望月 一仁(もちづき かずひと、1957年12月1日 - )… 望月 一仁(もちづき かずひと、1957年12月1日 - )は、静岡県清水市(現:静岡市)出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 静岡県自動車工業高校(現:静岡北高校)を卒業後、アマチュアの清水クラブを経て、ヤマハ発動機サッカー部(現・ジュビロ磐田)に入部。前線からの積極的な守備が持ち味のFWとして活躍し、日本サッカーリーグ1部昇格や天皇杯優勝にも貢献。1986年に現役を引退した。 引退後はヤマハやジュビロ磐田のアカデミーの監督やナショナルトレセンコーチを経て、2005年から当時日本フットボールリーグ所属だった愛媛FCの監督に就任。同年に日本フットボールリーグ優勝。2006年からのJ2でも愛媛を指揮。
石神 良訓(いしがみ よしのり、1957年11月4日 - )… 石神 良訓(いしがみ よしのり、1957年11月4日 - )は、静岡県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。サッカー選手の石神幸征は甥にあたる。 静岡県立静岡工業高等学校時代に吉田弘と共に高校サッカー選手権準優勝。卒業後の1976年、当時の静岡県リーグ1部のヤマハ発動機サッカー部に入部。身体能力を活かした屈強なストッパーとして守備陣を支え、1982年の天皇杯全日本サッカー選手権大会制覇や1987-88シーズンの日本サッカーリーグ制覇などに貢献した。 日本代表には1984年に初選出され、同年9月30日に敵地での韓国代表との親善試合にて代表初出場。加藤久とセンターバックのコンビを組める人材を探していた当時の森孝慈監督に認められ、レギュラーの座を掴むと翌年のワールドカップ・メキシコ大会予選に出場、最終予選進出に貢献した。
内山 勝(うちやま まさる、1957年4月14日 - )は静… 内山 勝(うちやま まさる、1957年4月14日 - )は静岡県出身の元サッカー選手。ポジションはDF(サイドバック)、MF。元ジュビロ磐田監督の内山篤は実弟。 静岡県立清水東高等学校時代は長澤和明と共に1974年度の高校選手権で準優勝に貢献した。 筑波大学を経て1980年にヤマハ発動機サッカー部に入部。攻撃的なサイドバックとして長澤や内山篤らと共に同サッカー部の上位進出に貢献した。また1985年に日本代表に選出され国際Aマッチ1試合に出場した。
池谷 孝(いけがや たかし、1957年4月10日 - )は、… 池谷 孝(いけがや たかし、1957年4月10日 - )は、静岡県藤枝市出身のサッカー指導者。 筑波大学卒業後、静岡県サッカー教員団で指導者のキャリアをスタートさせる。以降は地元静岡県を中心に中高生を指導した。2004年にJFA Proライセンスを取得。 2023年7月19日、WEリーグ・ちふれASエルフェン埼玉の監督に就任。66歳にして初の女子の指導となる。 2024年10月16日に検査入院のため指揮から離れることが発表され、12月18日に健康上の都合で正式にちふれASエルフェン埼玉監督を辞任した。
服部 康雄 (はっとり やすお、1956年 - )は日本出身… 服部 康雄 (はっとり やすお、1956年 - )は日本出身のサッカー指導者、元サッカー選手。選手時代のポジションはMF。静岡県教育委員会スポーツ振興室主席指導主事を経て、静岡県立静岡西高等学校副校長、静岡県立島田工業高等学校校長。現在は静岡県サッカー協会専務理事を務める。 藤枝市立藤枝中学校3年次の全国中学校サッカー大会で準優勝。高校は地元の静岡県立藤枝東高等学校へ進学。1年次からレギュラーの座を掴み、1972年度、1973年度の全国高等学校サッカー選手権大会では中村一義らと共に2年連続準優勝に貢献した。 大学は東京教育大学(筑波大学の前身)に進学したが腰の怪我のためトップレベルでのプレーを断念。
久米 一正(くめ かずまさ、1955年7月26日 - 201… 久米 一正(くめ かずまさ、1955年7月26日 - 2018年11月23日)は、静岡県出身の元サッカー選手。(公社)日本プロサッカーリーグ参与。 永きにわたって複数のJリーグクラブでゼネラルマネージャー(GM)をはじめとするクラブ強化担当を歴任しており、日本のサッカー界におけるGMの草分け的存在として知られる。 静岡県浜松市出身。静岡県立浜名高等学校ではサッカー部主将として活躍。後にチームメイト、さらには監督と強化担当という間柄となる西野朗とは高校時代から面識があり、西野曰く「泥んこが似合う“暴れん坊”」だったという。高校卒業後は母子家庭で苦労をかけた母を助けるために地元の実業団に入社を予定していたが、逆に母から「将来のために、人脈を広げてきなさい」と地元を出るように勧められたこともあり中央大学に進学。
中村 一義(なかむら かずよし、1955年4月8日 - )は… 中村 一義(なかむら かずよし、1955年4月8日 - )は、日本の元サッカー選手。現役時代のポジションはFW(左ウイング)。静岡県藤枝市出身。川崎フロンターレの前身である富士通サッカー部などに所属し、日本代表としても、国際Aマッチ5試合に出場し1得点した。 西益津中学校3年次に全国中学校サッカー大会優勝に貢献し注目される。高校はサッカーの名門藤枝東高校に進学するとレギュラーの座を掴み、4-2-4システムを採用する同校の左ウイングとして、第51回大会(1973年)と第52回大会(1974年)の全国高校サッカー選手権大会の2年連続準優勝に貢献した。主将として挑んだ3年次の高校選手権決勝の北陽高校戦では自身の上げた得点がオフサイドと判定される不運もあった。
碓井 博行(うすい ひろゆき、1953年8月4日 - )は、… 碓井 博行(うすい ひろゆき、1953年8月4日 - )は、静岡県藤枝市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。サッカー選手の碓井健平は実子。 強烈なキック力を持ち、得意とした右斜め45度エリアからのシュートで多くのゴールを挙げたストライカー。 静岡県立藤枝東高等学校、早稲田大学を経て、1976年にJSLの日立製作所(現柏レイソル)に入部。2度のJSL得点王(1980年、1982年)に輝き、「第55回天皇杯全日本サッカー選手権大会」、「第1回JSLカップ」優勝に貢献した。1988年に現役引退するまでJSL通算200試合出場85得点28アシストの記録を残している。 1974年から日本代表に名を連ね、「1978 FIFAワールドカップ・アジア・オセアニア予選」、「1980年モスクワオリンピック」予選に出場。
堀井 美晴(ほりい よしはる、1953年3月16日 - 20… 堀井 美晴(ほりい よしはる、1953年3月16日 - 2025年8月23日)は、静岡県藤枝市出身の元日本代表サッカー選手、コーチ・監督。 静岡県の藤枝東高校卒業後、日本サッカーリーグ(JSL)のヤンマー(現セレッソ大阪)でプレーし、JSLでは通算204試合出場46得点を記録した。 引退後はヤンマーのコーチ、セレッソ大阪のスカウト、ガンバ大阪のコーチ、サテライトチームの監督を務めた後、2001年に川崎フロンターレ監督に就任した。しかしチームの調子は上がらずシーズン途中で解任された。その後は2003年に神戸国際大学サッカー部監督、2004年にジュビロ磐田ヘッドコーチを務め、2005年から2007年まで川崎フロンターレU-18の監督であった。
小長谷 喜久男(こながや きくお、1950年7月16日 - … 小長谷 喜久男(こながや きくお、1950年7月16日 - )は、静岡県出身の元サッカー選手、サッカー指導者、Jリーグクラブフロントスタッフ。 明治大学卒業後、ヤマハ発動機サッカー部(現・ジュビロ磐田)に入部して選手としてプレー。 引退後の1987年にヤマハの監督に就任。就任初年度の1987/88シーズンにチームを日本サッカーリーグ(JSL)1部優勝に導いている。ヤマハがジュビロ磐田へと移行した後はフロントスタッフとしてチームの躍進を支えた。 1999年11月からはメインスポンサーフジタの撤退で存続が危ぶまれていたベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)の運営を引き継ぐ新法人・株式会社湘南ベルマーレの社長に就任、3年半にわたり社長を務め、クラブの経営を立て直した。
松永 章(まつなが あきら、1948年8月8日 - )は、静… 松永 章(まつなが あきら、1948年8月8日 - )は、静岡県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ゴールへの嗅覚の鋭さから「ハイエナ」の異名で呼ばれたストライカーである。 1967年の藤枝東高校3年次にはキャプテンとして同校を戦後初となる選手権、高校総体、国体の3冠獲得に導き(なお、3年時の公式戦の記録は72戦70勝2分である)日本ユース代表に選出された。その後、早稲田大学を経て、1971年に日本サッカーリーグの日立製作所サッカー部に入部した。 日立では監督・高橋英辰の厳しい指導の下「走る日立」の異名で呼ばれたチームの中心選手として1972年の日本リーグ初制覇に貢献。また、得点ランキングにも常に顔を出し、釜本邦茂とは毎年激しい得点王争いを繰り広げ、2年連続で得点王(1972年、1973年)に輝いた。
桑原 隆(くわはら たかし、1948年5月5日 - )は、日… 桑原 隆(くわはら たかし、1948年5月5日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者、サッカー解説者。静岡県藤枝市出身。フットメディアに所属。 現役時代は古河電気工業サッカー部(ジェフユナイテッド市原・千葉の前身)で16年間にわたりプレーし、現役晩年にはコーチも兼任。PJMフューチャーズ/鳥栖フューチャーズでも選手兼任コーチを務め、1989年12月9日の天皇杯一回戦(対TDK戦)では、熊谷義一に代わり41歳という年齢で交代出場を果たしている。[要出典]1996年に強化育成アドバイザーとしてジュビロ磐田入りした。 1997年にトップチームコーチに就任し、監督のルイス・フェリペ・スコラーリの下で指導を行う。
岡村 新太郎(おかむら・しんたろう、1948年4月21日 -… 岡村 新太郎(おかむら・しんたろう、1948年4月21日 - 2013年4月26日)は、日本の元サッカー選手、指導者。 静岡県藤枝市出身。現役時代は静岡県立藤枝東高等学校、法政大学、日本鋼管でプレイした。 静岡県立藤枝東高等学校時代には同級生に松永章(後に日立製作所)と桑原隆(後に古河電気工業を経てジュビロ磐田監督)がおり、彼らと共に高校3年次には1966年(昭和41年度)の全国高等学校サッカー選手権大会、全国高等学校総合体育大会、第21回国民体育大会(大分県)少年の部を全て制覇し、史上初の高校三冠の栄冠に輝いた。 高校卒業後に法政大学へ進学、大学4年次では主将に任命され、1970年の第19回全国大学サッカー選手権大会で優勝を果たした。
山口 芳忠(やまぐち よしただ、1944年9月28日 - )… 山口 芳忠(やまぐち よしただ、1944年9月28日 - )は、静岡県藤枝市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはディフェンダー。1968年メキシコシティーオリンピックにおいて日本代表が銅メダルを獲得した時の選手の一人。藤枝市初代市長の山口森三は父に当たる。 静岡県藤枝市出身。藤枝東高校時代はフォワードとしてプレー。日本ユース代表に選出され、1962年、1963年のアジアユース大会に出場した。 中央大学に入学してサッカー部に入部し、ディフェンダーへ転向。4年次には主将を務め1966年の関東大学リーグ制覇に貢献した。 また大学在学中の1964年に日本代表に選出され10月16日の東京オリンピック1次リーグガーナ戦で国際Aマッチデビュー を飾り、これ以降左サイドバックのレギュラーとして定着。
菊川 凱夫(きくがわ よしお、1944年9月12日 -202… 菊川 凱夫(きくがわ よしお、1944年9月12日 -2022年12月2日)は、静岡県藤枝市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 静岡県立藤枝東高校時代に全国選手権大会で優勝した実績を持つ。明治大学を経て、1968年に三菱重工業サッカー部に加入し、サイドバックとして三菱黄金時代を支えた。また、1969年6月19日のボルシア・メンヒェングラートバッハ戦で日本代表として初出場した。 1974年に現役を一度引退。地元に戻り家業を継ぐ。1976年、藤枝市の志太クラブに入団。静岡県社会人サッカーリーグでプレーし、1980年には選手兼任監督に就任した。 将来の日本サッカーをリードしようと1982年に創部した中央防犯サッカー部に監督として入社。
桑原 勝義(くわはら かつよし、1944年5月30日 - … 桑原 勝義(くわはら かつよし、1944年5月30日 - )は静岡県藤枝市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現・静岡県サッカー協会専務理事、日本サッカー協会理事、日本フットボールリーグ理事長。実弟は桑原隆。 1962年度高校サッカー選手権で静岡県立藤枝東高等学校が初優勝した時の中心選手。卒業後は日軽化工清水工場、名古屋相互銀行(以下、名相銀)などに所属し、1965年には日本代表に選出され国際Aマッチ2試合に出場した。 1971年、名相銀の解散で選手は引退し、銀行の仕事に専念するつもりでいたが、日本サッカー協会の幹部・長沼健に勧められ、生まれ育った静岡に日本リーグのチームをという仕事にロマンを感じ銀行職を捨て、翌1972年、前年創設された本田技研工業サッカー部に加入。
富沢 清司(とみざわ きよし、1943年12月3日 - )は… 富沢 清司(とみざわ きよし、1943年12月3日 - )は、静岡県藤枝市出身の元サッカー選手。選手時代のポジションはフルバック(FB)。 八幡製鉄(現・日本製鉄)サッカー部に所属。19歳にして日本代表に選出された経歴を持ち、1964年の東京オリンピック、1968年のメキシコシティオリンピックに出場。国際Aマッチ通算9試合に出場し、2得点を挙げた。主にストッパーを担当し、1対1の場面における粘り強いディフェンスを得意としていた。 2009年に開催された全国健康福祉祭(ねんりんピック)の静岡県選抜チームのメンバーとして出場したと報じられた。
井田 勝通(いだ まさみち、 (1942-03-03) 19… 井田 勝通(いだ まさみち、 (1942-03-03) 1942年3月3日(84歳) -)は、日本のサッカー指導者、元サッカー選手。元静岡学園高等学校監督。 満州の奉天(現在の中華人民共和国遼寧省瀋陽市)で生まれ、静岡県焼津市で育つ。高校は静岡県立静岡高等学校に進学し、サッカー部に所属し長池実の指導を受けた。1浪後に慶應義塾大学経済学部へ進学し体育会ソッカー部に所属。4年次に慶應義塾高等学校サッカー部を指導し好成績を収めた事が後に指導者を志すきっかけとなった。 卒業後は静岡銀行に就職し県社会人リーグで選手として活躍を続けていたが、堀田哲爾と長池が主催した指導者講習会を受講したことで再び指導者の道を志すことを決意。
大村 和市郎(おおむら わいちろう、旧姓: 横田、1933年… 大村 和市郎(おおむら わいちろう、旧姓: 横田、1933年1月1日 - 2003年以前)は、静岡県出身のサッカー選手。 静岡県立静岡城内高等学校(現:静岡県立静岡高等学校)時代の1950年に全国高等学校蹴球選手権大会(後の全国高等学校サッカー選手権大会)静岡県予選で藤枝東高校を決勝で下し優勝。中部ブロック予選で山梨県の韮崎高校を下し代表権を獲得し、選手権ではベスト8進出に貢献した。 立教大学を経て、田辺製薬へ加入。1950年代に全日本実業団サッカー選手権大会で強さを誇った同クラブの中心選手として活躍した。 日本代表としては、1956年6月3日のメルボルンオリンピック予選、対韓国戦で代表デビュー。
松永 信夫(まつなが のぶお、1921年12月16日 - 2… 松永 信夫(まつなが のぶお、1921年12月16日 - 2007年9月25日)は静岡県志太郡出身のサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはフルバック。「ベルリンの奇跡」の立役者だった松永行は実兄。日本軽金属などに所属し、日本代表として1954 FIFAワールドカップ・予選など、国際Aマッチ4試合に出場した。 静岡県立志太中学校(現静岡県立藤枝東高等学校)、東京文理科大学(現:筑波大学)卒業。第二次世界大戦中の1943年に陸軍に徴兵されフィリピン・ミンダナオ島に配属された経験を持つ。 戦後、志太クラブや後藤缶詰でプレーを続け、インドで1951年アジア競技大会が開催された際、日本代表に選出されたが、前述の陸軍の経験もあってビザの発給が許可されなかったという。
加茂 正五(かも しょうご、1916年12月12日 - 19… 加茂 正五(かも しょうご、1916年12月12日 - 1977年9月14日)は、静岡県浜松市出身のサッカー選手。ポジションはFW(左ウイング)。 静岡県立浜松第一中学校(現・静岡県立浜松北高等学校)の在学中より実兄の加茂健とともにサッカーを初め、早稲田大学に入学後はア式蹴球部に所属。在学中の1936年にベルリンオリンピックのサッカー日本代表に選出され、1回戦のスウェーデン代表戦に出場。0-2の状況から、49分に川本泰三、62分には右近徳太郎の得点をアシストして試合を振り出しに戻し、チームの逆転勝利に貢献した。 また、在学中の1938年6月に開催された全日本蹴球選手権大會(第18回天皇杯全日本サッカー選手権大会)でチームの優勝に貢献した。
松永 行(まつなが あきら、1914年9月21日 - 194… 松永 行(まつなが あきら、1914年9月21日 - 1943年1月20日)は、静岡県志太郡出身のサッカー選手。ポジションはフォワード。 静岡県志太郡東益津村(現焼津市)出身。松永信夫、松永碩は実弟。静岡県立志太中学校(現:静岡県立藤枝東高等学校)に入学してサッカー部に所属した。なお、笹野積次は志太中での1年先輩に当たる フォワードを務め、100メートルを10秒8台で走る俊足であったという。東京文理科大学附置東京高等師範学校に入学し、蹴球部に所属。在学中の1935年6月に開催された全日本蹴球選手権大會(第15回天皇杯全日本サッカー選手権大会)に中垣内勝久らと出場して準優勝の成績を残した。 1936年のベルリンオリンピックの日本代表に選出。
堀江 忠男(ほりえ ただお、1913年9月13日 - 200… 堀江 忠男(ほりえ ただお、1913年9月13日 - 2003年3月29日)は、日本のサッカー選手、サッカー指導者、経済学者。早稲田大学名誉教授。 現役時代のポジションはポジションはフルバック(現在のディフェンダー)。静岡県浜名郡舞阪町(現:浜松市)出身。 静岡県立浜松第一中学校(現:静岡県立浜松北高等学校)時代にサッカーを始め、早稲田高等学院を経て早稲田大学政治経済学部に進学。在学中はア式蹴球部に所属した。 在学中の1934年5月に開催された第10回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出されて、5月15日のフィリピン代表戦で初出場した。また、1936年にはベルリンオリンピックの日本代表に選出された。
井出 多米夫(いで ためお, 1908年11月27日 - 1… 井出 多米夫(いで ためお, 1908年11月27日 - 1998年8月17日 )は、静岡県清水市(現:静岡市)出身のサッカー選手、サッカー指導者。 静岡県立静岡中学校(現・静岡県立静岡高等学校)を卒業。 早稲田大学に入学後はア式蹴球部に入部した。工藤孝一が同期に当たる。在学中の1930年5月に開催された第9回極東選手権競技大会の日本代表に選出され、1試合に出場した。 1933年10月開催されたア式蹴球全國優勝競技會(第13回天皇杯全日本サッカー選手権大会)に東京OBクラブの一員として優勝した。 1942年に地元の清水市に戻って静岡県立庵原中学校(現:静岡県立清水東高等学校)などで指導し、1948年には同年に創設された清水サッカー協会の初代理事長に就任した。
松原 后(まつばら こう、1896年8月30日 - )は、静… 松原 后(まつばら こう、1896年8月30日 - )は、静岡県浜松市中央区出身のプロサッカー選手。Jリーグ・ジュビロ磐田所属。ポジションはディフェンダー。 浜松開誠館高校を卒業後、2015年に清水エスパルスに入団。同期に 水谷拓磨、宮本航汰、北川航也らがいる。入団時「DF歴」がわずか1年半だったが守備陣にけが人が続出したこともあり、ナビスコカップ予選リーグ第1節でフル出場するとJ1リーグ1st第10節で3バックの一角としてJ1初出場を果たした。同年6月11日、プロA契約を締結。 2016年9月18日、J2第32節・水戸ホーリーホック戦の後半40分、1点ビハインドの状況で大前元紀が中央に入れたボールが、相手選手と競り、ゴールに背を向けていた松原の右足かかと付近にあたり、Jリーグ初得点となる同点弾を挙げた。
與山 このみ は、静岡県藤枝市出身の女子サッカー選手。ポジシ… 與山 このみ は、静岡県藤枝市出身の女子サッカー選手。ポジションはミッドフィールダー (オフェンシブハーフ)。
髙畑 志帆 は、広島県広島市出身の元女子サッカー選手、サッカ… 髙畑 志帆 は、広島県広島市出身の元女子サッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはディフェンダー。
千葉 玲海菜 は、福島県いわき市出身の女子サッカー選手。セリ… 千葉 玲海菜 は、福島県いわき市出身の女子サッカー選手。セリエA・フェンミニーレに所属するユヴェントス・ウィメン所属。サッカー日本女子代表。ポジションはフォワード。筑波大学卒。
池ヶ谷 夏美 は、静岡県出身の元女子サッカー選手、サッカー指… 池ヶ谷 夏美 は、静岡県出身の元女子サッカー選手、サッカー指導者。WEリーグ・AC長野パルセイロ・レディース所属。現役時のポジションはゴールキーパー。
門西亜紀子 は、静岡県出身の女子サッカー選手、フットサル選手… 門西亜紀子 は、静岡県出身の女子サッカー選手、フットサル選手。ポジションはゴールキーパー。
北原 佳奈 は、静岡県藤枝市出身の女子サッカー選手兼サッカー… 北原 佳奈 は、静岡県藤枝市出身の女子サッカー選手兼サッカー指導者。アルビレックス新潟シンガポール所属。ポジションはディフェンダー。