切通 理作 (きりどおし りさく、1964年2月21日 - … 切通 理作 (きりどおし りさく、1964年2月21日 - )は、日本の文芸評論家、脚本家、映画監督。 東京都杉並区生まれ。母は狩野美智子であり、被爆二世にあたる。和光高等学校、和光大学人文学部文学科卒業後、同研究生。 文化批評をメインとする。若者文化に見識を持ち、非常勤講師を務める大学でも『若者文化論』を担当。 「朝日新聞」「毎日新聞」「日本経済新聞」「産経新聞」「共同通信」「時事通信」「沖縄タイムス」「熊本日日新聞」「週刊読書人」「図書新聞」「サンデー毎日」「週刊朝日」「週刊文春」「中央公論」「わしズム」などで時評・書評・コラムを執筆。 「キネマ旬報」「映画芸術」「映画秘宝」「月刊ドラマ」等に映画・テレビドラマ評や映画人への取材記事、「文學界」「群像」「すばる」に文芸批評を執筆。
福澤 克雄(ふくざわ かつお、1964年(昭和39年)1月1… 福澤 克雄(ふくざわ かつお、1964年(昭和39年)1月17日 - 、53歳)は、TBSテレビ・制作1部所属のテレビドラマのディレクター・演出家・映画監督。元・ラグビー選手。
光石 富士朗(みついし ふじろう、1963年12月9日 - … 光石 富士朗(みついし ふじろう、1963年12月9日 - )は、日本の映画監督、脚本家、演出家。東京都出身。 日本大学第三高等学校、日本大学文理学部社会学科卒業。大学を卒業後、廣木隆一、神代辰巳らの助監督を務め、プロの現場で活動を始める。2002年の映画『おぎゃあ。』では、予期せぬ妊娠をした少女が母親になるまでの過程を爽やかに描き出し「遊び心があり、革新的でエネルギーに満ち、現実とファンタジーの融合に成功した稀有な作品」と絶賛され、ハワイ国際映画祭でネットパック特別賞(最優秀アジア映画賞)を受賞。その他の主な監督作品に『富江 replay』、『M-1グランプリへの道 まっすぐいこおぜ!』などがある。
柴田 昌平(しばた しょうへい、1963年10月8日 - )… 柴田 昌平(しばた しょうへい、1963年10月8日 - )は、日本の映画監督(ドキュメンタリー映画の監督)。 東京都出身。幼少期から転校を繰り返す。大阪府立清水谷高等学校から東京都立駒場高等学校を卒業。 1988年に東京大学卒業(文化人類学専攻)後、NHK(沖縄放送局、報道局特報部)、姫田忠義の「民族文化映像研究所」を経て1995年に独立。 現在は、自身が代表を務める(有)プロダクション・エイシアより、映像作品を世に送り出している。沖縄やアジアに目を向けた映像作品(主にドキュメンタリー)を作りつづけている。
松村 克弥(まつむら かつや、1963年3月19日 - )は… 松村 克弥(まつむら かつや、1963年3月19日 - )は、日本の映画監督。東放学園映画制作科講師。妹は東京都議会議員の上田令子。叔父は松村文武。 東京都港区西麻布出身。明治学院高等学校卒業。成城大学文芸学部国文学科卒業。大学在学中、映画研究部で自主制作映画の制作に携わる。卒業後、毎日映画社演出課に入社。同社にてTVドキュメンタリー、短編記録映画など100本近くの構成や演出に携わる。1988年、ニュース映画『今なお苦悩は続く~土呂久公害70年~』で毎日映画コンクールの短編映画部門グランプリ受賞。その後、1991年にフリーランスへ転進。映画監督として活動を開始する。日本映画監督協会所属。 大学時代は国文学科に学び、卒業論文では『奥の細道』について研究していた。
ケラリーノ・サンドロヴィッチ(Keralino Sandor… ケラリーノ・サンドロヴィッチ(Keralino Sandorovich、1963年1月3日 - )は、日本の劇作家、演出家、映画監督、音楽家、俳優。演劇分野では「ケラリーノ・サンドロヴィッチ」名義で活動。音楽分野では「ケラ」名義(あるいは「KERA」名義)で活動。出生名は小林 一三(こばやし かずみ)。 東京都渋谷区出身。日本大学鶴ヶ丘高等学校、横浜放送映画専門学院(現:日本映画大学)卒業。劇団「ナイロン100℃」およびインディーズレーベル「ナゴムレコード」主宰。テクノポップバンド「有頂天」で1980年代にブレイクした。所属事務所はキューブ。妻は女優の緒川たまき。 父親はジャズ・ミュージシャンの小林巽。
長土居 政史(ながどい まさし、1963年 - )は、ロサン… 長土居 政史(ながどい まさし、1963年 - )は、ロサンゼルスで活動する日本人映画監督。 1963年東京生まれ。 都立南高校卒業。明治大学中退。両親は北海道出身。母親は樺太育ち。1983年初渡米。アラバマ州モービル市スプリング・ヒル大学で英語夏期講習修了。その後元副大統領、元駐日米国大使ウォルター・モンデール、前国連事務総長コフィー・アナンの出身校のミネソタ州私立マカレスター大学に留学。国際関係と経済・経営学部の2学部を専攻し1987年卒業。インターナショナル経済名誉会のメンバーに選出され、ジェネラル・フーズ奨学金を受ける。在学中の85年夏にメキシコに渡りスペイン語とメキシコ文化を、86年冬にイギリス・フランスに渡りヨーロッパの建築、美術を学ぶ。
井川 耕一郎(いかわ こういちろう[3]、1962年[3][… 井川 耕一郎(いかわ こういちろう[3]、1962年[3][4][5]7月27日[6] - )は、日本の映画監督、脚本家である[6][7]。映画美学校フィクション・コース講師[4]。1990年代より主にVシネマの脚本を手がける[8]。監督作品に『寝耳に水』や『西みがき』等の短篇のほか[8]、商業映画初監督作『色道四十八手 たからぶね』、脚本作品に『黒い下着の女教師』や『喪服の未亡人 欲しいの…』などがある[9]。
是枝 裕和(これえだ ひろかず、1962年6月6日 - )は… 是枝 裕和(これえだ ひろかず、1962年6月6日 - )は日本の映画監督、テレビドキュメンタリー演出家。
篠原 哲雄(しのはら てつお、1962年2月9日 - )は、… 篠原 哲雄(しのはら てつお、1962年2月9日 - )は、日本の映画監督。 東京都出身。弟は音楽プロデューサーの篠原廣人[リンク切れ]。桐蔭学園高等学校、明治大学法学部卒。専攻は法社会学、法文化論。 大学卒業後、助監督として森田芳光、金子修介、根岸吉太郎監督作品などに就く傍ら、自主制作も開始。 1989年に8ミリ『RUNNING HIGH』がPFF89特別賞を受賞。1993年に16ミリ『草の上の仕事』が神戸国際インディペンデント映画祭でグランプリ受賞。国内外の映画祭を経て劇場公開となる。山崎まさよしが主演した初長編『月とキャベツ』(96)がヒット。 2018年、『花戦さ』で第41回日本アカデミー賞優秀監督賞を受賞。
手塚 眞(てづか まこと、本名:真(新字体)、1961年8月… 手塚 眞(てづか まこと、本名:真(新字体)、1961年8月11日 - )は、日本の映像クリエーター、映画監督。 有限会社ネオンテトラ代表取締役、株式会社手塚プロダクション取締役。一般財団法人手塚治虫文化財団代表理事。宝塚市大使。手塚治虫記念館名誉館長兼総合プロデューサー。イメージフォーラム映像研究所講師。ジャパン・イメージ・カウンシル理事。知的財産管理技能検定委員。 父は漫画家の手塚治虫、妹はプランニングプロデューサー・手塚プロダクション取締役の手塚るみ子、妻は漫画家の岡野玲子。また、祖父に写真家の手塚粲、曽祖父に司法官の手塚太郎、高祖父に医師の手塚良仙がいる。 手塚治虫の長男(第1子)として生まれる。
勝山 茂雄(かつやま しげお、1961年 - )は、日本の映… 勝山 茂雄(かつやま しげお、1961年 - )は、日本の映画監督、脚本家、映画学校講師。おもにピンク映画などを数多く手がけている。 1961年、東京都江東区生まれ。にっかつ芸術学院卒業(1982年)後、サトウトシキなどと一緒にピンク映画の制作に携わる。監督・広木隆一の助監督につき、制作・演出を学ぶ。 平行して早稲田大学映画サークル、東洋大学映画研究部と共に自主映画活動も始める。 1984年、自主映画『元気の出るマロン』日本映像フェステバルにて芸術家・岡本太郎に認められ金賞受賞。 1986年公開の『ロマン子クラブ エッチがいっぱい』で助監督を務めた。 1988年・新東宝『フラワーハイツの懲りない面々』にて映画監督として活動を始める。
鶴田 法男(つるた のりお、1960年12月30日 - )は… 鶴田 法男(つるた のりお、1960年12月30日 - )は、日本の映画監督、脚本家、小説家。 「Jホラーの父」、「Jホラーの先駆者」と呼ばれる。2010年より「三鷹コミュニティシネマ映画祭」にスーパーバイザーとして協力。アンドリーム(&REAM)所属。 東京都生まれ。実家は東京都三鷹市で映画館「三鷹大映」を経営していた(大映倒産後は「三鷹東映」を経て、名画座「三鷹オスカー」となり、1990年に閉館)。和光大学経済学部卒業後は船井電機に就職。ちょうどフナイがVHSに参入した時期であり、フナイ傘下のビデオソフト会社である「HRSフナイ」で海外のマニアックな映画を買い付け、VHSで盛んにリリースした。
横山 浩之(よこやま ひろゆき、本名 横山浩幸、1960年9… 横山 浩之(よこやま ひろゆき、本名 横山浩幸、1960年9月26日 - )は、映画監督。東京都葛飾区出身。 横浜放送映画専門学院(現:日本映画大学)を卒業後、ドラマの助監督として現場に入る。TVの連続ドラマや2時間ドラマを経験した後、映画に転向、ディレクターズ・カンパニーの作品(主に井筒和幸監督作品)や石井隆、竹中直人などのチーフ助監督を勤め、1995年に監督になる。劇場用全国公開作品「蝉祭りの島」では高い評価を得る。横山楽居の名前でも作品がある。2010年6月には日本初のUstreamを使ったネットドラマ『美人坂』(2010年7月2日 - 8月6日、JNC)すの企画、演出を担当した。2015年に岡田秀春と「it JAPAN イット・ジャパン」(映画の力で日本の魅力を国内外に発信するプロジェクト)を設立。
岡本 英郎(おかもと ひでお|1960年〈昭和35年〉3月2… 岡本 英郎(おかもと ひでお|1960年〈昭和35年〉3月28日 - )は、日本のデザイナー、メカニックデザイナー、イラストレーター、映画監督。東京都葛飾区亀有出身。別名義に島本高雄がある。 高校当時にイラストに熱中していたところをアニメプロデューサーの野崎欣宏に才能を認められ、18歳で彼からの初仕事としてテレビアニメ『宇宙大帝ゴッドシグマ』の玩具のミニカードを描く。その後、デザイン会社「デザインメイト」への就職を経て独立し、同社のサブマリン、伸童舎、3Dプラネッツなどのスタジオに出入りしていた。『機動戦士Ζガンダム』や『機動戦士ガンダムΖΖ』、『桃太郎伝説 PEACHBOY LEGEND』などのデザインに関わった後、『鎧伝サムライトルーパー』の鎧デザインコンペに「負けたら業界から身を引くつもりで」参加し、採用される。
塚本 晋也(つかもと しんや、1960年1月1日 - )は、… 塚本 晋也(つかもと しんや、1960年1月1日 - )は、日本の映画監督、俳優。 東京都渋谷区出身。渋谷区立渋谷小学校、渋谷区立原宿中学校、日本大学鶴ヶ丘高等学校、日本大学芸術学部卒業。有限会社海獣シアター代表取締役。コマーシャルのナレーターとしては大沢事務所所属。既婚。 映画監督としては、自ら製作・監督・脚本・撮影・美術・編集・出演を兼ねる自主制作スタイルを貫いている。 下北沢で生まれ原宿で育つ。幼少の頃から観ていた「ウルトラQ」(その他)に衝撃を受け、中学時代から自主映画を作り始める。当時は怪獣映画に夢中で、円谷一の著書『特撮のタネ本』をバイブルにしていた。中学2年生(当時14歳)の時に水木しげるのマンガ『原始さん』を原案にして、父が持っていた8ミリカメラで映画製作をする。
今関 あきよし(いまぜき あきよし 、本名:今関 明好(読み… 今関 あきよし(いまぜき あきよし 、本名:今関 明好(読み同じ)、1959年11月19日 - )は、日本の映画監督、演出家。東京都出身。日本大学豊山高等学校卒業、日本大学経済学部中退。 学生時代の1975年頃から自主制作により8ミリ映画の製作を開始し、1979年に三留まゆみ主演の自主映画『ORANGING'79』がオフシアター・フィルムフェスティバル'79(のちのぴあフィルムフェスティバル)で大林宣彦の推薦により入選。1982年には文芸坐を中心とする自主映画プロジェクトマインド・ウェーブ・シネマに参加し、『フルーツ・バスケット』『MILK○MILK』を発表する。 1983年に富田靖子主演の劇場映画『アイコ十六歳』で商業映画デビュー。
山崎 幹夫(やまざき みきお、1959年 - )は、日本の映… 山崎 幹夫(やまざき みきお、1959年 - )は、日本の映画監督。東京都立川市生まれ、東村山市育ち。 主に8ミリフィルムを使って、自主制作映画を80本以上制作。1994年には商業映画『プ』を監督。2007年にはシングル8の製造中止を理由に一旦作品制作を中止するが、2009年からHDVを使って再開。 缶コーヒー収集家でもある。 この項目は、映画関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。
五月 真理矢(さつき まりや、1958年5月3日 - )は、… 五月 真理矢(さつき まりや、1958年5月3日 - )は、日本の映画監督、プロモーションビデオ監督、コラムニスト、DJ、元・女優。旧名は五月マリア(さつき マリア)。 1958年、東京の広尾に生まれる。義父は詩人の金井直。1976年、洗足学園大学高等学校を卒業後、劇団昴の研究生になる。女優デビューし、多数のピンク映画に出演。1982年、23歳の時に小水一男監督の推薦により『変態若妻責め』で監督デビュー。プロモーションビデオの演出も手掛ける。 この項目は、映画監督に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ映画)。 この項目は、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。
田口 トモロヲ(たぐち トモロヲ、1957年11月30日 -… 田口 トモロヲ(たぐち トモロヲ、1957年11月30日 - )は、日本の俳優、ナレーター、ミュージシャン、映画監督、元エロ劇画家。マッシュ所属。東京都武蔵野市出身。獨協大学経済学部中退(4年間一度も進級しなかった)。本名は田口 智朗(たぐち ともお)。パンク・ファンクバンドばちかぶりのボーカリストとしても活動。 2000年代前半に放送されたNHKのドキュメンタリー番組『プロジェクトX』のナレーションも担当していた。 在学中からアングラ演劇、自主映画、自販機本などに係わる。1978年、劇団「発見の会」入団。1979年、自販機本『劇画アリス』(アリス出版)に掲載した「愛虐の果て」で漫画家デビュー。
永山 耕三(ながやま こうぞう、1956年7月22日- )は… 永山 耕三(ながやま こうぞう、1956年7月22日- )は、日本のテレビドラマディレクター、映画監督。フジテレビジョン役員待遇制作局第1制作センター専任局次長。 東京都出身。父は元松竹会長の永山武臣。曾祖父は男爵永山武四郎。娘はサイバーエージェントのプロデューサーの永山瑛子。 学習院高等科を経て[要出典]、1981年成城大学文芸学部ヨーロッパ文化学科卒業後、フジテレビ入社。テレビディレクターとして多数のテレビドラマを手がけ『東京ラブストーリー』『ひとつ屋根の下』『ロングバケーション』など、フジテレビ月9ドラマを中心に多数のヒット作を演出した。 ドラマ制作センタープロデューサー、ゼネラルプロデューサーを経て、2013年6月27日から1年間編成制作局次長兼ドラマ制作部プロデューサー・ディレクター。
鹿島 勤(かしま つとむ、1956年6月18日 - )は、日… 鹿島 勤(かしま つとむ、1956年6月18日 - )は、日本の映画監督である。東京都目黒区出身。 東放学園卒業後フリーの助監督となり、澤井信一郎、長谷部安春、村川透らに師事。1989年、『勝手にしやがれヘイ!ブラザー』で監督デビュー。 『静かなるドン』の撮影時、当時まだ若手俳優だった香川照之に対し100回NGを出した事がある。それ以来、香川は真剣に演技に向き合うようになったと語っている。
TOHJIRO(とうじろう、1956年6月17日 - )は、… TOHJIRO(とうじろう、1956年6月17日 - )は、日本のAV監督・映画監督・実業家。東京都港区六本木出身。株式会社オムプロダクション代表取締役。 すべてTOHJIRO名義
万田 邦敏(まんだ くにとし、1956年 - )は日本の映画… 万田 邦敏(まんだ くにとし、1956年 - )は日本の映画監督、脚本家、映画批評家。東京都出身。立教大学現代心理学部映像身体学科教授[3]。妻の万田珠実とは『Unloved』『接吻』で共同脚本を執筆している[4]。
金子 修介(かねこ しゅうすけ、1955年〈昭和30年〉6月… 金子 修介(かねこ しゅうすけ、1955年〈昭和30年〉6月8日 - )は、日本の映画監督。 東京都渋谷区初台出身。東京都立三鷹高等学校、東京学芸大学教育学部卒業。大学卒業時には小学校教員・国語科の教員免許を取得している。 渋谷区立幡代小学校での同級生に劇作家の野田秀樹、東京学芸大学の映像芸術研究会(映研)での直接の先輩部員に映画監督の押井守がいる。映研では自主映画の制作ニュースを載せる新聞を発行して製作資金を集め、コメディ映画を撮影した。 大学を卒業した後、1978年(昭和53年)に映画会社日活へ入社。日活ロマンポルノの助監督を務めていた1981年(昭和56年)に、 押井の手がけていたテレビアニメ版『うる星やつら』第3話の脚本で商業デビュー。
馬場 康夫(ばば やすお、1954年〈昭和29年〉8月18日… 馬場 康夫(ばば やすお、1954年〈昭和29年〉8月18日 - )は、日本の制作会社経営者であり、著述家、映画監督、漫画原作者、YouTuberである。 ホイチョイ・プロダクションズ(東京都世田谷区)代表取締役社長。 東京都生まれ。成蹊小学校、成蹊中学校・高等学校、成蹊大学工学部卒業(政治家の安倍晋三とは幼稚園~大学までを過ごした親友)。 日立製作所元専務・馬場粂夫の孫にあたり、母方の祖父は建築家の藤井厚二である。 高校時代に8ミリ映画を撮り始めた(最初に出演してくれた友人の吉岡文男と田中真理子に敬意を表して、自身の全映画作品には必ず「文男」「真理子」という役名を登場させている)。 成蹊大学在学中に、同級生らとホイチョイ・プロダクションズを設立、漫画同人誌の発行や8ミリ映画の制作を行った。
高杉 弾(たかすぎ だん、1954年4月23日 - )は、日… 高杉 弾(たかすぎ だん、1954年4月23日 - )は、日本の編集者、文筆家、実業家、AV監督。自販機本『Jam』『HEAVEN』初代編集長。日本大学芸術学部文芸学科中退。本名は佐内 順一郎(さない じゅんいちろう)。 「作文家」を自称する文筆家で、1970年代後半から1990年代以降のアンダーグラウンド/サブカルチャー・シーンに与えた影響は大きい。現在は定職を持たず「メディアマン」というコンセプトのもとに国際的な隠居生活を送りながら、編集者、企画家、観光家、ステレオ写真家、臨済禅研究家、蓮の花愛好家として多方面で活動。 1954年4月23日、東京都品川区生まれ。その後、神奈川県に転居し1958年から1963年まで川崎市等々力の水郷地帯で蓮の実を食べて育つ。
小林 政広(こばやし まさひろ、1954年〈昭和29年〉1月… 小林 政広(こばやし まさひろ、1954年〈昭和29年〉1月6日 - 2022年〈令和4年〉8月20日)は、日本の映画監督、脚本家。映画製作会社モンキータウンプロダクション代表。 1970年代頃は高田渡に師事し、林ヒロシという名でフォークシンガーをしており、脚本家時代には小林宏一名義での作品もある。 東京都文京区本郷生まれ。学習院高等科卒。 『痛快!婦警候補生やるっきゃないモン!』などのテレビの脚本家を経て1980年代後半からピンク映画の脚本を執筆。サトウトシキ監督らと組んで数々の話題作を生み出し、名脚本家として名を高めた。並行して『これでいいのだ』『おごるな上司!』などのNHKドラマ脚本も多数執筆している。
相原 英雄(あいはら ひでお、1954年 - )は、東京都出… 相原 英雄(あいはら ひでお、1954年 - )は、東京都出身の事業家・映画プロデューサー・テレビプロデューサー・映画監督。株式会社プラネットエンターテイメント代表取締役。 早稲田大学高等学院、早稲田大学 商学部卒業。高校在学中から自主映画を製作、1973年、監督した作品が第1回日本を記録するフィルムフェスティバルで特別部門1位、読売新聞社賞を受賞。大島渚や海外の監督達から高い評価を得、ヨーロッパでも上映される。 大学卒業後は、テレビ業界に入り、多くのテレビドキュメンタリーやドラマを演出。1991年、株式会社プラネット (現・プラネットエンターテイメント)を設立し、数多くの映像作品を生み出す。1998年、プロデュースしたドラマでギャラクシー賞を受賞。
黛 りんたろう(まゆずみ りんたろう、1953年 - )は、… 黛 りんたろう(まゆずみ りんたろう、1953年 - )は、NHKエンタープライズ所属のドラマ番組ディレクター、演出家、映画監督。
河毛 俊作(かわけ しゅんさく、1952年9月4日- )は、… 河毛 俊作(かわけ しゅんさく、1952年9月4日- )は、フジテレビジョン所属の役員待遇編成制作局ドラマ制作センターエグゼクティブディレクター、映画監督。東京都出身。河毛二郎の子、河毛一郎の甥。 1976年フジテレビ入社。以前は、編成製作局ゼネラルディレクター。父は王子製紙元会長の河毛二郎。慶應義塾大学卒業。 少年時代から映画監督に憧れてはいたが、大学卒業時にはすでに映画産業は衰退の一途をたどっていたことに不安を感じ、それでも映像に携わりたいと思い、テレビ局入りを決めた。 『セーラー服と機関銃』など、1980年代前期からテレビドラマの演出で活動。1980年代後期から1990年代初期にはいわゆるトレンディドラマの演出の一翼を担った。
那須 博之(なす ひろゆき、1952年1月27日 - 200… 那須 博之(なす ひろゆき、1952年1月27日 - 2005年2月27日)は、日本の映画監督。東京都杉並区桃井出身。妻は脚本家の那須真知子。 父は建設会社社長。東京都立西高等学校、東京大学経済学部卒業。大学在学中はワンダーフォーゲル部に所属し、山登りに熱中。そんな折に映画『仁義なき戦い』を見て強い衝撃を受け、アクション映画監督を志し日活に助監督として入社し、田中登、曽根中生、澤田幸弘らに師事。1982年に日活ロマンポルノ『ワイセツ家族 母と娘』で監督デビューする。ポルノ畑で修業を積んだのち、1985年に念願叶って手がけた初のアクション映画『ビー・バップ・ハイスクール』のヒットで注目され、同シリーズを立て続けに成功させて一時代を築く。
安達 かおる(あだち かおる、1952年1月27日 - )は… 安達 かおる(あだち かおる、1952年1月27日 - )は、日本のAV監督、実業家。V&Rプランニング元代表取締役。本名、三枝進(さえぐさ すすむ)。独自の作風で知られる。 東京都出身。幼少時代、外交官の父親に随行してイラン(テヘラン)に遊学、帰国し。1970年、國學院大學久我山高等学校を卒業。1974年、獨協大学外国語学部ドイツ語学科を卒業。 TV制作会社(ドキュメンタリー部門)を勤めた。しかし、営業で建前が多くて疲れ、末端の人たちから生の声を聞きたい、とスーパーマーケット「ジャストイン」を運営し、有限会社ブイアンドアールプランニングを設立した。 1986年、当時34歳の頃に、安達が知人の用事に付き添いでたまたまAV会社に行き、作品が足りないからとアルバイトとして安達がAVを作ることになった。
森田 健(もりた けん、1951年10月26日 - )は、コ… 森田 健(もりた けん、1951年10月26日 - )は、コンピュータソフト会社の経営者、不思議現象の研究者、ルポライター、SF作家、映画監督、作詞家、作曲家、著作家。 東京都西多摩郡日の出町出身。東京都立武蔵高等学校、上智大学電気電子工学科卒業。富士通を経て、コンピュータソフト会社を経営。開発した通信ソフトにて郵政大臣賞を受賞。 1997年、アメリカのモンロー研究所のセミナーに参加し、体外離脱を体験したという。1999年、2000年に船井総合研究所主催のフナイオープンワールドというスピリチュアル系イベントで講演を行う。2004年に『運命を変える未来からの情報』で六爻占術を紹介。 2005年、「不思議の科学」シリーズが、講談社α文庫より『「私は結果」原因の世界への旅』、『自分ひとりでは変われないあなたへ』、『ハンドルを手放せ』の3冊に改題・改訂出版された。
根岸 吉太郎(ねぎし きちたろう、1950年8月24日 - … 根岸 吉太郎(ねぎし きちたろう、1950年8月24日 - )は、日本の映画監督。東北芸術工科大学理事長。 東京都出身。東京都立駒場高等学校、早稲田大学第一文学部演劇学科卒業。 早稲田大学卒業後、1974年日活に入社。同期には池田敏春がいる。なおこの年はにっかつが映画制作再開に伴い10年ぶりに大学卒の新卒採用を再開した年でもあった。藤田敏八、曽根中生に師事。 早稲田卒業時の論文は、野田高梧の脚本における時間経過などがテーマであり「映画監督志望なのになんで小津ではなく野田か」と、仲間内でも笑う者や不思議がる者が多かったという。
五代目 坂東玉三郎(ごだいめ ばんどう たまさぶろう、195… 五代目 坂東玉三郎(ごだいめ ばんどう たまさぶろう、1950年(昭和25年)4月25日 - )は、歌舞伎役者、日本の俳優、映画監督、演出家。本名は守田 伸一(もりた しんいち)。通名は守田 親市(もりた しんいち)。旧姓は楡原(にれはら)。屋号は大和屋。定紋は花勝見(はなかつみ)、替紋は熨斗菱(のしびし)。歌舞伎名跡「坂東玉三郎」の当代。
森田 芳光(もりた よしみつ、1950年1月25日 - 20… 森田 芳光(もりた よしみつ、1950年1月25日 - 2011年12月20日)は、日本の映画監督、脚本家である。
珠 瑠美(たま るみ、1949年1月15日 - )は、日本の… 珠 瑠美(たま るみ、1949年1月15日 - )は、日本の女優、映画監督・脚本家。出生名は小谷 瑠美(こたに るみ)、木俣堯喬との結婚後本名は木俣 瑠美(きまた るみ)。珠 るみ、珠 ルミとクレジットされた作品もある。プロダクション鷹取締役、代表取締役を歴任した。 1949年(昭和24年)1月15日、東京都世田谷区烏山町(現在の同区烏山)に生まれる。父は戦前に日活大将軍撮影所の小道具係であり、戦後も東映東京撮影所や連合映画撮影所で装飾部として活動した小谷春勇(小谷春男)、叔父が大映の撮影技師・渡辺公夫(1918年 - 1983年)、兄がのちに東映の照明部に在籍しており、2歳下の妹がのちに女優なる谷身知子(1951年 - )である。
市川 準(いちかわ じゅん、1948年11月25日 - 20… 市川 準(いちかわ じゅん、1948年11月25日 - 2008年9月19日)は、日本の映画監督、CMディレクター。 本名は、市川 純(読み同じ)。東京都府中市出身。CM演出家を経て1987年に『BU・SU』で映画初監督。以降、幅広い題材に意欲的に取り組み話題作を数多く発表した。 聖パウロ学園高校卒業後、画家を志して東京芸術大学美術学部絵画科への入学を目指すが浪人を繰り返す。1975年にCM制作会社に入社してCM演出家になり、1981年の退社後は無所属で活動する。演出家として禁煙パイポ、タンスにゴン(金鳥)、エバラ焼肉のたれ、ヤクルトタフマン、デューダ等の、テレビCMを手掛ける。1985年にはカンヌ国際広告祭で金賞を受賞している。
荒井 晴彦(あらい はるひこ、1947年1月26日 - )は… 荒井 晴彦(あらい はるひこ、1947年1月26日 - )は、日本の脚本家・映画監督。日本映画大学教授。季刊誌『映画芸術』発行人、編集長。東京都生まれ。母方の祖父は日本画家の石井林響。若松プロダクション出身。 東京都立立川高等学校卒業。早稲田大学第一文学部除籍。脚本家の田中陽造に師事。若松孝二作品の脚本を出口出名義で、足立正生とともに執筆した。新宿乱れ街 いくまで待って(1977年)が初脚本作品となった。その後、脚本家としてピンク映画や日活ロマンポルノなどの脚本を多数執筆している。1997年、『身も心も』が初監督作品となった(脚本も執筆)。「シナリオはシナリオ作家の著作物である」とのスタンスから、監督やプロデューサーが自身に無断で自作シナリオを改変したとして、『時代屋の女房』『眠らない街 新宿鮫』『KT』の公開時に、『月刊シナリオ』や『映画芸術』誌上で強い不快感を表明している。
田中 未知(たなか みち、1945年〈昭和20年〉 - )は… 田中 未知(たなか みち、1945年〈昭和20年〉 - )は、日本の作曲家、楽器作家、映画監督、著作家。寺山修司を長年にわたり公私にわたって支えた人物、および1969年(昭和44年)のヒット曲『時には母のない子のように』の作曲家などとして知られる。東京都出身、東京都立千歳高等学校卒業。 昭和期の劇団「天井桟敷」の初期メンバーとして入団。初公演「青森県のせむし男」(1967年〈昭和42年〉)から劇団の一員として活動しており、制作と照明を担当していた。 天井桟敷の旗揚げ公演の資金作りのため、寺山を囲む会費制のサロンの会が開催され、そのコーナーの一環として、田中が寺山の詩に曲をつけ、ギターで披露した。
皆川 隆之(みながわ たかゆき、1942年3月4日 - )は… 皆川 隆之(みながわ たかゆき、1942年3月4日 - )は、日本の脚本家・映画監督。 東京都世田谷区松原町出身。佼成学園高校三年のとき、八木保太郎に師事してシナリオを学ぶ。1964年、青山学院大学経済学部卒業後演出を志し東映入社。東映京都撮影所に配属され、伊藤大輔、深作欣二、鈴木則文らの助監督に就く。1971年「女番長シリーズ」一作目の『女番長ブルース 牝蜂の逆襲』で脚本が採用され、同シリーズ4本の脚本を担当。 1973年、『狂走セックス族』で監督昇進。31歳の若き新人監督として期待された。1974年の『仁義なき戦い 完結篇』は一部の資料に監督を深作欣二と皆川のダブル・クレジットとするものがある。
木村 大作(きむら だいさく、1939年〈昭和14年〉7月1… 木村 大作(きむら だいさく、1939年〈昭和14年〉7月13日 - )は、日本の撮影技師、映画監督。文化功労者。 1939年生まれ。東京府出身。1958年、東京都立蔵前工業高等学校を卒業後、東宝撮影部にカメラ助手として入社し、黒澤明監督の組に配属される。1973年に『野獣狩り』でカメラマンデビュー。 自分の師匠は撮影助手として付いていた宮川一夫や斉藤孝雄ではなく黒澤明だとしており、その影響を強く受けたことを自認している。黒澤からも、そのピント合わせのうまさから一目置かれており、本人から「撮影助手で名前を憶えているのは大ちゃんくらいだ」と言われた事もあるという。黒澤は『用心棒』で犬が人の手首をくわえて歩いて来るカットをビデオで見るたびに、周りの人間に必ず「これ、ピント合わせてるの、大ちゃんだよ。
鈴木 健介(すずき けんすけ、1939年2月11日 - )は… 鈴木 健介(すずき けんすけ、1939年2月11日 - )は、日本の映画監督(ドキュメンタリー)、プロデューサーである。同姓同名の俳優の鈴木健介とは無関係の別人である。 1939年(昭和14年)2月11日、東京市豊島区巣鴨(現在の東京都豊島区巣鴨)に生まれる。 1963年(昭和38年)日本大学芸術学部映画学科演出コースを卒業。在学中には当時同大学で教授をつとめていた牛原虚彦に師事して演出の基本を学ぶ。50分の劇映画『明るすぎて暗い』を卒業製作として脚本、監督した。卒業後はフリーランスとして映画やテレビの仕事につく。 1966年(昭和41年)から3年間、中川信夫の助監督をつとめて強い影響を受け、中川が1984年(昭和59年)に死去するまでの18年間にわたり人生の師と仰いで交流した。
小林 義明(こばやし よしあき、1936年9月8日 - )は… 小林 義明(こばやし よしあき、1936年9月8日 - )は、日本の元映画監督・プロデューサー。主に特撮テレビドラマ作品を手がける。東映に所属していた。株式会社自由メディア代表。 1952年 東京教育大学附属中学校(現・筑波大学附属中学校)卒業。1955年 東京教育大学附属高等学校(現・筑波大学附属高等学校)卒業。1960年 日本大学藝術学部を卒業後、東映東京撮影所に入社。 佐伯清に師事し、社員監督の立場で数々の作品に携わる。最初に助監督としてついた作品は片岡千恵蔵主演の『二発目は地獄行きだぜ』(1960年1月27日公開)、デビュー作品は1966年のテレビドラマ『刑事さん』。その後、労働組合の幹部になったことから2年ほど労働を禁じられていたが、労使交渉により復帰し、吉川進プロデューサーの招きにより、1978年の『スパイダーマン』より特撮作品の演出に進出。
小谷 承靖 (こたに つぐのぶ、1935年12月21日 - … 小谷 承靖 (こたに つぐのぶ、1935年12月21日 - 2020年12月13日) は、日本の映画監督・演出家・脚本家。 父は鳥取県倉吉市2代目市長の小谷善高。 東京府東京市杉並区出身で、小学校2年生まで東京で育つ。公職追放になった父の故郷・鳥取県東伯郡西郷村の村長の後釜を引き受けたため、1944年3月末、当地に引っ越す。県立倉吉東高校卒業まで鳥取で過ごし、東京に戻りたくて、一浪後東京大学文学部フランス文学科入学を機に東京へ戻る。同時期に大江健三郎・久世光彦が在学していた。この2人は東大在学中から目立つ存在で、次第に落ちこぼれて映画に方向転換した。 大学卒業後、1960年に、暮しの手帖社と東宝の入社試験を受け、東宝に入社。
薩谷 和夫(さつや かずお、1935年7月20日 - 199… 薩谷 和夫(さつや かずお、1935年7月20日 - 1993年1月6日)は、日本の映画美術監督。東京都出身。 永田町小学校(現麹町小学校)、麹町中学校、東京都立明正高等学校を経て、青山学院大学文学部入学後、中退。中退後に東宝撮影所美術課に入社。入社後、最初の仕事は怪獣”ラドン”の翼の操演だった。 黒澤映画の美術監督である村木与四郎のもとで美術を学ぶ。兄弟子は竹中和男。 初美術監督作品は加山雄三の「若大将シリーズ」の『俺の空だぜ!若大将』。 お酒は”サントリー角瓶”を、ミュージカル映画は『イースターパレード』(1948)が最も好き、と公言。 主に大林宣彦の美術監督として知られるが、大林とは『HOUSE ハウス』の頃に知り合い、東宝退社後フリーとなってからも『転校生』以降、『青春デンデケデケデケ』までの大林映画の美術監督を務める。
永野 靖忠(ながの やすただ、1935年3月29日 - 19… 永野 靖忠(ながの やすただ、1935年3月29日 - 1993年2月17日)は、日本の映画監督、テレビ演出家。北海道小樽市奥沢町出身。 1953年に東京都立江北高等学校、1959年に日本大学芸術学部映画学科を卒業。東映教育映画部を経て東映テレビ・プロダクションに所属し、助監督として関川秀雄に師事する。1963年にテレビ朝日系「特別機動捜査隊」第80話「帰らざる海」で監督としてデビュー。 プライベートでは、監督を務めたライオン奥様劇場「罪人形」に出演していた女優の松木路子と1972年頃に結婚。 1993年2月17日、肝臓がんで死去。 特記がない限り監督のみ担当。
宮崎 晃(みやざき あきら、1934年10月27日 - 20… 宮崎 晃(みやざき あきら、1934年10月27日 - 2018年11月25日)は、日本の映画監督、脚本家。東京市(現東京都)荒川区出身。 1934年、東京市荒川区日暮里に生まれる。東京都立北園高等学校を卒業後、出版社で働くかたわら新劇の演出家を志す。4年間の社会人生活の後、東京外国語大学ロシア語科へ入学。 1961年、大学卒業と同時に松竹大船撮影所の助監督試験に合格して入社。野村芳太郎や山田洋次の助監督を務める。山田作品の多くでは脚本も共同執筆、『男はつらいよ』シリーズにも第2~6作、第11作に参加した。1971年、「泣いてたまるか」で監督デビュー。1975年、戯曲『青い鳥』をベースにした『想い出のかたすみに』監督。
加藤 彰(かとう あきら、1934年5月9日 - 2011年… 加藤 彰(かとう あきら、1934年5月9日 - 2011年4月8日)は日本の映画監督。 東京都立小石川高等学校、日本大学藝術学部映画学科卒業。後に、日活の社長になる根本悌二は小石川高校の同級生。日活に入社し中平康に師事する。日活ロマンポルノの全盛期を支えた監督の一人である。その後はテレビドラマを中心に活動していた。