12代 稲葉 市郎右衛門(稻葉 市郎右衞門、いなば いちろう… 12代 稲葉 市郎右衛門(稻葉 市郎右衞門、いなば いちろうえもん、1846年9月14日(弘化3年7月24日)- 1915年(大正4年)7月8日)は、丹後国熊野郡久美浜村(現・京都府京丹後市)出身の地主・銀行家・政治家。衆議院議員。幼名・正吉、元服後は新一郎。稲葉市郎右衛門英裕(いなば いちろうえもんひでひろ)とも呼ばれる。 弘化3年7月24日(1846年9月14日)、丹後国熊野郡久美浜村(京都府熊野郡久美浜村、久美浜町を経て現京丹後市)に生まれた。父は地主である11代稲葉市郎右衛門太訓(餘庵)、母はりうであり、二男だった。稲葉家は糀屋を屋号とし、廻船業や金融業で富を成した豪商である。幼少期から出石藩の儒学者である島村弘輔と土岐新之丞に漢学を学んだ。
小崎 義明(こざき よしあき、1846年9月2日(弘化3年7… 小崎 義明(こざき よしあき、1846年9月2日(弘化3年7月12日)- 1904年(明治37年)4月20日)は、明治期の地主、政治家。衆議院議員。幼名・律五郎、のちに清、義明。号・篠州(じょうしゅう)。 肥後国天草郡大浦村(熊本県天草郡大浦村、有明村、有明町を経て現天草市有明町)で、大庄屋・小崎武一郎重謙(しげかね)、清の息子として生まれる。漢籍を値賀盛純、高尾道一郎に、書を城野静軒に学び、広瀬淡窓の咸宜園にも入塾した。 1858(安政5年2月)職務見習勤務を命ぜられ、1864年(文久3年12月)父の死去に伴い天草郡栖本組大庄屋を世襲した。1865年(慶応元年)九品寺閻魔堂に寺子屋を開設。1869年11月(明治2年10月)から1870年1月(明治2年12月)まで長崎県掌郡方刑法掛勤務を務めた。
栗林 得太郎(くりばやし とくたろう、弘化3年7月11日(1… 栗林 得太郎(くりばやし とくたろう、弘化3年7月11日(1846年9月1日) - 明治17年(1884年)2月11日)は新潟県の豪農。第七大区第二小区戸長、第十大区長、南蒲原郡書記を歴任した。子に栗林五朔。 弘化3年(1846年)7月11日、越後国蒲原郡三条町に六代目栗林七郎治の五男三女の長男として生まれた。安政3年(1856年)父が西大崎村名主を命じられたため、同村に移り、安政6年(1859年)14歳で家督を継いだ。 幼少より帯織村岩崎塾に学び、江戸に出て蒲生重章に入門し、片桐省介、岩崎幸太郎等と交わったが、明治元年(1868年)戊辰戦争勃発に伴い帰郷した。 明治2年(1869年)御徒士取扱として新潟県商館御取立取締役を命じられ、明治5年(1872年)9月第七大区第二小区戸長となった。
横田 香苗(よこた かなえ、弘化2年8月21日〈1845年9… 横田 香苗(よこた かなえ、弘化2年8月21日〈1845年9月22日〉 - 1912年〈大正元年〉10月18日)は、明治時代の賞勲局官僚。賞勲局副総裁。錦鶏間祗候。 彦根藩士の横田俊輔の二男として近江国犬上郡彦根城下(滋賀県彦根市)に生まれ、のち横田和四郎の養子となる。内閣賞勲局に奉職し、同書記官を務めた。1898年(明治31年)10月、賞勲局副総裁に就任し、1912年(明治45年)5月24日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた。墓所は青山霊園。
野沢 白華(のざわ はっか、1845年9月15日〈弘化2年8… 野沢 白華(のざわ はっか、1845年9月15日〈弘化2年8月14日〉- 1904年〈明治37年〉1月29日)は、明治時代の文人画家(南画家)。本名は龍(りゅう)。白華は号。 常陸国久慈郡辰ノ口村(現在の茨城県常陸大宮市辰ノ口)で出生。父は平重、母は義(よし)。野沢家は清和源氏の末裔を自称する家で、中世は甲斐武田氏に仕えていたと伝わる。永禄・天正年中(1558年-1592年)に辰ノ口村に移住土着し、以降は常陸佐竹氏に仕えたという。慶長7年(1602年)に佐竹氏が出羽国へ移封されると帰農し、近世は代々同村の庄屋を務めた。白華の大叔父にあたる野沢四郎兵衛は「白仙」の号をもつ歌人、俳人であった。祖父の野沢新衛門は漢学者であり、居村に私塾を開いていた。
八尾 善四郎(やお ぜんしろう、1845年9月11日〈弘化2… 八尾 善四郎(やお ぜんしろう、1845年9月11日〈弘化2年8月10日〉 - 1918年)は、日本の実業家、政治家。神戸市会議員。兵庫運河社長。駒ヶ林魚類定市場取締役。族籍は兵庫県平民。兵庫運河を完成させた人物として知られる。 淡路津名郡岩屋村(現・淡路市)の長谷川八右衛門の次男として生まれ、5歳のときに兵庫西尻池の旧家八尾家の養子となる。船頭から身を起こして魚問屋として成功を収め、和歌山や四国まで事業を拡大させた。 1894年に安田善次郎、武井守正、谷勘兵衛らの出資の下、兵庫運河株式会社を設立し、新川運河を完成させたまま中断していた兵庫運河の建設工事を引き継ぎ、1898年に完成させた。1898年4月19日から1904年4月18日まで神戸市会議員をつとめた。
千家 尊福(せんげ たかとみ、弘化2年8月6日〈1845年9… 千家 尊福(せんげ たかとみ、弘化2年8月6日〈1845年9月7日〉 - 大正7年〈1918年〉1月3日)は、日本の宗教家、政治家。80代出雲国造、出雲大社宮司。神道大社教(1946年出雲大社教に改称)創立者で初代管長、元老院議官、貴族院議員、埼玉県知事(第4代)、静岡県知事(第4代)、東京府知事(第17代)、司法大臣(第14代)、東京鉄道株式会社社長などを歴任した。位階は従二位。勲等は勲一等。爵位は男爵。 出雲大社の宮司を務める出雲国造家に生まれ、神道大社派を創始する。その後、神道大社教に改称し管長に就任するなど、教派神道たる出雲大社教の礎を築いた。元老院議官を経て、第1回貴族院男爵議員選挙にて貴族院議員に選出される。
山川 二葉(やまかわ ふたば、弘化元年8月19日〈1844年… 山川 二葉(やまかわ ふたば、弘化元年8月19日〈1844年9月30日〉 - 明治42年〈1909年〉11月14日)は、日本の教育者 。 陸奥国会津藩若松城下(現在の福島県会津若松市)にて、国家老山川重固とえん(艶;会津藩士西郷近登之の娘)の長女として生まれる。弟妹は浩、三輪、操、健次郎、常磐、さき(捨松)。万延元年(1860年)に父が死去した当時、二葉は数え17歳で、16歳の浩が家督を継いだ。 明治維新以前、後に家老職に就く梶原平馬と婚姻したものの、短期間で離縁して復籍(離縁日時は不詳)、一子景清(慶応2年11月16日生)は二葉が養育した。 旧暦明治元年8月-9月(1868年10月-11月)の会津城籠城戦において、その家柄故に山川家の人々は相応の役割を果たし、婦女子は調理と配布、負傷者の看護、旧式銃弾の製造と補充などの業務に当たった。
佐藤 與三(さとう よぞう、天保14年8月23日〈1843年… 佐藤 與三(さとう よぞう、天保14年8月23日〈1843年9月16日〉 - 没年不詳)は、明治期の商工官僚。官選群馬県知事。 長門国阿武郡萩平安湖町(現萩市)に生まれる。 明治5年(1872年)工部省五等出仕に任官。さらに鉄道助・燈台権守を務めた。1873年、燈台頭に昇進。以後、工部大書記官として、鉱山権頭、鉱山局長、内国勧業博覧会審査部長、工作局長、総務局鉱山課長、品川硝子製造所長、参事院員外議官補などを歴任。 1884年7月30日、群馬県令に就任。1886年7月19日、地方官官制改正に伴い同県知事となる。明治21年(1888年)6月限りで廃止とされた公娼について、同年5月に廃娼延期令を発布し、世論の反発を受けて廃止の期限を限るなどの妥協を行うが、県会から辞職を迫られ議会解散を行う。
内海 忠勝(うつみ ただかつ、1843年9月12日〈天保14… 内海 忠勝(うつみ ただかつ、1843年9月12日〈天保14年8月19日〉- 1905年〈明治38年〉1月20日)は、日本の武士、官僚、政治家。内務大臣(第16代)、長崎県令、三重県令、兵庫県知事(第9代)、長野県知事(第2代)、神奈川県知事(第3代)、大阪府知事(第8代)、京都府知事(第8代)、会計検査院長、貴族院議員などを歴任。吉田治助の四男。長州藩士である。従三位勲三等、死後に従二位勲一等旭日大綬章。男爵。 周防国吉敷郡吉敷村(現在の山口県山口市)出身。長州藩士として禁門の変に参加。維新後新政府に登用され、岩倉使節団に大使随行員として参加。地方官として長崎、三重、兵庫、長野、神奈川、大阪、京都の各県令・知事を歴任。
大井 憲太郎(おおい けんたろう、天保14年8月10日(18… 大井 憲太郎(おおい けんたろう、天保14年8月10日(1843年9月3日) - 大正11年(1922年)10月15日)は、日本の政治家、弁護士、社会運動家。自由民権運動に携わり、衆議院議員を務めた。旧姓、高並。別名、馬場城二郎、馬城山人。 天保14年8月10日(1843年9月3日)に豊前国宇佐郡高並村(現在の大分県宇佐市)に農民・高並彦郎とサノの三男として出生。幼名は彦六。幼少から漢学の手ほどきを受け、文久3年(1863年)に、長崎で蘭学・英学を学び、大井卜新との知遇を得て、義兄弟となり、大井の名字を名乗る。更に江戸に出て仏学・化学を学ぶ。江戸幕府の開成所舎密局に出仕する。戊辰戦争では幕軍砲兵隊に属し官軍と戦う。
林 有造(はやし ゆうぞう、1842年9月21日〈天保13年… 林 有造(はやし ゆうぞう、1842年9月21日〈天保13年8月17日〉- 1921年〈大正10年〉12月29日)は、日本の政治家、自由民権運動家。逓信大臣、農商務大臣などを歴任。位階勲等は従二位勲四等。幼名を助次。実名は包直。梅渓と号した。 天保13年8月17日(1842年9月21日)、土佐国宿毛に土佐藩安東家(のち伊賀家)の家臣・岩村英俊・嘉乃の次男として出生。兄は岩村通俊、弟は岩村高俊。幼年期に林茂次平の養子となる。戊辰戦争では板垣退助の配下につき、越後国に転戦し、明治維新後は初代の高知県令(参事)をつとめる。藩の債務処理や在任中に発生した膏取り一揆の鎮圧を図るが、板垣が参議を辞任したのに合わせて辞職。
臥雲 辰致(がうん たつむね(たっち、ときむね)、天保13年… 臥雲 辰致(がうん たつむね(たっち、ときむね)、天保13年8月15日(1842年9月19日) - 明治33年(1900年)6月29日)は、明治初期に臥雲式紡績機(ガラ紡)を発明した発明家。幼名は栄弥。元の姓は横山で、「臥雲」姓は住持であった寺の山号に由来。 信濃国安曇郡小田多井新田村(現・長野県安曇野市堀金三田)の出身。父は儀十郎。横山家はかつては豪農であったが、父の代に没落したという。家業として営んでいた足袋底織業を手伝い、少年の頃から能率向上のための紡績器械改良を思案していた。文久元年(1861年)20歳で近隣の法降山安楽寺(岩原村)で出家し、智恵と名乗る。慶応3年(1867年)には末寺の臥雲山孤峰院の住持となるが、明治4年、明治政府の廃仏毀釈により廃寺とされたので還俗し、臥雲辰致を名乗る。
淀川 音吉(よどがわ おときち、1842年9月13日(天保1… 淀川 音吉(よどがわ おときち、1842年9月13日(天保13年8月9日) - 1915年(大正4年)2月17日)は、明治時代の大相撲力士。本名:松崎音吉。年寄白玉。讃岐国丸亀(現・香川県丸亀市)出身。 数え21 - 22歳ごろに江戸へ出て雷の弟子となったと伝えられ、数え27歳の1868年5月に讃岐川で序ノ口1871年11月に幕下に昇進と比較的早い出世であったがその後幕下に低迷した。1877年頃和田ノ森との対戦で、40回以上の仕切りとなり審判が預かりとしようとしたが、仕切りの形が和田ノ森のほうが良かったということで和田ノ森の勝ちとなったことがある。1878年5月に幕下二段目12枚目の最高位に昇進。
若嶌 久三郎(わかしま きゅうざぶろう、1842年9月 - … 若嶌 久三郎(わかしま きゅうざぶろう、1842年9月 - 1891年1月6日)は、福島県会津若松市出身の大相撲力士。本名は小沢 久三郎(旧姓根本)。最高位は大関。現役時代の体格は174cm、113kg。福島県出身の力士でただ一人大関になっている。 漆器塗師の二男として生まれ、家業を手伝いながら宮相撲で活躍していた。江戸に出て5代楯山(元・大槇)に入門、文久元年(1861年)10月場所で初土俵を踏んだ。押し相撲を得意としたが取り口が慎重すぎたためか出世が遅く、幕下十枚目(十両)内に入ったのが明治3年(1870年)11月場所、入幕は明治7年(1874年)3月場所ですでに数え年で33歳になっていた。
渡辺 徹(渡邉 徹、わたなべ とおる、1841年9月15日(… 渡辺 徹(渡邉 徹、わたなべ とおる、1841年9月15日(天保12年8月1日) - 1913年(大正2年)10月19日)は、幕末の勤王家、明治期の内務官僚、政治家、実業家。茨城県参事、御影町長、衆議院議員。幼名・政吉、後左衛門、又衛。 越前国南条郡武生で、福井藩越前府中領主本多家家臣・渡辺良右衛門の三男として生まれ、のち大坂の国学者・渡辺資政の養子となる。剣鎗銃砲の術を修めた。幕末の国事に奔走し、錦小路頼徳に仕え、七卿落ちの際にも随行し、錦小路死去後に東久世通禧に仕えた。 明治維新後、神奈川府巡察補に就任。以後、同巡察、神奈川県少参事、五條県大参事、甲府県権大参事、租税寮七等出仕、秋田県参事などを歴任。
秋月 新太郎(あきづき しんたろう、1841年9月13日(天… 秋月 新太郎(あきづき しんたろう、1841年9月13日(天保12年7月28日) - 1913年(大正2年)5月10日)は明治時代の日本の官僚、漢詩人。女子高等師範学校長、貴族院議員を務めた。号は天放。 豊後国佐伯藩(現在の大分県佐伯市)の藩儒秋月橘門の長男として生まれ、咸宜園で学んだ。1871年(明治4年)、兵部省(のち陸軍省)に出仕し、兵部大録に進んだ。西南戦争の際には征討軍団書記官として従軍し、さらに陸軍省総務局報告課長、参謀本部編纂課長、太政官少書記官、参事院議官、太政官権大書記官を歴任した。その後内務省で参事官、図書局長、大臣秘書官を歴任した。 1894年(明治27年)、女子高等師範学校校長に就任して1897年(明治30年)まで務め、文部省参事官も兼ねた。
正木 安左衛門(安左衞門、まさき やすざえもん、1840年9… 正木 安左衛門(安左衞門、まさき やすざえもん、1840年9月27日(天保11年9月2日)- 1913年(大正2年)6月18日)は、明治期の地主、農業経営者、政治家。衆議院議員。幼名・徳三郎、徳次郎。 山城国乙訓郡今里村(京都府乙訓郡乙訓村字今里、長岡町を経て現長岡京市)で、地主、農業・正木安兵衛(旧姓・山脇)、りう(祖父・安兵衛長女)の長男として生まれる。漢学、詩文、法学、政経学を修めた。 1876年(明治9年)5月、乙訓郡第三区長に就任。兼学区取締、同郡第四組戸長兼学区取締、乙訓郡書記を歴任。1882年(明治15年)7月、京都府会議員に選出され、通算3期在任して、1892年(明治25年)2月に辞任。
板倉 胤臣(いたくら たねおみ、1840年9月27日(天保1… 板倉 胤臣(いたくら たねおみ、1840年9月27日(天保11年9月2日)- 1895年(明治28年)8月21日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員、千葉県会議長。 上総国長柄郡茂原村(千葉県長柄郡茂原村、茂原町茂原、長生郡茂原町を経て現茂原市)で、醤油醸造業・板倉任他郎の長男として生まれる。1865年(慶応元年)江戸に出て芳野金陵に師事し儒学を修め、勤皇の志士と交わった。 1868年(明治元年)夏、鎮撫総督柳原前光が勅使として上総、下総に派遣された際に、板倉は先導役を務めた。同年9月、鎮台府房総監察兼宮谷県知事・柴山典の属官となり訟事を担った。 1872年(明治5年)に帰郷し、千葉県第7大区(長柄・埴生郡)副区長に就任。
大貫 房吉(おおぬき ふさきち、1840年9月10日(天保1… 大貫 房吉(おおぬき ふさきち、1840年9月10日(天保11年8月15日) - 1912年(明治45年))は、明治時代の日本の実業家、政治家。 大貫与左衛門の男として、相模国高座郡大島村(神奈川県高座郡大沢村、相模原町を経て現相模原市緑区大島)に生まれる。1888年(明治21年)分家し戸主となる。1869年(明治2年)に横浜へ移り、1874年(明治7年)以降、大島屋を屋号に掲げ材木商を営む。 横浜商業会議所、同区会、市会議員を務めたほか、土木常設議員として市政に関与した。さらに横浜中央銀行、横浜貯蓄銀行取締役のほか、横浜衛生会社を立ち上げ社長を務めた。
浅見 又蔵(あさみ またぞう、天保10年8月16日〈1839… 浅見 又蔵(あさみ またぞう、天保10年8月16日〈1839年9月23日〉 - 明治33年〈1900年〉4月21日)は、滋賀県の実業家。太湖汽船会社社長、第21国立銀行頭取・第64国立銀行頭取等を歴任、篤志家として様々な支援活動を行い、晩年は日本赤十字社の活動に対しても積極的に関わった。 天保10年8月16日(1839年9月23日)、近江坂田郡長浜宮町(現滋賀県長浜市神戸町)の薬種問屋商若森彦右衛門と母田中氏との3男として生まれ、幼名得御寅吉と言う。数え12歳の時に親戚で京で呉服商を営む土田家に奉公に出、帰郷後播州明石に伊藤家に養子として入るが半年で破断となり、万延元年(1860年)12月長浜で縮緬製造を生業とする浅見又之助の養子となった。
竹尾 彦九郎(たけお ひこくろう、天保10年8月10日〈18… 竹尾 彦九郎(たけお ひこくろう、天保10年8月10日〈1839年9月17日〉 - 1907年〈明治40年〉7月20日)は、江戸時代末から明治時代の政治家、篤農家、水利家。愛知県会議員を務め、牟呂用水の開発で知られる。 天保10年(1839年)、三河国八名郡賀茂村(現・愛知県豊橋市)に、竹尾新五左衛門茂幹の三男として生まれる。早くに両親を亡くしたため、叔父・竹尾茂樹に預けられたが、万延元年(1860年)に生家に戻った。明治維新後は戸長や八女郡書記を務めた。1882年(明治15年)愛知県会議員となる。 1884年(明治17年)7月賀茂報徳社を設立。隣接する萩平村の鈴木平五郎とともに牛馬耕の普及に努めた。
西森 源兵衛(にしもり げんべえ、旧姓・岡島、幼名・浅次郎、… 西森 源兵衛(にしもり げんべえ、旧姓・岡島、幼名・浅次郎、1839年9月〈天保10年8月〉 - 1917年〈大正6年〉)は、日本の商人(皮革商)、実業家、政治家。西浜倉庫社長。大阪府西成郡西浜町長。大阪府会議員。大阪市会議員。 淡路国(のち兵庫県津名郡志筑町、現淡路市)生まれ。幼時に西森家に入り養嗣子となる。養父没後家督を相続し襲名する。以来熱心に業務に従事する。 大阪府西成郡栄町戸長、西浜町会議員及び町長となり1897年に同町が大阪市に編入されると、以来区会、市会、府会に議員としてその席に列する。 日清戦争に際し、金100円を献じ木盃を賜る。遠州流生け花を嗜む。日本赤十字社終身社員、衆議院議員南区選挙有権者である。
田中 芳男(たなか よしお、天保9年8月9日(1838年9月… 田中 芳男(たなか よしお、天保9年8月9日(1838年9月27日) - 大正5年(1916年)6月22日)は、幕末から明治期の博物学者、動物学者、植物学者、農学者、園芸学者、物産学者。錦鶏間祗候、男爵。 「日本の博物館の父」として知られる。博物学や分類学における翻訳語の成立に関わった。市川清流によって考案された「博物館」という和製漢語を、町田久成とともに普及させた。東京国立博物館や上野動物園の設立に携わった。パリ万博やウィーン万博での日本の出展に貢献した。殖産興業や啓蒙活動に努めた。元老院議官、貴族院議員、大日本山林会会長、日本園芸会副会長を歴任した。 1838年(天保9年)8月9日、信濃国伊那郡飯田城下の中荒町(現在の長野県飯田市中央通り)に旗本千村氏の典医を務める医師田中隆三(号:如水)の三男として生まれた。
宇井 可道(うい よしみち、天保8年8月26日(1837年9… 宇井 可道(うい よしみち、天保8年8月26日(1837年9月25日) - 1922年(大正11年)12月10日)は日本の国学者、歌人、民俗学者。紀伊国牟婁郡上三栖村庄屋・村長、紀伊田辺藩貧院頭取、和歌山県西牟婁郡職員、田辺銀行支配人。熊代繁里に国学を学び、晩桜社を主催し、郷土の民話を採取した。 天保8年(1837年)8月26日紀伊国牟婁郡上三栖村に生まれた。弘化4年(1847年)5月坂本弥平や兄勝之助に習字、児島熊仙に漢籍を学んだ。安政4年(1857年)8月兄が死去すると、10月嗣子となり、文久元年(1861年)4月上三栖村庄屋に就任した。 慶応3年(1867年)1月紀伊田辺藩士熊代繁里に入門し、明治5年(1872年)4月まで田辺まで2里の道程を通学し、国学・和歌を学んだ。
奥原 晴湖(おくはら せいこ、天保8年8月15日(1837年… 奥原 晴湖(おくはら せいこ、天保8年8月15日(1837年9月14日) - 大正2年(1913年)7月28日)は、幕末から明治期の画家。野口小蘋とともに明治の女流南画家の双璧といわれ、また安田老山と関東南画壇の人気を二分した。 本名は池田せつ(節)もしくは節子、通称:せい子。はじめ石芳と号するが、のちに秋琴・珠琴・蘭瑛・雲錦・静古・星古などと号した。堂号(居宅・画室)に墨吐煙雲楼・繍水草堂など。下総国古河宿(現在の茨城県古河市)出身。 古河藩大番頭の池田繁右衛門政明の四女(三女)に生まれる。母はきく。蘭学者の鷹見泉石は伯父にあたる[要出典]。経学を茅根一鴎、書を小山霞外・小山悟岡に就いて修めた。
早矢仕 有的(はやし ゆうてき、天保8年8月9日〈1837年… 早矢仕 有的(はやし ゆうてき、天保8年8月9日〈1837年9月8日〉 - 明治34年〈1901年〉2月18日)は、岩村藩藩医で明治期の日本の実業家、医師、官吏。丸善、横浜正金銀行の創業者として知られる。 天保8年(1837年)、美濃国武儀郡笹賀村(現山県市)に岩村藩医師・山田柳長の子として生まれるが、父は有的の顔を見ることなく26歳で亡くなったため、同村の名主早矢仕才兵衛の養子となる。大垣、次いで名古屋に出て医学を学ぶ。早矢仕自身が優れた医師でもあった。安政元年(1854年)、郷里に戻り医院を開業する。 安政6年(1859年)、江戸に上り、万延元年(1860年)6月に開業する。坪井信道に学んだ後、慶應3年(1867年)、慶應義塾に入塾して福澤諭吉らに蘭学、英学を学び貿易に関心を持つ。
楠目 正幹(くすめ まさみき、天保8年(1837年)9月1日… 楠目 正幹(くすめ まさみき、天保8年(1837年)9月1日 – 明治17年(1884年)9月3日)は、土佐藩出身の武士、明治政府の官僚・海軍法務官。通称は民五郎。土佐勤王党の血盟同志の一人である。官職は東京海軍軍法会議主理・海軍権大書記官。正六位・勲五等。また海軍中佐。 土佐郡潮江村(現在の高知市)に楠目民助の長男として生まれる。楠目藤盛(清馬)の実兄にあたる。土佐藩政下では小南五郎配下の役人として活動した。 文久元年(1861年)、武市半平太を主領とする土佐勤王党の誓書に署名し、血盟連盟した勤王志士の一人であった。この時期、尊王攘夷運動に深く関与していたことが知られる。 明治3年(1870年)、小栗義宣らとともに兵部省糺問権少佑に任じられ、同年中に兵部大録へ転じた。
北垣 国道(きたがき くにみち、1836年9月17日〈天保7… 北垣 国道(きたがき くにみち、1836年9月17日〈天保7年8月7日〉- 1916年〈大正5年〉1月16日)は、幕末期の志士、明治時代の官僚、政治家。幼名は捨蔵。通称は晋太郎。号は静屋。 高知県令(第4代)、徳島県令(第7・8代)、京都府知事(第3代)、北海道庁長官(第4代)、貴族院議員(勅選)、枢密顧問官を歴任した。 1836年(天保7年)、但馬国養父郡能座村(現:兵庫県養父市)に生まれる。6歳の時の1841年(天保12年)、池田草庵の私塾「青谿書院」で学んだ。1863年(文久2年)、公卿澤宣嘉を主将とし、河上弥市、平野国臣らと生野銀山にて挙兵(生野の変)するも敗れ、進藤俊三郎(原六郎)らと因幡(鳥取藩)、ついで京都、江戸(桶町千葉道場→赤坂桧町の長州藩邸)を経由し長州へ潜伏した。
中島 行孝(なかじま ゆきたか、天保5年8月28日〈1834… 中島 行孝(なかじま ゆきたか、天保5年8月28日〈1834年9月30日〉 - 1914年〈大正3年〉5月1日)は、明治から大正初期の大蔵官僚、実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・桐生。 上野国佐位郡、のちの群馬県佐波郡赤堀村(赤堀町を経て現伊勢崎市)で、桐生儀兵衛の長男として生まれ、その後、中島家の養子となる。 1869年(明治2年)大蔵省に入省し、大蔵省一等属となる。牛込で私塾を開き、塾生には郷誠之助らがいた。1882年(明治15年)に退官し実業界に転じた。東京株式取引所理事、前橋電気軌道社長、東京府農工銀行取締役、同農工貯蓄銀行頭取、帝国商業銀行監査役などを務めた。 政界では、東京市会議員、同参事会員、東京府会議員に在任。
原 忠順(はら ただゆき、1834年9月23日(天保5年8月… 原 忠順(はら ただゆき、1834年9月23日(天保5年8月21日) - 1894年(明治27年)10月28日)は、幕末から明治時代の政治家、武士。貴族院多額納税者議員。通称は弥太右衛門。 肥前鹿島藩士。藩命で江戸の昌平黌に学ぶ。藩主鍋島直彬の側近を務め藩論を尊王に纏めた。鹿島藩大参事を経て、東京府に出仕する。1872年(明治5年)には直彬と共にアメリカに留学し『米政撮要』を著した。1874年(明治7年)内務省補となり、1879年(明治12年)直彬が初代沖縄県令に就任した際に沖縄県少書記官、同大書記官を歴任し、1881年(明治14年)9月に辞任するまでの2年半、県令と共に県政運営にあたった。 1890年(明治23年)佐賀県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から務めたが、在任中に死去した。
増田 嘉兵衛(ますだ かへえ、1834年9月17日〈天保5年… 増田 嘉兵衛(ますだ かへえ、1834年9月17日〈天保5年8月15日〉 - 1920年〈大正9年〉9月4日)は、日本の商人(貿易商)、実業家、横浜市内の資産家。族籍は神奈川県平民。 伊賀上野車坂七面屋敷(現・三重県伊賀市)の赤貧の家に生まれる。平蔵の長男。幼くして父を亡くし、母によって育てられる。1844年、母が亡くなり、嘉兵衛は天涯孤独の身となる。魚の行商を業とする。 猪田屋に奉公する。14歳の春、大坂に出て、海産物問屋榎並屋に住み込む。文久2年、横浜で増田屋をひらき、外国糖の輸入で富をきずく。1869年、横浜為替(横浜銀行の前身)の創立に加わる。 1884年、家督を長男増蔵に譲り、分家して一家を創める。
山下 現有(やました げんゆう、天保3年8月28日(1832… 山下 現有(やました げんゆう、天保3年8月28日(1832年9月22日) - 昭和9年(1934年)4月11日)は、日本の浄土宗の僧。浄土宗管長、知恩院門跡。号は謙蓮社孝誉。近代日本仏教における代表的な高僧の一人である。一宗一派の枠を越え、広く仏教界全体の長老として仰がれ、「生き仏」と称された。 謙蓮社孝誉真善妙阿。字は葵堂。宗門功労者で、近代の代表的な高僧。現在の愛知県一宮市大赤見に山口安蔵の長男として生まれ、天保11年(1840年)三重県松阪市の樹敬寺にて梧雲のもとで出家得度し、俊敬と命名される。弘化元年(1844年)増上寺山下谷安祥室賢従の寮に入り修学、嘉永2年(1849年)増上寺において宗戒両脈を相承した。
海部 ハナ(かいふ ハナ、1831年9月16日(天保2年8月… 海部 ハナ(かいふ ハナ、1831年9月16日(天保2年8月11日) - 1919年(大正8年)6月30日)は、日本の染織家。阿波しじら織の創始者。 阿波国那賀郡平易村(現徳島県阿南市横見町)出身。幼い頃から機織りを得意とし、25歳のときに名東郡安宅村(徳島市安宅)の差し物大工・海部勝蔵に嫁いだ。嫁いでからも農業の傍ら内職として機織りをして家計を助けていた。その後、1866年(慶応2年)に阿波しじら織を創案し、各地で開かれる供進会、博覧会などに出品し、数多くの表彰を受けた。 しじら織は安部重兵衛らの宣伝と販売により有力な地場産業に発展した。また徳島市眉山町大滝山(眉山)には阿波しじら創製紀功碑が建てられている。
大久保 利通(おおくぼ としみち、文政13年8月10日〈18… 大久保 利通(おおくぼ としみち、文政13年8月10日〈1830年9月26日〉- 明治11年〈1878年〉5月14日)は、日本の政治家、武士(旧薩摩藩士)。幼名は正袈裟、通称は正助、一蔵、諱は利済、のち利通、号は甲東。位階・勲等は贈従一位勲一等。 明治維新の元勲であり、西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称され、「維新の十傑」のひとりでもある。初代内務卿で、内閣制度発足前の日本国政府(太政官)の実質的・事実上の初の日本の首相。 文政13年8月10日(1830年9月26日)、薩摩国鹿児島城下高麗町(現:鹿児島県鹿児島市高麗町)に、薩摩藩士・大久保利世と福の間に長男として生まれる。幼名は正袈裟(しょうけさ)。
前田 長禮(まえだ ながひろ、文政13年7月28日(1830… 前田 長禮(まえだ ながひろ、文政13年7月28日(1830年9月14日) - 1903年(明治36年)4月2日)は、江戸幕府の高家旗本で表高家。高家前田家の8代当主。高家役前田長徳の婿養子。通称は愿十郎。 文政13年7月28日(1830年9月14日)、肥前国唐津城内(現・佐賀県唐津市)で生まれる。幼名は鑑之助。実父は旗本御小性組小笠原頼母とされるが、内実は唐津藩主・小笠原長泰の三男。母は家女。 嘉永5年11月25日(1853年1月4日)、実子がなかった前田主馬長徳の婿養子となる。嘉永6年2月(1853年3月)、13代将軍徳川家慶に御目見し、表高家柳之間詰となる。慶応元年12月24日(1866年2月9日)、養父の家督を相続。
尾高 惇忠(おだか あつただ、文政13年7月27日〈1830… 尾高 惇忠(おだか あつただ、文政13年7月27日〈1830年9月13日〉 - 明治34年〈1901年〉1月2日)は、日本の豪農、志士、実業家。富岡製糸場の初代場長、第一国立銀行仙台支店支配人などを務めた。諱ははじめ惇孝(あつたか)、後に惇忠と改めた。惇忠の読みは「じゅんちゅう」とも。通称は新五郎、号は藍香(らんこう)。 岡部藩領の武蔵国榛沢郡下手計村(現・埼玉県深谷市下手計)に名主の尾高勝五郎保孝の子として生まれた。惇忠は幼少時から学問に秀で、自宅に私塾の尾高塾を開き、17歳から幕末の頃まで近郷の子弟たちを集めて漢籍などの学問を教えた。惇忠に教えを受けた一人が渋沢栄一である。惇忠の母・やへが栄一の父・渋沢市郎右衛門の姉であり、惇忠と栄一は従兄弟であった。
佐々木 久四郎(ささき きゅうしろう、文政10年7月13日〈… 佐々木 久四郎(ささき きゅうしろう、文政10年7月13日〈1827年9月3日〉- 1895年〈明治28年〉1月13日)は、明治時代の日本の政治家。宮城県黒川郡富谷村2代村長。宮城県第4大区小5区副戸長・宮城県第3大区小1区副戸長・富谷村初代助役を歴任した。位階は正七位。勲等は勲六等。 文政10年7月13日(1827年9月3日)、陸奥国黒川郡成田村(現在の富谷市西成田)に佐々木亀蔵の次男として生まれた。15歳のとき、成田村の佐々木弥右衛門の家を継ぎ、明治5年4月9日(1872年6月10日)の大区小区制施行時には宮城県第4大区小5区の副戸長を高橋運治と務めることになった。その後、村扱や戸長・土木委員・通信委員・学務係・小学校資産管理人等の役職に就いた。
玉乃 世履(たまの よふみ、文政8年7月21日(1825年9… 玉乃 世履(たまの よふみ、文政8年7月21日(1825年9月3日) - 1886年(明治19年)8月8日)は、日本の司法官。剛毅果断・清廉潔白な精神の持ち主で、裁判官としての公正な裁きにより、「明治の大岡」と称賛された。号は五龍。大審院長在職中に自殺した。通称は泰吉郎、東平。 この項目は、法曹に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
福住 正兄(ふくずみ まさえ、文政7年8月21日(1824年… 福住 正兄(ふくずみ まさえ、文政7年8月21日(1824年9月13日) - 明治25年(1892年)5月20日)は、日本の農政家、実業家。報徳仕法の研究・実践者。 文政7年(1824年)、相模国大住郡片岡村(現在の神奈川県平塚市片岡)にて大澤市左衛門の五男として生まれる。幼名は「政吉」。 文政10年(1827年)、親類の大住郡南金目村(現在の平塚市南金目)の名主、森勝五郎の養子となるが、養父母の死により実家に帰る。 天保元年(1830年、7歳のとき儒学者千賀桐陰の教えを受ける。政吉は当初、天保の大飢饉で疲弊した貧しい農民を救うべく医術の道を志していたが、「人を病を治す医者になるよりも、国の病を治す医者になるべし。
遠藤 温(えんどう おん、1823年9月1日(文政6年7月2… 遠藤 温(えんどう おん、1823年9月1日(文政6年7月27日)- 1896年(明治29年)6月4日)は、明治時代の政治家、弁護士。衆議院議員(1期)。 陸奥仙台藩領桃生郡深谷北村(宮城県桃生郡深谷村、北村、河南町を経て現石巻市)出身。上京し昌平黌に入り経史を修める。帰郷後は家業の醸造業に従事する傍ら、子弟教育に尽くす。1868年(明治元年)、藩政改革で多大な功績を上げ、藩世子の侍読と大番隊士に抜擢され、戊辰戦争で活躍する。会津戦争では会津藩赦免の嘆願に関与した。1869年(明治2年)昌平黌教授試補兼副舎長となり、同年5月、教授兼舎長に進み、7月、大学中助教となる。 1870年(明治3年)5月、仙台藩少参事に任じ、1871年(明治4年)4月、権大参事に進み、1875年(明治8年)2月、宮城県参事となった。
飯田 年平(いいだ としひら、文政3年8月6日〈1820年9… 飯田 年平(いいだ としひら、文政3年8月6日〈1820年9月12日〉 - 1886年〈明治19年〉6月26日)は、因幡国鳥取藩国学方、国学者である。 因幡国気多郡寺内町(現・鳥取県鳥取市)の加知弥神社祠官飯田秀雄の次男として生まれる。 秀雄が本居大平の門人であったため、年平も大平に従学、さらに加納諸平にも学んだ。その好学を鳥取藩主池田慶徳に認められ、万延元年(1860年)3月、士班に列して鳥取藩国学方雇となる。挙兵に失敗した天誅組の三枝蓊を屋敷に匿った。明治維新後は、まず史官となり、次いで神祗大史となる。その後、神祇大録・式部大属兼中掌典・神宮神嘗祭奉幣使・式部寮御用掛准奏任官などを歴任。 明治19年(1886年)6月26日、死去の際に従六位に叙された。
石井 忠行(いしい ただつら、文政元年8月26日(1818年… 石井 忠行(いしい ただつら、文政元年8月26日(1818年9月26日) - 1894年(明治27年)8月6日)は、江戸時代後期から明治時代にかけての著述家、旧久保田藩士。通称は弥五右衛門、雅号は伊頭園。 出羽国秋田郡久保田城下手形谷地町(現・秋田市手形新栄町)に生まれる。 1842年7月10日(天保13年6月3日)、忠行が数え25歳の時に父・忠潔が49歳で没する。 忠行は1863年(文久3年)、久保田藩の蝦夷地御持場見分御用出役として蝦夷地の増毛陣屋に赴任し、さらに大坂詰勘定吟味役や能代方同吟味役を歴任する。次いで財用奉行に栄進し、そのとき城下大堰端側、楢山本新町(通称裏町)の南角屋敷に移った。
敷田 年治(しきだ としはる、1817年9月1日(文化14年… 敷田 年治(しきだ としはる、1817年9月1日(文化14年7月20日)- 1902年(明治35年)1月30日)は、江戸時代末期(幕末)から明治時代に活動した国学者である。本姓は宮本、後に吉松に改姓。名は仲治。号は百園、百桃園等がある。通称は伊勢守もしくは主計之介。 豊前の宇佐郡敷田村(現・大分県宇佐市)にある二葉山神社の禰宜であった宮本兼継の次男として生まれる。1839年(天保10年)には同郡四日市町にある蛭子神社の禰宜一家であった吉松家の養子となり、後に帆足万里や渡辺綱章らから国学や漢学を学んだ。1846年(弘化2年)には従五位下に叙せられたことにより、出生地の姓を名乗る事が許され敷田姓に改姓する。
中沼 了三(なかぬま りょうぞう、 1816年9月6日(文化… 中沼 了三(なかぬま りょうぞう、 1816年9月6日(文化13年8月15日)- 1896年(明治29年)5月1日)は隠岐国周吉郡中村(現在の島根県隠岐の島町中村)出身の儒学者。名は之舜。了三は通称。字は魯仲。号は葵園(きえん)。贈正五位。 文化13年8月15日(1816年9月6日)隠岐国(島根県隠岐の島)で医師の中沼養碩、母テツの三男として生まれる。天保6年(1835年)京都に上り、山崎闇斎の流れを汲む崎門学派浅見絅斎の学統である鈴木遺音(恕平)の門下として儒学を学んだ。天保14年(1843年)、鈴木遺音の没後に葵園浅見安正の学統を承け、京都で開塾。学習院講師、孝明天皇の侍講となる。門人には西郷従道、桐野利秋、川村純義、千葉貞幹、松田重助らがあり、中沼塾は薩摩藩士が多く、竹村東野門下でもあった中岡慎太郎も西郷隆盛との接触を図り入門している。
水毛生 伊余門(みもう いよもん、文化12年(1815年)9… 水毛生 伊余門(みもう いよもん、文化12年(1815年)9月25日 - 明治23年(1890年)6月)は、幕末から明治時代にかけての農事指導者。石川県石川郡野々市村(現・野々市市)出身。荒地の開墾や養蚕の普及、寺子屋による教育活動などに尽力し、明治11年(1878年)に藍綬褒章を受章した 。 水毛生家は江戸時代から村役人を務めた家柄で、代々の当主は伊右衛門(伊余門)を名乗り、地域の指導者であると同時に文化人でもあった。屋敷は切妻妻入の農家形式に町家の要素を備える独特の構造であり、茶室「可夕亭」をはじめ京風の数寄屋造りが施されている。大正期には茶室の増築も行われ、庭園には加賀藩主前田利常が馬をつないだと伝わる大杉があった。
白石 照山(しらいし しょうざん、文化12年8月10日(18… 白石 照山(しらいし しょうざん、文化12年8月10日(1815年9月12日) - 1883年10月3日)は、江戸時代後期の儒学者、漢学者。初名は牧太郎、通称は五郎右衛門、のちに常人。雅号は照山、または素山。名は牧。字は伯羊。 中津藩の下士で祐筆の久保田武右衛門(号は勇閑)の長男として生まれるが、白石団右衛門の養子となる。藩校・進脩館は上士の子弟でなければ入学できない風潮となっていたため、進脩館の教授野本白巌の私塾で学び、その優秀さから藩校に推薦された。同校では若くして督学に任命された。 1838年(天保9年)督学の職を辞して江戸に上り、はじめは古賀侗庵に師事し、翌年に昌平黌に入学する。その優秀さから、書生を牽引する役職である斎長詩文掛に任じられた。
菅野 八郎(かんの はちろう、文化7年8月5日〈1810年9… 菅野 八郎(かんの はちろう、文化7年8月5日〈1810年9月3日〉 - 明治21年〈1888年〉1月2日)は、岩代国梁川代官所管内の金原田村および八丈島を拠点に活動した百姓、民衆思想家。通称は金原田 八老、また単に八老とも。
魚住 樂處(うおずみ らくしょ、文化6年9月(1809年) … 魚住 樂處(うおずみ らくしょ、文化6年9月(1809年) - 明治8年(1875年)2月)は、江戸時代後期の儒学者(朱子学派)。明治時代の教育者、政治家。名は明識(「名誠」との記載もあり)。字(あざな)は明晶。通称は三郎八。樂處はその号。福岡藩藩儒。 魚住明倫の子として筑前国に生まれる。藩校修猷館に学ぶ。 天保5年(1834年)修猷館指南加勢見習となり、天保14年(1843年)郡代となる。嘉永3年(1850年)致仕する。 慶応元年(1865年)勤王の国事に奔走したため、志士と共に禁錮せらること3年。明治2年(1869年)抜擢されて修猷館の文学教授兼伴読となり、明治4年(1871年)藩政に参画し、福岡藩権大参事に任ぜられる。
原口 針水(はらぐち しんすい、文化5年8月3日〈1808年… 原口 針水(はらぐち しんすい、文化5年8月3日〈1808年9月22日〉 - 1893年〈明治26年〉6月12日)は、幕末から明治時代の浄土真宗の僧である。 肥後の山鹿郡内田村(現在の熊本県山鹿市)光照寺の密道の子として生まれ、幼年期から筑前の博多にある万行寺の住職だった曇龍の門人となる。後に彼から真宗学を学んだが、その後の1862年(文久2年)には本願寺の命令によりキリシタンの隆盛地だった長崎へ赴き、1863年(文久3年)には宣教師のチャニング・ウィリアムズ(立教大学創設者)とグイド・フルベッキからキリスト教の教義を学んだ。 しかし明治維新後の1872年(明治5年)に大教院の教導職にあたったことで、自身が学んだ経験のあるキリスト教を排撃する。