野村 達雄(のむら たつお、1986年4月16日 - )は、… 野村 達雄(のむら たつお、1986年4月16日 - )は、中国・日本のエンジニア、ゲームクリエイター。元Niantic, Inc. Tokyo Studio代表。 GoogleマップやPokémon GOなど実験的なモバイル・アプリケーションの開発に携わる。中華人民共和国黒竜江省生まれ、長野県長野市出身。 幼少時の名前は石磊。中国で、両親及び4人の姉と、土と藁でできた家に住み、主食がトウモロコシ粥という極貧の生活を送り、豆腐の行商についていた。内祖母は福井県小浜市出身の中国残留日本人。満州国に渡り、南満州鉄道職員との間に3人の子供をもうけたが、ソ連対日参戦及び関東軍撤退のため引き揚げできず、日本の降伏後、子供との死別を経て、中国人である内祖父・石相臣に助けられた。
有賀 修二(あるが しゅうじ、1959年3月22日 - )は… 有賀 修二(あるが しゅうじ、1959年3月22日 - )は、日本の技術者、実業家。ソニーモバイルディスプレイ代表取締役社長や、ジャパンディスプレイ代表取締役社長を務めた。 長野県茅野市出身。長野県諏訪清陵高等学校を経て、1983年東京農工大学大学院工学研究科修士課程修了、諏訪精工舎(現セイコーエプソン)入社。2003年取締役ディスプレイ事業部長。2005年三洋エプソンイメージングデバイス代表取締役社長。2011年ソニーモバイルディスプレイ代表取締役社長兼ソニー半導体事業本部事業部長。2012年ジャパンディスプレイ執行役員。2013年ジャパンディスプレイ取締役。2015年からジャパンディスプレイ代表取締役社長兼チーフ・オペレーティング・オフィサーを務め、収益安定化をはかった。
水野 和敏(みずの かずとし、1952年1月 - )は日本の… 水野 和敏(みずの かずとし、1952年1月 - )は日本の自動車エンジニア。日産自動車の元エンジニア、GT-Rの開発で知られる。プロジェクト・カーズ合同会社 代表 長野県千曲市出身。長野工業高等専門学校を卒業後、1972年に日産自動車に入社。1980年代には901運動に車体設計の面で関わり、その成果となるP10型プリメーラやR32型スカイラインの開発では車両のパッケージング設計を担当した。1989年にはNISMOに出向し、グループCカーの耐久レースのチーム監督兼チーフエンジニアに就任しデイトナ24時間レースやル・マン24時間レースなどを戦い、特に1992年にはR91CPでデイトナ24時間レースを優勝、R92CPで出場したJSPCと鈴鹿1000kmで全戦優勝(クラス優勝も含む)している。
白井 芳夫(しらい よしお、1948年5月1日 - )は、日… 白井 芳夫(しらい よしお、1948年5月1日 - )は、日本の技術者、実業家。日野自動車代表取締役社長や、豊田通商代表取締役副会長を務めた。藍綬褒章受章。 長野県小諸市で出生後、北海道旭川市に移住。北海道旭川北高等学校を経て、1973年北海道大学大学院工学研究科機械工学専攻修士課程修了、トヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)入社。技術畑で商品開発部門を担当し、1997年第2ボデー設計部長に就任。2001年取締役第2開発センター長に昇格。2002年士別車両実験部長。2003年常務役員第1トヨタセンター長。2005年専務取締役技術管理本部長兼商品開発本部長。2007年顧問、日野自動車取締役副社長。2008年から日野自動車代表取締役社長を務め、リーマン・ショック後の世界金融危機下での不況への対応を行った。
丸山 瑛一(まるやま えいいち、1934年7月12日 - 2… 丸山 瑛一(まるやま えいいち、1934年7月12日 - 2019年12月24日)は日本の電子技術者。材料工学者、理化学研究所名誉研究員。工学博士(1977年、大阪大学)。 長野県上田市出身。長野県上田高等学校を経て、昭和32年(1957年)東京大学教養学部教養学科科学史科学哲学分科卒業。同34年(1959年)同理学部物理学科卒業。同年日立製作所中央研究所に入所し、同59年(1984年)主管研究長、同60年(1985年)基礎研究所長。のち研究開発推進本部技師長。平成5年(1993年)オングストロームテクノロジー研究機構常務理事。平成11年(1999年)政策研究大学院大学教授を経て、理化学研究所フロンティア研究システム長。
小平 均(こだいら ひとし、1933年9月2日 - )は、日… 小平 均(こだいら ひとし、1933年9月2日 - )は、日本の実業家、技術者。東京電子応用研究所(TEAL)代表取締役社長。 茨城県出身。長野県諏訪郡豊平村(現・茅野市)育ち。長野県諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、千葉大学工学部卒業。三波工業入社。東方電機 (現・パナソニック コネクト)に転職し、ファクシミリ開発にかかわる。電卓を開発し、カシオ計算機に転職。電気機械振興協会卓上電子計算機分科会の佐々木正会長と共にタムラ製作所の援助で1968年東京電子応用研究所(TEAL:Tokyo Electronic Application Laboratory)を創業し、代表取締役社長に就任。
松澤 太郎(まつざわ たろう、1912年(大正元年)12月2… 松澤 太郎(まつざわ たろう、1912年(大正元年)12月26日 - 2007年(平成19年)3月11日)は、昭和期の機械技術者、政治家。 長野県下伊那郡上飯田村(現飯田市)で、松澤茂雄、寿美の長男として生まれた。旧制飯田中学(長野県飯田高等学校)、旧制松本高等学校理科甲類を経て、1938年(昭和13年)3月、京都帝国大学工学部機械工学科を卒業。 石川島芝浦タービンから1950年(昭和25年)芝浦ミシンに転職し、1955年(昭和30年)退社。飯田市商工観光課工業指導事務嘱託を経て、1956年(昭和31年)飯田市教育長、1964年(昭和39年)飯田市総務部長となり、1968年(昭和43年)に退職。
柳原 正之(やなぎはら まさゆき、1907年〈明治40年〉1… 柳原 正之(やなぎはら まさゆき、1907年〈明治40年〉1月2日 - 1989年〈平成元年〉10月28日)は、昭和期の農業技術者、政治家。長野県長野市長。位階は正五位。 長野県更級郡八幡村(現千曲市)で、柳原慶助、ゆみ の二男として生まれた。1924年(大正13年)3月、更級農業学校(現長野県更級農業高等学校)を卒業。 1928年(昭和3年)八幡村農会技手となり、1934年(昭和9年)長野県技手、1941年(昭和16年)農商務省技手、1944年(昭和19年)長野県農林技師、1951年(昭和26年)特産課長、1953年(昭和28年)農業改良課長、1955年(昭和30年)下伊那地方事務所長、1957年(昭和32年)地方課長、1959年(昭和34年)人事課長、1960年(昭和35年)人事委員会事務局長、1961年(昭和36年)企業局電気部長を歴任した。
花村 政温(はなむら まさはる、1903年(明治36年)7月… 花村 政温(はなむら まさはる、1903年(明治36年)7月22日 - 1978年(昭和53年)8月20日)は、日本の農業技術者、政治家。長野県東筑摩郡宗賀村長(3期)、長野県塩尻市議会議員、長野県塩尻市長(第3代、2期)を歴任した。位階は正六位。勲四等瑞宝章。 長野県東筑摩郡宗賀村本山(現・塩尻市)生まれ。1920年(大正9年)3月、東筑摩郡立農学校を卒業。小学校代用教員、村立宗賀実業補習学校助教諭を務めた後、1932年(昭和7年)に穀物検査員として長野県庁に勤務し、同県農産物検査技術補、農産物検査監督員、食糧検査所支所長などを務め、後に食糧事務所長となる。1945年(昭和20年)の終戦後は、GHQ軍政部と折衝して、長野県内の窮迫した食糧事情の好転に一役買った。
榊原 郁三(さかきばら いくぞう、1893年〈明治26年〉6… 榊原 郁三(さかきばら いくぞう、1893年〈明治26年〉6月28日 - 1974年〈昭和49年〉9月25日) は、日本の自動車実業家、自動車技術者。位階は正五位。 榊原はアート商会を創業し、後にアート金属工業へと改組し、同社をピストン製造の大手企業へと発展させた。本田技研工業の創業者である本田宗一郎の若い時分の雇い主だったことでも知られる。(→#本田宗一郎との関係) 榊原家は武士の家系で、上田藩領主の藤井松平家に出仕し、特に財務家としての能力を代々評価され、勘定方を拝命していた。しかし、明治維新に伴い失業し、榊原郁三の父である泰一郎は手先の器用さを活かして家具職人に転身して暮らしていた。 泰一郎は「これからの世の中、科学で身を立てるがよい」を口癖としており、子である榊原も子供の頃からまず木工に親しみ、小学生の時に木製の自転車を自作して村の人々を驚かせてしまうような子供だった。
山岡 武(やまおか たけし、1891年 - 1982年5月)… 山岡 武(やまおか たけし、1891年 - 1982年5月)は、日本の技術者、実業家。 長野県岡谷市出身。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1917年東京帝国大学工科大学冶金学科卒業、官営八幡製鐵所(現・日本製鉄八幡製鉄所)入所。第2製銑課長、日本製鐵(現・日本製鉄)本店技術部長、広畑製鉄所製銑部長兼化工部長、同所技師長、同社常務取締役、同社代表精算人、同社監査役、日本鉄鋼協会会長を歴任。 官営八幡製鐵所、日本製鐵在職中は、製銑設備の拡充、改良に努めた。1981年日本鉄鋼協会共同研究賞(山岡賞)が設けられ、鉄鋼の学術技術における共同研究に多大な功績のあったグループに授与されている。
田中 豊(たなか ゆたか、1888年〈明治21年〉1月29日… 田中 豊(たなか ゆたか、1888年〈明治21年〉1月29日 - 1964年〈昭和39年〉8月27日) は、日本近代橋梁史上最も著名な技術者。東京大学名誉教授。工学博士。 長野県長野市出身。元は橋梁技術者ではなく、鉄道系の技術者で、鉄道省時代は設計の規格化などの仕事に従事した。帝都復興院には太田圓三とともに在籍することになるが、なぜか橋梁課長に抜擢されることになった。恩師・広井勇に顧問への就任を依頼したところ、「落ちないようにやればよい」と逆に激励されたという。 関東大震災によって被害を受けた橋梁の総数は、東京で675橋、横浜で108橋であったが、復興事業の設計責任者として隅田川にかかる永代橋や清洲橋といった橋梁群を手がけ、新技術を次々に導入して橋梁近代化の礎を成した。
花岡 正庸(はなおか まさつね、1883年〈明治16年〉10… 花岡 正庸(はなおか まさつね、1883年〈明治16年〉10月24日 - 1953年〈昭和28年〉2月15日)は、日本の酒造技術者。秋田清酒の父、秋田の酒造りの父、秋田吟醸酒の父などとされる人物である。 長野県中野市出身。1907年に大阪高等工業学校酒造科を卒業した。卒業後、実家の家業であった酒造に従事したが火災のため実家が廃業した。その後、1913年より丸亀税務監督局に勤務し、仙台税務監督局に転じ、1918年から秋田県醸造技師を兼任した。 酵母の硝酸銀応用や酒の低音長期保存法などの新技術を導入・普及させ、秋田における酒造業を牽引した。 1922年に秋田県酒造組合連合会長の伊藤恭之助や県内の有力者、企業家とともに秋田銘醸を創立し顧問となった。
高橋 保(たかはし たもつ、1882年〈明治15年〉3月8日… 高橋 保(たかはし たもつ、1882年〈明治15年〉3月8日 - 1972年〈昭和47年〉12月9日)は、明治末期から昭和戦前期にかけて活動した日本の電気技術者・実業家である。 郷里長野県の電力会社長野電灯・東信電気で技師長を務めたのち、東信電気が起業した肥料会社昭和肥料の常務取締役に転身。姉妹会社としてレーヨンメーカー昭和人絹(クレハの母体)を起業して初代社長となり、1939年(昭和14年)には昭和肥料の後身にあたる昭和電工の初代副社長に就任した。衆議院議員を務めた時期もある(当選1回)。 高橋保は、1882年(明治15年)3月8日、長野県人・高橋澄弥の長男として生まれた。出身地は長野県東筑摩郡上川手村(現・安曇野市)。
小林 正生(こばやし まさお)は、日本の技術者。IHI技監や… 小林 正生(こばやし まさお)は、日本の技術者。IHI技監や、日本機械学会副会長を務めた。 長野県東御市出身。1977年東京工業大学大学院機械物理工学専攻修士課程修了、石川島播磨重工業入社。原子力開発室配属後、石川島播磨重工業技術研究所入所。同所機械要素研究部で、機械振動の研究に従事し、1993年には東京工業大学博士(工学)の学位を取得。2003年石川島播磨重工業基盤研究所部長。2005年石川島播磨重工業技術開発本部技師長。2007年IHI技術開発本部技監。2012年日本機械学会関東支部長。2015年日本機械学会副会長。回転体の動的挙動解析の研究業績などが評価され、2015年度日本機械学会関東支部賞(功績賞)受賞。
渡邊 嘉一(わたなべ かいち、1858年3月22日〈安政5年… 渡邊 嘉一(わたなべ かいち、1858年3月22日〈安政5年2月8日 - 1932年12月4日〉は、日本の土木技術者・実業家。日本土木史の父と呼ばれる。旧姓、宇治橋。 信濃国上伊那郡平出村(後の朝日村、現・辰野町)にて、宇治橋瀬八の次男として生まれる。開智学校を経て、1877年に上京し、工部大学校(現・東京大学工学部)予科を経て、同校土木科に官費入学。在学中、24歳の時、大鳥圭介に才能を買われ、1882年、大鳥の仲介により海軍機関総督横須賀造船所長渡邊忻三の長女の婿養子となる。 1883年、同校を首席で卒業後、工部省に技師として入省し鉄道局に勤務。1884年、退官して英国グラスゴー大学に留学し土木工学を専攻、1886年に工学士の学位を取って卒業。