佐藤 真由美(さとう まゆみ、1973年(昭和48年) - … 佐藤 真由美(さとう まゆみ、1973年(昭和48年) - )は、歌人、女性誌編集者。
新潟県:20人
佐藤 真由美(さとう まゆみ、1973年(昭和48年) - … 佐藤 真由美(さとう まゆみ、1973年(昭和48年) - )は、歌人、女性誌編集者。
しなだしん(1962年11月20日 - )は、俳人。『青山』… しなだしん(1962年11月20日 - )は、俳人。『青山』(せいざん)主宰。 公益社団法人俳人協会評議員、公益社団法人日本文藝家協会会員。「塔の会」幹事。東京都新宿区在住。 新潟県柏崎市に生まれる。 1997年に作句を開始。山崎ひさを主宰の俳誌『青山』に入会した(翌年同人となる)。 2009年に『俳句研究』第6回競作で第1位となる。 2011年に『青山』当月集同人となり、2017年には編集長(1月号から)に就任した。 2020年8月に『青山』の主宰を継承した(山崎ひさをは名誉主宰となる)。 2025年から俳人協会全国俳句大会選者。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
井口 時男(いぐち ときお、1953年2月3日 - )は、日… 井口 時男(いぐち ときお、1953年2月3日 - )は、日本の文芸評論家、俳人。 新潟県南魚沼市出身。長岡工業高等専門学校三年修了退学後、東北大学文学部卒業。1983年、中上健次論「物語の身体」で群像新人文学賞評論部門受賞。1987年7月、最初の著作『物語論/破局論』を論創社から上梓。1990年、永山則夫の日本文芸家協会入会拒否事件で、柄谷行人らに続いて協会を退会。12月、東京工業大学助教授、のち教授。1991年、湾岸戦争への自衛隊派遣に抗議し、柄谷行人、中上健次、津島佑子、田中康夫らとともに『湾岸戦争に反対する文学者声明』を発表する。1994年、評論集『悪文の初志』で平林たい子文学賞受賞。1997年、『柳田國男と近代文学』で伊藤整文学賞受賞。
若井 新一(わかい しんいち、1947年 -)は、新潟県南魚… 若井 新一(わかい しんいち、1947年 -)は、新潟県南魚沼市出身の俳人。 神奈川大学卒業後、村上電報電話局勤務を経て28歳で実家の農家を継ぎ、その後30歳ごろに俳句をはじめた。「花守」主宰の目崎徳衛の手ほどきを受け、「狩」に入会、鷹羽狩行に師事。1997年、「早苗饗」50句で第43回角川俳句賞、2007年、句集『冠雪』で第8回宗左近俳句大賞、2014年、句集『雪形』で第54回俳人協会賞受賞。地元の風土に根ざした篤実な作風。
池田 澄子(いけだ すみこ、1936年3月25日 - )は、… 池田 澄子(いけだ すみこ、1936年3月25日 - )は、日本の女性俳人。生活の周辺をややアイロニカルに眺めた口語的な文体の俳句を得意としながら、生の孤独、戦争などのテーマを詠んだ句も多い。代表句に「じゃんけんで負けて蛍に生まれたの」「ピーマン切って中を明るくしてあげた」「前ヘススメ前ヘススミテ還ラザル」など。 神奈川県鎌倉市に生まれる。父の出征のため父の郷里である新潟県村上市に疎開し、1947年より結婚まで新潟市に育つ。新潟県立新潟中央高等学校卒業。俳句をはじめた時期は遅く、38歳でたまたま目にした阿部完市の俳句に興味を抱いたのがきっかけである。1975年に堀井鶏主宰の「群島」に入会(のち同人。
本宮 哲郎(もとみや てつろう、1930年11月17日 - … 本宮 哲郎(もとみや てつろう、1930年11月17日 - 2013年12月18日)は、新潟県出身の俳人。小池村(現燕市)生。1948年、「雲母」入会、飯田蛇笏、飯田龍太に師事。1970年、「河」入会。1981年、齋藤美規の「麓」創刊より参加。1985年、河賞。1986年、「雪国雑唱」50句により第1回俳句研究賞受賞。1988年、麓賞受賞。2000年、『日本海』により第40回俳人協会賞受賞。「河」「麓」同人。代表句に「花冷えの田より抜きたる足二本」など。新潟の風土を叙情豊かに詠む。句集に『雪嶺』『信濃川』『日本海』他。2013年12月18日、胃癌により死去。83歳。
茂野 六花(しげの ろっか、1926年(大正15年)7月1日… 茂野 六花(しげの ろっか、1926年(大正15年)7月1日 - 1985年(昭和60年)11月24日)は、日本の俳人、医師、法医学者。医学博士。第9代新潟大学学長、新潟大学医学部第12代学部長。本名は茂野 錄良(しげの ろくろう)。 新潟県新潟市出身。1943年(昭和18年)11月に新潟中学校を繰り上げ卒業、1945年(昭和20年)10月に海軍兵学校を卒業、1950年(昭和25年)3月に新潟医科大学を卒業。 1951年(昭和26年)7月に新潟大学新潟医科大学法医学教室助手に就任、同年9月から同教室教授で俳人の高野素十から俳句の指導を受け、「六花」の俳号を授かった。 1953年(昭和28年)4月に新潟大学医学部法医学教室助手に就任、1954年(昭和29年)8月に新潟大学医学部法医学教室(担任:山内峻呉教授)講師に就任。
山本 かね子(やまもと かねこ、1926年6月13日 - 2… 山本 かね子(やまもと かねこ、1926年6月13日 - 2020年1月29日)は、昭和期から平成期の歌人。歌誌『沃野』編集・発行人を務めた。 新潟県妙高市赤倉生まれ。1937年から千葉県市川市に移り、国府台女子学院卒。戦後の1946年、「若草青年会」「青い鳥子供会」を作り、金子洋文を会長に発足した「児童文化普及会」に参加、主事として演劇活動などに従事する。1949年に日東化学工業に入社し、余暇に演劇活動を続け、総合芸術研究所で学ぶ。1951年、職場で「日東短歌会」に参加。歌誌『沃野』に入会し、植松寿樹に師事する。1959年、超結社の「新歌人会」に入会。 1963年、沃野賞受賞。1964年歌集『ものどらま』で新歌人会賞受賞。
石黒 清介(いしぐろ せいすけ、1916年3月17日 - 2… 石黒 清介(いしぐろ せいすけ、1916年3月17日 - 2013年1月27日)は、歌人、編集者、出版人。短歌新聞社元社長。 新潟県三条市生まれ、栃尾市育ち。本名は清作。1940年、同郷の詩人内藤鋠策と『抒情詩』を復刊する。1943年応召を受け、中国、仏領インドシナなどで従軍。戦後、郷里新潟県で「越後短歌」を創刊。 1953年東京で短歌新聞社を創立、月刊短歌情報誌『短歌新聞』を発刊。1977年に月刊短歌総合誌『短歌現代』を創刊した。以後、2011年12月の廃業まで一貫して社長を務めた。名歌集を安価で読める「短歌新聞社文庫」、新鋭歌人による「現代歌人叢書」「現代女流短歌全集」の創刊や、短歌現代新人賞の創設、『短歌現代』編集長に高瀬一誌を起用するなどの施策を打ち出し、戦後短歌に大きな影響を与えた。
宮 柊二(みや しゅうじ、1912年(大正元年)8月23日 … 宮 柊二(みや しゅうじ、1912年(大正元年)8月23日 - 1986年(昭和61年)12月11日)は、昭和時代に活躍した日本の歌人。位階は正五位。本名は宮肇(はじめ)。 長岡中学在学中から作歌をはじめる。1932年に上京、翌年北原白秋を訪ねて門下に入る。1935年、白秋主宰の歌誌「多磨」の創刊に参加。日中戦争に応召し、中国を転戦した体験が、歌集『山西省』(1949年)に結実した。1953年には「多磨」の流れをくむ歌誌「コスモス」を創刊、主宰した。ながらく勤めた製鉄会社を辞して歌作と著作に専念し、74歳で死去。 一生活者の真実の声を響かせた誠実な歌風が特色。歌集に、『日本挽歌』(1953年)、『多く夜の歌』(1961年)、『濁石馬』(1975年)など、エッセイに、『埋没の精神』(1955年)、『西行の歌』(1977年)など。
中山 礼治(なかやま れいじ、1912年(明治45年)3月1… 中山 礼治(なかやま れいじ、1912年(明治45年)3月11日- 1988年(昭和63年)3月27日)は、新潟県出身の歌人。長岡工業高等専門学校名誉教授。コスモス短歌会新潟県支部長。 新潟市刈部家(刈部喜兵衛)の子として生まれる。生後7日目に北魚沼郡小千谷町(現在の小千谷市)の中山泰治・ハツリ夫妻の養子となる。 町立小千谷尋常小学校から旧制県立小千谷中学校を経て、國學院高等師範学校を卒業した。卒業後は水戸工業学校で教員(国語・漢文)となる。 1938年、歩兵第58連隊少尉として支那事変に従軍した。除隊後、新潟県立糸魚川中学校で教職に復帰する。 1945年7月に再度の招集を受け、広島県からフィリピンに向かう途中で輸送船が魚雷攻撃を受けて沈没する。
加藤 知世子(かとう ちよこ、1909年11月20日 - 1… 加藤 知世子(かとう ちよこ、1909年11月20日 - 1986年1月3日)は、新潟県出身の俳人。本名チヨセ。旧姓・矢野。東頸城郡安塚(現上越市)生。1929年、加藤楸邨と結婚。1931年、句作をはじめ「若竹」「馬酔木」に投句。1940年、楸邨の「寒雷」創刊とともに参加。1954年、池上不二子、柴田白葉女らと「女性俳句」を創刊、編集に携わる。句集に『冬萌』『朱鷺』『太麻由良』『夢たがへ』『飛燕草』『頬杖』がある。 1986年1月3日没、墓所は東京都世田谷区の九品仏浄真寺。
石塚 友二(いしづか ともじ、1906年9月20日 – 19… 石塚 友二(いしづか ともじ、1906年9月20日 – 1986年2月8日)は、日本の俳人・小説家・編集者。俳誌「鶴」の二代目主宰。本名は友次。 新潟県北蒲原郡笹岡村(現阿賀野市)生まれ。笹岡尋常高等小学校高等科卒業。農業学校を出て家業の農業に従事したのち、1924年に叔父を頼って上京。 横浜の濾水工場で働いたのち、1932年まで神田の東京堂書店に勤める。この間、那珂公平の紹介で横光利一に師事したほか、多くの文人と交わる。1932年、保高徳蔵の「文学クオタリイ」に参加、同人となり発行事務を手伝う。1933年、書物展望社にて随筆誌『文体』の編集に携わる。1935年、沙羅書店を設立、横光利一の『日輪』『覚書』、水原秋桜子の『葛飾』復刻版、石橋辰之助の『山行』、石田波郷の『石田波郷句集』などを刊行する。
鳴沢 寡愆(なるさわ かけん、1891年〈明治24年〉5月1… 鳴沢 寡愆(なるさわ かけん、1891年〈明治24年〉5月10日 - 1977年〈昭和52年〉9月4日)は、日本の英文学者、俳人。広島大学名誉教授。俳号は花軒。高浜虚子に師事。 新潟県中蒲原郡鷲巻村大字西笠巻(現 新潟市南区西笠巻)の浄土真宗大谷派・長福寺の鳴沢木誓の次男として出生。 1910年(明治43年)3月に新潟中学校を卒業、1913年(大正2年)7月に第四高等学校を卒業、1916年(大正5年)7月に東京帝国大学文科大学文学科(英文学専修)を卒業、東京帝国大学附属図書館に勤務。 1920年(大正9年)から京北中学校に勤務、大谷大学を経て1921年(大正10年)3月に松江高等学校教授に就任、1925年(大正14年)3月に広島高等学校教授に就任、12月から1年半、英語の研究のためイギリスやアメリカに留学。
宮崎 郁雨(みやざき いくう、1885年(明治18年)4月5… 宮崎 郁雨(みやざき いくう、1885年(明治18年)4月5日 - 1962年(昭和37年)3月29日)は、日本の歌人。本名は大四郎(だいしろう)。 石川啄木夫人・石川節子の妹の夫。啄木の生前から啄木一家を物心両面にわたって支え、啄木の死後も墓碑建立、「啄木を語る会」を発足させるなどの実績がある。 新潟県北蒲原郡荒川村で宮崎竹四郎の長男として生れる。郁雨の祖父が没して竹四郎が継いだ頃には、借金を抱えて没落していた。 郁雨が2歳の頃に竹四郎は家と田畑を債権者に譲って松前に渡り、母と共に母の実家に預けられる。1889年(明治22年)春[要出典]、父とともに宮崎一家は函館に移住した。竹四郎は「浜かせぎ」や日雇いなどでしのぐ苦しい生活が続いたが、醸造業で成功、「金久(かねきゅう)」を屋号とする味噌製造所の経営者となった。
相馬 御風(そうま ぎょふう、1883年(明治16年)7月1… 相馬 御風(そうま ぎょふう、1883年(明治16年)7月10日 - 1950年(昭和25年)5月8日)は、明治期から昭和期にかけての日本の文学者、詩人、歌人、評論家。本名は昌治(しょうじ)。新潟県西頸城郡糸魚川町(現糸魚川市)出身。早稲田大学大学部文学科英文学科卒業。詩歌や評論のほか、早稲田大学校歌「都の西北」をはじめとした多くの校歌や、「春よ来い」などの童謡の作詞者としても知られる。 1883年、新潟県西頸城郡糸魚川町大町(現糸魚川市)に生まれる。相馬徳治郎の長男。高田中学(現新潟県立高田高等学校)を経て早稲田大学に進む。中学以来の学友に小川未明がいる。在学中の1903年に岩野泡鳴らと雑誌「白百合」を創刊した。
式場 麻青(しきば ませい、1882年〈明治15年〉3月23… 式場 麻青(しきば ませい、1882年〈明治15年〉3月23日 - 1933年〈昭和8年〉4月1日)は、日本の歌人、書家、国文学者。元大阪府女子師範学校専攻科教授。本名は式場 益平(しきば ますへい)。 新潟県中蒲原郡五泉町大字五泉字指柳(現 五泉市本町)の式場幸八の長男として生まれた。 1897年(明治30年)4月に新潟中学校に入学すると、俳句の会・舟江会に入り、2年先輩の会津八一と知り合った。1901年(明治34年)7月に同級生の青木得三、安倍邦太郎、山崎良平たちと同人雑誌『若菜舟』を発行した。 1902年(明治35年)3月に新潟中学校を卒業すると、上京して二松學舍で三島中洲に漢文学を、落合直文に国文学を学んだ。
会津 八一(あいづ やいち、旧字体: 會津 八一、1881年… 会津 八一(あいづ やいち、旧字体: 會津 八一、1881年〈明治14年〉8月1日 - 1956年〈昭和31年〉11月21日)は、日本の歌人・美術史家・書家。雅号は、秋艸道人・渾斎。1951年に新潟市名誉市民。 早大英文科卒。奈良の仏教美術にひかれ、ひらがな書きの万葉調短歌を詠み、『南京新唱』(1924年)を刊行。のち上京、早大教授となり、「東洋美術史」等を講じた。晩年は新潟市に戻り、書に専念。歌集に『鹿鳴集』(1940年)など。 新潟県新潟市古町通五番町に生まれる。中学生の頃より『万葉集』や良寛の歌に親しんだ。1900年新潟尋常中学校(現新潟県立新潟高等学校)卒業後、東京専門学校(早稲田大学の前身校)に入学し、坪内逍遙や小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)らの講義を聴講した。
村山 久良女(むらやま くらじょ)は、明治時代の俳人。倉女、… 村山 久良女(むらやま くらじょ)は、明治時代の俳人。倉女、久良とも。「北越の生んだ千代女」とも、また採花女(さいかじょ)とともに「明治奮派の二才女」と称された。没後に『久良女発句集』が編まれている。 慶応2年(1866年)、越後国刈羽郡岡野町村(現・新潟県柏崎市)の素封家・村山家に生まれる。同家は代々文芸に通じ、久良女の祖父・9代藤右衛門(号:哲斎、俳号:章嶂、亀石)、父・吉次(号:抱月)もまた俳諧をよくした。なお、『平家詩史』を著した11代亀一郎(号:亀齢)は久良女の弟に当たる。 養志軒桑古が『久良女発句集』に寄せた跋によれば、久良女は幼少期から茶と俳諧をたしなみ、その天賦の才は「其器、一を聞て万を知るの才有り」と称されたという。
井上 井月(いのうえ せいげつ、文政5年(1822年)? -… 井上 井月(いのうえ せいげつ、文政5年(1822年)? - 明治20年2月16日(1887年3月10日)は、日本の19世紀中期から末期の俳人。本名は一説に井上克三(いのうえかつぞう)。別号に柳の家井月など。「北越漁人」と号した。信州伊那谷を中心に活動し、放浪と漂泊を主題とした俳句を詠み続けた。その作品は、後世の芥川龍之介や種田山頭火をはじめ、つげ義春などに影響を与えた。 井月の出自については諸説あるが、ほとんど不明である。没年から逆算すると文政5年(1822年)生まれとなる。「本名が井上克三であり、越後長岡藩出身である」ことを、高遠藩家老の岡村菊叟に告げているが、長岡藩の文書が現存していないため確定されていない。