窪田 静太郎(くぼた せいたろう / しずたろう、1865年… 窪田 静太郎(くぼた せいたろう / しずたろう、1865年11月10日(慶応元年9月22日) - 1946年10月6日)は、日本の内務官僚、法学者、社会事業家。法学博士、行政裁判所長官、枢密顧問官。 岡山藩学師範教授・窪田善之の長男として生まれる。岡山中学、第一高等学校を経て、1891年7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を首席で卒業した。内務省に入省し、後藤新平のもとで日本の保健衛生制度の確立に尽力。伝染病予防法、癩予防法などの制定を推進した。医者ではない事務官として初めて衛生局長に就任した。また後藤の影響から、狭義の衛生政策のみならず社会問題・社会政策全般に関心を抱き、社会政策学会が発足するとその会員となった。
広瀬 平治郎(ひろせ へいじろう、1865年10月31日〈慶… 広瀬 平治郎(ひろせ へいじろう、1865年10月31日〈慶応元年9月12日〉 - 1940年〈昭和15年〉5月16日)は、日本の囲碁棋士。方円社5代目社長、八段。 美作国苫田郡東苫田村(現・岡山県津山市)の農家に生まれる。幼時から学問に秀でており、12、3歳頃に父、兄の影響で碁を覚えてたちまち周りの者を上回る。兄弟が多く家が貧しかったため、17歳で大阪に出て地方新聞編集の職に就き、20歳で東京で農商務省に勤務し、女流棋士伊藤繁に付いて碁を学ぶ。1891年(明治24年)、26歳で囲碁専業に身を投じて方円社に入り、翌92年に初段を許された。1893年二段、1895年三段、1898年四段。方円社では『囲碁新報』『初学独習新報』など雑誌執筆、発行に務めて文才も謳われ、巌崎健造社長の元では副社長格として腕をふるった。
井出 台水(いで だいすい、本名・井出治、1865年4月29… 井出 台水(いで だいすい、本名・井出治、1865年4月29日(慶応元年4月5日) - 1950年(昭和25年)8月1日)は、岡山県出身の日本の俳人、陸軍軍人。最終階級は陸軍主計総監(中将相当官)。旧姓・佐々。別号に彭洋。 岡山藩(現・岡山県赤磐市)で佐々寅三の二男として生まれる。少年時代から父の影響で定型俳句を始めるも、軍人の道を進んだ。陸軍監督長・井出正章の養嗣子となり、1899年(明治32年)1月に家督を相続した。 1886年6月25日、工兵少尉に任官。1889年11月2日、工兵中尉に昇進し、1894年7月31日に経理部へ転科し監督補となる。陸軍経理学校卒業後、陸軍省経理局建設課長、陸軍主計監・第18師団経理部長、近衛師団経理部長、朝鮮駐剳軍(朝鮮軍)経理部長等を歴任。
石井 品子(いしい しなこ、旧姓:内埜(うちの)、1865年… 石井 品子(いしい しなこ、旧姓:内埜(うちの)、1865年(慶應元年) - 1895年(明治28年)9月12日)は、石井十次の最初の妻であり、社会事業家である。岡山県出身。 岡山県生まれ。1881年に同い年の石井十次(16歳)と品子(15歳)は結婚した。十次は品子と結婚した頃には教職や巡査の職に就いており、結婚後、十次の出身地である宮崎から品子の実家のある岡山へ活動拠点を移す。 その後、十次は医師を志すようになる。その間、品子は京都に機織の勉強に行き、岡山に帰ってからは、1885年(明治18年)高梁の順正高等女学校(現・岡山県立高梁高等学校)に入学している。品子がキリスト教の洗礼を受けるのは、この高梁の地である。
田辺 為三郎(田邊 爲三郎、たなべ ためさぶろう、1864年… 田辺 為三郎(田邊 爲三郎、たなべ ためさぶろう、1864年12月31日(元治元年12月3日)- 1931年(昭和6年)4月18日)は、明治から昭和初期の実業家・政治家・漢詩人。衆議院議員。名・華、字・秋穀、号・碧堂。 備中国浅口郡長尾村(岡山県浅口郡長尾村、長尾町、玉島市を経て現倉敷市玉島長尾)で、庄屋・田辺新三の三男として生まれた。7歳で父を失い、母に養育され虚弱のため学校に通わず、独学で漢学、外国語学、政治経済学などを修めた。1879年(明治12年)3月、家督を相続した。 1888年(明治21年)玉島紡績会社に入社し、1896年(明治29年)同社取締役に就任。1890年(明治23年)児島郡味野村(現:倉敷市児島味野)の野﨑家の理事となり、当主野崎武吉郎の貴族院多額納税者議員としての活動を支え、同家の塩業事業の発展に寄与した。
稲本 陽州(いなもと ようしゅう、本名:稲本治太郎、1864… 稲本 陽州(いなもと ようしゅう、本名:稲本治太郎、1864年(元治元年)6月25日 - 1947年(昭和23年)9月20日)は、教育者であり詩文作家である。特に漢文詩の世界では、関西に稲本陽洲ありと評判であった。現在の岡山県井原市出身。 1864年(元治元年)備中国後月郡山野上村(現在の岡山県井原市)の稲本重五郎の長男として生れる。幼い頃から岡山県議会議員の三村政太郎に漢学を学ぶ。地元の精徳尋常小学校を卒業し、教師証明書を受け15歳で精徳小学校の助教となった。1882年(明治15年)、19歳で岡山県小田郡星田小学校長となる。1886年(明治19年)には、日本の詩文作家における青年大家に挙げられ、全国でも名が知られていた。
池田 寅治郎(いけだ とらじろう、1864年5月8日(元治元… 池田 寅治郎(いけだ とらじろう、1864年5月8日(元治元年4月3日)- 1925年(大正14年)10月23日)は、明治後期から大正期の実業家、教育者、政治家。衆議院議員。 備中国後月郡井原村猪原(岡山県後月郡井原村、井原町を経て現井原市井原町)で、宮六の二男として生れた。興譲館長・坂田警軒に師事し、同志社英学校を経て、1890年(明治23年)慶應義塾を卒業した。 岡山中学校(現岡山県立岡山朝日高等学校)、慶應義塾で教師を務め、自由新聞記者となる。山陽鉄道を経て、村井兄弟商会に入り上海支店長、工業部長を歴任。1900年(明治33年)渡米してタバコ事情を視察。1901年(明治34年)に帰国し、煙草専売局技師、東京第二煙草製造所長に就任。
留岡 幸助(とめおか こうすけ、1864年4月9日(元治元年… 留岡 幸助(とめおか こうすけ、1864年4月9日(元治元年3月4日) - 1934年(昭和9年)2月5日)は、日本の社会福祉の先駆者で、感化院(のち教護院、後の児童自立支援施設)教育の実践家。 児童養護施設東京家庭学校(東京都杉並区高井戸東)および児童自立支援施設北海道家庭学校(北海道紋別郡遠軽町留岡)の創始者として知られる。石井十次、アリス・ペティ・アダムス、山室軍平とともに「岡山四聖人」と呼ばれる。 1864年4月9日(元治元年3月4日)、髪結い床を営む吉田万吉、トメの子の6人兄妹の次男として備中国高梁新町(後の岡山県高梁市新町)に生まれ、まもなく隣の南町(後の高梁市南町)で米屋を営んでいた留岡金助(1835年-1904年)の養子となった。
石原 健三(いしはら けんぞう、1864年2月20日(文久4… 石原 健三(いしはら けんぞう、1864年2月20日(文久4年1月13日) - 1936年(昭和11年)9月4日)は、日本の内務官僚、裁判官、政治家。枢密顧問官、貴族院議員。位階勲等は正二位勲一等。 備前国邑久郡、後の岡山県邑久郡笠加村出身。農業・石原庫平の三男として生まれる。岡山中学、大学予備門を経て、1889年(明治22年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。判事試補となり京橋区治安裁判所勤務となる。以後、司法省参事官試補、民事局勤務、長崎控訴院書記長、熊本地方裁判所判事などを歴任。 1892年(明治25年)10月、内務省に転じ、茨城県参事官、同県内務部第一課長兼第三課長、大阪府参事官、香川県警察部長、岐阜県書記官を歴任。
国分 三亥(こくぶ さんがい、文久3年12月25日(1864… 国分 三亥(こくぶ さんがい、文久3年12月25日(1864年2月2日) - 昭和37年(1962年)5月1日)は、日本の検事、朝鮮総督府官僚。錦鶏間祗候、宮中顧問官。教育者。 備中松山藩士の国分胤之(魚水実録を編纂)の子として生まれる。1883年(明治16年)に司法省法学校に入学し、1885年(明治18年)に卒業した。検事補となり、1887年(明治20年)に判事検事登用試験に合格。岡山地方裁判所検事、横浜地方裁判所検事、甲府地方裁判所検事正、高知地方裁判所検事正、大阪控訴院検事、大阪地方裁判所検事正を歴任した。1908年(明治41年)に韓国に渡り、韓国検事総長、統監府裁判所高等法院検事長に就任した。
井上 公二(いのうえ こうじ、1864年1月3日(文久3年1… 井上 公二(いのうえ こうじ、1864年1月3日(文久3年11月24日) - 1925年(大正14年)1月18日)は、明治期の実業家。古河鉱業会社に入り、足尾鉱業所長、古河合名会社理事を経て帝国生命保険(現・朝日生命保険)社長。古河財閥で大業を成し、昆田文次郎と並んで二大巨頭といわれた。 備中国(岡山県)上房郡高梁町(現・高梁市)生まれ。旧庭瀬藩士・井上公一の長男。漢学塾有終館に学び、岡山中学を中退。 16歳で単身上京し、有終館学頭だった三島中洲が開いた二松学舎、同人社に学び1883年(明治16年)慶應義塾入学、明治18年に卒業。1885年卒業と同時に米国に留学し、1888年帰国。時事新報を経て留学生支援を行う。
内田 恒太郎(うちだ つねたろう、1864年(慶應2年)1月… 内田 恒太郎(うちだ つねたろう、1864年(慶應2年)1月1日 - 1936年(昭和11年)2月10日)は、日本の会社役員。大日本麦酒(現サッポロビール)監査役。岡山県岡山市出身であり、族籍は岡山県平民。 岡山県上道郡富山村(現:岡山市)の内田武壽の長男として出生する。。1873年、家督を相続する。旧制岡山中学(現:岡山県立岡山朝日高等学校)、旧制横浜商業学校(現:横浜市立大学)を経て、三井物産へ入社する。三井物産横浜支店、山陽倉庫銀行、岡山銀行等に勤務して同郷の先輩馬越恭平の知遇を得て大日本麦酒に入り、以来累進して商務課長、名古屋出張所長及び東京出張所長、取締役、監査役等を歴任する。 妻は赤龍丸事件を起こした鹿児島士族江田(ごうだ)兼親の娘雪(俗名幾子)。
有松 英義(ありまつ ひでよし、1863年7月25日〈文久3… 有松 英義(ありまつ ひでよし、1863年7月25日〈文久3年6月10日〉- 1927年〈昭和2年〉10月24日)は、明治から昭和初期の官僚、政治家。寺内内閣の法制局長官を務めた。通称は梅次郎。字は子華。 備前国御野郡岡山城下に岡山藩士有松正義の長男として生まれる。1881年(明治14年)、岡山師範学校を卒業後、窪屋郡帯江小学校の教員をしながら漢学者西毅一の門下となる。陸奥宗光の著書を読んで上京して洋学を学ぶことを志した。相談を受けた同門の先輩である小松原英太郎は師である西が自由民権運動に没頭するのを憂慮して、1884年(明治17年)有松を獨逸学協会学校専修科に入学させた(小松原は同校の母体である獨逸学協会の会員であった)。
東 良三郎(ひがし / あずま りょうざぶろう、文久3年1月… 東 良三郎(ひがし / あずま りょうざぶろう、文久3年1月18日(1863年3月7日) - 大正5年(1916年)1月24日)は、日本の衆議院議員(立憲改進党→憲政本党)。弁護士。 備中国川上郡松原村(現在の岡山県高梁市)出身。司法省法学校で法学を学んだ。1888年(明治21年)より松江、東京、大阪の各裁判所で判事を務めた。1893年(明治26年)に官を辞し、大阪で弁護士を開業した。 1894年(明治27年)、第3回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第6回衆議院議員総選挙でも再選を果たした。
直原 守次郎(ちょくはら もりじろう、1863年(文久3年9… 直原 守次郎(ちょくはら もりじろう、1863年(文久3年9月) - 1921年(大正10年)7月25日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 美作国久米南条郡(のち岡山県久米郡吉岡村→柵原町、現・美咲町)生まれ。閑谷学校で学び、農業を営む。 1894年3月の第3回衆議院議員総選挙において岡山7区から無所属で立候補したが落選した。同年9月の第4回衆議院議員総選挙では自由党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1898年3月の第5回衆議院議員総選挙は不出馬。1902年の第7回衆議院議員総選挙では岡山県郡部から立憲政友会公認で立候補したが落選した。1921年に死去した。
大村忠二郎(おおむら ちゅうじろう、1862年11月27日 … 大村忠二郎(おおむら ちゅうじろう、1862年11月27日 – 1921年9月3日)は岡山県出身の教育者。大阪府第一高等女学校(現・大阪府立清水谷高等学校)初代校長で、大阪における女子教育の第一人者。
藤田 敏郎(ふじた としろう、1862年8月1日(文久2年7… 藤田 敏郎(ふじた としろう、1862年8月1日(文久2年7月6日) - 1937年(昭和12年)1月29日)は、明治・大正期日本の外交官。初代シンガポール領事や、ロンドン総領事、サンパウロ総領事等を務めた。 岡山県津山市出身。父は津山藩士・渡邊政。明治維新後に没落し藤田家に養子入りした。英語などを学び、商法講習所(現一橋大学)卒業。共同運輸会社入社後、母校商法講習所の矢野二郎校長の勧めで、1885年に外務書記生となった。翌1886年から在ホノルル日本領事館勤務。 1888年から在サンフランシスコ日本領事館書記生を務め、在任中メキシコでの日本人殖民地建設を建議し、1891年に中南米初の日本領事館がメキシコに開設されると初代領事代理として赴任した。
薄 定吉(すすき さだきち、1862年2月14日(文久2年1… 薄 定吉(すすき さだきち、1862年2月14日(文久2年1月16日) - 1927年(昭和2年)12月16日)は、日本の教育者、内務官僚。官選岐阜県知事、長崎市長。旧名・定右衛門。 備前国岡山城下門田屋敷出身。岡山藩士の家に生まれる。岡山中学校、大阪専門学校予科、築地大学校を経て、1882年7月、東京大学予備門を卒業。さらに1888年7月、帝国大学法科大学を卒業した。 1888年8月、第四高等中学校教諭に就任。さらに同校教授となる。1891年1月、内務省に転じ内務省試補となる。以後、図書局勤務、県治局勤務、鹿児島県参事官、同兼内務部第三課長、同兼内務部第一課長、長崎県参事官、同兼内務部第三課長、同兼内務部第五課長、群馬県書記官、山梨県書記官、奈良県書記官、鳥取県書記官、宮城県書記官、同事務官・第一部長、同兼第三部長などを歴任。
小松原 慶太郎(こまつばらけいたろう、1862年(文久2年… 小松原 慶太郎(こまつばらけいたろう、1862年(文久2年)- 1902年(明治35年)11月12日)は、日本の実業家。岡山県倉敷市出身。諱は、義直。 雄弁家として知られた。 小松原芳太郎の長男として倉敷村に生まれる。1866年(慶応2年)、倉敷浅尾騒動で父を失う。早くから両親を失い祖父小松原義平(善右衛門義忠、1817-1904)に養育された。終生祖父の恩を忘れず八十過ぎて足の不自由な祖父を背負って浴室に入れていた。1883年(明治16年)、21歳のときに村会議員、1888年(明治21年)、倉敷紡績所株式会社を設立。1891年(明治24年)、倉敷銀行(現中国銀行)を設立。 大日本紡績協会副会長。
米井 源次郎(よねい げんじろう、文久元年9月16日(186… 米井 源次郎(よねい げんじろう、文久元年9月16日(1861年10月19日) - 1919年(大正8年)7月20日)は、日本の実業家。麒麟麦酒の創設に携わり、明治屋の2代目社長を務めた。米井商店(現・ヨネイ)、明治護謨製造所(現・明治ゴム化成)の創業者。 文久元年9月16日(1861年10月19日)、美作国苫田郡高倉村(現・岡山県津山市)で平民米井仲平、ツルマツの次男として生まれる。上京して慶應義塾で学び、3歳年上のまたいとこである磯野計が創業した明治屋を在学中から手伝った。1887年大学卒業とともに同社に入社し、1897年(明治30年)1月には匿名組合磯野商会(創始者:磯野計、共同事業者:米井源治郎)を創立し、機械や鉱物、雑貨の輸入業を始める。
小山 益太(こやま ますた、1861年10月15日(文久元年… 小山 益太(こやま ますた、1861年10月15日(文久元年9月12日)- 1924年(大正13年)7月1日)は、日本の園芸家である。号は楽山園。 備前の赤磐郡稗田村に生まれる。幼少時に漢学を学び、後に廃藩置県により赤磐郡議会の書記を務めた。その後園芸栽培の活動を始め、同地で生産されるモモやナシ、ブドウ等多くの果実の品種改良に携わる。 またその果実の袋掛け法の改善や害虫駆除のために、殺虫剤の研究開発にも携わった。この開発は後に石油浸出法による石油乳剤を用いたものであり、「六液」の名で知られ普遍的に多くの農家で使用された。その後も果実の販売向上のために市場の開業や、大原奨農会(現在の岡山大学資源植物化学研究所)からの招聘よって果樹園の経営にも携わった。
森田 思軒(もりた しけん、1861年8月26日(文久元年7… 森田 思軒(もりた しけん、1861年8月26日(文久元年7月21日) - 1897年(明治30年)11月14日)は、日本のジャーナリスト・翻訳家・漢文学者。本名は文蔵。別号に埜客(やきゃく)、羊角山人(ようかくさんじん)、白蓮庵主人(びゃくれんあんしゅじん)、紅芍園主人(こうしゃくえんしゅじん)など。 1861年(文久元年)、備中国小田郡笠岡(現・岡山県笠岡市西本町)に岡山県議会議員や窪屋郡長を務めた森田佐平の子として生まれる。1874年(明治7年)、大阪慶應義塾に入塾し、1875年(明治8年)に徳島慶應義塾に移動し、1876年(明治9年)に三田の慶應義塾本校で英文学を学ぶ。1879年(明治12年)には岡山の興譲館で坂田警軒について漢学を修めた。
木村 清四郎(きむら せいしろう、1861年7月12日(文久… 木村 清四郎(きむら せいしろう、1861年7月12日(文久元年6月5日) - 1934年(昭和9年)9月24日)は、明治・大正期の政治家、実業家。日本銀行に30年間在職し、日本銀行副総裁、貴族院勅選議員。正五位勲二等。 備中国小田郡三谷村(現・岡山県小田郡矢掛町)生まれ。 大阪で化学・英学を学んだのち、1884年(明治17年)に慶應義塾(現・慶應義塾大学)へ入学。慶應義塾卒業後に、『商況社』に入社し、『中外商業新報』(現在の日本経済新聞社)主幹を経て、社長に就任。新聞を日刊化させるなど大きく飛躍させる。 時の日本銀行総裁・岩崎の勧めにより日本銀行に入行。1901年(明治34年)営業局長、1906年(明治39年)理事、1916年(大正5年)副総裁となる。
綱島 佳吉(つなしま かきち、1860年8月12日(万延元年… 綱島 佳吉(つなしま かきち、1860年8月12日(万延元年6月26日) - 1936年6月27日)は、日本の会衆派教会の牧師である。 1860年(万延元年)医師綱島行篤と母もんの二男として美作国真島郡新庄村に生まれる。大阪で、松村矩明に医学を学ぶ。1877年(明治10年)大阪で波花教会を設立するときに、牧師の沢山保羅より洗礼を受ける。同年同志社の神学部に編入し新島襄の教えに心酔する。 1879年(明治12年)、同志社在学中に上代知新と共に鳥取に派遣される。1880年(明治13年)6月に卒業して、西京第三公会(平安教会)の伝道師になる。日本組合基督教会の成立に伴い、各地に派遣され福島など東北地方の伝道などを行う。
有森 新吉(ありもり しんきち、安政7年1月26日(1860… 有森 新吉(ありもり しんきち、安政7年1月26日(1860年2月17日) - 昭和8年(1933年)11月18日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党→庚申倶楽部)。実業家。ジャーナリスト。教育者。 岡山藩士有森吉清の長男として岡山に生まれる。岡山藩藩学、温知学校、岡山変則中学校などで学んだ後、1879年(明治12年)に商法講習所(現在の一橋大学)に入学した。1881年(明治14年)、専修学校(現在の専修大学)経済科に転じた。専修学校卒業後の1882年(明治15年)に東京大学に入学し、1885年(明治18年)に卒業した。その後、ドイツに留学し、イェーナ大学、ベルリン大学、テュービンゲン大学、シュトラスブルク大学で学んで、1891年(明治24年)に法学博士号を得た。
河田 繁穂(かわだ / かわた しげほ、1860年1月24日… 河田 繁穂(かわだ / かわた しげほ、1860年1月24日(安政7年1月2日)- 1925年(大正14年)10月3日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、岡山県会議長、岡山県苫田郡芳野村長。有弘(ゆうこう)に改名した。 美作国西西条郡吉原村(岡山県西西条郡芳野村、苫田郡芳野村を経て現鏡野町吉原)で、河田竹治の長男として生まれる。 1879年(明治12年)吉原村戸長に就任。以後、西西条郡書記、円宗寺村外5カ村戸長を歴任。1886年(明治19年)岡山県会議員に選出され通算6期、1919年(大正8年)まで在任。この間、同常置委員、同議長(1896年-1898年)も務めた。1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙(岡山県第6区、自由党)で当選し、衆議院議員に1期在任。
二宮 邦次郎(にのみや くにじろう、安政7年1月2日(186… 二宮 邦次郎(にのみや くにじろう、安政7年1月2日(1860年1月24日) - 大正15年(1926年)9月7日)は明治・大正期の日本の牧師、教育者。 備中松山藩士の片貝正倫・ヨシの子として生まれ、藩医二宮英庵の養子となる。 1876年(明治9年)4月に岡山師範学校を卒業し、小学校教員をしながら自由民権運動の演説会などで活動していたが、新島襄や金森通倫の岡山伝道に接したことがきっかけで1880年(明治13年)に岡山教会で新島から洗礼を受け、さらに同志社の速成邦語神学科で学んだ。 1882年(明治15年)には高梁教会の設立に尽力したあと、美作落合教会の2代目牧師に就任する。さらに愛媛県の今治教会に転じ、横井時雄牧師を助けて松山伝道にも加わり、1885年(明治18年)に松山第一基督教会(現・日本基督教団松山教会)を設立した。
大橋 澤三郎(おおはし さわさぶろう、1860年(万延元年)… 大橋 澤三郎(おおはし さわさぶろう、1860年(万延元年) - 1889年(明治22年)10月30日)は、実業家。岡山県高梁市出身。諱は義質、号は達堂。1888年、倉敷紡績を設立。 大橋澤三郎は万延元年(1860年)11月12日、川上郡吹屋村(現:高梁市成羽町吹屋)の中山実富の四男に生まれた。 井原興譲館(現:備中興譲館)、坂田警軒の門に入り、経史を修め、頭角をあらわした(倉敷文庫「倉敷人物百選」より)。 澤三郎は倉敷村(現:倉敷市)大橋重質(和泉大橋家)の長女・竹の婿養子となり分家した(通称:向大橋家)。 かって東京に遊学して英語を学び 、また経済に明るく、新知識を身につけていた澤三郎(当時26歳)は、小松原慶太郎(当時24歳)、木村利太郎(当時26歳)と相携えて、「知識交換会」を結成。
片山 潜(かたやま せん、1859年12月26日(安政6年1… 片山 潜(かたやま せん、1859年12月26日(安政6年12月3日) - 1933年(昭和8年)11月5日)は、日本の労働運動家・社会主義者・マルクス主義者・思想家・社会事業家。号は深甫。 美作国久米南条郡羽出木村(後の弓削町、現在の岡山県久米郡久米南町羽出木)に庄屋藪木家の次男として生まれる。幼名は菅太郎(すがたろう)。 1877年(明治10年)10月、神目村(現在の久米南町神目中)の親戚・片山幾太郎の養子となる。この養子縁組は兵役忌避が目的だったと言われている。安達清風の私塾で学んだのち、1880年(明治13年)に岡山師範学校(現在の岡山大学教育学部)に入学するが、翌1881年(明治14年)に退学して上京。
浅野 応輔(あさの おうすけ、1859年4月10日(安政6年… 浅野 応輔(あさの おうすけ、1859年4月10日(安政6年3月8日) - 1940年(昭和15年)9月23日)は、明治から昭和時代前期の電気工学者、通信技術者。 備中国都宇郡茶屋町(現・岡山県倉敷市)に生まれる。浅口郡船穂村の医師浅野意俊の三男。 1881年(明治14年)工部大学校電気工学科(現:東京大学)を卒業し、同年工部大学校教官となる。同校助教授、東京電信学校長兼幹事、逓信省電務局電気試験所(現:電子技術総合研究所)初代所長、逓信技師、電気試験所所長を経て、1899年(明治32年)東京帝国大学工科大学(現:東京大学工学部)教授となる。その後、早稲田大学教授、早稲田大学工科長を経て1920年(大正9年)早稲田大学理工学部学部長となる。
今田 虎次郎(いまだ とらじろう、1859年 - 1940年… 今田 虎次郎(いまだ とらじろう、1859年 - 1940年)、日本の警察官。大阪府曽根崎警察署長の後に、初代のハンセン病療養所外島保養院院長を1909年から1926年まで務め、患者の自治を認めた。 1859年、岡山県邑久郡本庄村(現:瀬戸内市)にて今田幸次郞の長男として出生。大阪にでて、警察官になる。数か所の警察署長を勤務。一時高知県にでる。大阪警察署のなかのNo.1である曽根崎警察署長から、1909年外島保養院の所長になる。当時、ハンセン病療養所所長は、九州療養所を除き、警察署長であった。浮浪患者が多く、警察署長が都合がよかった。事務系職員にも自分の部下であった職員を連れていった。一人は警察署長であった。
桜田 百衛(さくらだ ももえ、1859年〔安政6年〕 - 1… 桜田 百衛(さくらだ ももえ、1859年〔安政6年〕 - 1883年〔明治16年〕1月18日)は、岡山県出身で明治初期に活躍した自由民権派のジャーナリスト。政治小説の創始者の一人としても知られる。別号に百華園主人がある。 1859年(安政6年)、備前国(現在の岡山県備前市)に生まれた。1872年(明治5年)頃上京し、東京外国語学校でドイツ語を学んだが中退。竹内正志や栗原亮一らの影響でと自由民権運動に関わるようになり、1874年(明治7年)に愛国公党に参加した。しかし、病気のため1880年(明治13年)に一時帰郷した。 1881年(明治14年)再上京し、自由党の結党に参加。党の最初の機関紙だった『自由新聞』の記者となり、政治小説を連載するようになる。
藤井 較一(ふじい こういち、1858年9月24日〈安政5年… 藤井 較一(ふじい こういち、1858年9月24日〈安政5年8月18日〉- 1926年〈大正15年〉7月9日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。 岡山藩士・藤井広の長男として生まれる。私立遺芳館、電信学校を経て、1880年(明治13年)12月、海軍兵学校(7期生)を卒業し少尉補、1883年(明治16年)11月に少尉任官。日清戦争には砲艦「大島」分隊長として従軍。1897年(明治30年)11月、防護巡洋艦「高砂」の回航委員に任命され、イギリスに出張し「高砂」副長となり翌年に帰国。 その後、防護巡洋艦「須磨」「秋津洲」の各艦長、台湾総督府海軍参謀、ドイツ公使館付、海軍省軍務局第2課長、軍令部第2局長を歴任し、1903年(明治36年)10月に「吾妻」艦長に着任し、日露戦争を迎えた。
田中 敬一(たなか けいいち、安政5年1月24日(1858年… 田中 敬一(たなか けいいち、安政5年1月24日(1858年3月9日) - 昭和5年(1930年)7月21日)は、日本の教育者。 美作国勝山(岡山県真庭市)出身。同人社・三叉学舎・慶應義塾を経て、1878年(明治11年)に東京師範学校(後の東京高等師範学校)に入り、1884年(明治17年)に卒業した。 長崎外国語学校教諭、長崎県中学校教諭、長崎県師範学校教諭、高等師範学校助教諭・訓導、岐阜県師範学校教頭、同校長を経て、1892年(明治25年)に宮城県師範学校校長に就任した。1893年(明治26年)、東京女子高等師範学校教授となり、1897年(明治30年)に東京府師範学校校長に転じた。1900年(明治33年)、台湾総督府国語学校校長となる。
安達 憲忠(あだち けんちゅう/のりただ、安政4年8月3日(… 安達 憲忠(あだち けんちゅう/のりただ、安政4年8月3日(1857年9月20日) - 昭和5年(1930年)12月2日)は、備前国赤坂郡小野田村(現・赤磐市熊山町)出身の社会実業家。東京市養育院幹事。 1857年、備前国赤坂郡小野田村で生まれる。幼くして母と死別し、遠戚の天台宗寺院で育つ。仏教を修める一方、岡山の藩校遺芳館で経学を学び、新聞記者となる。山陽新報、中国日々新聞、福島新聞などの記者を務める傍ら、自由民権運動に携わり、「岡山自由党の四天王の一人」と称される。また、集会条例違反で逮捕された事もあった。 その後上京し、1888年、東京府に奉職する。東京市養育院院長であった渋沢栄一の勧めで、1892年、養育院幹事となる。
福井 三郎(ふくい さぶろう、1857年5月27日(安政4年… 福井 三郎(ふくい さぶろう、1857年5月27日(安政4年5月5日)- 1935年(昭和10年)12月7日)は、明治から大正期の政治家。衆議院議員。 美作国真島郡、のちの北条県真島郡木山村(岡山県真島郡下方村、真庭郡下方村、木山村、落合町木山を経て現真庭市木山)で、福井真兵衛の二男として生れた。讃岐国の中村三蕉に師事し漢学を修めた。北条県伝習所で普通学を学び、同所が岡山県師範学校と改称し、1875年(明治8年)卒業した。 訓導、岡山県3等教授として小学校で教える。1876年(明治9年)上京して私立学舎で学ぶ。1881年(明治14年)甲府日日新聞(現山梨日日新聞)記者となり、峡中新報主幹に転じた。
佐藤 範雄(さとう のりお、1856年9月4日(安政3年8月… 佐藤 範雄(さとう のりお、1856年9月4日(安政3年8月6日) - 1942年(昭和17年)6月20日)は、現在の広島県福山市出身の宗教家・教育者。 金光教祖の教えを教祖没後も世に遺すべく、教祖の教えの記録保存や、信者の結収を行い、金光教の教団組織化を推進した。現在の金光学園中学校・高等学校と金光教学院の創立者・初代校長。金光教の三直信の一人で、金光教内では佐藤宿老(さとう しゅくろう)と呼ばれる。 安政3年(1856年)8月6日(戸籍上は2月8日)、備後国安那郡神御領村(現在の広島県福山市神辺町上御領)佐藤吉五郎満貴の三男に生まれる。明治4年(1871年)、16歳の時大工職を目指し弟子入りした。
大鳴門 太三郎(おおなると たさぶろう、安政3年(1856年… 大鳴門 太三郎(おおなると たさぶろう、安政3年(1856年) - 1900年5月4日)は、備前国御野郡(現在の岡山県岡山市)出身で、明治年間の大相撲力士。本名は武田 太三郎。京都・大阪では関脇を務め、脱退して組織した広角組では大関と頭取(年寄)を兼務した。大阪協会との和解後は四股名のまま頭取初代大鳴門(現在の表記は大鳴戸)となり大鳴門部屋を立ち上げた。 初名は春日森と名乗り大阪から京都(松ヶ枝門人)に移籍して関脇を務める。1886年10月大阪に帰参。大鳴門と改め西に張り出される(三役格)。1887年9月関脇、1888年9月も同地位だったが、場所前に大阪協会の首脳陣と意見が対立、同志を募り「広角組」を結成した。
山本 讃七郎(やまもと さんしちろう、安政2年7月12日(1… 山本 讃七郎(やまもと さんしちろう、安政2年7月12日(1855年8月24日) - 1943年(昭和18年)4月5日)は明治時代の写真師。岡山県井原市出身。維新後上京して林董宅に住み、中島待乳に写真術を学び、新橋で開業後、北京王府井に写真館を構え、西太后等要人や北京内外の風景を写真に残した。 安政2年(1855年)7月12日備中国後月郡梶江村(岡山県井原市芳井町梶江)に生まれた。1868年(明治元年)頃阪谷朗廬と親戚の医者の息子(山鳴弘斎三男清三郎か坂田警軒兄待園)が大坂で学んだ湿板写真を披露するのを見て、初めて写真に触れた。 明治4年(1871年)兄讃太郎を頼って上京し、1874年(明治7年)8月叔父梅園の師林洞海の子林董の書生となった。
金光宅吉(こんこう いえよし、安政元年12月25日(1855… 金光宅吉(こんこう いえよし、安政元年12月25日(1855年2月11日) - 明治26年(1893年)12月20日)は、金光教の二代金光様。 今の岡山県浅口市金光町大谷に生まれる。赤沢文治(金光大神)登勢(とせ)の5男。幼名は、宇之丞(うのじょう)、後に虎吉(とらよし)と改められる。金光四神(こんこうしじん)の神号を許され、金光大神の死後、広前の取次の座を主として守り、金光教の信奉者や布教者からは二代金光様あるいは四神様(しじんさま)と呼ばれている。神道本局傘下の神道金光教会で、金光教教監を務めた。諡号は「金光四神貫行君」(こんこうしじんつらゆきのきみ)。 妻 喜代(きよ:安部家より嫁す)との間に、4男4女をもうけた。
日笠 恒太郎(ひかさ つねたろう、1854年5月22日(嘉永… 日笠 恒太郎(ひかさ つねたろう、1854年5月22日(嘉永7年4月26日)- 1895年(明治28年)8月4日)は、明治期の農業経営者、政治家、実業家。衆議院議員。 備前国和気郡奥吉原村(岡山県和気郡熊山村、赤磐郡熊山町を経て現赤磐市奥吉原)で、大庄屋・日笠太左衛門の長男として生れた。閑谷校で学び漢学を修めた。農業を営む。 1877年(明治10年)1月、和気郡第5戸長役場戸長に就任。1878年(明治11年)郡役所が設置され郡書記となる。1882年(明治15年)岡山県会議員に選出され、3期12年間在任し、この間、常置委員を2期務めた。 1889年(明治22年)12月、山陽鉄道に入社して書記となり、岡山派出所に在勤し1891年(明治24年)の岡山開通に尽力。
加藤 平四郎(かとう へいしろう、1854年3月21日(嘉永… 加藤 平四郎(かとう へいしろう、1854年3月21日(嘉永7年2月23日) - 1935年(昭和10年)3月18日)は、日本の政治家。衆議院議員、自由党系官選県知事、甲府市長。 美作国真島郡高田村(のち勝山村、現真庭市)で、岡山藩士・加藤量の四男として生まれる。岡山師範学校卒業後、小学校教員となる。その後、自由民権運動に加わる。国会開設運動に狂奔し、演説会を中止解散させられた腹癒せに、「国安院妨害中止居士」と大書した白木の位牌を造り、弁士一らとそれを水葬に附した逸話などがある。 1890年7月、第1回衆議院議員総選挙で岡山県第七区に自由倶楽部から出馬し当選。1894年3月の第3回総選挙まで連続3回当選。
岡田 磐(おかだ いわお、1853年6月12日〈嘉永6年5月… 岡田 磐(おかだ いわお、1853年6月12日〈嘉永6年5月6日〉 - 1927年〈昭和2年〉2月17日)は、明治から大正時代の政治家。警察官。銀行家。岡山市長。号は撫川。 備中撫川(現岡山市北区撫川)出身。犬飼松窓の門に学んだ。1873年(明治6年)小田県等外一等出仕、1875年(明治8年)岡山県十五等出仕、1878年(明治11年)岡山県警部、さらに西西条、西北条、東南条、苫田の各郡長を経て、1902年(明治35年)7月25日、岡山市長に就任した。この間、津山、岡山各警察署長を歴任した。 市長在任中は、前任の小田安正のあとを受けて1903年(明治36年)から上水道敷設工事に着手し1905年(明治38年)3月に全国で8番目の上水道を完成させたほか、電話開通、吉備線や宇野線の開通、西大寺鉄道の開通、市内電車の開通など近代化を進めた。
時尾 善三郎(ときお ぜんざぶろう、嘉永6年3月10日(18… 時尾 善三郎(ときお ぜんざぶろう、嘉永6年3月10日(1853年4月17日) - 1922年(大正11年)以降)は大日本帝国陸軍の軍人。工兵第2方面工役長・鳴門支署長・舞鶴支署長、陸軍省築城部横須賀支部長、臨時軍用鉄道監部馬山浦鉄道班長、朝鮮総督府営林廠長。対馬・由良・舞鶴・東京湾要塞、馬山浦鉄道(朝鮮語版)等の構築に関わった。 嘉永6年(1853年)3月10日備前国邑久郡(岡山県瀬戸内市邑久町笠加地区)に5人兄弟の次男として生まれ、隣村福田村の時尾姓を継いだ。社軍隊・耕戦隊等民兵組織が盛んな岡山藩領にあって早くから軍人を志し、1874年(明治7年)陸軍教導団工兵科に入学し、隊長佐々木直前工兵少佐の下で操練・算術・画図・造屋を学んだ。
池田 長準(いけだ ながとし、嘉永6年2月27日(1853年… 池田 長準(いけだ ながとし、嘉永6年2月27日(1853年4月5日) - 大正2年(1913年)3月4日)は、岡山藩の家老。片桐池田家第11代当主。男爵。 父は岡山藩家老池田長常。妻は一条実良の娘福(亨子)。養子は池田長康。通称は競、主殿、采女助。初名は長知。 嘉永6年(1853年)岡山藩家老池田長常の次男として岡山に生まれる。明治3年(1870年)父長常の隠居により家督相続。閑谷学校で山田方谷に陽明学を学ぶ。英田郡長、磐梨郡長、二十二銀行取締役、二十二貯蓄銀行頭取を歴任。明治33年(1900年)男爵に叙され華族となる。大正2年(1913年)3月4日夜、妹婿・花房職居の訃報を聞いて、電話するために商業会議所に向かった際、誤って井戸に落ちて死去。
矢吹 璋雲(やぶき しょううん、嘉永5年7月5日(グレゴリオ… 矢吹 璋雲(やぶき しょううん、嘉永5年7月5日(グレゴリオ暦1852年8月19日) - 昭和2年(1927年)9月21日)は、日本画家・教育者。 1852年、良吉の三男として備中国賀陽郡服部村(現岡山県総社市)金井戸に生まれた。本名は熊治(くまじ)。改号前は雲岳。字は紫竹園である。 矢吹家は屋号を「天満屋」と称し、この地方では家柄が良く名家であったが、故あって長男竹次郎は分家して、明治22年(1889年)8月18日に熊治が家督を相続し、尾張藩士族、西村竹八郎の二女たきを娶った。 若い頃から画を好み、三好雲仙に学び雲岳と号して、同門の中島雲哉らと親しく交わった。 後年、子息と共に愛知県名古屋市に移住。
青木 保(あおき たもつ、1852年1月3日(嘉永4年12月… 青木 保(あおき たもつ、1852年1月3日(嘉永4年12月12日)- 1908年(明治41年)3月27日)は明治時代の日本の文部官僚、教育者。旧足守藩士。 嘉永4年12月12日(1852年1月3日)、青木元永の長子として備中国足守に生まれる。幼名は英之進。藩校・追琢舎を経て犬飼松窓、山田方谷らに漢学を学んだのち、明治3年(1870年)12月に足守藩選出の貢進生として大学南校に入学。貢進生制度が廃止され、校名が南校、第一大学区第一番中学と移り変わる中、英語専攻の学級に在籍して学業を続け、明治6年(1873年)4月に同校が専門学校である開成学校(ほどなく東京開成学校と改称)に改組されると法学科の予科に編入されている。
大石 廉(おおいし すなお、1852年(嘉永5年9月)- 1… 大石 廉(おおいし すなお、1852年(嘉永5年9月)- 1910年(明治43年)7月26日)は、明治期の農業経営者、政治家。衆議院議員、岡山県磐梨郡可真村長。 備前国磐梨郡弥上村(岡山県磐梨郡可真村、赤磐郡可真村、熊山町を経て現赤磐市弥上)で、誠太の二男として生れた。漢学、仏式兵学を修めた。岡山藩第3兵団予備隊機械弾薬掛、同藩第3大隊2番小隊半隊長心得、同第3大隊長を務めた。その後、里正に就任。 1877年(明治10年)第3区務所戸長に就任。以後、磐梨郡書記、同郡第7部戸長を務めた。1889年(明治22年)初代可真村長に就任し1895年(明治28年)まで在任した。1892年(明治25年)岡山県会議員に当選。
柴原 政太郎(しばはら まさたろう、1852年(嘉永5年1月… 柴原 政太郎(しばはら まさたろう、1852年(嘉永5年1月)- 1940年(昭和15年)4月25日)は、明治から昭和時代前期の政治家、実業家。製塩家。衆議院議員(1期)。 志賀源作の三男として備前岡山藩領和気郡(のちの岡山県和気郡片上町、備前町を経て現備前市)に生まれ、1870年(明治3年)9月、赤穂郡塩屋村(兵庫県赤穂郡赤穂町を経て現赤穂市)の柴原政右衛門の死跡を相続する。漢学を修める。製塩業を営む。1871年(明治4年)赤穂郡の塩田取締となり、1874年(明治7年)戸長に就任する。郡内7箇村戸長に挙げられるが、1883年(明治16年)5月に脳充血により職を辞した。ほか、赤穂鉄道社長、同相談役を歴任した。
尾形 兵太郎(おがた ひょうたろう、嘉永4年11月14日(1… 尾形 兵太郎(おがた ひょうたろう、嘉永4年11月14日(1851年12月6日)- 昭和9年(1934年)1月4日)は、衆議院議員(憲政本党)、弁護士。 岡山藩士尾形徳蔵の長男として岡山城下上内田町(現在の岡山市北区)に生まれる。岡山藩藩学で漢学を学んだ後、1865年(元治2年)に岡山兵学館に入り、洋式兵学を学んだ。1870年(明治3年)、兵学三等教授に就任するが、翌年の廃藩置県で藩兵が廃止されるとともに、兵学館も閉鎖となった。1876年(明治9年)、代言人制度の発足とともに代言人の免許を取得し、岡山で開業した。翌年、神戸に移り、さらに1881年(明治14年)に大阪に移った。 憲政本党に入党し、機関紙『関西週報』の発行にあたった。