高田 繁太郎(たかた しげたろう、安政4年〈1857年〉 -… 高田 繁太郎(たかた しげたろう、安政4年〈1857年〉 - 大正8年〈1919年〉)は日本の実業家。高田家11代目。旧姓:伊藤。農政の先駆者といわれ、多彩な独創的事業に成功。日野川河口の埋め立てによる高田新田、旗ケ崎海岸の開墾、倉庫の建設など、繁太郎の事業は米子の産業発展に寄与した。 伯耆国会見郡上福原村(鳥取県西伯郡福生村を経て現・米子市上福原)に生まれた。伊藤平十郎の三男。儒者高橋及び穴山の両師に従い漢籍を研修する。 19歳の時、同郡福万村高田家の人となった。家は代々農を業とし資財富裕であった。22歳の時に家督を相続して11代の主となった。当時高田家は酒造と林業を営んでいたが、財を守るだけを潔しとせず、時勢をみて志を立て大山原野50町歩を開拓し薬用人参・桑などを栽培した。
足立 長義(あだち ながよし、1856年7月16日〈安政3年… 足立 長義(あだち ながよし、1856年7月16日〈安政3年6月15日〉 - 1930年〈昭和5年〉6月10日)は、日本の実業家、篤農家、教育家、政治家。鳥取県西伯郡外江村長(第7代)。族籍は鳥取県平民。 現在の鳥取県境港市出身。製糸業を営む。1906年3月から1907年8月まで外江村長をつとめる。高等科設置、校地拡張、校舎増築等教育面で尽力する。また外江村会議員、外江村学務委員、小学校長をつとめる。 第4代外江村長足立長重の弟である。住所は鳥取県西伯郡外江村(現・境港市外江町)。 『西伯之資力 大正11年10月調』によれば、地価所有高は588円5銭である。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
南 直一郎(みなみ なおいちろう、1856年6月27日〈安政… 南 直一郎(みなみ なおいちろう、1856年6月27日〈安政3年5月25日〉 - 1893年〈明治26年〉9月24日)は、日本の政治家。鳥取県西伯郡余子村長(3代)。鳥取県会議員。 伯耆国会見郡高松村(鳥取県西伯郡余子村、現・境港市高松町)出身。高松村庄屋・南直四郎の息子。1879年から親に代わって戸長をつとめる。また県会議員、郡役所書記もつとめる。1892年2月、余子村長に就任、1893年9月に退任する。 村長在任中には竹内村の荒山黎斎宅に役場を移す。竹内教場焼失を機に新校舎建築を果たし、竹内・中野二教場を統一する。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
松下 哲成(まつした てつなり、安政3年2月22日(1856… 松下 哲成(まつした てつなり、安政3年2月22日(1856年3月28日) - 昭和3年(1928年)1月18日)は日本の実業家、政治家。鳥取県西伯郡境町長、境町会議員、郡会副議長、境町学務委員。伯州境港の豪商。 境町に生まれた。吉三郎の四男。幼名を虎之助と称す。夙に算数の術に長ず。 年甫二十五歳の時、厳君の許容を得、資を分つて同町に分家を創立し鉄石油商を開始した。 日本海上火災保険等の代理商を営むほか、ニューヨークスタンダード石油等の販売商として手広く商いに励み、その傍ら政治にも関心をもった。 若くして町会議員に立ち、町長就任時には郡会副議長の要職にあった。 大正3年(1914年)町の将来的発展と貨客の便を図るため、境駅を現在地に移し、お台場までの中心道路新設改修を計画、一部竣工させた。
坪倉 鹿太郎(つぼくら ろくたろう、1856年(安政3年) … 坪倉 鹿太郎(つぼくら ろくたろう、1856年(安政3年) - 1921年(大正10年))は、鳥取県日野郡の郷土史家で地方史編纂の先駆者。『凶年の後悔』『日野山桜』『日野郡野史』などの著書を残した。 米山(べいざん)、平六(へいろく)、「一畳亭」(いちじょうてい)とも号したが、いずれの文字も左右均整となっており、それは坪倉鹿太郎の几帳面な性格の表れだったという。 「つぼくら しかたろう」と紹介している文献もあるが、これは誤りである。本人が1920年(大正9年)に作成した書類に捺印があり、印には平仮名で「ろくたろう」と刻まれている。 1856年(安政3年)7月28日、鳥取県日野郡佐木谷村(現・日南町佐木谷)の農家に生まれる。
福留 清四郎(ふくとめ せいしろう、1855年12月26日(… 福留 清四郎(ふくとめ せいしろう、1855年12月26日(安政2年11月18日) - 1921年(大正10年)2月8日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。勲等は勲四等。 伯耆国生まれ(現・鳥取県西伯郡大山町)。農業を営む。1895年(明治28年)2月から同年5月まで、同年6月8日から1897年(明治30年)4月まで、1899年(明治32年)9月21日から1903年(明治36年)9月20日まで、同月21日から1904年(明治37年)3月3日までの4期に渡って帝国党所属鳥取県会議員を務めた。 同年の第9回衆議院議員総選挙において鳥取県郡部から帝国党公認で立候補して初当選。続く1908年(明治41年)の第10回衆議院議員総選挙では大同倶楽部公認で立候補して再選。
住田 善平(安政2年11月7日(1855年12月15日) -… 住田 善平(安政2年11月7日(1855年12月15日) - 明治39年(1906年)9月8日)は、日本の実業家、政治家。住田呉服店の主人。旧姓・瀬尾。元米子銀行監査役。初代米子町名誉助役。第四代米子町長。 元米子町会議員住田寅次郎の父。娘は境町(現境港市)の回船問屋武良(むら)家に嫁いだ。漫画家水木しげる(本名:武良茂)は善平の曾孫にあたる。 鳥取県西伯郡成実村大字美吉・瀬尾家に生まれた。與喜蔵の二男。幼名を光太郎と称す。米子東倉吉町住田善吉の養嗣となり家督を継承し四代の主となる。住田氏は近世期中ごろから東倉吉町に居住し、“住田屋”を号した。衣料、雑貨を営業し、近代に入って呉服類を中心に営業を継続拡張した。
松本 節造(まつもと せつぞう、1855年9月18日(安政2… 松本 節造(まつもと せつぞう、1855年9月18日(安政2年8月8日) - 1933年(昭和8年)11月24日)は日本の政治家。渡村長(第2代)、渡村会議員。 渡村(現在の鳥取県境港市渡町)の富農「下渡辺」渡辺又衛の次男として生まれ、千鳥屋松本に婿養子に入った。千鳥屋は渡村草分けの一軒といわれている旧家で、農業の傍ら酒・醤油醸造業を営む富豪だった。 38歳で村長となった節造は、村の発展は道路整備が第一と、改修が終わった外浜街道と渡を直線で結ぶ渡・余子間里道の改修を成し遂げたほか、消防組を設置し、衛生組合の創設や、伝染病避病舎建築等を果たした。
田村 源太郎(たむら げんたろう、1855年4月30日〈安政… 田村 源太郎(たむら げんたろう、1855年4月30日〈安政2年3月14日〉 - 1926年〈大正15年〉4月28日)は、日本の商人(肥料商)、醸造家、政治家、地主。 鳥取県西伯郡米子町(現・米子市)の人。芳太郎の長男。家業は肥料及び酒類醸造業で、屋号は田村屋。家業に努め奮励したため貨財を倍殖し、名望いよいよ起り、米子有数の豪商となる。1901年、東糀区区長に当選。 1913年、米子町会議員に当選する。終始一貫熱心精励町治の発展に尽瘁する。1926年、米子町功労者旌表規定により功労章を贈られる。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
稲田 秀太郎(いなだ ひでたろう、安政元年9月9日〈1854… 稲田 秀太郎(いなだ ひでたろう、安政元年9月9日〈1854年10月30日〉 - 昭和15年8月31日〈1940年8月31日〉)は、日本の政治家、実業家。地主。 伯耆国米子(現、鳥取県米子市紺屋町)出身。元米子町会議員。酒・醤油醸造業合名会社稲田本店代表社員。稲田家の六代目。鳥取県平民。米子銀行監査役。元衆議院議員、稲田家の七代目稲田藤治郎の兄。 当時、商工業の有力者は同時に地主でもあった。この年度における米子町の地価1000円以上の地主名を挙げると次の通りである。10000円〜15000円の部に稲田秀太郎の名前がみえる。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
初代坂口 平兵衛(さかぐち へいべえ、嘉永7年6月9日(18… 初代坂口 平兵衛(さかぐち へいべえ、嘉永7年6月9日(1854年7月3日)- 昭和8年(1933年)7月31日)は、日本の実業家、政治家。貴族院議員、町会議員、郡会議長を務めた。鳥取県平民。鳥取県多額納税者。 坂口合名会社・代表社員会長2代目坂口平兵衛の実父。 米子・尾高町に生まれた。坂口家は藩政時代“沢屋”と称し、綿、木綿仲買業を営んでいた。米子の商家ではまず中堅クラスであった。 青少年時代についてはくわしいことはわからない。同家所蔵の『歴代伝記』によると、幼にして学に志ざし、今井芳斎、高嶋倫閑、樋野含斎などの門に入り漢学を修め、長ずるに及んで家業のため大いに妨げられたが、余暇常に書をひもとき竹馬の友と遊びごとはほとんどなかったと述べている。
本角 寅造(もとずみ とらぞう、嘉永6年12月12日(185… 本角 寅造(もとずみ とらぞう、嘉永6年12月12日(1854年1月10日) - 大正2年(1913年)6月6日)は、日本の政治家。中浜村長(初代)、県会議員。 小篠津村(のち鳥取県境港市小篠津町)の本角家は代々"与平"、"所十郎"を襲名する豪農で、大庄屋をつとめた由緒ある家柄だった。 寅造は、先代所十郎の長男文蔵が幼少のため財ノ木の角家より入り、同家の家督を継いで明治18年(1885年)県会議員、続いて第7連合戸長を務めた。 明治22年(1889年)11月中浜村長に就任し、小篠津尋常小学校を中浜尋常小学校と改めて新しい村づくりの中核とし、校地も拡張した。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
森元 いと(もりもと いと、1853年8月15日?〈嘉永6年… 森元 いと(もりもと いと、1853年8月15日?〈嘉永6年7月11日?〉 - 1970年〈昭和45年〉6月7日)は、長寿日本一とされていた兵庫県宍粟郡千種町の女性。ただしその長寿記録は老年学研究者団体ジェロントロジー・リサーチ・グループ (GRG) によって認定されていない。 伯耆国東伯郡上浅津村(その後鳥取県東伯郡浅津村大字上浅津を経て、現湯梨浜町上浅津)生まれ。明治元年、僧侶であった父とともに兵庫県宍粟郡西山村の教福寺に移住した。父が亡くなって以降も西山村(のちに千種町となり、現在では宍粟市の一部)に居住していた。生涯独身であった。 1967年9月役所が古い戸籍の整理を進めていたところ、戸籍の間違いが発覚したとして、1968年3月に明治6年(1873年)生まれから嘉永6年(1853年)生まれと訂正された。
遠藤 董(えんどう ただし、えんどう ただす、嘉永6年1月2… 遠藤 董(えんどう ただし、えんどう ただす、嘉永6年1月22日(1853年3月1日)‐ 昭和20年(1945年)1月22日)は、日本の教育者。 「鳥取県教育の源流」、「郷土教育の父」とされる。鳥取県立図書館の前身となる鳥取県初の公共図書館を設立した。鳥取県立鳥取盲学校と鳥取県立鳥取聾学校の前身である鳥取盲聾唖学校を設立した。鳥取県立図書館の敷地内には遠藤の銅像(胸像)がある。 嘉永6年1月22日(1853年3月1日)、因幡国鳥取(現在の鳥取県鳥取市材木町)に生まれた。父は鳥取藩士の遠藤重嘉、母は雪であり、董は長男だった。幼名は東造。 文久元年1月(1861年1月または2月)には鳥取藩の藩校である尚徳館に入り、坂田潤蔵の門弟となる。
田江 弥三郎(彌三郎、たごう やさぶろう、1853年(嘉永6… 田江 弥三郎(彌三郎、たごう やさぶろう、1853年(嘉永6年4月)- 1895年(明治28年)5月8日)は、明治期の農業経営者・教育者・政治家。衆議院議員。 伯耆国久米郡弓原村(鳥取県久米郡下北条村、東伯郡下北条村弓原、北条町を経て現北栄町弓原)で、代々大庄屋を務めた田江家に生まれた。大庄屋を務め農業を営む。自邸内に家塾・択善学舎を設け子弟の教育を行った。 1873年(明治6年)10月、第64区戸長となり、同年12月、第16区第7小区長に就任。広正社を創立して社長となり地域の金融の便を図った。また、田江製糸の設立、ブドウ園の経営など、地域産業の振興に尽力した。 1884年(明治17年)3月、補欠選挙で鳥取県会議員に当選し、同年7月まで在任した。
岸本辰雄(きしもと たつお/ たつゆう、1852年12月18… 岸本辰雄(きしもと たつお/ たつゆう、1852年12月18日(嘉永5年11月8日) - 1912年(明治45年)4月4日)は、日本の法学者。明治大学の創設者。 因幡国南本寺町(現在の鳥取市)に鳥取藩士岸本平次郎の三男として生まれる。幼名、辰三郎。当初藩校尚徳館で蘭式兵法を修める。 戊辰戦争に従軍後、1869年(明治2年)、箕作麟祥の共学塾に入門。翌年、貢進生として鳥取藩の推薦を受け、大学南校(後の東京大学)に入学。1872年(明治5年)、新設の司法省明法寮(後に司法省法学校)に第一期生として入学。ジョルジュ・ブスケ、ギュスターヴ・エミール・ボアソナードらにフランス法を学び1876年(明治9年)卒業。
木村 吉兵衛( 嘉永5年7月29日(1852年9月12日) … 木村 吉兵衛( 嘉永5年7月29日(1852年9月12日) - 没年不明)は日本の実業家。呉服太物商。大地主。幼名惣太郎。伯耆国西伯郡米子町(現鳥取県米子市)出身。長子吉兵衛は鳥取県多額納税者で、呉服太物商を営んだ。娘の富野は元逓信省郵務局長久埜茂の妻。 明治35年(1902年)2月の『鳥取県伯耆国一円地価所得税詳覧』によって、米子町を含む西伯郡の地価一万円以上の大地主をみると以下のとおりである。彼等は当時の経済的実力者で、その多くは、質屋を営み銀行に投資し商業に従事し、あるいは各種会社の役員を兼ねるなど多面的な経済活動をしていた。 当時、商工業の有力者は同時に地主でもあった。この年度における米子町の地価1000円以上の地主名を挙げると次の通りである。
桑田 藤十郎(くわだ とうじゅうろう、1852年7月12日(… 桑田 藤十郎(くわだ とうじゅうろう、1852年7月12日(嘉永5年5月25日)- 1905年(明治38年)8月25日)は、幕末から明治時代の素封家、政治家。貴族院多額納税者議員。幼名・安之助。 伯耆国久米郡倉吉宿魚町(鳥取県東伯郡倉吉町字魚町を経て現倉吉市魚町)で、先代・桑田藤十郎の子として生まれる。生家の当主は代々藤十郎を通称し、父の死去に伴い15歳で家督を相続し藤十郎を襲名した。 1881年(明治14年)学務委員に就任し、町立成徳小学校校舎の新築に当たり資金を提供した。1882年(明治15年)久米郡会議員に就任し、さらに、鳥取県会議員、所得税調査委員などを務めた。 中等教育機関・山陰義塾の設立に係わった。
永見 林三郎(ながみ りんざぶろう、1852年3月5日〈嘉永… 永見 林三郎(ながみ りんざぶろう、1852年3月5日〈嘉永5年2月15日〉 - 1924年〈大正13年〉4月2日)は、日本の政治家。 中浜村長(第3代)、中浜村会議員。第6代中浜村長永見勘太郎の父。 1898年(明治31年)当選期の補欠と、1904年(明治37年)の2期中浜村会議員を務めた。また、1905年(明治38年)12月から1909年(明治42年)12月まで第3代中浜村長を務めた。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
門脇 重雄(かどわき しげお、嘉永5年2月8日(1852年2… 門脇 重雄(かどわき しげお、嘉永5年2月8日(1852年2月27日) - 大正10年(1921年)12月15日)は、日本の実業家、政治家。元渡村長、渡村会議員、鳥取県会議員、衆議院議員。鳥取県士族。 渡の日御崎神社神官から身をおこし新政府の高官となった門脇重綾の二男。福羽美静の東京英和学校に在学中父の死に遭い帰郷した。県会二期(第九代議長、第七代副議長)、国会三期を歴任し、県下の自由党、後の政友会のリーダーとして活躍した。養蚕業の振興、中海埋立をはじめ、米子銀行・県農工銀行創立や山陰電気株式会社設立等、殖産勧業面でも優れた業績を残した。 明治23年(1890年)7月、国会開設に伴う第一回衆議院議員選挙が実施され、本県第三区(会見・汗入・日野三郡)から県会議員門脇重雄が立候補した。
阿部 藤吉(あべ とうきち、1852年2月22日〈嘉永5年2… 阿部 藤吉(あべ とうきち、1852年2月22日〈嘉永5年2月3日〉 - 1930年〈昭和5年〉6月18日)は、日本の政治家、篤農家、地主、鳥取県多額納税者。鳥取県西伯郡余子村長(2代、5代)。余子村会議員。 伯耆国会見郡高松村(鳥取県西伯郡余子村、現・境港市高松町)出身。農業、金融業を営む。1891年6月、余子村長に就任、1892年1月に退任する。1898年12月に余子村長就任、1906年12月に退任する。 1901年、才仏川のほとりの民家を改築して隔離病舎を開設、尋常小学校を増築する。村長辞任後、連続3期郡会議員を務める。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する。藤吉について、曽孫にあたる阿部昭一郎(境港市高松町)は「藤吉は村長を務めたので勲七等を授与された。
井田 武雄(いだ たけお、嘉永4年10月8日(1851年11… 井田 武雄(いだ たけお、嘉永4年10月8日(1851年11月1日) - 昭和8年(1933年)5月22日)は、日本の医師、実業家、政治運動家。号は陸舟。鳥取県西伯郡中浜村(現在の境港市)出身。四谷病院、後楽堂医院長。東京府平民。 井田義枝の次男として生まれた。 慶応元年(1865年)長崎に出て長崎養生所(現・長崎大学医学部)に学び、蘭方医学を修めた。 明治7年(1874年)長崎養生所を出た。明治10年(1877年)の西南戦争に警視庁医員として従軍し功をたてる。明治11年(1878年)海軍軍医に転じ、軍艦「鳳翔号」軍医として朝鮮に派遣され、朝鮮人の診療に活躍した。 帰国後海軍を辞し、養神病院長となり、明教生命保険の設立計画をした。
田中 尚(たなか ひさし、嘉永4年(1851年) - 大正6… 田中 尚(たなか ひさし、嘉永4年(1851年) - 大正6年(1917年))は、日本の教育者。 因幡国邑美郡吉方村(現在の鳥取県鳥取市吉方温泉)に田中四郎左衛門の長男として生まれた。 明治7年(1874年)東京師範学校(現在の筑波大学)卒業後、明治9年(1876年)県公立師範学校(現在の鳥取大学地域学部)校長に就任。明治14年(1881年)退職。3年後再び鳥取師範学校に勤務し明治40年(1907年)退職。県教育界のために尽くした。 明治45年(1912年)3月、国幣中社宇倍神社宮司になった。
矢田貝 平重(やたがい へいじゅう、1851年 - 1904… 矢田貝 平重(やたがい へいじゅう、1851年 - 1904年〈明治37年〉9月20日)は、日本の醸造家、銀行家、素封家、鳥取県の大地主。矢田貝家2代目。中国貯蓄銀行取締役。 伯耆国会見郡上細見村(のち鳥取県会見郡大幡村大字上細見、西伯郡岸本町大字上細見、現・西伯郡伯耆町大字上細見)出身。屋号を「久良屋」と称し、酒類醸造業を営む。家はもと微々として振るわなかったが、先代が苦心経営を重ねて業務に励精したため富裕となる。平重は父の志を継ぎ、専心酒類の精醸に努める。大地主となり、郡内屈指の富豪家と目される。 矢田貝家は、古くはたたら吹きに関係していたと言われる。近世初期に出雲地方より伯耆国日野郡へ移住し、帰農したと伝えられる。
宮本 易孝(みやもと やすたか、嘉永3年1月6日(1850年… 宮本 易孝(みやもと やすたか、嘉永3年1月6日(1850年2月17日) - 明治45年(1912年)5月22日)は日本の政治家。中浜村長(第2代)、村会議員、郡会議員。西伯郡町村長代表を務めるほどの実力者村長だった。 小篠津村(現鳥取県境港市小篠津町)の豪農宮本家に生まれる。易孝の父宗久は茶人として知られる一方、明治初期の戸長職も務めた。 明治30年(1897年)12月、第2代中浜村長に就任した。 明治31年(1898年)小篠津村字茶苑畑に7棟86坪の避病舎を建築したのをはじめ、農友会を組織して産業の改良発達や風紀の改善につとめた。退任後郡会議員として活躍したが、2期目の在職中に没した。
原 澄斎(はら ちょうさい、嘉永3年(1850年)- 明治3… 原 澄斎(はら ちょうさい、嘉永3年(1850年)- 明治36年(1903年))は、日本の医師。旧姓大淵。 元長崎医専教授原正の養父。 伯耆日野郡印賀村(現鳥取県日南町)に大淵一馬の子として生まれた。母里藩の藩医であった原順庵の養子に入って医術を学んだ。 明治7年(1874年)、適塾に入った。養父順庵は廃藩後間もなく、鳥取県会見郡彦名村(現米子市彦名町)に移って医業をしたと伝えられ、澄斎も帰郷後彦名村で、その医業を継いだ。原家には明治十年陸軍軍医総監の押印のある医師免許状が残されているので、或は西南戦争に従軍していたのかもしれない。 明治19年(1886年)、会見郡医師組合の設立に努力しており、その地方で医術が優れているので評判であったという。
稲賀 龍二(いなが りゅうじ、嘉永元年12月21日(1849… 稲賀 龍二(いなが りゅうじ、嘉永元年12月21日(1849年1月15日) - 昭和6年(1931年)3月15日)は日本の政治家。上道村長(初代、第4代)。境町長(第11代)。元鳥取県会議員(議長、副議長)、郡会議員(議長)、村会議員。 孫娘のしげのは元郵政大臣手島栄の妻。同じく孫の稲賀幸は元稲賀外科医院長。鳥取県済生会境港総合病院院長稲賀潔は曾孫。 伯耆国会見郡上道村(現鳥取県境港市上道町)に生まれた。父貞次郎は最後の上道村庄屋。 明治21年(1888年)鳥取県会議員に当選、その後明治28年(1895年)から明治32年(1899年)にかけて当選3回、その間明治30年(1897年)には第15代の県会議長に就任した。
川合 清丸(かわい きよまる、嘉永元年11月21日(1848… 川合 清丸(かわい きよまる、嘉永元年11月21日(1848年12月16日) - 大正6年(1917年)6月24日)は、神道・禅・儒学の三道を融合して、「日本の国教」を確立しようとした思想家、宗教家。字は子徳、号は山陰道士、無々道人。 伯耆国箆津(現、鳥取県琴浦町)出身。父親が太一垣神社の神職であったので、幼少から神道を学び、太一垣神社の社掌となった。 明治6年(1873年)に大神山神社の権宮司となる。大神山神社と大山寺との関係から生じた神仏分離問題に関する庶務で東京に出た時に、神仏への信仰や道徳心の荒廃した風潮を目の当たりにしたという。これをきっかけに、神道のみならず儒教・仏教・キリスト教や西洋の学問を広く学ぶ必要を痛感し、遊学した。
岡崎 平内(おかざき へいない、1848年4月3日(嘉永元年… 岡崎 平内(おかざき へいない、1848年4月3日(嘉永元年2月28日)- 1917年(大正6年)8月12日)は、日本の政治家。7代目平内。衆議院議員。初代鳥取県会議長。初代鳥取市長。 明治の鳥取士族、政治界の指導者として、明治の100年式典の時、県政功労者となった。幼名は兵太郎、長じて可観と改め、後1880年(明治13年)9月父の名を継ぎ平内と改める。 因幡国邑美郡馬場町(現在の鳥取県鳥取市馬場町)、鳥取藩御用係500石の藩士の家に生まれた。平内の嫡男。明治元年に若くして家督を継ぎ、また鳥取藩大砲隊長となった。 1874年(明治7年)「愛国社」に入り自由民権運動に参加したが、一転して1877年(明治10年)に陸軍省に入省。
野波 令蔵(野波 令藏、のなみ れいぞう、1848年2月17… 野波 令蔵(野波 令藏、のなみ れいぞう、1848年2月17日〈嘉永元年1月13日〉 - 1917年〈大正6年〉12月)は、日本の醸造家、実業家、政治家、地主。鳥取県会議員(憲政党系中立)。野波商店。幼名は安太郎。族籍は鳥取県平民。 鳥取県西伯郡米子町法勝寺町(現・米子市法勝寺町)の人。常重の長男。生家は紺屋業を営む。幼時、村夫子に従い、漢学句読を受け、算数習字を修学する。家督を継承し、令蔵と改め、7代の主となる。1872年以来公職公事に就いたが、1872年に法勝寺町肆長を申付けられたのを初めとする。 1886年に紺屋業を廃止し、醤油醸造業を開始する。醤油醸造業を営み、また米子米綿取引所監査役、西伯家畜会社社長、鳥取県会議員・同副議長、米子町会議員、学務委員、米子銀行監査役、米子町名誉助役などをつとめる。
法橋 善作(ほっきょう ぜんさく、1847年11月12日〈弘… 法橋 善作(ほっきょう ぜんさく、1847年11月12日〈弘化4年9月28日〉 - 1923年〈大正12年〉2月19日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(鳥取県郡部選出、当選1回)。大阪商業会議所副会頭。族籍は大阪府平民。 鳥取県日野郡阿毘縁村(現日南町)に生まれる。法橋助作の二男。漢学を学ぶ。明治初年郷里を出て、大阪に来る。後に東京に遊ぶ。この間翻訳書を読んで略世界の事情に通じ、官民の間に多くの交友を有する。 1882年頃洋銀相場に手を出して一敗地に塗れ、ほとんど起つことができなくなる。しかしようやくにして失敗を挽回し1887年頃より、小泉清左衛門、森作太郎、播本孝良等と共に公共事業に奔走する。
野坂 清一郎(のさか せいいちろう、旧字体: 野坂 淸一郞、… 野坂 清一郎(のさか せいいちろう、旧字体: 野坂 淸一郞、1847年5月4日〈弘化4年3月20日〉 - 1916年〈大正5年〉10月10日)は、日本の政治家、地主。鳥取県会議員。鳥取県西伯郡大幡村長。族籍は鳥取県平民。 鳥取県西伯郡大幡村(のち岸本町、現・伯耆町)出身。弥十郎の長子。1872年に第九十六区副戸長に任ぜられる。1874年、岸本、吉長両村戸長。1875年、押口村戸長兼務。 吉定学校保護人、旧会見郡吉定村、上細見村、立岩村、岸本村、押口村、吉長村戸長、同郡上細見、立岩、吉定、岸本、吉長、押口の6村戸長再任、同郡第四番学区学務委員、同郡十七連合戸長、同郡第三四番学区学務委員。 1889年、町村制実施に付八幡村、古豊千村、王子村の主担命ぜられ、村政施設事務取扱、同年大幡村会議員、同年大幡村長。
荒木 徳三郎(あらき とくさぶろう、1846年4月18日〈弘… 荒木 徳三郎(あらき とくさぶろう、1846年4月18日〈弘化3年3月23日〉 - 没年不明)は、日本の商人(荒木屋、肥料・綿・米穀商)、海運業、醤油醸造業、鳥取県の大地主、荒木合名会社社員、実業家、政治家。鳥取県西伯郡境町会議員。 鳥取県西伯郡境町(現・境港市)の人で、生家は代々醤油醸造業を営む。 海運業を営み、主に地方の物産を蒐集し、これを北国中国等に輸送し帰港には肥料を積載して年数回往復航行する。危難や損失がなかったため収利は夥しく頓に資財を増殖し声望が大いに起り、地位は益々高まる。 1902年、境製糸社員の荒木久九郎、渡辺広太郎、里見五平は各々その出資額全部を共に社員の荒木徳三郎へ譲渡して退社し、荒木徳三郎はこれを譲り受けてその出資額を金3400円と変更する。
名島 嘉吉郎(なしま かきちろう、弘化元年12月25日(18… 名島 嘉吉郎(なしま かきちろう、弘化元年12月25日(1845年2月1日) - 明治42年(1909年)5月27日)は、日本の実業家、政治家。米子銀行、中国貯蓄銀行、倉庫会社の各取締役。元米子町会議員。鳥取県平民。 博労町に生まれた。平次郎の嫡男。幼名虎之助と称す。屋号を名和川屋と号し、醤油醸造幷に砂糖綛糸卸売業を営む。 明治22年(1889年)8月、町会議員(一級)当選。 明治28年(1895年)9月、町会議員(一級)当選。 米子銀行、中国貯蓄銀行、倉庫会社の各取締役の重任を帯び各責務に尽瘁した。 『明治人名辞典Ⅱ 下巻』(底本・『日本現今人名辞典(明治三三年)』) なノ七十五によると、 明治35年(1902年)2月の『鳥取県伯耆国一円地価所得税詳覧』によって、米子町を含む西伯郡の地価一万円以上の大地主をみると以下のとおりである。
長山 六郎 (ながやま ろくろう、天保14年9月16日(18… 長山 六郎 (ながやま ろくろう、天保14年9月16日(1843年10月9日) - 明治41年(1908年)8月13日)は、日本の宗教家。 佐斐神村(現在の鳥取県境港市佐斐神町)に生まれる。農業を営み、地方の名族である。幼少の頃から学問を好み、黒住教を信仰する。 明治11年(1878年)11月、教導職に補し、試補より累進して遂に講師権中信教に至る。邸内に講社を設立し、又土地を提供し、教会所を建築してその所長となる。 その間、伯耆国の分局幹事、宗忠神社新築の世話係長、諮問会議員などをつとめる。 『長山氏世代記録(家伝)』によれば、長山家はもともと“足立(あだち)”姓だったが、元治2年(1865年)六郎右衛門が功績不詳ながら、藩主から“長山”姓を許されたため、長山を名乗った。
筧 雄平(かけい ゆうへい、1842年11月12日〈天保13… 筧 雄平(かけい ゆうへい、1842年11月12日〈天保13年10月10日〉 - 1916年〈大正5年〉3月12日)は、日本の実業家、豪農、篤志家、鳥取県の大地主。筧融通合名会社代表社員。慈善及び教育事業に尽くす。日本最初の季節保育所の創始者である。族籍は鳥取県平民。 因幡国高草郡下味野村(のち鳥取県気高郡美穂村下味野、現・鳥取県鳥取市下味野)出身。筧橘五郎の長男。家業である農業の発達につとめ、傍ら鳥取市で酒類醸造業を営む。1876年、村有原野の開拓と共有林造成事業に着手する。1890年、繁忙期の農家のため託児所を開設する。 下味野に分教場を設けることに尽力し、社会的・経済的に劣悪な環境にあり就学率が低かった赤池部落の子弟のための学校教育の道を開く。
勝山 芳藏(かつやま よしぞう、1841年12月27日(天保… 勝山 芳藏(かつやま よしぞう、1841年12月27日(天保12年11月15日) - 1896年(明治29年)11月30日)は、因幡国気高郡(現鳥取市)出身の力士。本名は小松 芳五郎。年寄2代尾車。最高位は東前頭5枚目(明治5年4月場所)。 玉垣に入門し1864年10月序ノ口。負け越しが一度もなく1871年4月入幕。しかし幕内では不調で一度も勝ち越せず下位の常連であった。負け越し続きにもかかわらず1877年6月までの6年間幕内から陥落しなかったのは若者頭的存在で指導能力があったためと思われる。1877年引退し年寄尾車を襲名。尾車の名跡は元禄時代以来の復活と思われ、師匠玉垣の後ろ盾と事務能力から角界に残るため復活させたと考察される。
足立 正声(正聲、あだち まさな、天保12年9月22日〈18… 足立 正声(正聲、あだち まさな、天保12年9月22日〈1841年11月5日〉 - 1907年〈明治40年〉4月19日)は、日本の武士(鳥取藩士)、官僚、華族。男爵。字は興卿、通称は八蔵。雅号は老狸、天瀑、克己斎、礫室、碌々山房、楽石山人、鼓腹庵、古狸窟。 因幡国邑美郡鳥取庖丁人町(現鳥取県鳥取市)で、鳥取藩士・足立次郎八中和の二男として生まれる。文久元年(1861年)学正堀庄次郎(熙明、敦斎)の推挙で江戸の芳野金陵に学ぶ。文久2年(1862年)冬、国事周旋方に就任。 文久3年8月17日(1863年9月29日)本圀寺事件に参加したため、京都藩邸に拘留され、伯耆国日野郡黒坂、鳥取に幽閉された。第二次長州征討が始まり、慶応2年7月(1866年)幽閉先の荒尾直就邸から同志と共に脱出し、長州藩諸隊の南園隊に加わり、備前、京都で活動して長州藩のために周旋し、大村益次郎から西洋軍学を学んだ。
石谷 董九郎(いしがや とうくろう、1840年11月13日(… 石谷 董九郎(いしがや とうくろう、1840年11月13日(天保11年5月)- 1908年(明治41年)2月13日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員、鳥取県会議長。 因幡国岩井郡恩志村(鳥取県岩美郡本庄村大字恩志村を経て現岩美町恩志)で、大庄屋・石谷藤四郎の長男として生まれた。 1872年(明治5年)鳥取県第16区戸長に就任。同県第五大区第五小区長、同第二大区副区長・凖15等出仕を歴任。1876年(明治9年)鳥取県が島根県に合併し、1879年(明治12年)4月、島根県会議員となる。1881年(明治14年)鳥取県が再置され、同年11月、鳥取県会議員に当選し、同副議長、同議長を務めた。その他、岩美郡参事会員、徴兵参事員、地方森林会議員などにも在任した。
木下 荘平(莊平、きのした しょうへい、1840年(天保11… 木下 荘平(莊平、きのした しょうへい、1840年(天保11年8月)- 1906年(明治39年)5月14日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員、鳥取県会議長。 因幡国八上郡布袋村(鳥取県八上郡三保村、河原村、八頭郡河原村、河原町を経て現鳥取市河原町)で、代々大庄屋を務めた家に生まれた。鳥取の藩儒・正墻適処(薫)に師事し和漢学を修めた。 八上郡農兵組頭、智頭郡農兵組頭、戸長、大区長、学区取締、准十二等出仕、八束郡長などを歴任。1881年(明治14年)鳥取県が再置され、同年11月、鳥取県会議員に当選し、同常置委員、同議長(第3、4、7代)を務めた。 岡崎平内の辞職に伴い1891年(明治24年)9月に実施された第1回衆議院議員総選挙鳥取県第1区補欠選挙で当選し、以後、第2回総選挙でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
足立 長重(あだち ながしげ、1835年3月11日〈天保6年… 足立 長重(あだち ながしげ、1835年3月11日〈天保6年2月13日〉 - 1913年〈大正2年〉10月15日)は、日本の政治家。鳥取県西伯郡外江村長(第4代)。 現在の鳥取県境港市出身。足立家の家長である。家業は醤油屋で、家号は川足立。1899年4月から1902年4月まで外江村長をつとめた。また小十一区東外江村中総代や外江村会議員をつとめた。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
宮本 包則(みやもと かねのり、1830年10月11日(文政… 宮本 包則(みやもと かねのり、1830年10月11日(文政13年8月25日) - 1926年(大正15年)10月24日)は、幕末から明治・大正期の代表的刀工。帝室技芸員。 1830年(文政13年)、伯耆国大柿(現鳥取県東伯郡三朝町大柿)に醸造家の次男として生まれる。本名は宮本志賀彦。幼時は沢次郎と名乗った。郷里が輩出した平安末期の名匠で「童子切」の作者である伯耆安綱を慕って刀工を志し、1851年(嘉永4年)、22歳のときに備前国長船(現、岡山県瀬戸内町)を訪ねて、長州藩と関係の深い横山祐永の門を叩くが拒絶される。しかし、同じく長船の刀工で「友成五十八世孫」を名乗る横山祐包に入門を許され、7年間の収斂で備前伝を習得した。
中井 太一郎(なかい たいちろう、1830年4月2日(天保元… 中井 太一郎(なかい たいちろう、1830年4月2日(天保元年3月10日)- 1913年(大正2年)5月21日)は、幕末から明治時代の農地改革者、技術者。 庄屋の子として伯耆国久米郡中河原村(鳥取県東伯郡小鴨村大字中河原を経て、現倉吉市中河原)に生まれる。9歳の頃に寺子屋で農業を学ぶ。後に耕地を所有し、1858年(安政5年)に鳥取藩が執行した地方改革により、中庄屋に昇格した。 明治維新後、最高位の戸長及び地券の取調役となり、全国の稲作を巡回し農地改革の講演を行う。耕地は実子の中井益蔵に譲る。1884年(明治17年)、田植えの際、苗の間隔を一定にするため、田に目印をつけるための農具である田植え定規を発明。
鹿島 重好(かしま しげよし、天保元年(1830年) - 明… 鹿島 重好(かしま しげよし、天保元年(1830年) - 明治25年(1892年))は、日本の商人、政治家。島根県会議員。米子町年寄。 米子に下鹿島家2代重意の四男として生まれ、嘉永7年(1854年)分家して岩倉町に住み“岩鹿”と称された。家業は質屋で醤油・砂糖・荒物も商った。 安政7年(1860年)2月米子為替座御用を務め、文久2年(1862年)には藍座にも関与、慶応元年(1865年)2月町年寄仮役に任ぜられ、以後町年寄として働き、明治2年(1869年)4月荒尾氏の自分手政治廃止後も町年寄役を命ぜられた。 明治5年(1872年)1月第83・84区の仮戸長となり、明治7年(1874年)東倉吉町戸長となった。
新 貞老(あたらし さだお、1827年11月7日(文政10年… 新 貞老(あたらし さだお、1827年11月7日(文政10年9月18日) - 1900年(明治33年)3月9日)は、幕末の鳥取藩士。明治時代の官吏。国学者。神職。佐渡県権知事、相川県権令。本姓は衣笠。通称は初め田中良達、新庄恒蔵、五郎。変名に池田謙斎。雅号に真木園。 因幡国高草郡村上村に生まれる。新武男の父。国学を飯田秀雄に、紀州にて医学を、和歌を加納諸平に学ぶ。 1860年(万延元年)国書掛となり、国学局教授に転任。1862年(文久2年10月)国事周旋方となり京都に上った。1863年(文久3年)本圀寺事件に参加し、大坂の獄につながれ、1867年(慶応3年)赦されて出獄した。 1868年(明治元年4月)内国事務局書記、12月には権弁官となり、1869年(明治2年2月)奥羽民政巡察使を兼任し奥羽巡回中、7月に佐渡県権知事となる。
門脇 重綾(かどわき しげあや、文政9年10月18日(182… 門脇 重綾(かどわき しげあや、文政9年10月18日(1826年11月17日) - 明治5年8月3日(1872年9月5日))は、江戸時代後期の武士(鳥取藩士)、国学者。初め将曹、のち少造と改めた。諱は重綾。 政治家の門脇重雄は二男。柔道家の門脇誠一郎は孫。
村上 麗碩(むらかみ れい(らい)せき、文政6年(1823年… 村上 麗碩(むらかみ れい(らい)せき、文政6年(1823年)- 明治12年(1879年))は日本の医師。名は仁。通称は弥太郎。医号を麗碩と称し、別に翹楚堂のち岳翁ともいった。 会見郡上道村(現在の鳥取県境港市上道町)に南清蔵の次男として生まれる。天保12年(1841年)中野村の景山粛の塾に入り学問と漢蘭の医術を学び、次いで大坂に出て弘化3年(1846年)7月小山玄庵に雑科を修行し、儒者篠崎小竹に師事して経史を学んだ。更に嘉永元年(1848年)から同4年5月まで備前の難波立愿に内科産科を学んで帰郷した。郷里上道村で分家し、先祖の姓“村上”を名乗った。新しい医術と人望もあって評判高く、幕末より明治にかけて、弓浜米子地方に医名を馳せた。
飯田 年平(いいだ としひら、文政3年8月6日〈1820年9… 飯田 年平(いいだ としひら、文政3年8月6日〈1820年9月12日〉 - 1886年〈明治19年〉6月26日)は、因幡国鳥取藩国学方、国学者である。 因幡国気多郡寺内町(現・鳥取県鳥取市)の加知弥神社祠官飯田秀雄の次男として生まれる。 秀雄が本居大平の門人であったため、年平も大平に従学、さらに加納諸平にも学んだ。その好学を鳥取藩主池田慶徳に認められ、万延元年(1860年)3月、士班に列して鳥取藩国学方雇となる。挙兵に失敗した天誅組の三枝蓊を屋敷に匿った。明治維新後は、まず史官となり、次いで神祗大史となる。その後、神祇大録・式部大属兼中掌典・神宮神嘗祭奉幣使・式部寮御用掛准奏任官などを歴任。 明治19年(1886年)6月26日、死去の際に従六位に叙された。
松本 栄禄(まつもと えいろく、1819年5月18日(文政2… 松本 栄禄(まつもと えいろく、1819年5月18日(文政2年4月25日) - 1886年(明治19年))は、日本の政治家(会見郡長、県会議員)、郡役人(浜の目最後の大庄屋)。1872年(明治5年)7月、寛敬と改名する。 松江銀行(現山陰合同銀行)初代頭取、松江商工会議所初代会頭松本歓次郎の実兄。 伯耆国渡村(現鳥取県境港市渡町)に生まれる。松本民三郎(元松本)の長子。 1871年(明治4年)、浜の目支配(大庄屋)を拝命。1872年(明治5年)2月、会見郡長を拝命。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
景山 龍造(かげやま りょうぞう、文化14年(1817年)4… 景山 龍造(かげやま りょうぞう、文化14年(1817年)4月 - 明治5年8月18日(1872年9月20日))は、幕末の武士(鳥取藩士)、儒者。幼名は礼太郎。諱は守正。字は雍卿。号は道村。従五位。 父は医者・儒者であり優れた教育者だった景山粛。 先考氏景山、名義春、字立碩、粛之考七右衛門者其兄也、父称長三郎農夫也、性剛毅而有奇才、聞善若驚疾悪如讐、以節倹治家致貨以恵子孫、甫弱冠有高志、傷世多夭横、乃学医京千木嶋子、敏悟之質夙極其秘薀頗精干瘂科治方之活桟(中略) 時に寛政六(1794年)寅歳、先年の語り伝へ知るし置。大家と言は、先年後醍醐天皇様御こしかけ遊ばされ候家也。之により大家と言。大家の先祖影山道くわんと言人也。