田部 芳(たなべ かおる、1860年11月1日(万延元年9月… 田部 芳(たなべ かおる、1860年11月1日(万延元年9月19日) - 1936年(昭和11年)11月18日)は明治から昭和期の法曹家。大審院検事・大審院部長判事等を歴任し商法起草委員として新商法成立に尽くした。滋賀県出身者として司法省法学校同期の河村譲三郎と共に最初の法学博士(博士登録番号22番)。 田部芳は、1860年11月1日((旧暦)万延元年9月19日)に彦根藩士下士の家(犬上郡彦根上藪下町)に生まれる。父田部密は桜田門外の変後彦根藩内に台頭した尊攘派下級藩士の結社である至誠組に近い立場にあり、明治維新後の藩政に関与。維新後は大和国の高市郡・葛上郡・葛下郡・忍海郡の郡長を務めると共に大阪・名古屋間の運送業を起こした。
浅見 竹太郎(あさみ たけたろう、1859年3月6日(安政6… 浅見 竹太郎(あさみ たけたろう、1859年3月6日(安政6年2月2日) - 1930年(昭和5年)7月20日)は、日本の弁護士。政治家、衆議院議員(2期)。 近江国犬上郡彦根町(滋賀県犬上郡彦根町を経て現彦根市)出身。1872年、旧彦根藩校弘道館卒。卒業後は代言人となり、弁護士となる。滋賀県会議員を経て、近江水電会社を創立する。 1903年の第8回衆議院議員総選挙において滋賀県郡部から憲政本党公認で立候補して初当選する。1904年の第9回衆議院議員総選挙で再選。衆議院議員を2期務め、1908年の第10回衆議院議員総選挙は不出馬。 政界引退後は朝鮮総督府判事となり、大邱、光州、京城の各地方法院判事を歴任し、その後は弁護士に戻った。
西田 庄助(にしだ しょうすけ、1859年2月20日(安政6… 西田 庄助(にしだ しょうすけ、1859年2月20日(安政6年1月18日)- 1937年(昭和12年)6月23日)は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員、滋賀県犬上郡千本村長。 近江国犬上郡西沼波村(滋賀県犬上郡千本村字西沼波を経て現彦根市)で、西田教寛の長男として生まれる。深見東岳から漢学を学んだ。1881年(明治14年)12月、家督を相続した。農業、商業を営む。 1884年(明治17年)10月、平田村外11ヶ村連合会議員・同議長に就任。以後、地蔵村外2ヶ村連合会議員・同議長、彦根沼波町外6ヶ町村連合会議員・同議長、今井水利土工連合会議員・同議長、犬上郡彦根町外101ヶ町村連合会議員、犬上郡所得税調査委員、滋賀県米質改良組合規則設定委員、滋賀県勧業諮問会員などを務めた。
島田 保之助(しまだ やすのすけ、安政5年10月12日(18… 島田 保之助(しまだ やすのすけ、安政5年10月12日(1858年11月17日) - 昭和2年(1927年)2月21日)は、衆議院議員(立憲政友会→中正会→憲政会)、ジャーナリスト。 近江国野洲郡中洲村大字新庄(現在の滋賀県守山市)出身。郷里で漢学を修めた後、京都に遊学した。1880年(明治13年)、滋賀県医学校に入学したが、翌年に東京に遊学した。東京で自由民権運動に参加し、1884年(明治17年)に自由党に入党。その後も立憲自由党の設立に尽力し、1892年(明治25年)から自由党滋賀県支部幹事を務めた。1894年(明治27年)、「淡海民報」を創刊し、1902年(明治35年)には「江州新聞」を創刊した。
西川 貞二郎(にしかわ ていじろう、1858年5月31日(安… 西川 貞二郎(にしかわ ていじろう、1858年5月31日(安政5年4月19日)-1924年(大正15年)3月9日)は、明治期の起業家・近江商人。西川傳右衛門家の10代目、諱は昌一。カニ缶を初めて商品化、八幡銀行(後の滋賀銀行の一部)・帝国水産等を創業した。 1858年5月31日((旧暦)安政5年4月19日)、近江国野洲郡江頭村(現近江八幡市江頭町)の井狩只七の次男定次郎として誕生した。母は蒲生郡中野村(現東近江市)小泉弥右衛門の娘。1864年(元治元年)、定次郎は第9代西川傳右衛門昌武(1862年(文久9年)死去)の後継となるため西川家に入る。定次郎の祖母は第5代傳右衛門昌康の娘に当たり、定次郎の叔母は西川家分家善六家に嫁ぎ、西川家と井狩家は姻戚関係にあった。
水上 長次郎(みずかみ ちょうじろう、1858年2月10日(… 水上 長次郎(みずかみ ちょうじろう、1858年2月10日(安政4年12月27日)- 1936年(昭和11年)4月3日)は、日本の判事、検事、貴族院勅選議員。 近江国彦根出身。1884年(明治17年)、司法省法学校を卒業。徳島始審裁判所・大阪始審裁判所・大阪控訴院で判事を務め、京都地方裁判所部長・福井地方裁判所所長・岐阜地方裁判所所長を歴任した。1898年(明治31年)、大阪地方裁判所検事正となり、広島控訴院検事長・長崎控訴院検事長・大阪控訴院検事長を歴任した。その間、日露戦争の際には佐世保で捕獲審検所検察官を務めた。1913年(大正2年)、名古屋控訴院長に就任し、のち大阪控訴院長に転じた。1921年(大正10年)6月14日、貴族院議員に勅選され、交友倶楽部に所属して死去するまで在任した。
巌谷 立太郎(いわや りゅうたろう、1857年10月2日(安… 巌谷 立太郎(いわや りゅうたろう、1857年10月2日(安政4年8月15日) - 1891年(明治24年)1月24日)は、明治期の鉱山学者、日本新聞社創立発起人。東京大学理学部教授・農商務省鉱山局技師として採鉱冶金術の改良に貢献した。滋賀県出身者で初の工学博士(博士登録番号10番)。 旧暦安政4年8月15日(1857年10月2日)、近江国水口で生まれる。巌谷家は代々水口藩典医を務め、祖父は巌谷玄通、父は明治維新後太政官一等書記・貴族院議員を務めた漢学者の巖谷一六(本名は修、明治の三筆の一人)。立太郎は長男として誕生した。 6歳より水口にて藩儒中村栗園に学び神童と称され、明治元年(1868年)京都で神山鳳陽に師事して漢学を学んだ。
三須 宗太郎(みす そうたろう、1855年9月16日〈安政2… 三須 宗太郎(みす そうたろう、1855年9月16日〈安政2年8月6日〉- 1921年〈大正10年〉12月24日)は、明治時代の海軍軍人。官位は海軍大将・正三位勲一等功二級男爵。近江国(現:滋賀県)出身。 彦根藩士三須熊次郎の長男として生まれた。藩主井伊直弼がペリー来航に際して江戸湾防衛を担当した際、死を覚悟して事前に「宗観院柳暁覚翁居士」の戒名を手に入れて赴任したことにちなみ、熊次郎は藩主の戒名から最初の一字を頂き、長男を宗太郎と命名した。三須本人も開国に殉じた藩主を尊敬し、元服しても名を改めようとしなかった。 明治4年(1872年)8月、海軍兵学寮に入った。カリキュラムを修了するまでの7年間、兵学寮に留まったが、生徒の多くが薩摩藩や佐賀藩の出身者で、彦根出身の三須には居心地のよい場所ではなかったらしい。
秋元 源彌(秋元 源弥、あきもと げんや、1855年9月5日… 秋元 源彌(秋元 源弥、あきもと げんや、1855年9月5日〈安政2年7月24日〉 - 1915年〈大正4年〉7月26日)は、日本の商人(皮革商、近江屋主)、会社役員。日本肥料取締役。族籍は東京府平民。 近江国坂田郡甲田村(のち滋賀県坂田郡鳥居本村、現彦根市甲田町)出身。秋元平太郎の三男。分家して一家を創立する。僅かに旅費を持ち、1879年に単身で東京に来る。 製皮事業が有利であることを予知し、2年間某商の徒弟となり、1881年に独立して近江屋商店を開業する。「都下に於ける皮革商中の大商賈」と称され、直接国税約1000円を納める。 所得税調査委員、東京製革業組合頭取などをつとめる。長らく病気のところ薬石効なく1915年7月26日に死去する。
石橋 彦三郎(いしばし ひこさぶろう、1855年〈安政2年5… 石橋 彦三郎(いしばし ひこさぶろう、1855年〈安政2年5月〉または1862年8月11日(文久2年7月16日) - 1938年または1939年)は、日本の実業家。滋賀県出身であるが、北海道に渡って「丸ヨ石橋彦三郎商店」の屋号で醤油醸造を手がけ、道内でトップ、日本でも「醤油御三家」に数えられる生産高の事業に育てた。 後の滋賀県犬上郡彦根町(現・彦根市)に生まれる。出生当時の名前は「捨治郎」もしくは「捨次郎」。彦治の五男であった。 兄の先代・彦三郎は彦根藩が幕末に北海道日高国沙流に藩士を駐在させる際に御用商人として箱館で米穀荒物商を開き、1871年(明治4年)に小樽に店舗を移した。先代・彦三郎は海産物を江戸に運ぶ事業もおこなったとされる。
鵜飼 退蔵(うかい たいぞう、1853年12月27日(嘉永6… 鵜飼 退蔵(うかい たいぞう、1853年12月27日(嘉永6年11月27日) - 1915年(大正4年)12月19日)は、明治時代の滋賀県の政治家。 1853年(嘉永6年)11月、近江国栗太郡東坂村(後の金勝村、現栗東市東坂)に住いする鵜飼藤右衛門の長男として誕生し、近隣の私塾に入塾した後に京都の岩垣月洲に就いて経書典籍を修め、1870年(明治3年)帰郷した。1872年(明治5年)地租改正令公布に伴い穴村(現草津市)の駒井深美とともに地租改正委員に選ばれ、1879年(明治12年)4月20日第一回滋賀県議会が大津南町顕證寺において開かれた際は栗太郡より県会議員に選出され、以後30年間その職にあった。
河路 重平(かわじ じゅうへい、1853年8月18日(嘉永6… 河路 重平(かわじ じゅうへい、1853年8月18日(嘉永6年7月14日) - 1904年(明治37年)7月13日)は、明治時代の政治家。実業家。銀行家。貴族院多額納税者議員。滋賀県坂田郡長浜町長。 寺村喜右衛門の子として近江国坂田郡長浜町(現滋賀県長浜市)に生まれ、1872年(明治5年)醤油醸造業を営む河内重内の養子となり、1876年(明治9年)10月に家督を相続した。 1874年(明治7年)以降、坂田郡第十六区戸長、長浜町会議員、同町長のほか、第二十一、第六十四各国立銀行頭取、日本精米、日本汽船各取締役、近江製糸、長浜生糸米穀取引所各監査役などを歴任した。ほか、長浜銀行、長浜貯蓄銀行などの創立に関与した。
大橋 利左衛門 (おおはし りざえもん、1853年2月3日(… 大橋 利左衛門 (おおはし りざえもん、1853年2月3日(嘉永5年12月25日) - 1888年(明治21年)1月2日) は植林家・政治家。 1853年2月3日(嘉永5年12月25日)に近江国犬上郡(後の日夏村、現・滋賀県彦根市日夏町)に生まれる。1878年に日夏村の戸長となり、1881年には県会議員も務めた。1887年には日夏村から東海道本線が開通していた河瀬村南川瀬の区間に日夏街道を開通させるなど地域の交通面の整備を手がけた。 1872年当時の日夏村民たちは生活苦のために、荒神山の樹木を伐採し売却して生計を維持していた。乱伐のために荒神山はわずかな年月の間にはげ山となり治水機能が低下して土砂崩れがしばしば発生していた。
井口 松之助(いのぐち まつのすけ、1853年〈嘉永6年〉 … 井口 松之助(いのぐち まつのすけ、1853年〈嘉永6年〉 - 没年不詳)は、日本の編集者である。 1853年(嘉永6年)近江国大津(現滋賀県大津市)に生まれた。 初め京都で書肆をやっていた須磨勘兵衛に雇われた後、京都の福井源次郎の書肆に転職した。その後、名古屋の紙久の養子となった。 1881年(明治14年)に上京した。 1886年(明治19年)に氷業を営んだが廃業し、同年10月に東京の京橋区南大工町で「魁眞棲」という社名で書籍業を始めた。 1889年(明治22年)同業者を勧誘して図書の競り市の第一回を挙行し、井口自身は販売人の振手を務めた。 1891年(明治24年)東京の神田錦町に移り書籍小売行を開始した。
阿部 周吉(あべ しゅうきち、1853年 - 1927年)は… 阿部 周吉(あべ しゅうきち、1853年 - 1927年)は幕末から明治・大正期の滋賀県の実業家。 1853年(嘉永5年)、近江国甲賀郡水口宿本陣の鵜飼家に生まれる。幼時巖谷一六・小波等の知遇を得、白峰と号して書・詩を嗜む。近江国能登川の近江商人の老舗阿部市郎兵衛家分家阿部利兵衛家の養子となり第2代利兵衛娘なをと結婚し家督を継ぐ。その後金巾製織(現在の東洋紡の前身のひとつ)、近江銀行、関西鉄道などを発起人のひとりとして創業。金巾製織専務、大和紡績(やまとぼうせき、現在のユニチカの前身のひとつ)社長、能登川村長などを歴任。1927年(昭和2年)2月18日74歳で死去。 長女はつは膳所藩筆頭家老戸田資慶長男元寿と結婚。
鹿島 秀麿(かしま ひでまろ、1852年10月10日(嘉永5… 鹿島 秀麿(かしま ひでまろ、1852年10月10日(嘉永5年8月27日) - 1932年(昭和7年)3月27日)は、日本の武士(徳島藩士)、明治期の政治家、ジャーナリスト、実業家。勲四等旭日小綬章。 近江国甲賀郡水口(現滋賀県甲賀市)で水口藩医師大村純道の次男として生まれた。幕末には徳島藩侍医鹿島家の養子となり、徳島藩に仕えた。明治維新後稲田騒動 (徳島藩家老の稲田邦植が淡路島の分藩を求めたことに対し、徳島藩士が激発した事件)に巻き込まれて藩職を去ったのち、上京して慶應義塾に学ぶ。神戸新報を立ち上げる。 帰淡後、教育・新聞出版事業に携わるとともに、立憲改進党に参加して兵庫県の自由民権運動の中心的存在となっていった。
岡見 正美(おかみ まさみ、1852年6月1日(嘉永5年4月… 岡見 正美(おかみ まさみ、1852年6月1日(嘉永5年4月14日) - 1920年(大正9年)11月8日)は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級。 近江彦根藩領犬上郡彦根町(滋賀県犬上郡彦根町を経て現彦根市)出身。士族・岡見安の長男として生まれ、1872年(明治5年)家督を相続する。同年、陸軍歩兵少尉に任じ、台湾守備歩兵第5連隊長、歩兵第17連隊長などを経て、1899年(明治32年)8月、大佐に進む。1902年(明治35年)11月、陸軍少将に進級と同時に予備役に編入するが、日露戦争の開戦により召集を受け1904年(明治37年)2月、留守歩兵第21旅団長に補され、1906年(明治39年)2月、召集解除となった。
小山 保政(こやま やすまさ、1852年(嘉永5年) - 1… 小山 保政(こやま やすまさ、1852年(嘉永5年) - 1899年(明治32年)8月23日)は、明治期の鉄道技術者。 1852年(嘉永5年) - 近江国伊香郡小山村(現在の滋賀県長浜市)で出生、幼名五郎。東京市芝区三田綱町(現・東京都港区三田)に居住する。鉄道技師として領有後の台湾で、既設の台北~新竹間の鉄道路線の調査や縦貫鉄道建設のため現場の調査を行う。明治32年8月台南~打狗の路線調査中、乗車していた人力軽便鉄道の顛覆事故により負傷し台湾総督府台南医院にて死亡する。同じく台湾総督府鉄道の技師である小山三郎は子息。 この項目は、台湾に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:台湾 / P:アジア)。
伊夫伎 資弼(いぶき としすけ、1851年3月12日〈嘉永4… 伊夫伎 資弼(いぶき としすけ、1851年3月12日〈嘉永4年2月10日〉 - 1911年〈明治44年〉2月14日)は、明治時代の政治家、篤農家。衆議院議員(2期)。旧名は出雲。 近江国坂田郡伊吹村(滋賀県坂田郡伊吹町を経て、現米原市)で、伊吹神社社家・伊夫伎専右衛門の長男として生まれる。1871年(明治4年)10月に今の名前に改名する。国学を学んだのち神官となる。また、所得税調査委員、破産管財人、郡農会副会頭、県農会副会頭、県農工銀行取締役を務めた。 1889年(明治22年)6月に伊吹村会議員、同村長となった。1890年(明治23年)3月には、滋賀県会議員に阪田郡選挙区から立候補して当選した。
相馬 永胤(そうま ながたね、1850年12月25日(嘉永3… 相馬 永胤(そうま ながたね、1850年12月25日(嘉永3年11月22日) - 1924年(大正13年)1月26日)は日本の政治家、法学者、経済学者、代言人、横浜正金銀行頭取、専修学校創立者の一人・校長、専修大学創立者・初代学長。
沢田 耕治郎(さわだ こうじろう、1850年10月12日(嘉… 沢田 耕治郎(さわだ こうじろう、1850年10月12日(嘉永3年9月7日) - 1926年(大正15年)3月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。 近江国蒲生郡、のちの滋賀県蒲生郡桐原村(現近江八幡市)で生まれる。漢学と法律学を学ぶ。戸長、桐原村会議員、同村長、滋賀県会議員、徴兵参事員、地方森林会議員、近江米同業組合会議員、蒲生倉庫(株)取締役社長、蒲生銀行頭取となる。 1902年の第7回衆議院議員総選挙において滋賀県郡部から憲政本党公認で立候補して初当選した。1903年の第8回衆議院議員総選挙で再選を果たした。1904年の第9回衆議院議員総選挙で三選した。衆議院議員を3期務め、1908年の第10回衆議院議員総選挙で落選した。
中田 長茂(なかた ながしげ、1850年(嘉永3年7月) -… 中田 長茂(なかた ながしげ、1850年(嘉永3年7月) - 1929年(昭和4年)1月3日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 近江国高島郡勝野村(のち滋賀県高島郡大溝村→大溝町→高島町、現・高島市)生まれ。漢学を学ぶ。高島郡書記、滋賀県属、滋賀県会議員、同参事会員、所得税調査委員、地方森林会議員、地方衛生会委員、近江銀行取締役、滋賀県農工銀行監査役、近江貯蓄銀行頭取となる。 1892年の第2回衆議院議員総選挙において滋賀1区から同盟倶楽部所属で立候補したが落選した。1894年3月の第3回衆議院議員総選挙では立憲革新党所属で立候補して当選する。同年9月の第4回衆議院議員総選挙で落選した。衆議院議員は1期務め、1929年に死去した。
磯部 亀吉(いそべ かめきち、嘉永2年7月10日(1849年… 磯部 亀吉(いそべ かめきち、嘉永2年7月10日(1849年8月27日) - 明治26年(1893年)11月29日)は、明治時代、滋賀県旧神崎郡(のちの八日市市、現在の東近江市)選出の県会議員。 磯部家は神崎郡上中村(現在の東近江市建部上中町)では裕福な家であった。明治21年11月から明治25年の間、県会議員に選出されている。上中村戸長から明治22年6月に建部村初代村長に就任する。当時の制度では村長は官吏ではなく官からの給与は支払われていなかった。 旧八日市市域選出の県会議員は市の規模と比較して少ないのは否めない。これは、当地域では政治性が希薄であったことによる。そういった中、磯部亀吉は当地域選出の議員としては非常に活躍した議員であった。
11代西川 甚五郎(にしかわ じんごろう、諱は重威(しげたけ… 11代西川 甚五郎(にしかわ じんごろう、諱は重威(しげたけ)、1849年1月10日(嘉永元年12月16日) - 1905年(明治38年)4月6日)は、江戸時代末期から明治期の近江商人。西川甚五郎家山形屋11代、明治維新動乱期を越えて西川への発展の基礎を固めた。 1849年1月10日((旧暦)嘉永元年12月16日)に近江国蒲生郡八幡(現近江八幡市)において山形屋10代西川甚五郎の二男二女の第四子次男として誕生、長男夭折に伴い跡継ぎとして育てられ、幼名は伊三郎と称した。 1840年代(天保弘化年間)、越前国において近江より熟練工を招き蚊帳織りを開始したことから近江蚊帳の営業者は1878年(明治11年)当時5軒まで減っていた、加えて1866年(慶応2年)には徳川幕府の長州征伐のための御用金1千8百両の上納を求められ経営環境は極度に悪化していた。
野口正章(のぐち まさあき、嘉永2年(1849年) - 大正… 野口正章(のぐち まさあき、嘉永2年(1849年) - 大正10年(1921年)11月)は、明治維新期の近江商人・実業家。『十一屋』主人、日本初の市販国産ビールを作った。 野口正章は、滋賀県蒲生郡綺田村(後の桜川村、現東近江市綺田町)で造酒業を営む十一屋の跡取りとして誕生した。父である野口正忠は美術愛好家で漢詩家、柿村と号し近江・京の多くの文人と親交厚く、富岡鉄斎は正忠との交遊から長く野口家に居候をしていた。正章も父の影響を受け関西南画壇の重鎮である日根対山に師事し、絵画を学んでいた。明治10年(1877年)、画業を通じ予てより野口家と親交があり、また師(日根対山)を同じくする小蘋こと松村親と結婚し、翌年に娘の郁子(後に小蕙と号す)が生まれた。
脇坂 行三(わきさか こうぞう /わきざか ぎょうぞう、18… 脇坂 行三(わきさか こうぞう /わきざか ぎょうぞう、1849年(嘉永2年2月) - 1914年(大正3年)9月7日)は、明治時代の滋賀県の政治家。 1849年(嘉永2年)旧暦2月、近江国東浅井郡大郷村錦織(現:滋賀県長浜市)に生まれる。長じて豊後国中津の手島仁太郎、同国廣瀬孝之の私塾に入塾し、1871年(明治4年)横浜でドイツ語を修める。1879年(明治12年)東京府病院医学校を卒業し、同年医術開業試験を受け免状を得、帰郷し東浅井郡小谷村大字丁野にて医業に従事した。1880年(明治13年)地方衛生会員に任じられ、1885年(明治18年)7月滋賀県会議員選挙に立候補し当選する。1888年(明治21年)には県会常置委員に推され就任した。
磯風 音次郎(いそかぜ おとじろう、嘉永元年7月20日(18… 磯風 音次郎(いそかぜ おとじろう、嘉永元年7月20日(1848年8月18日) - 明治35年(1902年)6月7日)は、明治時代初期の力士、本名西村 長兵衛。180cm、139kg。 磯風音次郎は、近江滋賀郡松本村(現滋賀県大津市)に生まれ、本名は西村長兵衛と言った。浜大津で沖仲仕をしながら素人相撲を取っていた。沖仲士としてある藩の御用金を運送中に粟津原(現滋賀県大津市晴嵐付近)で追剥に奪われ訴え出たところ、逆に役人が同業の者が遊ぶ金に使ったのだろうと疑われ、立派な力士になって見返してやろうと決意したと伝えられる。 明治元年(1868年)頃に京都の初島七蔵に弟子入りし西の大関となる。明治16年(1883年)東京で幕内格番付外、翌年客席(三役格)で場所をつとめ明治20年(1887年)頃横綱を自称したとされるが、明治23年(1890年)吉田司家から巡業横綱を許された。
布施 孫一郎(ふせ まごいちろう、1848年1月6日(弘化4… 布施 孫一郎(ふせ まごいちろう、1848年1月6日(弘化4年12月1日) - 1911年(明治44年)3月10日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 滋賀県出身。庄屋役、唐川村(のち七郷村、高月町を経て、現・長浜市)日吉社祠掌、同教導職試補、伊香郡教導職取締役、唐川村戸長、所得税調査委員、滋賀県勧業諮問会員、滋賀県会議員、伊香郡徴兵参事員、七郷村長、県蚕糸業取締所頭取、同蚕種検査所監督となる。 1902年の第7回衆議院議員総選挙において滋賀県郡部から立憲政友会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1903年の第8回衆議院議員総選挙は不出馬。1911年に死去した。
伊庭 貞剛(いば ていごう、1847年2月19日(弘化4年1… 伊庭 貞剛(いば ていごう、1847年2月19日(弘化4年1月5日) - 1926年(大正15年)10月22日)は、近江国出身の明治時代の実業家、第2代住友総理事である。 「別子銅山中興の祖」と言われ、「東の足尾、西の別子」と言われた、住友新居浜精錬所の煙害問題の解決にあたった。植林など環境復元にも心血を注ぎ、企業の社会的責任の先駆者とも言われている。 近江源氏佐々木氏支流伊庭氏の一族である。 1847年(弘化4年)、近江国蒲生郡西宿村(現・滋賀県近江八幡市)に伯太藩代官伊庭正人の長男として、母、北脇田鶴子の実家で生まれ、7歳まで母方の実家で育つ。幼名は耕之助。 八幡町の児島一郎に剣道を、西川吉輔に国学を学んだ。
横田 香苗(よこた かなえ、弘化2年8月21日〈1845年9… 横田 香苗(よこた かなえ、弘化2年8月21日〈1845年9月22日〉 - 1912年〈大正元年〉10月18日)は、明治時代の賞勲局官僚。賞勲局副総裁。錦鶏間祗候。 彦根藩士の横田俊輔の二男として近江国犬上郡彦根城下(滋賀県彦根市)に生まれ、のち横田和四郎の養子となる。内閣賞勲局に奉職し、同書記官を務めた。1898年(明治31年)10月、賞勲局副総裁に就任し、1912年(明治45年)5月24日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた。墓所は青山霊園。
広瀬 進一(ひろせ しんいち、1845年3月19日(弘化2年… 広瀬 進一(ひろせ しんいち、1845年3月19日(弘化2年2月12日)- 1904年(明治37年)7月29日)は、日本の法制官僚。官選秋田県知事。旧名・篤譲。 本籍・東京府。近江国犬上郡(後の日夏村字古屋、現:彦根市)で、浄土真宗・専精寺住職、広瀬天超の長男として生まれる。漢籍を学び、幕末には三条実美の知遇を得、諸藩の志士と交際した。廃藩置県後に上京し、1871年11月10日(明治4年9月28日)、正院十等出仕となる。 1874年9月、小野梓らが結成した啓蒙団体「共存同衆」に参加。1876年5月、法制局一等書記に就任。1880年9月、太政官権少書記官となる。以後、参事院議官補、法制局参事官、兼行政裁判所評定官などを歴任。
初代 中小路 与平治(なかこうじ よへいじ、1845年(弘化… 初代 中小路 与平治(なかこうじ よへいじ、1845年(弘化2年6月) - 1922年(大正12年)12月18日)は、明治時代滋賀県の政治家。貞章(さだあき)と改名。 中小路与平治は、1845年(弘化2年)近江国蒲生郡西庄村(後の金田村、現滋賀県近江八幡市)に村井又兵衛の三男として生まれ、幼名を直次郎と称した。北脇醒斬に漢詩、儒学を修め、1867年(慶応3年)に郷総代を務める中小路健治の養子となり、1870年(明治3年)名を与平治に改める。 1871年5月23日(明治4年4月5日)に戸籍法施行の翌年戸長に就任し、1879年(明治12年)府県会開設後蒲生郡より第一回選出滋賀県会議員64名の一人として当選、その後常置委員に選出された。
井狩 弥左衛門(いがり / いかり やざえもん、1844年1… 井狩 弥左衛門(いがり / いかり やざえもん、1844年11月27日(弘化元年10月18日) - 1901年(明治34年)5月23日)は、明治時代の政治家。貴族院多額納税者議員。9代井狩弥左衛門。 近江国野洲郡江頭村(北里村を経て、現在の近江八幡市)に生まれる。富豪として桑園や水田を拓き米質改良組合を組織するなど農業発展に尽力する。1873年(明治6年)以降、滋賀県野洲郡第五区副区長、同区長、同郡七十八箇村連合村会議員、滋賀県会議員、野洲郡所得税調査委員、滋賀県農工銀行設立委員などを歴任する。近江帆布会社の設立にも尽力した。 1897年(明治30年)9月、滋賀県多額納税者として貴族院議員に互選され、同月29日に就任したが、在任中に死去した。
三宮 義胤(さんのみや よしたね、1844年2月12日〈天保… 三宮 義胤(さんのみや よしたね、1844年2月12日〈天保14年12月24日〉- 1905年〈明治38年〉8月14日)は、幕末の尊王攘夷派活動家で、明治期の外務官僚・宮内官僚。華族(男爵)に列した。幕末期には「三上兵部」と名乗った。 近江国志賀郡真野浜村(現:滋賀県大津市)に、真宗正源寺住職・三上円海の長男として生まれる。 幕末の動乱期には尊王攘夷派活動家(志士)として国事に奔走。岩倉具視らと交流を持ち王政復古運動に参加した。1867年(慶応3年)には高野山で挙兵。戊辰戦争では各地に転戦し、功績があった。1869年(明治2年)には賞典禄として50石が与えられた。 兵部省に勤務したのち、1870年(明治3年)には東伏見宮彰仁親王(のちの小松宮)の英国留学に随行する。
林田 騰九郎(はやしだ とうくろう、1843年10月14日(… 林田 騰九郎(はやしだ とうくろう、1843年10月14日(天保14年9月21日) - 1899年(明治32年)9月5日)は、明治時代滋賀県の政治家。 1843年10月14日((旧暦)天保14年9月21日)、近江国甲賀郡相模村(現甲賀市)に生まれる。1872年(明治5年)甲賀郡第7区副区長、1874年(明治7年)同区長に選ばれ、地租改正時には甲賀郡総代として地価軽減運動に奔走した。1880年(明治13年)、第一回県議会が大津南町(現大津市)顕證寺において開かれ、騰九郎は甲賀郡選出県会議員として参加した。1884年(明治17年)4月9日の県会において騰九郎は「農商学校」設立建議案を提出し、これが後の滋賀県立商業(現滋賀県立八幡商業高等学校)設立に繋がる。
塚本 さと(つかもと さと、天保14年8月6日(1843年8… 塚本 さと(つかもと さと、天保14年8月6日(1843年8月30日) - 昭和3年(1928年)1月4日)は、明治時代から大正時代の教育者。近江商人の妻。名は里子とも。 塚本さとは、天保14年(1843年)に近江神崎郡川並村(現滋賀県東近江市五個荘川並町)の豪商初代塚本定右衛門の五女として誕生した。数え21歳の時に店の奉公人であった源三を婿に迎え塚本源三郎家を立て、近江商人の妻として5男3女を儲けた。さとは、「読み、書き、算盤」を寺子屋で学び、女子としての嗜みとして家庭で「裁縫、生け花、茶道」を学んだが、明治に入り新しい世の中の商家の妻として女子教育の大切さを痛感するようになっていた。『女子として時勢に順応すると共に、古来の美風と祖先の偉業を継承せしめるには、義務教育に加え、商業上の常識を養い、日常の業務に習熟させることが必要』との考えを持つようになった。
西村 捨三(にしむら すてぞう、天保14年7月29日(184… 西村 捨三(にしむら すてぞう、天保14年7月29日(1843年8月24日) - 明治41年(1908年)1月14日)は、日本の武士、官僚、政治家。沖縄県令(第4代)、大阪府知事(第6代)、初代内務省警保局長などを務めた。
下郷 久道(しもごう ひさみち、1843年1月7日(天保13… 下郷 久道(しもごう ひさみち、1843年1月7日(天保13年12月7日) - 1898年(明治31年)5月19日)は、明治時代の政治家。実業家。貴族院多額納税者議員。 近江国坂田郡長浜(現・滋賀県長浜市)出身。1876年(明治9年)以降、南新町副戸長、同戸長、長浜町会議員のほか、大阪製紙抄造場、近江製糸所などを経営した。 1890年(明治23年)滋賀県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1897年(明治30年)9月28日まで務めた。
大東 義徹(おおひがし ぎてつ/よしあきら/よしてつ、184… 大東 義徹(おおひがし ぎてつ/よしあきら/よしてつ、1842年8月20日〈天保13年7月15日〉- 1905年〈明治38年〉4月8日)は、 日本の政治家。司法大臣(第9代)、衆議院議員(7期)を務めた。元は小西姓。父は小西新左衛門。通称、近江西郷。 彦根藩士で足軽の小西貞徹の次男として生まれる。幼名を寛蔵。 戊辰戦争に従軍し武功を立てた。戸籍編成の際、姓を小西から大東に改めた。廃藩置県後、司法省に入り、権少判事となる。明治六年政変(征韓論政変)の際に下野し、1877年(明治10年)の西南戦争の勃発後に代言人仲間だった有馬藤太らとともに大阪で警察に拘束されるが、後に放免となる。 1890年(明治23年)、第1回衆議院議員総選挙に滋賀郡部から立候補し初当選。
川島 宇一郎(かわしま ういちろう、1841年11月17日(… 川島 宇一郎(かわしま ういちろう、1841年11月17日(天保12年10月5日) - 1904年(明治37年)12月15日)は、明治時代の滋賀県の政治家。 1841年11月17日((旧暦)天保12年10月5日)、旗本(6,300余石)朽木之綱の家臣川島眞廣の一子として近江国高島郡長尾村(滋賀県高島郡広瀬村を経て現高島市)に生まれる。父は朽木家京都留守居役を勤め、宇一郎は京において巖垣月洲に漢学を修め、戸田栄之助に剣を習った。京より帰郷後自宅で近隣子弟に漢学を教えていたが、1875年(明治8年)高島郡第8区長となり、1879年(明治12年)4月20日、第一回滋賀県県議会開催に際し、宇一郎は高島郡選出県会議員として議員64名の一人に選ばれた。
岡田 魯人(おかだ ろじん、天保11年10月14日(1840… 岡田 魯人(おかだ ろじん、天保11年10月14日(1840年11月7日) - 明治38年(1905年)5月8日)は、明治時代の俳人。 義仲寺無名庵14世庵主となり無名庵復興に尽くした。 天保11年10月14日(1840年11月7日)近江国蒲生郡船木村(後の岡山村、現滋賀県近江八幡市船木町)に生まれる 。本名存修、別に魯台、梅下庵、泊船居、椿杖斎、種々庵宗碩と号した。青年時多くの勤王家と交わり、明治維新後、兵部省に勤め、糾問使、陸軍省軍務局理事、軍務局大録事を歴任した。 幼い時より俳諧に親しみ寛揚、柴人に師事し、陸軍省を退官した明治18年(1885年)東海道・山陽道・西海道などを俳諧行脚し、近江八幡に草庵を結ぶ。
阿部 彦太郎(あべ ひこたろう、天保11年7月21日(184… 阿部 彦太郎(あべ ひこたろう、天保11年7月21日(1840年8月18日) - 明治37年(1904年)5月5日)は、明治維新期の近江商人・実業家。阿部市郎兵衛家の分家。 阿部彦太郎は、近江国神崎郡能登川村(現・滋賀県東近江市能登川町)に生まれた。本家筋にあたる5代阿部市郎兵衛の三男が分家した阿部市次郎の長男である。 彦太郎は『布彦』と呼ばれ、父と共に攘夷運動が激しかった文久年間(1861年-1863年)に、室町姉小路に唐金巾(とうかなきん、キャラコ)・唐木綿・唐糸・唐縞・唐紅・唐桟に加えラシャ・ケット・モヘール・シャッポン・洋紙・インキ・鉛筆・靴・蝙蝠傘・シャツ・メリヤス・石鹸・洋酒類等の洋物を取り扱う『唐物店』を開いた。
大音 龍太郎(おおど りゅうたろう/おおと りょうたろう、天… 大音 龍太郎(おおど りゅうたろう/おおと りょうたろう、天保11年2月19日〈1840年3月22日〉 - 1912年〈大正元年〉11月23日)は、幕末から明治初期の地方官僚。幕末の志士(彦根藩郷士)。姓は伊賀。字は厚龍、雅号に菱陀。幕臣・小栗忠順の処刑に関与したことで知られる。上野国岩鼻県知県事として強権を振るったことで「首切り龍太郎」の異名をとり恐れられたが、住民から罷免要求が出され半年で免職となった。 大音龍太郎は、天保11年2月19日[要出典](1840年3月22日)、近江伊香郡大音村(現・滋賀県長浜市木之本町大音)に生まれた。父の周倫は厚斎と号する医者で、彦根藩の北国街道柳ヶ瀬の関守を勤める郷士であった。
岡田 逸治郎(おかだ いつじろう、1840年1月24日(天保… 岡田 逸治郎(おかだ いつじろう、1840年1月24日(天保10年12月20日) - 1909年(明治42年)10月4日)は、明治時代の滋賀県の政治家、諱は久通(ひさみち)。 1840年1月24日(天保10年12月20日)、近江国野洲郡中山道守山宿の加宿吉身郷(現・滋賀県守山市吉身)に住む岡田弥兵衛(諱は久忠)の長男として誕生。岡田家は士格に列し、宮津藩領分庄屋総代を務め、別に種油製造「大黒屋」を営んでいた。 1845年(弘化2年)、森唯楽軒の私塾に入塾。 1852年(嘉永5年)、黒船の浦賀への来航を見るため家出同然に守山を出奔。浦賀より江戸に遊学していたが、翌々年父の遣いにより連れ戻される。 1857年(安政4年)11月、近江国栗太郡辻村の木村重左衛門の五女「たみ」と結婚し、4年後家督を継ぐ。
須川 信行(すがわ のぶゆき、天保10年10月25日 (18… 須川 信行(すがわ のぶゆき、天保10年10月25日 (1839年11月30日)- 大正6年(1917年)11月13日)は、江戸時代末期・明治時代の歌人、医師。宮内省御歌所寄人(よりゅうど)、『明治天皇御集』の編纂委員を務めた。 須川信行は、天保10年10月25日(1839年11月30日)に近江高島郡西万木村(現滋賀県高島市)の医師清水玄孝の次男として生まれ、19歳の時に御所出入り医師須川覚性(須川検校)の養子となった。医業を修める傍らで早くから和歌に興味を覚え、香川景樹の高弟で故郷高島出身の歌人渡忠秋に入門し、同人死去後小出粲に師事した。養嗣子鶴吉に医業を譲り自身は歌道に専念し、明治23年(1890年)宮中御歌会始の勅題詠進歌『いにしへに 照して今を仰ぐにも 余るは国の光なりけり』が入選した。
浅見 又蔵(あさみ またぞう、天保10年8月16日〈1839… 浅見 又蔵(あさみ またぞう、天保10年8月16日〈1839年9月23日〉 - 明治33年〈1900年〉4月21日)は、滋賀県の実業家。太湖汽船会社社長、第21国立銀行頭取・第64国立銀行頭取等を歴任、篤志家として様々な支援活動を行い、晩年は日本赤十字社の活動に対しても積極的に関わった。 天保10年8月16日(1839年9月23日)、近江坂田郡長浜宮町(現滋賀県長浜市神戸町)の薬種問屋商若森彦右衛門と母田中氏との3男として生まれ、幼名得御寅吉と言う。数え12歳の時に親戚で京で呉服商を営む土田家に奉公に出、帰郷後播州明石に伊藤家に養子として入るが半年で破断となり、万延元年(1860年)12月長浜で縮緬製造を生業とする浅見又之助の養子となった。
田部 密(たなべ ひそか、1838年2月16日(天保9年1月… 田部 密(たなべ ひそか、1838年2月16日(天保9年1月22日) - 1910年(明治43年)10月5日)は、幕末彦根藩士、明治期代の地方官僚・実業家・漢学者。 1838年2月16日((旧暦)天保9年1月22日)近江犬上郡彦根城下上藪下町の同藩足軽谷口他三郎の次男として誕生し、同じ足軽の田部全次の養子となる。両家とも8石取りと伝えられている。通称は全蔵又は先蔵と称した。藩校弘道館で学び、特に漢学を修めた。 文久・元治より慶応・明治維新の間、藩の外交掛りに属し、諸藩の志士と交わり、大東義徹・川上吉太郎・外村省吾・西村捨三・西川吉輔・大音竜太郎等と共に活動した。特に1866年(慶応2年)第二次長州征討に際して、岩国藩用人であり漢学者であった塩谷鼎助を介し秘密裏の交渉を取り持った(『吉川経幹周旋記』)。
泉 亮之(いずみ すけゆき、天保9年1月11日(1838年2… 泉 亮之(いずみ すけゆき、天保9年1月11日(1838年2月5日) - 大正7年(1918年)2月)は、明治から大正前期の彫刻家。 泉亮之は、天保9年1月11日(1838年2月5日)に近江坂田郡息郷村(現滋賀県米原市番場)の泉孫右衛門の長男に生まれ、幼名を豊次郎と称した。泉家は商業に従事する傍らで農業を営んでいた。元々手先が器用な子であったと伝えられ、25歳の時飛騨に商いに出た時、「亮水」と称する彫師の作品に接し深く感銘を受け自らの名を「亮之」と改め、家業を捨て彫刻に専念した。 よく蛇・蝦蟇・髑髏を得意とし、明治24年(1891年)5月10日訪日中のロシア皇太子により泉亮之作品が買い上げられ、この後明治26年(1893年)アメリカで開かれた博覧会に泉亮之の作品が出品され賞を授けられ、またシカゴで開催されたコロンブス上陸400年祭記念博覧会においても、泉亮之の作品は賞牌を得た。
7代目阿部 市郎兵衛(あべ いちろべい、天保8年(1837年… 7代目阿部 市郎兵衛(あべ いちろべい、天保8年(1837年) - 明治37年(1904年))は、明治維新期の近江商人。繊維産業・鉄道・銀行など各種事業の支援者となり、日本の産業育成に貢献した。 天保8年(1837年)近江国神崎郡能登川村(現・滋賀県東近江市能登川町)に生まれ、幼名を元太郎と言った。父は近江商人阿部市郎兵衛家(屋号『紅屋』)の分家阿部市太郎家の2代目当主(通称吉太郎)である。本家市郎兵衛家には継嗣がなく、元太郎が伯父である6代市郎兵衛の養子になり、安政4年(1857年)7代市郎兵衛として家督を継いだ。 家督継承後、紅屋家業の麻布商を営むと共に、米穀肥料問屋業務を新たに始め、その発展に伴い千石船を十数隻支配して、北海道・九州など各地の物産を江戸・大阪輸送し、販売を行った。
巖谷 一六(いわや いちろく、天保5年2月8日〈1834年3… 巖谷 一六(いわや いちろく、天保5年2月8日〈1834年3月17日〉 - 1905年〈明治38年〉7月12日)は、近江国(滋賀県)出身の書家、官僚、漢詩人。本名は修(しゅう)(幼名は辨治、ついで迂也)、字は誠卿。特に書家として名高く、一六(一六居士)はその号で、別号に迂堂・古梅・金粟道人などがある。日本近代児童文学の創始者と評される巖谷小波はその三男。 天保5年(1834年)、近江国甲賀郡水口(現在の滋賀県甲賀市)に生まれる。巌谷家は代々水口藩加藤家の侍医で、姓は正しくは「巖谷」と記す。ただしもとは「岩谷」で一六の時に字を改めたものである。 父玄通が天保10年(1839年)一六が6歳の時に亡くなり、家督を嗣ぐも幼少のため、しばらくして母利子とともに京都に赴き、同地で医術を三角棣園に、漢籍を皆川西園・家里松嶹に、書を安見氏に学んだ。