羽柴 誠三 秀吉(はしば せいぞう ひでよし 1949年〈昭… 羽柴 誠三 秀吉(はしば せいぞう ひでよし 1949年〈昭和24年〉10月11日 - 2015年〈平成27年〉4月11日)は、日本の実業家、政治活動家である。本名は三上 誠三(みかみ せいぞう)。別名は羽柴 秀吉。 羽柴企業グループ社主として羽柴観光小田川温泉株式会社(旅館「秀吉のやかた」)や東北興産建設株式会社などを経営していた。また、公認候補者として所属した自由連合では幹事を務めた。 青森県五所川原市(旧北津軽郡金木町)出身。若き日に近所の住職より「お前は戦国武将豊臣秀吉の生まれ変わり」と言われて以来、この名前を名乗ったという。 家は貧しく家庭環境は複雑で、中学を卒業すると製材工場で働いた。
田中 義三(たなか よしみ、1948年7月23日 - 200… 田中 義三(たなか よしみ、1948年7月23日 - 2007年1月1日)は日本の新左翼の活動家でよど号グループのテロリスト。青森県三沢市出身。 7歳の頃に母親の出身地である熊本県に移住。熊本県立済々黌高等学校を卒業後、明治大学(夜間学部・政経学部Ⅱ部)に入学。1960年代末の学生運動に参加し、社会主義学生同盟に加盟。1969年において赤軍派に属し、東京戦争で警視庁本富士警察署火炎瓶投擲事件に関与。 1970年に8人の仲間とともによど号ハイジャック事件を起こす。よど号犯の中では最初に操縦室に入って機長に日本刀(後に模造品と判明)を突き付けている。4月3日に山村新治郎運輸政務次官との人質交換において、犯人代表として一時的に韓国の金浦国際空港に降りている。
梅内 恒夫(うめない つねお、1947年8月23日 - 生死… 梅内 恒夫(うめない つねお、1947年8月23日 - 生死不明)は、共産主義者同盟赤軍派の活動家。 1947年、青森県に生まれる。青森県立八戸高等学校卒業後、福島県立医科大学に入学。在学中に共産主義者同盟に加盟し、赤軍派の結成と同時に赤軍派のメンバーとなる。後に連合赤軍メンバーとなる植垣康博を赤軍派にオルグしたりしている。 梅内は爆弾製造を担当しており、考案した爆弾は俗に「梅内爆弾」と呼ばれるようになり、新左翼の爆弾闘争を飛躍させることになる。しかし、大菩薩峠事件の捜査で梅内の名前が浮上したことから、爆発物取締罰則違反で指名手配となった。その直後に地下に潜行した。手記で表された思想は、後に日本原住民論として結実し、反日テロが続発するきっかけとなった。
佐藤 初女(さとう はつめ、1921年10月3日 - 201… 佐藤 初女(さとう はつめ、1921年10月3日 - 2016年2月1日)は、日本の福祉活動家、教育者。1992年より青森県の岩木山山麓に「森のイスキア」と称する悩みや問題を抱え込んだ人たちを受け入れ、痛みを分かち合う癒しの場を主宰。それ以前は弘前市内で自宅を開放して同様の活動をしており、こちらは「弘前イスキア」と呼ばれていた。素朴な素材の味をそのままに頂く食の見直しにより、からだから心の問題も改善していくことができると訴えた。 「イスキア」とは、イタリア西南部のナポリ湾の西に浮かぶイスキア島の名前から採られたもの。ナポリの富豪の息子で、何不自由ない暮らしをしていた青年が、この島を訪れて、贅沢三昧の生活から、自分を静かに振り返ることを学び、そこの司祭館に滞在したというエピソードから借用されたものである。
島口 重次郎(しまぐち じゅうじろう、1912年〈明治45年… 島口 重次郎(しまぐち じゅうじろう、1912年〈明治45年〉1月15日 - 1968年〈昭和43年〉3月17日)は、日本の社会運動家、実業家、政治家。衆議院議員(3期)。 青森県弘前市で生まれる。小学校卒業後、市内のタンス店に職工として勤め、その後、無産運動に加わる。1932年、全農青年部青森県連合会執行委員に就任。1934年、日本共産党に入党したが、同年に検挙され懲役3年となり服役した。 戦後、日農の再建に尽力し、また日本社会党の結成に加わり、同青森県連選挙対策部長、同書記長、同委員長、弘前市議会議員、青森県議会議員などを務めた。 1958年5月、第28回衆議院議員総選挙に青森県第二区から出馬して当選。
相沢 良(あいざわ りょう、明治43年〈1910年〉5月15… 相沢 良(あいざわ りょう、明治43年〈1910年〉5月15日 - 昭和11年〈1936年〉1月28日)は、日本の女性平和運動家、共産党活動家。 青森県南津軽郡野沢村(現在の青森県青森市)吉野田字木戸口2番地に生まれる。相沢家は3代続く藩医の家であった。家族は、父・武良、母・秀、祖母、姉・千代、妹・京、弟・企救麿。父の助手や看護婦も住み込みで働いていた。 1923年(大正12年)4月、県立青森高等女学校に進学。小学生当時の相沢良は、2つ年長の青森高女の姉・千代と同級生で仲の良い淡谷のり子が遊びに来ていて、出会っている。 1927年(昭和2年)3月卒業後、英語を習得するため黒石の親戚の家から弘前女学校に1年間通う。
大澤 喜代一(おおさわ きよいち、1901年12月15日 -… 大澤 喜代一(おおさわ きよいち、1901年12月15日 - 1985年3月11日) は、青森県出身の労働運動家。日本社会党衆議院議員(1期)。筆名は大沢 久明(おおさわ きゅうめい)。 青森県青森市の出身。1919年(大正8年)青森県立青森商業学校(後の青森県立青森商業高等学校)を卒業後に上京し、市谷監獄に勤務するが、同人誌発行の件で解雇される。社会主義運動の活動家となり、帰郷して北部無産社、青森合同労組を結成。労働運動を指導し、逮捕される。1927年に労働農民党青森県連を結成し、1929年(昭和4年)には日本共産党に入党。同年に起きた四・一六事件で検挙され、懲役5年の刑を受けた。各地の刑務所を転々としたが、青森刑務所で隣の房にいたのが脱獄王として知られた白鳥由栄だったという。
秋田 雨雀(あきた うじゃく、1883年〈明治16年〉1月3… 秋田 雨雀(あきた うじゃく、1883年〈明治16年〉1月30日 - 1962年〈昭和37年〉5月12日)は、日本の劇作家・詩人・童話作家・小説家・社会運動家である。本名は徳三(とくぞう)。 産科医である父玄庵(全盲であった)と、母まつの長男として青森県南津軽郡黒石町(現黒石市)に生まれる。黒石尋常小学校、青森県立第一尋常中学校(青森県立弘前高等学校の前身)を経て東京専門学校(早稲田大学の前身校)英文科に入学する。在学中の1904年、詩集「黎明」を刊行。 1908年、恩師の島村抱月の推薦により、『早稲田文学』6月号に小説「同性の恋」を発表。小山内薫のイプセン研究会の書記をつとめ、戯曲への関心を深める。
工藤 忠(くどう ちゅう、初名は工藤 鉄三郎(くどう てつさ… 工藤 忠(くどう ちゅう、初名は工藤 鉄三郎(くどう てつさぶろう)、のち満洲国執政溥儀から「忠」名を与えられて、戸籍上も工藤忠に改名。明治15年(1882年)12月10日 - 昭和40年(1965年)12月18日)は、明治、大正、昭和期におけるアジア主義者の大陸活動家及び満州国の政治家。満州国の侍衛長。最終階級は満州国侍衛処長、宮内府顧問官。
山田 純三郎(やまだ じゅんざぶろう、1876年(明治9年)… 山田 純三郎(やまだ じゅんざぶろう、1876年(明治9年)5月18日 - 1960年(昭和35年)2月18日)は日本の革命運動家、大陸浪人。孫文の革命活動に参加した山田良政の実弟である。 青森県弘前生まれ。伯父・菊池九郎が創立した東奥義塾を卒業後、室蘭炭礦汽船を経て上京、青森リンゴ販売商となる。東亜同文会の清国派遣留学生選考に合格して上海に渡り、その後南京同文書院(後の東亜同文書院)に入学した。この頃、兄に孫文を紹介されている。卒業後は同院教員、日露戦争での通訳従軍を経て南満州鉄道に入社した。 兄の遺志を継いで孫文を支援し続け、第一次世界大戦中の第2次大隈内閣による対華21か条要求など日本政府と袁世凱政権の関係悪化による孫文の対日不信の中にあっても山田は信頼を受けた。
山田 良政(やまだ よしまさ、慶応4年1月1日(1868年1… 山田 良政(やまだ よしまさ、慶応4年1月1日(1868年1月25日) - 明治33年(1900年)10月22日?)は、日本の革命運動家、大陸浪人である。熊本の宮崎滔天らと共に孫文の支援者となり辛亥革命に参加。実弟の山田純三郎も兄の遺志を継いで孫文を支援した。 陸奥国弘前(後の青森県弘前市)に津軽藩士の子として生まれる。山田家は思想家の陸羯南の実家と真向かいにあったこともあり、良政は少年時代から羯南の影響を受けていたとされる。伯父の菊池九郎が経営する東奥義塾で学んだ後に地元の青森師範学校へ進学したが、2年時に全寮制の寮内での賄経費を巡る騒動(賄征伐)が発生した際に、騒動の首謀者となった友人をかばう形で退学処分を受けた。