齋藤 俊吉(さいとう しゅんきち、1873年(明治6年)12… 齋藤 俊吉(さいとう しゅんきち、1873年(明治6年)12月 - 1945年(昭和20年))は、日本の工学者。専門は繊維工業。元東京工業大学紡織学科主任教授。 1894年東京工業学校(現東京工業大学)化学工芸部染織工科卒業。1896年東京工業学校助教授着任。1902年から1906年まで文部省外国留学生としてイギリス及びドイツ帝国へ留学し、毛紡織研究を行った。 1906年東京高等工業学校教授に昇格。1929年東京高等工業学校の大学昇格に伴い東京工業大学附属工学専門部教授に就任し、のち東京工業大学紡織学科主任教授となった。1930年臨時産業合理局国産品愛用委員会委員。1939年蔵前工業会理事長。長女年子は陸軍中将北島熊男の妻。
藤井 利誉(ふじい としたか、明治5年12月2日(1872年… 藤井 利誉(ふじい としたか、明治5年12月2日(1872年12月31日) - 昭和20年(1945年)12月30日)は、日本の教育者。 福島県出身。1901年(明治34年)、東京高等師範学校文科を卒業。福島県師範学校教諭、福井県師範学校教諭、東京女子高等師範学校教授・附属小学校主事を歴任。1916年(大正5年)、欧米諸国に留学。帰国後、東京女子高等師範学校附属高等女学校主事に任命された。1924年(大正13年)、東京市に転じ、教育局学務課長・視学課長、教育局長を歴任した。 1934年(昭和9年)に退官後も帝国教育会理事を務めた。
安西 直一(あんざい なおいち、明治5年12月2日(1872… 安西 直一(あんざい なおいち、明治5年12月2日(1872年12月31日) - 昭和28年(1953年)9月7日)は、日本の実業家、政治家。千葉県会議長。日本養鮑(名)社長。東京瓦斯会長を務めた安西浩は長男。昭和電工社長を務めた安西正夫は次男。孫に東京瓦斯相談役を務めた安西邦夫や実業家の安西孝之などがいる。 千葉県夷隅郡清海村(のち興津町、現勝浦市)出身。父・八郎兵衛は漁師だった。後に次男安西正夫と森矗昶長女の満江が結婚して安西家と森家は親族同士となるが、正夫・満江それぞれの祖父である八郎兵衛・森為吉両人とも、勝浦の有力な網元だった(安西浩#安西家も参照)。 二松學舍修業。日露役に従軍する。郡会議長、県参事会員同議長町長。
岡田 宇之助(おかだ うのすけ、1872年12月30日(明治… 岡田 宇之助(おかだ うのすけ、1872年12月30日(明治5年12月1日) - 1949年(昭和24年)10月17日)は、日本の内務官僚。官選県知事。旧姓・原。 兵庫県出身。原丈之助の弟として生まれ、岡田家の養子となる。第三高等学校を卒業。1896年、東京法学院(現・中央大学)を卒業。1897年12月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し内務属となる。 以後、島根県参事官、長野県参事官、同事務官・第一部長兼第三部長、愛媛県事務官、同内務部長などを歴任。 1912年12月、茨城県知事に就任。青柳橋の架橋、水海道分署新築、御大礼記念教育館建設、県道整備計画の策定などに尽力。1917年1月、佐賀県知事に転任。
筧 克彦(かけい かつひこ、1872年12月28日〈明治5年… 筧 克彦(かけい かつひこ、1872年12月28日〈明治5年11月28日〉 - 1961年〈昭和36年〉2月27日)は、日本の法学者、神道思想家。東京帝国大学法学部教授、國學院大學教授。従三位勲二等法学博士。長野県諏訪出身。 諏訪大社のある筑摩県諏訪郡上諏訪(現・長野県諏訪市)に旧諏訪藩士筧朴郎の長男として生まれる。東京府尋常中学校、第一高等学校を経て、帝国大学法科大学入学。1897年(明治30年)、帝国大学法科大学法律学科首席卒業、法科大学卒業生総代。同期生には美濃部達吉(政治学科)など。大学卒業後直ちに大学院に入り、翌1898年から6年間ドイツに留学して、オットー・フォン・ギールケ、アドルフ・フォン・ハルナック、ヴィルヘルム・ディルタイなどに師事した。
宮地 久寿馬(みやぢ くすま、1872年12月25日〈明治5… 宮地 久寿馬(みやぢ くすま、1872年12月25日〈明治5年11月25日〉 - 1945年9月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1872年(明治5年)、高知城下大川筋(現在の高知市)に生まれた。海南中学校(現在の高知県立高知小津高等学校)を経て、1894年(明治27年)7月、陸軍士官学校(5期)を卒業。同年9月、歩兵少尉に任官。1902年(明治35年)11月、陸軍大学校(16期)を卒業した。 堺連隊区司令官などを経て、1915年(大正4年)8月、歩兵大佐に昇進し歩兵第68連隊長に就任。1917年(大正6年)8月、第1師団参謀長となり、中支那派遣隊司令官に転じ、1919年(大正8年)4月、陸軍少将に進級。
戸叶 薫雄(とかの よしお / しげお、1872年12月24… 戸叶 薫雄(とかの よしお / しげお、1872年12月24日(明治5年11月24日)- 1917年(大正6年)9月26日)は、明治後期から大正期の新聞編集者、実業家、政治家。衆議院議員。旧名・初五郎。田中正造の後継者と目された人物。 栃木県安蘇郡長谷場村(野上村長谷場、田沼町を経て現佐野市長谷場町)で、戸叶庄造の長男として生まれる。1885年(明治18年)2月、家督を相続し薫雄に改名した。栃木師範学校で学んだが教師と対立して退校。1896年(明治29年)自由民権思想の普及のため政治小説『想夫恋』を出版。1898年(明治31年)7月、東京法学院(前身英吉利法律学校、現中央大学)を卒業し、1899年(明治32年)7月、日本法律学校(現日本大学)を卒業した。
走り坊主または走り坊さん(はしりぼうず、はしりぼんさん、18… 走り坊主または走り坊さん(はしりぼうず、はしりぼんさん、1872年12月20日〈明治5年11月20日〉 - 1918年〈大正7年〉11月20日)は、日本の僧である。明治・大正時代の京都市中を阿弥陀如来の使いとして一日中走るという奇行で知られた。本名は新田 常治(にった つねじ)、法名を旗 玄教(はた げんきょう)。「走り坊主の常さん」の通称で親しまれた。 師僧は大蓮寺18世芳井教岸大僧正で、旗姓は同師の旧姓。 出身地は、和泉国泉南郡清児村(現・大阪府貝塚市清児)。18歳で京都の大蓮寺に弟子入りする。当時の大蓮寺は、京都市下京区佛具屋町五条通下るの地に在ったが、第二次大戦中の五条通拡幅に伴い、左京区岡崎の地に移転している。
上原 平太郎(うえはら へいたろう、1872年12月20日(… 上原 平太郎(うえはら へいたろう、1872年12月20日(明治5年11月20日)- 1950年(昭和25年)10月8日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。衆議院議員。 香川県香川郡一宮村(現高松市)で上原秀次郎の長男として生まれる。1896年5月27日、陸軍士官学校(7期)を卒業し、1897年1月25日、陸軍歩兵少尉に任官。義和団の乱、日露戦争に出征。陸軍大学校(17期)で学び、1903年11月28日に卒業した。 以後、参謀本部部員、陸軍大学校教官、第4師団参謀、歩兵第62連隊長、第11師団参謀長、陸軍航空部附、航空部員などを歴任。1921年7月20日、陸軍少将に進み近衛歩兵第1旅団長に就任。
大野 洒竹(おおの しゃちく、明治5年11月19日(1872… 大野 洒竹(おおの しゃちく、明治5年11月19日(1872年12月19日) - 大正2年(1913年)10月12日)は、俳人、医師。明治時代の大蒐書家として知られる。 弥富村 (熊本県)出身、本名は豊太。7歳より東京で育つ。一高を経て、東京帝国大学医学部で土肥慶蔵に師事。 一高時代に正岡子規に誘われ句会に入り、東大在学中の明治27年(1894年)、佐々醒雪、笹川臨風らと筑波会を結成。明治28年(1895年)には、尾崎紅葉、巖谷小波、森無黄、角田竹冷らとともに正岡子規と並ぶ新派の秋声会の創設に関わった。明治30年(1897年)、森鷗外に先駆けて『ファウスト』の部分訳を公表している。 大学卒業後に性病専門の大野病院を京橋にて開業し、患者が門前に群れを成すほど繁盛した。
勝俣 銓吉郎(かつまた せんきちろう、明治5年11月18日(… 勝俣 銓吉郎(かつまた せんきちろう、明治5年11月18日(1872年12月18日) - 1959年(昭和34年)6月4日)は日本の英学者。早稲田大学名誉教授、富士短期大学初代学長。 神奈川県箱根出身。小学校を中退し、横浜郵便局に勤務しながら横浜英和学校で英会話を学んだ。上京して国民英学会に学んだ後、ジャパンタイムズに就職して英作文を研鑽した。東京府立第四中学校、三井鉱山勤務を経て、早稲田大学教授となり、ジャパン・ツーリスト・ビューロー、横浜市立横浜商業専修学校、英語教授研究所に兼務した。終戦直後は行政機関で翻訳に従事し、戦後立正大学教授、富士短期大学学長を務めた。 連語を重視し、長年ノートに用例を書き溜め、『英和活用大辞典』を編纂した。
武本 喜代蔵(たけもと きよぞう、1872年12月16日(明… 武本 喜代蔵(たけもと きよぞう、1872年12月16日(明治5年11月16日) - 1956年(昭和31年)6月26日)は日本の牧師、巡回伝道者である。 1872年(明治5年)鳥取県倉吉市に生まれる。1889年(明治22年)に日本組合基督教会の倉吉講義所(倉吉教会)でアメリカンボードのJ・H・ペティより洗礼を受ける。キリスト教徒になったことによる、家族の迫害を避けて、津山、岡山、倉敷に流転する。 1890年(明治23年)頃松江市で英国聖公会の宣教師B・F・バックストンに会い、バックストンに導かれ直接献身を決意するより、その後、バックストンと出雲地方での伝道を開始する。 1903年(明治36年)に日本組合基督教会の牧師に就任し、広島教会で牧会をする。
武田 五一(たけだ ごいち、1872年12月15日〈明治5年… 武田 五一(たけだ ごいち、1872年12月15日〈明治5年11月15日〉 - 1938年〈昭和13年〉2月5日)は、日本の建築家・建築学者。京都帝国大学建築学科創設者で、関西建築界の父といわれる。アメリカの著名建築家フランク・ロイド・ライトを日本に紹介した人物でもある。 小田県福山(現・広島県福山市)出身。「関西建築界の父」とも言われる日本の建築家。ヨーロッパ留学で影響を受けたアール・ヌーボー、セセッションなど、新しいデザインを日本に紹介した建築家とも言われる。建築以外にも工芸や図案・テキスタイルデザインなども手掛けた。自身の作品のみならず、京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)図案科や京都帝国大学(現・京都大学)に工学部建築学科を創立し向井寛三郎・瀧本義一など多くの後進を育成した。
佐々木 吉三郎(ささき きちさぶろう、明治5年11月15日(… 佐々木 吉三郎(ささき きちさぶろう、明治5年11月15日(1872年12月15日) – 大正13年(1924年)11月20日)は、日本の教育学者。 宮城県大崎市出身。宮城県師範学校を経て、1899年(明治32年)に東京高等師範学校を卒業。東京高等師範学校附属小学校訓導、東京高等師範学校助教授、同教授を歴任した。1907年(明治40年)から1909年(明治42年)までドイツに留学。帰国後、東京高等師範学校教授・同附属小学校主事を務めた。 その後、東京市視学、同学務課長に就任した。
関口 孝五郎(せきぐち こうごろう、明治5年11月14日〈1… 関口 孝五郎(せきぐち こうごろう、明治5年11月14日〈1872年12月14日〉 - 1953年〈昭和28年〉6月6日)は、明治から昭和にかけての日本の柔道家、柔道整復師。柔道範士、講道館八段を有し、群馬県の柔道の先駆者となった。長男・林五郎、次男・恒五郎はともに柔道八段。 明治5年(1872年)、群馬県西群馬郡中郷村(現・渋川市中郷)の農家に、父儀平治、母タケの長男として生まれる。1877年(明治15年)、渋川町の田子亀之丞に入門し、荒木霞新流柔術を習った。1896年(明治29年)に上京し、講道館に入門。 1900年(明治33年)に群馬県に帰り、前橋市曲輪町(現・千代田町)に嘉納治五郎命名による道場・弘道館を開く。
阿部 守太郎(あべ もりたろう、明治5年11月10日(187… 阿部 守太郎(あべ もりたろう、明治5年11月10日(1872年12月10日) - 大正2年(1913年)9月6日)は、日本の外交官、外務省政務局長。対中国強硬論者に暗殺された。妻の生は末弘直方の次女。 大分県下毛郡桜洲村(現在の中津市)出身。第三高等中学校を経て、1896年(明治29年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業した。同年、高等文官試験に合格し、大蔵属として主計局、理財局、主税局に勤務した。翌1897年(明治30年)、外務書記官に転じ、通商局第二課長心得となった。1899年(明治32年)、参事官に昇進し、翌年からは加藤高明外務大臣の秘書官も兼任した。1901年(明治34年)、イギリス公使館二等書記官となり、1905年(明治38年)からは清国公使館一等書記官を務めた。
樋口 虎若(ひぐち とらわか、明治5年11月10日(1872… 樋口 虎若(ひぐち とらわか、明治5年11月10日(1872年12月10日) – 1958年(昭和33年)6月4日)は、日本の医師。愛媛県宇和島市長。 愛媛県北宇和郡吉田町(現在の宇和島市)に吉田藩士の子として生まれた。1894年(明治27年)、第三高等中学校医学部を卒業し、翌年に陸軍三等軍医となった。一等軍医に昇進するが、辞して1900年(明治33年)に宇和島に耳鼻咽喉科医院を開業した。また宇和島市会議員、北宇和郡会議員、同副議長などを歴任した。 1938年(昭和13年)に宇和島市長に就任したが、翌年5月政党の対立抗争を嫌って退任した。
竹上 常三郎(たけがみ つねさぶろう、1872年12月9日〈… 竹上 常三郎(たけがみ つねさぶろう、1872年12月9日〈明治5年11月9日〉- 没年不詳)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級。旧姓・大橋。 茨城県、後の古河町(現古河市)出身。大橋力蔵の二男として生まれ、竹上寅吉の養子となり家督を相続した。 1894年(明治27年)7月、陸軍士官学校(5期)を卒業し、同年9月、陸軍歩兵少尉に任官。1897年(明治30年)12月、陸軍大学校(14期)に入学し、1900年(明治33年)12月に卒業して士官学校に配属された。日露戦争では第7師団参謀として出征した。 以後、第17師団参謀などを経て、1914年(大正3年)8月、歩兵大佐に進み陸軍省人事局補任課長に就任。
古川 尭道(ふるかわ ぎょうどう、明治5年11月9日(187… 古川 尭道(ふるかわ ぎょうどう、明治5年11月9日(1872年12月8日) - 昭和36年(1961年))は、明治・大正・昭和期の臨済宗の僧。島根県簸川郡出東村の生まれ。出家後しばらくは本名の古川慧訓を通す。号は尭道。室名は毒狼窟。
中條 資俊(ちゅうじょう すけとし、なかじょう すけとし、明… 中條 資俊(ちゅうじょう すけとし、なかじょう すけとし、明治5年11月7日(1872年12月7日) - 昭和22年(1947年)3月1日)は、日本の医師・ハンセン病研究者。医学博士。北部保養院(国立療養所松丘保養園)院長、園長。 1872年11月7日 山形県南置賜郡塩井村(現・米沢市)に生まれる。幼名竹田留吉。1897年 第一高等学校医学部に入学。数え年26歳。1900年 中條家に養子となり、長女ハルと結婚。1901年 千葉医学専門学校卒業。1902年 医術開業免状下付。県立千葉病院医員。1903年 慰廃園嘱託医。1904年 伝染病研究所助手。1909年4月1日 青森県より北部保養院医長同月25日に院長を命じられる。
塚本 清治(つかもと せいじ、1872年12月5日〈明治5年… 塚本 清治(つかもと せいじ、1872年12月5日〈明治5年11月5日〉- 1945年〈昭和20年〉7月11日)は、明治から昭和にかけての内務官僚・政治家。 兵庫県揖東郡旭陽村(現在の姫路市)出身。初めは河田姓を名乗っていたが、1884年(明治17年)に塚本家の養子に入った。第三高等学校を経て東京帝国大学法科大学を卒業、1902年(明治35年)11月の高等文官試験に合格した。 初め東京府職員であったが、翌年には内務省に移籍して、以後1915年(大正4年)に神社局長、1920年(大正9年)に地方局長、1922年(大正11年)に社会局長を務め、1923年(大正12年)の第2次山本内閣成立と同時に内務次官に任じられた。
横山 健堂(よこやま けんどう、1872年12月5日(明治5… 横山 健堂(よこやま けんどう、1872年12月5日(明治5年11月5日) - 1943年(昭和18年)12月24日)は、日本の評論家。 山口県出身。本名は達三。東京帝国大学卒。明治41年(1908年)から黒頭巾の名で『読売新聞』に「新人国記」を連載した。維新史などの評論を書き、のち駒澤大学教授。子は俳人・医師の横山白虹。孫は俳人の寺井谷子。 長州藩に伝わる専當流を学んでいた。
武島 羽衣(たけしま はごろも、明治5年11月3日(1872… 武島 羽衣(たけしま はごろも、明治5年11月3日(1872年12月3日) - 昭和42年(1967年)2月3日)は日本の詩人、国文学者、作詞家。宮内省御歌所寄人。本名・武島 又次郎。
野崎 小十郎(のざき こじゅうろう、1872年12月2日(明… 野崎 小十郎(のざき こじゅうろう、1872年12月2日(明治5年11月2日) - 1946年(昭和21年)4月21日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。日本海海戦における第5戦隊参謀である。 高知県安芸郡馬ノ上村(現・芸西村)に野崎百弥太の長男として生まれる。 その後海南中学校を経て海軍兵学校(21期)を卒業。大尉時代に北清事変に出動し、少佐時代には日露戦争に参戦した。戦後海軍大学校(甲種5期)を卒業。横須賀鎮守府参謀、横須賀海軍工廠検査役、「新高」、「生駒」、「金剛」の各艦長、臨時南洋群島防備隊司令官などを歴任し海軍少将に任官した。位階勲等は従四位勲二等。功五級金鵄勲章を受章。 退役後には、碑衾町長(現在の目黒区)や玉川計器製作所の監査役を務めている。
菱刈 隆(ひしかり たか、1871年12月27日(明治4年1… 菱刈 隆(ひしかり たか、1871年12月27日(明治4年11月16日) - 1952年(昭和27年)7月31日)は、日本陸軍の軍人、外交官。最終階級は陸軍大将。栄典は勲一等功五級。幼名、幸吉。
山下 芳太郎(やました よしたろう、1871年12月24日(… 山下 芳太郎(やました よしたろう、1871年12月24日(明治4年11月13日) - 1923年4月7日)は、日本の実業家、言語政策研究家、外交官である。 漢字は非能率的であると考え、改良カナ文字とカナ文字タイプライターの普及をめざした。遺書も墓もカタカナで書かれている。 山下興作の長男として愛媛県に生まれた。旧制高松中学校(後の香川県立高松高等学校)、旧制松山中学校(後の愛媛県立松山東高等学校)を経て、1892年7月に東京高等商業学校(後の一橋大学)を卒業した。1917年(大正6年)2月に家督を相続している。 1893年(明治26年)12月から外務省につとめ、領事館書記生および領事事務代理としてボンベイで、副領事としてリヨンおよびロンドンで働いた。
山田 宗美(やまだ そうび、1871年12月23日(明治4年… 山田 宗美(やまだ そうび、1871年12月23日(明治4年11月12日) - 1916年(大正5年)3月15日)は、石川県江沼郡大聖寺町鍛治町(現在の加賀市)出身の鍛金家。本名は山田長三郎。 1871年12月23日(明治4年11月12日)、石川県江沼郡大聖寺町鍛治町(現在の加賀市)の武具鍛冶師の家に生まれた。 父の山田宗光に象嵌や打出しの技術を学んだ後、1891年(明治24年)には一枚の薄い鉄板から立体の花瓶や置物を打出す独自の技術を編み出した。宗美は極めて高度な鉄打出しの技術を有しており、「宗美の先に宗美なく、宗美のあとに宗美なし」と言われた。美術史家の大村西崖は著書『東洋美術史』の中で「鎚起には加賀の山田長三郎宗美あり、自ら鉄を用いよく動物の全形を鎚起し空前の奇巧を示した」と記している。
吉富 璣一(よしとみ きいち、明治4年11月10日(1871… 吉富 璣一(よしとみ きいち、明治4年11月10日(1871年12月21日) - 昭和4年(1929年)4月11日)は、日本の実業家。 山口県吉敷郡山口町生まれ。1895年高等商業学校(現一橋大学)卒業。1911年に三井物産を退社し、北海電化工業社長、東京金物商会社長、日魯漁業取締役、長州鉄道監査役、相模鉄道監査役などを務めた。 妻は吉敷郡会議員を務めた山内唯五郎の妹。浅野順一青山学院大学名誉教授は甥。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
永井 作次(ながい さくじ、1871年12月21日(明治4年… 永井 作次(ながい さくじ、1871年12月21日(明治4年11月10日) - 1930年(昭和5年)6月5日)は、日本の政治家、法律家、実業家。衆議院議員、鹿児島座社長、九州電力(旧鹿児島電気)社長。従七位。 1871年(明治4年)11月に鹿児島県諸県郡、のちの宮崎県北諸県郡都城町(現都城市)で生まれた。 1894年(明治27年)、和仏法律学校(現・法政大学)邦語法律科を卒業する。 鹿児島地方裁判所検事・鹿児島区裁判所検事をつとめ、退官後弁護士となる。 鹿児島座(1912年(大正1年)完成、1913年(大正2年)1月1日開場)の社長に就任する。九州で初めて専属の少女歌舞伎団「若葉会」を擁し、少女歌舞伎を常打ちした他、東京から一流の芸人を招いて、歌舞伎・新派・浪曲・義太夫・講談・落語・奇術などの興行を行った。
児玉 謙次(こだま けんじ、1871年12月18日(明治4年… 児玉 謙次(こだま けんじ、1871年12月18日(明治4年11月7日) - 1954年(昭和29年)2月13日)は、日本の実業家。 香川県高松市生まれ。高等商業学校附属外国語学校(のちの東京外国語学校)を経て、1892年高等商業学校(一橋大学の前身)卒。 会計検査院に勤務し、1893年横浜正金銀行(のちの東京銀行)入行。1922年同頭取。大蔵省顧問、中支那振興株式会社総裁、貴族院議員(1939年8月28日任命)などを歴任。1945年終戦連絡事務局総裁。1946年5月14日、貴族院議員を辞職した。 1954年2月13日歿。行年84歳。墓所は染井霊園1-イ-4-7。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。
西沢 定吉(にしざわ さだきち、明治4年11月4日(1871… 西沢 定吉(にしざわ さだきち、明治4年11月4日(1871年12月15日) - 昭和16年(1941年)9月24日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、天童町長。 山形県西村山郡大谷村(現在の朝日町)出身。1890年(明治23年)、宮城農学校(現在の宮城県農業高等学校)を卒業。翌年、専修学校(現在の専修大学)理財科に入学し、1893年(明治26年)に卒業した。 1900年(明治33年)より郡農会議員・県農会議員を務め、1903年(明治36年)には県会議員・東村山郡会議員に選出された。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。4期務めた(第10回、第14回、第15回、第17回)。
尼ヶ嵜 清吉(あまがさき せいきち、1871年12月14日〈… 尼ヶ嵜 清吉(あまがさき せいきち、1871年12月14日〈明治4年11月13日〉 - 1947年〈昭和22年〉3月4日)は、現在の大阪府大阪市西淀川区出身で高砂部屋に所属した力士。本名は半田 清吉。10代振分、12代間垣。170cm、79kg。最高位は西小結。 大阪府下西成郡福村(現在の大阪市西淀川区)の鮮魚商の家に生まれる。宮相撲で活躍し、宮相撲仲間の兄が尼崎に居住していて入門時に世話となったため尼ヶ崎と名乗る。 1896年1月初土俵(序ノ口)、この時24歳と晩成であった。相撲名人と呼ばれた逆鉾与治郎から押し相撲の極意を教わり開花。好成績を続け1899年5月新十両、1900年1月新入幕。大砲万右エ門と2度の引分を演じ、1908年1月に36歳の高齢で小結昇進。
高橋 貞三郎(たかはし ていざぶろう、 1871年12月12… 高橋 貞三郎(たかはし ていざぶろう、 1871年12月12日〈明治4年11月1日〉 - 1934年〈昭和9年〉2月26日)は、明治から昭和期の実業家。三井物産大阪支店長を務めたほか、富士製紙(現在の王子製紙)専務取締役、樺太鉄道取締役、東京金鋼、北海道電灯などの重役を歴任した。 岡山県後月郡高屋町(現在の井原市)出身。 東京へ出て、築地の立教学校(現在の立教大学)で学ぶ。24歳の時にアメリカに留学し、イェール大学を卒業した。イェールの記録では、1897年に立教に学び、1900年よりイェールの大学院で社会科学を専攻、1901年に修士号を取得した。 帰国後1902年に三井物産に入社し、1913年(大正2年)には同社大阪支店長に就任した。
大瀧 新之助(おおたき しんのすけ、1871年12月9日〈明… 大瀧 新之助(おおたき しんのすけ、1871年12月9日〈明治4年10月27日〉 - 没年不明)は、日本の弁護士、実業家。族籍は京都府士族。 旧米沢藩士・大瀧忠徳の長男。1899年、東京帝国大学法科大学英法科を卒業、法学士の学位を得る。1900年、家督を相続する。 弁護士を開業し、京都市に於いて訴訟事務に従事する。傍ら会社の重役である。東亜組社長、昭和電球相談役、山城銀行取締役、京都精米、山城銀行、日本硬化煉瓦各監査役などをつとめる。 趣味は囲碁、俳句、書画。宗教は禅宗。住所は京都市上京区寺町通今出川上ル。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
磯貝 一(いそがい はじめ、1871年12月8日(明治4年1… 磯貝 一(いそがい はじめ、1871年12月8日(明治4年10月26日) - 1947年(昭和22年)4月19日)は、日本の柔道家。段位称号は講道館柔道十段、大日本武徳会柔道範士。講道館柔道殿堂。 延岡藩藩士で関口流柔術家にして柔道教士の磯貝恒久の長男として、現在の宮崎県延岡市に生まれる。 1891年(明治24年)上京し講道館に入門する。 1893年(明治26年)京都の第三高等学校の嘱託柔道教師となる。 1899年(明治32年)、大日本武徳会柔道教授に就任。 1913年(大正2年)4月、大日本武徳会柔道範士の称号を授与される。 1923年(大正12年)12月22日、永岡秀一と共に、当時の生存者としては初の十段に昇進した。
正木 義太(まさき よしもと、1871年12月7日(明治4年… 正木 義太(まさき よしもと、1871年12月7日(明治4年10月25日) - 1934年(昭和9年)10月29日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 広島県佐伯郡玖波村(現・大竹市玖波)の豪農正木富次と長谷川シモの次男として生まれる。正木家は伊予松前城発祥の家系で、関ヶ原の戦い後福島正則の家臣となったが、改易されたため帰農した。父の富次は、同町の正則後裔という福島家から正木庄蔵の養子となっている。 (明治27年)11月、海軍兵学校(21期)を卒業し、少尉候補生として「大和」に乗り組み日清戦争に出征。1895年(明治28年)12月に海軍少尉に任官し佐世保鎮守府海兵団分隊士となる。 1899年(明治32年)9月、「比叡」分隊長兼航海長(豪州回航)となり、「鳥海」分隊長、同航海長、呉水雷団第2水雷艇隊艇長、「橋立」分隊長、艦政本部副官などを歴任。
土井 晩翠(どい ばんすい、1871年12月5日〈明治4年1… 土井 晩翠(どい ばんすい、1871年12月5日〈明治4年10月23日〉 - 1952年〈昭和27年〉10月19日)は、日本の詩人、英文学者。本名、土井 林吉(つちい りんきち)。 詩風は男性的な漢詩調で、女性的な詩風だった島崎藤村(『若菜集』など)と並んで「藤晩時代」と称された。また、瀧廉太郎の作曲で知られる『荒城の月』の作詞者としても知られ、校歌・寮歌なども多く作詞した。戦陣訓の文校正でも知られる。英文学者として、ホメーロス、カーライル、バイロンなどを翻訳している。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 1871年(明治4年)、仙台県仙台の北鍛治町(現在の宮城県仙台市青葉区木町通2丁目)に、富裕な質屋の土井林七、あいの長男として生まれた。
熊谷 三太郎(くまがい さんたろう、1871年12月5日(明… 熊谷 三太郎(くまがい さんたろう、1871年12月5日(明治4年10月23日) - 1951年(昭和26年)5月1日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。旧姓は藤原。 福井県敦賀市阿曾出身。福井市の熊谷げんの養子となる。福井県立中学校を修了する。1898年(明治31年)宿布発電所の土木工事を請け負う。1907年(明治40年)中尾発電所工事で飛島組の下請けとなり、1926年(大正15年)飛島組取締役に就任。1938年(昭和13年)熊谷組を創立した。この間、1925年(大正14年)福井市会議員、同議長、福井県会議員などを歴任。ほか、熊谷組会長、第五十七銀行、中越銀行各頭取、敦賀セメント社長などを務めた。
三谷 一二(みたに いちじ、1871年12月4日(明治4年1… 三谷 一二(みたに いちじ、1871年12月4日(明治4年10月22日)- 1965年(昭和40年)10月26日)は、日本の政治家、銀行員、実業家。第2代三菱鉱業会長を経て、第4代福山市長(1期)を務めた。 福山県沼隈郡山手村(現・広島県福山市山手町)に生まれる。1889年(明治20年)4月12日、広島県福山中学校(現・広島県立福山誠之館高等学校)初等科第四級を修了。1896年(明治29年)に高等商業学校(現・一橋大学)を卒業し、三菱合資会社銀行部に入社。 1900年(明治33年)、義和団の乱に出征。1904年(明治37年)、日露戦争に出征。その後、三菱合資会社銀行部上海支店長、長崎支店長兼唐津支店長、東京本社営業部石炭課長兼東京支店長などを務めた。
右田 アサ(みぎた アサ、1871年12月4日〈明治4年10… 右田 アサ(みぎた アサ、1871年12月4日〈明治4年10月22日〉 - 1898年〈明治31年〉8月5日)は、日本の医師、日本で最初の女性眼科医。別名は右田朝子。30歳に満たない年齢で早世したため、医師としての活動期間は短いが、平成期に記念碑が発見され、その存在が明らかとなって以降、「日本初の女性眼科医」として顕彰の気運が高まっている。 浜田県美濃郡益田村(後の島根県益田市)の寺井家で誕生した。7歳のとき、益田村の名家である右田家の養女となった。当時より、一度決断したことをやり抜く意志の持ち主であった。且つ聡明で、小学校では上等組の男子よりも良い成績を収めた。卒業後も私塾に通い、男子に混ざって勉学に励んだ。
廣田 精一(ひろた せいいち、広田 精一、1871年12月2… 廣田 精一(ひろた せいいち、広田 精一、1871年12月2日〈明治4年10月20日〉 - 1931年〈昭和6年〉1月25日)は、日本の教育者。工学博士。私立電機学校(現・東京電機大学)、神戸高等工業学校(現・神戸大学大学院工学研究科・工学部)設立者。出版事業者、オーム社設立者。廣田理太郎の弟。広島県福山市字桜町出身。 廣田家は代々、備後福山藩の勘定係を務めた家系。1896年(明治29年)東京帝国大学工科大学を卒業。高田商会に入社し同社在籍のままドイツシーメンス・ハルスケに入社。帰国後の1907年(明治40年)、まだ工業後進国だった日本の工業の発展を願い 「後世、科学技術の総本山たらん」と電気技術者育成に扇本眞吉と東京神田に夜間学校・私立電機学校(現・東京電機大学)を設立した。
山口 治作(やまぐち じさく、1871年12月 - 没年不詳… 山口 治作(やまぐち じさく、1871年12月 - 没年不詳)は日本の銀行家。旧北海道銀行頭取。 1871年12月、富山県に山口孫八郎の次男として生まれ、1899年に家督を相続する。1894年に和仏法律学校邦語法律科(法政大学)を卒業し、日本銀行に入る。1918年に北海道銀行に移り、専務取締役に就任する。 北海道銀行頭取に就任後、1928年に金融恐慌で経営難になった百十三銀行と吸収合併し、新銀行の頭取に就任する。1932年、昭和恐慌による北海道銀行の経営難の責任を取って頭取を辞任する。なお、北海道銀行は1942年に一県一行主義という統制下のもと北海道拓殖銀行に吸収合併された。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。
山本 昇雲(やまもと しょううん、明治3年11月9日〈187… 山本 昇雲(やまもと しょううん、明治3年11月9日〈1870年12月30日〉 - 昭和40年〈1965年〉5月10日)は、明治時代から大正時代にかけて制作した浮世絵師で日本画家、石版画家で報道画家。名は茂三郎といい、昇雲のほか小斎、松谷と号す。 出身は高知県長岡郡後免町(現・南国市)、生家の古物商は江戸時代、旧土佐藩の郷士であった。二男として生まれた山本茂三郎が6歳頃から師事した柳本圭吾(号「洞素」)は駿河台狩野家・狩野洞白の門人で、元は山内家の御抱絵師も勤めた絵師である。9歳になる明治12年(1879年)に、柳本の斡旋で狩野永岳門人である河田小龍にも絵を学び、入門3年目に小龍から「小斎」の画号を受けた。
堤 雄長(つつみ たけなが、1870年12月29日〈明治3年… 堤 雄長(つつみ たけなが、1870年12月29日〈明治3年11月8日〉- 1955年〈昭和30年〉4月11日)は、明治から昭和期の宮内官。政治家。華族。貴族院子爵議員。旧名・雄麿。 山城国京都で華族・堤功長の次男として生まれる。父の死去に伴い、1913年(大正2年)12月10日に子爵を襲爵した。 1894年(明治27年)東京美術学校日本画科を卒業。工手学校、京華中学校などで教師を務めた。1912年、祭官となる。以後、大喪使祭官、名誉掌典、青山御所祗候などを務めた。 1916年(大正5年)6月17日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し、1925年(大正14年)7月9日まで2期在任した。
坂口 惣五郎(さかぐち そうごろう、1870年12月25日〈… 坂口 惣五郎(さかぐち そうごろう、1870年12月25日〈明治3年11月4日〉 - 1939年〈昭和14年〉3月17日)は、日本の政治家、実業家、地主。米子市会議員。カギさ醤油醸造元坂口商店取締役社長。族籍は鳥取県平民。 鳥取県西伯郡米子町大字尾高町(現・米子市尾高町)出身で、生家は木綿問屋。木綿商・坂口平吉郎の四男。1902年、兄・平兵衛方より分家をする。 会社の重役であり、坂口商店代表取締役、大谷オフセット社長、米子家畜市場、日本製絲、山陰水産、米子電車軌道、米子製鋼所各取締役、米子電車軌道、博愛病院各監査役、有限責任米子信用組合第二代組合長などをつとめる。 1907年から1911年まで米子町収入役をつとめる。
玉村 勇助(たまむら ゆうすけ、1870年12月24日(明治… 玉村 勇助(たまむら ゆうすけ、1870年12月24日(明治3年11月3日) - 1946年(昭和21年)12月26日)は、日本の技術者、発明家。 福井県出身。1895年(明治28年)に東京帝国大学工科土木科を卒業した。1898年(明治31年)から足尾銅山に勤務し、銅山で使用されていたイギリス製の空中ケーブルの改良に従事した。1902年(明治35年)に自在運搬器を発明し、1907年(明治40年)に玉村工務所を開設した。同年1907年に有翼抱索子を発明して新型ケーブルを開発した。 1919年と1933年に全国発明表彰の有功賞が授与されている。
小柳 司気太(おやなぎ しげた、1870年12月24日(明治… 小柳 司気太(おやなぎ しげた、1870年12月24日(明治3年11月3日)- 1940年(昭和15年)7月18日)は、日本の中国文学者、道教の研究者。新潟県出身[信頼性要検証]。東京帝国大学選科修了。旧姓は熊倉[信頼性要検証]。 越後国中蒲原郡小吉村(現・新潟県新潟市西蒲区)で、熊倉玄周の子として生まれる。父の死後、母方の叔父・小柳卯三郎の養子となる。1885年、粟生津村の私塾長善館に入門。1888年に上京。東京英語学校に入学するが、病気により一時退学、帰郷。1894年、東京帝国大学漢学科選科修了。藤田精一らと東亜学院を設立し、月刊誌『東亜説林』を刊行する。その後、広島尋常中学校教諭、真言京都中学校教諭を務める。
殖田 謙吉(うえだ けんきち、1870年12月24日(明治3… 殖田 謙吉(うえだ けんきち、1870年12月24日(明治3年11月3日) - 1904年(明治37年)9月4日)は、大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍少佐。庄屋殖田覚十郎の二男として生まれる。母方姓是恒。大分県宇佐郡駅館村出身。第2次吉田内閣の法務総裁殖田俊吉は甥である。 旧海軍機関学校(横須賀)から海軍兵学校(18期)に編入。海軍大学校、鎮守府参謀を経て日露戦争開戦時は軍令部参謀。後に連合艦隊参謀に転出。黄海海戦において「三笠」最上艦橋で戦傷を受け、佐世保海軍病院にて死去。伊藤正徳は殖田について「有為の参謀であった」と評している。 1904年(明治37年)8月10日、最上艦橋で指揮をとっていた殖田は午後6時30頃に、前部艦橋左舷のセマホア信号機に敵弾が命中炸裂、その弾片、破片により負傷した。
網蔵 平輔(あみくら へいすけ、1870年12月23日(明治… 網蔵 平輔(あみくら へいすけ、1870年12月23日(明治3年11月2日)- 1947年(昭和22年)2月18日)は、明治時代後期から昭和時代の日本の大地主、政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。幼名・静。妹の夫は貴族院議員 秋山源兵衛。 網蔵輝祖の孫、輝明の長男として生まれ、1889年(明治22年)2月に家督を相続する。本籍は山梨県北巨摩郡塩崎村(後の同郡双葉町、現在の甲斐市)で農業を生業にした。明治法律学校を修了した。 山梨証券監査役として山梨県多額納税者に列し、1915年(大正4年)貴族院議員に互選され、同年4月29日から1918年(大正7年)9月28日まで在任した。 ほか、北巨摩郡会議員、同郡塩崎村長を務めた。
北井 波治目(きたい はじめ、明治3年10月15日(1870… 北井 波治目(きたい はじめ、明治3年10月15日(1870年12月9日) - 昭和11年(1936年)10月16日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 駿河国豊田郡佐久間村出身(現在の静岡県浜松市天竜区)。1893年(明治26年)、日本法律学校(現在の日本大学)を卒業した。翌年に弁護士試験に合格し、弁護士業務に従事した。1898年(明治31年)、判事となり、五條区裁判所判事、名古屋区裁判所判事、岐阜地方裁判所判事を歴任した。1901年(明治34年)、退官して弁護士に復帰した。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第14回衆議院議員総選挙でも再選された。 その他、福川汽船株式会社・セミ肥料株式会社取締役、福川林業株式会社・入山採炭株式会社・国光印刷株式会社監査役などを務めた。