川原 正行(かわはら まさゆき、1956年2月1日 - )は… 川原 正行(かわはら まさゆき、1956年2月1日 - )は、日本の元スピードスケート選手である。北海道本別町出身。白樺学園高等学校を経て三協精機所属時代にインスブルックオリンピック、レークプラシッドオリンピックに日本代表として出場した。 1976年インスブルックオリンピックでは5000m24位、1980年のレークプラシッドオリンピックでは1000m23位、1500m20位、5000m25位だった。現役引退後は帯広市教育委員会に所属し小中学生のスケート指導に当たった。 2010年バンクーバーオリンピックにコーチとして参加。
大山 三喜雄(おおやま みきお、1955年10月29日 - … 大山 三喜雄(おおやま みきお、1955年10月29日 - )は、日本の元スピードスケート選手である。北海道帯広市出身。白樺学園高等学校を経て王子製紙所属時代にインスブルックオリンピックに日本代表として出場した。 1976年インスブルックオリンピックでは500m18位、1000m24位だった。1977年と1978年の全日本スプリントスピードスケート選手権大会を連覇。 現役引退後は王子製紙スケート部でコーチ・監督を務め、ソルトレイクシティオリンピック代表チームのコーチも務めた。
福田 薫(ふくだ かおる、1955年10月4日 - )は日本… 福田 薫(ふくだ かおる、1955年10月4日 - )は日本の元スピードスケート選手である。北海道釧路市出身。釧路第一高等学校卒。 1980年レークプラシッドオリンピック代表に選出され、500m14位、1000m19位となった。 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル スポーツ/プロジェクト スポーツ人物伝)。
平手 則男(ひらて のりお、1948年12月8日 - )は、… 平手 則男(ひらて のりお、1948年12月8日 - )は、北海道中川郡本別町出身のスピードスケート選手・指導者である。札幌五輪・インスブルック五輪日本代表。 釧路第一高校卒業後、三協精機に入社。 1972年に開催された札幌オリンピックで初代表に選ばれ500m出場。17位。 1975年に開催された第1回全日本スプリント選手権で優勝を果たす。 1976年のインスブルックオリンピックでは500mと1000mに出場。500m16位、1000m30位。 引退後は三協精機の監督に就任。 1980年のレークプラシッドオリンピックでは日本代表コーチを務める。 その後は清水宏保の指導に当たり、長野オリンピックでの金メダル獲得をサポートした。
大塚 博文(おおつか ひろふみ、1947年10月8日 - … 大塚 博文(おおつか ひろふみ、1947年10月8日 - )は、日本の元スピードスケート選手。北海道旭川市出身。旭川市立永山中学校、旭川南高校、専修大学卒。 専修大学在学時の1968年グルノーブルオリンピックでは10000m28位となった。 1968年旭川市新人奨励賞受賞。 1969年の第38回全日本スピードスケート選手権大会では総合優勝を果たす。 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル スポーツ/プロジェクト スポーツ人物伝)。
前田 睦彦(まえだ むつひこ、1947年5月7日 - )は… 前田 睦彦(まえだ むつひこ、1947年5月7日 - )は、日本の元スピードスケート選手。北海道中川郡池田町出身。 北海道帯広三条高等学校では全国高校総体の男子1500mで優勝。高校時代はスケートの傍ら野球部でも活躍し、第47回全国高等学校野球選手権大会に「3番・右翼手」として出場した。この大会帯広三条は北北海道代表として初の1勝を挙げている。 明治大学進学後はスケートに専念し、在学中に出場したグルノーブルオリンピックでは1500m40位、5000m33位。卒業後は国土計画に入社し、札幌オリンピックでは1500m20位だった。1500mの日本記録(2分8秒2)を7年間保持した。 1973年に現役を引退。
斎藤 幸子(さいとう さちこ、米倉(よねくら)に改姓、194… 斎藤 幸子(さいとう さちこ、米倉(よねくら)に改姓、1947年1月15日 - 2000年7月26日 )は、日本のスピードスケート選手。広島県出身。 東洋大学在学時の1968年グルノーブルオリンピックでは500m途中棄権、1000m26位、1500m18位。 三協精機入社後の札幌オリンピックでは500m9位、1000m18位だった。 全日本スピードスケート選手権大会では第33回、第37回、第38回、第40回と4度総合優勝。
鈴木 正樹(すずき まさき、1945年1月2日 - )は、日… 鈴木 正樹(すずき まさき、1945年1月2日 - )は、日本の元スピードスケート選手である。北海道苫小牧市出身。王子製紙所属。 1968年グルノーブルオリンピックでは500m15位、1500m40位。 1972年札幌オリンピックでは500m8位。 3度目のオリンピックとなったインスブルックオリンピックでは旗手を務め、競技では500m11位、1500m19位だった。 レークプラシッドオリンピック日本選手団、サラエボオリンピック日本選手団コーチ。 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル スポーツ/プロジェクト スポーツ人物伝)。
肥田 隆行(ひだ たかゆき、1944年5月4日 - )は、… 肥田 隆行(ひだ たかゆき、1944年5月4日 - )は、日本の元スピードスケート選手である。北海道帯広市出身。 帯広市立帯広第三中学校-北海道帯広柏葉高等学校-専修大学-三協精機 1968年グルノーブルオリンピックでは500m37位。4年後の札幌オリンピックでは500m13位だった。
武田 美佐江(たけだ みさえ、1943年10月22日 - … 武田 美佐江(たけだ みさえ、1943年10月22日 - )は、日本の元スピードスケート選手。北海道幕別町出身。帯広大谷高等学校卒、三協精機。 1968年グルノーブルオリンピックでは500m25位、1000m25位。 オリンピック後現役引退し帰郷、帯広スケート連盟理事などを務め、後進を指導した。結婚後の現姓は平子。平子裕基はおいである。 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル スポーツ/プロジェクト スポーツ人物伝)。
河野 義博(かわの よしひろ、1943年10月4日 - )… 河野 義博(かわの よしひろ、1943年10月4日 - )は、日本の元スピードスケート選手。北海道中川郡本別町出身。同町出身者として初のオリンピック代表選手である。名字の読みは「こうの」ではなく「かわの」である。 1962年、北海道帯広三条高等学校を卒業。立教大学に進学し、卒業後は実業団のSSSスケート(長野)に入った。現役引退後、1年間の会社員生活を経て本別町教育委員会に勤務。2000年から2003年の間本別町教育長を務めた。 大学2年時の1964年インスブルックオリンピックに出場、5000m26位、10000m32位だった。
新保 鋭(しんぽ さとし、1941年10月26日 - 20… 新保 鋭(しんぽ さとし、1941年10月26日 - 2005年5月31日)は、日本の元スピードスケート選手である。 北海道出身。札幌商業高等学校卒業後、明治大学に入学。 明治大学在学時の1964年にインスブルックオリンピックに出場、500mで41位、1,500mで34位、5,000mで23位、10,000mで24位であった。 1962年の第31回全日本スピードスケート選手権大会で優勝。 2005年5月31日、筋萎縮性側索硬化症 (ALS) のため札幌市中央区の病院で死去。
溝尾 武夫(みぞお たけお、1937年3月11日 - )は、… 溝尾 武夫(みぞお たけお、1937年3月11日 - )は、日本の元スピードスケート選手である。北海道苫小牧市出身、米国在住。 三協精機所属時の1960年スコーバレーオリンピックに出場、500m36位、1500m33位、5000m23位、10000m25位だった。 現役引退後の1971年渡米、ロサンゼルスで飲食店を経営、回転すしチェーン店のオーナーである。 現在はアメリカでの仕事を全て辞め、自由人としてのんびりアジアを中心に旅をしている。86歳ながらユーチューバーとして旅情報などを流している。 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル スポーツ/プロジェクト スポーツ人物伝)。
堀 吉孝(ほり よしたか、1933年4月20日 - )は、日… 堀 吉孝(ほり よしたか、1933年4月20日 - )は、日本の元スピードスケート選手である。 樺太出身。第二次世界大戦後苫小牧に引揚げ、苫小牧市立苫小牧東小学校、苫小牧市立苫小牧東中学校、苫小牧工業高校を経て富士製鐵室蘭製鉄所に入社。 1956年にコルティナダンペッツォオリンピックに出場、500m17位、1500m23位、5000m46位だった。 4年後のスコーバレーオリンピックでは500m16位、1500m29位だった。 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル スポーツ/プロジェクト スポーツ人物伝)。
青木 正則(あおき まさのり、1927年9月6日 - )は日… 青木 正則(あおき まさのり、1927年9月6日 - )は日本の元スピードスケート選手である。北海道苫小牧市出身。王子製紙に所属した。 1952年のオスロオリンピックに出場し500mで12位、1500mで23位の成績を残した。 1950年の第19回全日本スピードスケート選手権大会で優勝。 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル スポーツ/プロジェクト スポーツ人物伝)。
菅原 和彦(すがわら かずひこ、1927年5月1日 -196… 菅原 和彦(すがわら かずひこ、1927年5月1日 -1962年10月27日)は日本の元スピードスケート選手である。オリンピアン。北海道苫小牧市出身。 苫小牧工業学校(現・北海道苫小牧工業高等学校)を経て日本大学専門部工科を1951年卒業。苫小牧製紙に入社。 1952年のオスロオリンピックに出場し5000mで15位、10000mで7位の成績を残した。 1947年度の第16回全日本スピードスケート選手権大会で総合優勝。全日本選手権で1946、1947年度5000mと10000mにそれぞれ2連覇。日本学生選手権で5000mに1946、1947、1949年度の3回優勝、10000mでは1946~1949年度4連覇を達成。
内藤 晋(ないとう すすむ、1922年〈大正11年〉3月18… 内藤 晋(ないとう すすむ、1922年〈大正11年〉3月18日 - 2007年〈平成19年〉8月11日)は、日本のスピードスケート選手。戦後のスピードスケート界を代表する人物の1人とされ、1951年(昭和26年)にスイスで開催された世界選手権で、日本新記録で優勝を飾った。その実績と将来性から、冬季オリンピックの代表選手に2度選ばれたが、戦争と自身の病気によりその2度とも出場の機会を失い、「不運のアスリート」とも呼ばれる。現役引退後はオリンピック日本代表選手のコーチとして、スケート界の発展に尽くした。 北海道札幌市出身。父の内藤芳雄は、幼少時、まだスケート靴が非常に高価だった時代より、我流でスケートを楽しんで技術を鍛え上げ、成人後は札幌スケート協会の幹事長を務めた。
中村 礼吉(なかむら れいきち、1916年10月16日 - … 中村 礼吉(なかむら れいきち、1916年10月16日 - 没年不明)は日本の元スピードスケート選手である。北海道苫小牧市出身。 早稲田大学専門部1年在学時の1936年ガルミッシュパルテンキルヒェンオリンピックで500m11位となった。 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル スポーツ/プロジェクト スポーツ人物伝)。