平島 良一(ひらしま りょういち、1891年(明治24年)6… 平島 良一(ひらしま りょういち、1891年(明治24年)6月29日 - 1956年(昭和31年)11月17日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 大阪府日根郡北信達村、のち泉南郡信達村→信達町、現在の泉南市で平島幸吉の息子として生まれる。1915年(大正4年)明治大学法律科を卒業した。 大阪木津川セメント (株) に入社し用度課長を務めた。在勤中、雨の日には出勤せず、会社もしかたなく公認した。その後、会計士の業務に従事。鉱業、農業に転業し、1943年(昭和18年)コバルト採掘鉱業に関係した。その他、合資会社信達織布工場理事、平島紡績取締役、同会長などを務めた。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で大阪府第2区から立候補したが落選。
長尾 新九郎(ながお しんくろう、1891年(明治24年)4… 長尾 新九郎(ながお しんくろう、1891年(明治24年)4月16日 - 1968年(昭和43年)5月15日)は、日本の政治家。徳島市長。明治大学政治経済学部卒業。 旧名東郡加茂名村(現在の徳島市庄町)で生まれた。 徳島農業高等学校、明治大学政治経済学部卒業。明治大学では弁論部に同郷の後輩三木武夫を勧誘し、以後も支援する。 1934年、徳島市役所に勤務、佐古青果市場理事長に就任。 1951年に徳島市長に就任し1958年まで2期を務める。一坂俊太郎以来、戦後初めて2期以上、市長を務めた。1967年、日本ポルトガル親善とモラエス翁顕彰の功によりポルトガル国徳島駐在名誉領事に任じられた。 1968年(昭和43年)5月15日、77歳で没する。
川村 芳次(かわむら よしじ、1891年〈明治24年〉3月8… 川村 芳次(かわむら よしじ、1891年〈明治24年〉3月8日 - 1988年〈昭和63年〉12月27日)は、日本の政治家。鳥取県八頭郡大御門村(現・八頭町)出身。千葉県銚子市長(1933年-1945年)、北海道岩見沢市長(1945年-1946年、1954年-1970年)。岩見沢名誉市民。位階は正五位。 明治大学法学部卒。内務省から千葉県地方課長に出向し、その後1933年、銚子市の市制施行から終戦直前まで3期12年、官制初代銚子市長を務める。 1945年5月13日任期満了で退任後、同年5月30日公選第2代岩見沢市長となり、翌年11月17日公職追放により退任。 追放解除後の1954年10月29日、山本市英前市長の辞任による選挙で再び岩見沢市長(公選第5代)に就任、1970年10月まで4期16年務め、任期満了で退任。
中村 又一(なかむら またいち、1890年(明治23年)10… 中村 又一(なかむら またいち、1890年(明治23年)10月1日 - 1971年(昭和46年)2月22日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党→日本進歩党→民主党)、司法参与官。弁護士。 佐賀県藤津郡古枝村(現在の鹿島市)出身。日本大学で学んだ後、1914年(大正3年)から翌年にかけて臨時陸軍輜重輸卒として日独戦争に従軍し、金鵄勲章を得た。1916年(大正5年)、三菱鉱業唐津鉱業所に入り、やがて台湾製糖に移った。そのかたわら1919年(大正8年)に明治大学法学部を卒業。1923年(大正12年)に弁理士試験に合格し、さらに翌年には弁護士試験に合格して開業した。その後、東京市会議員、同参事会員に選出された。
鈴木 正吾(すずき しょうご、1890年(明治23年)6月3… 鈴木 正吾(すずき しょうご、1890年(明治23年)6月30日 – 1977年(昭和52年)6月1日)は、大正から昭和期の政治家・ジャーナリスト。衆議院議員、愛知県豊川市長。旧姓・渥美。 愛知県碧海郡志貴村(矢作町を経て現岡崎市)で渥美半五郎の三男として生まれた。1899年(明治32年)宝飯郡佐脇村下佐脇村(御津村、御津町を経て現豊川市)の鈴木金次郎家を相続。1907年(明治40年)学生団体・丁未倶楽部に加わり第一次護憲運動で反桂内閣として活動した。1914年(大正3年)明治大学政治科を卒業した。 卒業後は読売新聞記者を経て、雑誌『第三帝国』編集長、雑誌『大観』編集長などを務める。1915年(大正4年)2月から3月にかけて大隈伯後援会遊説部員として第12回衆議院議員総選挙で遊説を行った。
押川 定秋(おしかわ さだあき、1890年(明治23年)5月… 押川 定秋(おしかわ さだあき、1890年(明治23年)5月17日 – 1951年(昭和26年)5月10日)は、日本の弁護士、衆議院議員(民主党)。 宮崎県児湯郡高鍋町出身。定澄の三男。独習にて普通学を修め、1914年、郷里高鍋を出て上京して苦学力行しつつ1917年(大正6年)、明治大学法科を卒業、同年弁護士を開業した。 東京府会議員、同市部会議長に選出された。また神奈川県農機具工業組合理事長、同農機具工業統制組合理事長、同農機具工業協同組合理事長を務めた。 1947年(昭和22年)の第23回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。その他、細王舎工場合資会社代表社員を務めた。 宗教は神道。趣味は政治。 宮崎県児湯郡高鍋町、東京市小石川区同心町
宋 鎮禹(そう ちんう、ソン・ジヌ、1890年5月8日 - … 宋 鎮禹(そう ちんう、ソン・ジヌ、1890年5月8日 - 1945年12月30日)は、朝鮮の独立運動家、政治家。本貫は新平宋氏。号は「古下」(コハ、고하)。 全羅南道潭陽郡に生まれる。1907年に金性洙とともに日本に留学し、1915年に明治大学を卒業後、帰国して私立中央学校校長に就任する。1919年の三・一独立運動に参加した容疑で、1年間投獄される。1921年から1924年まで東亜日報第3代社長、1927年から1937年まで第6代社長を務め、民族主義右派の立場で論陣を張った。1945年12月1日に第8代社長に就任した。 日本の敗戦を控えた1945年8月11日に、朝鮮総督府は京畿道知事を通じて、朝鮮における資本家及び地主勢力を代弁することができる宋鎮禹と接触し、「行政委員会」を構成してくれる事を要請した。
吉田 安(よしだ あん、1890年〈明治23年〉2月21日 … 吉田 安(よしだ あん、1890年〈明治23年〉2月21日 - 1975年〈昭和50年〉3月21日)は、日本の政治家、弁護士。位階は従四位。勲等は勲三等旭日中綬章。 熊本県出身。1916年(大正5年)、明治大学専門部法律科卒業。司法官試補の後、弁護士となる。熊本県会議員、熊本市会議員、参事会員を務めた。第19回衆議院議員総選挙と第20回総選挙は立憲民政党で、第21回総選挙は無所属で立候補したが、いずれも落選している。1946年(昭和21年)の第22回総選挙において熊本県から立候補して衆議院議員に初当選。当選4回。日本進歩党、民主党、国民民主党、改進党、日本民主党などに所属し、役職を歴任。第1次吉田内閣で司法参与官、第3次吉田内閣で郵政政務次官などを務めた。
恒松 於菟二(つねまつ おとじ、1890年(明治23年)2月… 恒松 於菟二(つねまつ おとじ、1890年(明治23年)2月15日 - 1970年(昭和45年)2月9日)は、大正から昭和期の地主、農林業指導者、政治家。衆議院議員、島根県会議長。 島根県安濃郡大田村(大田町を経て現大田市)で、恒松臺太郎の長男として生まれる。1914年(大正3年)明治大学政治経済科を卒業。1925年(大正14年)家督を相続し農業を営む。 1917年(大正6年)大田町農会長、安濃郡会議員に選出され、同議長、大田町助役も務めた。1923年(大正12年)島根県会議員に選出され、1926年(大正15年)から1934年(昭和9年)まで県会議長を務めた。その他、安濃郡農会長、島根県農会副会長、同会長、自作農創設維持審議会委員、島根県耕地協会代議員、同畜産組合連合会長、同養蚕組合連合会長、同養鶏組合連合会長、帝国農会評議員、中央畜産会理事会副会頭、中央農業会理事、初代島根県農業会長などに在任した。
趙 欣伯(ちょう きんはく、1890年〈清光緒16年〉 - … 趙 欣伯(ちょう きんはく、1890年〈清光緒16年〉 - 1951年7月20日)は、中華民国・満洲国の政治家・法学博士(刑法)。北京政府では奉天派と目され、後に満洲国や南京国民政府(汪兆銘政権)に参加した。 清末、禁衛軍で衛兵となる。その後、省立天津北洋大学で学んだ。辛亥革命後は北京文明新劇団で旦角(女形)を演じている。また、この頃に国民党に加入した。1913年(民国2年)に二次革命(第二革命)に参加したが、敗北したために大連に逃れる。劉笑痴と改名して、日本人への中国語教師をつとめた。 1915年(民国4年)、日本に留学する。1920年(民国9年/大正9年)、明治大学法科を卒業し、併せて法学士の称号を取得している。
古屋 貞雄(ふるや さだお、1889年(明治22年)12月2… 古屋 貞雄(ふるや さだお、1889年(明治22年)12月20日 - 1976年(昭和51年)1月4日)は、日本の政治家、弁護士、社会運動家。 山梨県東山梨郡七里村下於曽(現・甲州市)出身。1919年、明治大学法科専門部特科卒業。山梨県で小作人組合を組織し、日本農民組合の役員となる。1921年、自由法曹団の弁護士となり、各地の労農運動を支援した。朝鮮や台湾でも弁護士活動を行った。 戦後、自由法曹団、日本社会党に参加。1952年10月、第25回衆議院議員総選挙に山梨県全県区から出馬して当選し、以後第27回総選挙まで連続3回の当選を果たした。 1955年には、古屋を団長とする国会議員訪朝団で北朝鮮を訪問し金日成と会見。
太田 耕造(おおた こうぞう、1889年(明治22年)12月… 太田 耕造(おおた こうぞう、1889年(明治22年)12月15日 - 1981年(昭和56年)11月26日)は、日本の弁護士・政治家・教育者。亜細亜大学の実質的創立者の一人。 旧二本松藩の豪商・勢州屋八代長左衛門より分家し、金融機関の相生社(あいおいしゃ)結社に参画した太田貞郎の4男として福島県で生まれる。日本基督一致教会福島教会(現、日本基督教団福島教会)で洗礼を受け、キリスト教青年運動に従事。牧師を志し上京、聖学院神学校に入学するが、法律家・政治家に進むことを決意。東京中学卒業時に高等学校受験に失敗し、明治大学法学部を経て、第四高等学校、東京帝国大学法学部英法科を卒業し弁護士となる一方、民族主義運動に傾注。
猪股 謙二郎(いのまた けんじろう、1889年〈明治22年〉… 猪股 謙二郎(いのまた けんじろう、1889年〈明治22年〉12月9日 - 1975年〈昭和50年〉6月10日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。初代本荘市(現:由利本荘市)長。 秋田県由利郡石沢村(本荘市を経て現由利本荘市)出身。旧制秋田県立本荘中学校(現在の秋田県立本荘高等学校)を経て、明治大学予科で学ぶ。帰郷後、営農し、石沢村議、同助役、同村長、由利郡会議員などを歴任した。1922年11月、秋田県会議員補欠選挙に由利郡選挙区から立候補して当選した。その後、1923年、1927年にも当選した。1930年2月に県議を辞職した。同年の第17回衆議院議員総選挙において秋田2区(当時)から立憲民政党公認で立候補して初当選。
平野 八郎(ひらの はちろう、1889年(明治22年)3月2… 平野 八郎(ひらの はちろう、1889年(明治22年)3月2日 - 1977年(昭和52年)8月1日)は、大正から昭和期の農業経営者、政治家。衆議院議員、大分県大分郡由布川村長、同郡挾間村長、同郡挾間町長。 大分県大分郡朴木村(由布川村大字朴木、挾間村、挾間町を経て現由布市)で生まれる。明治大学専門部法律科で学んだ。その後、農業を営む。 1920年(大正9年)由布川村長に就任。道路整備、井路掘削、植林、学校施設の整備などに尽力し、1928年(昭和3年)に退任。1940年(昭和15年)由布川村長に再任され、1946年(昭和21年)まで在任した。その他、大分郡農会長、同町村長会長、方面委員大分郡支部長、大分県農業会理事、大分郡所得税調査委員なども務めた。
難波 清人(なんば きよと、1888年(明治21年)8月28… 難波 清人(なんば きよと、1888年(明治21年)8月28日 - 1940年(昭和15年)10月11日)は、日本の政治家、新聞記者。 岡山県上道郡平井村(現・岡山市)出身。中学時代は柔道で鍛えていて喧嘩っ早く、岡山中学校、関西中学校、金川中学校を喧嘩で退校処分となり、最終的には京都の中学校に進んだ。1913年、明治大学法律科卒業。中外商業新報(現日本経済新聞)経済市場部長、金川中学校理事長などを経て、1926年の土居通憲辞職に伴う補欠選挙で犬養毅の支援を受けて衆院議員に当選。昭和会や立憲政友会に所属。 1927年(昭和2年)、清瀬一郎を殴打するなど議会乱闘事件に関与したとして公務執行妨害、傷害の容疑で起訴。
小河 虎彦(おがわ とらひこ、1888年〈明治21年〉4月1… 小河 虎彦(おがわ とらひこ、1888年〈明治21年〉4月1日 - 1975年〈昭和50年〉5月8日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員(1期)。旧姓・合屋。 大分県速見郡日出村(現日出町)で、合屋家次の二男として生まれ、弁護士・小河源一の養子となる。1911年(明治44年)明治大学法律科卒。司法官試補となり、弁護士の業務に従事する。山口地方裁判所所属弁護士会会長、山口県議となる。 1930年(昭和5年)第17回衆議院議員総選挙において山口2区から立憲民政党公認で立候補したが落選した。1934年(昭和9年)の山口2区の補欠選挙で民政党公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務めた。1936年(昭和11年)第19回総選挙で落選した。
深水 吉毅(ふかみ よしたけ、1888年2月10日 - 19… 深水 吉毅(ふかみ よしたけ、1888年2月10日 - 1952年10月19日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 熊本県出身。1912年明治大学専門部法律科科卒。農業を営み、葦北郡農会長、熊本県農会議員、同県会議員、同議長、水俣町長、水俣銀行頭取となる。 1942年の第21回衆議院議員総選挙では熊本2区(当時)から翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選する。戦後は日本自由党に入ったが、推薦議員のため公職追放となった。1951年追放解除。追放解除の翌年に死去した。
金 炳魯(キム・ビョンノ、1888年1月27日(旧暦1887… 金 炳魯(キム・ビョンノ、1888年1月27日(旧暦1887年12月15日) - 1964年1月13日)は、韓国の独立運動家・弁護士・政治家。大韓民国初代大法院長。許憲・李仁と並んで、日本統治下での三大民族弁護士のひとりとして名を馳せた。本貫は蔚山金氏。号は街人(カイン)。 全羅北道淳昌郡の郷班の家に生まれる。 父の金相熹は漢城府の司諫院に正三品で仕官していたため、祖父から儒学の薫陶を受けた。1904年には全羅南道潭陽の日新學校で西洋人宣教師から算術や西洋史などの新学問を学び、1905年の乙巳条約をきっかけに、崔益鉉のもとを訪ねて義兵闘争に参加した。1906年に金性洙の昌興學校に入学し、留学を決意、1910年に渡日し、明治大学法学部(夜間部)に入学、1912年に明治大学高等研究科の3年次に編入し、1915年に卒業した。
斎藤 巌(さいとう いわお、1887年(明治20年)12月2… 斎藤 巌(さいとう いわお、1887年(明治20年)12月22日 - 1934年(昭和9年)2月5日)は、衆議院議員(立憲政友会)、弁護士。 熊本県合志郡合志村(現在の合志市)出身。1909年(明治42年)に明治大学法科を卒業した後、長崎市で九州日の出新聞記者となり、1911年(明治45年)に弁護士を開業した。 長崎県会議員、同副議長を経て、1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。また長崎市会議員も兼ねた。
伊達 徳次郎(だて とくじろう、1887年〈明治20年〉8月… 伊達 徳次郎(だて とくじろう、1887年〈明治20年〉8月20日 - 1959年〈昭和34年〉1月9日)は、大正から昭和時代の政治家。警察官。埼玉県川越市長。 千葉県安房郡北条村(北条町、館山北条町を経て、現館山市北条)に生まれる。伊達博・せいの六男で生家は仙台藩伊達家の末裔。1907年(明治40年)明治大学法学科を卒業し、1921年(大正10年)埼玉県高等課長、浦和署長、茨城県特高課長、再び浦和署長を歴任した。 埼玉県の商工課長を経て、1933年(昭和8年)川口町助役となる。1935年(昭和10年)には川越市長の橋本定五郎に請われ同市助役に就任。下水道整備を進めた。1939年(昭和14年)同市長となり、田面沢村の合併、都市計画事業などに尽力した。
趙 素昻(チョ・ソアン、1887年旧暦4月10日 - 195… 趙 素昻(チョ・ソアン、1887年旧暦4月10日 - 1958年9月10日)は、朝鮮の独立運動家、政治家、法学者、政治思想家。第2代韓国国会議員。京畿道坡州出身。本貫は咸安趙氏。本名は趙 鏞殷(チョ・ヨンウン)。字は敬仲、素昻は号である。 生六臣(朝鮮語版)の趙旅の17世孫で、共に独立運動家である趙鏞夏は兄、趙鏞周、趙鏞漢、趙時元(元国会議員、本名・趙鏞元)は弟、趙鏞済は妹。独立運動家の趙時済と趙仁済は息子。 両班の家系に生まれる。1902年に成均館に入学し、同年に申采浩などと声討文を作って李夏栄などに抗議した。1904年に成均館を修了後、大韓帝国皇室派遣留学生として来日し、東京府立第一中学校に入学した。
小平 重吉(こだいら じゅうきち、1886年9月10日 - … 小平 重吉(こだいら じゅうきち、1886年9月10日 - 1960年4月3日)は、栃木県出身の日本の政治家、実業家。 1886年(明治19年)9月10日、栃木県下都賀郡石橋町(現下野市)に生まれる。栃木県立宇都宮農学校(のち栃木県立宇都宮農業高等学校、現在の栃木県立宇都宮白楊高等学校)卒業、明治大学予科を中退。1927年(昭和2年)の栃木県会議員選に立候補し当選し3期務める。1930年からは6年間は石橋町長も兼任した。 1937年(昭和12年)には第20回衆議院議員総選挙に立候補し当選。1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)では推薦に漏れ落選した。1947年(昭和22年)4月に初代公選栃木県知事に当選。
鬼丸 義斎(鬼丸 義齋、おにまる ぎさい、1886年〈明治1… 鬼丸 義斎(鬼丸 義齋、おにまる ぎさい、1886年〈明治19年〉9月5日 – 1954年〈昭和29年〉11月13日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)、参議院議員(1期)。弁護士。「義斉」または「義齊」と表記される場合がある。 大分県に出生。愛知県巡査となり、やがて警部補にまで昇任したが、上司と衝突して辞職した。その後明治大学法科に入学。1919年に大学を首席で卒業した後は、弁護士事務所を開業した。1933年には名古屋弁護士会長に選出されている。大森製陶所会長にもなった。 1928年の第16回衆議院議員総選挙に立憲民政党で愛知1区から出馬し、当選を果たして1期務めた。 戦後は1947年の第1回参議院議員通常選挙に全国区から出馬、当選。
宮本 知遠(みやもと ちとお、1886年〈明治19年〉8月3… 宮本 知遠(みやもと ちとお、1886年〈明治19年〉8月30日 - 1918年〈大正7年〉12月4日)は、日本の政治家。東京府北豊島郡板橋町長。 東京府・宮本頼三の長男。高等師範学校附属小学、中学を経て明治大学商科に学ぶ。水車業、精米業を営む。 1911年、推されて板橋町収入役に挙げられる。1911年10月に板橋町長に就任し、1916年4月に退職する。1917年8月に板橋町長に就任し、1918年12月に退職する。 信仰は仏教。趣味は音楽。愛読書は政治経済書。住所は東京府北豊島郡板橋町大字下板橋。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
小野 謙一(おの けんいち、1886年(明治19年)8月23… 小野 謙一(おの けんいち、1886年(明治19年)8月23日 - 1963年(昭和38年)1月12日)は、日本の政治家、新聞記者。衆議院議員。 青森県中津軽郡、のちの弘前市出身。明治大学卒業後、新聞記者となり、北辰日報を経て、1907年(明治40年)やまと新聞に入り、政治部長となる。更に、太平洋通信社に転じ、主幹を務めた。1937年(昭和12年)に衆議院議員に当選。東方会、時局同志会、翼賛議員同盟に所属。 1942年(昭和17年)、第21回衆議院議員総選挙では翼賛政治体制協議会の推薦を受けたが落選した。戦後、公職追放となる。1951年(昭和26年)追放解除。1963年(昭和38年)1月12日死去。
矢野 庄太郎(やの しょうたろう、1886年〈明治19年〉1… 矢野 庄太郎(やの しょうたろう、1886年〈明治19年〉1月10日 - 1949年〈昭和24年〉6月21日)は、日本の政治家。大蔵大臣。 愛媛県三豊郡桑山村(現・香川県三豊市)に農家の長男として生まれる。教員養成所を出て地元で代用教員を務めた後上京、1907年明治大学法科を卒業する。苦学しながら努力し、在学中に高等文官試験にパスしている。 1911年内務省に入省。台湾総督府書記官、香川県警察部警務課長、同県木田郡長を務めた後、官僚としての前途に行き詰まりを感じ、実業界に転ずるべく1918年に内務省を退職、同年広島の「勝光山窯業」を買収し代表取締役に就任した。 1930年、第17回衆議院議員総選挙に立憲民政党公認で旧香川2区から立候補し初当選する。
許 憲(ホ・ホン、きょ けん、1885年7月22日 – 19… 許 憲(ホ・ホン、きょ けん、1885年7月22日 – 1951年8月16日)は、朝鮮の政治家、弁護士、独立運動家。 朝鮮王朝時代の咸鏡北道明川郡に生まれる。普成専門学校を経て、日本の明治大学法学部を卒業し、1907年には大韓帝国の弁護士試験に合格した。 1919年の三・一独立運動では、抗日派の代表的な弁護士として活躍した。その後は、朝鮮共産党の創党に参加し、コミンテルンの承認を得るために送られた曺奉岩が1928年2月に上海で日本の領事館警察に逮捕された事に伴い、京城地方裁判所において無償で彼の弁護を担当した。光州学生事件後のデモに関与して逮捕され、弁護士資格を剥奪、1943年には禁止されていた海外の短波放送を聴取した廉で逮捕され、1945年8月の解放まで収監された。
上村 盛治(うえむら せいじ、1885年〈明治18年〉5月1… 上村 盛治(うえむら せいじ、1885年〈明治18年〉5月1日 - 1946年〈昭和21年〉4月9日)は、日本の政治家。尼崎市長(官選第2代)。 兵庫県川辺郡立花村大字東難波の大地主の家に生まれる。父は1883年(明治16年)から1903年まで県会議員を務めた上村文三郎(立憲改進党)。 明治大学(旧制大学)法学部卒業、大阪新報(のちに都新聞と合併)記者や立花村会、尼崎市会、兵庫県会の議員を経て、1922年(大正11年)6月23日、尼崎市長に就任。全国で最年少市長だった。1928年(昭和3年)1月22日まで務めた。 任期中に、尼崎市への県立中学校(旧制)設置の要望が高まったため、1916年(大正5年)に県に陳情したが財政難を理由に拒否されたため、上村が中心となり市立で中学校を建設する市民運動を始めた。
濃畑 三郎(のうはた さぶろう、1885年(明治18年)2月… 濃畑 三郎(のうはた さぶろう、1885年(明治18年)2月22日 - 1943年(昭和18年))は、日本の実業家、政治家。 宮市大丸(現在の大和)常務取締役、みくに新聞社社長、福井県会議員を務めた。 北海道朝田庄次郎の三男として福井県坂井郡三国町(現在の坂井市)に生まれ、その後先代・安吉の養子となる。濃畑家は三国町で金銀箔も扱う紙問屋・四日市屋で、「四の三(しのさん)」と呼ばれていた。『茶の本』『東洋の理想』等の著書で知られる日本美学界の泰斗・岡倉天心の母・この(旧姓:濃畑(野畑))とも関係があったという。 1922年(大正11年)、家督を相続する。明治大学修業、内務省勤務を経て福井県会議員や宮市大丸常務取締役を歴任した。
櫻田 清芽(さくらだ きよめ、1885年(明治18年) - … 櫻田 清芽(さくらだ きよめ、1885年(明治18年) - 1958年(昭和33年)12月31日)は、大正から昭和時代前期の政治家。青森県弘前市長。 青森県津軽郡弘前植田町(中津軽郡弘前植田町を経て現:弘前市植田町)に生まれる。弘前中学校を卒業後、明治大学予科に学ぶ。帰郷後は教員などを経て、1910年(明治43年)陸奥日報社に入社し、編集長、弘前新聞主筆兼社長を歴任する。 その間、弘前市会議員を26年、青森県会議員を20年務め、1951年(昭和26年)4月、弘前市長に就任した。中津軽郡11箇村との合併などを実現し、1955年(昭和30年)4月に満期退官。その後は、1957年(昭和32年)より県公安委員長を務めたが、任期中に急逝した。
小野寺 章(おのでら あきら、1884年(明治17年)12月… 小野寺 章(おのでら あきら、1884年(明治17年)12月10日 - 1935年(昭和10年)2月3日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)、実業家、弁護士。 岩手県東磐井郡黄海村(藤沢町を経て現一関市)に小野寺治平の二男として生まれる。1909年(明治42年)、明治大学を卒業。卒業後は「刑法研究会」をおこして、研究調査に励んだ。1913年(大正2年)、弁護士試験に合格し、法律事務所を開いた。また日本林産株式会社を創業して取締役に就任し、さらに京浜窯業株式会社の監査役も兼ねた。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第17回・第18回と当選を重ねた。その間、東北振興会幹事として、昭和東北大凶作や昭和三陸地震の救済に尽力した。
森田 政義(もりた まさよし、明治17年(1884年)9月2… 森田 政義(もりた まさよし、明治17年(1884年)9月29日 - 昭和14年(1939年)3月21日)は、日本の弁護士、政治家。元衆議院議員(立憲政友会)。大阪府平民。実業家・タレント大屋政子の父。 熊本県の森田實政の弟。 大正3年(1914年)明治大学法科を卒業。弁護士試験合格。大正9年(1920年)分家する。大正13年(1924年)から衆議院議員を6期務め、立憲政友会総務となった。昭和4年(1929年)12月、選挙法違反により衆議院議員を退職。翌昭和5年(1930年)の第17回総選挙で復帰。昭和12年(1937年)の第20回総選挙で落選するが、翌昭和13年(1938年)同じ選挙区の西尾末広が議会から除名されたため、繰り上げ当選となる。
谷原 公(たにはら いさお、1884年(明治17年)9月2日… 谷原 公(たにはら いさお、1884年(明治17年)9月2日 - 1982年(昭和57年)11月6日)は、日本の政治家、弁護士。 徳島県海部郡、のちの川上村(海南町を経て現海陽町)出身。1914年、明治大学法科卒業。小学校校長、川上村長、徳島県会議員等を経て、1924年5月の第15回衆議院議員総選挙において徳島3区(小選挙区制)から政友本党公認で立候補して初当選。以来1945年12月までの間、徳島1区(1928年の第16回衆議院議員総選挙から)から衆議院議員に4期当選。衆議院懲罰委員長を歴任した。所属は立憲民政党を経て、1945年の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)では翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選。
水久保 甚作(みずくぼ じんさく、1884年(明治17年)6… 水久保 甚作(みずくぼ じんさく、1884年(明治17年)6月11日 - 1973年(昭和48年)3月20日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(1期)。 宮崎県北諸県郡五十市村(現・都城市)出身。水久保源助の長男。明治大学法学部卒業。1907年裁判所書記登用試験を通り同職を経て岩川郡、都城税務署庶務課長となる。税務代理士を始め1907年、都城市会議員となり、同市農会総代、同所得調査委員、1928年に衆議院議員に当選(立憲政友会、当選2回)。1947年、第1回参議院議員通常選挙で当選して参議院議員(全国区、3年議員)になり、参院郵政委員長となった。また、都城市農会総代、都市計画委員、都城新聞社副社長なども務めた。
方 宗鰲(ほう そうごう、1884年 – 1951年)は、清… 方 宗鰲(ほう そうごう、1884年 – 1951年)は、清末民初の教育者・経済学者・官僚・政治家。別号は少峯または少峰。主に経済学者として活動する一方で、中華民国臨時政府と南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会で各職を歴任した。 清末の1903年(光緒29年)に日本へ留学し、東京同文書院を卒業した。帰国後は故郷の普寧県で師範速成学校を創立している。1908年(光緒34年)に官費留学生として日本へ再び留学し、山口高等商業学校を卒業。1914年(民国3年・大正3年)に明治大学商科を卒業した。なお、来日中には進歩党東京支部政務部長をつとめており、雑誌『国家及国家学』に寄稿している。 帰国後は北京の各大学で教鞭をとり、北京中国大学教務長兼商学系主任、朝陽大学教授、北京大学法学院教授を歴任し、経済学の論文を各雑誌に都度都度寄稿している。
陳 曽栻(ちん そうしょく、1884年〈光緒10年2月〉 –… 陳 曽栻(ちん そうしょく、1884年〈光緒10年2月〉 – 没年不明)は、清末民初の官僚・政治家。別号は矩亭。冀東防共自治政府・中華民国臨時政府・南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会で各職を歴任し、特に河北省公署(河北省政府)で長い官歴を持つ。最後は河北省省長代理や華北政務委員会農務総署督弁にまで昇進した。 清末に日本へ留学し、1909年(宣統元年/明治42年)に明治大学政治科を卒業した。1910年(宣統2年)3月、湖北省清丈局専弁となる。中華民国成立後は、呉興県知事、中東鉄路路警処秘書主任、灤県県長などを歴任している。 1935年(民国24年)12月に冀東防共自治政府が成立すると、陳曽栻は自治政府秘書処処長に任命された。
佐々木 武生(ささき たけなり、1883年(明治16年)9月… 佐々木 武生(ささき たけなり、1883年(明治16年)9月 – 1936年(昭和11年)1月4日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。弁護士。 島根県隠岐郡西郷町(現在の隠岐の島町)出身。1903年(明治36年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業。隠岐汽船株式会社書記を経て、判事検事登用試験に合格し司法官試補となった。のち、弁護士を開業した。 1919年(大正8年)、衆議院議員に補欠当選を果たした。 その他、徳田洋行顧問、福松商会顧問、内海商会顧問を務めた。
青木 泰助(あおき たいすけ、1883年3月14日 - 19… 青木 泰助(あおき たいすけ、1883年3月14日 - 1952年9月26日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 千葉県出身。1909年明治大学法科選科修了。1913年(財)警務協会経営警察官練習所卒。千葉県野田、佐原、北条の各警察署長、同県刑事課長を歴任。千葉県議、同参事会員、同議長、県労務調停委員会委員長となる。 1946年の第22回衆議院議員総選挙において千葉県から日本進歩党公認で立候補して当選する。翌1947年の第23回衆議院議員総選挙において千葉3区から民主党公認で立候補したが落選した。 このほか白井自動車(株)取締役、土木建築(資)松井組常任顧問を務めた。1952年死去。
澤部 元信(さわべ もとのぶ、1883年(明治16年)3月1… 澤部 元信(さわべ もとのぶ、1883年(明治16年)3月10日 - 1973年 <昭和48年> 4月6日)は、日本の政治家。初代茨城県下妻市長(2期)。勲五等双光旭日章。位階は正六位。 ハライチの澤部佑の曽祖父。 1903年(明治36年)、明治法律学校を修了する。1921年(大正10年)真壁郡下妻町会議員となる。その後、1933年(昭和8年)と1939年(昭和14年)に下妻町長に就任。町長は1943年(昭和18年)まで務めた。 戦後公職追放となり、追放解除後の1952年(昭和27年)下妻町長に復帰する。1954年(昭和29年)下妻町は真壁郡上妻村・結城郡総上村・豊加美村・筑波郡高道祖村を編入し、下妻市が発足し、町長から初代市長となった。
曺 晩植(チョ・マンシク、そう・ばんしょく、1883年2月1… 曺 晩植(チョ・マンシク、そう・ばんしょく、1883年2月1日 - 1950年10月18日)は、朝鮮の独立運動家、教育者、政治家である。雅号は古堂(コダン、고당)。日本へ留学し明治大学法学部を卒業している。 平安南道江西郡に生まれ、1905年に平壌のミッション系スクールである崇実学校に入学し、在学中にキリスト教に入信した。 1908年に崇実学校を卒業した後は、日本へ留学し、1910年まで正則英語学校において英語を学び、1911年には明治大学法学部へ進学した。その際、インドのマハトマ・ガンディーが主唱した「非暴力・不服従」に関する論文に共感、これが後の独立運動における思想の礎となり、「朝鮮のガンジー」と呼ばれる所以となった。
鈴木 憲太郎(すずき けんたろう、1882年(明治15年)9… 鈴木 憲太郎(すずき けんたろう、1882年(明治15年)9月21日 - 1953年(昭和28年)1月17日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員、延岡市長。 宮崎県臼杵郡、現在の延岡市で、衆議院議員・小林乾一郎の二男として生まれる。1901年(明治34年)、鈴木シマの入夫となり家督を相続した。 1904年(明治37年)明治法律学校(現明治大学)卒業。陸軍三等主計、岡富村議、宮崎県議、県農会長等を経て、1928年(昭和3年)第16回衆議院議員総選挙で宮崎県より衆議院議員に初当選(民政党)。以後3回当選した。また、第2,3,7代の延岡市長を務めた。実業界に於いては、延岡電気・神都電気興業各取締役等を務めた。
斎藤 鷲太郎(さいとう わしたろう、1882年〈明治15年〉… 斎藤 鷲太郎(さいとう わしたろう、1882年〈明治15年〉3月18日 - 1936年〈昭和11年〉8月3日)は、衆議院議員(立憲政友会→政友本党)。弁護士。 愛知県額田郡幸田村(現在の幸田町)出身。1902年(明治35年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業。1906年(明治39年)から8年間、関東都督府で警部や属官を務める。1915年(大正4年)に弁護士試験に合格。翌年に大連市に事務所を開業し、1919年(大正8年)より関東州弁護士会長を3回務めた。さらに大連市会議員に選出された。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し当選を果たした。
朴 海克(パク・ヘグク、朝鮮語: 박해극/朴海克、1882年… 朴 海克(パク・ヘグク、朝鮮語: 박해극/朴海克、1882年(高宗19年)2月14日 - 1952年5月7日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の判事、弁護士、実業家、政治家。制憲韓国国会議員。 慶尚南道密陽または慶尚北道大邱出身。明治大学法学部卒。1915年より朝鮮総督府裁判所傘下釜山地方法院統営支庁書記課書記兼通訳生を経て、1918年11月に光州地方法院順天支庁判事となった。1921年10月、慶尚北道道弁護士として北京の国際弁護士会議に朝鮮人弁護士代表を務め、朝鮮弁護士協会創立総会議員を務めた。その後は大邱で活動し、大邱嶠南キリスト教青年会教育部夜学法律講習所講師、朝鮮民立大学期成会地方部大邱地域委員、大邱府水害問題市民大会委員を務めた。
一瀬 一二(いちのせ いちじ、1881年(明治14年)11月… 一瀬 一二(いちのせ いちじ、1881年(明治14年)11月25日 – 1935年(昭和10年)8月5日)は、衆議院議員(立憲政友会)、ジャーナリスト。 熊本県玉名郡小田村(現在の玉名市)に一瀬彦四郎の長男として生まれる。明治大学に学ぶ。国民新聞社社長徳富蘇峰の門下にあり、後に独立して大日本新聞社を経営した。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第18回衆議院議員総選挙でも再選された。 その他、財団法人青山会館常任理事を務めた。
岡本 実太郎(おかもと じつたろう、明治14年(1881年)… 岡本 実太郎(おかもと じつたろう、明治14年(1881年)6月25日 - 昭和27年(1952年)4月30日)は日本の官僚、政治家、弁護士。 愛知県西加茂郡猿投村(現豊田市)出身。明治法律学校を卒業し第10回高等文官試験に合格し、1904年に大蔵省入省。 司法官試補、専売局事務官、広島専売局長などを歴任し、1920年退官。 弁護士としては、日本弁護士連合会理事、税務弁理士会監事(民政・愛知)などを務めた。 1924年の第15回衆議院議員総選挙で当選(以後、第16回・第17回・第19回・第20回・第22回と計6回当選)。立憲政友会政務調査会長や立憲民政党総務、農林参与官などを歴任した。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
松島 肇(まつしま はじめ、1881年(明治14年)5月15… 松島 肇(まつしま はじめ、1881年(明治14年)5月15日 - 1969年(昭和44年)2月7日)は、日本の政治家、実業家。徳島県阿波市出身。明治大学法学部卒業。 松島素敬の息子として板野郡土成村土成(現在の阿波市土成町土成)で生まれる。京都の中学校を卒業後、1901年(明治34年)に上京して明治大学法科に入学し、卒業後は同大学の学生部長を務めた。 1906年(明治39年)に共同火災保険会社(現在のあいおいニッセイ同和損害保険の前身)に入社し、1910年(明治43年)には早稲田大学校友会に推薦された。 昌栄貯蓄銀行、日本資金信託、第一倉庫、安全印刷、摂津煉瓦、大阪計器製作所、中央インキ、東海市場、東亜フェルト各株式会社の社長、美馬郡是製糸、カルチウム鉱泉、東亜織布、常盤商工、黒崎電機製作所、市岡電気工業、東京絹綿紡績、大阪造船所(現ダイゾー)各株式会社の取締役、東京リベット製造、日東炭鉱、日本鋼管シャフト、城南土地各株式会社の監査役などに就いた。
林 連(はやし れん、1881年(明治14年)4月14日 -… 林 連(はやし れん、1881年(明治14年)4月14日 - 1950年(昭和25年)3月26日)は、衆議院議員(日本進歩党→民主党)、内務政務次官。弁護士。 福岡県上座郡朝倉村(現在の朝倉市)出身。1910年(明治43年)、明治大学法科を卒業し、弁護士試験に合格した。弁護士業務のかたわら、南千住町会議員、南千住町長、東京府会議員、同郡部会副議長、同参事会員、東京市会議員、同副議長、東京都議会議員、同副議長を歴任した。 1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙に東京都第1区から出馬して当選。1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙でも東京都第6区から出馬して再選された。
金 始顕(キム・シヒョン、朝鮮語: 김시현/金始顯、1881… 金 始顕(キム・シヒョン、朝鮮語: 김시현/金始顯、1881年または1882年または1883年 - 1966年1月3日)は、日本統治時代の朝鮮の独立運動家、大韓民国の政治家。大韓民国臨時政府委員、東洋工科大学学長、第2・5代韓国国会議員。 本貫は安東金氏。字は九和(クファ、구화)、号は何求(ハグ、하구)、鶴右(ハグ、학우)。独立運動家の権愛羅(朝鮮語版)は妻。 慶尚道安東大都護府(現・慶尚北道安東市豊山面)出身。明治大学法学部卒。三・一運動に参加後、満州の吉林省に亡命し、義烈団に入団した。1922年、モスクワに開催された極東革命団体代表大会に金奎植・呂運亨らとともに韓国代表として参加した。1923年、義烈団の密命を受けて朝鮮に潜入し、日本の朝鮮統治機関の破壊や大日本帝国の要人の暗殺などを計画したが、京畿道警察部の黄鈺(朝鮮語版)と連携して爆弾を朝鮮に輸入し挙事しようとして逮捕され、懲役10年の刑を言い渡された。
小峰 満男(おみね みつお、1880年〈明治13年〉7月18… 小峰 満男(おみね みつお、1880年〈明治13年〉7月18日 - 1935年〈昭和10年〉10月3日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。旧姓・島村。 茨城県東茨城郡水戸上市備前町(現水戸市)で島村新一の三男として生まれ、多賀郡松原町の酒造業・小峰くりの入夫となり家督を相続した。 1907年(明治40年)明治大学法律経済科、翌年同大学の高等研究科を卒業。松原町議、多賀郡会議員、茨城県会議員となる。また高萩運送、常盤商事、茨城無煙炭礦、水戸ツウリング自動車各(株)取締役社長、多賀製塩所、多賀銀行、多賀電気、久慈川電気工業、東部電力、茨城電力、小里川電気、茨城醤油各(株)取締役を務める。 1928年(昭和3年)第16回衆議院議員総選挙において茨城2区から立憲民政党公認で立候補してトップ当選し1930年(昭和5年)第17回総選挙で再選し、衆議院議員を2期務めた。
松谷 與二郎(略字表記「松谷与二郎」、まつたに よじろう、1… 松谷 與二郎(略字表記「松谷与二郎」、まつたに よじろう、1880年6月4日 - 1937年3月17日)は、日本の政治家、衆議院議員、弁護士、社会活動家。 石川県金沢市生まれ。1903年、明治法律学校卒業。 1914年に弁護士を開業し、虎の門事件で難波大助の国選弁護人を引き受けるなど、社会運動、小作争議の弁護活動に活躍する。 1926年、日本労農党創立に参加、全国大衆党、全国労農大衆党の顧問を務める。1930年、第17回衆議院議員総選挙において東京6区から日本大衆党の候補として出馬し、衆議院議員に初当選する。その後全国大衆党・全国労農大衆党を経て、1932年には社会大衆党の顧問に就く。しかし満州事変の評価をめぐって社大党と対立して離党し、以後新日本建設同盟・国民同盟・日本国家社会党を経て、1934年に勤労日本党総理となった。