館山 昌平(たてやま しょうへい、1981年3月17日 - … 館山 昌平(たてやま しょうへい、1981年3月17日 - )は、神奈川県厚木市出身の東京ヤクルトスワローズに所属するプロ野球選手(投手)。
日本大学:141人
館山 昌平(たてやま しょうへい、1981年3月17日 - … 館山 昌平(たてやま しょうへい、1981年3月17日 - )は、神奈川県厚木市出身の東京ヤクルトスワローズに所属するプロ野球選手(投手)。
村田 修一(むらた しゅういち、1980年12月28日 - … 村田 修一(むらた しゅういち、1980年12月28日 - )は、福岡県糟屋郡篠栗町出身のプロ野球選手(内野手)。読売ジャイアンツ所属。愛称は「漢・村田」。
堤内 健(つつみうち たけし、1980年7月20日 - )は… 堤内 健(つつみうち たけし、1980年7月20日 - )は、宮崎県宮崎市出身の元プロ野球選手(投手)。 宮崎日大高2年夏に甲子園に出場し、登板するも敗退。日大では、大野隆治とバッテリーを組み、同期の館山昌平がエースであった。東都大学リーグで通算45試合に登板し5勝11敗、防御率2.84。4年生秋の専修大戦で当時のリーグタイの1試合18奪三振を記録した。ドラフト9巡目で横浜ベイスターズに入団。同年自由獲得枠で共に入団した村田修一は大学のチームメイト。 8月7日の巨人戦で初登板、8月16日の広島戦でプロ初勝利。 肘の手術を受けたこともあって一軍登板はなし。二軍の湘南シーレックスでもわずか2試合の登板に終わった。
大野 隆治(おおの りゅうじ、1980年(昭和55年)5月1… 大野 隆治(おおの りゅうじ、1980年(昭和55年)5月11日 - )は、福岡県遠賀郡岡垣町出身の元プロ野球選手(捕手)。2004年から2005年の登録名は大野立詞(読み同じ)。
佐藤 崇明(さとう たかあき、1980年2月27日 - )は… 佐藤 崇明(さとう たかあき、1980年2月27日 - )は、元社会人野球選手である(投手、右投右打)。鷺宮製作所に所属していた。
石山智也(いしやま ともや、1979年11月2日 - )は、… 石山智也(いしやま ともや、1979年11月2日 - )は、日本野球機構所属のプロ野球審判員。山形県出身。審判員袖番号『25』。 日本大学山形高等学校を卒業後、地元で就職し2003年まで勤務。リトルシニアで2年間の審判経験があった。2004年にセントラル・リーグ審判部に入局。 2008年シーズンではイースタン・リーグの優秀審判員として表彰された。 2011年から球審での構えをボックススタンスからシザーススタンスに変更した。 2012年にオールスターゲームに初出場し第3戦で球審を務めた。 2016年5月17日、地元・山形県の荘内銀行・日新製薬スタジアムやまがたで行われた読売ジャイアンツ対横浜DeNAベイスターズ戦では球審を務めた。
下窪 陽介(しもくぼ ようすけ、1979年1月21日 - )… 下窪 陽介(しもくぼ ようすけ、1979年1月21日 - )は、鹿児島県揖宿郡頴娃町(現:南九州市)出身の元プロ野球選手(外野手)。
尾形 佳紀(おがた よしのり、1978年8月5日 - )は、… 尾形 佳紀(おがた よしのり、1978年8月5日 - )は、元プロ野球選手(内野手、外野手)。現在、広島東洋カープのスカウト。
佐藤 友亮(さとう ともあき、1978年6月13日 - )は… 佐藤 友亮(さとう ともあき、1978年6月13日 - )は、神奈川県藤沢市出身の日本の元プロ野球選手(外野手・内野手)・コーチ。2023年から北海道日本ハムファイターズのコーチを務める。 小学校4年の時に内野手として野球を始め、主に一塁手としてプレーする。中学校の入学と同時に投手に転向した。 慶應義塾高等学校ではエース投手として活躍、2年の夏の神奈川大会では決勝戦まで進出したが、日本大学藤沢高等学校に敗れ全国大会出場を逃してしまった。また、この時は非常に珍しい「1番・投手」だった。 慶應義塾大学では1年の春に内野手と投手を務めた。1年の秋には外野手に転向し、主に中堅手としてプレーする。2年の春には首位打者の座を獲得。
片岡 昭吾(かたおか しょうご、1978年1月23日 - )… 片岡 昭吾(かたおか しょうご、1978年1月23日 - )は、元アマチュア野球選手、監督。千葉県千葉市出身。 埼玉西武ライオンズや読売ジャイアンツに所属した元プロ野球選手の片岡保幸(易之、治大)は実弟。 宇都宮学園高校時代、3年時の夏に中堅手として甲子園出場。 高校卒業後は、日本大学に進学。東都大学1部リーグ通算47試合出場、156打数41安打、打率.263、3本塁打、22打点。1部リーグに復帰した1998年春季のリーグ戦でベストナイン受賞。 2000年に社会人野球・JR東日本入社。入社後に内野手に転向し、持ち前のパンチ力で打線の中軸を担う。 2007年の第78回都市対抗野球大会では、全試合で4番に座り、19打数9安打6打点の活躍を見せてチーム準優勝に貢献。
吉野 誠(よしの まこと、1977年11月19日 - )は、… 吉野 誠(よしの まこと、1977年11月19日 - )は、埼玉県大宮市(現:さいたま市見沼区)出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。 2014年からは阪神タイガースのスカウトを務めている。 埼玉県さいたま市見沼区出身。大宮東高では投手の2本柱として2年秋の県大会優勝で関東大会では準々決勝で先発したが途中降板してコールド負け。3年夏の埼玉大会では準決勝で延長10回完投勝利で決勝は登板せずに惜敗で準優勝。高校卒業後は日本大学に進学。東都大学リーグでは2年秋にエースとして2部リーグで2試合さらには3試合連続先発などの活躍で優勝すると入替戦では東洋大を相手に先発3連投して勝利、1部リーグ昇格に貢献して2部リーグMVP、最優秀投手。
池田 豪(いけだ ごう、1975年11月26日 - )は、東… 池田 豪(いけだ ごう、1975年11月26日 - )は、東京都目黒区出身の元野球選手。アメリカ独立リーグでプレー、その後MLBで通訳、スカウトなどを務めた。 大学中退後、フロリダのベースボールアカデミーでトレーニングを続けアメリカ独立リーグのフロンティアリーグのカラマズーコディアックスに入団し、外野手のレギュラーとして67試合に出場した。 翌年、ノーザンリーグのアディロンダック・ランバージャックスに移籍した。 現役引退後、伊良部秀輝投手の通訳(モントリオール・エクスポズ時代)、エクスポズスカウト、フロリダ・マーリンズスカウトを歴任し、TBSの番組『ガチンコ!』では、男どアホ大リーグの講師をつとめるなど、野球普及に取り組んでいる。
清水 直行(しみず なおゆき、1975年11月24日 - )… 清水 直行(しみず なおゆき、1975年11月24日 - )は、京都府京都市下京区出身(兵庫県西宮市育ち)の元プロ野球選手(投手)・野球解説者。2014年からは、ニュージーランド野球連盟のゼネラルマネジャー(GM)補佐や、野球ニュージーランド代表の統括コーチも務める。
梅沢 直充(うめざわ なおみつ、1975年10月12日 - … 梅沢 直充(うめざわ なおみつ、1975年10月12日 - )は、大学野球、社会人野球、プロ野球マネジャー。シダックス と東北楽天ゴールデンイーグルスでは野村克也監督の専属マネジャーを務めた。現在、シダックス株式会社最高顧問室(志太勤・取締役最高顧問秘書)。一般財団法人日本中学生野球連盟 理事兼事務局長。一般財団法人全日本野球協会 国際事業委員会 ラバーボール普及検討部会委員。 東京都中野区出身。父は法政大学-大和証券で内野手、東京六大学野球連盟で審判員と公式記録員を務めた梅沢一夫。中野区で生まれ、父の仕事の関係で5歳まで山形市で過ごしたのち、東京に戻って中野区に住んでいた。 攻玉社中1年生のときに軟式野球部で野球を始め、攻玉社高では外野手で、3年時に主将を務めた。
林 和成(はやし かずなり、1975年7月23日 - )は、… 林 和成(はやし かずなり、1975年7月23日 - )は、石川県金沢市出身の日本の高校野球指導者。星稜高等学校地歴公民科教諭。 高校時代は星稜高校でプレーした。松井秀喜の一年後輩で甲子園に三度出場している。 日本大学に進学後は、準硬式野球部に所属し、主将を務め、全国大会での優勝経験もある。 大学卒業後の1998年からは母校・星稜高校のコーチに就任し、2011年4月からは監督に就任。2019年夏には、奥川恭伸、山瀬慎之助、内山壮真らを擁して甲子園で準優勝の成績を収める。石川県から優秀部活動指導者表彰を受けた。在任中には春に3度、夏に5度甲子園に出場している。2022年3月31日付で監督を退任することを2021年9月3日に発表。
戸部 浩(とべ ひろし、1974年7月15日 - )は、群馬… 戸部 浩(とべ ひろし、1974年7月15日 - )は、群馬県桐生市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 樹徳高校2年夏に背番号11で第73回全国高等学校野球選手権大会に同校初出場に導き、2回戦の大阪桐蔭に敗戦。続いて3年夏に第74回全国高等学校野球選手権大会に出場して初戦の近江高に完投勝利するが、2回戦で天理高にサヨナラ負けを喫した。 日本大学へ進学。4年時は2部リーグとなった。東都大学1部リーグ通算25試合登板、6勝12敗、防御率3.33、85奪三振。 東芝府中ではチーム最終年となった都市対抗野球で初戦先発勝利、その後は統合された東芝から1999年のドラフトで千葉ロッテマリーンズから3位指名され、入団。
高根澤 力(たかねざわ つとむ、1973年10月25日 - … 高根澤 力(たかねざわ つとむ、1973年10月25日 - )は栃木県出身の元社会人野球選手(捕手)である。 宇都宮学園高校では2年の秋から主将と四番・捕手を務め、秋の関東大会で萩原淳を擁する東海大甲府高を延長の末に破って準優勝し、翌春の選抜大会出場を決める。本大会では2回戦で関東大会決勝に続き市川高と対戦し、自身はタイムリーヒットを放ち追加点を挙げたものの、逆転サヨナラで敗れた。3年夏の1991年は栃木県大会で打率.364を記録してチームを支え、選手権大会に出場している。本大会では初戦で優勝候補の天理高と対戦し、谷口功一に抑えられ1対4で敗れた。 日本大学へ進学すると、野球部では1学年上の北川博敏と正捕手の座を争い、2年春には三塁手としてレギュラーになっている。
遠藤 政隆(えんどう まさたか、1972年9月20日 - )… 遠藤 政隆(えんどう まさたか、1972年9月20日 - )は、東京都八王子市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 福島県西白河郡西郷村生まれ。幼い頃に東京都八王子市に移る。小学4年でリトルリーグ入りし、中学3年の時には「八王子リトルシニア」でプレーし、全国大会で3位になった。アンジャッシュの渡部建とリトルリーグでチームメイトだった。 山梨県の日本大学明誠高等学校を卒業後、社会人野球の熊谷組へ入社。チームの休部が決まっていた1993年度のNPBドラフト会議で中日ドラゴンズから4位指名を受け、同年11月29日に契約金5000万円、年俸720万円の契約条件で仮契約した。 1994年は1試合に先発した以外は全て中継ぎでの登板でこの年は全体でも13試合に登板し防御率4.56を記録した。
真中 満(まなか みつる、1971年1月6日 - )は、埼玉… 真中 満(まなか みつる、1971年1月6日 - )は、埼玉県幸手市生まれ、栃木県大田原市出身の元プロ野球選手(外野手、左投左打)、野球解説者・野球評論家。 日本プロ野球におけるシーズン代打起用回数の最多記録保持者(98回)、シーズン代打安打の最多記録保持者 (31本)。 埼玉県幸手市(当時は北葛飾郡幸手町)で生まれ、幼少期に栃木・大田原市に転居。同県大田原市立大田原小学校5年の時に野球を始める。 宇都宮学園高等学校(現・文星芸術大学附属高等学校)時代は、3番を打ち、4番の髙嶋徹と共に3年時の1988年に春夏連続で甲子園に出場。第60回選抜大会はベスト4、第70回全国選手権は3回戦で敗退。 卒業後、日本大学経済学部産業経営学科(一部)に進学(同期生に渡邉博幸がいる)。
渡邉 博幸(わたなべ ひろゆき、1970年6月29日 - )… 渡邉 博幸(わたなべ ひろゆき、1970年6月29日 - )は、神奈川県出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)。2017年現在は中日ドラゴンズの二軍内野守備走塁コーチを務めている。
門奈 哲寛(もんな てつひろ、1970年5月30日 - )は… 門奈 哲寛(もんな てつひろ、1970年5月30日 - )は、静岡県出身の元プロ野球選手(投手)。
落合 英二(おちあい えいじ、1969年7月25日 - )は… 落合 英二(おちあい えいじ、1969年7月25日 - )は、栃木県下都賀郡石橋町(現:下野市)出身の元プロ野球選手(投手)、コーチ。 現役時代はNPBの中日ドラゴンズで中継ぎとして活躍した。2017年の登録名は英二。 石橋町立古山小学校、石橋町立石橋中学校を経て作新学院高等部に進学、作新学院では球速130 km/h台ながら、エースとして活躍。作新学院時代は甲子園出場は果たせなかった。1986年秋季栃木大会準々決勝に進むが、佐野日大高校に敗退。翌1987年春季栃木大会は準決勝で足利工の石井忠徳と投げ合って完封勝ち、決勝では高村祐を擁する前年の選抜準優勝校・宇都宮南高校に敗れたが関東大会出場権を得る。
山田 博一(やまだ ひろかず、1968年4月30日 - )… 山田 博一(やまだ ひろかず、1968年4月30日 - )は、北海道出身の元プロ野球選手(外野手)。 帯広農業高時代は、野球の傍ら冬はアイスホッケーの選手として活躍していた。『ニュースステーション』(テレビ朝日系列)では「帯広農業の山田君」の密着取材が何度か放送された。 日本大学へのアイスホッケー推薦が内定していたが、1986年オフにドラフト外で横浜大洋ホエールズに入団。一軍公式戦への出場がないまま、1990年限りで現役を引退。
秋元 宏作(あきもと こうさく、1968年1月29日 - )… 秋元 宏作(あきもと こうさく、1968年1月29日 - )は、東京都文京区出身の元プロ野球選手(捕手)・埼玉西武ライオンズのスカウト・育成統括ディレクター。 国学院久我山高では3年次の1985年春の第57回選抜大会に「4番・捕手」として出場するが、1回戦で松商学園に敗れる。同年夏の西東京大会でも準決勝に進むが、日大三高に敗れ、ベスト4。 高校卒業後の1986年4月、日本大学に進学したものの野球部には入らず、母校のコーチを務めていた。同年オフに日大を中退し、ドラフト外で西武ライオンズに入団。 1987年シーズンには、和田博実二軍監督の引率でアメリカ1A「サンノゼ・ビーズ」へ野球留学もしたが、当時の西武は伊東勤が正捕手で固定されており、一軍出場機会はなかった。
栄村 孝康(さかえむら たかやす、本名:隆康(読み同じ)、1… 栄村 孝康(さかえむら たかやす、本名:隆康(読み同じ)、1967年9月15日 - )は、神奈川県出身のプロ野球審判員である。現役引退時の袖番号は2。
渡辺 英昭(わたなべ ひであき、1966年8月18日 - )… 渡辺 英昭(わたなべ ひであき、1966年8月18日 - )は、埼玉県川口市出身の元プロ野球選手(内野手)。 日大二高から日本大学へ進学、東都大学野球リーグでは2年秋からは2部リーグであった。1988年のプロ野球ドラフト会議でロッテオリオンズから3位指名され入団。 1989年から一軍初出場を果たす。 1991年には33試合に出場する。 1996年オフに戦力外通告を受け現役を引退した。その後、球団フロント入りし、編成部((調査担当、渉外担当)に所属し、プロ野球2軍調査担当経て、MLB調査担当として、マイナーリーグを中心にスカウティング担当し、2000年オフに退団。2001年からは、スポーツマネジメントを手掛ける株式会社SPORTS BIZに務める。
阿井 英二郎(あい えいじろう、1964年9月29日 - )… 阿井 英二郎(あい えいじろう、1964年9月29日 - )は、茨城県稲敷郡美浦村出身の元プロ野球選手(投手)。 2005年から2012年まで埼玉県川越市の川越東高等学校の地理歴史教諭および野球部監督を務めた後、2013年から2015年まで北海道日本ハムファイターズの一軍ヘッドコーチを務めた。2016年からは、野球解説者として活動した。2018年9月からは硬式野球クラブのイートファクトリーベースボールクラブでシニアアドバイザー、2019年1月からは札幌国際大学スポーツ人間学部の教授も務める。 ユニフォームの背ネーム「AI」は、王貞治(OH)、呂明賜(RO)らと並び、日本プロ野球史上最も短い背ネームである。
荒井 直樹(あらい なおき、1964年8月16日 - )は、… 荒井 直樹(あらい なおき、1964年8月16日 - )は、神奈川県出身の元アマチュア野球選手、高校野球指導者。 綾瀬市立綾北中学校、日本大学藤沢高等学校を経て、いすゞ自動車で社会人野球選手としてプレー。 高校時代は投手として活動。3年夏の全国高等学校野球選手権神奈川大会では2試合連続ノーヒットノーランを達成する。しかしながら、続く準々決勝の横浜商業高戦では自身が登板しないまま敗れ、甲子園出場は叶わなかった。1学年下の山本昌とは一緒に練習したり食事をする仲であり、交友関係は高校卒業後も続く。 高校卒業後は、社会人野球の名門いすゞ自動車に入社。しかし、入社4年で投手から 外野手にコンバートさせられ、その後 三塁手への転向を命じられた。
和田 豊(わだ ゆたか、1962年9月2日 - )は、千葉県… 和田 豊(わだ ゆたか、1962年9月2日 - )は、千葉県松戸市出身の元プロ野球選手(内野手、右投右打)、プロ野球コーチ。 阪神タイガース監督退任後は、阪神球団オーナー付シニアアドバイザーを経て、2017年11月1日から球団本部付テクニカルアドバイザー(TA)、一軍・二軍打撃巡回コーディネーターを務め、2026年より一軍ヘッドコーチに就任する。 1985年に阪神へ入団してから、阪神一筋フランチャイズ・プレイヤーとして他球団へ移籍することなく2001年まで現役生活を送った。 現役引退後は、一軍・二軍でのコーチを経て、2012年から2015年まで一軍の監督を歴任。阪神において、選手・コーチ・監督時代を通じて、31シーズン連続で現場で従事した人物は、和田が初めてである。
宗像 忠典(むなかた ただのり、1962年3月13日 - )… 宗像 忠典(むなかた ただのり、1962年3月13日 - )は、福島県郡山市出身の元社会人野球選手(投手)。高校野球指導者。日本大学東北高等学校保健体育科教諭、同校硬式野球部元監督。 日大東北高時代は、エースとして吉田康夫とバッテリーを組み活躍したが甲子園出場はなし。 高校卒業後は、日本大学へ進学し硬式野球部に入部。東都大学1部リーグでは、通算27試合登板、2勝10敗の成績を残す。1学年下に和田豊がいた。 大学卒業後は、地元である福島県郡山市に本拠地を置く強豪社会人野球チームのヨークベニマルに入団。また、郡山ベースボールクラブというクラブチームで全国準優勝も果たしている。 現役引退後、1987年10月に母校である日大東北高の野球部監督に就任。
野中 寿人(のなか かずと、1961年6月6日 - )は、東… 野中 寿人(のなか かずと、1961年6月6日 - )は、東京都大田区出身の野球指導者。2度にわたって野球インドネシア代表監督を務め、さらに野球スリランカ代表監督も務めた。 高校時代は日本大学第三高等学校のキャッチャーとして、1979年の第61回全国高等学校野球選手権大会(夏の甲子園)に出場。プロ野球からの勧誘を断って大学に進んだが、意中の進学先だった明治大学ではなく日本大学であったことや大学での指導方法に不満を持ち、1年生で休部。3年生時に復帰するものの、プロ野球選手への道は断念した。当時の強豪社会人チームプリンスホテル硬式野球部への入部が決まっていたが結局入社せず。[要出典]1984年に日本大学を卒業し、1987年にフィリピンに渡って実業家となるも、現地でのトラブルから帰国を余儀なくされる。
森下 知幸(もりした ともゆき、1961年3月21日 - 2… 森下 知幸(もりした ともゆき、1961年3月21日 - 2024年1月16日)は、日本の野球選手、高校野球指導者。御殿場西高等学校事務職員・野球部監督。 静岡県立浜松商業高等学校野球部監督、日本大学三島高等学校野球部監督、常葉学園菊川高等学校野球部監督などを歴任した。 浜松市立天竜中学校卒業、野球部の一学年下には横浜高校~日本ハムの曽利田勝二がいた。静岡県立浜松商業高等学校の野球部では主将を務め、第50回選抜高等学校野球大会にて優勝を果たした。 その後、中部電力での社会人野球の選手を経て、静岡県立浜松商業高等学校、日本大学三島高等学校、常葉学園菊川高等学校にて野球部の指導を担当した。特に常葉学園菊川高等学校においては、甲子園で一度も勝利したことがなかった同校を強豪校となるまでに育て上げ、第79回選抜高等学校野球大会での優勝に導いた。
石川 賢(いしかわ まさる、1960年5月21日 - )は、… 石川 賢(いしかわ まさる、1960年5月21日 - )は、山梨県東山梨郡牧丘町(現:山梨市)出身の元プロ野球選手(投手)。 中学時代は野球部所属の傍ら、陸上部でも活躍し、走高跳で県大会優勝。日川高校では1年秋から主戦投手となる。1976年秋季関東大会に進出、1回戦で作新学院に敗れるが、好投手として注目される。1977年夏の県大会は準決勝で塩山商に敗れる。秋は県大会3位で明治神宮大会に出場すると初戦を完投勝利した。1978年の夏の甲子園にエース、四番打者として出場。2回戦(初戦)でPL学園の西田真次と投げ合うが敗退。早大への進学を希望するもセレクションに通らず、卒業後は一般入学で日本大学に進学。
小倉 全由(おぐら まさよし、1957年4月10日 - )は… 小倉 全由(おぐら まさよし、1957年4月10日 - )は、千葉県長生郡一宮町出身の高校野球指導者。旧姓は斉藤。 元プロ野球選手・監督の森繁和ははとこにあたる。またタレントの小倉優子は親戚。 一宮町立一宮中学校時代はエースで4番。同級生にタレントのあご勇がいた。 日大野球部に在籍していた6歳上の兄の勧めで東京都にある日大三高に進学。高校では内野手だったがレギュラーにはなれなかった。日本大学では野球部には入らなかったが、高校野球の指導者を志し、母校である日大三高のコーチを務めていた。 大学卒業後の1981年に関東一高野球部監督に就任。1985年夏の甲子園に甲子園初出場しベスト8に進出した。1987年・春の甲子園では下手投げの平子浩之投手(東洋大-日本通運)と三輪隆捕手のバッテリーを擁し準優勝に導く。
佐藤 義則(さとう よしのり、1954年9月11日 - )は… 佐藤 義則(さとう よしのり、1954年9月11日 - )は、北海道奥尻郡奥尻町出身の元プロ野球選手(投手)。コーチ・野球解説者・野球評論家。佐藤義則事務所所属。 北海道奥尻郡奥尻町出身。奥尻ブレークスで本格的に野球を始め、奥尻中学校では中学3年の時に函館地区で優勝して全道大会に出場した。卒業後、函館有斗高校に進学して上野美記夫の指導を受ける。エースとして1972年春季北海道大会決勝に進み、苫小牧工業高校の工藤敏博(法政大学)と投げ合い完封勝利で優勝。同年夏の甲子園南北海道予選も決勝に進出するが、今度は苫小牧工業高校に0-2で惜敗し甲子園出場を逸する。卒業後は日本大学に進学。当時の日本大学は低迷期にあり、東都大学野球リーグでは、1974年秋季リーグ後に二部降格(1季のみ)も経験する。
和泉 貴樹(いずみ たかき、1954年6月14日 - )は、… 和泉 貴樹(いずみ たかき、1954年6月14日 - )は、栃木県出身の元アマチュア野球選手(外野手)、野球指導者。 宇都宮商業高等学校では、1971年秋季県大会準決勝に進むが、作新学院高に敗退。卒業後は日本大学に入学。当時の日大野球部は低迷期にあり、東都大学野球リーグでは優勝に届かず、1974年秋季リーグ後に二部降格(1季のみ)も経験する。しかし同期のエース佐藤義則を擁し1975年秋季リーグでは駒大に次ぐ2位、1976年秋季リーグでは3位と健闘。自身もこの両季で首位打者を獲得し、ベストナイン(外野手)に選出されている。1975年秋は2位ながらも明治神宮大会に出場している。 大学卒業後は、社会人野球の日立製作所に入社。
保坂 英二(ほさか えいじ、1953年11月29日 - )は… 保坂 英二(ほさか えいじ、1953年11月29日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手である。ポジションは投手。 日本大学第一中学校時代に東京大会の決勝で早実中と対戦し延長戦で0-1と惜敗。その後早実から勧誘されたが、そのまま日本大学第一高等学校へ進学。 日大一高では入学直後から速球派左腕として1年から甲子園で登板機会を与えられる。1969年、1年生の時に夏の東京大会準決勝、2連覇を狙う日大一高はセンバツ準優勝の但田裕介を要する堀越を破り第51回全国高等学校野球選手権大会に出場。小山良春(日大-三協精機)の控え投手として2回戦で藤波行雄、松島英雄のいた静岡商に1-3で敗退するが、この試合で小山をリリーフして初めて甲子園のマウンドを踏んだ。
木村 広(きむら ひろし、1953年8月17日 - )は、長… 木村 広(きむら ひろし、1953年8月17日 - )は、長崎県南高来郡加津佐町出身の元プロ野球選手(投手)。 長崎県立口加高等学校では1971年夏の全国高等学校軟式野球選手権決勝で浜田高校を降し、優勝投手に輝く。卒業後、日本大学へ進学し1974年に硬式に転向。東都大学野球リーグでは優勝に届かず、1974年秋季リーグ後に二部降格(1季のみ)も経験する。4年秋はリーグ2位校として明治神宮大会に出場し、初戦で先発するが日体大に1失点で敗退。リーグ通算3勝1敗。大学同期に岩沢建一、1年下に佐藤義則がいた。 1975年のドラフト会議で太平洋クラブライオンズから5位指名を受け、入団。 1980年に初の1軍入りを果たした。
岩沢 建一(いわさわ けんいち、1953年 - )は、東京都… 岩沢 建一(いわさわ けんいち、1953年 - )は、東京都出身の元アマチュア野球選手。ポジションは捕手、内野手、外野手。 日本大学第三高等学校では同期のエース渡部良克(日大-名古屋日産)とバッテリーを組み、四番打者として2年生時に1970年春の選抜に出場。2回戦に進むが、淡口憲治、羽田耕一、中西清治らのいた三田学園に敗退。同年夏の甲子園都予選は準決勝で日大一高の保坂英二に抑えられ惜敗。翌1971年春の選抜にも連続出場。準々決勝で深谷商、準決勝では坂出商に完封勝ち。決勝でもエース奥田直也を擁する大鉄高を完封で降し初優勝を飾る。同年夏は都予選準決勝でまたも日大一高の保坂に完封負けを喫する。1年下のチームメイトに吉沢俊幸、待井昇がいた。
田村 隆寿(たむら たかとし、1952年6月3日 - )は、… 田村 隆寿(たむら たかとし、1952年6月3日 - )は、日本の高校野球指導者。1971年の第53回全国高等学校野球選手権大会準優勝投手。安積商業高校、磐城高校、聖光学院高校野球部元監督。 1952年、福島県に生まれた田村は、湯本第二中時代は投手として活躍。県大会で3位に輝いた。中学卒業後に1年浪人し、1969年に磐城高に入学。 入学当初は内野手であったが捕手に転向し、1970年には夏の甲子園に5番打者として出場した。1回戦で、準優勝したPL学園高に1-2とサヨナラ負けしたが、自身は2安打と奮闘した。秋になり新チーム結成後も捕手であったが、秋季大会でエースが打ち込まれたことを受け、田村が投手に転向することになった。
宇野 輝幸(うの てるゆき、1952年2月10日 - )は、… 宇野 輝幸(うの てるゆき、1952年2月10日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手(捕手)である。 日本大学第一高校(東京)では小山良春(日大-三協精機)、保坂英二の両投手を擁し、1969年の第51回全国高等学校野球選手権大会に出場。本来は捕手であるが、打力を活かし三塁手、四番打者として起用された。1回戦で東洋大姫路を降すが、2回戦では松島英雄、藤波行雄のいた静岡商に敗れる。同年秋、阪急ブレーブスのドラフト3位指名を受け、入団。 ブレーブスでは中沢伸二、河村健一郎に次ぐ三番手の捕手であったが、1977年には26試合に先発マスクを被り活躍。地味ではあるが1975年からのチームのリーグ4連覇・日本シリーズ3連覇に貢献している。
林 龍郎(はやし たつろう、1952年 - )は、東京都出身… 林 龍郎(はやし たつろう、1952年 - )は、東京都出身の出身の元アマチュア野球選手(外野手)。 日本大学第一高校では、主力打者として3年連続で夏の甲子園に出場。1968年夏の選手権に、1年上のエース小山良春(日大-三協精機)を擁し右翼手として出場するが、2回戦(初戦)で星林高に敗退。1969年夏の選手権では中堅手に回り、1回戦で東洋大姫路を降すが、2回戦では松島英雄、藤波行雄のいた静岡商に敗れる。他のチームメイトに捕手、三塁手の宇野輝幸がいた。1970年夏の選手権は1年下の保坂英二がエースとなる。1回戦で都城高を降すが、2回戦で大分商の小川清一に抑えられ敗退。 亜細亜大学に進学。東都大学野球リーグでは、1971年春季リーグでエース山本和行の好投もあって優勝を経験。
小枝 守(こえだ まもる、1951年7月29日 - 2019… 小枝 守(こえだ まもる、1951年7月29日 - 2019年1月21日)は、日本の高校野球指導者。東京都生まれ。日本大学第三高等学校、拓殖大学紅陵高等学校野球部監督を歴任し、日本高等学校野球連盟技術・振興委員を務めた。
中沢 邦男(なかざわ くにお、1950年 - )は、神奈川県… 中沢 邦男(なかざわ くにお、1950年 - )は、神奈川県出身の元アマチュア野球選手。ポジションは捕手。 日本大学高校では2年生時に、右翼手、五番打者として1967年夏の甲子園県予選決勝に進むが、武相高の島野修に抑えられ、延長11回の末に0-1でサヨナラ負け。 日本大学に進学。東都大学野球リーグでは捕手として活躍、同期の鈴木博識(当時は鈴木博、三菱自動車川崎-日大監督)、1年下の小山良春(三協精機)らとバッテリーを組む。1971年秋季リーグでは最上級生の畑野実らと打線の主軸となり優勝、最高殊勲選手に選出される。同年の明治神宮野球大会でも、決勝でエース山本和行を擁する亜大を降し初優勝を飾った。強肩で知られ、1971年秋季リーグから3季連続でベストナイン(捕手)に選出される。
畑野 実(はたの みのる、1949年9月23日 - )は、東… 畑野 実(はたの みのる、1949年9月23日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。 日大三高では、高校同期の古賀正明、柴田民男両投手を擁し、2年生の時から三塁手として活躍。1966年の春季東京大会準決勝に進むが、日大一高の保谷俊夫、桜井憲の継投に抑えられ敗退。同年夏の甲子園東京都予選では決勝進出を果たし、修徳高と対決。古賀が先発するが、辻正孝に本塁打を喫するなど乱戦の末に7-9で惜敗。翌1967年夏も都予選準決勝で依田優一が四番打者であった堀越高に敗れ、甲子園出場はならなかった。 卒業後は柴田とともに日本大学へ進学。東都大学野球リーグでは三塁手、三番打者として中沢邦男らと打線の主軸となり、1971年秋季リーグの優勝に貢献。
柴田 民男(しばた たみお、1949年4月5日 - )は、東… 柴田 民男(しばた たみお、1949年4月5日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手(投手)。 日大三高では、同期の古賀正明とともに投手陣の中心として活躍。1965年秋季東京大会では1回戦で先発を任されるが、堀越高に大敗。1966年の夏の東京都大会決勝に進出するが修徳高に敗退、古賀が完投して自らの登板はなかった。1966年秋季東京大会では日体荏原高との準々決勝で先発するが古賀らに繋ぎ、延長15回の末に敗退。1967年夏は都大会準決勝で古賀が先発して3番手で登板したがまたも堀越高に7回コールド負け、甲子園出場はならなかった。古賀以外の高校同期に大学でも同僚の畑野実三塁手がいる。 高校卒業後は、畑野とともに日本大学へ進学。
渡辺 博敏(わたなべ ひろとし、1948年11月23日 - … 渡辺 博敏(わたなべ ひろとし、1948年11月23日 - )は、佐賀県出身の元プロ野球選手(投手)、野球指導者。 伊万里高校から日本大学へ進学。大学卒業後は一度野球から離れ教職に就いた。 しかしプロ野球への夢を捨てきれず、当時福岡を本拠地としていた西鉄ライオンズの入団テストを受験し合格。1970年のドラフト外で西鉄ライオンズへ入団する。 西鉄では出場の機会はなく、1972年オフに金銭トレードで阪神タイガースへ移籍。移籍後、1974年に一軍初登板。1976年オフに現役を引退した。サイドスローからの癖球を武器としていた。 引退後は運動用品メーカーに勤務していた。1999年には、国際協力機構の知人を通じてアフリカのガーナで野球指導を行っている。
石塚 雅二(いしづか まさじ、1947年7月15日 - )は… 石塚 雅二(いしづか まさじ、1947年7月15日 - )は、茨城県出身の元プロ野球選手(捕手)。 日大三高では、1年生の時にエース若宮秀雄とバッテリーを組み1963年の秋季東京大会に優勝、翌1964年の春の選抜への出場を決める。選抜では2回戦(初戦)で浪商に敗退している。同年夏の甲子園都予選は6回戦で修徳高に敗退。1年上のチームメートに若宮の他、遊撃手の大橋穣がいた。1965年の夏の甲子園都予選では同期のエース佐藤道郎を擁し決勝に進むが、日大二高の神山修に完封され0-2で惜敗、甲子園出場を逸する。 日本大学へ進学するが中退し、社会人野球の三菱重工川崎へ入社する。 その後、1969年に中南米で新規に発足した国際的プロ野球リーグである「グローバルリーグ」の東京ドラゴンズに、森徹、矢ノ浦国満らと共に参加するが、同リーグは財政問題で破綻し、解散を余儀なくされた。
佐藤 道郎(さとう みちお、1947年5月5日 - )は、東… 佐藤 道郎(さとう みちお、1947年5月5日 - )は、東京都中野区出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 愛称はミチ、ミチさん。 パ・リーグ初の最多セーブ投手を獲得している。 日大三高ではエースとして同期の石塚雅二とバッテリーを組み、3年次の1965年には夏の甲子園都予選決勝に進むが、後に大学で同期となる日大二高の神山修投手に完封され0-2で惜敗、甲子園出場を逸する(2年時にチームはセンバツに出場したが自身の出番は無かった)。高校の1年上には遊撃手の大橋穣、1年下に左翼手の磯部史雄がいた。 高校卒業後の1966年、石塚と共に日本大学へ進学。東都大学野球リーグでは低迷が続き、3年次の1968年にチームが二部に降格するが、4年次の1969年に一部復帰を果たす。
植原 修平(うえはら しゅうへい、1947年4月28日 - … 植原 修平(うえはら しゅうへい、1947年4月28日 - )は、東京都世田谷区出身の日本の元プロ野球選手。ポジションは外野手。実業家(株式会社同栄 代表取締役社長)。 帝京商工高校では、1965年の夏の甲子園都予選準々決勝に進むが、日大三高の佐藤道郎に抑えられ敗退。日本大学へ進学し、佐藤とはチームメートになる。東都大学野球リーグでは外野手、一塁手として活躍。エース佐藤を擁し1969年春秋季リーグで連続優勝、自身も春季リーグでベストナイン(一塁手)に選出される。同年の全日本大学野球選手権大会では、決勝で東海大の上田次朗に完封を喫し準優勝。リーグ通算6本塁打を放った。他の大学同期に捕手の須藤和彦がいる。