山岡 俊(やまおか たかし、1976年4月24日 - )は、… 山岡 俊(やまおか たかし、1976年4月24日 - )は、日本の元ラグビー選手、指導者。2018年現在サントリーサンゴリアスのFW(フォワード)コーチを務めている。 高校からラグビーを始める。 1995年、山形中央高校卒業後、明治大学に入学。なお山形中央高校時代、高校日本代表に選ばれたことがある。 1998年、明治大学ラグビー部の主将に就任した。 1999年、明治大学卒業後、サントリー(現・サントリーサンゴリアス)に加入。 2004年、イタリア戦に出場し日本代表デビューを果たす。 2012年、現役を引退した。
田中 澄憲(たなか きよのり、1975年12月28日 - )… 田中 澄憲(たなか きよのり、1975年12月28日 - )は、日本の元ラグビー選手。
伊藤 宏明(いとう・ひろあき、1975年11月17日 - )… 伊藤 宏明(いとう・ひろあき、1975年11月17日 - )は、日本の元ラグビー選手。2015年現在イーストリーグDiv.1ヤクルトレビンズのBKコーチを務める。
信野 将人(しんの まさと、1974年3月16日- )は、日… 信野 将人(しんの まさと、1974年3月16日- )は、日本の元ラグビー選手。 早大ラグビー部出身の父の影響を受け、国学院久我山高校を経て明治大学に進む。 明大ラグビー部では1年生から正スタンドオフとして試合に出場し、4年生となった1995年には主将を務めた。在学中に大学選手権で2度優勝(1993年、1995年)している。 卒業後はリコーに入社してラグビーを続け、2006年に現役引退、2012年に退社した。 2012年8月7日、タクシーの運転手を殴り、タクシーを奪ったとして警視庁神田署に強盗容疑で逮捕されたが、誤認逮捕で不起訴処分となる。
渡邉 大吾(わたなべ だいご。1973年1月22日 - )は… 渡邉 大吾(わたなべ だいご。1973年1月22日 - )は日本のラグビー選手。元競輪選手(日本競輪選手会愛知県支部所属)である。山梨県出身。天理高校、明治大学時代はラグビーのトップ選手として鳴らしたが、ラグビー選手としてのキャリアは大学で一旦途切れ、その後競輪界入りした。
天野 慶久(あまの よしひさ、本名同じ、1972年11月22… 天野 慶久(あまの よしひさ、本名同じ、1972年11月22日 - )は、日本の元ラグビー選手、俳優。ケイダッシュ所属。 ポジションはフランカーおよびナンバー8。国学院久我山高等学校では全国高等学校ラグビーフットボール大会ベスト8。明治大学に進学。在学中には、関東大学対抗戦で4年間全勝優勝、全国大学ラグビーフットボール選手権大会で優勝2回、準優勝1回、日本選手権に出場。第1回ジャパンセブンス選手権大会で優勝。卒業後はオーストラリア、イングランド留学を経て、サントリーに入社して活躍した。U23日本代表、日本A代表、日本代表、関東代表、7人制日本代表、10人制日本代表に選出された。 海外クラブチームでプレーしていた時期があり、ゴードン(シドニー)、サニーバンク(ブリスベン)(以上、オーストラリア)、ワンプス(ロンドン)などに在籍していた。
天野 義久(あまの よしひさ、本名同じ、1972年11月22… 天野 義久(あまの よしひさ、本名同じ、1972年11月22日 - )は、日本の元ラグビー選手、俳優。ケイダッシュ所属。
元木 由記雄(もとき ゆきお、1971年8月27日 - )は… 元木 由記雄(もとき ゆきお、1971年8月27日 - )は、大阪府東大阪市英田出身の元ラグビー選手。
清水 秀司(しみず しゅうじ、1971年3月22日 - )は… 清水 秀司(しみず しゅうじ、1971年3月22日 - )は、日本の元ラグビー選手。 ラグビーを始めたきっかけは太っていたことから。 1989年、旭野高校卒業後、明治大学に入学する。 1992年、明治大学ラグビー部の副将に就任した。 1993年、明治大学卒業後、神戸製鋼(現・神戸製鋼コベルコスティーラーズ)に加入。 2008年、現役を引退した。
永友 洋司(ながとも ようじ、1971年3月14日 - )は… 永友 洋司(ながとも ようじ、1971年3月14日 - )は 日本の元ラグビー選手、指導者。現在ジャパンラグビーリーグワン横浜キヤノンイーグルスのGMを務めている。2024年6月1日から、日本ラグビーフットボール協会所属で15人制男子日本代表のチームディレクターに就任。 都城高校入学後にラグビーを始める。兄がラグビーをやっていたこと、1985年の日本代表vsフランス代表を見て、同じ宮崎県出身の小西義光が活躍しているのに触発されたことが、ラグビーを始めたきっかけだった。高校入学後はめきめきと実力を発揮し、1987年全国高校ラグビー選手権ではベスト4 まで進出した。この活躍が認められ、高校日本代表に選出された。
吉田義人(よしだ よしひと、1969年2月16日 - )は、… 吉田義人(よしだ よしひと、1969年2月16日 - )は、日本の元ラグビー選手、ラグビー指導者。 小学3年生からラグビーを始め、男鹿東中時代に東日本中学生大会優勝。秋田工業高校では1年時からレギュラーとなり(名門チームの歴史においては、野球部と掛け持ちしていた落合博満にもできなかった偉業)。高校3年夏には高校日本代表としてニュージーランドに遠征。高校ニュージーランド代表とも対戦した。 早くから各大学のスカウトが目に留め、本人の将来が体育教師志望という事もあり日体大に進学が決まりかけていたが、明治大学のセレクター(明治大学ラグビー部選手選抜委員)が日体大側を拝み倒して明大進学が決まった。北島忠治監督は吉田を明治のラグビー練習場・八幡山グラウンドで一目見て「これは将来の日本を背負う逸材だ」と見抜いた。
丹羽 政彦(にわ まさひこ、1968年11月23日 - )は… 丹羽 政彦(にわ まさひこ、1968年11月23日 - )は、日本のラグビー指導者、元ラグビー選手。北海道苫前郡苫前町生まれ。現役時代のポジションはウィング(WTB)。 元明治大学ラグビー部監督。現在、北海道ラグビーフットボール協会W杯準備委員会委員長。 羽幌高校時代、北海道遠征に来ていた北島忠治(明治大学ラグビー部監督)に見出され、明治大学に進学。 明大4年時には大学選手権優勝に貢献した。大学の同期である吉田義人とは、バックスで名コンビであった。 大学卒業後は清水建設に入社。関東社会人リーグで2度の優勝を経験し主将も務めた。 2013年に吉田義人の後任として明治大学ラグビー部の監督に就任し、2017年度まで監督を務めた。
加藤 尋久(かとう ひろなが、1967年6月16日 - )は… 加藤 尋久(かとう ひろなが、1967年6月16日 - )は、埼玉県出身の元ラグビー選手、ラグビー指導者。ポジションはSO(スタンドオフ)、CTB(センター)。 現在は東京都世田谷区用賀にあるトレーニングサロン「エウレカ」の代表としてパーソナルトレーニングを中心に行なっている。 ・ブルテリアを2匹(ブンタとバナナ)飼っている 熊谷工業でラグビーを始める。スタンドオフとして全国大会4強2回。 1986年、明治大学に入学。2年生の時には伝説の「雪の早明戦」に出場した。 1990年、神戸製鋼に入社、同社ラグビー部(現神戸製鋼コベルコスティーラーズ)に入部しV3~V7の5年間在籍。日本代表ではアルゼンチン遠征でキャップ2。
太田 治 (おおた おさむ、1965年3月23日 - )は、… 太田 治 (おおた おさむ、1965年3月23日 - )は、日本の元ラグビー選手、指導者。JAPAN RUGBY LEAGUE ONE NECグリーンロケッツ東葛のアドバイザーを務める。 秋田工業高校から明治大学へ進学し、3年時には、全国大学選手権優勝に貢献。4年時には日本代表に選出、1986年のアメリカ戦で初キャップを得る。 卒業後の1987年、日本電気に入社。1990年から2年間は主将を務める。 日本代表としては宿澤広朗監督の下、1989年5月28日のスコットランド戦での歴史的勝利や、1991年W杯初勝利に貢献。1995年W杯にも出場した。 2000年、NECグリーンロケッツの監督に就任。2002年度の日本選手権優勝に導く。
高橋 善幸(たかはし よしゆき、1965年2月10日 - )… 高橋 善幸(たかはし よしゆき、1965年2月10日 - )は、日本の元ラグビー選手。現在ジャパンラグビーリーグワン釜石シーウェイブスRFCのシニアアドバイザーを務めている。 1980年黒沢尻工業高校に入学、高校2年時高校3年時に花園出場。 高校日本代表にも選ばれ3年生時には代表チームの主将も務めた。 1983年明治大学に進学しラグビー部に入部、4年時にはチームの主将となった。 1987年新日本製鉄に入社。釜石製鉄所に配属され、新日鉄釜石ラグビー部に入部し長年にわたり選手として活躍した。 1997年新日鉄釜石ラグビー部監督就任。 2001年新日鉄釜石ラグビー部を母体とする釜石シーウェイブス創立に伴い監督就任。
大西 一平(おおにし かずひら、1964年5月26日 - )… 大西 一平(おおにし かずひら、1964年5月26日 - )は、大阪府大阪市城東区出身の元ラグビー選手。ポジションはHO(フッカー)→LO(ロック)→FL(フランカー)・No8(ナンバーエイト)。なお名前の読みは「いっぺい」と通称されているが、戸籍上は「かずひら」。
藤田 剛(ふじた つよし、1961年1月27日 - )は、日… 藤田 剛(ふじた つよし、1961年1月27日 - )は、日本の元ラグビー選手、同指導者。
相沢 雅晴(あいざわ まさはる、1958年5月12日 - )… 相沢 雅晴(あいざわ まさはる、1958年5月12日 - )は、日本の元ラグビー選手。 國學院久我山高校、明治大学を経て、1981年、リコー(現・リコーブラックラムズ東京)に加入。 1984年10月27日に行われた韓国戦で日本代表初キャップを獲得した。 現役引退後、日本国土開発の監督を務めた。 現在はMIP FCの代表を務めており、元日本代表の経験を活かして子供達に指導している。
砂村 光信(すなむら みつのぶ、1958年 - )は、日本の… 砂村 光信(すなむら みつのぶ、1958年 - )は、日本の元ラグビー選手。現役時代のポジションはスタンドオフ。 東京の下町、浅草生まれ。台東区立浅草小学校を卒業後、東京都台東区立藏前中学校に進学。在学中に在籍していた軟式野球部のトレーニングの一環として、顧問の先生の指導でラグビーに出会う。 中学卒業後、進学した國學院久我山高校でラグビー部に入部。2年次に花園初制覇を成し遂げ、3年次には主将を務めた。 大学は明治大学に入る。1年次と3年次には関東大学対抗戦・大学選手権の2冠を経験する。 明治大学卒業後、リコーに入社。営業担当の傍らラグビー部で選手として活動。日本代表にも選出される。 引退後はイギリスでの駐在も経験。
瀬下 和夫(せじも かずお、1957年(昭和32年)8月20… 瀬下 和夫(せじも かずお、1957年(昭和32年)8月20日 - )は、秋田県秋田市出身の日本の実業家で、元ラグビー選手。ポジションはフォワード(ナンバーエイト(No.8))。
西妻 多喜男(にしづま たきお、1954年3月12日 - )… 西妻 多喜男(にしづま たきお、1954年3月12日 - )は、日本の元ラグビー選手(ラグビー男子日本代表)。実業家。 福岡県出身。福岡県立福岡高等学校を経て、明治大学卒業。 福岡高校時代からラグビーで活躍し、明大進学後もラグビー部でロックのレギュラーを務める。4年時には、同期の松尾雄治(日本代表、TVパーソナリティ)、笹田学(日本ラグビーフットボール協会理事、横河電機常務)、阿刀裕嗣(日本代表、TVパーソナリティ)などと共に、全国大学ラグビーフットボール選手権大会で優勝を遂げた。更に、大学と社会人の優勝チーム同士が勝負する日本ラグビーフットボール選手権大会で、社会人代表の三菱自動車工業京都を破り、日本一となった。
松尾 雄治(まつお ゆうじ、1954年1月20日 - )は、… 松尾 雄治(まつお ゆうじ、1954年1月20日 - )は、東京都出身の元ラグビーユニオン選手、スポーツキャスターである。立教大学ラグビー部OBの父親の影響もあり、成城学園中学校高等学校から、ラグビー強豪の私立目黒高校に転校。元祖ミスター・ラグビー。実弟である雄吾(元・三菱自動車工業京都)、雄太(元・栗田工業)、雄介(元・新日本製鐵釜石)も元ラグビー選手である。現在も東京都在住。 東京都渋谷区恵比寿生まれ、世田谷区成城育ち。目黒高校から明治大学、新日本製鐵釜石ラグビー部(現・日本製鉄釜石シーウェイブス)で活躍した。 高校時代は全国高校ラグビーで1年次の第49回大会は優勝、2年次の第50回大会は優勝を果たした盛岡工業にベスト8で抽選で敗れ、3年次の第51回大会は決勝まで進んだが、自軍インゴールに相手(天理高校)が蹴り込んだボールをタッチダウンせず、蹴り出そうとしたが空振り、直後に相手選手がそのボールを押さえ、決勝トライを奪われ準優勝で終わった。
阿刀 裕嗣(あとう ゆうじ、1953年8月22日 - )は、… 阿刀 裕嗣(あとう ゆうじ、1953年8月22日 - )は、日本の元ラグビー選手及び司会者・コメンテーター。 幼年期はNHK福岡児童劇団に在籍し、福岡のTVやラジオで活躍するが変声期を迎え退団。 福岡高校に進学後ラグビーを始め、明治大学4年時に、第12回全国大学選手権及び、第13回日本選手権で優勝を経験。1976年3月のNZ学生選抜戦で初めて日本代表に選ばれ、明治大学卒業後は神戸製鋼に入社。日本代表のカナダ遠征メンバーに選出され、1976年5月12日に行われたブリティッシュコロンビア州代表戦でキャップを獲得した。 その後、故郷の福岡へ戻り、福岡放送で放送されたテレビ番組、朝一番!OKINKA-TVのキャスターを務め、その後、テレビ西日本、FM福岡、九州朝日放送、RKB毎日放送各局でキャスター、パーソナリティ、コメンテーターを務めた。
笹田 学(ささだ まなぶ、1953年7月21日 - )は、岩… 笹田 学(ささだ まなぶ、1953年7月21日 - )は、岩手県出身の元ラグビー選手。現役時代のポジションはフッカー(HO)。 盛岡工業高から明治大学に進学。明治大学ラグビー部では主将を務め、1976年に社会人を破り初の日本選手権優勝を果たした。 ラグビー日本代表では76年のブリティッシュ・コロンビア・カナダ戦で初キャップを獲得し、通算キャップ数は8。 大学卒業後は、社会人チーム古豪の横河電機に入社。一貫して人事畑を歴任。 2006年から2008年までは、中国統括として上海に赴任、中国8拠点の一元化、連携化を実施する事により、中国石油会社より大型受注獲得に寄与する。 現役引退後は日本ラグビーフットボール協会理事、日本代表強化委員会副委員長、NHKのラグビー中継解説者。
寺西 博(てらにし ひろし、1935年2月8日 - )は、日… 寺西 博(てらにし ひろし、1935年2月8日 - )は、日本の元・ラグビー選手及び指導者。 北見北斗高校を経て、明治大学(以下、明大)へ進み、1956年度シーズンには明大の主将を務めた。また同年、オーストラリア学生代表戦でラグビー日本代表デビューを果たし、通算キャップ数5を獲得した。 明大卒業後は日本鉱業に入社。 その後、明大ラグビー部のコーチを経て、ヘッドコーチに就任。明大ラグビー部の象徴である北島忠治監督を長年に亘って補佐し、北島が体調不良のため、1991年度シーズンより試合会場へ姿を見せなくなると、自身が指揮を執った。 1996年、北島が死去したため、二代目の明大ラグビー部監督に就任。同年度の大学選手権で明大は優勝した。
宮井 国夫(みやい くにお、1932年12月3日 - )は、… 宮井 国夫(みやい くにお、1932年12月3日 - )は、日本の元ラグビー選手。「走る重戦車」の異名をもつ。 北海道北見北斗高等学校時代の1951年度、主将として全国高等学校ラグビーフットボール大会に出場し、準優勝を経験。 その後、明治大学へと進み、1955年度には主将を務め、また同大学在籍時代には日本代表選手にも選出された。加えて当時、同大学の陸上部が弱小であったため、100m走・10秒台の走力を見込まれて、1955年の日本学生陸上競技対校選手権大会の同種目に出場し、10.6秒の好タイムをマークして2位に入った。 1956年、八幡製鐵に入社。同社在籍時代には、全国社会人ラグビーフットボール大会(全国社会人大会)で6回の優勝を経験。
斎藤 尞(さいとう りょう、1926年10月30日 - 20… 斎藤 尞(さいとう りょう、1926年10月30日 - 2015年10月30日)は、日本の元ラグビー選手及び同監督。 北海中学を経て明治大学へと進んだ。 第二次世界大戦後初めて行われた1946年を手始めに、明早戦に5シーズン連続で出場。1949年度シーズンには主将として、東西学生ラグビーフットボール対抗王座決定戦制覇など、11戦全勝の記録をもたらした。その後、大映に進み、ここでもプレーした。 また、1952年のオックスフォード大学戦(2試合)、1953年のケンブリッジ大学戦(2試合)に日本代表選手として出場し、キャップ4を獲得。 現役から退いた後は、長らく監督の北島忠治を補佐するヘッドコーチとして母校・明治大学の指導にあたる傍ら、1974年に日本代表監督に就任。
笠原 恒彦(かさはら つねひこ、1911年7月18日 - 1… 笠原 恒彦(かさはら つねひこ、1911年7月18日 - 1989年4月17日)は、日本の元ラグビー選手、俳優。本名同じ。東京市小石川区(現在の東京都文京区)生まれ、北海道育ち。 ラグビー選手として現役時代の主なポジションはフルバック(FB)及びファイブエイス(FE)。 北海中等学校(現 北海高等学校)を経て、明治大学(以下、明大)に進学。明大ではラグビー部で活動し、1930年度シーズンから1935年度シーズンまで、6年連続で明早戦に出場した他、同部在籍時代は全ての公式戦(全45試合)に出場した経験を持つ。トライゲッターであるとともに、キッカーとしても明大の得点源選手として活躍した。 また、1932年のカナダ代表来日試合を手始めに、ラグビー日本代表(以下、代表)としてキャップ6を獲得。
伊集院 浩(いじゅういん ひろし、1907年6月14日 - … 伊集院 浩(いじゅういん ひろし、1907年6月14日 - 1963年2月20日)は、元毎日新聞社記者、元プロレス解説者、元ラグビー選手(日本代表キャップ2)。
木元 規矩男(きもと きくお、1905年11月1日 -199… 木元 規矩男(きもと きくお、1905年11月1日 -1992年11月19日)は、日本の実業家、ラグビー選手。 鹿児島県出身。旧制川内中学卒業後、明治大学に入学。 明治大学ラグビー部では(当初、柔道部だったが転部)、当初フッカーだったが北島忠治に譲り、知葉友雄とセカンドロー(ロック)を組み活躍した(5シーズン26試合出場、3トライ)。 1924年(大正13年)、明治大学在学中に秋田県のラグビーを振興するメンバーとして尽力した。 1929年(昭和4年)、毎日新聞社東京本社に入社し、東京本社総務局長、西部本社営業局長を歴任。1958年(昭和33年)、RKB毎日放送代表取締役専務、副社長を歴任した。 1974年(昭和49年)2月から1986年3月まで、九州ラグビーフットボール協会会長を務めた。
知葉 友雄(ちば ともお、1905年6月2日 - 1974年… 知葉 友雄(ちば ともお、1905年6月2日 - 1974年4月13日)は、昭和初期の日本の元ラグビー選手。戦後は指導者としても活動した。 正則中等学校から明治大学へ進む。相撲部に在籍していたが北島忠治に誘われてラグビー部に入部。木元規矩男(後の九州ラグビー協会会長、RKB毎日放送副社長)とセカンドローを組み、活躍。4年連続で明早戦に出場し、1929年度には主将を務めた。 1930年の日本代表カナダ遠征に明治大学ラグビー部初の日本代表として選出され22人のメンバー中で唯一7戦全戦に出場。ブリティッシュコロンビア州代表戦でキャップ1を獲得した。 大学卒業後は、朝鮮総督府鉄道に入社しプレーを継続。1934年主将兼監督に就任。
北島 忠治(きたじま ちゅうじ、1901年2月23日 - 1… 北島 忠治(きたじま ちゅうじ、1901年2月23日 - 1996年5月28日)は、日本のラグビー監督。通称忠さん、北島御大、北島先生。 新潟県東頸城郡安塚村(現在の上越市安塚区安塚町)出身。1929年から死去するまで67年にわたり明治大学ラグビー部監督を務めた。彼の作り上げた明大ラグビー部十訓のもと 「前へ」 と言い続けた彼の言葉は明治の代名詞になった。 喧嘩っ早く数校の学校を経て有恒学舎中を卒業、神楽坂の伯母を頼り上京。喧嘩癖はなおらず、一時は「坂の忠治」との異名をとった。1921年旧制明治大学専門部政治経済科に入学。 元は相撲部出身で、神楽坂の筑土八幡神社でよく練習をしていた。ラグビーの経験はそれまでなく、大学2年生の時にメンバーが足りないとの理由で助っ人を頼まれたことがきっかけで、相撲部からラグビー部に転部。