スダリオ剛(スダリオつよし、1997年5月13日 - )は、… スダリオ剛(スダリオつよし、1997年5月13日 - )は、日本の総合格闘家、元大相撲力士。HI ROLLERS ENTERTAINMENT所属。力士時代は千賀ノ浦部屋(入門時は貴乃花部屋)に所属し、四股名は2018年11月場所までは貴公俊 剛(たかよしとし つよし)、2019年1月場所からは貴ノ富士 三造(たかのふじ さんぞう)。最高位は西十両5枚目。本名、河野 剛(こうの つよし)[要出典]。旧姓は上山であり、婿養子に入ったため改姓している[要出典]。総合格闘家、元力士である貴賢神は双子の弟である。栃木県小山市出身。 日本人の父とフィリピン人の母との間に一卵性双生児の兄として生まれ、茨城県猿島郡境町で育った。
宇瑠寅 太郎(うるとら たろう、1989年5月8日 - )は… 宇瑠寅 太郎(うるとら たろう、1989年5月8日 - )は、栃木県大田原市出身で式秀部屋に所属する現役大相撲力士。本名は高橋 徹(たかはし とおる)。身長165.8cm、体重62.3kg。最高位は西序二段38枚目(2018年9月場所)。2017年までの四股名は宇瑠虎 太郎(うるとら たろう)。好物は焼肉である。 高校卒業後、大手企業で勤務していたが、次第に日々の職務の内容に疑問を持ち始め「このままでいいのか」と自問自答する生活が続いていた最中、「自分の部屋じゃなく相撲界に入らないか」とスカウトした式秀に惹かれ、21歳4カ月で式秀部屋に入門。 上述の通り、大相撲の新弟子としては異例の小兵・軽量な上に、高校相撲などのアマチュア経験がなかったものの、柔道などの格闘技の経験を活かし、2010年9月場所の前相撲では2勝2敗と健闘。
北勝力英樹(ほくとうりき ひでき 1977年10月31日 -… 北勝力英樹(ほくとうりき ひでき 1977年10月31日 - )は、栃木県那須郡黒羽町(現在の大田原市)出身(出生地は東京都大田区)で八角部屋(入門時は九重部屋)に所属した元大相撲力士。本名は木村 英樹(きむら ひでき)、愛称はリキ。 身長182cm、体重153kg、趣味は音楽鑑賞。得意技は突き、押し。最高位は西関脇(2004年7月場所)。引退後は年寄谷川。 タクシー運転手の次男。東京都大田区に生まれ育ったが、両親の出身地である栃木県那須郡黒羽町(現在の大田原市)を出身地としている。 釣りやザリガニ釣り、夏には花火と、自宅の目の前を流れる多摩川を満喫して幼少期を過ごした。両親の故郷である黒羽町にも頻繁に行き、川遊びを楽しんだ。
日出ノ国 太子郎(ひでのくに たいしろう、1974年11月8… 日出ノ国 太子郎(ひでのくに たいしろう、1974年11月8日 - )は、日本の元大相撲力士、元総合格闘家。栃木県那須郡西那須野町(現・那須塩原市)出身。本名は宮下 成喜(みやした のりき)。大相撲時代は間垣部屋所属であり、最高位は西十両13枚目。得意技は押し。 相撲は那須塩原市立南小学校1年生の頃に始め、近所の神社で行われる祭りの相撲には景品を目当てに必ず参加し、小学生でありながら体重が50kgに達していたので小学校の高学年とも互角に戦った。小学3年生からは柔道を始め、サッカーも小学校の間は続けた。那須塩原市立西那須野中学校では小学校から始めた柔道を続けるために柔道部に所属し、中学1年で初段を取るほどの腕前だったが、柔道部の顧問の考えで平衡して相撲大会にも出場し、3年生で「相撲で優勝しておくと、進学の時に有利かな」と思い本格的に相撲を始めると強味を増していき県大会でも活躍した。
床岳(とこたけ、1967年2月10日 - )は、大相撲の床山… 床岳(とこたけ、1967年2月10日 - )は、大相撲の床山。本名は増山岳生。栃木県鹿沼市出身。九重部屋所属。現在一等床山を務めている。
亀山 弘章(かめやま ひろあき、1955年7月13日 - )… 亀山 弘章(かめやま ひろあき、1955年7月13日 - )は、出羽海部屋に所属していた元大相撲力士。本名同じ。最高位は東幕下11枚目。 栃木県安蘇郡田沼町(現在の佐野市)出身。1971年1月場所初土俵を踏む。1981年7月場所最高位の東幕下11枚目まで上がるが、3勝4敗と1点の負け越しとなる。1988年1月場所で幕下で負け越し、三段目に落ちてから、幕下に上がることはなかった。その後は三段目や序二段で取り続け、序二段に落ちた1993年7月場所を最後に廃業した。22年間にも及ぶ力士生活だった。 実家は衣料品の問屋をやっており、取引先の主人と当時日本相撲協会理事長だった武蔵川(元前頭出羽ノ花)が知り合いだったため、武蔵川は弟子の出羽海(元横綱佐田の山)に伝え、出羽海は亀山の家を訪れ、入門させた。
春日竜 功隠(かすがりゅう よしやす、1947年2月25日 … 春日竜 功隠(かすがりゅう よしやす、1947年2月25日 - )は、春日野部屋に所属した元大相撲力士。本名は中村 謙吾。東京都江東区生まれだが、出身地は栃木県那須郡黒羽町としていた。184cm、120kg。最高位は西十両6枚目。得意技は押し。 子供の頃は野球が好きだったが、中学3年になる頃には体重が95kgに達していたので相撲大会の団体戦に駆り出されることになり、その体格と素質を見出して家を訪ねて来た春日野部屋の世話人から勧誘された。両親と相談したが、父は熱狂的な栃錦の贔屓だったこともあり、即座に承諾して入門が決まった。1962年1月場所に「中乃村」の四股名で初土俵。幕下での長い下積みを経て1970年3月場所に十両昇進。
栄太呂(えいたろ、1937年1月28日 - 2012年1月2… 栄太呂(えいたろ、1937年1月28日 - 2012年1月2日)は、大相撲の元呼出。本名:上田忠。栃木県宇都宮市出身、時津風部屋所属。師匠は従兄弟でもある栄吉。 1948年5月初土俵。呂太鼓の名人として知られる。また、角界有数の酒好きとしても有名。 1969年の九州場所中、酔っ払って横断歩道を横断中に車にはねられ、80メートルも飛ばされた結果、内臓破裂で2年間入院。再起が危ぶまれたが、根性で復活した。
八染 茂雄(やそめ しげお、1929年7月10日 - 198… 八染 茂雄(やそめ しげお、1929年7月10日 - 1983年8月17日)は、栃木県足利市朝倉町出身で春日野部屋に所属した大相撲力士。本名同じ。現役時代の体格は172cm、93kg。得意手は左四つ、寄り、肩透かし、上手捻り。最高位は東前頭16枚目(1957年3月場所)。 栃木県立足利工業学校(現・栃木県立足利工業高校)を卒業後、食糧公団勤務を経て春日野部屋に入門し、1949年10月場所で初土俵を踏んだ。 同場所では番付外と新序でそれぞれ好成績を残したため、翌年1月場所の番付では序ノ口を飛び越し、序二段に四股名が載った。 なお、当初より、本名でもある「八染」を名乗った(以後は「栃木岩」に改名した時期もあったが、2年足らずで元の「八染」に再改名している)。
栃木野 竹三郎(とちぎの たけさぶろう、1923年3月10日… 栃木野 竹三郎(とちぎの たけさぶろう、1923年3月10日 - 没年不明)は、出羽海部屋に所属した元力士。本名は岩井 竹三郎(いわい たけさぶろう)。現在の栃木県鹿沼市出身。175cm、84kg。最高位は東十両7枚目。得意技は突っ張り、左四つ。 1940年5月場所に初土俵。1947年11月場所に十両昇進し、連続して3場所務めたが勝ち越すことはできず、1949年1月場所に25歳で廃業した。激しい突っ張りで攻め立てる闘志に満ちた取り口が身上であったが、左四つでも相撲が取れた。
大平山 圭四郎(おおひらやま けいしろう、1910年12月2… 大平山 圭四郎(おおひらやま けいしろう、1910年12月23日 - 1981年5月18日)は、昭和時代の大相撲力士。春日野部屋所属。本名は斎藤 四郎。最高位は十両4枚目。 栃木県宇都宮市出身。上京し鐘淵紡績に就職、会社では運動部員として活躍し、相撲では東京府代表として明治神宮の大会に出場した。春日野部屋に入門し、1934年1月働いていた会社にちなみ「鐘ヶ渕」の四股名で初土俵を踏んだ。順調に番付を上げ、1941年1月に十両に昇進したが3勝12敗と負け越し、幕下に落ちた。幕下で十両復帰を目指したが、この間四股名を「大平山」と改めた。1943年1月に十両に復帰した。十両では勝ち越しと負け越しを繰り返し、9勝が最高成績だった。
栃ノ森 昇治(とちのもり しょうじ、1900年5月18日 -… 栃ノ森 昇治(とちのもり しょうじ、1900年5月18日 - 没年不明)は、昭和時代の大相撲力士。出羽海部屋所属。本名は室井 昇二。最高位は十両10枚目。 栃木県那須郡黒磯町(のち黒磯市、現那須塩原市)出身。出羽ノ海部屋に入門し、1918年「那須昇」の四股名で序ノ口に就く。1929年5月十両に昇進。この場所4勝7敗と負け越し、同地位の翌9月場所でも2勝9敗と負け越し、この場所で廃業した。
阿久津川 高一郎(あくつがわ こういちろう、1897年9月3… 阿久津川 高一郎(あくつがわ こういちろう、1897年9月30日 - 1972年10月20日)は、栃木県宇都宮市出身で高砂部屋(一時期は錣山部屋)に所属した大相撲力士。本名は永井 高一郎(ながい こういちろう)(一時磯野姓を名乗る)。最高位は西前頭筆頭(1923年1月場所)。現役時代の体格は身長170cm、体重98kg。得意手は突き、押し。現役引退後は年寄として後進の指導につくした。 1914年5月場所に初土俵。小柄ではあったが腕力が強く、「三角突っ張り」と呼ばれた独特の突き押しを武器にしており、速い相撲で鳴らした 。1920年1月場所に新入幕を果たすまですべて勝ち越すという順調な昇進で、なおかつ十両では新十両から2場所連続優勝をはたした。
小金山 幸一郎(こがねやま こういちろう、1897年5月14… 小金山 幸一郎(こがねやま こういちろう、1897年5月14日 - 没年不明)は、大正・昭和時代の大相撲力士。出羽海部屋所属。本名は山中 幸一郎。最高位は十両8枚目。 栃木県栃木市出身。出羽ノ海部屋に入門し、1918年1月初土俵を踏む。1923年1月十両に昇進。2場所で幕下に落ちる。1925年1月再十両となるも2勝4敗と負け越し、幕下に落ちた。1927年1月、十両に復帰してから6場所連続十両の地位にあった。1931年10月に廃業した。
栃木山 守也(とちぎやま もりや、1892年2月5日 - 1… 栃木山 守也(とちぎやま もりや、1892年2月5日 - 1959年10月3日)は、栃木県下都賀郡赤麻村(現:栃木県栃木市藤岡町赤麻)出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。第27代横綱。本名は中田 守也(なかた もりや)(旧姓:横田)。 1892年2月5日、栃木県下都賀郡(現:栃木県栃木市藤岡町赤麻)の農家に長男として生まれる。遅くに誕生した男子だったことで「家を守り立てて欲しい」との願いから“守也”と名付けられた。幼少期から家業を手伝いつつ漢学塾に通いながら、自宅近所にあった岩船山の石を人力トロッコで渡良瀬川へ運ぶ仕事に従事し、強健な体になる。17歳で結婚するが、18歳の時に妊娠中だった妻を残して上京し、出羽ノ海部屋に入門する。
岩木山 孫平(いわきやま まごへい、1890年8月13日 -… 岩木山 孫平(いわきやま まごへい、1890年8月13日 - 1934年6月25日)は、現在の栃木県宇都宮市出身(出生地は福島県白河市)で清見潟部屋に所属した大相撲力士。本名は横越 孫平(旧姓兼子)。7代清見潟。171cm、87kg。最高位は東前頭6枚目。 1906年1月初土俵、1910年6月新十両昇進。一時幕下に陥落していたが、1912年1月に十両に復帰した後、1915年1月に十両優勝を記録し、1915年6月に新入幕。土俵度胸が良く、立ち合いからの駆け引きもうまく、上突っ張りから右四つ、寄りの速い取り口を得意とした。いつもニコニコして、力士仲間からは「孫さん」と言われ親しまれた。二枚鑑札となった1920年5月に引退し、その後は木戸部長を務めて1930年に廃業した。
宇都宮 新八郎(うつのみや しんぱちろう、1890年6月15… 宇都宮 新八郎(うつのみや しんぱちろう、1890年6月15日 - 1952年1月7日)は、現在の栃木県鹿沼市出身で出羽海部屋(当時は出羽ノ海部屋)に所属した大相撲力士。本名は上沢 新七郎。現役時代の体格は182cm、98kg。最高位は前頭2枚目。話のうまさで知られ、明治 - 大正期の相撲界の語り部として代表的な存在であった。 常陸山の出羽ノ海に入門、1907年1月初土俵を踏む。1912年5月新十両。1913年5月新入幕。立ち合いのさまは実に精悍で、長身を生かした突っ張り、吊りで責める取り口は豪快だが粗雑で、幕内下位で2度の8勝2敗がある以外は2 - 6勝の成績に終始した。現役時代を通して上の名前の改名はなかったが、下の名前については現役前期には本名と同じ「新七郎」を名乗っていたが、1916年1月「新八郎」、同年5月「新七郎」とし、1917年1月からの現役後期には引退まで「新八郎」を名乗った。
若湊 義正(わかみなと よしまさ、1888年3月14日 - … 若湊 義正(わかみなと よしまさ、1888年3月14日 - 1941年11月12日)は、現在の栃木県栃木市出身で高砂部屋に所属した力士。本名は北条 義(旧姓岡本)。4代富士ヶ根。167cm、96kg。最高位は西小結。得意技は押し、右四つ、寄り。 1905年5月場所初土俵、その後一時病気で帰京し、大坂相撲の朝日山部屋で修業した後再び東上。広い肩幅、重い腰を利した右差しからの寄りで、1913年1月場所に新入幕、「若湊」と改名した後の1919年1月新鋭常ノ花を破るなど5勝5敗、翌1919年5月場所に小結昇進。1922年1月場所限りで引退し、4代富士ヶ根を襲名。弟子は冨士ヶ嶽孝一郎を育てた。協会内では理事を務め、金庫番となった。
野州山 孝市(やしゅうざん こういち、1878年8月2日 -… 野州山 孝市(やしゅうざん こういち、1878年8月2日 - 1936年1月23日)は、現在の栃木県真岡市(旧芳賀郡)出身で尾上部屋、出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は直井 幸一。170cm、84kg。最高位は西前頭10枚目。 1897年1月初土俵(同期に玉椿憲太郎)、四股名は出身地の栃木県の旧国名の下野国(野州)より。1900年1月十両昇進。端整な顔立ちで女性に人気があり、1901年1月に入幕したが脱走。復帰後は相撲に精進していたが、1907年に再び脱走。常陸山谷右エ門が間に入って帰参を許されたのも束の間、5月に廃業した。 幕内5場所11勝19敗15休5分預 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。
20代 木村 庄之助(にじゅうだい きむら しょうのすけ、1… 20代 木村 庄之助(にじゅうだい きむら しょうのすけ、1876年〈明治9年〉12月3日 - 1940年〈昭和15年〉3月9日)は、大相撲の立行司。 本名:後藤子之吉(旧姓・名川-鯉沼)。栃木県鹿沼市出身。所属は伊勢ノ海部屋、のち出羽海部屋。8代式守伊之助の弟子で、のち養子になった。21代庄之助は弟弟子にあたる。 明治後期から昭和初期の大相撲界を支えた近代名行司の第一人者で、行司史上屈指の名人と謳われている。人望、見識ともに備わり、名行司の証とも言われる 「松翁」 の称号を番付上に冠した。土俵態度、裁きともに秀で角界内では一目置かれていた。行司生活54年間に裁いた取組で差し違えはわずか2番のみであったという。
當り矢 信太郎(あたりや のぶたろう、慶應元年9月10日(1… 當り矢 信太郎(あたりや のぶたろう、慶應元年9月10日(1865年10月29日) - 1923年9月1日)は、下野国安蘇郡(現在の栃木県佐野市)出身で春日山部屋に所属した力士。本名は山口 信太郎(やまぐち のぶたろう)。身長160cm・体重92kg。最高位は東前頭4枚目(1898年1月場所)。得意手は右四つ、寄り、突っ張り。 「免鳥車」と言う水車小屋を営んだ農家の長男で、地元の八幡相撲で活躍した。年齢の割に髪が薄く、常に髷を奴頭に結った。 1889年1月場所に初土俵(幕下)、1894年5月場所に十両昇進。1896年5月場所に新入幕を果たす。小兵ながら右四つと突っ張りの正攻法の取り口で活躍したと伝わる。
玉ノ井 福司(たまのい ふくじ、1860年(万延元年)6月9… 玉ノ井 福司(たまのい ふくじ、1860年(万延元年)6月9日(旧暦4月20日) - 1900年(明治33年)10月28日)は、下野国那須郡(現:栃木県大田原市)出身の元大相撲力士。本名は玉野井 福治(たまのい ふくじ)。 1860年(万延元年)6月9日(旧暦4月20日)に下野国那須郡(現:栃木県大田原市)で生まれる。入門以前は地元・栃木県の小学校で代用教員や役場の書記を務めていたが、相撲好きが高じて伊勢ノ海部屋に入門したと伝わる。1885年5月場所にて二段目(現在の幕下)から初土俵を踏むと、1889年1月場所で新十両昇進、1893年1月場所で新入幕を果たした。入幕後は勝率が5割に僅かに届かない程度で推移しており、結果的に三役昇進は果たせなかったものの上位陣には善戦することもあり、1899年5月場所では小錦八十吉から金星を挙げている。
9代 式守 伊之助(きゅうだい しきもり いのすけ、1854… 9代 式守 伊之助(きゅうだい しきもり いのすけ、1854年6月 - 1910年6月28日)は、大相撲の立行司。本名は水戸部→刀根福造。出身地は現在の栃木県栃木市。 初めは力士志望だったが、行司に転向した。6代式守伊之助に師事し、1871年3月場所で式守竹二郎の名で初めて番付に載った。その後、初代式守錦之助に改め、2代式守錦太夫から4代式守与太夫を経て、1882年1月幕内格(紅白房)。1898年5月に9代伊之助を襲名した。声や態度も凛然としていた行司だった。1910年6月28日死去。享年56。 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ相撲)。
東関 庄助(あずまぜき しょうすけ、1824年 - 1885… 東関 庄助(あずまぜき しょうすけ、1824年 - 1885年7月10日)は、現在の栃木県足利市(下野国安蘇郡)出身で東関部屋に所属した力士。本名は東関 庄助(旧名は不明)。5代東関。身長、体重不明。最高位は東関脇。 東関部屋に入門し、1846年11月初土俵を踏む。当時は4代目東関であったが、3代東関は本人と同じく下野国安蘇郡(現在の佐野市)出身の元前頭・東関勝五郎であった。1862年11月に入幕を果たし、以来17場所幕内を務める。1868年には小結に、1870年4月に関脇に昇進、11月は二枚鑑札の関脇であったが、この場所限りで力士を引退した。不動明王のような顔付きをしていたという。また、二枚鑑札前の四股名は嶌田川又吉で、のちに弟子で6代東関の嶌田川儀兵衞が名乗った。
柏戸 宗五郎(かしわど そうごろう、寛政3年(1791年)/… 柏戸 宗五郎(かしわど そうごろう、寛政3年(1791年)/ 寛政5年(1793年) - 天保13年11月17日(1842年12月18日))は、下野国(現在の栃木県)出身の元大相撲力士。 現在の栃木県小山市鏡出身。本名は木村宗五郎。 文化7年(1810年)、4代伊勢ノ海(大関・柏戸宗五郎)の伊勢ノ海部屋に入門。入門時は鏡嶋の四股名を名乗り、文政8年(1825年)10月場所では外ヶ濱の四股名で入幕。文政13年(1830年)、師匠の5代伊勢ノ海(大関・柏戸利助)の死没に伴い、同年3月場所より四股名を部屋伝来の柏戸に改めるとともに、二枚鑑札で部屋の師匠を兼ねる。 最高位は天保3年(1832年)の前頭2枚目。