佐藤 裕幸(さとう ひろゆき、1971年1月4日 - )は、… 佐藤 裕幸(さとう ひろゆき、1971年1月4日 - )は、大分県臼杵市出身の元プロ野球選手(内野手)。
大分県:140人
佐藤 裕幸(さとう ひろゆき、1971年1月4日 - )は、… 佐藤 裕幸(さとう ひろゆき、1971年1月4日 - )は、大分県臼杵市出身の元プロ野球選手(内野手)。
西嶋 賢司(にしじま けんじ、1970年12月14日 - )… 西嶋 賢司(にしじま けんじ、1970年12月14日 - )は、大分県佐伯市出身の元プロ野球選手(捕手)。右投右打。 佐伯豊南高時代は安藤信二(当時・青野姓)とバッテリーを組み、3年次の夏に4番打者として大分県大会で決勝に進出するが、エース・川崎憲次郎擁する津久見高に敗れ準優勝に終わった。自身は、3割4分6厘の好打率をマークした。 1988年オフに、ドラフト外でロッテオリオンズに外野手として入団。打力を活かすための転向であったが、後に再び捕手に戻る。 しかし、一軍出場が無いまま1994年限りで現役を引退した。引退後は福岡県に転居し、野球塾を運営。2023年末には地元で安藤、川崎とともに少年野球の指導にあたった。
安藤 信二(あんどう しんじ、1970年9月2日 - )は、… 安藤 信二(あんどう しんじ、1970年9月2日 - )は、大分県佐伯市出身の元プロ野球選手(内野手)、野球指導者。現役時代は安藤 真児(読み同じ)の登録名も使用した。 佐伯豊南高では3年夏の県大会でエースとして西嶋賢司とのバッテリーで川崎憲次郎(津久見高)と投げ合うが敗れた。1988年のプロ野球ドラフト会議で西武ライオンズから4位指名を受け入団。 プロ入りと同時に投手から内野手に転向すると共に、「青野信二」から「安藤信二」に改姓した。プロ2年目の1990年に一軍初出場を果たす。 1992年の日本シリーズには代打で出場。1993年に「安藤真児」に改名した。1995年にはファームで首位打者のタイトルを獲得するなどしたが、一軍では主に代打での起用が目立った。
古城 隆利(こじょう たかとし、1969年6月3日 - )は… 古城 隆利(こじょう たかとし、1969年6月3日 - )は、大分県日田市出身の元アマチュア野球選手(外野手)、野球指導者。 日田高校卒業後に日本体育大学に進学して硬式野球部に所属した。日体大には一般入試で入学し、1学年に約100人もいた部員の中からレギュラーの地位を勝ち取った。3年秋には明治神宮大会に出場。 大学卒業後は、社会人野球のいすゞ自動車でプレーした。 その後はいすゞ自動車と日本体育大学でコーチを務め、2009年からは日本体育大学の監督に就任し、2017年の明治神宮野球大会ではチームを37年ぶり2度目の優勝に導いた。大学日本代表のコーチも歴任した。同大学のスポーツマネジメント学部の助教授も務めている。
清原 雄一(きよはら ゆういち、1969年5月23日 - )… 清原 雄一(きよはら ゆういち、1969年5月23日 - )は、大分県国東郡国東町(現:国東市)出身の元プロ野球選手(投手)。
金田 政彦(かねだ まさひこ、1969年4月30日 - )は… 金田 政彦(かねだ まさひこ、1969年4月30日 - )は、大分県豊後高田市出身の元プロ野球選手(投手、左投左打)。 高田高等学校から社会人野球の日産自動車九州へ進むと藤井将雄と投手陣の軸となる、補強選手として都市対抗野球に出場した1992年のドラフト2位でオリックス・ブルーウェーブに入団。 1993年(1年目)から一軍で登板したが、制球難と単調になりやすい投球スタイルから中々定着できずにいたが、1995年にはウエスタン・リーグで最多勝を獲得した。 1996年、先発ローテーション入りしたが、6勝8敗と負け越した。日本シリーズ第4戦では2番手で登板した。 1997年、星野伸之以外に左の先発投手がいなかったチーム事情もあり、飛躍を期待されたが開幕は二軍スタートとなり、6月後半にやっと一軍初先発となり初登板初勝利を挙げたが、その後に3連敗を喫して二軍落ち。
野村 昭彦(のむら あきひこ、1968年8月30日 - )は… 野村 昭彦(のむら あきひこ、1968年8月30日 - )は、大分県佐伯市出身の元アマチュア野球選手(投手)、野球指導者。広島で監督を務めた野村謙二郎の弟。 佐伯鶴城高校では、1986年の夏の甲子園に出場し、エースとして活躍し、チームはベスト8に進んだ。高校卒業後に駒澤大学に進学して硬式野球部に所属し、東都大学野球リーグでは2度のリーグ優勝を経験した。 大学卒業後は、社会人野球の日本石油に入団し、都市対抗野球で2度の優勝を経験した。 その後は日本石油と駒澤大学でコーチを務め、2013年から2018年までに環太平洋大学の監督を務めた。2018年からは大学日本代表のコーチを務めている。その後は父親の介護のために退任し、地元へ戻っていたが2022年より監督に復帰した。
岩崎 久則(いわさき ひさのり、1968年4月4日 - )は… 岩崎 久則(いわさき ひさのり、1968年4月4日 - )は、大分県出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 小学校3年の時に柔道を始めていたが、小学校4年の時に地元の少年野球チームに入って野球を始める。中学校では軟式野球部に所属。中学卒業時に勧誘されていた大分高に進学し、高校2年春に県大会優勝で九州大会でも準優勝。3年次の1986年春も県大会連覇して九州大会はベスト4、夏は県大会準決勝まで進出。 高校卒業後は、高校1年生の頃から練習参加していた社会人野球の新日本製鐵大分に入団。最初は発足したばかりの別の社会人チームへの入社を考えていたが、新日鐵大分の部長らの説得で翻意した。社会人時代の1989年には内野手との兼任ながら打率.360という成績を残した。
弓長 起浩(ゆみなが たつひろ、1967年7月5日 - )は… 弓長 起浩(ゆみなが たつひろ、1967年7月5日 - )は、大分県東国東郡国東町(現:国東市)出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。 国東高から亜細亜大学へ進学し同大学硬式野球部所属。大学ではプロでも同僚となる川尻哲郎や小池秀郎、高津臣吾が1年下、2年上に与田剛、同期に黒子孝善らが投手陣にいた。東都大学リーグで通算17試合に登板し3勝3敗。1990年に大学卒業後、社会人野球の熊谷組に入社。入れ替わりでプロ入りしたパンチ佐藤とは大学・社会人で同じ経歴を辿った。1年目の東京スポニチ大会で優勝に貢献し、新人賞。都市対抗野球は1年目に東芝府中の補強選手として登板、2年目は初戦で先発するも敗退。 1991年のプロ野球ドラフト会議にて阪神タイガースから3位指名を受けて入団。
野村 謙二郎(のむら けんじろう、1966年9月19日 - … 野村 謙二郎(のむら けんじろう、1966年9月19日 - )は、元プロ野球選手(内野手)、元監督、野球評論家。
吉田 豊彦(よしだ とよひこ、1966年9月4日 - )は、… 吉田 豊彦(よしだ とよひこ、1966年9月4日 - )は、大分県出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督。左投左打。 小学3年時に野球を始める。大分県立国東高等学校に進学し、高校1年秋からエース。2年生時には1983年夏の甲子園大分大会決勝に進出するが、中津工に延長11回2-4で敗退し、甲子園行きはならなかった。当時の監督は、内川聖一の父である内川一寛。1学年下には吉田と同じサウスポーの弓長起浩がいる。卒業後は本田技研熊本に進む。1987年の都市対抗にニコニコドーの補強選手として出場。 同年のドラフト会議で立浪和義を外した南海ホークスにドラフト1位で指名され、契約金5500万円、年俸600万円(いずれも推定)で入団(ただし、スポーツニッポンの選手名鑑においては、契約金の項目が2800万円と記されている)。
広瀬 真二(ひろせ しんじ、1965年3月17日 - )は、… 広瀬 真二(ひろせ しんじ、1965年3月17日 - )は、大分県出身の元プロ野球選手(投手)。 臼杵高から、九州産業大学へ進むも中退し社会人野球のあけぼの通商入りするが、解散し九州三菱自動車を経て、1988年オフにドラフト外で福岡ダイエーホークスへテスト入団。 一軍公式戦への出場がないまま、1990年限りで現役を引退。引退後は、球団に残り打撃投手を務めた。 2005年に大分ソーリンズ野球倶楽部のテストに合格し、最年長選手となった。2006年に酒気帯び運転などの罪で逮捕。
太田 龍生(おおた たつお、1964年4月29日 - )は、… 太田 龍生(おおた たつお、1964年4月29日 - )は、大分県出身の元プロ野球選手(投手)。 大分高田高から1982年のドラフト4位で広島東洋カープに入団。 広島次期主力投手と評されるも一軍登板は無く、広島OBの張明夫(福士敬章)の推薦もあって1988年5月に韓国プロ野球(KBO)の三星ライオンズに移籍。三星での登録名は鄭 龍生(チョン・ヨンセン、정용생)。しかし、同年は未勝利に終わり退団。 1990年に福岡ダイエーホークスにて日本球界復帰。しかし、一軍登板はなく同年オフに戦力外通告を受ける。結局、日本プロ野球では一軍登板することなく現役引退。 1991年から2012年まで広島の打撃投手を務めた。
山下 和彦(やました かずひこ、1962年11月29日 - … 山下 和彦(やました かずひこ、1962年11月29日 - )は、大分県宇佐市出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ。現在は横浜DeNAベイスターズ二軍バッテリーコーチ。
小原 正行(おはら まさゆき、1962年6月19日 - )は… 小原 正行(おはら まさゆき、1962年6月19日 - )は、日本の元プロ野球選手(投手)。 大分県立臼杵商業高等学校では、全国高等学校野球選手権に出場することができなかったが、地方大会でノーヒットノーランを記録するなど素材が高く評価された。 1980年のドラフト会議の3巡目で日本ハムファイターズ、阪神タイガース、読売ジャイアンツ、中日ドラゴンズの4球団の指名が競合。抽選により巨人が交渉権を獲得し、入団した。巨人では原辰徳、駒田徳広に続く指名だった。4球団競合はこの年のドラフトでは1巡目の原と並ぶ最多競合数だった。 ドラフト後の読売新聞(PR版臨時特集)では「九州一の速球王」「第二の稲尾和久」と紹介された。
日野 善朗(ひの よしあき、1961年8月16日 - )は、… 日野 善朗(ひの よしあき、1961年8月16日 - )は、大分県出身の元プロ野球選手(内野手)。右投げ右打ち。
岡崎 郁(おかざき かおる、 1961年6月7日 - )は、… 岡崎 郁(おかざき かおる、 1961年6月7日 - )は、大分県大分市出身の元プロ野球選手(内野手)。
井上 晃二(いのうえ こうじ、1960年12月31日 - )… 井上 晃二(いのうえ こうじ、1960年12月31日 - )は、大分県出身の元プロ野球選手(内野手)。右投右打。
宮本 尊義(みやもと たかよし、1957年11月9日 - )… 宮本 尊義(みやもと たかよし、1957年11月9日 - )は、大分県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。
谷崎 浩二(たにざき こうじ、1957年5月7日 - )は、… 谷崎 浩二(たにざき こうじ、1957年5月7日 - )は、大分県出身の元プロ野球選手(投手)。
浜名 敏幸(はまな としゆき、1956年6月17日 - )は… 浜名 敏幸(はまな としゆき、1956年6月17日 - )は、大分県出身の元プロ野球選手。投手、右投げ右打ち、180cm、75kg。 ドラフト指名時の名前は浜名 繁幸だったが、入団契約締結時に敏幸に改名した。 1972年に大分県立臼杵商業高等学校に入学。1974年、最後の夏は大分県予選準々決勝で、渡辺光弘の大分県立中津工業高等学校に1-2で敗退し、在学中の甲子園大会出場はなかった。 この秋のドラフト会議で、南海ホークスから3位指名を受け、1975年に入団。なお、前述の渡辺も翌年に南海に入団している。 入団時は本格派でカーブ、シュートが武器の速球派投手であったが、1977年下手投げにモデルチェンジ。
大慈彌 功(おおじみ いさお、1956年5月4日 - )は、… 大慈彌 功(おおじみ いさお、1956年5月4日 - )は、大分県宇佐市出身の元プロ野球選手(捕手)。現在は、セントルイス・カージナルスの日本駐在スカウト。 中津南高から、1975年オフにドラフト外で太平洋クラブライオンズにテスト入団した。 一軍での公式戦出場がないまま、1979年限りで現役を引退した。 現役引退後は、帰郷し地元企業に勤務した。その際に、縁あって渡英し英語力を身につける。その後、福岡ダイエーホークスのフロント、通訳、千葉ロッテマリーンズの通訳(1995年、来日当初のボビー・バレンタイン監督の通訳)を歴任。 1997年、ニューヨーク・メッツに環太平洋地域担当スカウトとして入団。新庄剛志や吉井理人といった日本プロ野球界で活躍する選手を多数獲得するなど実績を上げ、環太平洋担当部長などを歴任。
渡辺 麿史(わたなべ たかふみ、1956年2月5日 - 20… 渡辺 麿史(わたなべ たかふみ、1956年2月5日 - 2014年2月1日)は、大分県日田市出身の元プロ野球選手(投手)。 日田林工高校ではエースとして活躍。1972年秋季九州大会に進むが、1回戦で鎮西高に敗退。翌1973年夏の甲子園に出場。1回戦で糸魚川商工の黒坂幸夫と投げ合い完封勝ち、2回戦も浜田商を完封で降す。しかし3回戦はエース佃正樹を擁する広島商に2-3で惜敗。卒業後は社会人野球の日本鉱業佐賀関に入社するが、4年先輩のエース・藤沢公也の陰に隠れ、あまり活躍の場はなかった。 1976年のプロ野球ドラフト会議にて近鉄バファローズから4位指名を受けて、1年遅れの1977年オフに入団。プロでは一軍での試合出場がないまま、1982年限りで現役引退。
貞山 健源(さだやま たけもと、1954年11月2日 - )… 貞山 健源(さだやま たけもと、1954年11月2日 - )は大分県出身の元プロ野球選手(投手)。 大分県立別府鶴見丘高等学校では、高校3年生のとき、コントロールとタフさを買われて投手に転向。 1972年夏の高校野球選手権大会大分県予選では2回戦で大分商に敗れたが奪三振11を奪って注目されていた。 速球とカーブを武器とした。 同年のドラフト会議で太平洋クラブライオンズに8位指名され入団。 一軍公式戦出場のないまま、1974年限りで自由契約となり引退した。
中川 信秀(なかがわ のぶひで、1954年9月29日 - )… 中川 信秀(なかがわ のぶひで、1954年9月29日 - )は大分県出身の元プロ野球選手(内野手)。
水江 正臣(みずえ まさおみ、1954年4月19日 - )は… 水江 正臣(みずえ まさおみ、1954年4月19日 - )は元プロ野球選手(投手)。右投右打。大分県出身。元UP-BEATの水江慎一郎とは従兄弟。
橘 健治(たちばな けんじ、1954年3月8日 - )は、大… 橘 健治(たちばな けんじ、1954年3月8日 - )は、大分県出身の近鉄バファローズに所属したプロ野球選手(投手)。右投右打。
春日 昭之介(かすが しょうのすけ、1953年11月17日 … 春日 昭之介(かすが しょうのすけ、1953年11月17日 - )は、大分県中津市出身の元プロ野球選手(内野手)。1975年から1978年までの登録名および本名は「春日 祥之輔」。兄は元プロ野球選手の春日一平。 中津工業高では、1番打者、捕手として同期のエース尾西和夫とバッテリーを組む。1971年夏の甲子園県予選を勝ち抜き、中九州大会決勝に進出するが、鶴崎工業高の藤沢哲也投手にノーヒットノーランを喫し甲子園出場はならなかった。 高校卒業後は、社会人野球の鐘淵化学に入社。1974年の都市対抗野球に出場。2回戦では2番打者、中堅手として起用されるが、新日本製鐵八幡の萩野友康に抑えられ敗退。 1974年のプロ野球ドラフト会議で太平洋クラブライオンズから5位指名を受け入団する。
尾西 和夫(おにし かずお、1953年8月4日 - )は、大… 尾西 和夫(おにし かずお、1953年8月4日 - )は、大分県出身の元プロ野球選手(投手)。 中津工業高校では、エース、三番打者として春日祥之輔とのバッテリーで1971年春季県大会で優勝、九州大会では決勝へ進むが登板はせず、橘健治が先発し、岩井靖久のいた同県の津久見高校に敗れた。夏の甲子園県予選は勝ち抜き中九州大会決勝に進出するが、鶴崎工の藤沢哲也にノーヒットノーランを喫し甲子園出場はならなかった。 高校卒業後は、新日本製鐵堺へ入社。1973年のドラフト会議で読売ジャイアンツから5位指名されるが拒否し、会社に残留した。 1975年、日本選手権の1回戦で鷺宮製作所の山本良材と投げ合うとバッテリーを組んだ中出謙二の本塁打で勝利。
藤沢 哲也(ふじさわ てつや、1953年8月3日 - )は、… 藤沢 哲也(ふじさわ てつや、1953年8月3日 - )は、大分県出身の元プロ野球選手(投手)。
岩井 隆之(いわい たかゆき、1953年5月30日 - )は… 岩井 隆之(いわい たかゆき、1953年5月30日 - )は、大分県出身の元プロ野球選手。現在は北海道日本ハムファイターズのファーム内野守備コーチ。本名・岩井靖久。
浜浦 徹(はまうら とおる、1952年8月22日 - )は、… 浜浦 徹(はまうら とおる、1952年8月22日 - )は、大分県津久見市出身の元プロ野球選手(投手)。
塩月 勝義(しおつき かつよし、1952年8月14日 - 2… 塩月 勝義(しおつき かつよし、1952年8月14日 - 2000年9月11日)は、大分県出身のプロ野球選手。ポジションは投手。 佐伯豊南高校では、1970年夏の甲子園県予選準々決勝に進むが津久見高に敗退。1970年ドラフト会議で西鉄ライオンズから8位指名を受けるが拒否し、協和醱酵工業へ入社。 1974年ドラフト会議で読売ジャイアンツから4位指名を受け入団。オーバースローからのスライダー、シュートを武器にオープン戦などでは好投したが公式戦では活躍できなかった。 イースタン・リーグでは1976年6月にノーヒットノーランを達成、1977年に最多勝を獲得するなど活躍したが、一軍での登板は通算9試合に終わった。
小川 精一(おがわ せいいち、1952年7月28日 - )は… 小川 精一(おがわ せいいち、1952年7月28日 - )は、大分県別府市出身の元プロ野球選手。尚、プロ入り前の名前は、「小川 清一(※読みは上記と同じ)」であった。
筧 文夫(かけい ふみお、1952年6月23日 - )は、大… 筧 文夫(かけい ふみお、1952年6月23日 - )は、大分県出身の元プロ野球選手(外野手)。 中津工業高から福岡工業大学に進学。福岡六大学野球リーグでベストナイン2回、敢闘賞1回。典型的な中距離打者で3割7分1厘の高打率(二塁打24、三塁打5、本塁打6)をマーク。最大の魅力は、盗塁数75個を誇る脚力。 1974年にドラフト外で日本ハムファイターズに入団。 一軍公式戦の出場がいまま、1978年に現役を引退。 この項目は、野球選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ野球選手/P野球)。
長松 純明(ながまつ すみあき、1952年6月4日 - )は… 長松 純明(ながまつ すみあき、1952年6月4日 - )は、大分県中津市出身の元プロ野球選手(捕手)。 中津工高では、1970年夏の甲子園県予選準決勝で津久見高に敗れ、中九州大会には進出できなかった。卒業後は福岡工業大学へ進学。福岡六大学リーグでは1972年秋季リーグから4季連続優勝。リーグ通算16本塁打、首位打者2回、3年春から4季連続ベストナイン。1973年には5試合連続本塁打を放ちリーグ記録を更新。高校、大学の同期に筧文夫(日本ハム)がいた。 1974年ドラフト2位で、ロッテオリオンズに入団。強肩強打の捕手として期待されるが、村上公康、高橋博士らの控えに甘んじる。しかし1983年には20試合に先発マスクを被り、袴田英利、土肥健二と正捕手の定位置を争った。
池辺 忠則(いけべ ただのり、1952年6月1日 - )は大… 池辺 忠則(いけべ ただのり、1952年6月1日 - )は大分県出身の元プロ野球選手(捕手)。
梅野 哲徳(うめの てつのり、1952年1月12日 - )は… 梅野 哲徳(うめの てつのり、1952年1月12日 - )は大分県出身の元プロ野球選手(捕手)。
春日 一平(かすが いっぺい、1951年3月7日 - )は、… 春日 一平(かすが いっぺい、1951年3月7日 - )は、大分県出身の元プロ野球選手。ポジションは捕手。弟は、元プロ野球選手の春日昭之介。 中津工業高校では、捕手として同期のエース大島康徳とバッテリーを組んで活躍した。1967年秋季九州大会大分県大会準決勝に進むが、同年春の選抜優勝校で、大田卓司らのいた津久見高に敗退。翌1968年春季九州大会大分県大会も準決勝で高田高に敗れる。同年夏も県予選で敗退し甲子園には届かなかった。 1968年ドラフト会議で西鉄ライオンズから5位指名を受け入団。1970年に一軍に上がり、捕手として8試合に出場するが、宮寺勝利らの壁を破れず一軍には定着できなかった。その後はマネージャー等の裏方を兼任していたが、1977年限りで現役引退。
大田 卓司(おおた たくじ、1951年3月1日 - )は、大… 大田 卓司(おおた たくじ、1951年3月1日 - )は、大分県津久見市出身の元プロ野球選手(外野手)・監督、野球指導者である。
川野 雄一(かわの ゆういち、1950年12月16日 - )… 川野 雄一(かわの ゆういち、1950年12月16日 - )は、大分県出身の元プロ野球選手(捕手)。 臼杵高校では、遊撃手であったが捕手に転向。1968年夏の甲子園県予選準決勝に進出するが、大田卓司のいた津久見高に完封を喫する。 強肩と正確なスローイングは定評があり、打撃もシュアで高校時代の通算打率は3割8分。ランニングもベース一周14秒台の俊足であった。 社会人野球の丸善石油の就職が内定していたが、1968年のプロ野球ドラフト会議で西鉄ライオンズから8位指名を受け入団。 プロ1年目の1969年にはジュニアオールスターにも出場する。1970年に一軍に上がり、1973年、1974年にはそれぞれ10試合に先発マスクを被るが、宮寺勝利、片岡新之介らの壁を破れず、1975年限りで現役を引退した。
大島 康徳(おおしま やすのり、1950年〈昭和25年〉10… 大島 康徳(おおしま やすのり、1950年〈昭和25年〉10月16日 - 2021年〈令和3年〉6月30日)は、日本のプロ野球選手(内野手、外野手)、プロ野球監督、野球解説者。 現役時代は中日ドラゴンズ(1969年 - 1987年在籍)で強打者として活躍し、1974年・1982年にはチームのセントラル・リーグ(セ・リーグ)優勝に貢献。1983年には本塁打王のタイトルを獲得、現役生活の終盤となる1988年に日本ハムファイターズへトレードで移籍すると、1990年には通算2000安打を達成。プロ入り26年目の1994年に44歳で現役を引退し、2000年 - 2002年には日本ハムの監督を務めている。 次男はお笑い芸人の大島雅斗。
河原 明(かわはら あきら、1949年6月10日 - )は、… 河原 明(かわはら あきら、1949年6月10日 - )は、大分県北海部郡佐賀関町(現役当時、現・同県大分市)出身の元プロ野球選手(投手)。
吉良 修一(きら しゅういち、1949年4月23日 - )は… 吉良 修一(きら しゅういち、1949年4月23日 - )は大分県出身の元プロ野球選手。
岩崎 忠義(いわさき ただよし、1948年9月12日 - )… 岩崎 忠義(いわさき ただよし、1948年9月12日 - )は、大分県出身の元プロ野球選手(外野手)。右投右打。
島津 佳一(しまづ よしかず、1948年7月29日- )は、… 島津 佳一(しまづ よしかず、1948年7月29日- )は、大分県日田市出身の元プロ野球選手(外野手)である。
成重 春生(なりしげ はるお、1948年4月20日 - )は… 成重 春生(なりしげ はるお、1948年4月20日 - )は、大分県豊後高田市真玉町出身の元プロ野球選手(投手)。 大分高田高校では、2年次の1965年に控え投手として中九州大会準決勝に進出するが、八代東高に敗退。3年次の1966年には夏の県予選準々決勝で岩崎忠義のいた津久見高に敗れ、甲子園には出場できなかった。高校時代の3年間は先発をさせてもらえず、3年次の同年も2年生が先にマウンドに登り、打たれると成重の出番であった。 高校時代の戦績はゼロに等しかったが、プロでやりたいという気持ちからヤクルトと中日のテストを受けた。結果はどちらも不合格で、成重は「それなら社会人」と松下電器のセレクションを受ける。
浜口 政信(はまぐち まさのぶ、1947年7月7日 - )は… 浜口 政信(はまぐち まさのぶ、1947年7月7日 - )は、大分県出身の元プロ野球選手。守備位置は投手。 別府鶴見丘高校では、主戦投手として1964年秋季九州大会県大会準決勝に進むが、佐伯鶴城高の山中正竹に完封負け。翌1965年夏の甲子園県大会では中津南高から22奪三振を記録するが、準々決勝で衛藤雅登のいた別府大付高に敗退。八代一高の豊永隆盛、高鍋高の牧憲二郎とともに、九州の三羽烏として注目された。高校の1年下に大場隆広。 1965年ドラフト会議でサンケイスワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)に4位指名で入団。1年目の1966年から一軍に上がり、翌1967年には中継ぎとして10試合に起用される。
山中 正竹(やまなか まさたけ、1947年4月24日 - )… 山中 正竹(やまなか まさたけ、1947年4月24日 - )は、元社会人野球の選手(投手)・監督。
大悟法 久志(だいごぼう ひさし、1947年3月20日 - … 大悟法 久志(だいごぼう ひさし、1947年3月20日 - 2011年8月29日)は、日本の高校野球指導者。大分県中津市出身。柳ヶ浦高等学校、明豊高等学校、福岡県立青豊高等学校で指揮を執った。 浅沼学園中津高等学校、駒澤大学卒業。現役時代は捕手であり、大学では準硬式野球部に所属していたが、全日本入りしたことがある。 大学4年の時、高校時代の恩師・植島安朝が野球部監督を務める柳ヶ浦高等学校のコーチを務めたことから、卒業後の1969年、柳ヶ浦に社会科教諭として赴任し、同時に野球部監督に就任した。柳ヶ浦は元は女子高で、1966年に共学化された私立高校であり、赴任当時は女子生徒の割合が高く部員確保が困難であった。