版)は甥、韓大鉉(朝鮮語版)(韓聖寿(朝鮮語版)の息子)は娘婿。 慶尚南道晋州郡(現・晋州市)または巨済島出身。巨済普通学校、東亜商業高等学校を経て、36歳の時に日本大学専門部法科本科を卒業した。40歳の時に朝鮮弁護士試験および高等文官試験司法科に合格し、その後京城弁護士試補試験にも合格した。1941年より大邱地方法院(朝鮮語版)所属の弁護士、大邱控訴院判事、釜山地方法院晋州支院上席判事などを務めた。地元の要請により1948年の初代総選挙で統営乙選挙区(現在の巨済市にあたる)より無所属で出馬して当選し、国会法制司法委員、反民族行為特別調査委員会特別裁判部第3部裁判長を務めた。
小早川 欣吾(こばやかわ きんご、1900年6月16日 - … 小早川 欣吾(こばやかわ きんご、1900年6月16日 - 1944年6月15日)は、日本の法学者(法制史)。元京都帝国大学法学部教授。兵庫県神戸市生まれ。 立命館中学校を卒業し、1922年山口高等学校に入学。1925年に同校を卒業し、京都帝国大学法学部法律学科に入学。1929年3月に卒業し、翌月、日本法制史の研究のため、大学院に進学。1934年、同大学助教授に就任。同志社大学講師も務める。その後、1944年教授に任じられ、また人文科学研究所員に補される。 日本法制史の担当であったが、東洋法制史の講義を担当した。没後の1944年12月、蔵書が「小早川文庫」として京都帝国大学法学部に受け入れられた。
権 五鍾(クォン・オジョン、朝鮮語: 권오종/權五鍾、190… 権 五鍾(クォン・オジョン、朝鮮語: 권오종/權五鍾、1900年6月16日 - 1960年2月1日または6月1日)は、大韓民国の政治家。元慶尚北道議会(朝鮮語版)議員、第3・4代韓国国会議員。本貫は安東権氏(朝鮮語版)。 慶尚北道安東郡出身。明治大学法科卒。大韓独立促成国民会安東郡支部長、国民会安東郡支部長、安東金融組合長、安東煙草耕作組合長などを務めた。第4代国会議員在任中の1960年1月8日に民主党を離党し自由党に入党したが、同年2月1日、ソウル市城北区の自宅で肝炎により死去。61歳没。 1957年、同姓同本間の結婚についての民法案発議時、結婚容認に猛反対した。
重富 卓(重冨、しげとみ たく、1900年(明治33年)6月… 重富 卓(重冨、しげとみ たく、1900年(明治33年)6月16日 - 1979年(昭和54年)2月17日)は、昭和期の農業指導者、実業家、政治家。衆議院議員。 山口県出身。1910年(明治43年)に出家したが1918年(大正7年)に還俗。1920年(大正9年)山口中学校(現山口県立山口高等学校)を卒業。1925年(大正14年)早稲田大学政治経済学部を卒業。同年農林省に入省し農務局雇となる。同年、一年志願兵として入隊し、1926年に除隊した。1927年(昭和2年)農林省に復帰し、同年12月、高等試験行政科試験に合格。1930年(昭和5年)東京府に出向し農林主事補、同属となり、1932年(昭和7年)に退官した。
瀬山 誠五郎(せやま せいごろう、1900年6月14日 - … 瀬山 誠五郎(せやま せいごろう、1900年6月14日 - 1977年7月19日)は、日本の経営者。東京都出身。 1925年に東京帝国大学法学部英法科を卒業し、同年に住友銀行に入行。1936年2月に住友本社東京支店に出向し、1947年3月に住友商事常務に就任し、1952年6月には専務に昇格した。1956年11月に住友不動産社長に就任し、1974年5月には会長に就任した。経済団体連合会理事も務めた。 1970年11月に勲二等瑞宝章を受章し、1976年に勲一等瑞宝章を受章した。 1977年7月19日気管支肺炎のために死去。77歳没。