石村 嘉成(いしむら よしなり、1994年 - )は、愛媛県… 石村 嘉成(いしむら よしなり、1994年 - )は、愛媛県新居浜市出身(在住)の画家・版画家である。愛媛県立新居浜商業高等学校を卒業した。 1歳を迎えるまで通常の発語があったが、1歳2か月のころから言葉が消えていき、2歳半で自閉症と診断された。11歳になった2005年に、元看護師の母が約半年間の闘病の末に40歳で死去した。父が経営する会社を切り盛りしながら、中学校から高校まで普通学級に通った。高校の3年間は無遅刻無欠席だった。 高校3年の時に、授業の一環として版画とアクリル画を始める。完成した作品「友達のワンダーランド」を文化祭で飾ると先生やクラスメイトが驚き、愛媛県のデザイン学校主催の作品展に入選して、愛媛県美術館に展示された。
オーガ ベン(オーガ フミヒロ)(本名:大鋸 史浩(おおが … オーガ ベン(オーガ フミヒロ)(本名:大鋸 史浩(おおが ふみひろ)、1971年3月15日 - )は、日本の画家。 愛媛県松山市生まれ。3人兄弟の長子。1989年愛媛県立松山南高等学校砥部分校卒、1991年大阪総合デザイン専門学校絵本科修了。 高校時代はグラフィックデザインを専攻していたが、卒業制作展においてパステルを使用した心象画を発表、ハルオ・ミヤウチ(松山市出身)賞を受賞し絵画の世界に目覚める。 その後、大阪総合デザイン専門学校絵本科に特待生として入学し、かねてより夢であった絵本作家に向けての勉学に勤しむが、京都大丸で開催されたホアン・ミロの大原画展に感銘を受け絵本的な作品から次第に絵画性の強い作品に強い興味を持つようになった。
MAYA MAXX(マヤマックス、1961年 - 2025年… MAYA MAXX(マヤマックス、1961年 - 2025年1月9日)は、日本の画家、イラストレーター、絵本作家。 愛媛県今治市出身。愛媛県立今治西高等学校を経て、早稲田大学教育学部卒業。今治応援大使。北海道岩見沢市在住。 27歳のときに有元利夫の絵に衝撃を受けて独学で絵を書き始め、1993年の初個展にて「MAYA MAXX」を名乗り始める。それ以来毎年開催している個展をはじめ、よしもとばなな、山田詠美など小説の装丁画や絵本創作、CDジャケットデザイン等を手がけ、若い世代からの支持も高い。 フジテレビ系『ポンキッキーズ』やNHK教育テレビ『真剣10代しゃべり場』などテレビ番組にも出演、映画『ハチミツとクローバー』絵画指導など多方面で活動。
香川 元太郎(かがわ げんたろう、1959年 - 2024年… 香川 元太郎(かがわ げんたろう、1959年 - 2024年12月12日)は、日本画家、イラストレーター、絵本作家。 愛媛県松山市出身。愛媛県立松山東高等学校を経て、武蔵野美術大学卒業、同大学院修士課程修了。 大学3年の時、日本画公募展の創画展に入選。以後、創画展6回、春季創画展7回入選。 東宝舞台に勤務し東京宝塚劇場等の舞台背景を描く。のちフリー。 日本画、歴史考証画、装画、絵本の制作のほか、郵便切手や絵入りはがきの原画などを手がける。日本画教室の講師も務める。 迷路やかくし絵を盛り込んだ学習絵本の『迷路絵本』シリーズは、累計で300万部を超えるミリオンセラーとなっている。 2024年12月12日、心室細動により死去。
智内兄助(ちない きょうすけ、1948年 - )は、日本の洋… 智内兄助(ちない きょうすけ、1948年 - )は、日本の洋画家。 愛媛県今治市(旧越智郡波方町)出身。愛媛県立今治西高等学校、東京芸術大学大学院油画科修了。6人兄弟の末子。 1980年代初めから、和紙にアクリル絵具という独特な画法を確立し、日本画と洋画との境界を越えた革新的な表現方法に到達。日本の伝統美である衣装文様や花鳥風月を、「もののあはれ」を基調としたその作風は独特の技法とあいまって智内独自の幻想世界を創り上げている。古典の伝統から逸脱することなく、日本の美意識を斬新な手法で捉える「絵師」として、安井賞をはじめ数々の賞を受賞し、現代画壇を代表する洋画家として揺るぎない地位を築きあげている。
永井 吐無(ながいとむ、1944年 -2024 )は、洋画家… 永井 吐無(ながいとむ、1944年 -2024 )は、洋画家、無所属。 愛媛県新居浜市生まれ。香川県立高松工芸学校図案科卒。 1970年、東京日本橋「此花画廊」にて初個展。 以後欧州各地に取材制作活動を重ねながら、主に発表の場を個展に求め、各地にて開催している。 1984年、フランスのサロンドートンヌ展、1988年、安井賞展等に発表し、高い評価を得るが、永井の真の姿は彼自身の個展の中にある。 それは永井もよく理解していて、1970年の初個展以来、積極的に作品を発表している。 その個展の数は2021年現在で既に82回を記録し、日本で最も権威ある日本橋三越ギャラリーでも定期的に開催している。 永井の作風の根幹は緻密な構成力と魂のこもった線にあるだろう。
守谷 史男(もりや ふみお、1938年4月8日 - )は、日… 守谷 史男(もりや ふみお、1938年4月8日 - )は、日本の画家。行動美術協会会員、大阪芸術大学教授。大阪府茨木市在住。放送作家の守谷武己は実子。
浜田泰介(はまだたいすけ、1932年〈昭和7年〉3月28日 … 浜田泰介(はまだたいすけ、1932年〈昭和7年〉3月28日 - )は愛媛県宇和島市出身の画家。 1985年(昭和60年) ART GRAPH 9月号に巻頭特集
松本 奉山(まつもと ほうざん、1925年9月2日 - 20… 松本 奉山(まつもと ほうざん、1925年9月2日 - 2010年1月5日)は、日本の水墨画家。愛媛県今治市生まれ。本名は松本 由美子(まつもと ゆみこ)。 1942年、松本尚山に入門。1963年に渡米し、海外でも活躍した。外務省文化使節や国際交流基金文化使節として海外で多くの活動を行った。シアトルにあるコーニッシュ芸術大学の講師を務めたこともある。 2010年1月5日、大阪市福島区の病院で肝臓がんにより84歳で死去した。 国内だけでなく、欧米や南米の風景を描いた作品も描いて個展を開き、高い評価を得た。 1999年のしまなみ海道開通時には、橋と島を組み合わせた作品を多数描いた。 2000-2001年には、琵琶湖と淀川の風景を描いた「みず紀行」を、毎日新聞夕刊(大阪本社発行版)に連載した。
浅田 孝(あさだ たかし、1921年3月19日 - 1990… 浅田 孝(あさだ たかし、1921年3月19日 - 1990年12月4日)は、日本の都市計画家・建築家。 香川県出身。戦後活躍する丹下健三の右腕として、丹下の数々の建築作品に関与。他、後に大阪万博を主導することになる建築家・デザイナーグループ「メタボリズム」を結成するなど、多方面で活躍。 南極大陸昭和基地プレファブユニットの設計、横浜市六大事業(みなとみらい21地区の開発、横浜ベイブリッジ構想、港北ニュータウン等)横浜市における都市計画の骨格つくりから、横浜こどもの国、世界デザイン会議、香川県の五色台開発や坂出人工土地、美濃部亮吉東京都知事時代の「広場と青空の東京構想」、大阪万博と沖縄海洋博プロデュース、国レベルの政策研究機関である総合研究開発機構(NIRA)設立、さらに本四連絡橋(瀬戸大橋)を架ける提案をした人物として知られている。
古茂田 守介(こもだ もりすけ、1918年〈大正7年〉1月5… 古茂田 守介(こもだ もりすけ、1918年〈大正7年〉1月5日 - 1960年〈昭和35年〉7月21日)は、昭和期の洋画家。新制作派協会物故会員。愛媛県道後村(現:松山市)出身。 人物画、静物画を得意分野とした。黄土色や暗褐色、くすんだ緑色等を主調として、色彩より形を重視し、均整のとれた構図の人物や静物を描いた。その色彩から、彫刻的な量感や実在感が作品に強く表れ、特別個性のある画風であった。戦後の日本美術で抽象表現主義の流行するなか、自身の信念を貫いて具象絵画を追究し続けた。 愛媛県道後村大字祝谷にて、元町会議員の父・文平の三男として生まれる。兄2人、姉1人、弟2人の6人兄弟。生まれながらにして喘息をかかえており、生涯闘病することとなる。
丹下 健三(たんげ けんぞう、1913年(大正2年)9月4日… 丹下 健三(たんげ けんぞう、1913年(大正2年)9月4日 - 2005年(平成17年)3月22日)は、日本の建築家、都市計画家。一級建築士(登録番号第15182号)。位階勲等は従三位勲一等瑞宝章、文化勲章受章。フランス政府よりレジオンドヌール勲章受章。カトリック信徒(洗礼名:ヨセフ)。 日本では「世界のタンゲ」と言われたように、日本人建築家として最も早く日本国外でも活躍し、認知された一人。第二次世界大戦復興後から高度経済成長期にかけて、多くの国家プロジェクトを手がける。磯崎新、黒川紀章、槇文彦、谷口吉生などの世界的建築家を育成した。また、日本人並びにアジア人として初めてプリツカー賞を受賞した人物である。
重松 鶴之助(しげまつ つるのすけ、1903年 - 1938… 重松 鶴之助(しげまつ つるのすけ、1903年 - 1938年11月30日)は、日本の画家で、左翼運動家。愛媛県松山市生まれ。 旧制松山中学校に入学。松山時代、雑誌『白樺』の影響を受けて芸術家志望の若者らと文芸や絵画の回覧雑誌『楽天』を発行。伊丹万作、伊藤大輔、中村草田男らと同志であった。また、後に映画監督となる山本薩夫の実兄でのちの建築家・山本勝巳もメンバーで、大学中退後の山本を伊藤に推薦し松竹に入れたのは重松であった。 松山中を中退して上京。岸田劉生に心酔、影響を受け、春陽会、国画会に入選。1926年、東京府美術館での同館開館記念「第1回聖徳太子奉賛美術展」に、代表作となる「閑々亭肖像」を招待出品するなど活躍した。
畦地 梅太郎(あぜち うめたろう、1902年12月28日 -… 畦地 梅太郎(あぜち うめたろう、1902年12月28日 - 1999年4月12日)は、日本の版画家。平塚運一らに師事した。山岳風景を題材とした木版画作品を多数発表し、「山の版画家」として知られる。画文集の出版や装丁、挿画などの分野でも活躍した。愛媛県北宇和郡二名村(現・宇和島市三間町)出身。 1937年夏に軽井沢へ出かけ浅間山に魅せられ、山を制作の主題に定めて山の風景を描いた作品を多数発表した。戦争中の満州への単身赴任などを経て、第二次世界大戦後は「山男」シリーズを発表していく。右手親指のけが、大やけどの後は家族をテーマにした作品を多く制作した。 1902年12月28日、愛媛県北宇和郡二名村(現・宇和島市三間町)に生まれた。
伊丹 万作(いたみ まんさく、1900年(明治33年)1月2… 伊丹 万作(いたみ まんさく、1900年(明治33年)1月2日 - 1946年(昭和21年)9月21日)は、日本の映画監督、脚本家、俳優、エッセイスト、挿絵画家。本名:池内 義豊(いけうち よしとよ)。 「日本のルネ・クレール」と呼ばれた知性派の監督で、挿絵画家として活躍後、同窓の伊藤大輔の勧めで映画界に入り、片岡千恵蔵プロダクションへ入社。作風は風刺と諧謔、人間味に富み、これまでの立ち回り主体の時代劇とは一線を画す現代的な時代劇 で稲垣浩とともに新生面を開いた。その後は闘病生活を余儀なくされるが、シナリオ執筆や映画論、社会批評など著述に専心した。主な監督作に『國士無双』『赤西蠣太』、シナリオに『無法松の一生』『手をつなぐ子等』など。
矢野 橋村(やの きょうそん、1890年(明治23年)9月8… 矢野 橋村(やの きょうそん、1890年(明治23年)9月8日 - 1965年(昭和40年)4月17日)は、日本画家。愛媛県越智郡(現今治市)出身。本名一智、別号「知道人」。晩年、日本南画院の設立に関わった。 1890年(明治23年)9月8日、愛媛県越智郡に生まれる。大阪陸軍造兵廠にて勤務中に左手首切断の負傷を負う。その後南画家を志し永松春洋へ師事し、右手一本で創作活動を行う。 1914年(大正3年)、第8回文展にて「湖山清暁」が褒章を受賞。1919年(大正8年)、直木三十五、福岡青嵐らと「大阪文化の抜本的改革を提唱する美術・文学・哲学などを文化総体として捉えた研究団体」として主潮社を結成、毎年東京と大阪で個展を開催する。
高畠 華宵(たかばたけ かしょう、1888年(明治21年)4… 高畠 華宵(たかばたけ かしょう、1888年(明治21年)4月6日 - 1966年(昭和41年)7月31日)は、日本の画家。本名、高畠幸吉。 愛媛県宇和島市裡町に生まれ、京都市立美術工芸学校日本画科卒業。大正から昭和初期にかけて、華宵の絵は当時の少年少女の間で絶大な人気を得た。宇和島市長・衆議院議員を務めた高畠亀太郎は、実兄。 1905年京都市立美術工芸学校を中退、1906年関西美術院に学び、上京して寺崎広業に師事した。当座は生活苦に喘いでいたが、1911年(明治44年)に「華宵」名義で発表した津村順天堂「中将湯」の広告画で一躍有名になる。アール・ヌーボーやユーゲントシュティール、特にオーブリー・ビアズリーの影響を受けたとされるシャープなペン画によるモダンな絵はそれまでの広告イラストとは一線を画したもので、世間の注目を集めた。
河鍋 きく子(かわなべ きくこ、1884年(明治17年) -… 河鍋 きく子(かわなべ きくこ、1884年(明治17年) - 1918年(大正7年)4月12日)は明治時代から大正時代にかけての女性日本画家。 1884年に愛媛県八幡浜に生まれた。蘭香と号す。始めは京都にでて菊池芳文について四条派を学び、その後、上京して寺崎広業に師事、人物を描いて名声を得た。1891年の日本青年絵画協会臨時研究会に「女福禄寿」を出品して五等褒状を得、1894年の日本青年絵画協会第3回絵画共進会に「近古美人」を出品、三等褒状を受けている。1918年4月12日に没した。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
河崎 蘭香(かわさき らんこう、1882年(明治15年)11… 河崎 蘭香(かわさき らんこう、1882年(明治15年)11月9日 - 1918年(大正7年)3月12日)は、西宇和郡郷村(現八幡浜市郷)生まれの日本画家。明治から大正にかけての女性日本画家。上村松園と並び称されることもあたったが、若くして他界した。 名を菊といい、実父は医師である神山謙斎であるが、明治8年(1890)郷村に開校した石堂小学校の校長河崎奨(たすく)郁(かおる)夫妻の養女となる。 小学校を卒業後、上京し音楽学校に入学。1年後に卒業すると、今度は画家を志し、明治32年(1899)には京都に移り住み菊池芳文(きくちほうぶん)の門下生となり、四条派の画法を学ぶ。 明治34年(1901)20歳の蘭香は、八幡浜栗野浦の八坂神社本殿の天井を飾る絵を30枚受け持ち、梶谷南海や他の郷土の画家とともに描き奉納。