山舩 晃太郎(やまふね こうたろう、1984年3月21日 -… 山舩 晃太郎(やまふね こうたろう、1984年3月21日 - )は、日本の考古学者。東京海洋大学非常勤講師、九州大学共同研究員。専門は水中考古学と船舶考古学。 秋田県出身。父が転勤族のサラリーマンだった影響で愛知県名古屋市や千葉県市川市などで育つ。名古屋での小学校時代に野球を始め、スポーツ推薦で法政大学第一高等学校に入学し、野球部へ入部して投手としてプロ野球への夢を追っていた。しかし、高校2年の時に右肘を故障して手術を受け、その影響で甲子園予選大会に出場することは出来なかった。 山舩は野球を諦めきれず、2002年に法政大学文学部へ入学し、同時に法政大学野球部に入部して神宮のマウンドに立つことを目指すが、他の選手とのレベルの違いや故障再発などで挫折、チームの打撃投手を務めるものの、結局は野球を断念する。
山田 康弘(やまだ やすひろ、1967年 - )は、日本の考… 山田 康弘(やまだ やすひろ、1967年 - )は、日本の考古学者。東京都立大学教授。専門は縄文時代・弥生時代を中心とした墓制論・社会論・精神文化論。近年では、考古学と人類学および理化学的分析を融合した総合研究領域である統合生物考古学(Integrative bioarchaeology)の確立と普及に力を入れている(https://i-bioarchaeology.org/)。 東京都生まれ。1986年東京都立小石川高校卒、1990年筑波大学卒、1994年同大学院博士課程歴史人類学研究科中退、同年熊本大学文学部助手、1996年土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム学芸員、1999年島根大学法文学部助教授、2007年准教授、2010年教授、2011年国立歴史民俗博物館准教授、2015年教授、2020年より東京都立大学人文社会学部教授。
熊木 俊朗(くまき としあき、1967年 - )は、日本の考… 熊木 俊朗(くまき としあき、1967年 - )は、日本の考古学者。専門は北東アジア考古学。東京大学大学院人文社会系研究科教授。 東京都立川市生まれ。1990年北海道大学文学部文学科言語学専攻課程卒業、旭化成工業入社。1994年明治大学文学部史学地理学科考古学専攻卒業。1996年東京大学大学院人文社会系研究科考古学専門分野修士課程修了。同年から常呂町で東京大学文学部附属常呂実習施設助手。2004年常呂町教育委員会社会教育課ところ遺跡の森主幹。2005年博士(文学)。2006年東京大学大学院人文社会系研究科准教授、北見市文化財審議委員会委員、北見市史跡整備専門委員、北見市常呂自治区社会教育推進会議副委員長、北見市常呂まちづくり協議会委員。
吉村 作治(よしむら さくじ、1943年〈昭和18年〉2月1… 吉村 作治(よしむら さくじ、1943年〈昭和18年〉2月1日 - )は、日本の考古学者(博士(工学)、乙種、早稲田大学、1999年)、東日本国際大学総長、早稲田大学名誉教授、サイバー大学客員教授。タレント。 日本のエジプト考古学の第一人者で、衛星写真分析などハイテクを導入した調査方法で遺跡を発掘する手法が評価される。 中野区立丸山小学校、東京学芸大学附属大泉中学校、東京学芸大学附属高等学校を経て、1969年に早稲田大学第一文学部を卒業。元アラブゲリラ隊員を自称している。1999年に早稲田大学より博士(工学) の学位を取得。以前にディプロマミルとされるパシフィック・ウエスタン大学より考古学博士号を購入していた。
茂木 雅博(もぎ まさひろ、1941年(昭和16年)12月2… 茂木 雅博(もぎ まさひろ、1941年(昭和16年)12月24日 - )は、日本の考古学者。茨城大学名誉教授。元土浦市立博物館館長。学位は、博士(歴史学)。
坂誥 秀一(さかづめ ひでいち、1936年(昭和11年)1月… 坂誥 秀一(さかづめ ひでいち、1936年(昭和11年)1月26日 - )は、日本の考古学者。立正大学名誉教授・同特別栄誉教授。同大学元学長(第27代)、品川区立品川歴史館館長を歴任。武蔵野文化協会会長。2012瑞宝中綬章受章。 東京都出身。立正大学付属立正中学校・高等学校を経て1958年(昭和33年)、立正大学文学部史学科卒業。1960年(昭和35年)、同大学院文学研究科国史学専攻修士課程修了。同大学助手・助教授・教授。1998年(平成10年)から2001年(平成13年)まで第27代学長。2006年(平成18年)定年退任、名誉教授。2012年(平成24年)春瑞宝中綬章叙勲。2020年(令和2年)特別栄誉教授。
佐原 真(さはら まこと、1932年5月25日 - 2002… 佐原 真(さはら まこと、1932年5月25日 - 2002年7月10日)は、日本の考古学者。国立歴史民俗博物館名誉教授。 1932年、大阪府大阪市上本町で佐原忠雄・香代の次男として生まれた。父方の祖父は備後福山藩(広島県福山市)の家老のいえであったという。 幼稚園児のときに公園で拾った土器片に興味を持ったことが考古学を志す契機となった。国民学校初等科4年生の時の担任教師の影響で、浜田青陵『博物誌』を読んだ。国民学校初等科5年生の時、東京へ転居。1947年、日本人類学会が主催した「中学生の為の人類学講座」へ参加して、縄文学の創設者山内清男に感銘を受け、東大の山内研究室に出入するようになった。山内から個人指導を受け、縄文土器の文様の研究に没入するようになった。
大塚 初重(おおつか はつしげ、1926年(大正15年)11… 大塚 初重(おおつか はつしげ、1926年(大正15年)11月22日 - )は、日本の考古学者。明治大学名誉教授。主として弥生時代と古墳時代を研究領域としている。
相沢 忠洋(あいざわ ただひろ、旧字体: 相澤 忠洋、192… 相沢 忠洋(あいざわ ただひろ、旧字体: 相澤 忠洋、1926年〈大正15年〉6月21日 - 1989年〈平成元年〉5月22日)は、日本の考古学者。東京府東京市蒲田区羽田(現在の東京都大田区羽田)出身。納豆などの行商をしながら独学で考古研究を行っていたが、1949年(昭和24年)に群馬県新田郡笠懸村(現在のみどり市、岩宿遺跡)の関東ローム層から黒曜石で作られた打製石器を発見し、それまで否定されてきた日本列島の旧石器時代の存在を証明した。 1949年(昭和24年)以前、日本における人類の歴史は縄文時代からとされており、旧石器時代の存在は否定されていた。特に火山灰が堆積した関東ローム層の年代は激しい噴火のため人間が生活できる自然環境ではなかったと考えられており直良信夫などによる旧石器の発見が報告されることはあったが、激しい批判にさらされていた。
奥田 直榮(おくだ なおしげ、 1918年6月3日 – 19… 奥田 直榮(おくだ なおしげ、 1918年6月3日 – 1988年10月20日)は、日本の考古学者。 子爵奥田直久の長男として生まれる。1931年、 学習院初等科を卒業し、東京高等学校に進学。山内清男らから考古学を学ぶようになる。満洲帝国国務院大陸科学院ハルビン分院に勤務。戦後は、根津美術館に勤務しつつ、学習院大学輔仁会史学部で後進の指導に当たる。1957年に江ヶ崎城跡の発掘調査に携わったことをきっかけに、中世考古学、城郭史研究を主とした研究テーマにするようになる。
杉原 荘介(すぎはら そうすけ、1913年12月6日 - 1… 杉原 荘介(すぎはら そうすけ、1913年12月6日 - 1983年9月1日)は、日本の考古学者。 1913年に東京市日本橋区小舟町に生まれた。府立三中(現都立両国高校)の時代に考古学を志すも、家業の和紙問屋を継ぐ。東京考古学会の同人として活躍。1935年東京外国語学校専修科(仏語)を卒業し、1937年上智大学外国語学校独語科卒業。1941年、27歳で明治大学専門部地歴科に入学し、1943年首席卒業。同年、卒業論文『原史学序論』を上梓。卒業とともに軍務に服し、1946年の春に復員する。同年4月から文部省嘱託教科書局に勤務し、国定歴史教科書『くにのあゆみ』の編輯などにあたった。1948年から明治大学専門部助教授、翌年に同大学文学部助教授、1953年には文学部教授となる。
大場 磐雄(おおば いわお、1899年9月3日 - 1975… 大場 磐雄(おおば いわお、1899年9月3日 - 1975年6月7日)は、日本の考古学者。國學院大學教授。旧姓は谷川だが、昭和3年(1928年)、母方の大場家を相続し、以後、大場姓となる。楽石と号す。 古代日本の信仰あるいは精神世界に関心を持ち、神道や祭祀遺跡などの遺跡を研究した。中でも、神道考古学を体系化した。本人が「私の考古学はただの考古学ではない。考古民俗学(または民俗考古学)だ」と言うように、文献史学・民俗学・考古学三位一体のスケールの大きな古代日本の研究が特徴である。主著は『大場磐雄著作集』(全8巻)にまとめられている。