宮村 三多(みやむら さんた、1857年1月1日(安政3年1… 宮村 三多(みやむら さんた、1857年1月1日(安政3年12月6日)- 1908年(明治41年)2月2日)は、明治期の教育者、実業家、政治家。衆議院議員。 豊前国下毛郡、のちの大分県下毛郡中津町(現中津市)で生まれる。藩儒・橋本塩巌に師事し漢籍を修めた。さらに中津市学校で英学、数学、法学、経済学を学んだ。千葉県中学校(現千葉県立千葉中学校・高等学校)助教諭を経て、同県成田英漢義塾(現成田高等学校・付属中学校)長に就任した。 帰郷して1877年(明治10年)亦一社を設立して自由民権運動に加わり、1879年(明治12年)国会開設請願運動を展開し、翌年元老院に提出した。亦一社の解散後、大分県下毛郡視学に就任。
大塚 幸兵衛(幸兵衞、おおつか こうべえ、1857年(安政4… 大塚 幸兵衛(幸兵衞、おおつか こうべえ、1857年(安政4年 7月)- 1910年(明治43年)1月12日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。 豊後国海部郡、のちの大分県北海部郡臼杵町平清水(現臼杵市福良平清水)で商家に生まれた。漢学、数学を修めた。家業を継承し、商才に恵まれ、たばこ製造、米相場で多額の財産を得た。 大分郡会議員、臼杵町会議員、大分県勧業諮問会委員などを務めた。1898年(明治31年)3月の第5回衆議院議員総選挙(大分県第2区、山下倶楽部)で豊州会から選挙活動を行う予定であったが、改進派との話し合いで活動を停止したが、改進派の違約により投票日前日一日だけの選挙活動で当選し、「大塚の一日選挙」と称された。
山本 達雄(やまもと たつお、1856年4月7日〈安政3年3… 山本 達雄(やまもと たつお、1856年4月7日〈安政3年3月3日〉- 1947年〈昭和22年〉11月12日)は、明治後期から戦前昭和期の日本の銀行家・政治家。43歳で第5代日本銀行総裁に就任後、政界に転じて貴族院議員、日本勧業銀行総裁、大蔵大臣・農商務大臣・内務大臣・立憲民政党の最高顧問を歴任した。政界の長老的存在。 位階は正二位。勲等は勲一等。爵位は男爵。号は竹渓。 豊後国臼杵藩士・山本確の次男として現在の大分県臼杵市に生まれる。藩校学古館に学び文武に秀で13歳で宗家の養嗣子となるが、実家・養家ともに貧しく、内職で家計を支えた。更に廃藩置県が追い討ちをかけることとなる。17歳で大阪に出て3年間小学校教師をしながら学資を稼ぎ、東京に出て慶應義塾で福澤諭吉に学ぶが、月謝を払うことが出来なかったため慶應義塾で学んだ期間は短かった。
菊亭香水(きくてい こうすい、安政2年7月10日(1855年… 菊亭香水(きくてい こうすい、安政2年7月10日(1855年8月22日) - 昭和17年(1942年)2月12日)は、明治期、大正期の小説家、新聞記者。本名は佐藤蔵太郎。鶴谷外史の号もある。 豊後国国東郡佐伯(現・大分県佐伯市)にて出生。 1875年(明治8年)、大分県師範学校を卒業し、鶴谷女学校の教員をとなる。 1881年(明治14年)、上京して報知新聞社に入社。翌年『月氷寄縁 艶才春話』を刊行。 1884年(明治17年)、大阪毎朝新聞社に転じ、ついで神戸新報社に入る。 1900年(明治33年)、新聞記者を辞し、郷土史家として著述業に専念した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
伊藤 修(いとう おさむ、1855年(安政2年)-1920年… 伊藤 修(いとう おさむ、1855年(安政2年)-1920年(大正9年))は日本の弁護士。東京法学社(現・法政大学)の創立者の一人。 1855年(安政2年)、豊後国杵築藩士の子として生まれる。1877年(明治10年)に代言人試験に合格し、法学塾の「法律学舎」を開いていた元田直の下で幹事を務め、訴訟業務に従事する。 しかし1880年(明治13年)に元田と袂を分かち、同年4月金丸鉄、薩埵正邦らとともに神田区駿河台北甲賀町で東京法学社を設立する。同年12月、東京法学社が神田錦町に移転したころに元田との関係を修復する。その後も代言人業を続けたことはわかっているが詳細は不明である。 1920年(大正9年)に死去。
曜日 蒼龍(かがひ/かがい そうりゅう、安政2年(1855年… 曜日 蒼龍(かがひ/かがい そうりゅう、安政2年(1855年) - 1917年(大正6年)1月29日)は、明治時代に活動した浄土真宗本願寺派の僧侶。1889年(明治22年)にハワイに渡航し、在留日本人への開教(布教)活動を行った最初の僧侶として知られている。この活動は、本願寺派のハワイ開教の初期の例であり、また日本仏教の英語圏での開教の先駆でもあった。別号に点紅。 江戸時代幕末期の安政2年(1855年)、豊後国国東郡にある光徳寺(現在の大分県豊後高田市臼野)の長男として生まれ、西光寺(豊後高田市水崎)の住職東陽円月が開いていた「東陽学寮」に学ぶ。蒼龍と円月は縁戚関係にあり、円月は蒼龍の伯父(円月の弟の子が蒼龍)であり、さらに蒼龍は円月の娘「すず」を妻に迎えた。
清末 新郎治(きよすえ しんろうじ、1855年(安政2年5月… 清末 新郎治(きよすえ しんろうじ、1855年(安政2年5月) - 1928年(昭和3年)9月17日)は、明治から昭和時代初期の政治家、銀行家、実業家。貴族院多額納税者議員。 肥前島原藩領国東郡高田村(大分県西国東郡高田町、豊後高田町を経て現豊後高田市)に生まれる。1880年(明治13年)高田村会議員に就任したのを皮切りに、西国東郡会議員、同参事会員、同高田郵便電信局長、大分県木蝋業組合長、西国東郡農会長などを歴任する。ほか、実業家として共立高田銀行頭取、豊州製蝋社長、宇佐参宮鉄道取締役などを務めた。 1918年(大正7年)大分県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年7月20日から同年9月28日まで在任した。
中上川 彦次郎(なかみがわ ひこじろう、嘉永7年8月13日〈… 中上川 彦次郎(なかみがわ ひこじろう、嘉永7年8月13日〈1854年10月4日〉 - 1901年〈明治34年〉10月7日)は、明治時代の官吏、実業家、ジャーナリスト。三井財閥の工業化と三井銀行の不良債権処理を推進し、三井家の最高議決機関である「三井家同族会」を設置。「三井中興の祖」として高く評価されている。従五位。三井合名理事長。福澤諭吉の甥(母・婉が諭吉の姉)にあたる。三女はタレント・参議院議員の藤原あき。名字の読みは「なかかみがわ」とされたものもあるが、正しくは「なかみがわ」である。 現在の大分県中津市金谷森ノ丁に豊前中津藩士・中上川才蔵・婉夫妻の長男として生まれる。婉は福澤百助の娘で、諭吉の姉にあたる。
佐藤 庫喜(さとう くらき、1854年7月5日(安政元年6月… 佐藤 庫喜(さとう くらき、1854年7月5日(安政元年6月11日)- 1921年(大正10年)7月17日)は、明治から大正期の農業経営者、政治家。衆議院議員、大分県大分郡谷村長。 豊後国大分郡、のちの大分県大分郡谷村(挾間村、挾間町を経て現由布市挾間町)で、佐藤運喜の長男として生まれる。1867年(慶応3年)熊本藩英式練兵小隊長となる。1872年(明治5年9月)家督を相続した。農業を営む。 1873年(明治6年)保長、1876年(明治9年)戸長に就任。1889年(明治22年)町村制施行により誕生した谷村の初代村長となり1893年(明治26年)まで在任。1901年(明治34年)4代谷村長に再任され1903年(明治36年)まで務めた。
留川 一路(とめかわ いちろ、1854年3月17日(安政元年… 留川 一路(とめかわ いちろ、1854年3月17日(安政元年2月19日) - 没年不詳)は日本基督教会の牧師である。 山脇藤吉、ブンの次男として、豊前国中津(現・大分県中津市)に生まれ、留川家の養子になる。留川家の家督を継ぐ。中津藩の儒学の大久庭家塾をへて、1872年(明治5年)より、3年間藩校の修徳館で、英語と数学を学んだ。続いて、1875年(明治8年)秋にヘンリー・スタウトの塾に入り英語を学ぶ。スタウトの家庭礼拝に出て、スタウトから聖書を学ぶ。1876年(明治9年)頃スタウトの影響でキリスト教に入信し、1876年12月25日に長崎一致教会(現・日本基督教団長崎教会)でスタウトから洗礼を受ける。
箕浦 勝人(みのうら かつんど、1854年3月13日〈嘉永7… 箕浦 勝人(みのうら かつんど、1854年3月13日〈嘉永7年2月15日〉- 1929年〈昭和4年〉8月30日)は、日本の新聞記者、実業家、政治家。 豊後国臼杵で、臼杵藩の武道師範の実相寺常之丞の次男として生まれる。15歳で藩士箕浦又生の養子となる。慶應義塾出身で福澤諭吉の弟子。福澤諭吉の子孫の家庭教師を担当した。1880年(明治13年)、神戸新報(慶応義塾―交詢社系の新聞)を主筆(兵神交詢社会員、神戸商法講習所所長)として、社主安倍清誠五郎、代表三木善八(のち『郵便報知新聞』社主)、主幹鹿島 秀麿(のち兵庫県会議員をへて改進党系代議士)等と共に、創刊に関わった。郵便報知新聞社に入社し、新聞記者の後、社長となる。
野依 範治(のより はんじ、旧姓・朝吹、1854年1月29日… 野依 範治(のより はんじ、旧姓・朝吹、1854年1月29日(安政元年1月1日) - 1917年(大正6年)12月23日)は、日本の会社役員。多久鉱業、古賀山炭坑各取締役。族籍は福岡県平民。 豊前国下毛郡宮園村(現・大分県中津市耶馬溪町大字宮園)出身。朝吹泰蔵の三男。1864年に野依半七郎の養子となり、1877年に家督を相続する。会社の重役である。住所は佐賀市西田代町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
広瀬 貞文(ひろせ さだふみ、嘉永6年(1853年)9月 -… 広瀬 貞文(ひろせ さだふみ、嘉永6年(1853年)9月 - 大正3年(1914年)4月15日)は、明治・大正期の官吏、法学者、儒学者。衆議院議員(5期)、国民協会所属。号は、濠田(ごうでん)。 豊後国日田郡豆田町(現大分県日田市)に儒学者・広瀬青邨の長男として生まれる。 家塾の咸宜園で漢学を修め、朝吹英二が証人となり、明治8年(1875年)慶應義塾本科に入学し、明治11年(1878年)に本科を卒業した。在学中から碩学の士とうたわれ、刑法、治罪法などの法律学を研究。千葉県属から司法省属、大審院書記を経て内務省に入る。帰郷して、大分県教英中学校長、埼玉県尋常師範学校漢文科教授嘱託、台湾総督府事務嘱託等を歴任し、明治40年(1907年)に日田町長(四代目)に就任。
山口 半七(やまぐち はんしち、1853年2月14日(嘉永6… 山口 半七(やまぐち はんしち、1853年2月14日(嘉永6年1月7日)- 1932年(昭和7年)6月9日)は、明治期の実業家、政治家。初名は克己。 豊前国下毛郡中津(現大分県中津市)で、中津藩士・山口広江、デンの長男として生まれた。中津藩儒に学び、1869年(明治2年)慶應義塾に入る。 1873年(明治6年)朝吹英二らと慶應義塾出版局を設立。1874年(明治7年)出版局支店を山口県豊浦郡赤間関(現下関市)に設け、その他呉服店を経営した。1877年(明治10年)西南戦争勃発により戦火に巻き込まれることを恐れで帰郷した。同年、田舎新聞、鶴屋商会の経営に参画。1882年(明治15年)豊州立憲改進党の創立発起人となり、大分県会議員、同常置委員、県会議長を務めた。
須田 辰次郎(すだ たつじろう、1853年2月13日(嘉永6… 須田 辰次郎(すだ たつじろう、1853年2月13日(嘉永6年1月6日) - 1928年(昭和3年)6月23日)は、明治期の教育者。師範学校校長を歴任。 豊前国中津生まれ。藩校進脩館で学び塾長になり、慶應義塾に入り五等に進級する。1876年(明治9年)に東京師範学校(東京教育大学、筑波大学の前身)中学師範学科の嘱託教授、1879年(明治12年)より1881年(明治14年)まで同校訓導を嘱された。1882年(明治15年)時事新報に入社。1884年(明治17年)より福岡県の中学校一等教諭として豊津中学校在勤、1885年(明治18年)に福岡師範学校校長兼教諭に任じられた。翌年の学制改革に伴い、1887年(明治20年)に師範学校教育科の教員免許を正式に授与され、一時的に文部省雇として学務局兼編輯局詰を経て、1888年(明治21年)に神奈川県尋常師範学校教諭に任じられた。
小野 吉彦(おの よしひこ、1853年(嘉永5年12月)- … 小野 吉彦(おの よしひこ、1853年(嘉永5年12月)- 1908年(明治41年)3月3日)は、明治期の銀行家、政治家。衆議院議員。 豊後国大分郡、のちの大分県大分郡豊府村(大分町を経て現大分市南大分)で、小野吉郎の長男として生まれた。 大分郡会議員、同参事会員を務める。1880年(明治13年)大分県会議員に選出され、衆議院議員在任中を除き、1895年(明治28年)まで務め、この間、副議長に2度在任した。1882年(明治15年)立憲改進党の結党に設立準備委員として参画。1890年(明治23年)7月、第1回衆議院議員総選挙(大分県第1区、無所属)では落選したが、1892年(明治25年)2月の第2回総選挙(大分県第1区、弥生倶楽部(自由党))では元田肇に競り勝って当選し、その後、同志倶楽部(同志政社)に所属し衆議院議員に1期在任した。
藤田 茂吉(ふじた もきち、嘉永5年6月25日(1852年8… 藤田 茂吉(ふじた もきち、嘉永5年6月25日(1852年8月10日) - 明治25年(1892年)8月19日)は、日本の新聞記者、政治家。旧姓は林、号は鶴谷山人・九皐外史・鳴鶴居士・聞天楼主人・翠嵐生。衆議院議員。 豊後国海部郡佐伯(現在の大分県佐伯市)の城下町で佐伯藩のお抱え水主の子として生まれた。慶應義塾(現在の慶應義塾大学)出身で福澤諭吉の弟子。郵便報知新聞社に入社し、新聞の主筆となる。立憲改進党に参加。1890年(明治23年)7月、第1回衆議院議員総選挙に東京府第4区から出馬し当選。その後、第2回総選挙でも当選し、衆議院議員を通算二期務めた。 その他、日本橋区会議員、同議長、同衛生会長、東京府会議員、同区部会議長などを歴任。
野溝 甚四郎(のみぞ じんしろう、1852年8月5日〈嘉永5… 野溝 甚四郎(のみぞ じんしろう、1852年8月5日〈嘉永5年6月20日〉 - 1928年〈昭和3年〉9月24日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍歩兵大佐。正五位勲三等功四級。 特記のない場合『旧岡藩勤王家略伝』による
山崎 直胤(やまさき / やまざき なおたね、1852年7月… 山崎 直胤(やまさき / やまざき なおたね、1852年7月13日〈嘉永5年5月26日〉 - 1918年〈大正7年〉2月4日)は、明治期の官僚。内務省初代県治局長、山梨県知事(官選第6代)、三重県知事(官選第4代)、宮内省調度局長、錦鶏間祗候。旧名・賢吾。 豊前国下毛郡諫早村(現大分県中津市三光諫早)出身。山崎直高の長男として生まれる。明治3年6月(1870年)、新政府に出仕し民部省十四等出仕となる。新設の工部省に移り、明治4年9月(1871年)、造船中師に任官。 明治5年2月(1872年)、産業技術調査のためフランスへ出張。ウィーン万国博覧会事務官も務めた。1875年1月に帰国。1877年1月、太政官少書記官となり、さらに同大書記官を務める。
川村 矯一郎(かわむら きょういちろう、嘉永5年(1852年… 川村 矯一郎(かわむら きょういちろう、嘉永5年(1852年) - 明治24年(1890年)1月)は、明治時代の篤志家、自由民権運動家。静岡監獄副典獄(副刑務所長)。政治犯として入獄していた際に金原明善と出会い、後に明善とともに出所者の保護事業に参画し、近代日本における更生保護の発展に寄与した人物として知られる。 1852年(嘉永5年)、中津藩の下級武士の子として生まれる。国学者・水戸学者である渡辺重石丸が主催する私塾・道生館にて、後に国学者となる増田宋太郎らとともに学び、尊王攘夷思想を持つようになる。増田とは終生の盟友であり、明治維新後も自由民権運動に共に携わることとなる。 自由民権運動では増田とともに1874年(明治7年)に政治結社『共憂社』を創設し、1875年(明治8年)には大阪の愛国社会議にも出席していた。
伊東茂右衛門(いとう もえもん、嘉永4年(1851、1852… 伊東茂右衛門(いとう もえもん、嘉永4年(1851、1852年) - 没年不明)は、日本の著述家。号は竹山。経済学の著書が多い。 嘉永4年(1851,1852年)、豊後国速見郡立石(現・別府市)に生まれる。豊前国中津市の学校で学を修め、明治10年(1877年)に上京して福澤諭吉の書生となる。福沢は伊東の将来に期待し、あえて親しくはしなかった。 慶應義塾卒業後、諸芸に通じ、漢籍、洋書を読み、数理も得意とし、詩、和歌、絵画、俳諧などもできたが、経済学に最も長けた。生活では綿の着物を着て倹約し、数万円(当時の金額)の富を築いたという。 福沢諭吉が創刊した新聞『時事新報』の編集長で、広告の主任だった。 経済学関連の著書以外に、漢文による見聞録、詩集、和歌がある。
是恒 真楫(これつね まかじ、1851年(嘉永4年8月) -… 是恒 真楫(これつね まかじ、1851年(嘉永4年8月) - 1892年(明治25年)3月13日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(2期)。 豊前国宇佐郡畑田村(大分県宇佐郡駅館村、駅川村、駅川町を経て現宇佐市)で生まれた。白石照山に師事し漢籍を修める。京都の春日潜庵に学び、ロシア語を研究した後に帰郷。1875年(明治8年)宇佐郡に民会を設立し民権の発揚に努める。1879年(明治12年)大分県会議員に推されたがこれを断り、西国東郡長に就任する。1881年(明治14年)大蔵省に出仕し主税官となり1890年(明治23年)3月まで務めた。ほか、日本運輸会社長を務めた。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では大分県第6区から出馬し当選。
横田 国臣(よこた くにおみ、嘉永3年8月9日(1850年9… 横田 国臣(よこた くにおみ、嘉永3年8月9日(1850年9月14日) - 1923年(大正12年)2月24日)は、明治・大正時代の司法官僚、法律家。法学博士。司法次官、検事総長、大審院院長(現在の最高裁判所長官)等を歴任。法典調査会第三部長(刑法起草責任者)。和仏法律学校(現在の法政大学)校長。位階勲等は正二位勲一等。爵位は男爵。 肥前島原藩士・横田宗雄の長男として豊前国宇佐郡辻村(現在の大分県宇佐市)に生まれる。1865年、日田の咸宜園に入塾し、漢学などの各種学問を学ぶが、同期に清浦奎吾(後の内閣総理大臣)がおり親友となった。横田は清浦の力添えも得ながら出世していくことになる。 中津市学校を経て、1872年に上京し数え年23歳で慶應義塾(現在の慶應義塾大学)に入学し、1873年に清浦の斡旋で埼玉県の師範学校教諭となった。
永田 一二(ながた かずじ、1850年(嘉永3年)2月 - … 永田 一二(ながた かずじ、1850年(嘉永3年)2月 - 1897年(明治30年)1月28日)は、日本の武士(中津藩士)、自由民権運動家。 中津藩士・永田源右衛門の長男に生まれる。幼名は兼太郎。1871年(明治4年)、藩主奥平昌邁に続いて慶應義塾に入塾した。廃藩置県のため中津市学校の教員となるが、まもなく退任して義塾に戻り1875年(明治8年)卒業。1877年(明治10年)7月から高知の立志学舎に英学教師として派遣され、傍ら自由民権運動に没頭。1880年(明治13年)に愛国社に加わった。愛国志林記者、愛国新誌記者、山陽新報主筆、日本立憲政党新聞記者などを経て1882年(明治15年)には福井の杉田定一に招かれ北陸自由新聞主筆となり、1884年(明治17年)東海暁鐘新報の主筆となり、海南新聞、北陸公論、江湖新聞、東海新報、岡山日報を歴任。
江島 久米雄(えじま / えしま くめお、1850年(嘉永3… 江島 久米雄(えじま / えしま くめお、1850年(嘉永3年2月)- 1933年(昭和8年)3月18日)は、明治から大正期の政治家。衆議院議員。本名・粂雄。 豊前国宇佐郡南宇佐村(大分県宇佐郡宇佐町を経て現宇佐市南宇佐)で、農業・江島茂兵衛の長男として生まれる。1872年(明治5年)中津の白石照山塾に入り、1876年(明治9年)郡立宇佐中学校を卒業した。 連合町村会議員、所得税調査委員、宇佐郡会議員、同議長代理者などを務めた。1879年(明治12年)に上京したが、1880年(明治13年)大分県会議員に当選したため帰郷し、1894年(明治27年)まで在任。この間、1889年(明治22年)と1893年(明治26年)に県会副議長となり、同常置委員、同参事会員も務めた。
小幡 英之助(おばた えいのすけ、嘉永3年(1850年) -… 小幡 英之助(おばた えいのすけ、嘉永3年(1850年) - 1909年(明治42年)4月26日)は、日本最初の歯科医師。豊前国中津(現・大分県中津市)出身。 中津藩甲州流軍学師範役・小幡孫兵衛の長男で、慶應義塾塾長となった小幡篤次郎の従弟。 藩校・進脩館に学び、15歳で元服して藩大砲方に加わり長州戦争で初陣。1869年(明治2年)20歳で上京、叔父・小幡篤次郎を頼って芝新銭座の慶應義塾に入り、さらに同郷出身の医師・佐野諒元について医学を修め、次いで近藤良薫について横浜で外科を習得。 米国人歯科医師セント・ジョージ・エリオットから西洋式の最新歯科技術と知識を学び、1874年(明治7年)医制の公布の後、第1回目の医術開業試験に「歯科」として受験し合格した。
山中 幸義(やまなか ゆきよし、1849年3月12日(嘉永2… 山中 幸義(やまなか ゆきよし、1849年3月12日(嘉永2年2月18日)- 1899年(明治32年)3月19日)は、明治期の内務官僚、政治家。貴族院多額納税者議員。幼名・麟趾、麟司。 豊前国宇佐郡、のちの大分県宇佐郡高家村(四日市町を経て現宇佐市)で山中柳平の四男として生まれ、従兄弟・山中幸左衛門の養子となる。 漢籍を鷺海量容、広瀬林外に師事した。1868年(明治元年)澤宣嘉九州鎮撫総督が長崎に着任後、それに従い戊辰戦争に従軍した。その後、慶應義塾で学んだ。 1873年(明治6年)6月、司法省十三等出仕となり、同年7月、権少解部に就任。1874年(明治7年)3月、内務省に転じ新治県少属となる。
朝吹 英二(あさぶき えいじ、嘉永2年2月18日(1849年… 朝吹 英二(あさぶき えいじ、嘉永2年2月18日(1849年3月12日) - 大正7年(1918年)1月31日)は、日本の実業家。王子製紙取締役会長。幼名は萬吉、鐵之助。族籍は大分県平民。短期だが三井財閥のトップである三井合名会社理事長を務めたこともある。 三越社長、帝国生命保険社長を務め、千代田組を創業した朝吹常吉は息子。マリンバ奏者の朝吹英一、フランス文学者の朝吹三吉と翻訳家の朝吹登水子は孫であり(ともに常吉の子)、フランス文学者、詩人の朝吹亮二は曾孫。弟・野依範治の曾孫が2001年、ノーベル化学賞を受賞した野依良治である。中上川彦次郎は義兄にあたる。2011年度、第144回芥川賞受賞者の作家朝吹真理子は玄孫である。
黒川 文哲(くろかわ ぶんてつ、嘉永元年11月3日(1848… 黒川 文哲(くろかわ ぶんてつ、嘉永元年11月3日(1848年11月28日) - 1916年(大正5年)11月4日)は、豊後国直入郡竹田(現・大分県竹田市)出身の医師・政治家・実業家。大分の町、郡会議員、県会副議長を務めるとともに、竹田中学校や竹田駅、黒川文庫(現在の竹田市立図書館の前身)の設立に尽力する。 嘉永元年11月(西暦1848年11)、直入郡竹田(現・大分県竹田市)に黒川正章の嫡男として生まれた。黒川家は18世紀前半から続く医家(藩医)であり、文哲は黒川家の9代目に当たる。 岡藩(竹田藩)の藩校である由学館に学び、元治元年(1864年)には外科医の佐久間純徳に師事した。明治元年12月(1869年1月)には医学修行のために上京を命じられ、明治2年4月(1869年)に東京の岡藩御屋敷に入った。
橋本 雄造(はしもと ゆうぞう、1848年11月5日(嘉永元… 橋本 雄造(はしもと ゆうぞう、1848年11月5日(嘉永元年10月10日) - 1916年(大正5年)9月24日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員。 豊前国下毛郡、のちの大分県下毛郡三保村(現中津市)で、橋本又右衛門の二男として生まれる。1872年(明治5年)長崎に移り外国貿易業に従事。運輸業も営む。商号は中津屋。 1894年(明治27年)長崎県会議員に選出され、長崎市会議員、長崎商業会議所議員も務めた。1903年(明治36年)3月の第8回衆議院議員総選挙に長崎県長崎市から無所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任。 1904年(明治37年)6月、長崎県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1911年(明治44年)9月28日まで1期在任した。
三輪 光五郎(みわ みつごろう、1848年(嘉永元年) - … 三輪 光五郎(みわ みつごろう、1848年(嘉永元年) - ?)は、明治期の武士(中津藩士)、恵比寿麦酒会社(恵比寿ビール)支配人。 豊前国中津生まれ。進脩館に入り漢籍を学ぶ。1864年(元治元年)福澤諭吉と共に上京し築地福沢塾(慶應義塾)に入り洋学を修める。1866年(慶応2年)長州征伐が起こると奥平氏と同じく徳川氏に与して参戦。海軍兵学寮の教授となり英学を教授する。1876年(明治9年)東京大学医科大学の事務局に入る。のちに退職し東京府目黒村の副支配人となる。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
荘田 平五郎(しょうだ へいごろう、1847年11月8日(弘… 荘田 平五郎(しょうだ へいごろう、1847年11月8日(弘化4年10月1日) - 1922年(大正11年)4月30日)は、豊後国臼杵藩出身の明治・大正期の三菱財閥の実業家・教育者。 長崎造船所第2代所長、三菱造船所支配人等を経て、三菱合資会社理事長、日本郵船社長、会長、東京海上火災保険会社会長等三菱の要職を歴任して大番頭といわれた。海員掖済会や日本勧業銀行、満鉄等の創立にも携わり、三菱商業学校(明治義塾)校長、三菱工業予備学校所長として三菱社員の教育にあたった。勲四等旭日小綬章、賜・銀杯一組。 弘化4年(1847年)、豊後国臼杵(現・大分県臼杵市)に、百石の世禄を食む臼杵藩士の儒者・荘田雅太郎允命の長男として生まれる。
物集 高見(もずめ たかみ、弘化4年5月28日(1847年7… 物集 高見(もずめ たかみ、弘化4年5月28日(1847年7月10日) - 昭和3年(1928年)6月23日)は、明治から大正に活動した国学者。 豊後国速見郡杵築(現・大分県杵築市)に生まれる。父は国学者の物集高世で、高見はその二男三女の長男であった。幼名素太郎、後に善五郎と改める。鶯谷・菫園または埋書居士と号する。 少年時代、故郷で漢学と国学を修める。慶応元年(1866年)、長崎に出て蘭学を修める。慶応2年(1867年)に京都へ出て、玉松操に師事して国書を修める。 明治2年(1869年)に父と上京。明治3年(1870年)5月、平田銕胤の門に入り国学を修めたほか、神祇官職員の東条琴台に師事して漢学を修める。
福澤 英之助(ふくざわ えいのすけ、新字体:福沢 英之助、1… 福澤 英之助(ふくざわ えいのすけ、新字体:福沢 英之助、1847年 - 1900年)は、日本の教育者、実業家。中津藩士で、旧名は和田慎二郎(慎次郎)。江戸幕府によるイギリス留学(慶応二年幕府イギリス留学生)の際に福澤諭吉により福澤姓に改められて名を英之助とし、諭吉の実弟ではないが対外的に弟となった。東京・築地に童蒙学舎を設けたほか、横浜で貿易商を営んだ。 豊前国中津藩(現在の大分県中津市)出身。旧名は和田慎二郎(慎次郎)で、兄の和田克太郎と2人兄弟。 1863年(文久3年)初夏に慶應義塾(鉄砲洲時代)に入塾。また、文久2年4月から慶應2年10月まで福澤諭吉に従い、地理書究理書などを研究したとある。
長 冰(ちょう ひょう、弘化3年(1846年) – 明治16… 長 冰(ちょう ひょう、弘化3年(1846年) – 明治16年(1883年)11月26日)は、幕末から明治期にかけての勤皇の志士、官僚、漢詩人、画家。漢学者長三洲の弟。明治初期の学制起草に関与し、のち陸軍省御用掛を務めた人物である。諱は革。通称は綱吉・四郎・子金、号は士金・斉などを用いた。画家としては長古雪として知られる。 弘化3年(1846年)に長梅外の子として生まれる。安政3年(1856年)1月、兄・長三洲の紹介により、11歳で咸宜園に入学した。 慶應3年(1867年)には忠勇隊に属し、幕末動乱期の活動にも関与した。 明治維新後、兄・三洲とともに新政府の教育制度整備に深く関わり、明治5年(1872年)には学制起草委員の一人として『学制一覧』の編集を担当した。
到津 公誼(いとうづ きみよし、弘化2年10月18日〈184… 到津 公誼(いとうづ きみよし、弘化2年10月18日〈1845年11月17日〉 - 1901年〈明治34年〉6月22日)は、宇佐神宮大宮司などを務めた明治時代の神職、男爵、正四位。 宇佐氏の流れを汲んで代々宇佐神宮の宮司を務めていた世襲家である到津家に、当主であった到津公嘏(公蝦?)の息子として生まれる。母である到津言子は、熊本藩士の娘で、歌人でもあった。 安政2年(1855年)に初めて宇佐神宮大宮司となり、以降、長く神職を務めた。明治5年(1872年)に華族に列せられ、明治17年(1884年)に男爵となり、明治32年(1899年)には、正四位に叙された。この間、教導職では、明治5年(1872年)に権少教正に任じられ、明治12年(1879年)には少教正となり、明治17年(1884年)には職を解かれた。
水之江 浩(みずのえ ひろし、1845年6月29日(弘化2年… 水之江 浩(みずのえ ひろし、1845年6月29日(弘化2年5月25日)- 1922年(大正11年)4月11日)は、明治期の地主、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・佐藤。 豊前国宇佐郡日足村(大分県宇佐郡北馬城村、宇佐町を経て現宇佐市)に佐藤継信(楽山)の五男として生まれ、1856年6月(安政3年5月)に宇佐郡水崎村(宇佐郡封戸村を経て現豊後高田市)の素封家・水之江家43代・久衛(号・奇峰)の婿養子となる。1871年(明治4年7月)家督を相続した。 家業の製塩業を営む。養父の遺志を継いで溜池の築造を継続して耕地の拡大に尽力。また、小学校校舎の建築、道路・橋梁の整備などにも多額の寄付を行った。
浜野 定四郎(はまの さだしろう、1845年(弘化2年) -… 浜野 定四郎(はまの さだしろう、1845年(弘化2年) - 1909年(明治42年)11月14日)は、日本の教育者・英語学者・翻訳家。「慶應義塾仮憲法」制定後の初代慶應義塾長をつとめた。 1845年(弘化2年)、豊前中津藩士浜野覚三の子に生まれ、はじめは丑之助と称す。1864年(元治元年)、福澤諭吉帰郷の際、小幡篤次郎ら同藩の子弟五人とともに福澤に伴われて出府、同年6月に慶應義塾に入塾した。卒業後は教員となり、1874年(明治7年)から1878年(明治11年)までの間、中津市学校の校長として赴任した以外は一貫して慶應義塾に教鞭をとった。中津市学校の校長を辞してのち、再び義塾に戻って、1878年(明治11年)ごろから塾長の任についていたが、1881年(明治14年)1月「慶應義塾仮憲法」の制定により改めてそれにもとづいて初代慶應義塾長に選ばれた。
野尻 邦基(のじり くにもと、1843年12月11日(天保1… 野尻 邦基(のじり くにもと、1843年12月11日(天保14年10月20日)– 1910年(明治43年)8月1日)は、幕末の岡藩士、明治期の官僚、政治家。衆議院議員。旧姓・首藤。幼名・長之助、半之允。 豊後国直入郡竹田町(大分県直入郡竹田町を経て現竹田市)で、岡藩士・野尻雙馬の長男として生まれる。藩校・由学館、経武館で学び、その後、長崎に遊学した。文武に通じ、廃藩置県後は岡県の少属、大属を歴任。その後、大分県庁に出仕し、中属、権大属、大属、兼任判事、大分県属、同警部、大分郡長、直入郡長を歴任した。その後、1886年(明治19年)大蔵省御用掛に転じ、主税官、佐賀県書記官、高知県書記官を務めた。 1901年(明治34年)7月、朝倉親為の死去に伴う第6回衆議院議員総選挙大分県第3区補欠選挙で当選し(首藤邦基名義)、1904年(明治37年)3月の第9回総選挙で大分県選挙区から出馬して再選され、衆議院議員を通算2期務めた。
大井 憲太郎(おおい けんたろう、天保14年8月10日(18… 大井 憲太郎(おおい けんたろう、天保14年8月10日(1843年9月3日) - 大正11年(1922年)10月15日)は、日本の政治家、弁護士、社会運動家。自由民権運動に携わり、衆議院議員を務めた。旧姓、高並。別名、馬場城二郎、馬城山人。 天保14年8月10日(1843年9月3日)に豊前国宇佐郡高並村(現在の大分県宇佐市)に農民・高並彦郎とサノの三男として出生。幼名は彦六。幼少から漢学の手ほどきを受け、文久3年(1863年)に、長崎で蘭学・英学を学び、大井卜新との知遇を得て、義兄弟となり、大井の名字を名乗る。更に江戸に出て仏学・化学を学ぶ。江戸幕府の開成所舎密局に出仕する。戊辰戦争では幕軍砲兵隊に属し官軍と戦う。
朝倉 親為(親爲、あさくら ちかため、1843年7月12日(… 朝倉 親為(親爲、あさくら ちかため、1843年7月12日(天保14年6月15日)– 1901年(明治34年)5月9日)は、幕末の岡藩士、明治期の公吏・政治家・実業家。衆議院議員。 豊後国直入郡下木村(大分県直入郡会々村、豊岡村、竹田町、豊岡村(第二次)を経て現竹田市)で、岡藩士・朝倉親安の長男として生まれる。吟味見習を経て1865年(慶応元年)地方吟味役兼山林奉行となる。1869年(明治2年)岡藩租税司に就任。さらに郡尹補助、郡宰介、神社執事、刑法局管事、副検地司、山林司、少属などを務めた。廃藩置県により岡県が設置され、さらに大分県となり従前の事務取扱に任じられ、1872年(明治5年)大分県十四等出仕となる。
磯辺 包義(いそべ かねよし、1842年7月30日(天保13… 磯辺 包義(いそべ かねよし、1842年7月30日(天保13年6月23日) - 1917年(大正6年)6月4日)は、明治から大正時代前期の大日本帝国海軍軍人、政治家。最終階級は海軍少将。貴族院勅選議員。幼名は虎之助。 熊本藩士磯辺謙叟の長男として、豊後国大分郡鶴崎村(鶴崎町、鶴崎市を経て、現在の大分市鶴崎)に生まれる。1856年(安政3年)5月、家督を相続する。のち本籍を東京府に置いた。幼年より海軍を志し、1868年(明治元年)「摂津艦」乗組となり、翌年艦長代理に進んだ。ついで「飛龍丸」艦長を経て、1871年(明治4年)海軍大尉に進み、「千代田形」艦長となる。間もなく「第一丁卯」艦長に転じ、1873年(明治6年)「大坂丸」艦長を経て、1874年(明治7年)4月、少佐に進んだ。
小幡 篤次郎(おばた とくじろう、1842年7月15日(天保… 小幡 篤次郎(おばた とくじろう、1842年7月15日(天保13年6月8日) - 1905年(明治38年)4月16日)は、幕末の中津藩士。明治時代の政治家(貴族院議員)・教育者・思想家。慶應義塾長。小幡甚三郎の兄。号は箕田。 1842年(天保13年)、豊前国中津藩殿町(現在の大分県中津市殿町)に、中津藩家老・小幡氏の中津藩士で、供番・元締兼郡奉行を務める小幡篤蔵の次男として生まれる。幼時から父に四書五経を習い、中津藩の藩校・進脩館(しんしゅうかん) で藩儒・野本真城、野本三太郎、藩士・古宇田姑山らに就き漢学を学び、教頭となるが、1864年(元治元年)、福澤諭吉が欧州から帰朝後、中津に帰省中に中津藩士の次男・三男で家事に係累のない優秀な子弟を物色して江戸に伴って行こうと考え野本三太郎に相談したところ篤次郎を推薦したため、説得されて江戸に出ることになった。
秋月 新太郎(あきづき しんたろう、1841年9月13日(天… 秋月 新太郎(あきづき しんたろう、1841年9月13日(天保12年7月28日) - 1913年(大正2年)5月10日)は明治時代の日本の官僚、漢詩人。女子高等師範学校長、貴族院議員を務めた。号は天放。 豊後国佐伯藩(現在の大分県佐伯市)の藩儒秋月橘門の長男として生まれ、咸宜園で学んだ。1871年(明治4年)、兵部省(のち陸軍省)に出仕し、兵部大録に進んだ。西南戦争の際には征討軍団書記官として従軍し、さらに陸軍省総務局報告課長、参謀本部編纂課長、太政官少書記官、参事院議官、太政官権大書記官を歴任した。その後内務省で参事官、図書局長、大臣秘書官を歴任した。 1894年(明治27年)、女子高等師範学校校長に就任して1897年(明治30年)まで務め、文部省参事官も兼ねた。
中村 元雄(なかむら もとお、1839年10月15日(天保1… 中村 元雄(なかむら もとお、1839年10月15日(天保10年9月9日) - 1903年(明治36年)1月24日)は、日本の政治家、大蔵・内務官僚。群馬県知事、貴族院議員、錦鶏間祗候。幼名は豊作、別名は平太夫、少介。 豊後国日田出身。町年寄・中村善右衛門の子。咸宜園に入り広瀬淡窓に学んだ。明治元年(1868年)、日田県諸取調掛となり、同県大属、大分県権典事を歴任。1874年頃に大蔵省租税大属に転じ、租税寮七等出仕、大蔵省権少書記官、同権大書記官などを務めた。1886年、大蔵省主税局長に就任。 1891年4月、群馬県知事に就任。廃娼の方針を維持し、水利組合の設置や、養蚕糸業の振興に尽力した。1896年1月に知事を退任し、同年1月31日、貴族院勅選議員に任じられ死去するまで在任。
渡邊 重石丸(わたなべ いかりまろ、天保8年11月15日(1… 渡邊 重石丸(わたなべ いかりまろ、天保8年11月15日(1837年12月12日) - 大正4年(1915年)10月19日)は、幕末の中津藩士、国学者、神道学者。明治初年には新政府の神道政策を担当し、大日本帝国陸軍将軍の乃木希典が師事したことで知られている。蘭学者の福澤諭吉と国学者の増田宋太郎は共に縁戚に当たる。号は鶯栖園隠士、捫虱庵主人、通称は鉄太郎。 1837年(天保8年)、豊前国中津藩の神官の家に生まれた。藩校の進脩館に入り、藩儒の野本白巌や手島物斎に漢学を学んだ。安政4年(1857年)には中津藩において子弟に国学を教授し、元治元年(1864年)にこの私塾を「道生館」 と命名した。慶応3年(1867年)には平田篤胤の思想を取り入れて、後嗣の平田銕胤に入門して没後の門人となった。
南 一郎平(みなみ いちろべえ、1836年(天保7年5月22… 南 一郎平(みなみ いちろべえ、1836年(天保7年5月22日) - 1919年(大正8年)5月13日)は、日本の建設事業者、建設指導者、実業家である。晩年は南 尚(みなみ ひさし)と改名した。豊前国宇佐郡金屋(現・大分県宇佐市)出身。 幕末から明治にかけて、大分県の広瀬井手(広瀬井路)、高森水路を開発。その後明治政府の水利開墾事業に従事し、全国の水利土木工事にあたった。とくに日本三大疏水とされる安積疏水(福島県)、琵琶湖疏水(滋賀県 ‐ 京都府)、那須疏水(栃木県)の開発や月居トンネル工事(茨城県)に取り組んでいる。疏水工事のなかで、特にトンネル工事で経験を積み、この経験を生かして、後にトンネル工事を専門とする「現業社」を創設した。
麻生 武平(あそう たけへい、天保6年(1835年) - 明… 麻生 武平(あそう たけへい、天保6年(1835年) - 明治40年(1907年)4月27日)は、明治時代の日本の教育者、海軍軍人。最終階級は海軍機関大佐。旧名弼吉。 明治前半期に海軍操練所、海軍兵学寮、海軍兵学校、海軍機関学校で機関官養成にたずさわり、10年にわたり機関学校の事実上の校務責任者である校長心得および次長を務めた。 豊前国宇佐神宮社司に生まれる。 元治2年(1865年)4月に慶應義塾に入塾。1869年(明治2年)に出版された『奇機新話』(西洋の機械の紹介)など科学技術の啓蒙書や理科教科書を福沢・小幡などと共に数多く執筆。同年、海軍操練所に出仕し、海軍兵学中教授を経て海軍省六等出仕となり、海軍始に明治天皇が行幸した時に「ピョートル大帝海軍創立ノ事」と題する御前講演を行った。
島 惟精(しま いせい、天保5年4月1日〈1834年5月9日… 島 惟精(しま いせい、天保5年4月1日〈1834年5月9日〉 - 1886年〈明治19年〉5月11日)は、幕末の府内藩士、明治期の内務官僚、政治家。初代岩手県令、元老院議官。通称は唯蔵。 豊後国大分郡千歳(現大分市)において延岡藩代官・阿南胖助の二男として生まれ、府内藩医・安東芳庵の養子となり、のち島姓を名乗った。佐藤龍之進に漢学を学び、広瀬淡窓、塩谷宕陰の塾に入る。さらに昌平黌で学ぶ。京都で志士と交わるなどして帰郷し、藩校遊焉館(大分市立荷揚町小学校の前身)の儒官となる。勤王論者として活動したため、幕府に捕えられ入獄した。その後、脱獄して藩政顧問となり、府内藩の藩論を勤皇に統一することに貢献した。
元田 直(もとだ なおし、1834年4月13日(天保5年3月… 元田 直(もとだ なおし、1834年4月13日(天保5年3月5日) - 1916年(大正5年)3月4日)は、日本の儒学者・法学者・法律家・教育者。東京代言人組合(現・東京弁護士会)会長、東京府尋常師範学校校長、東京法学社(現・法政大学)の創立者の一人。 1834年(天保5年)、豊後国杵築藩(現在の大分県杵築市)に儒学者元田竹渓の長子として生まれる。維新の際に、藩主の嫡子松平親貴に従って京都に上り、参与広沢真臣に知遇を得て内国事務局書記に任ぜられる。度会府判事に就任し、度会府廃止後に太政官に入り、太政官記録取調掛に任ぜられ、箕作麟祥とともにフランス民法を審議する。 1874年(明治7年)に東京神田に法学塾の「法律学舎」を開設し、フランス法を講授する。