吉田 茂(よしだ しげる、1885年〈明治18年〉9月2日 … 吉田 茂(よしだ しげる、1885年〈明治18年〉9月2日 - 1954年〈昭和29年〉12月9日)は、昭和時代の内務官僚、政治家。貴族院議員。 岡田内閣の内閣書記官長、米内内閣と小磯内閣で閣僚を務めた。「新官僚」。戦後、神社本庁設立に関わる。同時期に公職追放にあう。 同時代の外務官僚で、戦後に内閣総理大臣を務めた吉田茂は同姓同名の別人。(#同姓同名参照) 大分県臼杵町海添(現在の臼杵市)生まれ。大分県士族・吉田亀次郎の長男。父親の亀次郎が二十三銀行(大分銀行の前進)に勤めた関係で大分に移り、ついで日本銀行に勤務する事になり、東京に移り住み、旧制東京府立第四中学校(現在の東京都立戸山高等学校)、第一高等学校を経て、1911年に東京帝国大学法科大学独法科を卒業。
菊沢 季麿(きくざわ すえまろ、1885年(明治18年)9月… 菊沢 季麿(きくざわ すえまろ、1885年(明治18年)9月1日 - 1936年(昭和11年)11月20日)は、日本の文部官僚。旧制浦和高等学校校長。 滋賀県に華房誓因の四男として生まれ、菊沢保孝の養子となった。1913年(大正2年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格した。鳥取県理事官、東北帝国大学事務官、文部事務官、同書記官・東京帝国大学書記官兼秘書官、文部省宗教局長・大臣官房秘書課長を歴任した後、浦和高等学校校長となった。
小西 恭介(こにし きょうすけ、1885年(明治18年)9月… 小西 恭介(こにし きょうすけ、1885年(明治18年)9月 - 没年不詳)は、台湾総督府官僚、朝鮮総督府官僚。弁護士。 京都府出身。1910年(明治43年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格した。台湾総督府専売局事務官となり、1913年(大正12年)に欧米に出張した。帰国後、台湾総督府税関事務官・基隆支署長、民政部土木局庶務課長を歴任。1923年(大正12年)、朝鮮に渡って釜山府尹に転じ、さらに江原道内務部長、鉄道局参事を歴任した。1929年(昭和4年)に退官したが、1934年(昭和9年)に朝鮮総督府嘱託となり、在外朝鮮人の保護事務を担当した。 また弁護士を開業し、釜山製氷冷蔵株式会社常任取締役、満洲生活必需品株式会社釜山事務所長、満州国消費組合専務理事を務めた。
清水 収吉(しみず しゅうきち、1885年(明治18年)8月… 清水 収吉(しみず しゅうきち、1885年(明治18年)8月 - 1967年(昭和42年)8月5日)は、明治末期から昭和にかけて活動した日本の官僚、実業家。逓信官僚から実業界に転じて東邦電力副社長や四国配電社長を務めた。岐阜県出身。 清水収吉は、1885年(明治18年)8月、岐阜県の田中清兵衛の次男として生まれた。1906年(明治39年)7月東京の第一高等学校第一部英法科を卒業。次いで1910年(明治43年)7月東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した。その後清水やすの養子となり、清水家を相続する。 大学卒業後はただちに逓信省へ入省した。同年の文官高等試験に合格し、翌1911年(明治44年)12月高等官に叙され逓信管理局事務官補に任ぜられる。
林 茂樹(はやし しげき、1885年(明治18年)8月 - … 林 茂樹(はやし しげき、1885年(明治18年)8月 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 広島県比婆郡東城町(現在の庄原市)出身。1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格。朝鮮総督府試補、財務局司計課長、専売局製造課長、鉄道局経理課長を歴任した。1929年(昭和4年)、全羅北道知事となり、のち慶尚北道知事に転じた。1931年(昭和6年)に学務局長に就任し、1933年(昭和8年)に退官した。 退官後は、朝鮮殖産銀行理事、朝鮮米穀倉庫株式会社取締役、朝鮮火災海上保険株式会社取締役、漢城銀行頭取、京春鉄道株式会社社長などを務めた。
太田 吾一(おおた ごいち、1885年(明治18年)7月 -… 太田 吾一(おおた ごいち、1885年(明治18年)7月 - 没年不詳)は、台湾総督府官僚。弁護士。台北市尹、高雄州知事、台中州知事。 静岡県出身。旧制浜松中学、第六高等学校を経て、1910年(明治43年)に東京帝国大学法科大学法律科を卒業し、文部属となった。1913年(大正2年)、高等文官試験に合格し、静岡県小笠郡長、同周智郡長を務めた。その後、台湾総督府に転じ、台北州内務部教育課長、新竹州警務部長、台北市尹、高雄州知事、台中州知事を歴任した。 退官後の1933年(昭和8年)に弁護士を開業するが、後にやめて大日本聯合婦人会総務部長、満洲製糖株式会社参事を務めた。
成瀬 達(なるせ たつ、1885年6月28日 - 1951年… 成瀬 達(なるせ たつ、1885年6月28日 - 1951年8月16日)は、日本の官僚・実業家。成瀬隆蔵の長男。貴族院書記官長を経て第4代の日本生命社長となった。 1909年に東京帝国大学政治科を卒業して農商務省に入る。その後、1926年7月23日から1931年12月5日まで貴族院書記官長を務めた。翌1932年、日本生命の常務取締役に迎えられるが、1936年3月に創業家出身の第3代社長の弘世助太郎社長が急逝したため社長代行に就任、1937年には会長の山口吉郎兵衛も辞任したため、同年2月の株主総会・取締役会によって佐々木駒之助新会長と共に新社長に選任された。以降、戦時下を通じて社長の地位にあり、生命保険協会理事長会長などを歴任したが、太平洋戦争終結後の1946年12月に戦時中への国策協力を理由に公職追放令の適用に先立って社長と生命保険協会理事長会長を退任、翌1947年8月に正式に公職追放処分を受けた。
浅田 恵一(あさだ けいいち、1885年(明治18年)6月1… 浅田 恵一(あさだ けいいち、1885年(明治18年)6月17日 - 1944年(昭和19年)12月18日)は、日本の宮内官僚。宮中顧問官。 大阪府中河内郡孔舎衙村(現在の東大阪市)出身。1911年(明治44年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。大蔵省に入り、専売局勤務、理財局勤務、主税局勤務を経て、板橋税務署長を務めた。その後、宮内省に転じ、宮内事務官から同参事官、同書記官を務め、帝室林野局事務官・同庶務課長、内蔵寮財務課長・同主計課長から宮内省首席参事官に転じた 。1936年(昭和11年)、宮中顧問官となり、翌年に退官した。短歌の結社「華陽会」に加わり、#会報に投句した。 退官後は日本郵船株式会社監査役を務めた。
小山 三郎(こやま さぶろう、1885年(明治18年)6月 … 小山 三郎(こやま さぶろう、1885年(明治18年)6月 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。 熊本県出身。1911年(明治44年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、1913年(大正2年)に高等文官試験に合格した。台湾総督府事務官、台中庁事務官、台湾総督府州警視、警視庁警視、樺太庁警察部長、長崎県書記官・学務部長、栃木県書記官・学務部長を歴任し、1935年(昭和10年)に退官した。 退官後は佐世保市助役を務めた。
岡崎 哲郎(おかざき てつろう、1885年(明治18年)5月… 岡崎 哲郎(おかざき てつろう、1885年(明治18年)5月23日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 宮城県出身。1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、翌年に高等文官試験に合格した。栃木県塩谷郡長。同理事官を務めた。1919年(大正8年)、朝鮮総督府事務官に転じ、平安南道財務部長、殖産局水産課長、同山林課長、総督官房会計課長、専売局製造課長、殖産局商工課長、全羅南道内務部長、慶尚北道内務部長、朝鮮総督府山林部長を歴任。1931年(昭和6年)、忠清南道知事となり、1935年(昭和10年)に慶尚北道知事に転じた。 1936年(昭和11年)に退官した後は日本赤十字社朝鮮本部常務副総長を務め、1939年(昭和14年)に退任。
神田 純一(かんだ じゅんいち、1885年〈明治18年〉5月… 神田 純一(かんだ じゅんいち、1885年〈明治18年〉5月 - 1969年〈昭和44年〉2月27日)は、日本の朝鮮総督府・内務官僚、実業家。官選鳥取県知事。 山口県出身。神田柳助の長男として生まれる。第六高等学校を卒業。1911年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1912年11月、文官高等試験行政科試験に合格。朝鮮総督府に入府し内務部試補となる。 以後、朝鮮総督府事務官、同書記官、長崎県理事官、陸軍省航空局書記官、関東庁内務局長、大連民政署長などを歴任。 1930年8月26日、鳥取県知事に就任。県財政の健全化のため緊縮政策を推進した。1931年12月18日、知事を休職。1932年1月29日、依願免本官となり退官した。
杉野 繁(すぎの しげる、1885年(明治18年)5月 - … 杉野 繁(すぎの しげる、1885年(明治18年)5月 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。弁護士。 東京府出身。1910年(明治43年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、同年に高等文官試験に合格した。鹿児島県属、同警視、同理事官、岡山県理事官、同視学官を経て、1919年(大正8年)に福井県警察部長・港務部長、1921年(大正10年)に三重県警察部長、1923年(大正12年)に群馬県内務部長、1924年(大正13年)に栃木県内務部長を務めた。 退官後は、神戸市助役、同電気局長を務めた。1942年(昭和17年)からは関西配電株式会社理事・神戸支店長に就任した。
正力 松太郎(しょうりき まつたろう、1885年〈明治18年… 正力 松太郎(しょうりき まつたろう、1885年〈明治18年〉4月11日 - 1969年〈昭和44年〉10月9日)は、日本の警察官・内務官僚、実業家、政治家。読売新聞社主、日本テレビ放送網代表取締役社長、読売テレビ放送会長、日本武道館会長などを歴任した。 読売新聞社の経営者として、同新聞の部数拡大に成功し、読売中興の祖として大正力(だいしょうりき)と呼ばれている。 読売ジャイアンツ(巨人)の初代オーナーとして、戦後の日本のプロ野球の発展に貢献したためにプロ野球の父と呼ばれる。日本テレビを創立し、テレビの普及や発展に貢献したためにテレビ放送の父と呼ばれる。また、原子力発電の推進にも貢献したために原子力の父とも呼ばれる。
藤岡 兵一(ふじおか ひょういち、1885年〈明治18年〉4… 藤岡 兵一(ふじおか ひょういち、1885年〈明治18年〉4月2日 - 1957年〈昭和32年〉1月5日)は、日本の内務・警察官僚。政友会系官選県知事、浜松市長。 石川県出身。藤岡明郷の長男として生まれる。第四高等学校を卒業。1909年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し岐阜県属となる。 以後、岐阜県事務官、山口県事務官、同理事官、静岡県理事官、鳥取県警察部長、群馬県警察部長、宮城県警察部長、広島県警察部長、内務事務官兼内務書記官などを歴任。 大正12年(1923年)9月、高知県知事に就任。在任中の同年12月5日、高知城公園内の板垣退助銅像が建立され、退助令孫・板垣守正の手により除幕されている。
田中 千吉(たなか せんきち、1885年(明治18年)3月 … 田中 千吉(たなか せんきち、1885年(明治18年)3月 - 没年不詳)は、関東庁官僚。大連市長。 東京府出身。1910年(明治43年)、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。警視庁に入り、富坂警察署長、青山警察署長、三田警察署長を務めた。1913年(大正2年)、関東都督府秘書官に転じ、文書課長、地方課長、殖産課長を歴任。1923年(大正12年)、関東庁参事官・事務官となり、翌年に大連民政署長となった。 1930年(昭和5年)、大連市長に就任。退任後は、大連株式取引所理事長、大連商工会議所副会頭、大連市会議員、大連証券信託株式会社相談役などを務めた。
青木 得三 (あおき とくぞう、1885年2月26日 - 1… 青木 得三 (あおき とくぞう、1885年2月26日 - 1968年7月31日) は、日本の大蔵官僚・経済学者。専門は財政学。経済学博士(1957年)。秋田県南秋田郡秋田町(現・秋田市)生まれ、東京帝国大学法科大学首席卒業。 1885年(明治18年)2月26日 (戸籍上は3月26日)、秋田県南秋田郡秋田町中島中丁にて出生。父青木定謙は角館町出身の官吏で、少年時代は父の転勤に伴って転居を繰り返した。旧制和歌山中学(現 和歌山県立桐蔭中学校・高等学校)から旧制新潟中学校(現 新潟県立新潟高等学校)に転入し、 旧制第一高等学校(旧制一高)を経て1909年(明治42年)東京帝国大学法科大学を首席で卒業した。
猪俣 喜藤(いのまた きふじ、1885年〈明治18年〉2月1… 猪俣 喜藤(いのまた きふじ、1885年〈明治18年〉2月13日 - 1964年〈昭和39年〉4月30日)は、日本の内務官僚。大分県東国東郡国東町長。 大分県東国東郡北江村(国崎村、国東町を経て現国東市)出身。1912年(明治45年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した 。逓信管理局書記、秋田県属、同河辺郡長、広島県佐伯郡長、鹿児島県理事官を経て、宮城県書記官・学務部長、石川県書記官・学務部長を経て、1929年(昭和4年)に福岡県書記官・学務部長に就任した。 1931年(昭和6年)に退官した後は、別府市、岡山市、尼崎市の助役を歴任した。1945年(昭和20年)6月には帰郷し、公選初代国東町長に当選した。
塩川 正蔵(正藏、しおかわ しょうぞう、1885年(明治18… 塩川 正蔵(正藏、しおかわ しょうぞう、1885年(明治18年)2月1日 - 1952年(昭和27年)12月1日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、内務官僚。弁護士。 静岡県富士郡大宮町(現在の富士宮市)出身。1913年(大正2年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。高等文官試験に合格し、静岡県警部、同保安課長、岡山県後月郡長、同吉備郡長、同小田郡長、同水産課長を歴任した。1921年(大正10年)、東京市主事となり、商工課長、土木局庶務課長などを務めた。さらに麻布区長、本郷区長、京橋区長を歴任し、1935年(昭和10年)に東京市理事に就任した。退職後は弁護士を開業した。 1937年(昭和12年)、第20回衆議院議員総選挙に静岡2区から立憲政友会で出馬し、当選を果たした。
大島 忠康(おおしま ただやす、1885年(明治18年)1月… 大島 忠康(おおしま ただやす、1885年(明治18年)1月28日 - 1964年(昭和39年)4月1日)は、日本の鉄道官僚。樺太庁豊原市長。 富山県下新川郡道下村(現在の魚津市)出身。1913年(大正2年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業して、高等文官試験に合格した。鉄道院書記、同参事補、同参事、鉄道省参事を務め、仙台鉄道局庶務課長、札幌鉄道局教習所長、室蘭運輸事務所長を歴任した。1930年(昭和5年)に樺太庁鉄道事務所長に就任した。 退官後、富山県で弁護士を開業し、1940年(昭和15年)には魚津町(現在の魚津市)の町長に就任した。 1942年、豊原市長に就任。終戦後はソ連軍との折衝に尽力し、1947年(昭和22年)に引き揚げた。
吉田 浩(よしだ こう、1885年(明治18年)1月18日 … 吉田 浩(よしだ こう、1885年(明治18年)1月18日 - 1963年(昭和38年)4月7日)は、日本の鉄道官僚。朝鮮総督府官僚。 福島県出身。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格。鉄道院書記、同副参事、同参事、鉄道局参事、鉄道書記官・運輸局貨物課長、門司鉄道局長、東京鉄道局長を歴任した。その後、朝鮮総督府鉄道局長を務めた。 1938年(昭和13年)に退官し、華北交通株式会社監事、北支那開発株式会社理事を経て、1942年(昭和17年)より鉄道軌道統制会理事長を務めた。戦後は、日本交通協会長、鉄道弘済会顧問を務めた。
池田 繁治(いけだ しげじ、1885年(明治18年)1月15… 池田 繁治(いけだ しげじ、1885年(明治18年)1月15日 - 1956年(昭和31年)8月15日[要出典])は、日本の内務官僚。弁護士。 新潟県出身。1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、高等文官試験に合格。山形県西村山郡長、同牡鹿郡長、同理事官、群馬県理事官、愛知県理事官、同事務官、北海道庁書記官・学務部長、高知県警察部長、和歌山県警察部長、福島県内務部長、長野県学務部長を歴任した。 退官後は台北女子高等学院院長、姫路市助役を経て、弁護士を開業した。
山下 謙一(やました けんいち、1885年1月14日 - 1… 山下 謙一(やました けんいち、1885年1月14日 - 1951年6月27日)は、日本の内務官僚。官選県知事。 佐賀県出身。山下範左衛門の長男として生まれる。第五高等学校を経て、1910年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1911年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1912年、内務省に入り千葉県属となる。 以後、千葉県印旛郡長、朝鮮総督府忠清北道事務官・内務部長、岡山県書記官・内務部長、徳島県書記官・内務部長、千葉県書記官・内務部長などを歴任。 1928年5月、徳島県知事に就任し、1929年7月まで在任。その後、1931年12月、熊本県知事に着任。1932年6月28日、知事を休職となる。
井上 清(いのうえ きよし、1885年(明治18年)1月6日… 井上 清(いのうえ きよし、1885年(明治18年)1月6日 - 没年不詳)は、朝鮮総督府官僚。 東京府東京市牛込区(現在の東京都新宿区)に伊藤正誼の四男として生まれ、井上周富の養子となった。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した。朝鮮総督府臨時土地調査局監査官、忠清南道第二部長、咸鏡北道第一部長、財務局税務課長、咸鏡南道内務部長、京畿道内務部長を歴任した。1929年(昭和4年)より朝鮮煙草元売捌株式会社専務取締役、同社長を務めるが、1931年(昭和6年)に京城府尹に任命された。1933年(昭和8年)には逓信局長に就任した。 1936年(昭和11年)に退官した後は、南朝鮮水力電気株式会社社長、朝鮮電力株式会社専務取締役などを務めた。
鶴見 祐輔(つるみ ゆうすけ、1885年〈明治8年〉1月3日… 鶴見 祐輔(つるみ ゆうすけ、1885年〈明治8年〉1月3日 - 1973年〈昭和48年〉11月1日)は、大正時代から昭和時代にかけての日本の官僚、政治家、著述家。衆議院議員(4期)、参議院議員(1期)、厚生大臣。 英語を得意とし、第二次世界大戦にかけて米国の対日世論が厳しくなる時期に、現地での講演や出版などを通じて民間外交に尽力した。 1885年(明治8年)1月3日、群馬県多野郡新町(現・高崎市新町)で、官営新町紡績所の工場長をしていた父・良憲と、母・琴子の次男、10人きょうだいの第四子として生まれる。一家は1895(明治28年)年9月に東京市赤坂へ、翌1896(明治29年)年1月に父の郷里である岡山県へ転居した。
福永 尊介(ふくなが たかすけ、1885年〈明治18年〉1月… 福永 尊介(ふくなが たかすけ、1885年〈明治18年〉1月2日 - 1929年〈昭和4年〉1月30日)は、日本の内務官僚。県知事。 北海道厚岸郡太田村で福永磨理輔の長男として生まれる。山口高等学校を経て、1908年、東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。1909年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入り樺太庁属となる。 以後、樺太庁事務官、同理事官兼専売局副参事(函館専売支局樺太出張所長)、青森県理事官、和歌山県警察部長、警視庁衛生部長、東京府内務部長などを歴任。 1924年6月、清浦内閣により福井県知事に登用されたが、翌月、加藤高明内閣により更迭された。1927年5月、千葉県知事に就任。
上原 種美(うえはら たねよし、1885年(明治18年)1月… 上原 種美(うえはら たねよし、1885年(明治18年)1月1日 - 1950年(昭和25年)10月30日)は、日本の教育者、文部官僚。 山梨県出身。1909年(明治42年)、東京帝国大学農科大学を卒業。農商務省嘱託、文部属、文部省督学官、同図書官、同事務官、実業学務局農業教育課長などを歴任し、その間東京高等師範学校教授を兼ねた。1921年(大正10年)、三重高等農林学校校長に就任し、1939年(昭和14年)には東京農業教育専門学校校長となった。戦後の1946年(昭和21年)から霞ヶ浦農科大学学長を務めた。 その他、日本農業教育会会長、大日本教育会副会長、全国学農連盟副会長、実業教育振興会理事長、日本青年館理事などを務めた。
岩本 俊郷(いわもと としさと、1884年(明治17年)12… 岩本 俊郷(いわもと としさと、1884年(明治17年)12月31日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。兵庫県伊丹町(現在の伊丹市)町長。 兵庫県出身。1912年(明治45年)、東京帝国大学法学部独法科を卒業し、1915年(大正4年)に高等文官試験に合格した。群馬県属、同佐波郡長、同商工課長、香川県商工課長、同水産課長、同学務課長、広島県学務課長、同農務課長、新潟県学務部長、樺太庁警察部長、北海道庁学務部長を歴任した。 その後、共盛無尽取締役、尼崎市助役を経て、伊丹町長に就任した。
土居 通次(どい みちつぐ、1884年(明治17年)12月2… 土居 通次(どい みちつぐ、1884年(明治17年)12月22日 - 1952年(昭和27年)1月23日)は、日本の内務・警察官僚、政治家。官選徳島県知事、室蘭市長。 堺県堺区(現・大阪府堺市堺区)で土居栄十郎の長男として生まれる。その後、北海道に移り、北海道庁立札幌中学校を卒業。第二高等学校文科を経て、1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学法律学科 (独法)(現・東京大学法学部)を卒業。1913年(大正2年)11月、文官高等試験に合格。内務省に入省し宮城県属となる。 以後、宮城県柴田郡長、同遠田郡長、同牡鹿郡長、茨城県理事官、高知県警察部長、熊本県警察部長、佐賀県警察部長、島根県書記官・内務部長、群馬県書記官・内務部長、福井県書記官・内務部長、滋賀県書記官・内務部長などを歴任。
富田 松彦(とみた まつひこ、1884年(明治17年)12月… 富田 松彦(とみた まつひこ、1884年(明治17年)12月20日 - 1930年(昭和5年)10月24日)は、日本の大蔵官僚。台湾総督府官僚。 福島県出身。1910年(明治43年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した。大蔵省理財局銀行課勤務、司税官、亀戸税務署長、広島税務監督局事務官、大蔵事務官、専売局副参事を務めた。1921年(大正10年)、台湾総督府に転じて財務局主計課長となり、1926年(大正15年)に財務局長に就任した。
白上 佑吉(しらかみ ゆうきち、1884年(明治17年)12… 白上 佑吉(しらかみ ゆうきち、1884年(明治17年)12月19日 - 1965年(昭和40年)1月24日)は、日本の内務及び警察官僚。官選県知事。旧姓は林。陸軍大臣や首相を務めた林銑十郎は実兄。 石川県出身。父、石川県士族・林孜々郎が富山県礪波郡首席書記の時に、同郡出町(現砺波市)で三男として生まれる。その後、父の上司(郡長)で後に山口県警部長となった白上俊一の養子となる。第四高等学校を卒業。1910年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し警視庁警部・第一部警務課勤務となる。 1910年12月、警視総監官房文書課審査係長兼高等課外事係長に就任。
高武 公美(こうたけ まさよし、1884年(明治17年)12… 高武 公美(こうたけ まさよし、1884年(明治17年)12月5日 - 1943年(昭和18年)5月3日)は、朝鮮総督府官僚。福岡市助役。玄洋社社員。 福岡県宗像郡在自村(現在の福津市)出身。1904年(明治37年)、福岡県立中学修猷館、1906年(明治39年)、第五高等学校独法科を経て、1910年(明治43年)、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業し、貴族院嘱託となった。1911年(明治44年)11月、文官高等試験行政科試験に合格。奈良県属、朝鮮総督府試補、同事務官、全羅南道財務部長、平安南道財務部長、専売局事業課長、同庶務課長、平壌専売局長、大邱専売局長、中枢院書記官、忠清南道内務部長、江原道内務部長を歴任した。
守屋 栄夫(もりや えいふ、守屋 榮夫、明治17年(1884… 守屋 栄夫(もりや えいふ、守屋 榮夫、明治17年(1884年)11月8日 - 昭和48年(1973年)2月1日)は、日本の内務官僚、政治家、弁護士、歌人。衆議院議員、宮城県塩竈市長。宮城県平民。 元駐アフガニスタン公使守屋和郎の兄。元防衛事務次官守屋武昌の父。 明治17年(1884年)、宮城県遠田郡に生まれた。守屋徳郎の長男。宮城県古川高等学校卒業。二高を経て、 明治43年(1910年)東京帝国大学法科大学独法科を卒業。文官高等試験に合格。 内務省に入省。千葉、愛知各県理事官、内務監察官、内務省参事官、朝鮮総督府秘書官、同秘書課長、同庶務部長、内務省社会局社会部長を歴任。1925年(大正14年)3月、社会局第二部長を務めていた際に、第7回国際労働会議政府代表に前田多門とともに選出。
鈴木 信太郎(すずき しんたろう、1884年(明治17年)1… 鈴木 信太郎(すずき しんたろう、1884年(明治17年)11月8日 - 1958年(昭和33年)6月27日)は、日本の内務官僚。官選府県知事、錦鶏間祗候。 山形県南置賜郡米沢芳泉町(のち南原村大字芳泉町、現米沢市)出身。元米沢藩士・鈴木幸松の長男として生まれ、母方の祖父・鈴木伊和太の養子となる。第一高等学校を経て、1909年、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1910年、内務省に入り、石川県警部に任官した。 1910年12月、愛媛県警視となる。以後、岩手県事務官、神奈川県理事官、島根県警察部長、台湾総督府警視兼参事官、内務書記官、地方局市町村課長などを歴任した。
霜山 精一(しもやま せいいち、1884年(明治17年)10… 霜山 精一(しもやま せいいち、1884年(明治17年)10月15日 - 1975年(昭和50年)3月12日)は、日本の司法官僚、弁護士。大審院長、最高裁判所判事、貴族院議員。従二位勲一等。 1910年(明治43年)に東京帝国大学を卒業。1912年(大正元年)12月に判事に任官。司法省参事官も務め、1924年(大正13年)1月に大審院判事、1934年(昭和9年)5月に札幌控訴院院長になった時は51歳で全国控訴院長のうち最年少であった。この後、広島控訴院長を経て、1939年(昭和14年)に東京控訴院長と昇進。1942年(昭和17年)に控訴院判事人事は部長会議(分科会)の合議で決めることになっていたが、霜山院長の独断で代理部長の人事を決めた際に、法律違反だとして若手判事らが徒党を組んで抗議して撤回を迫られるという控訴院分科会事件が発生した。
福元 岩吉(ふくもと いわきち、1884年(明治17年)9月… 福元 岩吉(ふくもと いわきち、1884年(明治17年)9月20日 - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の台湾総督府官僚。澎湖庁長。通称は康行。 鹿児島県鹿児島郡川上村(現・鹿児島市川上町)に生まれる。第七高等学校造士館を経て、1914年(大正3年)東京帝国大学経済学部を卒業し、翌年10月文官高等試験行政科試験に合格。直ちに官界に入り、茨城県工場官補、同県結城郡・真壁郡長、同県理事官を経て、1924年(大正13年)栃木県属に転じ、さらに翌年長野県書記官を経て、1927年(昭和2年)和歌山県書記官を拝命する。 ついで渡台し、1932年(昭和7年)台北州内務部長、1935年(昭和10年)澎湖庁長を経て、1936年(昭和11年)府事務官に転じ退官。
永野 清(ながの きよし、1884年〈明治17年〉8月29日… 永野 清(ながの きよし、1884年〈明治17年〉8月29日 - 1935年〈昭和10年〉9月8日)は、日本の朝鮮総督府・内務官僚。官選大分県知事、別府市長。 大分県西国東郡玉津村(現豊後高田市)出身。永野俊吉の長男として生まれる。第五高等学校を卒業。1911年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。1912年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1913年、朝鮮総督府警部に任官。 以後、朝鮮総督府試補、同警視、鍾路警察署長、朝鮮総督府事務官・咸鏡南道第三部長、同府税関長・仁川税関在勤、江原道内務部長などを歴任し、1924年5月に休職。1927年5月、鹿児島県書記官・警察部長に就任。熊本県書記官・警察部長に転じ、1929年7月に休職。
岡部 長景(おかべ ながかげ、1884年〈明治17年〉8月2… 岡部 長景(おかべ ながかげ、1884年〈明治17年〉8月28日 - 1970年〈昭和45年〉5月30日)は、昭和初期の日本の政治家、外務・宮内官僚。子爵。 子爵岡部長職の嫡男として東京に生まれる。父の死去に伴い、1926年3月15日、子爵を襲爵した。 学習院初等科、学習院中等科、学習院高等科から東京帝国大学卒業。外務省に入省。米国官補。文化事業部長の後、宮内省に転じ、内大臣秘書官長。1930年貴族院議員、宮内省式部次長、陸軍政務次官、大政翼賛会総務。1939年大日本吹奏樂聯盟(現全日本吹奏楽連盟)初代会長に選出され翌1940年第1回全日本吹奏樂競演会 紀元二千六百年奉祝 集団音楽大行進並大競演会(現全日本吹奏楽コンクール)を開催。
谷 多喜磨(たに たきま、1884年(明治17年)8月24日… 谷 多喜磨(たに たきま、1884年(明治17年)8月24日 - 1952年(昭和27年)4月2日)は、朝鮮総督府官僚。実業家。 佐賀県出身。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、高等文官試験に合格した。統監府判事となった後、朝鮮総督府事務官に転じ、忠清北道財務部長、黄海道財務部長、忠清南道財務部長、農商工部水産課長、江原道内務部長、京城府尹、平安北道知事を歴任し、1929年(昭和4年)に慶尚南道知事に就任した。 退官後は、朝鮮火災海上保険株式会社社長、朝鮮信託株式会社社長、漢江水力電気株式会社社長、朝鮮漁業組合中央会会長を務めた。 戦後、公職追放となった。
安達 房治郎(あだち ふさじろう、1884年〈明治17年〉8… 安達 房治郎(あだち ふさじろう、1884年〈明治17年〉8月19日 - 1968年〈昭和43年〉8月10日)は、日本の逓信官僚、朝鮮総督府官僚。実業家。 愛知県名古屋市出身。安達知道の二男。1909年(明治42年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格した。逓信属、逓信管理局事務官、逓信書記官、高等海員審判所理事官などを歴任。1920年(大正9年)、国際労働機関事務局職員となる。1923年(大正12年)に帰国後は、帝都復興院物資供給課長を務めた後、朝鮮総督府土地改良部長に転じ、さらに咸鏡北道知事に就いた。 1930年(昭和5年)に退官した後は、台湾電力株式会社副社長、台湾電化株式会社取締役、日本アルミニウム株式会社監査役、朝鮮蛍石株式会社社長、日本鉱業株式会社取締役、帝国石油資源開発株式会社取締役、朝鮮日産化学株式会社社長などを務めた。
渡部 信(わたなべ しん、1884年〈明治17年〉8月16日… 渡部 信(わたなべ しん、1884年〈明治17年〉8月16日 - 1973年〈昭和48年〉12月13日)は、日本の宮内官僚。帝室博物館総長(第6代)。宮中顧問官。貴族院勅選議員。文献によっては渡辺 信あるいは渡邊 信と表記される。位階・勲等は、正三位勲一等。 下野国壬生藩(栃木県下都賀郡壬生町)出身で日光二荒山神社や三嶋大社の宮司を務めた渡邊邁の二男として生まれる。 1908年(明治41年)、東京帝国大学法科大学仏法科を卒業。逓信書記官、東京帝国大学法科大学講師を経て、宮内省式部官となり、内務参事官や外務書記官を兼ねた。さらに宮内省参事官、内大臣府御用掛、大臣官房文書課長、 宗秩寮審議官、図書頭・諸陵頭、帝室博物館総長(現東京国立博物館・奈良国立博物館・京都国立博物館の総称)、宮中顧問官、日仏協会理事を歴任した。
畑山 四男美(はたやま しおみ、1884年〈明治17年〉7月… 畑山 四男美(はたやま しおみ、1884年〈明治17年〉7月13日 - 1971年〈昭和46年〉8月8日)は、日本の内務官僚、政治家、弁護士。県知事、福岡市長。位階は正四位。勲等は勲三等。 高知県安芸郡羽根村(現室戸市羽根町)で、畑山亀喜代、岩の四男として生まれる。第四高等学校を経て、1915年(大正4年)、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1916年(大正5年)、内務省に入り宮城県属となる。 以後、宮城県亘理郡長、佐賀県・岩手県・長野県の各理事官、岐阜県書記官、熊本県書記官・学務部長、鹿児島県書記官・警察部長、同内務部長、大分県書記官・内務部長、北海道庁部長・土木部長などを歴任。
佐藤 続(さとう つづく、1884年(明治17年)7月 - … 佐藤 続(さとう つづく、1884年(明治17年)7月 - 没年不詳)は、台湾総督府官僚。 北海道出身。士族・佐藤元永の三男。1912年(明治45年)に東京帝国大学法科大学政治科を卒業。山形県警部・属、同警視、同飽海郡長、台南州警務部長、台北州警務部長、台湾総督府事務官、警務局保安課長、同警務課長、同衛生課長を歴任した。1927年(昭和2年)、台中州知事に就任した。 その後、台湾交通社長を務めた。
金沢 正雄(かなざわ まさお、1884年〈明治17年〉5月2… 金沢 正雄(かなざわ まさお、1884年〈明治17年〉5月26日 - 1945年〈昭和20年〉4月27日)は、日本の内務・警察官僚、政治家。政友会系官選県知事、衆議院議員。 大阪府交野郡倉治村(北河内郡交野村、交野町を経て現交野市倉治)で、金沢楢松の長男として生まれる。第三高等学校を卒業。1910年、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し栃木県属となる。 以後、栃木県警視、同事務官、熊本県理事官、長崎県理事官、愛媛県警察部長、群馬県警察部長、沖縄県内務部長、岐阜県内務部長、長崎県書記官・内務部長、新潟県書記官・内務部長、神奈川県書記官・内務部長などを歴任。
藤原 鉄太郎(ふじわら てつたろう、1884年(明治17年)… 藤原 鉄太郎(ふじわら てつたろう、1884年(明治17年)5月19日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚。関東州官僚。 長崎県出身。1912年(明治45年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業。警視庁警部となり、府中警察署長、太平警察署長、原庭警察署長を務めた。その後、関東都督府(のち関東庁)に転じ、警視、警務局衛生課長、奉天警察署長、警察講習所教官、旅順民政署長を歴任した。1929年(昭和4年)、退官。
細川 長平(ほそかわ ちょうへい、1884年(明治17年)5… 細川 長平(ほそかわ ちょうへい、1884年(明治17年)5月13日 - 1967年(昭和42年)1月13日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事。 愛媛県三木郡鹿伏村(香川県木田郡平井村大字鹿伏、平井町を経て現三木町鹿伏)出身。細川林造の三男として生まれる。第五高等学校を卒業。1909年、東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し京都府属となる。 以後、岐阜県事務官、同理事官、徳島県警察部長、熊本県警察部長、長野県書記官・内務部長、宮城県書記官・内務部長、北海道庁部長・内務部長などを歴任。 1928年12月、沖縄県知事に就任。1929年2月、沖縄の社会科学研究会の関係者を検挙した。
亀井 茲常(かめい これつね、旧字体: 龜井茲常、明治17年… 亀井 茲常(かめい これつね、旧字体: 龜井茲常、明治17年(1884年)4月17日 - 昭和17年(1942年)5月2日)は、日本の華族、宮内官僚。亀井家第14代当主。爵位は伯爵。東京市渋谷区千駄谷町穏田に居住していた。衆議院議員亀井亜紀子は曾孫に当たる。 第13代当主亀井茲明の子として島根県鹿足郡津和野に生まれる。 1909年(明治42年)に東京帝国大学文科大学哲学科を卒業、式部官に任じられ皇室の式典及び語学研究のため欧米を歴遊。1912年に帰国後、主猟官を兼ねた。 後に東宮侍従に任じられ、1921年(大正10年)には皇太子裕仁親王の海外巡遊に際し随行を命じられた。1929年(昭和4年)、官を辞す。
時永 浦三(ときなが うらぞう、1884年(明治17年)4月… 時永 浦三(ときなが うらぞう、1884年(明治17年)4月6日 - 1929年(昭和4年)2月7日)は、日本の朝鮮総督府・内務官僚。官選県知事。 広島県甲奴郡上下村(現府中市)出身。時永清吉の三男として生まれる。第一高等学校を卒業。1909年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し大学院に進学。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1910年5月、統監府属として渡韓した。 1910年10月、朝鮮総督府取調局属となる。以後、同取調局事務官、同道事務官・平安南道在勤、京畿道在勤、同事務官・総務局総務課長、兼同参事官、同内務部第二課長、同済世院庶務課長事務嘱託、同警務官兼同警視、同警務総監部保安課長、同兼警務総監部高等警察課長事務取扱、同事務官、兼同参事官などを歴任し、1922年1月、朝鮮総督府監察官に就任。
得能 佳吉(とくのう かきち、1884年(明治17年)4月3… 得能 佳吉(とくのう かきち、1884年(明治17年)4月3日 - 1964年(昭和39年)6月19日)は、日本の内務官僚、実業家。官選岩手県知事。 富山県出身。得能通孝の六男として生まれる。第四高等学校を卒業。1909年、東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し警視庁警部となる。 以後、岡山県試補、警視庁警視、山形県警察部長、滋賀県警察部長、台湾総督府警視兼同府警察官及び司獄官練習所長、拓殖局書記官、内務書記官、北海道庁書記官・内務部長などを歴任。 1925年9月、岩手県知事に就任。公平無私な県政運営を行う。和賀妻堰・中央耕地の整備、公会堂建築、農学校移転などに尽力。
村松 武美(むらまつ たけよし、1884年(明治17年)4月… 村松 武美(むらまつ たけよし、1884年(明治17年)4月3日 – 1938年(昭和13年)9月10日)は、新潟市長、内務官僚。 静岡県榛原郡勝間田村字切山(現在の島田市)に鈴木美賢の二男として生まれ、村松家の入婿となった。1913年(大正2年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業した。同年11月に高等文官試験に合格し、埼玉県属、埼玉県理事官、埼玉県入間郡長、新潟県理事官・農林課長、静岡県警察部長、宮城県警察部長、宮城県書記官・警察部長、京都府書記官・警察部長、愛知県書記官・警察部長、栃木県書記官・内務部長、広島県書記官・内務部長を歴任した。 1931年(昭和6年)に海外出張を命じられ、翌年に帰国。
後藤 文夫(ごとう ふみお、1884年(明治17年)3月7日… 後藤 文夫(ごとう ふみお、1884年(明治17年)3月7日 - 1980年(昭和55年)5月13日)は大正・昭和の官僚・政治家。「天皇陛下の警察官」を自称し、新官僚の代表と見られた。戦後、日本の原子力発電導入に尽力した。