又吉 康助(またよし こうすけ、1921年〈大正10年〉5月… 又吉 康助(またよし こうすけ、1921年〈大正10年〉5月1日 - 2004年〈平成16年〉4月8日)は、日本の陸軍軍人、陸上自衛官。最終階級は陸軍大尉(大日本帝国陸軍)、陸将補(陸上自衛隊)。初代自衛隊沖縄地方連絡部長。 初代沖縄県知事屋良朝苗の教え子であり、沖縄返還の際に政府・自衛隊・沖縄県の交渉に関わった。 沖縄県読谷村生まれ。旧制沖縄県立第二中学校(現・沖縄県立那覇高等学校)では陸軍特攻隊の伊舎堂用久中佐と同窓。1941年8月、陸軍士官学校(55期)卒業。歩兵第130連隊(高田)、仙台、得撫島守備を経て、独立混成第101旅団司令部付。 終戦後、知念高校教諭を務める。1955年、陸上自衛隊入隊。
伊舎堂 用久(いしゃどう ようきゅう、1920年〈大正9年〉… 伊舎堂 用久(いしゃどう ようきゅう、1920年〈大正9年〉6月12日 - 1945年〈昭和20年〉3月26日)は、日本の陸軍軍人。沖縄戦の陸軍特攻第一号。最終階級は陸軍中佐。石垣島出身。 沖縄県石垣島登野城出身。父・伊舎堂用和は公務員で教育熱心であった。日清戦争、日露戦争に従軍、石垣島出身で初の金鵄勲章を受けている。父の宮古島への赴任 (裁判所勤務) に伴い旧制沖縄県立宮古中学校に入学、翌年再び父の転勤で那覇に戻り沖縄県立第二中学校に転校、同窓に、後に初代自衛隊沖縄地方連絡部長となる又吉康助がいる。その後陸軍予科士官学校入学。1941年(昭和16年)7月、陸軍士官学校卒業。伊舍堂は歩兵を希望していたが、陸軍の航空隊の増設方針で転科を余儀なくされたという。
当山 全信(とうやま ぜんしん、1910年(明治43年) -… 当山 全信(とうやま ぜんしん、1910年(明治43年) - 1945年(昭和20年)1月23日)は、日本の海軍軍人。「伊48」潜水艦長として「回天」作戦中、米駆逐艦に乗艦を撃沈され戦死した。最終階級は海軍中佐。 沖縄県の出身である。沖縄一中を経て1931年(昭和6年)11月、海軍兵学校(59期)を123名中32番の席次で卒業。運動神経に恵まれ、柔道は三段である。当山は潜水艦専攻士官となり、潜水学校甲種を卒業して潜水艦長を歴任する。「伊169」、「伊38」潜水艦長として歴戦し、「伊48」艤装員長となる。同艦は竣工後に第六艦隊に編入となり、1945年(昭和20年)1月8日、回天特別攻撃隊金剛隊として4隻の「回天」を載せ出撃した。
稲嶺 一郎(いなみね いちろう、1905年9月23日 - 1… 稲嶺 一郎(いなみね いちろう、1905年9月23日 - 1989年6月19日)は、日本の政治家・実業家・軍人。沖縄県国頭郡本部村出身。元沖縄県知事稲嶺惠一の父。
親泊 朝省(おやどまり ちょうせい、1903年(明治36年)… 親泊 朝省(おやどまり ちょうせい、1903年(明治36年)9月18日 - 1945年(昭和20年)9月2日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。沖縄県出身。大本営陸軍部報道部部長、内閣情報局情報官。 1903年(明治36年)9月18日、沖縄県に父・親泊朝擢と母・ウシの間に生まれる。浦添朝満(尚維衡)の後裔に当たる。親泊朝晋は弟。 沖縄県立第一中学校、熊本陸軍地方幼年学校(1918年入学)を経て、1925年陸軍士官学校騎兵科首席卒業(1921年入学、37期)。37期の同期に加藤建夫、山縣有光、毛利元道、井本熊男、杉田一次、種村佐孝、大蔵栄一、村中孝次など。 1928年、陸軍中尉。1931年の満州事変の際には古賀伝太郎中佐の下、騎兵第27連隊第1中隊第3小隊長として出陣。
渡名喜 守定(となき しゅてい、1902年2月5日 - 19… 渡名喜 守定(となき しゅてい、1902年2月5日 - 1993年2月1日)は、日本の海軍軍人。
長嶺 亀助(ながみね かめすけ、1884年(明治17年)5月… 長嶺 亀助(ながみね かめすけ、1884年(明治17年)5月1日 - 1975年(昭和50年)10月21日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍少将。 沖縄県(旧小禄村當間)出身。農業・長嶺松助の孫として生れる。小禄尋常小学校、那覇尋常高等小学校、沖縄第一中学校(現沖縄県立首里高等学校)を経て、1905年(明治38年)11月、陸軍士官学校(第18期)を卒業。翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第24連隊付となる。歩兵第24連隊大隊副官などを経て、1916年(大正5年)11月、陸軍大学校(第28期)を卒業し歩兵第24連隊中隊長に就任。 1917年(大正6年)12月、参謀本部付勤務となり、1918年(大正7年)2月、中国出張を命ぜられ、同年9月から1920年(大正9年)7月までイリに滞在し、同年12月、北京に到着した。
漢那 憲和(かんな けんわ、1877年(明治10年)9月6日… 漢那 憲和(かんな けんわ、1877年(明治10年)9月6日 - 1950年(昭和25年)7月29日)は、日本の海軍軍人、政治家。衆議院議員、平沼内閣内務政務次官。最終階級は海軍少将。海軍兵学校27期卒。沖縄県出身。 大正年間に当時の皇太子(昭和天皇)の欧州遊学の際、御召艦「香取」の艦長を務めた事で知られる。退役後は地元の沖縄県から選出され、衆議院議員となった。戦前最後の沖縄県選出議員の一人である。 1877年(明治10年)、漢那憲慎・オトの長男として琉球国那覇西村(現・沖縄県那覇市西)に生まれる。先祖は福州との貿易に従事していた。 1892年(明治25年)、沖縄県尋常中学校(後の沖縄県立第一中学校、現在の沖縄県立首里高等学校)に入学。
屋部 憲通(やぶ けんつう、1866年10月31日(尚泰王1… 屋部 憲通(やぶ けんつう、1866年10月31日(尚泰王19年9月23日) - 1937年(昭和12年)8月27日)は、戦前活躍した沖縄県の唐手家で陸軍軍人。最終階級は陸軍中尉。松村宗棍に師事した首里手の大家で松茂良興作、糸洲安恒にも師事した。 1866年(尚泰19年、慶応2年)、屋部憲通は首里山川村(ヤマガー)(現・那覇市首里山川町)に生まれた。隣家が松村宗棍宅であり幼少の頃から松村に唐手を師事した。屋部は松村死去後は同門で兄弟子の糸洲安恒の門下となった。屋部は他にも本部朝勇、本部朝基とともに泊手の松茂良興作に師事し変手を磨いた。 1890年(明治23年)、屋部は沖縄県立第一中学校(現・沖縄県立首里高等学校)を中退して陸軍教導団に志願入団した。