田島 達策(たじま たつさく/たっさく、1858年6月13日… 田島 達策(たじま たつさく/たっさく、1858年6月13日(安政5年5月3日)- 1938年(昭和13年)2月5日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。ミツウロコ創業者。衆議院議員。 上野国緑野郡神田村(群馬県緑野郡美九里村、多野郡美九里村を経て現藤岡市神田)で、田島長十郎の二男として生まれた。東京小石川の芳野塾、塩谷塾で学ぶ。1883年(明治16年)専修学校(現専修大学)を卒業。同年3月、家督を相続した。 1886年(明治19年)多野郡新町駅前に運送店を開業。明治運送取締役、日本逓業取締役に就任。また、三鱗運送、三鱗石炭、群馬電力などを設立して取締役社長に就任した。 1917年(大正6年)4月、第13回衆議院議員総選挙(群馬県郡部、無所属)で当選し、衆議院議員に1期在任した。
赤坂 亀次郎(龜次郎、あかさか かめじろう、1858年6月1… 赤坂 亀次郎(龜次郎、あかさか かめじろう、1858年6月13日(安政5年5月3日)- 1942年(昭和17年)12月12日)は、明治から昭和前期の出版人、実業家、政治家。衆議院議員。 陸奥国菊多郡、のちの福島県菊多郡上遠野村(石城郡上遠野村、遠野町を経て現いわき市遠野町上遠野)で、赤坂吉忠の息子として生まれる。村儒・小沢政美に師事し漢籍を学び、1873年(明治6年)磐前県立英学校・惜陰舎に入学。1875年(明治9年)5月に上京して慶應義塾に入塾し、成績優秀で1878年(明治11年)12月に卒業した。 福澤諭吉の勧めで横浜丸善商店に入店し、輸出入業に従事して一年余り在勤し、東京丸善本店(現丸善雄松堂)に転じ支配人となる。
織田 小覚(おだ しょうかく、安政5年5月3日〈1858年6… 織田 小覚(おだ しょうかく、安政5年5月3日〈1858年6月13日〉- 昭和11年〈1936年〉10月6日)は、金沢出身の官僚、蔵書家。初名は小太郎。字は斌叔。号は確斎、古仏、帯秋草盧。司法省、内務省勤務を経て、前田侯爵家学事顧問を務めた。無窮会調査主任。 1872年(明治5年)、小橋小学校(金沢市立馬場小学校)に入学し、習字算盤、『国史略』、『十八史略』、四書五経の素読を学んだ。1873年(明治6年)、変則中学に進み、入学者100名の成績上位10人程が属する甲類に入り、従来の学問に加え、洋算、英語を学んだ。成績優秀者は年俸25円で小学校教師に採用されたため、小覚も寄宿舎から小学校へ通った。 1874年(明治7年)、変則中学校が英語専門と法律産業専門に分かれたため、法律産業専門学校に入学し、箕作麟祥のフランス法翻訳書を学んだ。
小早川 潔(こばやかわ きよし、安政5年5月2日(1858年… 小早川 潔(こばやかわ きよし、安政5年5月2日(1858年6月12日) - 昭和2年(1927年)3月19日)は、日本の教育者。 信濃国上田城下(現長野県上田市)に上田藩士小早川維祺の次男として生まれる。明治11年(1878年)上田町常入学校首席訓導となり、上京して同人社で英学、原要義塾で数学を学び、同17年(1884年)東京高等師範学校中学師範科を卒業。長野県上水内中学校(長野県長野高等学校)校長に任命される。この頃、教育職能団体である「長野教育談会」が創設され、組織を改正し、長野教育会(信濃教育会の前身)となると、会長に選ばれた。同19年(1886年)長野県師範学校教諭に転任し、校長浅岡一を補佐し、新校舎の建築や付属小学校の開校に尽力した。
堀田 連太郎(ほった れんたろう、安政5年4月29日(185… 堀田 連太郎(ほった れんたろう、安政5年4月29日(1858年6月10日) - 大正4年(1915年)12月20日)は、日本の衆議院議員(進歩党→憲政党→憲政本党)。農商務官僚。 信濃国埴科郡松代(現在の長野県長野市)出身。開拓使学校を経て、1881年(明治14年)に東京大学理学部採鉱冶金学科を卒業。1882年(明治15年)、三菱会社に入り、1896年(明治29年)に退社するまで鉱山長、支配人を務めた。1897年(明治30年)、農商務省に入って鉱山技監となり、足尾鉱毒事件に対する予防工事の設計・監督を担当した。その後、製鉄所長官心得、鉱山局長心得を歴任した。 1898年(明治31年)、第5回衆議院議員総選挙(東京府第10区)で当選。
加藤 六蔵(かとう ろくぞう、1858年6月6日(安政5年4… 加藤 六蔵(かとう ろくぞう、1858年6月6日(安政5年4月25日) - 1909年(明治42年)6月21日)は、明治期の政治家、衆議院議員(6期)。醤油醸造家、実業家。諱・尚正。 三河国宝飯郡前芝村(現・愛知県豊橋市前芝町)で、豪商にして代々郷士の加藤家当主・加藤六蔵正文の長男として生まれる。豊橋で漢籍を修めた後、1875年(明治8年)東京に出て慶應義塾に学び、愛知県第二中学校、宝飯郡教育会議長、尾三農工銀行、宝飯銀行各取締役、豊橋米麦取引所理事長、豊橋商業会議所会頭、ほか鉄道等の設立に関わる。 政治面では宝飯郡連合村会議員、同郡会議員、同郡農会長、所得税調査委員、愛知県会議員を経て、1890年の第1回衆議院議員総選挙において愛知県第10区から大成会で立候補して当選する。
宇都宮 平一(うつのみや へいいち、1858年6月1日(安政… 宇都宮 平一(うつのみや へいいち、1858年6月1日(安政5年4月20日) - 1896年(明治29年)12月23日)は、明治時代の政治家、教育者。衆議院議員(1期)。 薩摩国伊佐郡宮之城郷(鹿児島県南伊佐郡宮之城村、薩摩郡宮之城町を経て現さつま町)に生まれる。藩校ついで私学校で学び、西南戦争への従軍を経て上京し、中村敬宇の門に入って英学を修める。盈進館にて教鞭を執ったのち、上海亜細亜学館教頭兼学生監、埼玉県発陽学舎教授、第一高等中学校、東京英語学校、官立農林学校予備校各教授などを歴任した。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では鹿児島県第4区から出馬し、当選。弥生倶楽部に所属し、衆議院議員を1期務めた。
岩下 清周(いわした きよちか、安政4年5月28日(1857… 岩下 清周(いわした きよちか、安政4年5月28日(1857年6月19日) - 昭和3年(1928年)3月19日)は、実業家。銀行家としてベンチャー企業への積極的な融資を行った。息子は、カトリック司祭で哲学者の岩下壮一、清周本人も聖公会に所属したクリスチャンであった。
山下 りん(山下 里舞、やました りん、安政4年5月25日〈… 山下 りん(山下 里舞、やました りん、安政4年5月25日〈1857年6月16日〉- 1939年〈昭和14年〉1月26日)は、日本の画家である。女性。常陸国茨城郡笠間(幕藩体制下の常州笠間藩領、現在の茨城県笠間市)の出身。正教徒で、聖名はイリナ。そのため、しばしばイリナ山下りんとも呼ばれる。 日本人初のイコン画家として知られる。日本で最も早期の女性洋画家の一人。 1873年(明治6年)に東京府に出て豊原国周という浮世絵師に学び、後に川上冬崖に洋画を学んだ中丸精十郎に師事する。1877年(明治10年)には工部美術学校に入学し、アントニオ・フォンタネージの指導を受けた。同窓生の山室政子の影響で正教会に改宗した。
笠井愛次郎(かさい あいじろう、安政4年(1857年)6月1… 笠井愛次郎(かさい あいじろう、安政4年(1857年)6月16日-1935年9月25日) は、日本の土木技師。明治時代の鉄道や電力などの近代化に大きく貢献した。私立鉄道学校創立者、利根発電社長、特殊合金社長、帝国鉄道協会理事、大日本国防義会監事。 岐阜県瑞浪市にて江戸の銅版絵師・笠井大五郎の二子に生まれ、1860-61年頃父とともに上京、神原精二、大沼枕山に漢学を、佐瀬得所に書を、福沢諭吉の学友・千本五郎(千邑五郎?)に英学を学ぶ。 1882年に工部大学校土木科卒業後、徳島県庁に出仕し、南海四県国道貫通工事を担当ののち、海軍省に移り、佐世保・呉の鎮守府 (日本海軍)建設工事を担当、九州鉄道、日本土木会社を経て、1892年小石川に「笠井染工場」と設計事務所「工業事務所」を開業、1897年私財を投じて私立鉄道学校を設立、1898年鉄道協会(帝国鉄道協会前身)設立、1900年京釜鉄道技術長、1909年利根発電社長(大株主)、1912年常総鉄道専務を務め、1915年工学博士号取得。
福本 日南(ふくもと にちなん、安政4年5月23日(1857… 福本 日南(ふくもと にちなん、安政4年5月23日(1857年6月14日) - 大正10年(1921年)9月2日)は、日本のジャーナリスト、政治家、史論家。
山本 庄司(やまもと しょうじ、1857年6月7日〈安政4年… 山本 庄司(やまもと しょうじ、1857年6月7日〈安政4年5月16日〉 - 1924年〈大正13年〉5月7日)は、日本の政治家。 山本郡富根村(後に二ツ井町となり現在は能代市の一部)出身。1873年(明治6年)に秋田市の白土塾で学んだ。家督を受け継いでおり、妻や子もいたが、妻や妻の兄(瀬谷長治)の理解を得て、1879年(明治12年)3月16日に上京した。東京では二松学舎に入学し秋田県出身の狩野良知の元に1週間に1度「不可解のカ処質問」をしに赴く勉学に励み、自由民権思想を吸収した。およそ4か月半東京に滞在した後、暑気に当たったことと流行のコレラの心配から帰郷した。1880年(明治13年)に遐迩新聞に「国会開設建議有志団結案」を発表。
魚住 逸治(うおずみ いつじ、1857年6月6日(安政4年5… 魚住 逸治(うおずみ いつじ、1857年6月6日(安政4年5月15日)- 1899年(明治32年)12月25日)は、明治時代の政治家、水利功労者。衆議院議員(3期)。 播磨姫路藩領加古郡、のちの兵庫県加古郡母里村(現稲美町)の農家・魚住逸平の子として生まれる。漢学を修める。1876年(明治9年)戸長、1879年(明治12年)郡書記を経て、1883年(明治16年)兵庫県会議員に当選する。1888年(明治21年)互選により常置委員となり、1890年(明治23年)3月、郡部会副議長に就任した。ほか、加古郡会議員を歴任した。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では兵庫県第5区から出馬し当選。
三浦 守治(みうら もりはる、安政4年5月11日〈1857年… 三浦 守治(みうら もりはる、安政4年5月11日〈1857年6月2日〉 - 大正5年〈1916年〉2月2日)は明治・大正期の病理学者。帝国大学医科大学の初代病理学教授、帝国学士院会員などをつとめた。東京帝国大学名誉教授、従二位勲二等瑞宝章受章。 磐城国田村郡御木沢村(現福島県田村郡三春町)に、三春藩士・村田七郎兵衛の次男として生まれ、幼いとき三浦義純の養子となった。 明治2年(1869年)藩校の講文堂に入る。寄宿舎の同期に加藤木重教がいる。明治5年(1872年)東京に出て岡千仭の門に入り漢学を修めた。明治6年(1873年)大学東校に入り、明治14年(1881年)東京大学医学部を首席で卒業し、内科助手となった。
大田 信一(だいた しんいち、1856年6月28日(安政3年… 大田 信一(だいた しんいち、1856年6月28日(安政3年5月26日)– 1918年(大正7年)11月18日)は、明治・大正期の地主、政治家。衆議院議員、和歌山県海草郡巽村長。 紀伊国名草郡重根村(和歌山県名草郡巽村、海草郡巽村を経て現海南市)で素封家・大田善之助の長男として生まれた。 1888年(明治21年)2月、和歌山県会議員に当選し、1890年(明治23年)9月に退職。1889年(明治22年)初代巽村会議員に選出された。1893年(明治26年)5月、巽村長に就任し、1894年(明治27年)6月に辞職。同年9月の第4回衆議院議員総選挙で和歌山県第一区から出馬して当選。1898年(明治31年)3月の第5回総選挙でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
藤野 政高(ふじの まさたか、1856年6月27日(安政3年… 藤野 政高(ふじの まさたか、1856年6月27日(安政3年5月25日) - 1915年(大正4年)6月30日)は日本の政治家。衆議院議員、海南新聞社長。 1856年(安政3年5月25日)、伊予松山藩士の子として生まれる。藩校明教館に学び、のち上京して法律学舎で法律を修め、代言人の資格を取得する。1878年(明治11年)に帰郷し、長屋忠明らが主宰する自由民権結社・公共社に加入、愛媛県下における民権運動の中心として活躍する。1886年(明治19年)に愛媛県会議員に当選し、1887年(明治20年)に三大事件建白者の総代として上京するが、保安条例に抵触して東京から強制退去させられる。1890年(明治23年)に第1回衆議院議員総選挙に立候補して当選、以後3期に渡って代議士を務めるが、資金難のため1894年(明治27年)9月の総選挙には出馬しなかった。
南 直一郎(みなみ なおいちろう、1856年6月27日〈安政… 南 直一郎(みなみ なおいちろう、1856年6月27日〈安政3年5月25日〉 - 1893年〈明治26年〉9月24日)は、日本の政治家。鳥取県西伯郡余子村長(3代)。鳥取県会議員。 伯耆国会見郡高松村(鳥取県西伯郡余子村、現・境港市高松町)出身。高松村庄屋・南直四郎の息子。1879年から親に代わって戸長をつとめる。また県会議員、郡役所書記もつとめる。1892年2月、余子村長に就任、1893年9月に退任する。 村長在任中には竹内村の荒山黎斎宅に役場を移す。竹内教場焼失を機に新校舎建築を果たし、竹内・中野二教場を統一する。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
鵜飼 節郎(うかい せつろう、1856年6月21日〈安政3年… 鵜飼 節郎(うかい せつろう、1856年6月21日〈安政3年5月19日〉 - 1931年〈昭和6年〉9月5日)は、日本の政治家、衆議院議員(立憲政友会)。 盛岡藩士の子として盛岡に生まれた。藩校で学んだ後、上京して法学・経済学を学んだ。1877年(明治10年)、西南戦争が起こると同志を率いて上京し、警部補・新撰旅団小隊長心得に任命された。その後自由民権運動に参加し、自由党東北常備委員として党勢の拡張に尽力した。1890年(明治23年)の第1回衆議院議員総選挙に、自由党から岩手県第4区で立候補したが落選した。 1902年(明治35年)、第7回総選挙に立憲政友会から岩手県郡部選挙区で立候補し、当選。
大森 鍾一(おおもり しょういち、1856年6月16日〈安政… 大森 鍾一(おおもり しょういち、1856年6月16日〈安政3年5月14日〉- 1927年〈昭和2年〉3月3日)は、日本の内務官僚、政治家。貴族院議員、枢密顧問官、皇太后宮大夫、男爵。 幕臣、駿府与力・大森直正(水野忠邦家臣森川源左衛門の男)と先代鯛次郎直由の娘である銀の長男として生まれる。幼名は鍾一郎、後に諱の直興を名乗る。静岡学校、名古屋学校を経て、明治5年10月(1872年11月)に林欽次塾に入り、後に中退。 1873年(明治6年)4月、明治政府に出仕し陸軍造兵司・一等附属となる。司法省、法制局、太政官を経て、1878年(明治11年)10月、内務省に移り四等属に任官。以後、内務権大書記官、兼戸籍局長、内務卿官房長心得、内務大臣秘書官(山縣有朋大臣)、内務書記官・総務局文書課長兼勤、県治局長、兼警保局長などを歴任した。
藤田 隆三郎(ふじた たかさぶろう、1856年6月4日(安政… 藤田 隆三郎(ふじた たかさぶろう、1856年6月4日(安政3年5月2日) - 1930年(昭和5年)12月27日)は、日本の法律家。東京大学法学部卒業(1878年)。英吉利法律学校(中央大学の前身)の創立者の一人。名古屋控訴院長、中京法律専門学校初代校長等を務めた。位階および勲等は正三位・勲二等。父は宇和島藩士・藤田敏興。 宇和島藩伊達家に代々仕える中堅武士の家に生まれ、早くに母をコレラで亡くし、父と兄は藩の仕事のため宇和島を離れていたため、姉と二人で暮らし、藩内演武場に設けられた英蘭学稽古場で三瀬周三に英語を学んだほか、山鹿流の兵学も学ぶ。 維新後、本格的に英語を習うため1869年に父に連れられ大阪に出て、大阪運上所長だった同郷出身の土居通夫を介して英国領事館通訳の蔡慎吾宅に寄寓し、同じく通訳官であったウィリアム・ジョージ・アストンから英語を習いはじめ、アストンの東京英国公使館転勤に伴って上京。
南 清(みなみ きよし、1856年6月3日(安政3年5月1日… 南 清(みなみ きよし、1856年6月3日(安政3年5月1日)-1904年(明治37年)1月3日)は日本の鉄道技術者および鉄道会社経営者。山陽鉄道、筑豊興業鉄道、播但鉄道などにおいて技師長・技術顧問・顧問技師を務める。また、阪鶴鉄道、唐津興業鉄道社長、鉄道協会(大阪)副会長を務める。 1856年(安政3年)、福島県会津に生まれる。父は会津藩士・南舎人(保定)、母は河原善左衛門の妹・竹子。南家は家禄100石で、長兄・三郎は戊辰戦争で討死、次兄・保は捕らえられたが赦され生還した。 上京し慶應義塾を経て工部省測量司の測量学校第2期生(有給見習)として入学し、師長コリン・マクヴェイン他から測量の理論と実務を学ぶ。
綾浪 徳太郎(あやなみとくたろう、1856年6月3日(安政3… 綾浪 徳太郎(あやなみとくたろう、1856年6月3日(安政3年5月1日) - 1901年(明治34年)7月12日)は、陸奥国津軽郡(現在の青森県南津軽郡藤崎町)出身で高砂部屋に所属した力士。本名は高木 徳太郎。6代追手風。174cm、90kg。最高位は東関脇。 入門までは郷里にいて、主に農業や力仕事(蔵米の運搬)をしていた。怪力ぶりが惜しいと勧められ高砂部屋に入る。1880年5月に二枚目格付出で初土俵(序ノ口)。1886年1月に入幕を果たす。新入幕で2代目劔山をいきなり倒すなど6勝1敗2預の好成績を挙げた。1891年には関脇に昇進し連続4場所務めたが、1892年6月限り引退、追手風を襲名した。無類の怪力で知られ、巡業や花相撲で五斗俵を一度に8俵持ち上げ、土俵を一周する余興を行った。
斉藤 斐(さいとう あきら、1855年6月28日(安政2年5… 斉藤 斐(さいとう あきら、1855年6月28日(安政2年5月15日) - 1938年(昭和13年)12月9日)は、日本の政治家・実業家。衆議院議員。 1855年(安政2年)に下総国相馬郡守谷町(現:茨城県守谷市)の齋藤家の長男として生まれる。斉藤家は江戸時代の下総国関宿藩領のうち10ヶ村の惣名主を務めた家で、先祖に小林一茶に学んだ俳人斉藤徳左衛門(俳号「若雨」)[要出典]、弟に文学博士である斉藤隆三がいる[要出典]。 1859年(安政6年)頃より守谷町愛宕の私塾で木村正之に学び、1866年(慶応2年)より親戚の中山家に移り、後に東京帝国大学教授になる漢詩人の信夫恕軒や木戸栄伯、盛岡栄三郎に学んだ[要出典]。
土谷 全次(つちや ぜんじ、安政2年5月10日(1855年6… 土谷 全次(つちや ぜんじ、安政2年5月10日(1855年6月23日) - 昭和10年(1935年)4月6日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。高崎市長。医師。 出羽国平鹿郡睦合村(現在の秋田県横手市)出身。秋田医学校を卒業した。高崎市に医院を開業し、高崎市医会会長を務めた。高崎市会議員、同参事会員、群馬郡会議員、同参事会員、県会議員に選出された。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その後、1921年(大正10年)から高崎市長を務めた。
高津 雅雄(こうつ まさお、1855年6月19日(安政2年5… 高津 雅雄(こうつ まさお、1855年6月19日(安政2年5月6日) - 1933年(昭和8年)3月7日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 淡路国津名郡河上村(のち兵庫県津名郡鮎原村→五色町、現・洲本市)の大地主の家に生まれる。徳島藩立郷学校に入り、漢籍を学び、その後、上京し、英語と漢学を修める。小学校教員、学校世話掛、河上村戸長、学区取締、鮎原村長、同村会議員、津名郡連合会議員、同郡会議員、兵庫県会議員、同常置委員、徴兵参事員となる。また、北浜銀行取締役となり、ほか、由良町長、津名郡農会長、同教育会長、愛国銀行取締役頭取を務めた。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において兵庫10区から自由党公認で立候補して初当選。
横尾 輝吉(よこお てるきち、安政2年5月4日(1855年6… 横尾 輝吉(よこお てるきち、安政2年5月4日(1855年6月17日) - 大正8年(1919年)5月21日)は、日本の衆議院議員(憲政本党→立憲国民党→立憲同志会→憲政会)。 下野国都賀郡鹿沼宿(現在の栃木県鹿沼市)に角田善平の子として生まれ、粟野村の先代横尾輝吉の養子となった。自由民権運動が活発になると、都賀演説会を興して会長となった。また東京専門学校(現在の早稲田大学)・立教学校(現在の立教大学)で学び、島田三郎の紹介で大隈重信の知遇を得、立憲改進党創設にあたって総務委員を務めた。1882年(明治15年)より栃木県会議員を務め、1892年(明治25年)には副議長に選出された。その後、1894年(明治27年)と1896年(明治29年)の2回、議長に選出された。
池上 幸操(いけがみ ゆきこと、1855年6月16日〈安政2… 池上 幸操(いけがみ ゆきこと、1855年6月16日〈安政2年5月3日〉 - 1926年〈大正15年〉8月14日)は、明治・大正時代の神奈川県会議員、自由民権運動家。武蔵国橘樹郡池上新田村(現在の神奈川県川崎市川崎区池上新町)出身。池上新田を開拓した池上幸豊の子孫。 1855年(安政2年)、武蔵国橘樹郡池上新田村の名主・池上家に生まれる。祖先の池上幸豊は大師河原村の名主だったが、宝暦年間に池上新田を開拓すると姉の子を養子にして大師河原村の名主を継がせ、自らは池上新田村の名主となった。 15歳のときに池上新田大島村新組名主役となる。神奈川県では1872年(明治5年)に名主・年寄に代えて戸長・副戸長を置くこととなり、17歳で戸長になる。
小里 頼永(おり よりなが、安政2年5月1日(1855年6月… 小里 頼永(おり よりなが、安政2年5月1日(1855年6月14日) - 昭和16年(1941年)7月3日)は、長野県松本市出身の政治家。衆議院議員(自由党)、北海道空知支庁長、初代松本市長。号は雪洲、市隠。 松本藩士小里新五兵衛頼命の長男として江戸呉服橋の松本藩邸(松平丹波守の上屋敷。現在跡地は東京駅構内)で生まれる。9歳の時に松本に帰り、藩校崇教館で漢学を学んだ。廃藩置県後は開智学校英学課に学び、1875年(明治8年)8月30日、筑摩県師範学校を卒業。卒業後は筑摩県、のちに山梨県で訓導(小学校教員)を務めた。1878年(明治11年)3月27日、教職を辞する。自由民権運動が盛んになると、1879年(明治12年)に「要新聞」を発刊して自由民権を説いた。
丸山 芳介(まるやま よしすけ、1855年6月12日(安政2… 丸山 芳介(まるやま よしすけ、1855年6月12日(安政2年4月28日) - 1922年(大正11年)10月11日)は、日本の武士(会津藩士)、実業家、政治家である。戊辰戦争を戦ったのち、土木請負業を営む実業家となり、姫路において各種事業に関わる。姫路市商業会会長、衆議院議員一期。 会津藩藩士の丸山家に次男として生まれる。父は丸山玄斎。日新館に学び、会津戦争では会津若松城に籠城して戦った。池上三郎や南清は戦友である。戦後に上京し南摩綱紀門下となったのち、北海道で開拓に従事する。ここで島田組幹部大三輪長兵衛に知られ、その帰郷に従って同社に入社したものの、ほどなく同社は倒産し、苦渋の時代が続いた。
星 松三郎(ほし まつさぶろう、1855年6月11日(安政2… 星 松三郎(ほし まつさぶろう、1855年6月11日(安政2年4月27日)- 1906年(明治39年)4月18日)は、明治期の実業家・政治家。衆議院議員。 宮城県登米郡、のちの佐沼町(迫町を経て現登米市迫町佐沼)で、商人・星松治郎の第七子(二男)として生まれた。村の儒者・中村竹徑に師事し、さらに英学を修めた。1875年(明治8年)から水害救民救恤係、勧業世話役、衛生委員、学校世話役などを務めた。 その後上京して商業を営むが不景気となり、1884年(明治17年)から1886年(明治19年)にかけて全国の民情視察を2回実施して、その報告書を作成して頒布した。1886年10月には欧米の政治経済の視察旅行を行った。
天野 藤三(あまの とうぞう、1855年6月7日(安政2年4… 天野 藤三(あまの とうぞう、1855年6月7日(安政2年4月23日) - 1928年(昭和3年)3月8日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。旧姓は井上。 八王子宿(現八王子市)の井上太郎兵衛の二男として生まれ、18歳の時に神奈川県津久井郡鳥屋村(津久井町を経て現相模原市緑区)の名主・天野三郎助の養子となる。上京し尾崎行雄と共に勉学に励んだのち、1885年(明治18年)養父の跡を継ぎ鳥屋村ほか2か村組合戸長となった。1889年(明治22年)初代鳥屋村長に就任し、治山治水に尽力した。1891年(明治24年)神奈川県会議員、1903年(明治36年)津久井郡会議員、同議長を歴任した。
中村 精男(なかむら きよお、1855年6月2日〈安政2年4… 中村 精男(なかむら きよお、1855年6月2日〈安政2年4月18日〉- 1930年〈昭和5年〉1月3日)は、明治・大正期の気象学者。第3代中央気象台台長。気象事業の整備や科学的な気象学の育成に尽力。日本の理科教育にも貢献した。 長州藩士の中村粂吉の長男として長門国萩で生まれる。少年の頃松下村塾に学ぶ。1871年(明治4年)に上京し、大学南校を経て1879年(明治12年)には東京大学物理学科を卒業、内務省地理局(国土地理院の前身の一つ)測量課に入る。 1886年(明治19年)から1889年(明治22年)にドイツに留学。ベルリン大学、ハンブルク海洋気象台で気象学を修める。1890年(明治23年)に中央気象台技師となる。
大畑 純次(おおはた じゅんじ、1854年6月30日(安政元… 大畑 純次(おおはた じゅんじ、1854年6月30日(安政元年6月6日)- 1936年(昭和11年)5月24日)は、明治から昭和前期の弁護士、政治家。衆議院議員、熊本県会議長。 肥後国、現在の熊本県熊本市で生まれた。漢学、法律学を修めた。 弁護士を開業し、熊本県弁護士会長、熊本商業会議所特別議員などを務めた。 政界では、熊本市会議員、同参事会員、熊本県会議員、同参事会員、同議長などに在任。 1904年(明治37年)3月、第9回衆議院議員総選挙(熊本県熊本市、帝国党)で当選し、その後、大同倶楽部に所属して衆議院議員に1期在任した。
梶野 敬三(かじの けいぞう、1854年6月26日(嘉永7年… 梶野 敬三(かじの けいぞう、1854年6月26日(嘉永7年6月2日) - 1900年(明治33年)2月27日)は、明治時代の政治家。自由民権運動家。衆議院議員(2期)。 相模国津久井郡太井村(神奈川県津久井郡中野町、津久井町を経て現相模原市緑区)の豪農に生まれる。漢学を修めた。1880年(明治13年)国会開設請願運動に総代として故郷を代表した。翌年からは中野村(神奈川県津久井郡中野町、津久井町を経て現相模原市緑区)にて定期法律研究会を開催し自由民権運動の啓蒙に努めた。1882年(明治15年)9月、自由党に入党し、1884年(明治17年)4月には神奈川県会議員に当選し1890年(明治23年)まで4期連続務めた。
千本 福隆(せんもと よしたか、1854年6月19日(嘉永7… 千本 福隆(せんもと よしたか、1854年6月19日(嘉永7年5月24日) - 1918年(大正7年)10月30日)は明治時代から大正時代にかけての日本の教育者。東京高等師範学校名誉教授。東京物理学講習所(後の東京物理学校、現在の東京理科大学)の創立者の一人である。 1919年(大正8年)6月に、東京高等師範学校(現在の筑波大学)へ千本の旧蔵書192冊が収められ、現在は千本文庫とよばれている。
荒馬 吉五郎(あらうま きちごろう、文化6年(1809年) … 荒馬 吉五郎(あらうま きちごろう、文化6年(1809年) - 嘉永7年5月18日(1854年6月13日))は、下総国葛飾郡(現在の千葉県船橋市本町)出身で宮城野部屋に所属した江戸時代の大相撲力士。八戸藩のお抱え力士。本名は松本。最高位は西関脇。幕内通算成績は27場所 86勝54敗29分7預4無83休。嘉永7年、現役中のまま死去。数え46歳没。 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ相撲)。
9代 式守 伊之助(きゅうだい しきもり いのすけ、1854… 9代 式守 伊之助(きゅうだい しきもり いのすけ、1854年6月 - 1910年6月28日)は、大相撲の立行司。本名は水戸部→刀根福造。出身地は現在の栃木県栃木市。 初めは力士志望だったが、行司に転向した。6代式守伊之助に師事し、1871年3月場所で式守竹二郎の名で初めて番付に載った。その後、初代式守錦之助に改め、2代式守錦太夫から4代式守与太夫を経て、1882年1月幕内格(紅白房)。1898年5月に9代伊之助を襲名した。声や態度も凛然としていた行司だった。1910年6月28日死去。享年56。 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ相撲)。
飯村 丈三郎(いいむら じょうざぶろう、1853年6月30日… 飯村 丈三郎(いいむら じょうざぶろう、1853年6月30日(嘉永6年5月24日) - 1927年(昭和2年)8月13日)は、日本の政治家、実業家、教育者。幼名は縫三郎 1853年(嘉永6年)5月24日[要出典]、東海道常陸国の真壁郡上妻村黒駒(旧下妻藩内、現在の茨城県下妻市黒駒)の豪農の子供として誕生した。飯村家はこの地方の豪農として知られ、名主を努めていた。 幼い頃は病弱だったが、1864年(元治元年)に[要出典]天台宗東叡山千妙寺の亮天僧正に預けられる。亮天から「衆生の恩」という教えを受け、一時は僧侶を志すが、両親に連れ戻される。 1865年(慶応元年)大病を患い回復。幼名「縫三郎」を「丈三郎」に改名する。
大鳴門 灘右衛門(おおなると なだえもん、1853年6月20… 大鳴門 灘右衛門(おおなると なだえもん、1853年6月20日(嘉永6年5月14日) - 1908年(明治41年)1月15日)は、淡路国津名郡塩尾(現・兵庫県淡路市)出身の大相撲力士。本名は大空 由藏。身長173cm、体重108kg。所属部屋は小野川部屋(大阪)→玉垣部屋(東京)→梅ヶ谷部屋→雷部屋。最高位は大関。剣山谷右衛門・鞆ノ平武右衛門とともに梅ヶ谷門弟三羽烏と謳われた。 淡路島に育ち最初大坂の小野川に入門、司天龍 芳五郎と名乗った。1879年(明治12年)1月初代梅ヶ谷を頼って東上、二段目に付け出された。1880年(明治13年)5月入幕、1881年(明治14年)5月小結、入幕から4場所目の1882年(明治15年)1月関脇とトントン拍子に出世した。
関野 善次郎(せきの ぜんじろう、1853年6月20日(嘉永… 関野 善次郎(せきの ぜんじろう、1853年6月20日(嘉永6年5月14日)- 1935年(昭和10年)11月15日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員、富山市長。旧姓は神野、幼名は太三郎、旧名は彦兵衛。族籍は富山県平民。 能登国鹿島郡八幡村(現石川県七尾市八幡町)で、豪農・神野太平次の六男として生まれる。元治元年(1864年)富山東堤町(現富山市)の呉服商・関野善右衛門の養子となり彦兵衛と改名。その後、家督を相続して善次郎と改名し、富山藩より長町人(おとなちょうにん)に任じられ、さらに呉服物御用方、藩金融通所手添役を務めた。 明治維新後は、戸長、富山連合町会議員、同議長を務め、1882年、越中改進党の結成に参画し、1884年、山野清平と『中越新聞』を発刊するなど、富山県の改進党系の指導者として活動した。
恒松 隆慶(つねまつ りゅうけい / たかよし、1853年6… 恒松 隆慶(つねまつ りゅうけい / たかよし、1853年6月17日(嘉永6年5月11日)- 1920年(大正9年)6月29日)は、日本の地主、政治家、実業家。衆議院議員。旧姓・楫野、幼名・鉄三郎。 石見国邇摩郡静間村(現島根県大田市)で、地主・楫野淳吉郎の三男として生まれ、慶応3年4月11日(1967年5月14日)に母の実家である安濃郡長久村の恒松家当主・六右衛門の養嗣子となる。泉全斎、恒松圭山(愛軒)から漢学を学んだ。 17歳で野井村年寄役に就任。1872年(明治5年)鳥井村外八ケ村戸長に就任し、以後、地租改正収穫検査顧問惣代、山野改租顧問人、邇摩郡・安濃郡書記などを務めた。1881年(明治14年)島根県会議員となる。
小川 蔵次郎(藏次郎、おがわ くらじろう、1853年6月17… 小川 蔵次郎(藏次郎、おがわ くらじろう、1853年6月17日(慶應元年8月5日)- 1936年(昭和11年)11月25日)は、明治後期から昭和初期の漁業指導者、実業家、政治家。衆議院議員、島根県島根郡野波村長。 出雲国島根郡、のちの島根県島根郡野波村(八束郡野波村、島根村、島根町を経て現松江市島根町野波)で、小川仙四郎の二男として生まれる。漢学を修めた。1896年(明治29年)7月、家督を相続した。 1889年(明治22年)野波村長に就任。また八束郡会議員、同議長を務めた。1906年(明治39年)島根県会議員に選出され2期在任し、参事会員も務めて1912年(明治45年)に退任した。 1912年5月、第11回衆議院議員総選挙(島根県郡部、立憲政友会)で初当選し、1917年(大正6年)4月の第13回総選挙(島根県郡部、立憲政友会)でも再選され、衆議院議員に通算2期在任した。
南条 吉左衛門(なんじょう きちざえもん、嘉永6年5月9日(… 南条 吉左衛門(なんじょう きちざえもん、嘉永6年5月9日(1853年6月15日) - 昭和11年(1936年)5月6日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 信濃国小県郡別所村(現長野県上田市)生まれ。幼名は豊太郎。横浜開港に伴う養蚕業の隆盛により、蚕種の国内需要が増大したのを受けて蚕種製造業を始める。明治31年(1898年)から小県蚕種同業組合長を務めた。 明治12年(1879年)村戸長となり、自由民権運動に共鳴して嚶鳴社に参加し、同14年(1881年)大隈重信の知遇を得て、千曲川沿いの一帯に立憲改進党の支部を組織した。[翌年(1882年)長野県会議員となり、同22年(1889年)上田に改進党系の結社「已丑倶楽部」を結成して会長となった。
荒谷 桂吉(あらや けいきち、1853年6月12日(嘉永6年… 荒谷 桂吉(あらや けいきち、1853年6月12日(嘉永6年5月6日)- 1934年(昭和9年)2月14日)は、幕末から明治期の実業家、政治家。衆議院議員、秋田県会議長、秋田県北秋田郡大葛村長。諱・富延、号・葛渓、檗堂。大葛鉱山支配人・荒谷家13代当主。 出羽国秋田郡大葛村(秋田県北秋田郡大葛村、比内町大葛を経て現大館市比内町大葛)で、大葛鉱山支配人の荒谷家12代当主・荒谷忠一郎の二男として生まれた。10歳で父を失い家督を相続して大葛鉱山支配人を継承したが、1870年(明治3年)大葛鉱山は久保田藩有となった。 その後、大館の儒者・中田錦江に師事し漢学を修めた。さらに上京して1875年(明治8年)慶應義塾を卒業した。
岡田 磐(おかだ いわお、1853年6月12日〈嘉永6年5月… 岡田 磐(おかだ いわお、1853年6月12日〈嘉永6年5月6日〉 - 1927年〈昭和2年〉2月17日)は、明治から大正時代の政治家。警察官。銀行家。岡山市長。号は撫川。 備中撫川(現岡山市北区撫川)出身。犬飼松窓の門に学んだ。1873年(明治6年)小田県等外一等出仕、1875年(明治8年)岡山県十五等出仕、1878年(明治11年)岡山県警部、さらに西西条、西北条、東南条、苫田の各郡長を経て、1902年(明治35年)7月25日、岡山市長に就任した。この間、津山、岡山各警察署長を歴任した。 市長在任中は、前任の小田安正のあとを受けて1903年(明治36年)から上水道敷設工事に着手し1905年(明治38年)3月に全国で8番目の上水道を完成させたほか、電話開通、吉備線や宇野線の開通、西大寺鉄道の開通、市内電車の開通など近代化を進めた。
川島 忠之助(かわしま ちゅうのすけ、1853年6月9日(嘉… 川島 忠之助(かわしま ちゅうのすけ、1853年6月9日(嘉永6年5月3日)‐ 1938年(昭和13年)7月14日)は、明治時代から昭和初期に活躍した翻訳家、銀行家(横浜正金銀行東京支店長)である。1878年に『八十日間世界一周』を和訳し、日本で初めてフランス文学を原典から翻訳した人物である(訳書は生涯で3冊のみ)。 1853年(嘉永6年)5月3日、江戸本所(後の東京府東京市本所区、現・東京都墨田区)外手町の御料所の手代、川島奥六知脩の末子として生まれる。 父の赴任に伴い、6歳の頃に飛騨高山に移り住むが、1863年(文久3年)に父が病没した上に明治維新が起こり、扶持を失う。 1868年(明治元年)末、横須賀製鉄所に製図工見習工として就職してフランス語を修めるが、1870年(明治3年)に退職して横浜に出る。
高崎 親章(たかさき ちかあき/しんしょう、1853年6月7… 高崎 親章(たかさき ちかあき/しんしょう、1853年6月7日(嘉永6年5月1日) - 1920年(大正9年)12月27日)は、日本の江戸~大正時代の武士(鹿児島藩士)・警察官(警察官僚)・政治家。貴族院議員。幼名は半十郎。 薩摩国日置郡市来郷の湊町(鹿児島県日置郡西市来村、市来町を経て現いちき串木野市内)生まれ。高崎親廣の長男。内務省警視庁に入庁。初任は警部補。1876年(明治9年)、同郷の同僚である中原尚雄らと共に、墓参のため帰郷した。実際は、下野していた西郷隆盛の実情を視察するため川路利良大警視の密命を受けたものであった。ところが、西郷の私学校から武器・弾薬を勝手に持ち出したため、私学校の生徒らに捕らえられた。
向坂 兌(さぎさか なおし、嘉永6年4月27日(1853年6… 向坂 兌(さぎさか なおし、嘉永6年4月27日(1853年6月3日) - 明治14年(1881年)6月14日)は明治時代のイギリス留学生。佐野藩貢進生として大学南校に学び、開成学校より文部省留学生に抜擢された。ロンドンミドル・テンプルに学んで法廷弁護士となり、西欧を歴遊して研鑽を積んだが、肺病のため帰国後間もなく死去した。 嘉永6年(1853年)4月27日、出羽国上山藩士五十嵐道歖の三男として生まれた。館林藩士林成昌養子となった後、慶應2年(1866年)3月19日下野国佐野藩士向坂弘孝養子となり、藩校観光館に学んだ。 明治3年(1870年)冬東京に上り、佐野藩貢進生として大学南校英学部に入学し、明治7年(1874年)9月開成学校法学本科に進んだ。
石川 清(いしかわ きよし、1852年6月29日(嘉永5年5… 石川 清(いしかわ きよし、1852年6月29日(嘉永5年5月12日)- 1930年(昭和3年)2月25日)は、明治から大正期の酒造家、政治家。衆議院議員、宮崎県会議長、宮崎県東臼杵郡富高村長。 日向国臼杵郡、のちの宮崎県東臼杵郡富高村(富高町、富島町を経て現日向市)で、酒造業・石川源五郎の長男として生まれる。漢学を修めた。酒造業を営む。 椎葉向山村副戸長に就任。1880年(明治13年)鹿児島県会議員に選出された。宮崎県会議員に選出され7期18年9カ月在任した。この間、同常置委員、同議長、富高村長、宮崎県農会議員なども務めた。 1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙(宮崎県全県区、立憲政友会)で初当選し、第9回総選挙でも再選され、衆議院議員に通算2期在任した。
都崎 秀太郎(つざき ひでたろう、1852年6月25日(嘉永… 都崎 秀太郎(つざき ひでたろう、1852年6月25日(嘉永5年5月8日)- 1926年(大正15年)11月4日)は、明治から大正期の実業家・政治家。衆議院議員、香川県会議長。号・梧庵。 讃岐国阿野郡福江村(香川県阿野郡金山村、綾歌郡金山村、坂出町を経て現坂出市福江町)で、糖業、富農・都崎光蔵の三男として生まれる。高松藩校・講道館で学んだ。1885年(明治18年)11月、家督相続した。 小学校訓導、福江村戸長などを務めた。1882年(明治15年)愛媛県会議員に選出され、同常置委員、同勧業諮問会員に在任。1888年(明治21年)香川県が再置され、その後、香川県会議員に選出され、同常置委員、所得調査委員、地方衛生会員、香川県育英会評議員なども務めた。