片上 長閑(かたがみ のどか、1993年 - )は、日本の俳… 片上 長閑(かたがみ のどか、1993年 - )は、日本の俳人。静岡県伊東市生まれ。 高校卒業後、鉄道会社に勤めるが半年で退職し、上京した。立教大学文学部史学科卒業後、帰郷する。2019年1月より句作を開始。2022年春より、田畑書店『季刊 アンソロジスト』各号に、明治の俳人に就ての短文を連載している。 現在結社等へは所属せず、「恥露離庵(ちろりあん)」という個人サークルを営み、個人的な刊行物を頒布する際に版元となるほか、友人、知人の著作の刊行をサポートしている。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
上坂 あゆ美(うえさか あゆみ、1991年8月2日 - )は… 上坂 あゆ美(うえさか あゆみ、1991年8月2日 - )は、日本の歌人。 静岡県沼津市出身。十代の頃はコンテンポラリーダンスやバレエをしていたが、両親の離婚により経済的な余裕がなくなったため舞台の道を諦める。美術大学でグラフィックデザインを専攻したが美術は向いていないと感じ、営業職に就く。2017年に転職して時間に余裕ができたのを機に短歌創作を始め、新聞歌壇の穂村弘や東直子の選歌欄に投稿する。 2022年に第一歌集『老人ホームで死ぬほどモテたい』でデビュー。短歌以外にも、エッセイやラジオ、演劇など多岐にわたる活動を展開している。
髙柳 克弘(たかやなぎ かつひろ、1980年7月1日 - )… 髙柳 克弘(たかやなぎ かつひろ、1980年7月1日 - )は、日本の俳人。静岡県浜松市生まれ、東京都国分寺市在住。 静岡県浜松市生まれ。静岡県立浜松北高等学校、2003年早稲田大学第一文学部ロシア文学専修卒業。2006年早稲田大学大学院教育学研究科博士前期課程修了、同大学院博士後期課程単位取得退学。大学では俳句研究会に入会。高校の同級生で同じ大学に進んだ澤田和弥に入会を誘われたことをきっかけに俳句を始める。その後、大学院にて堀切実のもと松尾芭蕉を研究する。2002年、結社「鷹」に入会、藤田湘子に師事。2004年「息吹」により第19回俳句研究賞を史上最年少で受賞。同年、この業績により、小野梓記念賞を受賞。
田中 章義(たなか あきよし、1970年4月19日 - )は… 田中 章義(たなか あきよし、1970年4月19日 - )は、日本の歌人・作家。静岡県静岡市出身・在住。慶應義塾大学総合政策学部卒業。所属事務所は三桂[3]。
本多 稜(ほんだ りょう、1967年10月17日 - )は、… 本多 稜(ほんだ りょう、1967年10月17日 - )は、日本の歌人。静岡県浜松市出身。歌誌「短歌人」編集委員。現代歌人協会会員。関西学院大学商学部卒業。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス修士。 1998年に第9回歌壇賞を受賞。2004年に第1歌集『蒼の重力』で第48回現代歌人協会賞を受賞。2008年には第2歌集『游子』で第13回寺山修司短歌賞を受賞。登山やスキューバ・ダイビングを題材とした躍動的でスケールの雄大な自然詠の他にも、旅行詠、家族詠にも特色がある。世界80カ国余りを旅游。また、長らく市民農園の運営に携わっており、子供から高齢者まで楽しめる様々な作物を育てている。2024には、末梢性T細胞リンパ腫との闘病生活を描いた間奏歌集『時剋』で第36回斎藤茂吉短歌文学賞を受賞。
恩田 侑布子(おんだ ゆうこ、1956年9月17日 - )は… 恩田 侑布子(おんだ ゆうこ、1956年9月17日 - )は、俳人。静岡県静岡市出身。 静岡県立静岡高等学校在学中より、短歌と俳句を始める。早稲田大学第一文学部文芸専修卒業。在学中に両親が離婚したこともあり、言葉から離れるため、卒業後は陶芸家を志す。その後腎臓病を発症し陶芸の道を断念し、俳句を再開。摂津幸彦に誘われ「豈」同人となる。種村季弘、池内紀、平賀敬らの「酔眼朦朧湯煙句会」、草間時彦捌きの連句「木の会」を終会まで楽しむ。16年間書き溜めた評論をまとめた芸術・俳句論集『余白の祭』を2013年に発表。同作で松本健一の選考により第23回Bunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞。現代俳句評論賞選考委員。
石 寒太(いし かんた、1943年9月23日 - )は、日本… 石 寒太(いし かんた、1943年9月23日 - )は、日本の俳人。本名・石倉昌治。 静岡県田方郡生まれ。静岡県立韮山高等学校、國學院大學文学部卒業。1969年「寒雷」入会、加藤楸邨に師事。1989年、「言葉にも心にも片寄らず、炎のような情熱と人の環を大切にする」をモットーに「炎環」を創刊、主宰。毎日新聞社『俳句αあるふぁ』編集長、毎日文化センター講師、NHK俳句教室講師、朝日カルチャーセンター講師。日本文芸家協会、近世文学会、俳文学会、現代俳句協会会員。 句集に『あるき神』『炎環』『翔』『夢の浮橋』『石寒太句集』、評論に『山頭火』『宮沢賢治の俳句』『わがこころの加藤楸邨』『「歳時記」の真実』『おくのほそ道 謎解きの旅』など多数。
冨士 眞奈美(ふじ まなみ、1938年〈昭和13年〉1月15… 冨士 眞奈美(ふじ まなみ、1938年〈昭和13年〉1月15日 - )は、日本の女優、随筆家、俳人。血液型はA型。本名、岩崎 真奈美。アンテーヌ所属。俳号は衾去(きんきょ)。 6人きょうだいの三女(上から女、女、本人、男と続き、5人目と6人目の性別は不明)として育った。静岡県三島市で生まれた後、1歳の頃に一家で東京都滝野川区(現・北区)で暮らし、小学校に上がる前、三島で暮らす祖父の急死により、ひとり娘の母とともに一家で三島へ戻った。県立三島北高校卒業。 1956年にNHKのテレビドラマ『この瞳』の主役に抜擢されてデビューし、これを機に上京して芸能活動を始めた。1957年、NHK専属女優の第一号となり、『輪唱』の三姉妹役で共演した馬渕晴子・小林千登勢とNHK三人娘と呼ばれて人気を博した。
村越 化石(むらこし かせき、1922年12月17日 - 2… 村越 化石(むらこし かせき、1922年12月17日 - 2014年3月8日)は、静岡県藤枝市出身の俳人。本名は村越 英彦(むらこし ひでひこ)。ハンセン病とその後遺症と闘いながら句作を続け「魂の俳人」と呼ばれた。 静岡県志太郡朝比奈村(現:藤枝市岡部町)新舟(にゅうぶね)に生まれる。1938年、16歳のときハンセン病の罹患がわかり、旧制静岡県立志太中学校(現:静岡県立藤枝東高等学校)を退学、上京し治療に専念する。この時期に療友の勧めで俳句を知った。1941年に結婚、同年群馬県草津町湯之沢を経て、妻とともに同町の国立療養所栗生楽泉園に入園。同園の「栗の花句会」(のち高原俳句会となる)で、先輩俳人の浅香甲陽から俳句精神を学んだ。
大岡 博(おおおか ひろし、1907年(明治40年)3月9日… 大岡 博(おおおか ひろし、1907年(明治40年)3月9日 - 1981年(昭和56年)10月1日)は、日本の歌人。 静岡県静岡市生まれ。貿易商だった父延時(1883年 - 1935年)の関係で少年期までを神戸で過ごす。その後、三島に定住。曾祖父の永夢は幕臣で旗本。徳川慶喜の駿府移住に随行し、同地に住んだ、祖父直時は、三島に移り、のちに三島警察署長を務めた。1924年(大正13年)沼津中学校(現静岡県立沼津東高等学校)卒業後、父不在のもと苦学し、家族の病気や経済面から進学を断念して三島市で教職につく。のちに1949年(昭和24年)から1951年(昭和26年)まで県教職員組合執行委員長、初代県立児童会館長、中学校校長を務めるなど教育者として力を尽くした。
車谷 弘(くるまたに ひろし、1906年(明治39年)8月2… 車谷 弘(くるまたに ひろし、1906年(明治39年)8月28日 - 1978年(昭和53年)4月16日)は、日本の編集者、俳人、実業家。文藝春秋専務取締役を務めた。 静岡県下田市出身。唐人お吉研究で知られる郷土史家・眼科医の村松春水を伯父に持つ。1929年(昭和4年)東京薬学専門学校(現・東京薬科大学)卒業。翌年『サンデー毎日』の懸賞小説に入選。永井龍男と下宿を共にしていたこともある。 1931年(昭和6年)より文藝春秋社に勤め、戦後、菊池寛が同社を解散した際、佐佐木茂索、鷲尾洋三らとともに文藝春秋新社を設立。『文藝春秋』、『オール讀物』の編集長、編集局長、出版局長を経て専務取締役となった。 小説を書くほか俳句をし、渡辺水巴、久保田万太郎に師事。
百合山 羽公(ゆりやま うこう 、1904年9月21日 - … 百合山 羽公(ゆりやま うこう 、1904年9月21日 - 1991年10月22日)は、俳人。本名・又三郎。静岡県浜松生。県立浜松商業学校卒業。在学中、高浜虚子に会い、その紹介で池内たけしに師事。1923年、上京し「ホトトギス」の句座に参加、同時に池内が選者を務めていた「破魔弓」(「馬酔木」の前身)に入会。1929年、24歳で「ホトトギス」巻頭。1933年、水原秋桜子の「ホトトギス」離反に従い「馬酔木」に拠り、「馬酔木」第一期同人となる。1945年、浜松の住居を戦災で失い、同県引佐郡細江町の父の生家に疎開。1946年「あやめ」創刊。1950年「あやめ」を「海坂」(うなさか)に改題、20年来の句友である相生垣瓜人と共宰する。
児山敬一(こやま けいいち、1902年3月1日-1972年4… 児山敬一(こやま けいいち、1902年3月1日-1972年4月22日)は、日本の哲学者、歌人。東洋大学名誉教授。 静岡県浜松市出身。1928年東京帝国大学文学部哲学科卒。数理哲学を専攻し,1952年東洋大学教授、同東洋学研究所長、名誉教授。佐佐木信綱に師事し『心の花』に所属、のち1930年「短歌表現」を創刊して口語自由律の作風をうちたてる。戦後は「文芸心」を主宰した。
明石 海人 (あかし かいじん、1901年(明治34年)7月… 明石 海人 (あかし かいじん、1901年(明治34年)7月5日 - 1939年(昭和14年)6月9日) は、昭和初期に活動した日本の歌人である。本名は野田勝太郎。「もし長寿を保ったなら、昭和時代を代表する大歌人となったろう」とは大岡信の言である。 1901年 (明治34年) 7月5日、沼津市に三男として生まれた。2人の兄と1人の妹がいる。もう1人弟がいたが出生後間もなく亡くなっている。生家は経済的に恵まれており、沼津商業学校を終えると静岡師範学校へ入り教職の道に進み、1920年 (大正9年) に師範学校を卒業後、小学校教員となった。 1924年、同僚の麻子と結婚、翌1925年 (大正14年) には長女の瑞穂、続いて次女の和子をもうけた。
海野 厚(うんの あつし、1896年8月12日 - 1925… 海野 厚(うんの あつし、1896年8月12日 - 1925年5月20日)は、童謡作家、俳人。本名は厚一(こういち)。俳号は長頸子(ちょうけいし)。 静岡県安倍郡豊田村曲金(現:静岡市駿河区曲金二丁目)の出身。生家は大地主だったが、後に没落。 旧制静岡中学卒業後、早稲田大学に入学。童話雑誌「赤い鳥」に投稿した作品が北原白秋に認められ童謡作家となる。俳句同人誌「曲水」にも参加。中山晋平らとともに「子供達の歌」を出版。雑誌「海国少年」の編集長も務めた。結核のため28歳で死去したため作品数は多くない。没後は西豊田小学校に隣接する法蔵禅寺に葬られ、墓石が存在する。 彼の母校である静岡市立西豊田小学校には「背くらべ」の歌碑が建てられている。
石川 佐久太郎(いしかわ さくたろう、1888年7月30日 … 石川 佐久太郎(いしかわ さくたろう、1888年7月30日 - 1954年)は、日本の国文学者・歌人。 静岡県出身。静岡県立静岡中学校、第六高等学校 (旧制)を経て、1914年(大正3年)、東京帝国大学文科大学国文学科を卒業。東京女子高等師範学校教授、日本女子大学教授を歴任した。国文学者。歌人。号して横村。
加藤 雪腸(かとう せっちょう、1875年(明治8年)1月2… 加藤 雪腸(かとう せっちょう、1875年(明治8年)1月2日 - 1932年(昭和7年)11月24日)は、静岡県出身の日本の俳人。別号に清白之舎、千里坊など。本名は孫平。 1875年(明治8年)静岡県榛原郡川崎町(現在の牧之原市)に生まれる。静岡師範学校(現在の静岡大学)在学中に俳句を始め、正岡子規に入門。高浜虚子、河東碧梧桐とともに、早くから子規門となった若手俳人として注目される。また静岡師範学校の仲間を中心に俳誌『芙蓉』を主宰、同誌を発行する「芙蓉会」は松島十湖、藤田紫亭、渥美渓月、久保田九品太らが集い、静岡における日本派の拠点となった。 静岡師範卒業後、教員となった後も俳句を続けたが、子規亡き後は次第に自由律俳句に傾倒。
角田 竹冷(つのだ/すみだ ちくれい、1857年8月4日(安… 角田 竹冷(つのだ/すみだ ちくれい、1857年8月4日(安政4年6月15日) - 1919年(大正8年)3月20日)は、明治・大正期の俳人・政治家。本名は真平(しんぺい)。駿河国加島(現静岡県富士市)生れ。東京に出て代言人(弁護士)となり、東京府会議員、東京市会議員、衆議院議員を歴任した。位階及び勲等は正六位、勲四等。 農業・角田彦右衛門の二男として生まれる。1874年(明治7年)に上京し法律学を修めた。1880年(明治13年)、代言人試験に合格した。東京府会議員、同副議長、神田区会議員、同議長、牛込区会議員、東京市会議員、同参事会員、東京市臨時市区改正局長兼水道局長などを歴任。 その他、跡見女学校理事、秀英舎取締役、中央窯業取締役、帝国劇場取締役、東京株式取引所理事などを務めた。
原川 孫九郞(はらがわ まごくろう、1847年〈旧暦弘化4年… 原川 孫九郞(はらがわ まごくろう、1847年〈旧暦弘化4年〉 - 1901年〈明治34年〉)は、日本の政治家、銀行家、歌人。雅号は寬岡。名の「郞」はJIS X 0208では「郎」と同一の区点が割り当てられていることから、原川 孫九郎(はらがわ まごくろう)と表記されることもある。 静岡県城東郡小貫村戸長、静岡県城東郡佐束村村長(初代)、株式会社佐束銀行専務取締役などを歴任した。 遠江国出身の政治家である。小貫村においては戸長を務め、佐束村においては村長に選任されていた。佐束山への植林に尽力し、豊かな美林を育てた。また、銀行家としての一面も持っており、佐束銀行で取締役を務め、地域経済の振興に努めた。
村松 以弘(むらまつ いこう、安永元年(1772年) - 天… 村松 以弘(むらまつ いこう、安永元年(1772年) - 天保10年(1839年)は江戸時代後期の南画家・歌人。 名は維孝、字は以弘。 号は笠斎・小笠山房主人など。通称は奥五郎。遠州掛川 十九首の生まれ。 幼少より絵を描くことが好きだったので、伊勢の僧・月僊に学び、長じると江戸に出て谷文晁の画塾・写山楼に入門した。文晁が東海道を往来するとき、以弘の家に滞在したという。渡辺崋山にも画の指導を受けている。画力を認められ、時期は不明だが掛川藩御用絵師となった。同藩の儒者・松崎慊堂と交流した。 門下に福田半香・平井顕斎・村松弘道・僧思玄(尊永寺住持)・小栗松靄(浜松の庄屋)などがいる。