関口 安太郎(關口、せきぐち やすたろう、慶応元年12月25… 関口 安太郎(關口、せきぐち やすたろう、慶応元年12月25日〈1866年2月10日〉 - 1911年〈明治44年〉7月11日)は、明治期の畜産業者、実業家、政治家(衆議院議員、群馬県会議員)。 上野国勢多郡下大島村(群馬県南勢多郡木瀬村、勢多郡木瀬村を経て現前橋市下大島町)で、代々前橋藩の御蔵番を務めた関口家当主・仲次郎、りせ の長男として生まれた。大島梨の栽培で知られる関口長左衛門は祖父の兄にあたる。その後、前橋曲輪町(現:前橋市大手町)に転居した。前橋中学校(現群馬県立前橋高等学校)を卒業し、1890年(明治23年)東京法学院(現中央大学)を卒業。 1894年(明治27年)群馬県会議員に選出され1896年(明治29年)まで在任。
飯塚 春太郎(いいづか はるたろう、1865年2月6日(慶応… 飯塚 春太郎(いいづか はるたろう、1865年2月6日(慶応元年1月11日)- 1938年(昭和13年)1月8日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員。 上野国山田郡、のちの群馬県山田郡広沢村(現桐生市広沢町)で、賀茂神社祠官・飯塚二葉の長男として生まれる。群馬県中学校(現群馬県立前橋高等学校)を卒業し、1882年(明治15年)家督を相続。1890年(明治23年)東京法学院(現中央大学)英語法科を卒業した。 広巾輸出絹織物製造業を営む。桐生織物同業組合長、渡良瀬水電取締役、日本絹撚取締役、両毛整織社長などを務め、桐生の織物業の近代化に貢献した。 政界では、1893年(明治26年)群馬県会議員に選出され2期在任した。
塩谷 眞康(しおのや しんこう、文久3年12月14日〈186… 塩谷 眞康(しおのや しんこう、文久3年12月14日〈1864年1月22日〉 - 大正7年〈1918年〉3月24日)は、日本の政治家、教育家。衆議院議員(1期)、群馬県会議員(2期)。前名は塩谷 五十足(しおのや いそく)。 上野国吾妻郡小泉村(太田村を経て現・群馬県吾妻郡東吾妻町)出身。父は塩谷真雄。群馬師範学校(現・群馬大学教育学部)卒業後、郷里で教員となる。その後上京し1887年(明治20年)に慶應義塾を卒業。自宅の近くに春山館という私塾を開いて多くの若者を育成し、図書を多く収蔵して図書館の先駆となった。 1890年(明治23年)、群馬県会議員に当選。1894年(明治27年)に再選され常置委員となる。
下村 善右衛門(善右衞門、しもむら ぜんうえもん、1863年… 下村 善右衛門(善右衞門、しもむら ぜんうえもん、1863年9月9日(文久3年7月27日)- 1934年(昭和9年)12月27日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員。 上野国群馬郡前橋本町(群馬県東群馬郡前橋本町、前橋町本町を経て現前橋市)で、初代前橋市長となる下村善太郎の長男として生まれた。父の方針で福沢諭吉から直接個人教育を受けた。1882年(明治15年)自費で4名の青年を海外に留学させた。 政界では、前橋市会議員、同参事会員を務めた。1899年(明治32年)群馬県会議員に選出された。1902年(明治35年)8月、第7回衆議院議員総選挙(群馬県前橋市、無所属)で初当選。第8回総選挙でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
竹内 清次郎(たけうち せいじろう、文久2年11月2日〈18… 竹内 清次郎(たけうち せいじろう、文久2年11月2日〈1862年12月22日〉 - 1944年〈昭和19年〉)は、日本の商人(生糸商)、政治家(前橋市会議員)、実業家。前橋商工会議所会頭。族籍は群馬県平民。 上野国(現・群馬県高崎市)生まれ。宮崎源吉の弟。1900年、竹内家の養子となった。生糸商、製糸業を営んだ。弟の勝蔵と竹内合名会社を経営し、共に前橋市における実業界の重鎮であった。1929年(昭和4年)第4代前橋商工会議所会頭に就任。 竹内撚織取締役、上州絹糸紡績、広瀬川電力各監査役、竹内商店代表社員(撚糸工場兼務)などをつとめた。 趣味は謡曲、囲碁、玉突き、俳句。宗教は天台宗。住所は群馬県前橋市本町。
細野 次郎(ほその じろう、1862年8月27日(文久2年8… 細野 次郎(ほその じろう、1862年8月27日(文久2年8月3日) - 1916年(大正5年)6月15日)は、日本の政治家、衆議院議員(3期)。 上野国佐波郡伊勢崎町(現在の群馬県伊勢崎市)の里正細野時敏と、渋沢栄一の従兄弟である渋沢喜作の姉の次男として生まれる[要出典]。東京帝国大学法科大学選科に学ぶ。鉱山業を営み、群馬県会議員、臨時治水調査会委員、群馬商工銀行、百工商会各(株)監査役となる。 1902年の第7回衆議院議員総選挙において群馬県郡部から壬寅会公認でで立候補して初当選した。1903年の第8回衆議院議員総選挙は不出馬。1908年の第10回衆議院議員総選挙では無所属で立候補してトップ当選した。
小室 良七(こむろ りょうしち、幼名・彦次郎、文久2年3月2… 小室 良七(こむろ りょうしち、幼名・彦次郎、文久2年3月27日〈1862年4月25日〉 - 1929年〈昭和4年〉9月2日)は、日本の政治家(群馬県邑楽郡会議員、館林町会議員)、商人(砂糖商)、実業家。館林貯蓄銀行、四十銀行、八十一銀行、東海銀行各取締役。上毛モスリン監査役。族籍は群馬県平民。 群馬県邑楽郡館林町(現・館林市)に生まれた。小室良之助の長男。幼名は彦次郎。家は代々砂糖販売を営み、彦次郎は第3代に当たる。「砂糖小室」の名は遠近に聞こえていた。 善導寺住職・満成和尚に漢学や書を学んだ。1883年12月、家督を相続し家業の砂糖商を継いだ。1886年10月、襲名して良七と改めた。 1889年、新町村制が実施され、4月に町会議員の選挙が行われた。
久米 民之助(くめ たみのすけ、文久元年8月27日〈1861… 久米 民之助(くめ たみのすけ、文久元年8月27日〈1861年10月1日〉 - 昭和6年〈1931年〉5月24日)は、日本の土木技術者(工学博士)、実業家、政治家。衆議院議員を4期務めた。故郷の群馬県沼田市に沼田公園を寄付し、沼田市名誉市民として顕彰されている。 上野国沼田(現在の群馬県沼田市)に生まれた。父は沼田藩士の久米権十郎正章。幼少期に両親を喪ったため、継母に養育される。 1876年(明治9年)6月、上京して慶應義塾に学ぶ。1878年(明治11年)に工部大学校土木科に入学。 1884年(明治17年)に工部大学校土木科を優秀な成績(第一等及第)で卒業。卒業後は高島嘉右衛門の土木事業に参画したという。
本間 三郎(ほんま さぶろう、1859年4月12日(安政6年… 本間 三郎(ほんま さぶろう、1859年4月12日(安政6年3月10日) - 1928年(昭和3年)12月27日)は、日本の剣術家、政治家。流派は本間念流。称号は大日本武徳会剣道範士。衆議院議員(3期)。 上野国佐波郡赤堀村(現・群馬県伊勢崎市)の本間千五郎の三男。家伝の念流剣術(本間念流)を修行する。 明治時代に榊原鍵吉が撃剣興行で前橋を訪れ、その後榊原に入門。山岡鉄舟にも師事する。 1893年(明治26年)、警視庁の各警察署に撃剣試合を挑み、門奈正、内藤高治、佐々木正宜、夏目又之進、得能関四郎、柴田衛守ら撃剣世話掛を連破する。 1915年(大正4年)、第12回衆議院議員総選挙に当選。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に当選。
五代 正田 文右衛門(ごだい しょうだ ぶんえもん、前名・唯… 五代 正田 文右衛門(ごだい しょうだ ぶんえもん、前名・唯一郎、1858年12月29日〈安政5年11月25日〉 - 1941年〈昭和16年〉)は、日本の政治家(群馬県邑楽郡館林町長)、醤油醸造家(亀甲正醤油醸造元)、実業家。正田醤油取締役社長。群馬醤油同業組合長。族籍は群馬県平民。上皇后美智子は曽孫にあたる。今上天皇の高祖父。 群馬県邑楽郡館林町(現・館林市)出身。4代正田文右衛門の長男。正田家は旧幕時代「米文」と称し米穀商を営んでいたが、祖父・文七に至りこれを廃し1873年(明治6年)以降醤油醸造業に従事した。 1878年(明治11年)に家督を継いで文右衛門を襲名。1904年(明治37年)ボイラー・エンジンを購入して機械化を進め、1917年(大正6年)に正田醤油株式会社を設立した。
新井 毫(あらい ごう、安政5年11月10日〈1858年12… 新井 毫(あらい ごう、安政5年11月10日〈1858年12月14日〉 - 1902年〈明治35年〉11月24日/25日?)は、明治時代の民権運動家・政治家。衆議院議員(3期)、勢多郡会議員、黒保根村議会議員。国民協会所属。 安政5年(1858年)、上野国勢多郡下田沢村字鹿角(群馬県勢多郡黒保根村を経て現・桐生市黒保根町下田沢)に、新井乙瓢(佐吉)の第四子として生まれる。初名は筆吉。 明治5年(1872年)横浜に出て英語を川村敬三とドクトル・ブラオンに学ぶ。さらに慶應義塾や共慣義塾で勉学に励む。卒業後の1876年(明治9年)、「英学校静知社」を創立し校長となる。東京で雑誌『與論新誌』や『東京政談』を発刊し、「東京政談演説会」を主宰。
荒井 啓五郎(あらい けいごろう、安政5年8月13日〈185… 荒井 啓五郎(あらい けいごろう、安政5年8月13日〈1858年9月19日〉 - 1920年〈大正9年〉7月22日)は、明治から大正前期の公証人、政治家。衆議院議員。足尾鉱毒問題における田中正造の同労者。 上野国邑楽郡石打村(群馬県邑楽郡石打村、高島村大字石打、中島村、邑楽村を経て現邑楽町石打)で、名主・荒井源十郎、みね の長男として生れた。英僊三から読書、習字を学び、1874年(明治7年)に上京して飯田章湖の塾に入門して漢学を修めた。 帰郷して、1880年(明治13年)蜂巣長五郎を招聘し幽谷義塾を開き、主として英学、漢学、数学を郷土の子弟に教えた。1881年(明治14年)再度上京して明治法律学校(現明治大学)で法律学、経済学を学んだ。
須藤 嘉吉(すどう かきち、1858年5月27日(安政5年4… 須藤 嘉吉(すどう かきち、1858年5月27日(安政5年4月15日)- 1925年(大正14年)12月11日)は、明治から大正期の農業経営者・実業家・政治家。衆議院議員。 上野国碓氷郡嶺村(群馬県碓氷郡嶺村、原市町大字嶺村、安中町を経て現安中市嶺)で、名主、養蚕・蚕種農家、須藤仲造、たに の長男として生まれた。安中藩士・池田豊與知重に師事して漢籍を修めた。1889年(明治22年)東京法学院(英吉利法律学校後身、現中央大学)の在外生として法律学を研究した。同年9月、家督を相続。農業、製糸業を営んだ。 嶺村副戸長、碓氷郡書記、群馬県収税属を歴任。原市町会議員を務め、1892年(明治25年)3月、群馬県会議員に選出され連続4期在任し、同常置委員、同副議長、同参事会員も務めた。
高津 仲次郎(たかつ なかじろう、1857年11月24日(安… 高津 仲次郎(たかつ なかじろう、1857年11月24日(安政4年10月8日) - 1928年(昭和3年)12月19日)は、明治から昭和時代初期の政治家、実業家。衆議院議員(4期)、群馬県会議員(7期)、従六位。 上野国緑野郡中島村(群馬県緑野郡小野村、多野郡小野村を経て現藤岡市)の高津類蔵(のち安蔵に改名)の次男として生まれる。母くめ、兄佐市は仲次郎の幼少時に死去した。生家は養蚕業を生業とした。幼くして渋川の藍園義塾に入り、漢学を修めたのち、1882年(明治15年)上京し専修学校に入り、法学および経済学を学んだ。さらに1883年(明治16年)埼玉県の発陽学舎に入り英学を修めた。1885年(明治18年)再び上京し旧制東京専門学校に入り英学および政治学を学んだ。
初代 本間 千代吉(ほんま ちよきち、安政3年12月20日〈… 初代 本間 千代吉(ほんま ちよきち、安政3年12月20日〈1857年1月15日〉 - 1917年〈大正6年〉2月26日)は、明治時代の政治家。貴族院多額納税者議員。幼名・源四郎、名・応家。 本間千五郎応次、たに子の二男として上野国佐位郡市場村(赤堀村、赤堀町を経て現伊勢崎市)に生まれる。佐渡国の戦国武将、本間高統の後胤。幼少期に文学に目覚め、足立春英(竹陰)に漢学などを学ぶ。 慶応元年7月(1865年)亡兄十四松の跡を継いだ。1880年(明治13年)市場村外五箇村戸長に就任。ついで連合村会議員を経て、1885年(明治18年)3月、最多票数を獲得し佐位郡選出の群馬県会議員となる。1887年(明治20年)12月、満期退職後、佐波郡会議員、同参事会員などを歴任した。
二代目 澁澤 金蔵(にだいめ しぶさわ きんぞう、安政3年7… 二代目 澁澤 金蔵(にだいめ しぶさわ きんぞう、安政3年7月4日〈1856年8月4日〉 - 1930年〈昭和5年〉4月12日)は、日本の政治家、銀行家、名望家、群馬県多額納税者、地主。群馬県新田郡太田町長(初代)。族籍は群馬県平民。 上野国新田郡太田町(現・群馬県太田市)出身。質店を営んだ初代澁澤金蔵の長男で、1887年に父から家政を譲られた。前名を直次郎と呼び1889年、家督を相続して二代目金蔵を襲名した。 商業、金銭貸付業を営んだ。上毛実業銀行顧問、上野銀行、新田銀行各取締役、群馬商業銀行監査役などをつとめた。 町村制実施と同時に太田町初代町長となり、太田消防組第一回の組頭として以来町政に貢献し、また町議として活動した。
4代 桜井 伊兵衛(さくらい いへえ、安政元年3月〈1854… 4代 桜井 伊兵衛(さくらい いへえ、安政元年3月〈1854年〉 - 1896年〈明治29年〉10月7日)は、明治時代の大地主、政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。幼名は勝太郎。雅号・富香。 3代桜井伊兵衛、なお子の長男としてのちの群馬県西群馬郡高崎本町(高崎町を経て現高崎市)に生まれる。絹太織問屋松屋を経営。1881年(明治14年)高崎町会議員に当選。1885年(明治18年)長野堰連合町村会議員を経て、1887年(明治20年)2月、西群馬、片岡両郡の所得税調査委員となった。日本鉄道創立の際にはその発起人に名を連ね、ほか多数の会社重役を歴任した。 1890年(明治23年)6月10日、群馬県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から務めたが、在任中に死去した。
大河内 輝剛(おおこうち てるたけ、1855年1月16日(安… 大河内 輝剛(おおこうち てるたけ、1855年1月16日(安政元年11月28日) - 1909年(明治42年)10月9日)は、日本の明治期の教育者、実業家、衆議院議員、歌舞伎座社長。勲六等。大河内子爵家の一族。 高崎藩主・松平輝聴の次男として生まれる。1871年(明治4年)頃、藩士宮部譲らと共に脱藩し鹿児島に行こうとしたが、江戸で藩兵に捕らえられ、高崎に護送されて城外の威徳寺に幽閉される。1872年(明治5年)3月〜11月東京の尺振八に就き英学修業。1873年(明治6年)1月〜翌年5月横浜在留米国人に就き英語学修業。1874年(明治7年)11月慶應義塾に入塾、1879年(明治12年)7月に学科卒業。
中島 祐八(なかじま ゆうはち、3代祐八、諱教愛、幼名又輔、… 中島 祐八(なかじま ゆうはち、3代祐八、諱教愛、幼名又輔、嘉永7(安政元)年7月18日(1854年8月11日)- 大正2年(1913年)11月14日)は、日本の衆議院議員(自由党→立憲革新党→憲政本党→立憲国民党)。 上野国佐位郡赤堀村(現在の群馬県伊勢崎市)出身。豪農・先代中島祐八(2代祐八、諱周教、幼名逸作、利根郡奈良村石田家より養子)の長男として生まれ、1874年(明治7年)に副区長、1877年(明治10年)に学区取締、1881年(明治14年)に県会議員に就任した。1883年、「上野新聞」を発刊。1888年、上毛民会を組織するが、秘密集会の容疑で逮捕されてしまう。結局無罪となり、改めて群馬公議会を結成した。
岡 登喜太(おか ときた、安政元年7月5日〈1854年7月2… 岡 登喜太(おか ときた、安政元年7月5日〈1854年7月29日〉 - 1903年〈明治36年〉9月30日、ローマ字表記: Oka Tokita)は、日本の政治家。群馬県勢多郡荒砥村(現・前橋市二之宮町)出身で、同村の初代村長を務めた。群馬県会議員、勢多郡会議員としても活動したほか、地域の寺子屋教育に関与した記録が残る。 安政元年(1854年)、上野国勢多郡二之宮村に、父・岡孝十郎、母・かくの長男として生まれる。 明治維新により大区小区制が施行されると、戸長に就任した。 1889年(明治22年)3月4日、町村制施行により荒砥村が発足し、初代村長に就任した。1901年(明治34年)まで在職。 1890年(明治23年)、群馬県会議員に選出された。
竹井 懿貞(たけい よしさだ / いてい、安政元年1月11日… 竹井 懿貞(たけい よしさだ / いてい、安政元年1月11日〈1854年2月8日〉 - 1903年〈明治36年〉4月25日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(1期)。 上野国邑楽郡赤岩村(のち群馬県邑楽郡永楽村→千代田村、現・千代田町)の塩田家に生まれる。国学、漢学を学び、大学南校で教育を受け、さらにアメリカに留学する。帰国後、武蔵忍藩領大里郡熊谷町(埼玉県大里郡熊谷町を経て現熊谷市)の竹井家の養子となる。熊谷宿戸長、埼玉県属、埼玉県会議員を経て、1880年(明治13年)4月27日に同2代目副議長に就任した。 1885年(明治18年)大蔵省に入省し、大蔵省総務局会計課長となると東京府麹町区に転居した。
竹内 鼎三(たけうち ていぞう、嘉永5年5月28日〈1852… 竹内 鼎三(たけうち ていぞう、嘉永5年5月28日〈1852年7月15日〉 - 1900年〈明治33年〉7月26日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員、群馬県会議員。幼名・伴吉。 上野国勢多郡新川村(群馬県勢多郡新川村、南勢多郡新川村、新里村、勢多郡新里村を経て現桐生市新里町新川)で、竹内小吉郎、なか の二男として生れ、1877年(明治10年)叔父・竹内文五郎が病死したため、その死籍を継承し鼎三と改名した。学問を好み、村塾で儒学を修め、渡辺真楫から治水造林を学んだ。 15歳で父に代わって公務に就き、小学校教員、同教頭を務めた。学務委員、村吏となり、1880年(明治13年)7月、群馬県会議員に選出され、1891年(明治24年)まで在任し、この間、常置委員、第4代副議長も務めた。
宮口 二郎(みやぐち じろう、1852年5月21日(嘉永5年… 宮口 二郎(みやぐち じろう、1852年5月21日(嘉永5年4月3日)- 1930年(昭和5年)9月9日)は、明治から昭和初期の養蚕家、実業家、政治家。衆議院議員、群馬県会議長、群馬県碓氷郡初代原市町長。 上野国碓氷郡郷原村(群馬県碓氷郡原市町、安中町を経て現安中市郷原)で、薬屋絹商人・孫平、みい の二男として生まれた。兄・裕平が上京したため家督を相続した。安中藩藩校造士館教授佐々木愚山に師事し漢学を修めた。 1873年(明治6年)原市村吏員に就任し、第21大区副区長、碓氷郡書記を歴任。1879年(明治12年)第1回群馬県会議員選挙で当選し、通算6期在任し、同常置委員、同副議長を務め、1891年(明治24年)第4代議長に就任。
湯浅 治郎(ゆあさ じろう、嘉永3年10月21日〈1850年… 湯浅 治郎(ゆあさ じろう、嘉永3年10月21日〈1850年11月24日〉 - 1932年〈昭和7年〉6月7日)は、日本の明治から昭和戦前期にかけての政治家(衆議院議員、群馬県会議員)・実業家・社会運動家。雅号は雲外。同郷の新島襄から洗礼を受け、中村栄助、大澤善助とともに経営面で初期同志社を支えた。 弟は詩人の湯浅吉郎(半月)、妻は徳富蘇峰・蘆花の姉・初子、子に画家の湯浅一郎や同志社総長・国際基督教大学学長の湯浅八郎など。海老名弾正、山室軍平、深井英五らと親交があった。 嘉永3年10月21日(1850年11月24日)、上野国碓氷郡安中宿(現在の群馬県安中市)にて味噌醤油醸造業者・有田屋を経営する湯浅治郎吉・茂世の長男として生まれる。
左右田 金作(そうだ きんさく、1849年11月23日(嘉永… 左右田 金作(そうだ きんさく、1849年11月23日(嘉永2年10月9日) - 1915年(大正4年)3月26日)は、幕末から大正時代の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。開港した横浜で両替商を始めて成功し、銀行を興した。 越後の豪農を祖とする左右田金兵衛の二男として、上野国緑野郡鬼石村(群馬県緑野郡鬼石町、多野郡鬼石町を経て現藤岡市鬼石)に生まれる。左右田信二郎の義兄。1872年(明治5年)1月、分家する。 高崎の染絹問屋、鬼石の酒造業者などで奉公したのち、1863年(文久3年)13歳の時、横浜に移り、蚕糸商中里商店で働いたが製糸家を目指して帰郷するも種紙の製造に失敗し、再び横浜に出て、空びん回収や露天商で糊口をしのぐうち、衣類の質入れで作った金で1867年に両替商(ドル屋)「松野屋」を開く。
江原 芳平(えばら/えはら よしへい、嘉永元年9月12日〈1… 江原 芳平(えばら/えはら よしへい、嘉永元年9月12日〈1848年10月8日〉 - 1928年〈昭和3年〉2月19日)は、明治から大正時代の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員、群馬県会議員、群馬銀行頭取。幼名は治三郎。 江原家は元々上野国勢多郡河原浜村(現・群馬県前橋市河原浜町)の出で、江戸時代の前半に前橋へ出て米穀商を営み、その2・3代後から醤油醸造業を始めたという。江原家が富豪となったのは芳平の父芳右衛門が横浜開港に伴い生糸業を始めたことによるという。 芳平は上野国群馬郡前橋新町(群馬県東群馬郡前橋町字新町を経て現前橋市)出身。「穀芳」として知られた江原芳右衛門の三男として生まれる。
小野田 元熈(おのだ もとひろ、1848年3月15日(弘化5… 小野田 元熈(おのだ もとひろ、1848年3月15日(弘化5年2月11日) - 1919年(大正8年)6月12日)は、幕末の館林藩士、明治から大正期の警察・内務官僚、政治家。官選県知事、貴族院議員、錦鶏間祗候。旧姓・藤野、幼名・貞治。 館林藩下士・藤野逸平の二男として生まれ、同藩の小野田安兵衛の養子となる。館林藩では、徒士格大納戸役、家老付日記役心得、藩内監察、少属などを歴任。 明治4年11月(1871年末頃)、東京府取締組羅卒小頭となり、さらに司法省少警部となり1873年2月に退官。1874年1月、警視庁少警部として再度、警察官となる。1877年2月、内務省警視局三等大警部兼陸軍歩兵中尉として、別働第3旅団第1大隊副官として西南戦争に従軍した。
渋沢 市郎(しぶさわ いちろう、弘化4年10月15日〈184… 渋沢 市郎(しぶさわ いちろう、弘化4年10月15日〈1847年11月22日〉 - 1917年〈大正6年〉1月19日)は、日本の政治家、実業家、養蚕家、篤農家。深谷銀行取締役。族籍は埼玉県平民。幼名は須永才三郎。子爵・渋沢栄一の妹婿で従弟。 幕領上野国新田郡成塚村(後・群馬県新田郡強戸村、現・太田市)に生まれた。須永惣次郎の二男。母は渋沢宗助(2代目)の娘で渋沢市郎右衛門(先代の市郎)の妹。兄は須永伝蔵。渋沢栄一が東京に移り、別に一家を創立したため、その妹婿となり渋沢市郎右衛門家(中ノ家)を承継した。1892年、選ばれて八基村会議員となり1899年、名誉村長に推薦された。1905年、職を辞し県会議員に当選した。
斎藤 寿雄(さいとう ひさお、弘化4年2月10日(1847年… 斎藤 寿雄(さいとう ひさお、弘化4年2月10日(1847年3月26日) - 1938年(昭和13年)2月17日)は、日本の外科医、政治家。衆議院議員(3期)、群馬県会議員(10期)、初代群馬県医師会長。 上野国北甘楽郡高瀬村(現・群馬県富岡市)の小幡藩藩医、斎藤寿幹(のち寿安)の子として生まれる。幼名・鋌策。はじめ藩の学問所で学び、文久元年(1861年)江戸の医師・福富玄同に弟子入りし、翌年群馬郡野田村(現・北群馬郡吉岡町)の外科医・原沢文仲の弟子となった。また高崎の五藤俊英に種痘術の教えを受けた。慶応3年(1867年)小幡藩奥詰医師となり寿幹の名を襲名。七日市藩医も兼務した。 明治2年(1869年)寿雄と改名し東京に遊学、明治4年(1871年)より大学南校に学び、翌年帰郷。
星野 長太郎(ほしの ちょうたろう、弘化2年2月3日(184… 星野 長太郎(ほしの ちょうたろう、弘化2年2月3日(1845年3月10日) - 明治41年(1908年)11月27日)は、日本の実業家・政治家。衆議院議員当選1回(当初は甲辰倶楽部で、後の大同倶楽部に所属)。農民出身であったが外国人居留地外商を介さず日本人による初の生糸直輸出を実現した。産業組合結成などにも取り組み、明治期における日本製生糸の品質向上と輸出の飛躍的拡大の先駆者となった。 上野国(現群馬県)勢多郡水沼村(後の黒保根村、現桐生市黒保根町)の農民であったが、明治初期に製糸業と生糸貿易の将来性に着目して、群馬県初の日本人の手による民間洋式器械製糸所を開設。実弟をニューヨークへ派遣し、市場開拓・販路を確保するなどして日本人による初の生糸直(じか)輸出を実現した。
真下 珂十郎(眞下、ましも かじゅうろう、天保14年9月27… 真下 珂十郎(眞下、ましも かじゅうろう、天保14年9月27日〈1843年10月20日〉 - 1898年〈明治31年〉10月1日)は、明治期の公吏、政治家、実業家。衆議院議員、群馬県碓氷郡原市町長。号・虚斎。 上野国碓氷郡、のちの群馬県碓氷郡原市町(安中町を経て現安中市)で、真下利七、しゅん の長男として生れた。佐々木愚山に師事し漢学、詩文を修めた。安政3年9月(1856年)安中藩士分となり、のち新徴組に加わり国事に奔走した。 1875年(明治8年)熊谷県雇となり、暢発学校(のち群馬県師範学校)俗務係を務め、北第21大区碓氷郡37カ町村と甘楽郡5カ村誌の編纂を担当。1876年(明治9年)北第21大区副区長に就任し、第19番中学区取締、医務取締、碓氷郡書記、学務委員、衛生委員、勧業委員などを務めた。
萩原 鐐太郎(はぎわら / はぎはら りょうたろう、1843… 萩原 鐐太郎(はぎわら / はぎはら りょうたろう、1843年7月2日(天保14年6月5日)- 1916年(大正5年)7月31日)は、明治から大正初期の養蚕家、篤農家、政治家。衆議院議員。 上野国碓氷郡東上磯部村(群馬県碓氷郡東上磯部村、磯部村東上磯部、磯部町、安中町を経て現安中市)で、豪農・萩原四郎左衛門、とま子の第二子(二男)として生れた。母が出産直後に死去したため、代々里正を務める家の叔父・萩原弥左衛門の養子となる。佐々木愚山に師事し和漢の群書を学び、山口藤十郎に剣術を、水戸藩士・黒田健之助に柔術・居合を学んだ。 1858年(安政5年)養父の死去に伴い家督を相続し、同年7月11日(6月1日)里正に就任した。
横山 意一郎(よこやま いいちろう、天保11年4月8日〈18… 横山 意一郎(よこやま いいちろう、天保11年4月8日〈1840年5月9日〉 - 1903年〈明治36年〉4月30日)は、日本の政治家、群馬県の大地主。群馬県会議員。族籍は群馬県平民。 群馬県新田郡太田町(現・太田市)に、横山佐右衛門の長男として生まれる。嘉永3年(1850年)家督を相続する。大地主で、農業を経営する。素封家の主人で、宝生流謡曲を趣味とする。 明治初年太田町肝煎名主戸長、1884年(明治17年)4月から同年8月まで県会議員をつとめる。 1898年(明治31年)に隠居。菩提寺は太田市の受楽寺。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
中島 行孝(なかじま ゆきたか、天保5年8月28日〈1834… 中島 行孝(なかじま ゆきたか、天保5年8月28日〈1834年9月30日〉 - 1914年〈大正3年〉5月1日)は、明治から大正初期の大蔵官僚、実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・桐生。 上野国佐位郡、のちの群馬県佐波郡赤堀村(赤堀町を経て現伊勢崎市)で、桐生儀兵衛の長男として生まれ、その後、中島家の養子となる。 1869年(明治2年)大蔵省に入省し、大蔵省一等属となる。牛込で私塾を開き、塾生には郷誠之助らがいた。1882年(明治15年)に退官し実業界に転じた。東京株式取引所理事、前橋電気軌道社長、東京府農工銀行取締役、同農工貯蓄銀行頭取、帝国商業銀行監査役などを務めた。 政界では、東京市会議員、同参事会員、東京府会議員に在任。
初代 澁澤 金蔵(しょだい しぶさわ きんぞう、1829年1… 初代 澁澤 金蔵(しょだい しぶさわ きんぞう、1829年11月〈文政12年11月〉 - 没年不明)は、日本の商人、慈善家、政治家。群馬県多額納税者。族籍は群馬県平民。 上野国新田郡太田町(現・群馬県太田市)に生まれた。周蔵の長男。幼い頃から豪放不羈で、他人に頼り衣食することを欲しなかった。母を亡くし、13歳の頃父を助けて質屋古着商を営むが失敗。ことごとく資本を失う。ほとんど「赤貧洗うがごとし」の状態となった。18歳の頃その目的を父に告げて家を出た。他郷に周遊し多くの苦労をしたが、ついに意を果たさず、嘉永4年、家に帰り一小太物店を開いた。 前の負債は元利益々嵩み債主の督促はいよいよ厳しくなったため、いったん家を売却して償還することを父に告げたが父は許さなかった。
柳沢 剛 は、日本の政治家。
小暮 英三郎(こぐれ えいざぶろう、天保14年9月〈1843… 小暮 英三郎(こぐれ えいざぶろう、天保14年9月〈1843年〉 - 1926年〈大正15年〉1月24日)は、明治時代の政治家、銀行家。貴族院多額納税者議員。号・梅園。 小暮清之、房子の長男として上野国佐位郡太田村(佐波郡三郷村を経て現伊勢崎市)に生まれる。矢野正任、市川左近に儒学を、尾高高雅、海上胤平に国学を学ぶ。1871年(明治4年)旧伊勢崎藩主の酒井忠彰により副戸長を、同年8月には伊勢崎県庁より太田村正心学校頭取を命じられた。1874年(明治7年)伊勢崎町製糸共研究会頭取となり、訓導を経て、群馬県会議員、所得税調査委員、三郷村長などを歴任した。ほか、伊勢崎銀行頭取を務めた。和歌を能くし万葉集の研究をした。
清水 永三郎(しみず えいざぶろう / えいさぶろう、(安政… 清水 永三郎(しみず えいざぶろう / えいさぶろう、(安政5年2月16日〈1858年3月30日〉 - 1902年〈明治35年〉1月22日 / 11月22日 / 11月23日)は、明治期の政治家。衆議院議員、群馬県会議員、群馬県北甘楽郡高瀬村長。 上野国甘楽郡上高瀬村(群馬県甘楽郡上高瀬村、高瀬村、熊谷県甘楽郡高瀬村、群馬県甘楽郡高瀬村、北甘楽郡高瀬村、甘楽郡高瀬村を経て現富岡市上高瀬)で、豪農・嘉蔵の長男として生れた。小幡藩士・菅沼正志から漢籍を学び、19学区鏑川学校、熊谷県立暢発学校(のち群馬県師範学校)で学び、小学校教員を務めた。その後、山井幹六に師事し漢籍、詩文を修めた。 1878年(明治11年)有志と生産会社を設立して頭取に就任したが1880年(明治13年)に辞任し、自由民権運動に加わる。