中澤 年章(なかざわ としあき、元治元年8月20日(1864… 中澤 年章(なかざわ としあき、元治元年8月20日(1864年9月20日) - 大正10年(1921年))とは、明治時代の浮世絵師。 月岡芳年の門人。姓は中澤、名は延太郎。年章は号で、幽斎は別号。甲斐国巨摩郡布施村(現在の山梨県中央市小井川)の百姓・惣甫・りうの長男として生まれる。6歳の時父を亡くし、2年後に継父・喜七が入婿、弟が生まれる。明治14年(1881年)継父の姪・ゑいと結婚するが、4年後に離縁。その後、家を弟に任せ上京し、月岡芳年の内弟子となった。 月岡芳年に師事した理由は明らかではないが、芳年は元治元年(1864年)に甲府道祖神祭礼における幕絵制作のため甲府を訪れており、1871年(明治4年)にも山梨県を訪れている。
伊藤 左千夫(いとう さちお、本名:伊藤 幸次郎、1864年… 伊藤 左千夫(いとう さちお、本名:伊藤 幸次郎、1864年9月18日〈元治元年8月18日〉- 1913年〈大正2年〉7月30日)は、日本の歌人、小説家。明治期に活躍した。 明治法律学校(現・明治大学)で学ぶが、眼病のため中退し帰郷。再度上京し、1889年に牛乳搾取業を始めた。 短歌に関心をもったのは1893年頃で、正岡子規の『歌よみに与ふる書』に感動、1900年に門人となった。子規没後は、根岸短歌会の中心となり、「馬酔木」「アララギ」を創刊、アララギ派の基礎を作った。1905年には、純愛小説『野菊の墓』を発表、夏目漱石にも激賞された。 晩年には、感情の直接的表現と、熱情の奔流を主張する「叫び」の説を唱えた。
稲瀬川 栄治郎(いなせがわ えいじろう、1864年9月17日… 稲瀬川 栄治郎(いなせがわ えいじろう、1864年9月17日(元治元年8月17日) - 1925年(大正14年)1月22日)は、現在の茨城県笠間市出身で入間川部屋に所属した力士。本名は小幡 栄次郎。169cm、98kg。最高位は西前頭筆頭。 1889年幕下格で初土俵、四股名は師匠の入間川清藏が一時名乗っていたものに因む。1897年5月十両昇進。1902年1月新入幕、1910年6月廃業した。1907年6月から1910年6月までは最年長力士。廃業後は男爵古河虎之助の家に召し抱えられ、身辺の世話や相撲の指導を行った。大正14年1月22日東京滝野川区西ヶ原の自宅で腎臓病の為60歳で没する。東京都台東区谷中の慈雲山瑞輪寺に埋葬されている。
添田 壽一(そえだ じゅいち、元治元年8月15日(1864年… 添田 壽一(そえだ じゅいち、元治元年8月15日(1864年9月15日) - 昭和4年(1929年)7月4日)は、明治・大正期の財政家(大蔵官僚)・銀行家・実業家・経済学者・官庁エコノミスト。法学博士(1899年)。貴族院議員。筑前(現在の福岡県)の出身。日本法律学校(現日本大学)の設立に加わった。 近代日本における財政確立の功労者の一人であるとともに、経済学の教育・普及に尽力した「官庁エコノミスト」の先駆け的人物として知られている。 1864年、筑前国遠賀郡広渡村(現・福岡県遠賀郡遠賀町)の職人・添田新三郎の三男として生まれる。出生当時は添田家は相当の資産家であったが、父新三郎が私欲が無く慈善を好んだため資産を使い果たし、家族と共に7歳から諸国を流浪することとなる。
芳賀 栄次郎(はが えいじろう、1864年9月15日(元治元… 芳賀 栄次郎(はが えいじろう、1864年9月15日(元治元年8月15日) - 1953年(昭和28年)2月27日)は、日本の陸軍軍医。最終階級は軍医総監。医学博士。レントゲン技術の日本への導入に貢献したほか、軍陣医学の発展に寄与した。 幕末の会津若松城下で、会津藩藩士の芳賀家に生まれる。戊辰戦争の敗戦により一家は離散したが、兄の直政は弁護士となり、姉(又は妹)は旧会津藩士で検事となった小原朝忠に嫁ぎ、小原夫妻の養子が小原直である。 帝国大学を最優等で卒業。大学院で外科を専攻し、スクリバに師事する。在学中に郷里で発生した磐梯山噴火の際は、三輪徳寛とともに現地で負傷者の救護にあたった。大学院を卒業し、『特発脱疽ニ就テ』で医学博士号を授与される。
相川 久太郎(あいかわ きゅうたろう、元治元年8月15日(1… 相川 久太郎(あいかわ きゅうたろう、元治元年8月15日(1864年9月15日) - 大正15年(1926年)2月21日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。 加賀国江沼郡東谷口村(現在の石川県加賀市)に山口庄助の二男として生まれ、相川家の養子となった。東京で法律学を学び、弁護士試験に合格。法律事務所を開業した。また、石川県会議員に選出された。 1890年(明治23年)第1回衆議院議員総選挙に出馬し当選。第11回衆議院議員総選挙で再選された。 その他、石動電気株式会社取締役、能登電気株式会社監査役、飛越電気株式会社監査役を務めた。
森 盲天外(もり もうてんがい、1864年9月13日(元治元… 森 盲天外(もり もうてんがい、1864年9月13日(元治元年8月13日) - 1934年(昭和9年)4月7日)は、愛媛県会議員、余土村長、道後湯之町長を務めた政治家である。本名:森 恒太郎(もり つねたろう)。
尾崎 麟太郎(おざき りんたろう、1864年9月11日(元治… 尾崎 麟太郎(おざき りんたろう、1864年9月11日(元治元年8月11日)- 1917年(大正6年)3月25日)は、明治から大正期の実業家、政治家、華族。従四位勲四等。貴族院男爵議員。 土佐藩士・尾崎忠治の長男として生まれる。父の死去に伴い、1905年(明治38年)10月、家督を継承し、同年11月6日、男爵を襲爵した。 東京帝国大学法科大学を修了。1883年(明治16年)前橋始審裁判所書記に就任。ほどなく退官して、日本銀行文書局書記、同検査役、都銀行取締役などを務めた。1911年(明治44年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され、死去するまで在任した。 1917年3月、神奈川県鎌倉郡鎌倉町長谷の私邸で療養中に死去した。
市村 瓚次郎(いちむら さんじろう、1864年9月9日(元治… 市村 瓚次郎(いちむら さんじろう、1864年9月9日(元治元年8月9日) - 1947年(昭和22年)2月23日)は、日本の歴史学者。文学博士。東京帝国大学名誉教授、國學院大學学長。専門は東洋史、中国史。字は圭卿。号は器堂・筑波山人・月波散人。日本の東洋史学の開拓者。 元治元年(1864年)、常陸国筑波郡北条町(現茨城県つくば市北条)出身。1878年に上京し、明治法律学校を経て、1887年に帝国大学古典漢書科を卒業。 翌1888年に学習院傭教師に就いた。1890年に同助教授、1892年に同教授昇格。学習院傭教師時代の1889年には、森鷗外らとともに同人組織の新声社を結成し、8月に日本近代詩の形成などに大きな影響を与えた共訳の詩集『於母影』(雑誌『国民之友』夏期付録)を刊行した。
木下 友三郎(きのした ともさぶろう、1864年9月8日(元… 木下 友三郎(きのした ともさぶろう、1864年9月8日(元治元年8月8日) - 1944年(昭和19年)11月22日)は、日本の司法官、教育者。 1864年(元治元年)、木下誉一郎の三男として紀伊国日高郡御坊町で生まれた。財部村好浄寺住職湯川知城の後凋学舎で漢学を修めた。1880年(明治13年)9月、司法省法学校に入学。同期に横田秀雄(のちの大審院長)や水町袈裟六(のちの日銀副総裁)がいた。司法省法学校の廃校後は東京法学校を経て帝国大学法科大学(仏法科)に編入。1888年(明治21年)7月に卒業して司法部に入り、東京控訴院判事、行政裁判所部長などを歴任した。1913年(大正2年)6月休職となる。
大西 祝(おおにし はじめ、元治元年8月7日〈1864年9月… 大西 祝(おおにし はじめ、元治元年8月7日〈1864年9月7日〉 - 明治33年〈1900年〉11月2日)は、日本の哲学者。郷里岡山の操山()にちなんで操山と号す。「日本哲学の父」「日本のカント」との評価も受ける。 備前国岡山西田町(現・岡山県岡山市)で岡山藩士・木全(きまた)正脩の三男として生まれ、後に母方の実家・大西家の養子となる。1877年(明治10年)9月、同志社英学校普通科に入学。翌年新島襄より受洗。在学中は山崎為徳の薫陶を受け、彼の思想形成に大きな影響を与えた。15歳で、叔父大西定道の家をつぐ。1881年(明治14年)山崎が夭逝した時、大西は呆然自失に陥ったといわれる。1884年(明治17年)、同志社英学校神学科を卒業。
中村 清彦(なかむら きよひこ、元治元年8月7日(1864年… 中村 清彦(なかむら きよひこ、元治元年8月7日(1864年9月7日) - 没年不詳)は、日本の農商務官僚。錦鶏間祗候。 三重県出身。1889年(明治22年)に東京帝国大学法科大学英法科を卒業。判事試補、判事を務める。1892年(明治25年)、農商務省に転じ、鉱山監督官、農商務参事官・製鉄所事務官、農商務書記官、福岡鉱山監督署長、大阪鉱山監督署長、東京鉱山監督署長、東京鉱務局長などを歴任した。 退官後は、東京帝国大学や秋田鉱山専門学校などで講師として鉱山法を講義した。1923年(大正12年)5月7日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた。
二代目 五姓田 芳柳(ごせだ ほうりゅう、元治元年8月7日〈… 二代目 五姓田 芳柳(ごせだ ほうりゅう、元治元年8月7日〈1864年9月7日〉 - 昭和18年〈1943年〉1月9日)は、明治末期から昭和初期にかけて活躍した洋画家。 下総国猿島郡沓掛村(現茨城県坂東市)で、神祇官白川殿免許の大工倉持正重の六男として生まれる。本名は子之吉、通称は芳雄。幼少から画を好み、5,6歳の頃、麦の穂を一日中その場を動かず丹念に写生し、家の人が覗いてみると、色・形から粒の並びまで実物そっくりだったという。1878年(明治11年)2月上京、五姓田義松の画塾に入る。同年、工部美術学校教師アントニオ・フォンタネージに通い、指導を受ける[要出典]。義松の日記では「明治十三年四月二日に倉持子之吉弟子となる」とあり、正式に弟子となったのはこの時だと考えられる。
明石 元二郎(あかし もとじろう、元治元年8月1日(1864… 明石 元二郎(あかし もとじろう、元治元年8月1日(1864年9月1日) - 大正8年(1919年)10月26日)は明治・大正期の日本の陸軍軍人。陸軍大将正三位勲一等功三級男爵。第7代台湾総督。福岡藩出身。夫人は国子、後妻に黒田信子(黒田一葦の娘)。
山田 新一郎(やまだ しんいちろう、1864年9月1日〈元治… 山田 新一郎(やまだ しんいちろう、1864年9月1日〈元治元年8月1日〉 - 1946年〈昭和21年〉3月2日)は、日本の教育者、内務官僚、神職。政友会系官選鳥取県知事。 筑前国夜須郡秋月春小路で、秋月藩士・山田正修(まさのぶ)、清(せい)の長男として生まれる。1886年、杉浦重剛の称好塾に入塾し薫陶を受けた。1887年、第一高等中学校を卒業。さらに1890年7月、帝国大学法科大学法律学科を卒業。同月24日、法制局試補となる。 1893年、鹿児島高等中学造士館教授となる。1895年、静岡県参事官に転任。以後、広島県参事官、福井県書記官、青森県書記官、法制局参事官兼同書記官、大阪府書記官、東京府書記官などを歴任。
戸田 忠義(とだ ただよし、元治元年8月1日〈1864年9月… 戸田 忠義(とだ ただよし、元治元年8月1日〈1864年9月1日〉 - 1915年〈大正4年〉4月15日)は、明治期の政治家、尋常小学校教員、華族。貴族院子爵議員。 下野宇都宮藩一門重臣・戸田忠至の嫡男戸田忠綱の長男として生まれる。忠義の出生当時、祖父の忠至はすでに大名格であったが、2年後の慶応2年(1866年)に分知を受けて支藩下野高徳藩主となった。父の忠綱もその跡を継いで明治2年(1869年)に高徳藩知事、のち曾我野藩知事となった。 父の隠居に伴い、1882年(明治15年)6月29日に家督を相続する。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した。 1883年(明治16年)宮中賢所勤番に就任する。
牧野 平五郎(まきの へいごろう、1864年9月1日(元治元… 牧野 平五郎(まきの へいごろう、1864年9月1日(元治元年8月1日)- 1928年(昭和3年)5月10日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員、富山市長。 越中国新川郡富山風呂屋町(現富山県富山市堤町通り)で、町年寄・牧野正貫(まさつら)の長男として生まれる。漢学、数学を修めた。家業の呉服業を営む。その他、十二銀行取締役、北陸商業銀行取締役、第四十七国立銀行取締役、富山電灯取締役、中越鉄道取締役、北陸生命保険取締役、富山鉄道取締役、富山米穀肥料取引所監査役、富山商業会議所副会頭などを務めた。また、富山実業新聞を創刊した。 政界では、1892年5月、富山市会議員に選出され、18年間在職し、同議長、富山県会議員、同議長も務めた。
林田 亀太郎(はやしだ かめたろう、1863年9月27日(文… 林田 亀太郎(はやしだ かめたろう、1863年9月27日(文久3年8月15日) - 1927年(昭和2年)12月1日)は、日本の官僚、政治家。衆議院書記官長、衆議院議員。号・雲梯。 熊本藩士・林田俊太郎の長男として現・熊本市に生まれる。大学予備門を経て、1887年7月、帝国大学法科大学政治学科を卒業。法制局に入り法制局属として長官官房に配属された。1888年6月、枢密院属となる。 1888年11月、法制局参事官試補として法制部に配属。以後、法制局参事官、臨時帝国議会事務局秘書官、衆議院書記官、兼農商務省参事官、衆議院庶務課長、兼守衛部長、衆議院議事課長などを歴任。 1897年11月、衆議院書記官長に就任。
平田 盛胤(ひらた もりたね、文久3年8月14日(1863年… 平田 盛胤(ひらた もりたね、文久3年8月14日(1863年9月26日) - 1945年(昭和20年)2月28日)は、日本の神職、国学者、神田神社社司。美濃国(後の岐阜県南部)出身、東京帝国大学(後の東京大学)文学部古典講習科卒業。首府神社界の1人とされる。 父は美濃郡代(美濃国代官)を勤めた旗本戸沢盛恭で、旧名を戸沢盛定と称した。美濃国羽栗郡笠松町生まれ。1886年(明治19年)頃に平田銕胤の長男平田延胤の養子となり、盛胤と改名した。 岐阜県師範学校(後の岐阜大学)卒業後、1880年(明治13年)に上京。1882年(明治15年)9月に創設された帝国大学古典講習科(乙部・国語課)に入学。第一期の同期生に松本愛重、小中村(池辺)義象、萩野由之、関根正直、落合直文らがいる。
池田 猪三次(いけだ いさんじ、1863年9月25日(文久3… 池田 猪三次(いけだ いさんじ、1863年9月25日(文久3年8月13日) - 1942年(昭和17年)11月26日)は、明治から昭和時代前期の政治家、銀行家。衆議院議員(2期)。旧姓は矢部。 遠江国豊田郡浦川村(静岡県豊田郡浦川村、磐田郡浦川村、浦川町、佐久間町を経て現浜松市天竜区)の矢部家に生まれ、1879年(明治12年)引佐郡伊平村(引佐町を経て現浜松市浜名区)の池田徳治郎の長女さわと結婚し養子となる。1886年(明治19年)伊平戸長役場の用係に出仕し、同村会議員を経て、1893年(明治26年)同村長に就任した。養蚕、学校建設、道路整備に尽力した。引佐郡会議員を経て、1903年(明治36年)静岡県会議員となり、1911年(明治44年)同議長を務めた。
早川 周造(はやかわ しゅうぞう、1863年9月20日〈文久… 早川 周造(はやかわ しゅうぞう、1863年9月20日〈文久3年8月8日〉 - 1916年〈大正5年〉4月17日)は、明治時代の政治家・実業家・銀行家。貴族院多額納税者議員。 美濃国安八郡、のちの岐阜県海津郡今尾町(平田町を経て現海津市)出身。早川理右衛門の長男として生まれ、1883年(明治16年)10月、家督を相続する。 1890年(明治23年)の岐阜県会議員選挙に安八郡選挙区から立候補して初当選を果たしたが、任期途中で辞職した。そのほか、南濃銀行頭取、土地家屋貸付会社社長、七十六銀行、真宗生命保険、大垣銀行、美濃商業銀行、竹鼻銀行、岐阜市貯蓄銀行、濃飛農工銀行、治水共同社、福寿生命保険取締役、美濃貯蓄銀行、高須貯蓄銀行各重役などを歴任した。
川崎 寛美(かわさき ひろみ、1863年9月20日(文久3年… 川崎 寛美(かわさき ひろみ、1863年9月20日(文久3年8月8日)- 1926年(大正15年)9月4日)は、明治時代から大正時代の華族(男爵)、実業家、発明家。現在の株式会社KTKの創業者。 薩摩国鹿児島郡塩屋町(現在の鹿児島県鹿児島市甲突町)にて、後に男爵となる薩摩藩士の川崎祐名の長男として生まれる。 1875年、横浜に住んでいた英国人のワッソン女史方に寄留して英語を習得した。16歳の頃に寛美と改名する。19歳で大学予備門の1級生から外務省御用掛となった。この頃激務の余暇に、のちに子爵となる曽根荒助からフランス語を学んだ。22歳でロンドンの日本公使館の会計主任となる。1886年、官制改革で交際官試補となり、1887年にはパリの日本公使館会計主任に転じた。
河本 にわ(かわもと にわ、 1863年9月17日〈文久3年… 河本 にわ(かわもと にわ、 1863年9月17日〈文久3年8月5日〉 - 1976年〈昭和51年〉11月16日)は、1975年5月31日から死去まで長寿日本一及び長寿世界一であった滋賀県の女性。また、生年に確証のある中では当時の日本歴代最高齢でもあり、生年に確証のある日本人としては初めて113歳を迎えた人物でもあった。 滋賀県高島郡安曇川町(現・高島市)で、より糸工場を経営していた河本家に嫁ぐ。20代で結婚して8人の子を産み、生前に80人以上の子孫ができた。元自由民主党参議院議員の河本嘉久蔵は孫である。100歳のときに河本嘉久蔵から隠居所を貰い、晩年まで居住していた。 1975年5月31日梅田ミトの死去に伴い、長寿日本一および世界一の座を引き継いだ。
青山 彦太郎(あおやま ひこたろう、1863年9月14日(文… 青山 彦太郎(あおやま ひこたろう、1863年9月14日(文久3年8月2日) - 1944年(昭和19年)12月21日)は、日本の牧師である。 岡崎藩士青山昇三郎(後の日本基督教会牧師)の長男として岡崎に生まれる。明治維新になり、1875年(明治8年)8月に父と共に東京に転居。東京市築地の新栄教会でデイヴィッド・タムソンと小川義綏の薫陶を受け、1877年(明治10年)1月に受洗する。 1880年(明治13年)に築地大学校に入学する。ジェームス・ハミルトン・バラらに薫陶を受ける。後に東京一致英和学校に移る。1885年(明治18年)に明治学院の最初の卒業生となる。卒業と同時に、神学部に入学する。 しばらく四国の大洲で伝道をしたのち、1888年(明治21年)に渡米し、マコーミック神学校で学ぶ。
石郷岡 文吉(いしごうおか ぶんきち、文久3年8月1日(18… 石郷岡 文吉(いしごうおか ぶんきち、文久3年8月1日(1863年9月13日) – 昭和13年(1938年)9月12日)は、日本の衆議院議員(憲政本党)、弘前市長。 弘前に生まれ、東奥義塾を卒業した。1889年(明治22年)、弘前市会議員となり、1891年(明治24年)には中津軽郡会議員となった。1896年(明治29年)、青森県会議員に選出され、1903年(明治36年)には議長に就任した。1907年(明治40年)、県会議長に再選され、弘前市会議長も兼ねた。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。1期務めた。1913年(大正2年)、再び市会議員となり、さらに1918年(大正7年)・1922年(大正11年)・1934年(昭和9年)の3度、弘前市長に選出された。
藤山 雷太(ふじやま らいた、1863年9月13日(文久3年… 藤山 雷太(ふじやま らいた、1863年9月13日(文久3年8月1日)- 1938年(昭和13年)12月19日)は、佐賀藩出身の明治・大正・昭和の実業家、貴族院勅選議員。福澤諭吉門下直系の実業家として、東京商業会議所会頭、芝浦製作所所長、大日本製糖社長、藤山同族社長、大日本製氷会長、日印協会理事、また三井財閥・安田財閥・共同の各信託会社の相談役・取締役等を歴任し、藤山コンツェルンを創立した。正五位勲三等。 1919年(大正8年)に藍綬褒章、1923年(大正12年)に紺綬褒章を受章。次いでフランス政府からレジオン・ドヌール・シュバリエ勲章を受章。安南(現在のベトナム)国王からはグラン・オフィシェ・ド・ランテン勲章を贈られた。
坂田 貞(さかた ただす、1863年9月13日(文久3年8月… 坂田 貞(さかた ただす、1863年9月13日(文久3年8月1日) - 1937年(昭和12年)9月25日)は、明治から昭和時代戦前の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。 肥後国八代郡植柳村(熊本県八代郡植柳村を経て現八代市)出身。橋本寛の長男として生まれ、先代範英の養子となり1872年(明治5年)家督を相続する。 1891年(明治24年)以降、植柳村会議員、同村農会長、熊本県会議員、同県農会長、八代郡会議員、郡参事会員、同農会評議員、帝国農会議員のほか、九州商業銀行取締役、九州新聞社監査役などを歴任した。 1925年(大正14年)9月には熊本県多額納税者として貴族院議員に互選され同年9月29日に就任し、交友倶楽部に所属し1932年(昭和7年)9月まで務めた。
北島 斉孝(齊孝、きたじま なりのり、1863年9月11日〈… 北島 斉孝(齊孝、きたじま なりのり、1863年9月11日〈文久3年7月29日〉- 1918年〈大正7年〉11月9日)は、日本の神職、政治家、華族。出雲大社北島国造家76代、貴族院男爵議員。旧名・殿若丸。 出雲国出雲郡(現島根県出雲市大社町)で北島国造家75代・北島脩孝の長男として生まれる。父の死去に伴い1893年(明治26年)4月7日、男爵を襲爵した。 1882年(明治15年)出雲大社権宮司に就任。同禰宜、大教正、神道出雲教(現出雲教)大教主を務めた。 1908年(明治41年)7月1日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、公正会に所属して活動し、死去するまで在任した。
大橋 新太郎(おおはし しんたろう、文久3年7月29日(18… 大橋 新太郎(おおはし しんたろう、文久3年7月29日(1863年9月11日) - 1944年(昭和19年)5月5日)は、明治時代から昭和時代にかけての実業家・政治家。父の大橋佐平とともに博文館を創業し、明治・大正時代の出版界の王者となり、印刷から販売まで手がける出版コンツェルンを構築した。また。衆議院議員・貴族院議員にも選ばれたほか、日本工業倶楽部会長を務めた。 父の大橋佐平は越後長岡の開明的な商人で、出版・新聞などの情報産業にいち早く着目し、新潟県から東京に進出して近代出版業の先駆者となった。 博文館は、佐平と新太郎の父子が協力して創立した出版社で、日清戦争・日露戦争などの報道によって爆発的な利益を得るとともに、尾崎紅葉を盟主とする硯友社の文学運動に「文芸倶楽部」などの発表の場を提供することによって当時の文壇の首脳部を手中に収めた。
薗田 宗恵(そのだ しゅうえ、1863年9月9日〈文久3年7… 薗田 宗恵(そのだ しゅうえ、1863年9月9日〈文久3年7月27日〉 - 1922年〈大正11年〉1月3日)は、浄土真宗本願寺派の僧侶。 和泉国出身。旧姓は浅井。号は確堂。帝国大学文科大学卒。和歌山妙慶寺薗田香潤の養子。本山の文学寮の教授となり、のち寮長。明治32年(1899年)本山の命で最初の北米開教師としてサンフランシスコで布教。帰国後、明治38年(1905年)仏教大学(現・龍谷大学)学長、1912年勧学、1915年再び学長に任ぜられる。長男は独文学者の薗田香勲。
下村 善右衛門(善右衞門、しもむら ぜんうえもん、1863年… 下村 善右衛門(善右衞門、しもむら ぜんうえもん、1863年9月9日(文久3年7月27日)- 1934年(昭和9年)12月27日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員。 上野国群馬郡前橋本町(群馬県東群馬郡前橋本町、前橋町本町を経て現前橋市)で、初代前橋市長となる下村善太郎の長男として生まれた。父の方針で福沢諭吉から直接個人教育を受けた。1882年(明治15年)自費で4名の青年を海外に留学させた。 政界では、前橋市会議員、同参事会員を務めた。1899年(明治32年)群馬県会議員に選出された。1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙(群馬県前橋市、無所属)で初当選。第8回総選挙でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
葛西 萬司(かさい まんじ、 文久3年7月23日(1863年… 葛西 萬司(かさい まんじ、 文久3年7月23日(1863年9月5日) - 昭和17年(1942年)8月19日)は明治から昭和初期に活躍した設計建築家。盛岡市出身。辰野金吾と建築設計事務所を共同経営したことなどで知られる。 工手学校(現工学院大学)造家学科教員。
武信 由太郎(たけのぶ よしたろう、1863年9月5日(文久… 武信 由太郎(たけのぶ よしたろう、1863年9月5日(文久3年7月23日) - 1930年(昭和5年)4月26日)は、明治・大正期を代表する日本の英語学者。 因幡国気多郡潮津村(現在の鳥取県鳥取市青谷町)出身。1876年、官立愛知英語学校(のちの愛知県立第一中学校)に入学、同校廃止後は愛知県中学校に編入となり、1880年に卒業する。同年、札幌農学校の第4期生となる。1884年同校卒業、長野県中学校飯田支校の英語教員、1887年『ジャパン・メール』の記者となった。一時期三重県の教員を務め、1897年に頭本元貞と『ジャパン・タイムズ』を創刊。頭本元貞(1863年-1943年) とは同郷同卒で親しく、福澤諭吉ら政財界の後押しによって、『ジャパン・タイムス』の刊行が実現した。
野上 嘉平(のがみ かへい、1863年9月4日〈文久3年7月… 野上 嘉平(のがみ かへい、1863年9月4日〈文久3年7月22日〉 - 1913年〈大正2年〉10月3日)は日本の政治家、実業家。衆議院議員(憲政本党)。勲等は勲四等。 淡路国三原郡賀集村(現・南あわじ市)に生まれる。東京法学校(現・法政大学)で学んだ後、賀集村会議員、三原郡町村組合会議員などを務める。1892年(明治25年)2月、兵庫県会議員に三原郡選出で当選した。その後、再選した。1894年(明治27年)5月25日に賀集村長に就任した。1896年(明治29年)10月1日、府県制施行に伴い、県議を失職した。同月20日に村長を退任した。また、同年当選期の三原郡会議員に補欠当選して、1899年(明治32年)まで務めている。
佐藤 潤象(さとう じゅんぞう、1862年9月19日(文久2… 佐藤 潤象(さとう じゅんぞう、1862年9月19日(文久2年8月24日) - 1953年(昭和28年)7月11日)は、日本の実業家、政治家。朝鮮鉄道などを設立したのち、衆議院議員(1期)。 熊本県出身。二松学舎で漢学を学び、同人社で英語を学ぶ。1883年、同郷の鎌田景弼が佐賀県令に任命されると池辺三山、高橋長秋と共に佐賀県属となり、22歳で会計を担当する。その後熊本県収税属、同県属、農商務省営林主事、同林務官補、同林務官を歴任。 この間、大韓帝国政府に招かれ、大倉喜八郎、高島義恭らと計り釜山埋築(株)を設立した。釜山港は貿易港として有望だが、周囲を丘山に囲まれ平地が狭隘であるという欠点があり、将来の京釜鉄道の開通に備えて、埋立による埠頭拡張が不可欠で、計画の実行には、韓国政府からの許可だけでなく、釜山在留の日本人居留民や京釜鉄道創立委員会の同意が必要だった。
木戸 豊吉(きど とよきち、文久2年8月24日(1862年9… 木戸 豊吉(きど とよきち、文久2年8月24日(1862年9月17日) - 昭和2年(1927年)3月15日)は日本の政治家。衆議院議員、京都府会議長。 1862年(文久2年)8月に丹波国上胡麻村(現京都府南丹市)に生まれる。京都府師範学校を卒業後、上京し、1890年(明治23年)に和仏法律学校(現法政大学)を卒業する。 帰郷後、胡麻郷村村長に就任し、1910年(明治43年)10月に第10回衆議院議員総選挙補欠選挙に出馬し当選する。 衆議院議員の任期満了後、京都府会議員、同議長を務め、1921年(大正10年)に京都府知事若林賚蔵と対立し退任する。 その後、1924年(大正13年)に第15回衆議院議員総選挙に出馬し当選する。
清水 隆徳(しみず たかのり、1862年9月13日(文久2年… 清水 隆徳(しみず たかのり、1862年9月13日(文久2年8月20日)‐ 1929年(昭和4年)10月21日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・告森、筆名・山本隆徳、号・鶴城。 伊予国宇和島城下御殿町(愛媛県北宇和郡宇和島町を経て現宇和島市)で、宇和島藩士・告森桑圃の二男として生まれる。都筑荘蔵(鶴州)、上甲振洋の謹教堂で漢学を修めた。1877年(明治10年)北予変則中学校(松山中学校を経て現愛媛県立松山東高等学校)で学び、1881年(明治14年)大分県中津の慶應義塾支塾に入塾した。1880年(明治13年)頃、松山の民権結社「公共社」機関紙『海南新聞』編輯長に就任。1881年(明治14年)9月に上京し、1882年(明治15年)5月に千葉に移り『千葉総房共立新聞』幹事となる。
五代目 清元 延寿太夫(延壽太夫、ごだいめ きよもと えんじ… 五代目 清元 延寿太夫(延壽太夫、ごだいめ きよもと えんじゅたゆう、文久2年8月13日〈1862年9月6日〉 - 1943年〈昭和18年〉5月22日)は、浄瑠璃太夫。本名は斎藤→岡村庄吉。東京都墨田区本所出身。 『残菊物語』のモデルになった、二代目尾上菊之助は実弟。実子が四代目栄寿太夫。孫が六代目清元延寿太夫。
伊藤 市平(いとう いちへい、1862年9月3日(文久2年8… 伊藤 市平(いとう いちへい、1862年9月3日(文久2年8月10日) - 1923年(大正12年)12月31日)は、明治時代の政治家、実業家、銀行家。衆議院議員(1期)。 伊藤長重郎の子。遠江国麁玉郡宮口村(現・静岡県浜松市浜名区宮口)出身。1881年(明治14年)7月、浜松中学校を卒業後上京し同人社に入るが1883年(明治16年)7月、退学する。東京専門学校に転じ1886年(明治19年)7月、卒業をもって帰郷し1888年(明治21年)2月、静岡県茶業組合連合会議員となり、1890年(明治23年)2月には静岡県会議員に当選した。ほか同副議長、同参事会員、中央茶業組合会議所議員、関東茶業会本部主事、宮口銀行頭取、宮口委託監査役などを歴任した。
松本 剛吉(まつもと ごうきち、文久2年8月8日(1862年… 松本 剛吉(まつもと ごうきち、文久2年8月8日(1862年9月1日) – 昭和4年(1929年)3月5日)は、衆議院議員、貴族院議員。旧名は松元剛吉。『松本剛吉政治日誌』で知られる。 丹波国氷上郡柏原町(現在の兵庫県丹波市)に、今井源左衛門の四男として生まれ、松元十兵衛の養子となった。中村正直の同人社に学んだ。1884年(明治17年)に、神奈川県警部に任命され、埼玉県警部、逓信属を歴任し、1894年(明治27年)に退官した。その後、第1次大隈内閣で林有造逓信大臣の秘書官となり、第4次伊藤内閣でも林農商務大臣の秘書官を務めた。 1904年(明治37年)、第9回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は4回を数えた。
秋本 喜七(あきもと きしち、1861年9月25日(文久元年… 秋本 喜七(あきもと きしち、1861年9月25日(文久元年8月21日)- 1930年(昭和5年)5月31日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・渡邊。 武蔵国多摩郡、のちの東京府北多摩郡三鷹村(現東京都三鷹市)で渡邊萬助の二男として生まれ、明治2年10月(1869年)秋本倉蔵の養嗣子となる。運送業に着目して事業を興した。その他、日本採炭(株)社長、武相甲信運輸組合長、東京府農工銀行監査役、田無銀行頭取、玉川水道(株)監査役、南洋製糖(株)取締役などを務めた。 政界では、武蔵野村会議員、村助役、村長、北多摩郡会議員、同参事会員、東京府会議員、同郡部会議長、同参事会員、徴兵参事員、普通水利組合議員、警視庁防疫評議員などを歴任。
新井 啓一郎(あらい けいいちろう、1861年9月19日(文… 新井 啓一郎(あらい けいいちろう、1861年9月19日(文久元年8月15日)- 1924年(大正13年)3月4日)は、日本の篤農家、政治家。衆議院議員。 武蔵国埼玉郡高岩村(のち埼玉県南埼玉郡篠津村大字高岩、現:白岡市)で、大地主・新井庫之助、しん子夫妻の息子として生まれる。青木雪萼、島田重礼などに師事し漢学を修めた。 1882年8月、高岩村戸長に就任し、南埼玉郡所得税調査委員、徴兵参事員などを務めた。1889年、埼玉倶楽部常議員となり、自由民権運動に加わった。1892年2月、第2回衆議院議員総選挙で埼玉県第三区から出馬し、当局から選挙干渉を受けながらも当選。以後、第6回総選挙まで連続して当選し、衆議院議員を連続五期務めた。
町田 重備(まちだ しげとも、文久元年8月11日(1861年… 町田 重備(まちだ しげとも、文久元年8月11日(1861年9月15日) - 大正11年(1922年)2月12日)は、日本の逓信官僚。錦鶏間祗候。 東京府に横瀬貞幹の二男として生まれ、町田きくの養子となった。1877年(明治10年)に陸軍士官学校に入るが病のため退学した。1883年(明治16年)、東京外国語学校仏語簡易科(現在の東京外国語大学)を卒業。その後帝国大学書記を務めた後、帝国大学法科大学に入学し、1888年(明治21年)に卒業した。枢密院雇、法制局参事官試補、衆議院書記官を経て、1895年(明治28年)に逓信書記官となった。逓信省では京都郵便電信局長、神戸郵便電信局長、大阪郵便局長、逓信省経理局長を歴任した。
大野 亀三郎(おおの かめさぶろう、1861年9月6日(文久… 大野 亀三郎(おおの かめさぶろう、1861年9月6日(文久元年8月2日) - 1914年(大正3年)4月7日)は、明治から大正時代の政治家。実業家。銀行家。衆議院議員。 美濃国、のちの岐阜県稲葉郡岩村(現岐阜市)で、農業・大野八右衛門の長男として生まれる。1880年(明治13年)岐阜県立中学校を首席で卒業する。 岐阜県会議員となる。ほか、北海道開拓事業に関わり、興業銀行取締役、岐阜移民重役、蘇東銀行、北海道馬匹奨励、釜山埋築各監査役、日本興業銀行設立委員を務めた。 1892年(明治25年)2月の第2回衆議院議員総選挙では岐阜県第1区から出馬し当選。その後、第3回総選挙から第11回総選挙まで連続10回当選した。
久我 篤立(くが とくりゅう、1861年9月5日(文久元年8… 久我 篤立(くが とくりゅう、1861年9月5日(文久元年8月1日) - 1943年(昭和18年)3月19日)は、日本の僧侶。曹洞宗總持寺独住第14世貫首。大僧正、龍拈寺管長。 三河国(愛知県)生まれ。8歳で出家、のち良洞巨介の法をつぐ。1885年曹洞宗大学林(現駒澤大学)卒業。同年、法尺寺住職、1887年豊橋の竜拈寺管長。のち曹洞宗師家竜拈寺認可僧堂専門、僧堂開単、愛知県第二曹洞宗宗務所長を務めた。また私立豊橋幼稚園長、愛知県社会教育委員、豊橋連合市会副議長、豊橋市仏教連合会顧問などを兼務。軍人布教師や自治団体、社会事業の公職を務め、豊橋育児院をつくるなど社会事業にも尽力した。1943年總持寺独住第15世貫首に就任。
平山 増之助(ひらやま ますのすけ、1861年9月5日(文久… 平山 増之助(ひらやま ますのすけ、1861年9月5日(文久元年8月1日) - 1914年(大正3年)6月29日)は、明治期の薬学博士、日本陸軍一等薬剤正。下総国出身。族籍は東京府士族。 1861年9月5日((旧暦)文久元年8月1日)、下総多古藩(現千葉県香取郡多古町)藩医平山玄益の次男として生まれ、1872年(明治5年)東京・横浜に遊学し東京大学予備門を経て1882年(明治15年)東京大学医学部製薬学科を卒業して製薬士の称号を得た。 直後に日本陸軍剤官副となり熊本鎮台病院に勤務し、1888年(明治21年)1月熊本薬学専門学校初代校長となる(ドイツ留学により退任)。1889年(明治22年)7月にドイツに留学した。
斎藤 紀一(さいとう きいち、1861年9月5日(文久元年8… 斎藤 紀一(さいとう きいち、1861年9月5日(文久元年8月1日) - 1928年(昭和3年)11月17日)は、日本の医師(脳神経及び精神病専門医、青山脳病院長)、政治家。 同じく精神科医で歌人である斎藤茂吉の養父としても知られる。族籍は東京府平民。 東京の開業医として成功、ドイツ留学では医学博士号を取得した。また、一代で大規模な精神病院、「青山脳病院」を築き、帝国議会議員としても華麗な生活を送った。性格的には大言壮語が目立ち、孫である斎藤宗吉(北杜夫)からは後に、「口先がうまく、成り上がり者で貴族趣味の俗物」と評されている。北の長編小説『楡家の人びと』の主人公楡基一郎のモデルでもある。住所は東京市赤坂区青山南町。
高橋 鉉太郎(たかはし げんたろう、1860年9月29日〈万… 高橋 鉉太郎(たかはし げんたろう、1860年9月29日〈万延元年8月15日〉 - 1949年〈昭和24年〉2月28日)は、日本の化学者、教育者。香川県尋常中学校校長、第三高等学校(現・京都大学)教授等を歴任。第三高等学校名誉教授。 旗本永井左門の代官であった河内国大和田庄野口村(現・門真市)在住の漢学者・高橋俊太郞篤敬の長男として生まれる。父篤敬は柔術剣術の目録を取り、囲碁の才に長け、江戸で近藤真琴に就いて算術・代数学を、明治維新後は敷田年治の門人として国学を学び、明治4年(1871年)より堺県に出仕、新暦1874年(明治7年)より奈良県学校掛となり、一時は奈良師範学校長を務めた博学多芸の人物であった。
大久保 徳明(おおくぼ のりあき、1860年9月29日(万延… 大久保 徳明(おおくぼ のりあき、1860年9月29日(万延元年8月15日) - 1917年(大正6年)4月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1860年(万延元年)、土佐国土佐郡小高坂村後町(現在の高知県高知市)居住の土佐藩士・大久保幸策の三男として生まれた。 1875年(明治8年)、陸軍幼年学校を経て陸軍士官学校(旧3期)に進み1879年(明治12年)12月22日、工兵少尉に任官。1883年(明治16年)2月28日工兵中尉に、1886年(明治19年)10月4日工兵大尉に昇進。1888年(明治21年)11月17日、陸軍士官学校教官に補される。 1895年(明治28年)3月23日工兵少佐に昇進し、陸軍大学校教官、宇品運輸通信支部員などを経て、1898年(明治31年)10月1日、工兵中佐に昇進。
渡辺 専次郎(わたなべ せんじろう、1860年9月27日 (… 渡辺 専次郎(わたなべ せんじろう、1860年9月27日 (万延元年8月13日) - 1916年(大正5年)9月26日)は、日本の実業家。三井物産専務理事や、三井同族会管理部会員など務めた。 横浜の医師渡邊顯哉の次男として生まれる。商法講習所(現一橋大学)を経て、矢野二郎校長の紹介で岩下清周とともに1879年に三井物産に入社した。1881年横浜支店詰。その後ロンドン支店詰となり、長年イギリスで勤務し、妻の満里はイギリス人。 1885年ロンドン支店副支配人。1886年ロンドン支店支配人。1895年には理事兼ロンドン支店支配人(1899年から支店長に名称変更)となり、紡績機の輸入や米の輸出、山本条太郎上海支店長との連携による石炭の購入などを進めた。