永田 二郎(ながた じろう、1883年 - 1971年)は、… 永田 二郎(ながた じろう、1883年 - 1971年)は、埼玉県出身の洋画家。浦和画家。 浦和中学(現:埼玉県立浦和高等学校)を卒業後東京美術学校に入学し、黒田清輝や岡田三郎助に学ぶ。卒業後フランスへの留学を希望していたが、家督を相続するため断念するも細々と絵を描いていた。晩年は田園風景を描き続け、徳富蘇峰と荒川堤防を散策するなどしていた。
東京芸術大学:1,956人
永田 二郎(ながた じろう、1883年 - 1971年)は、… 永田 二郎(ながた じろう、1883年 - 1971年)は、埼玉県出身の洋画家。浦和画家。 浦和中学(現:埼玉県立浦和高等学校)を卒業後東京美術学校に入学し、黒田清輝や岡田三郎助に学ぶ。卒業後フランスへの留学を希望していたが、家督を相続するため断念するも細々と絵を描いていた。晩年は田園風景を描き続け、徳富蘇峰と荒川堤防を散策するなどしていた。
岡田 茂吉(おかだ もきち、1882年〈明治15年〉12月2… 岡田 茂吉(おかだ もきち、1882年〈明治15年〉12月23日 - 1955年〈昭和30年〉2月10日)は、日本の芸術家、実業家、思想家、自然農法の創始者、浄霊法の創始者、世界救世教の教祖であり、さまざまな分野で活動した。箱根美術館、熱海美術館(現:MOA美術館)などを創設した。 1882年(明治15年)、東京府浅草区橋場町(現在の東京都台東区橋場)に古道具屋の次男として生まれる。日新尋常小学校を経て、浅草尋常高等小学校(現在の台東区立浅草小学校)に入学する。画家を志し、1897年(明治30年)9月に東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)予備ノ課程に入学するも、眼病のため中退を余儀なくする。
藤井 浩佑(ふじい こうゆう、1882年〈明治15年〉11月… 藤井 浩佑(ふじい こうゆう、1882年〈明治15年〉11月29日 - 1958年〈昭和33年〉7月15日)は、彫刻家、日本芸術院会員。初名は浩祐。 唐木細工師藤井祐敬の長男として東京府東京市神田区錦町に生まれる。祖父は、旧摂関家公爵・九条家の執事であった藤井祐澄。 不同舎を経て1907年東京美術学校彫刻科卒、第一回文展に出品、以後出品を続ける。1911年文展出品「鏡の前」から三等賞を四度受賞。1916年日本美術院同人、以後院展に出品、1936年文展審査員となり、院展を退き帝国美術院会員、1937年帝国芸術院会員、1950年日展運営会理事、1953年より浩佑と称する。墓所は青山霊園立山墓地1-ロ-4にある。
内藤 伸(ないとう しん、1882年10月1日 - 1967… 内藤 伸(ないとう しん、1882年10月1日 - 1967年8月21日)は、彫刻家・日本芸術院会員。 1882年(明治15年)、島根県飯石郡吉田村(現・雲南市)に生まれる。上京して高村光雲に師事、1904年(明治37年)、東京美術学校選科卒。文展出品ののち、1914年(大正3年)、日本美術院同人、1915年、再興院展に出品、1919年、脱退。1921年(大正10年)、帝展審査委員、1927年(昭和2年)、帝国美術院会員、1929年(昭和4年)、日本木彫会を設立し主宰する。戦後は日展に出品し日本芸術院会員。1952年(昭和27年)、日本木彫会再興、1958年(昭和33年)、日展顧問、1965年(昭和40年)、勲三等瑞宝章受章。
青木 繁(あおき しげる、1882年(明治15年)7月13日… 青木 繁(あおき しげる、1882年(明治15年)7月13日 - 1911年(明治44年)3月25日)は日本の洋画家。
佐々木 指月(ささき しげつ、1882年(明治15年)3月1… 佐々木 指月(ささき しげつ、1882年(明治15年)3月10日) - 1945年(昭和20年)5月17日、俗名:佐々木栄多)は、明治・大正・昭和期の臨済宗の僧。東京美術学校彫刻選科(後の東京芸術大学)を卒業。米国仏教協会(後の米国第一禅堂)を1930年にニューヨークに創設した。アメリカ合衆国での禅宗発展に影響を与えた指月は、米国で生活し指導を行った最初の日本人師家たちの一人である。1944年、米国人ルース・フラー・エヴェレットと結婚した。1945年5月、法嗣を残さずに死去。著名な彼の生徒の一人アラン・ワッツは、1930年代後半に短い間彼の許で学んだ。号は曹溪庵。 1882年、三重県に生まれた。
坂本 繁二郎(さかもと はんじろう、 1882年3月2日 -… 坂本 繁二郎(さかもと はんじろう、 1882年3月2日 - 1969年7月14日)は、明治後期~昭和期の洋画家である。
畑 正吉(はた しょうきち、1882年(明治15年)2月12… 畑 正吉(はた しょうきち、1882年(明治15年)2月12日 - 1966年(昭和41年)6月24日)は、日本の彫刻家。 現在の富山県高岡市に生まれる。1901年(明治34年)に富山県工芸学校彫刻科を卒業し、東京美術学校彫刻科へ入学する。1906年(明治39年)に同校を卒業した翌年、農商務省海外実業練習生としてフランスへ渡り、エコール・デ・ボザール最初の日本人学生として、1910年(明治43年)まで木彫を学んだ。帰国後の1911年(明治44年)、第5回文展に出品した「歳三十」が入選、以後帝展の初期まで毎回入選を重ねる。1912年(大正元年)から東京美術学校に勤め始め、雇(助手)、嘱託、助教授と昇進を重ね、1921年(大正10年)に教授に就任した。
平田 松堂(ひらた しょうどう、1882年2月2日 - 19… 平田 松堂(ひらた しょうどう、1882年2月2日 - 1971年1月9日)は、日本の画家。明治から昭和期にかけ、日本画分野で官展を中心に活動した。特に花鳥画に秀でた。本名は平田 栄二。足穂庵とも号した。 生家は華族(伯爵)。実業家の松下正治の父(その他の親族は後述)。 1882年(明治15年)、東京市牛込に平田東助の息子として生まれた 川合玉堂に師事したのち、1901年(明治34年)東京美術学校(現東京芸術大学)に入学、1906年(明治39年)に同選科を卒業した。 1907年(明治40年)、第1回文展にて『ゆく秋』が初入選、以降初期文展で入選を重ねた。 1921年(大正10年)から1932年(昭和7年)まで、東京美術学校教授。
山下 兼秀(やました かねひで、1882年-1939年)は、… 山下 兼秀(やました かねひで、1882年-1939年)は、日本の洋画家。大牟礼南島、谷口午二らとともに戦前の鹿児島洋画壇の中心的人物だった。黒田清輝の愛弟子で、日本洋画壇の本流を直接鹿児島へもちこんだ功労者。 1882年鹿児島市生まれ。中学造士館卒業後、東京美術学校西洋画科入学。1910年、第4回文部省美術展覧会(文展、現・日展)に「並木」で入選。白馬会に所属し、黒田清輝の信頼も厚く葵橋洋画研究所を継ぐ者と目されていたが、ヨーロッパ留学目前の1912年に母の急死を契機として鹿児島へ帰郷。 帰郷後まもなく地元百貨店山形屋に招かれ宣伝課初代課長として勤務して、広告デザイナーとして活躍しながら油彩画を描き、後進の育成にも取り組む。
倉田白羊(くらた はくよう、1881年〈明治14年〉12月2… 倉田白羊(くらた はくよう、1881年〈明治14年〉12月25日 - 1938年〈昭和13年〉11月29日)は、日本の洋画家。浦和画家を代表する人物でもある。 自然をモデルにした作品を多く発表し、初期文展に入選を重ねた。山本鼎の提唱した農民美術運動の協力者でもある。本名は重吉(しげよし)。 埼玉県浦和町(現・さいたま市浦和区)出身。父の倉田幽谷は佐倉藩士の漢学者で、安井息軒の高弟であった。 1894年(明治27年)、洋画家・浅井忠の門下生となる。これは、浅井に師事し将来を嘱望されていたが23歳で早世した兄・倉田弟次郎の遺志を継ぐためであった。この頃、同じく浅井の門下生だった石井柏亭と親しくなる。
斎藤 五百枝(さいとう いおえ、1881年12月21日 - … 斎藤 五百枝(さいとう いおえ、1881年12月21日 - 1966年11月6日)は、日本の映画美術の美術デザイナー、背景画家、出版における挿絵画家である。日本映画の黎明期に、吉沢商店、日活向島撮影所、国際活映角筈撮影所で、クレジットされることもなくセットの背景を描いた人物であり、後に『少年倶楽部』の表紙画で人気を博した。岡田三郎助門下。 1881年(明治14年)12月21日、千葉県長柄郡一宮本郷村(現在の長生郡一宮町)に、旧一宮藩(加納氏)家老堀内家の三男、俊郎の第七子として産まれる。のち、父の俊郎が旧大和田原本藩(平野氏)家老斎藤家の養子となったため、斎藤姓となる。 一宮尋常高等小学校(現在の一宮町立一宮小学校)、私立京華中学校を卒業。
橋口 五葉(はしぐち ごよう、1881年〈明治14年〉12月… 橋口 五葉(はしぐち ごよう、1881年〈明治14年〉12月21日 - 1921年〈大正10年〉2月24日)は、明治末から大正期にかけて文学書の装幀作家、浮世絵研究者として活躍したが、最晩年、新版画作家として新境地を開こうとした矢先に急死した。アール・ヌーヴォー調の装幀本、「大正の歌麿」と形容された美人画を残している。 かつて薩摩藩藩医で漢方医を勤めていた士族橋口兼満の三男として、鹿児島県鹿児島市樋之口町(現在の鹿児島市立甲東中学校に辺り、正門脇には石碑が立っている)に生まれた。本名・清。画号の五葉は、鹿児島の自宅にあり地域のランドマークになっていた、樹齢300年の五葉松にちなんだもの。鹿児島県尋常中学校の在籍を経て、鹿児島県中学造士館を卒業。
山下 新太郎(やました しんたろう、1881年〈明治14年〉… 山下 新太郎(やました しんたろう、1881年〈明治14年〉8月29日 - 1966年〈昭和41年〉4月11日)は、日本の洋画家。日本芸術院会員。二科会および一水会創立者のひとり。 画風はオーギュスト・ルノワールの影響を受けた美しい色彩が特徴である。また、パリ滞在中に表具師の家に生まれたことから敦煌から招来された仏画の修理を手がけたのを切っ掛けに、油彩画の修復や保存も学び、この分野の日本に於ける草分けとなった。同時に留学中から額縁を蒐集し、自作の額装にも配慮を欠かさなかった。 1881年(明治14年)東京・根岸の表具師の長男として生まれる。 幼少時から絵画に親しみ、また特に天神像を好んだことで実父と懇意にしていた狩野芳崖に天神図を依頼、その図画を手本として過ごした。
小倉 右一郎(おぐら ういちろう、1881年(明治14年)6… 小倉 右一郎(おぐら ういちろう、1881年(明治14年)6月9日 - 1962年(昭和37年)7月15日)は、日本の彫刻家。香川県出身。 香川県立工芸学校を経て東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻科を1907年(明治40年)に卒業。 1908年(明治41年)に「指導」で文展初入選。 1913年(大正2年)に大正博覧会に「霹靂」を出品し、二等銀牌を獲得。以後、官展で次々入賞し、1916年(大正5年)の第10回文展で「闇路の人々」が特選となった。 1920年(大正9年)に渡仏。フランスにおける近代彫刻の巨匠ロダンに師事し、1921年(大正10年)に日本に帰国。その後は滝野川彫刻研究所を創立し、後進を指導した。
森田 恒友(もりた つねとも、1881年(明治14年)4月9… 森田 恒友(もりた つねとも、1881年(明治14年)4月9日 - 1933年(昭和8年)4月8日)は、大正から昭和にかけての洋画家。博物学者で国立民族学博物館名誉教授の森田恒之は孫。 埼玉県幡羅郡久保島村(現・熊谷市)に生まれる。熊谷中学校中退。 小山正太郎の不同舎に学び、1902年東京美術学校(現・東京芸術大学)入学。在学中、青木繁や坂本繁二郎らと親しく交わり、また新設の太平洋画会研究所にも通った。1906年に東京美術学校西洋画撰科を卒業。 1907年、山本鼎・石井柏亭らと美術誌「方寸」を創刊。同年、第1回文展に「湖畔」を出品し入選。また渡欧するまでの間、たびたび太平洋画家展にも制作を発表した。
児島 虎次郎(こじま とらじろう、1881年(明治14年)4… 児島 虎次郎(こじま とらじろう、1881年(明治14年)4月3日 – 1929年(昭和4年)3月8日)は、日本の洋画家。 岡山県川上郡下原村(現在の高梁市成羽町下原)に児島弥吉と雪の次男として生まれる。生家は「橋本屋」と称して旅館・仕出し業を営んでいた。1901年(明治34年)絵画を学ぶため東京に出る。1902年(明治35年)東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科選科に入学。黒田清輝、藤島武二らに師事した。倉敷の実業家大原家の奨学生となる。のち、大原家当主となった1歳年上の大原孫三郎とは生涯親交を持ち、経済的援助を受け続けた。1904年(明治37年)2年飛び級で卒業。 1907年(明治40年)東京府主催の勧業博覧会美術展に「なさけの庭」を出品、1等賞を受賞して宮内省買い上げとなる。
益田 玉城 (ますだ ぎょくじょう、1881年(明治14年)… 益田 玉城 (ますだ ぎょくじょう、1881年(明治14年)1月1日 - 1955年(昭和30年)4月22日)は、明治 - 昭和前期の日本画家。「玉城」は雅号。本名は「珠城」(たまき)と表記される。宮崎県都城生まれ。 同郷の山内多門とともに上京し、川端玉章(川端画学校)に入門の後、東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科選科修了。川端画学校・ 女子美術学校(現・女子美術大学)で後進を育成し、銀座3丁目にあった美術工芸品店㈱生秀館の図案部長も務める。 大正4年第9回文展にて《かの子屋の娘》が初入選、1920年・1921年・1928年・1929年の各年に帝展入選を果たし、1931年(昭和6年)には《姫街道》で無鑑査推薦となる。
永倉 江村人(ながくら こうそんじん、1881年(明治14年… 永倉 江村人(ながくら こうそんじん、1881年(明治14年) - 1951年(昭和26年))は、日本の画家。京都帝国大学福岡医科大学(後の九州帝国大学医学部、現在の九州大学医学部)解剖教室標本描画嘱託。本名は永倉茂。初号は江村人。 1881年(明治14年1月14日)千葉県印旛郡臼井町(現在の佐倉市臼井)に旧佐倉藩士の永倉良輔の長男として生まれる。旧制佐倉尋常中学(現在の千葉県立佐倉高等学校)を経て、1898(明治31)年東京美術学校(現在の東京芸術大学)日本画科本科に入学、当時日本画助教授『横山大観』に師事、日本画を習う、学生時代、考古学研究における先駆者として、「東京人類学会(現日本人類学会)」に寄稿したという。
南 能衛(みなみ よしえ、1881年(明治14年) - 19… 南 能衛(みなみ よしえ、1881年(明治14年) - 1952年(昭和27年)5月17日)は、日本の音楽教育者・作曲家。『横浜市歌』などの作曲者として知られる。専門・担当はオルガン、楽理、和声論、音楽教授法、音楽通論。当時でいう唱歌編纂掛、楽語調査掛も務めた。 この項目は、音楽家(演奏者・作詞家・作曲家・編曲家・バンドなど)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ:音楽)。 この項目は、クラシック音楽に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル クラシック音楽/ウィキプロジェクト クラシック音楽)。
弘一(こういつ、1880年10月23日 - 1942年10月… 弘一(こういつ、1880年10月23日 - 1942年10月13日)は、中華民国の詩人、禅僧、音楽教育者、芸術教育者。本名は李叔同。又名は李息霜、李岸、李良、譜名は文涛、幼名は成蹊、学名は広侯、字は息霜、別号は漱筒。法名は演音、号は弘一と晩晴老人。仏教徒には「重興南山律宗第十一代祖師」と崇められたという。 1880年、天津に生まれる。祖父は李鋭、父の李世珍は吏部主事。李叔同の親は敬虔な仏教徒だった。 1884年(光緒10年)、5歳の時、74歳の父は病気で亡くなった。 1885年、李叔同は啓蒙教育を受け始めた。 1887年、常雲荘に師事。李叔同は四書五経、金石、書道を勉強し始めた。 1895年、16歳の時、輔仁書院に入学。
山口 亮一(やまぐち りょういち、1880年8月10日 - … 山口 亮一(やまぐち りょういち、1880年8月10日 - 1967年10月30日)は、日本の洋画家。佐賀市精町出身。 東京美術学校(現・東京芸術大学)卒業。大学卒業後、帰郷し制作と後進の指導にあたる。久米桂一郎、岡田三郎助、北島浅一、御厨純一らと佐賀美術協会を創設。同協会会長、佐賀師範学校教諭を務めた。
山本 正夫(やまもと まさお、1880年7月1日 - 194… 山本 正夫(やまもと まさお、1880年7月1日 - 1943年4月5日)は、日本の作曲家、音楽教育者。 1880年、兵庫県出石郡出石松ヶ枝町(現在の豊岡市出石町松枝)生まれ。東京音楽学校本科器楽部でヘルマン・ハイドリヒにピアノを師事し、1903年7月に卒業。卒業期にはラファエル・フォン・ケーベルとノエル・ペリ(英語版)の指導下で歌劇の研究をした。1903年から島根県師範学校に、1909年から東京府豊島師範学校に勤める。師範学校勤務の傍、多くの童謡唱歌や校歌を制作した。退職後の1937年に帝都学園女学校を設立。 1903年7月に日本初のオペラ『オルフェオとエウリディーチェ』(旧東京音楽学校奏楽堂)に参加。
田中 銀之助(たなか ぎんのすけ、1880年(明治13年)5… 田中 銀之助(たなか ぎんのすけ、1880年(明治13年)5月18日 - 1947年(昭和22年)2月1日)は、大正、昭和と全国の高等女学校で採用される楽曲、現在でも歌い継がれている童謡唱歌、多くの校歌を作曲など、兵庫県を代表する作曲家。 養父郡大蔵村(現:朝来市)の雑貨商「やまとや」の長男として生まれ、大蔵小学校高等科を卒業後、同小学校の教員などをしていたが、後に退職して1902年(明治35年)、東京音楽学校(現在の東京藝術大学)師範科へ入学した。 音楽学校を卒業した1905年(明治38年)に音楽教員として兵庫県立神戸高等女学校(現:神戸高校)に着任し、その後33年勤務した。当時、神戸高等女学校は開校4年目の学校(現在の兵庫県庁1号館の場所にあった)であり、田中は生徒への指導はもちろん、音楽教育や社会音楽の向上も常々考えていたが、生徒たちにとって発表の場となり、一般市民に音楽に親しんでもらえる場にもなる発表会を企画した。
岡野 栄(おかの さかえ、1880年〈明治13年〉4月7日 … 岡野 栄(おかの さかえ、1880年〈明治13年〉4月7日 - 1942年〈昭和17年〉3月21日)は、日本の洋画家、版画家、口絵画家。従四位勲四等。 1880年(明治13年)東京の赤坂に生まれた。 白馬会洋画研究所で黒田清輝に学び、東京美術学校洋画科選科(現東京芸術大学)にて引き続き黒田の指導を受け1902年に卒業している。1908年に女子学習院で助教授として奉職のち教授となり、亡くなるまで34年間にわたって教鞭をとり続けた。 1912年、旧白馬会の主力メンバーであった、中沢弘光、岡野栄、山本森之助、三宅克己、小林鐘吉、跡見泰、杉浦非水の7名が発起人となり光風会を創立。 1912年6月の「第一回光風会展」では会員の他に黒田清輝、藤島武二、岡田三郎助、藤田嗣二ら旧白馬会の会員ら多くの人が出品した。
熊谷 守一(くまがい もりかず、1880年〈明治13年〉4月… 熊谷 守一(くまがい もりかず、1880年〈明治13年〉4月2日 - 1977年〈昭和52年〉8月1日)は、日本の画家。日本の美術史においてフォービズムの画家と位置づけられている。しかし作風は徐々にシンプルになり、晩年は抽象絵画に接近した。富裕層の出身であるが極度の芸術家気質で貧乏生活を送り、「二科展」に出品を続け「画壇の仙人」と呼ばれた。勲三等(辞退)、文化勲章(辞退)。 1880年(明治13年)4月2日、機械紡績を営む事業家で地主の父熊谷孫六郎と母タイの三男(7人兄弟の末っ子)として岐阜県恵那郡付知(現・中津川市付知町)に生まれた。子供時代から絵を好んだ。父親の孫六郎は学も財もない中から製糸業で成功し、岐阜県会議員となり、1885年(明治18年)には同議長を務め、人口不足のため市制が布されなかった岐阜の将来のため有力者に働きかけて市制実施運動を興し、近隣町村を合併して人口を増やし、私財を投じるなどして市制を実現し、1889年に初代岐阜市長に就任、1892年には衆議院議員に選出され、岐阜の名士となった人物。
瀧 廉太郎(たき れんたろう、1879年〈明治12年〉8月2… 瀧 廉太郎(たき れんたろう、1879年〈明治12年〉8月24日 - 1903年〈明治36年〉6月29日)は、日本の音楽家・ピアニスト・作曲家。 明治期における西洋音楽黎明期の代表的な音楽家の一人で、歌唱共通教材として「荒城の月」が知られている。戸籍名では旧字体の「瀧」を用いるが、現代の教科書などでは新字体の「滝」でも表記される。 1879年(明治12年)8月24日に、旧・日出藩士(現:大分県速見郡日出町)の瀧吉弘の長男として東京府芝区南佐久間町2丁目18番地(現:東京都港区西新橋)に生まれた。両親は吉弘と正子で、瀧家は江戸時代に豊後国日出藩の家老職を代々務めたいわゆる上級武士の家柄である。父・吉弘も日出藩の家老で1872年(明治5年)に上京し、大蔵省から内務省に転じて大久保利通・伊藤博文らの下で内務官僚として勤務したのち、地方官として神奈川県・富山県を経て大分県竹田市に移り住んだ。
神戸 絢(かんべ あや、1879年(明治12年)2月16日 … 神戸 絢(かんべ あや、1879年(明治12年)2月16日 - 1956年(昭和31年)2月23日)は、日本のピアニスト、音楽家、音楽学校教授。別名、神戸 絢子。 日本の洋楽界最古のピアニスト(洋琴家)として知られた。東京音楽学校 (旧制)を卒業後、母校で30年以上にわたって後進を指導し、従四位勲四等に叙せられた。 東京府人・梁田正直(元鳥取藩士族)の長女として、東京に生まれた。第百銀行監査役・神戸信義(元岡山藩士族・元藩主侯爵池田章政家扶)の養女となり、姫路水力電気技師長・神戸順三郎(明治3年7月生、神戸信義の養子)と結婚、長女貞子(明治34年3月生)をもうけた。一家は1914年(大正3年)に分家した。
安藤 幸(あんどう こう、1878年(明治11年)12月6日… 安藤 幸(あんどう こう、1878年(明治11年)12月6日 - 1963年(昭和38年)4月8日)は、日本における洋楽界揺籃期のヴァイオリニスト。幸田露伴、幸田延の妹。 東京府下谷区(現・東京都台東区)生まれ。1881年から西川喜舞に日本舞踊を、1883年から初代山勢松韻に箏曲を、1888年の10歳の頃からルドルフ・ディットリヒにヴァイオリンを習い、1896年東京音楽学校(現東京芸術大学)本科器楽部を卒業。同校研究科に進学。ディットリヒ、姉の幸田延(1895年にウィーン留学から帰国)、アウグスト・ユンケル(1899年に来日)らに学んだ。音楽学校時代に仲の良かった同級生として作詞家の東くめ(代表作に「お正月」「鳩ぽっぽ」など)がいる。
中島 秋圃 (なかしま しゅうほ、明治11年(1878年)7… 中島 秋圃 (なかしま しゅうほ、明治11年(1878年)7月5日 - 昭和36年(1961年)11月30日)は、明治時代から昭和にかけて活躍した四条派の日本画家。 東京四谷で、旧佐賀藩士の司法省検事・中島盛有(藤次郎)の長男として生まれる。本名・次郎。明治35年(1902年)7月に東京美術学校(現・東京芸術大学美術学部)日本画科を卒業。秋圃は川端玉章に師事し円山派を学ぶ。納富介次郎の勧誘で、あるいは定塚武敏『富山の美と心』(桂書房、1990年)に録された次郎の長女・久栄の証言によれば、父と同じく佐賀出身の大隈重信より『三年のみ』と勧められ、同年7月に富山県高岡市の県立工芸高校(現・富山県立高岡工芸高等学校)に赴任する。
田嶼 碩朗(たじま せきろう、1878年7月4日 - 194… 田嶼 碩朗(たじま せきろう、1878年7月4日 - 1946年3月30日)は日本の彫刻家。明治期から昭和時代初期にかけて活躍した。福井県出身。 1878年(明治11年)7月4日、福井県三国町(現坂井市)に生まれる。故郷で木彫りを学び、後に上京し東京美術学校彫塑科(現東京芸術大学)に入学、在学中は正木直彦、高村光雲に師事。 卒業後は院展、帝展などで入賞を繰り返した。後に彫刻家として東京と札幌にアトリエを構える。生前は詩人室生犀星と親しかった。 北海道および樺太(現サハリン)で銅像制作を主に手がけたが、その作品の多くは戦時中の金属供出により失われほとんど現存していない。 碩朗の末娘による著作「彫刻家 田嶼碩朗」によれば、1926年(大正15年)5月14日建立のクラーク像(以後単に「元像」)は戦争のために1943年(昭和18年)6月に金属供出され、戦後1948年(昭和23年)10月に胸像再建立のため田嶼の残した元像製作時の石膏原型を使用し元像の造形に忠実に再鋳造を行ったところ、「田嶼が既に他界していたこと」「監修として別の彫刻家である加藤顕清が関わっていたこと」の2点が原因となり、加藤を単独製作者と誤記する状況が発生した、と説明している。
細谷 而楽(ほそや じらく、1878年〈明治11年〉3月30… 細谷 而楽(ほそや じらく、1878年〈明治11年〉3月30日 - 1940年〈昭和15年〉11月16日)は、日本の彫刻家。本名・三郎。 1878年(明治11年)、群馬県一毛村(現・前橋市城東町1丁目)に生まれる。細谷家は前橋藩士の家柄だった。祖父・登代平の時に廃藩となり、父・桟平は製糸業や質屋を営んでいた。而楽は桟平・まきの三男として生まれた。前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に学ぶが、中退して上京。1897年(明治30年)9月、東京美術学校予科(現・東京藝術大学)に入学する。翌年には新しく開かれた塑造科へと進み担当教官である高村光雲に師事する。同期の高村光太郎(光雲の子息)と親しく交流し、1902年(明治35年)7月に同校を卒業。
田中 寅三(たなか とらぞう、1878年3月7日 - 196… 田中 寅三(たなか とらぞう、1878年3月7日 - 1961年7月4日)は、日本の洋画家、絵画教育者。 千葉高等園芸学校(現・千葉大学園芸学部)などで図画の教鞭をとりながら、学校の所在する千葉県松戸市に住み、同地の農村風景画から海や船舶のある風景画作品を多く残す。 油彩画の他に、日本画風の絵画も描いた。 愛媛県宇和島に、彦根藩士であった田中文二の次男として生まれる。父は井伊家のお抱え絵師だったとされるがはっきりしない。一家は明治維新後郵便局を営んでいたが、1985年に大阪に転居し、書店を開業している(現・合資会社田中青柳堂書店)。 絵画を寅三はまず1894年大阪で山内愚僊に学ぶ。当時の山内門下には山本森之助、赤松麟作らがいた。
岡野 貞一(おかの ていいち、1878年〈明治11年〉2月1… 岡野 貞一(おかの ていいち、1878年〈明治11年〉2月16日 - 1941年〈昭和16年〉12月29日)は 、日本の作曲家 、教育者 、オルガニスト。東京音楽学校(現在の東京芸術大学)教授。 鳥取県邑美郡古市村(現在の鳥取市)に、士族 岡野平也の子として生まれ、幼少期に実父を亡くし、貧困の中で育つ。鳥取高等小学校(現在の鳥取市立久松小学校)へ進学。同校には日本の音楽教育家・作曲家田村虎蔵も学年違いで在校していた。 1892年、キリスト教徒として鳥取教会(現在:日本基督教団)で洗礼を受け、翌年、岡山の教会で宣教師からオルガンの演奏法を習った。 東京音楽学校(現在の東京藝術大学)の第2代校長である同郷の村岡範為馳が1892年に鳥取で行った講演に影響され、1895年には岡山の薇陽学院を中退し、上京して東京音楽学校に入学、1900年に専修部を卒業した。
小場恒吉(おば つねきち、1878年〈明治11年〉1月25日… 小場恒吉(おば つねきち、1878年〈明治11年〉1月25日 - 1958年〈昭和33年〉5月29日)は、日本の紋様学者、美術史家、画家。東京美術学校および東京芸術大学で工芸史・紋様史を講じ、日本・中国・朝鮮の古美術に見られる紋様の比較研究と、高句麗古墳壁画や朝鮮古蹟の調査・模写に従事した。研究の一部をなす「日本紋様の研究」により、1950年(昭和25年)に恩賜賞を受賞した。 秋田藩主佐竹家の一族である小場家の分家にあたる小場新吾の長男として、秋田県秋田町亀ノ丁堀反町に生まれた。 13歳のとき、親戚の画人小室怡々斎(こむろ いいさい)に師事して狩野派の日本画を学んだ。上京後は、荒木寛畝に日本画を、岡本椿所に篆刻を学んだ。
赤松 麟作(あかまつ りんさく、1878年〈明治11年〉1月… 赤松 麟作(あかまつ りんさく、1878年〈明治11年〉1月20日または10月11日 - 1953年〈昭和28年〉11月24日)は、日本の洋画家、教育者。 赤松良子は3女である。 現在の岡山県津山市本町3丁目に、兄2人姉1人の4人兄弟の末っ子として生まれる。1883年に大阪へ転居。父は亜鉛製造、酸化亜鉛製造、ペンキ製造と職を変えるがいずれも成功せず、ペンキで絵を描く看板屋を始める。 小学校卒業後、父の仕事を手伝っていると、大阪最初期の洋画家で大阪朝日新聞で挿絵画家をしていた山内愚僊と知り合う。この時、愚僊はペンキで巧みに油画を描き、麟作は画が非常に好きになってしまったという。1893年数え16歳でその内弟子となり、愚僊の同僚だった西村天囚から『日本外史』などの漢学を習う。
平福百穂(ひらふく ひゃくすい、1877年(明治10年)12… 平福百穂(ひらふく ひゃくすい、1877年(明治10年)12月28日 - 1933年(昭和8年)10月30日)は、日本画家、歌人。 画家平福穂庵(順蔵)の四男として、秋田県角館(仙北市)に生まれた。本名は貞蔵。 幼い時から秋田市の豪商である那波家のコレクションなどで、秋田蘭画を見て育ったが、1890年(明治23年)から父から絵を学びはじめる。同年末に父が急死すると、翌年から父の後援者の援助を受け、本格的に絵を学び始める。同じ年の秋に開かれた亡父の追悼画会で画才を認められ、「百年」の百と「穂庵」の穂を取って「百穂」と号す。 1894年(明治27年)に上京し、四条派の第一人者川端玉章の内弟子となる。
福井 直秋(ふくい なおあき、1877年10月17日 - 1… 福井 直秋(ふくい なおあき、1877年10月17日 - 1963年12月12日)は、日本の作曲家、教育者。富山県中新川郡上市町出身。帝国音楽学校校長、武蔵野音楽大学創設者であり初代学長。 富山県中新川郡宮川村(現上市町)浄誓寺住職・福井智拓の五男として誕生。1899年に東京音楽学校へ進学し授業補助をしていた瀧廉太郎と出会う。声楽指導法や歌曲集編纂に尽力する。歌曲、器楽曲の創作に意欲を燃やして約1000曲の音楽作品を遺した。1904年長野師範学校教諭、1928年に第一次帝国音楽学校校長に就任。同年辞任し同校生徒らと共に、翌1929年に武蔵野音楽大学の前身である武蔵野音楽学校を創設し移籍する。1949年に新制大学の武蔵野音楽大学の初代学長に就任した。
桐谷 洗鱗(きりや せんりん、1877年9月1日 ‐ 193… 桐谷 洗鱗(きりや せんりん、1877年9月1日 ‐ 1932年7月19日)は、明治時代の口絵画家、大正時代から昭和時代にかけての日本画家、版画家。仏画の権威として活躍したが、急逝した。 富岡永洗及び橋本雅邦の門人。新潟県三島郡宮本町(現・長岡市)に生まれる。本名は長之助。深見和久太の四男であったが桐谷姓を継いだ。20歳の時に上京、永洗に師事している。永洗が没した時、その夭折を惜しむ記事を投稿している。 その後、雅邦に就いて東京美術学校日本画家選科を卒業し、1907年に文展に入選。翌年から京都、奈良の寺院をめぐり、1909年、「訪古画帖」を作る。仏教画の方に進み始めた。この間、京都の「日出新聞」に挿絵を描く。
武石 弘三郎(たけいし こうざぶろう、1877年(明治10年… 武石 弘三郎(たけいし こうざぶろう、1877年(明治10年)7月28日 - 1963年(昭和38年)5月11日)は日本近代の彫刻家。政財界や各界の著名人の銅像を数多く手がけた。 新潟県南蒲原郡中之島村の庄屋の家に生まれる。東京美術学校塑像科で長沼守敬に学び、1901年(明治34年)卒業。ベルギーに8年間滞在し、その間にブリュセル国立美術学校に学んだ。 1909年(明治42年)帰国。同郷の石黒忠悳の知遇を得て、その関係で松本順・石黒忠悳像や森鴎外像の制作を手がけた。 文部省展覧会、帝国美術院展覧会に出品。明治末から昭和戦前期にかけて数多くの人物像を制作した。また、早稲田大学理工学部建築学科の講師を務め、多くの建築家を育てた。
平子 鐸嶺(ひらこ たくれい、1877年5月4日 - 191… 平子 鐸嶺(ひらこ たくれい、1877年5月4日 - 1911年5月10日)は、日本の美術史家である。本名は平子 尚(ひらこ ひさし)。「鐸嶺」の号は、郷里である鈴鹿の嶺に由来するものである。ほかに昔瓦・鈴岱子・古柏艸堂主人・古柏陳人・塵庵といった号をもった。 1877年(明治10年)5月4日、三重県津町片浜町(現在の津市東丸之内近辺)に長子として生まれる。父の尚次郎は「津の断髪三人男」とも呼ばれた開明的な人物で、横浜で生糸貿易商を営み、帰郷ののちは弁理士、米穀商、妓楼の運営、参宮鉄道の建設などに参画した。母のかうは津の呉服商・伊阪屋の長女で藩主・藤堂家の奥向として仕えた。 津市立養正小学校を経て、1889年(明治22年)に旧津藩士のための私塾である励精館に入学。
北 蓮蔵 (きた れんぞう、明治9年(1876年)7月29日… 北 蓮蔵 (きた れんぞう、明治9年(1876年)7月29日 - 昭和24年(1949年)12月21日)は、明治から昭和にかけて活動した洋画家。 岐阜県厚見郡北一色村(現在の岐阜市北一色)の香厳寺に、北淳心と房衛の次男として生まれる。幼少期には両親が読経を教えようとしても覚えず、絵ばかり描いていたという。1889年(明治22年)東京で女学校の教員をしていた姉を頼って上京、同郷の山本芳翠と合田清らによって設立された生巧館画塾に入る。蓮蔵は芳翠の書生をしていたと後に回想しており、また時に「芳翠二世」を名乗り、蓮蔵と芳翠を「親戚」とする同時代資料もある(真偽不明)ことから、両者は単なる画塾の師弟にとどまらない深い関係にあったようだ。
小西 正太郎(こにし しょうたろう、1876年7月12日 -… 小西 正太郎(こにし しょうたろう、1876年7月12日 - 1956年4月26日)は、日本の洋画家。秋田県出身。 秋田県仙北郡六郷町(現美郷町)の素封家の家に生まれる。小西忠兵衛(5代。幼名は正治。号は交和)の長男。弟は六郷町郵便局長の宗吉。正太郎が生まれた当時の小西家の主な資産は、小作米500俵、町内に3,300平方メートルの敷地、山林5ヘクタールと記録され、六郷町下では第二の資産家であった。六郷小学校から秋田県立秋田中学校を経て1895年(明治28年)東京美術学校予科に進んだ。翌年日本画の本科に進んだが、このころ洋行を終えて帰国した黒田清輝が西洋画科の初代教授として美術学校に赴任するとたちまちその影響を受け、西洋画に転じて黒田に師事した。
木村 武山(きむら ぶざん、明治9年(1876年)7月3日 … 木村 武山(きむら ぶざん、明治9年(1876年)7月3日 - 昭和17年(1942年)11月29日)は、明治から昭和初期の日本画家。横山大観、下村観山、菱田春草らと共に、岡倉覚三(天心)のもとで日本画の近代化に努めた。 明治9年(1876年)7月、茨城県笠間市に木村信義の長男・信太郎として誕生。父は元笠間藩士で、廃藩後に笠間銀行(現・常陽銀行)を設立し頭取となり、明治45年(1912年)4月には笠間電気株式会社の設立と共に社長に就任している。2歳の頃から地元の南画家・桜井華陵に師事。12歳頃には「武山」の号を用いており、この号は笠間のシンボルとも言える佐白山・山上の別称「阿武山(おたけ)」に由来する命名される。
杉浦 非水(すぎうら ひすい、1876年〈明治9年〉5月15… 杉浦 非水(すぎうら ひすい、1876年〈明治9年〉5月15日 - 1965年〈昭和40年〉8月18日)は、近代日本のグラフィックデザイナー。本名は杉浦朝武(すぎうら つとむ)。日本のグラフィックデザインの黎明期より活動し、商業美術の先駆けであり現代日本のグラフィックデザインの礎を築いた人物の一人として重要である。 1876年愛媛県松山市で、白石朝忠の長男として生まれる。のち杉浦祐明の養子になる。 当初は日本画家を志し、四条派の画家松浦巖暉に師事。1897年の上京後は川端玉章に師事し、東京美術学校日本画選科に入学。 この東京美術学校在学中に洋画家の黒田清輝より洋画や欧風図案の指導を受け、図案家へ転向する。
大森 敬堂(おおもり けいどう、明治9年(1876年)1月1… 大森 敬堂(おおもり けいどう、明治9年(1876年)1月16日 - 明治44年(1911年)6月14日)は明治時代の日本画家。 尾形月耕及び川端玉章の門人。明治9年(1876年)1月16日、東京府京橋に生まれる。本名は新之助。幼少から絵を好み、始め京橋桶町の尾形月耕に絵の手ほどきを受け、後に玉章に師事する。同門の結城素明とともに東京美術学校日本画科に入学、師玉章の指導する第三教室において俊秀の誉れがあった。明治24年(1891年)の日本青年絵画協会臨時研究会に「楓亀」を出品すると五等褒状、明治27年(1894年)の日本青年絵画協会第3回絵画共進会に「朧月白鷺」を出品すると三等褒状を受ける。その後、明治29年(1896年)の日本絵画協会第1回絵画共進会に「錦魚」、「空濶」を出品、前者により二等褒状、明治30年(1897年)春の同第2回絵画共進会に「月」を出品して一等褒状、同年秋の同第3回絵画共進会に「夏の海」、「妙音」を出品、後者で一等褒状を受賞、明治31年(1898年)春の同第4回絵画共進会には「海岸」を出品している。
大牟礼 南島(おおむれ なんとう、1876年 - 1935年… 大牟礼 南島(おおむれ なんとう、1876年 - 1935年)は、日本の洋画家。大牟礼 南塘とも表記される。本名・時艾(ときはる)。鹿児島洋画壇の祖といわれている。 種子島の現西之表市出身。中学造士館卒業後、大阪を経て上京し、東京美術学校西洋画科に入学。黒田清輝に師事し、1900年に卒業して鹿児島県に戻る。鹿児島市の西本願寺前にアトリエを開設。アトリエで公開制作をしたり、春田屋呉服店のショーウインドウに大きなロマン主義美人画を飾ったりと衆目を集め、また確認しうる鹿児島最古の洋画団体「青蛙会」を結成した。 1911年から1930年の約20年間にわたり鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)で美術教員を務め、多くの後進を育成した。
龍田 精三(たつた せいぞう、1876年 - 没年不詳)は明… 龍田 精三(たつた せいぞう、1876年 - 没年不詳)は明治時代の浮世絵師。 小林清親及び田口米作の門人。東京生まれ。精三と号し、「龍田氏」の印を使用した。牛歩とも号す。明治20年から明治30年代に主に戦争絵を描いて活躍したが、詳細は不明。明治34年(1901年)、東京美術学校西洋画科選科修了。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
結城 素明(ゆうき そめい、1875年(明治8年)12月10… 結城 素明(ゆうき そめい、1875年(明治8年)12月10日 - 1957年(昭和32年)3月24日)は、日本の明治から昭和にかけて活躍した日本画家。日本芸術院会員。 東京本所荒井町に、「池田屋」という酒屋を営んでいた森田周助の次男として生まれる。本名の貞松は勝海舟の命名といい、奇しくも後に素明は、「江戸開城談判」(聖徳記念絵画館蔵)において海舟の姿を描いている。10歳の頃、親類の結城彦太郎の養嗣子となる。明治24年(1891年)7月岡倉覚三(天心)の紹介で、川端玉章の画塾天真堂(天真社)に入門する。玉章に学びながら明治25年(1892年)東京美術学校日本画科に入学。常に墨斗と手帖を携帯し、目にとまったものは何でも写生したという。
津田 信夫(つだ しのぶ、1875年10月23日 - 194… 津田 信夫(つだ しのぶ、1875年10月23日 - 1946年2月17日)は日本を代表する鋳金工芸作家。東京美術学校(現在の東京芸術大学)教授、芸術院会員。