福田 利光(ふくだ としみつ、1912年7月6日 - 200… 福田 利光(ふくだ としみつ、1912年7月6日 - 2001年11月29日 )は、日本の経営者。西日本新聞社社長を務めた。 福岡県三井郡北野町(現在の久留米市)出身。1934年に早稲田大学専門部政治経済学科を卒業し、1937年に福岡日日新聞社(のちの西日本新聞社)に入社。1963年に取締役に就任し、1969年に常務、1970年に専務を経て、同年10月には社長に就任した。1985年6月に会長に就任し、1991年6月に代表取締役相談役を経て、1993年6月に相談役に就任。 テレビ西日本会長、テレビ熊本・サガテレビ・テレビ長崎の取締役なども歴任。 1987年4月に勲一等瑞宝章を受章。 2001年11月29日に急性心不全のために死去。
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和田 信賢(わだ のぶかた、1912年〈明治45年〉6月19… 和田 信賢(わだ のぶかた、1912年〈明治45年〉6月19日 - 1952年〈昭和27年〉8月14日)は、戦前から戦後にかけて活動したNHKのアナウンサー。妻は後輩アナウンサーの大島(旧姓)実枝子(1918年(大正7年)- 2016年(平成28年)、1939年入局)。 東京府に生まれ、東京府立第五中学校、第二早稲田高等学院を経て早稲田大学に進学するも中退した。1934年に日本放送協会(当時は社団法人)へ第1期アナウンサーとして入局した。 和田が一躍有名になった場面は、1939年の大相撲1月場所の実況中継である。和田はこの場所の実況中継を初日から4日目まで担当したが、4日目(1月15日・日曜日)に70連勝を目指していた双葉山定次が、結びの一番で安藝ノ海節男に外掛けで敗れ、連勝が69で止まった。
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佐々木 省三(ささき しょうぞう、1912年6月5日 - 2… 佐々木 省三(ささき しょうぞう、1912年6月5日 - 2001年6月29日)は、日本の経営者。綜合警備保障社長を務めた。 宮城県出身。1936年に早稲田大学政治経済学部経済学科を卒業し、同年に大東京火災海上保険に入社。 1960年6月に取締役、1963年に常務、1966年に専務、1971年6月に監査役を経て、同年8月に綜合警備保障常務に就任し、1980年11月には社長に昇格。1986年9月に相談役に就任。 1968年6月から1981年6月までに早稲田大学理事と1970年5月から1974年5月までに大東京興産社長を務め、巣鴨学園理事も務めた。 2001年6月29日、急性呼吸不全のために死去。89歳没。
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稲垣 史生(いながき しせい、1912年5月12日 - 19… 稲垣 史生(いながき しせい、1912年5月12日 - 1996年2月27日)は、日本の時代考証家・歴史小説家。稲垣一城(いながき かずき)の筆名も持つ。本名・稲垣秀忠(ひでただ)。 多くの映画やテレビドラマの時代考証を手掛けた江戸時代考証の第一人者。江戸趣味の好事家や時代小説好きにはよく知られた存在であった。司馬遼太郎は、稲垣の著書「時代考証事典」の帯に「唯一の先達の仕事」との推薦文を寄せるなど、江戸時代考証において自分よりも優れた知識を持つ稲垣には敬意を表していた。 富山県砺波市出身。早稲田大学文学部国文科を卒業。戦前は都新聞社会部記者、海軍省嘱託の報道班員、戦後にサンニュース・フォトス記者、歴史文学研究会事務局長、雑誌編集長などを経て、文筆業に入る。
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簗瀬 一雄(やなせ かずお、1912年5月5日 - 2008… 簗瀬 一雄(やなせ かずお、1912年5月5日 - 2008年9月14日)は、日本の国文学者、豊橋技術科学大学名誉教授。 東京生まれ。早稲田大学国文科卒業。1960年「俊恵及び長明の研究」で法政大学文学博士。豊田工業高等専門学校教授、1978年豊橋技術科学大学教授、1982年定年退官、名誉教授。 愛知に在住していた1958年から1972年にかけ、著作研究および未刊古典の翻刻私家版「碧冲洞叢書」を謄写版で100冊発行した。歌集も多く刊行している この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
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西邑 昌一(にしむら しょういち、1912年4月18日 - … 西邑 昌一(にしむら しょういち、1912年4月18日 - 1998年3月22日)は、日本のサッカー選手、および指導者。兵庫県出身。旧制甲陽中学(現甲陽学院高等学校)、関西学院大学および早稲田大学卒業。 選手時代はフォワードを務めた。1930年2月に開催されたア式蹴球全國優勝競技會(第10回天皇杯全日本サッカー選手権大会)で関学クラブの一員として、後藤靱雄や堺井秀雄らとともに優勝に貢献した。 早稲田大学に在籍していた1934年に第10回極東選手権のサッカー日本代表に選出され、5月15日のフィリピン代表戦で同点に追いつく得点をあげた。 西邑が25歳の1936年4月にベルリンオリンピックの日本代表に選出された が、本大会での出場機会は無かった。
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澤田 紋(さわだ あや、1912年(明治45年)4月14日 … 澤田 紋(さわだ あや、1912年(明治45年)4月14日 - 1986年(昭和61年)7月24日)は、日本の政治家。初代阿南市長。早稲田大学法学部中退。徳島県阿南市日開野町出身。 早稲田大学法学部を中退後、旧富岡町収入役・町長を歴任。 1958年(昭和33年)5月に阿南市が発足し、初代市長に就任。1970年(昭和45年)まで12年間に渡り阿南市長を務めた。市長在任中は旧神崎製紙、阿南工業高等専門学校、徳島県立阿南工業高等学校等の誘致や各産業の振興に努めた。市長退任後は社会福祉協議会会長、四国治水期成同盟会会長、阿南信用金庫理事長等を歴任した。 1986年(昭和61年)の没日をもって阿南市名誉市民に選定される。
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長谷川 峻(はせがわ たかし、1912年4月1日 - 199… 長谷川 峻(はせがわ たかし、1912年4月1日 - 1992年10月19日)は、日本の政治家。位階は正三位勲一等、勲章は旭日大綬章。自由民主党衆議院議員。宮城県栗原郡築館町(現在の栗原市)出身。 旧制宮城県築館中学校(現・宮城県築館高等学校)、早稲田大学専門部政経科卒業後、1933年に九州日報社(現 ・西日本新聞社)に入社。記者として活躍。この頃、緒方竹虎、中野正剛との知遇を得て、両雄の下で政治のイロハを学ぶ。1945年、緒方が東久邇宮内閣の国務大臣に就任すると、その秘書官を務めた。内閣では総理大臣の東久邇宮稔彦王の「国民諸君から直接手紙をいただきたい」との意向のもとで緒方のアイデアにより国民からの投書を募っていたが、稔彦王がすべての手紙を読むわけにもいかず、「平衡感覚を持った人」たる元記者の長谷川が手紙の整理役を務めた。
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高橋 成夫(たかはし しげお、浅間 善次郎、1912年3月2… 高橋 成夫(たかはし しげお、浅間 善次郎、1912年3月29日 - 1990年11月4日)は日本の水泳選手。東京都出身。荏原中学(現日体荏原高等学校、早稲田大学卒業。
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李 相敦(イ・サンドン、朝鮮語: 이상돈、1912年3月20… 李 相敦(イ・サンドン、朝鮮語: 이상돈、1912年3月20日 - 1997年7月14日)は、大韓民国の実業家、ジャーナリスト、政治家。制憲・第5・6代韓国国会議員。 本貫は慶州李氏。号は青居(チョンゴ、청거/靑居)。 日本統治時代の忠清南道天安郡出身。光州学生運動に関わったことにより公州高普中退、1933年徽文高等普通学校卒。早稲田大学第一高等学院を経て、1939年に早稲田大学政治経済学部経済科卒。卒業後は東亜日報に入社して記者・編集局論説部論説委員を務めたが、翌1940年に強制廃刊された。その後は京城天一薬房庶務課長、東亜薬品工業創立者・常務理事、韓国民主党中央執行委員・宣伝部次長、民主国民党宣伝部次長、民主党天安乙区党委員長・中央常務委員・政策委員を務めた。
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松下 達夫(まつした たつお、1912年3月13日 - 19… 松下 達夫(まつした たつお、1912年3月13日 - 1985年8月20日)は、日本の俳優。太陽プロモーション所属。奈良県出身。 大阪府大阪市福島区生まれ。早稲田大学文学部英文学科卒業。 北支那方面軍へ兵役後、1934年、中央演劇会を経て同年中に村山知義らの新協劇団に研究生として参加する。1935年に映画デビューする。その後スマトラ島からタイへの兵役を経て、1952年に滝沢修、宇野重吉らの劇団民藝に入団、『セールスマンの死』などの舞台に立った。1973年に民藝を退団し、フリーとなった。舞台のほか、映画、テレビドラマでも渋い脇役として活躍した。 趣味・特技は関西弁、剣道(2段)。
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福家 俊一(ふけ としいち、1912年〈明治45年〉3月3日… 福家 俊一(ふけ としいち、1912年〈明治45年〉3月3日 - 1987年〈昭和62年〉4月17日)は、日本の政治家。勲二等従四位。衆議院議員総選挙に15回立候補し、当選は6回。ニックネームは「政界の寝業師」、「政界の怪物」。 香川県高松市出身。旧制大阪府立生野中学校(現大阪府立生野高等学校)卒業、早稲田大学専門部中退。少年時代に東京憲兵隊本部で甘粕正彦の給仕を務めたことを機に、満洲に渡って満洲国の機関紙「斯民」の記者となる。満洲人脈のメンバーとなり、岸信介と深い仲を築く。軍部と外務省興亜院の肝いりによって上海に国策新聞「大陸新報」が創設され、1937年に25歳で社長就任。白根松介男爵や美濃部達吉の嘆願を受け、同社では美濃部亮吉(達吉の長男で、後の東京都知事)や向坂逸郎、高橋正雄など人民戦線事件で検挙された左派知識人たちを積極的に雇い入れた。
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宮内 寒弥(みやうち かんや、1912年2月29日(戸籍上は… 宮内 寒弥(みやうち かんや、1912年2月29日(戸籍上は28日) - 1983年3月5日)は、日本の小説家、翻訳家。本名は池上 子郎。 岡山県岡山市生まれ。 宮内の父は元逗子開成中学校社会科教師の石塚巳三郎(1881年生)。巳三郎は1910年に七里ヶ浜で起きた逗子開成生徒のボート遭難事件で世間から猛批判を受けて逗子開成を辞し、四国八十八箇所巡礼の旅に出た。岡山で教員となり、その地で池上家へ婿養子に入り世間から身を隠すように苗字を変え、池上巳三郎となり、生まれた子が池上子郎、すなわち宮内寒弥である。 1923年に一家で南樺太に移住。1932年早稲田大学に入学し、同人雑誌『早稲田文科』などに作品を発表する。
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谷口 千吉(たにぐち せんきち、1912年〈明治45年〉2月… 谷口 千吉(たにぐち せんきち、1912年〈明治45年〉2月19日 - 2007年〈平成19年〉10月29日)は、日本の映画監督。妻は女優の八千草薫。東京府南葛飾郡寺島村(現在の東京都墨田区)出身。 東京府立第四中学校(現在の東京都立戸山高等学校)卒業。早稲田大学文学部英文科在学中は、千田是也、東野英治郎と演劇活動を行い[要出典]左翼系新劇の演出家を目指すも弾圧を受けて[要出典]1930年に中退。1933年に助監督としてP.C.L.(東宝の前身)に入社する。山本嘉次郎、島津保次郎らの助監督を務める。同期には、亀井文夫、本多猪四郎がいた。ともに山本の助監督についていた黒澤明、本多は親友である。 1947年、山岳アクション映画『銀嶺の果て』で監督デビュー。
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権 仲敦(クォン・ジュンドン、朝鮮語: 권중돈/權仲敦、19… 権 仲敦(クォン・ジュンドン、朝鮮語: 권중돈/權仲敦、1912年2月17日または11月17日 - 1983年または1985年6月27日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の公務員、政治家。第10代国防部長官、第2・3・4・5・8代韓国国会議員、国家保衛立法会議議員を歴任した。 本貫は安東権氏(朝鮮語版)。日本名は権田仲敦。 日本統治時代の慶尚北道永川郡(現・永川市)出身。普成高等普通学校(現・普成高等学校(朝鮮語版))を経て、1940年早稲田大学政治経済学部卒。慶尚北道労働局長、永川穀物株式会社理事、初代総選挙慶尚北道選挙委員、民主党慶尚北道党委員長・副議長、憲政同志会宣伝部長、民主党政権の国防部長官(通算第10代、1960年9月12日~1961年1月30日)、新民党中央常任委員会議長(1961年)、民政党中央委員会議長(1964年)・全党大会議長、民衆党指導委員(1967年)、新民党指導委員(1969年)・鍾路区党委員長(1972年)・全党大会議長・政務委員(1973年)、国家保衛立法会議議員(1980年)を務めた。
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南 俊夫(みなみ としお、1912年〈明治45年〉1月31日… 南 俊夫(みなみ としお、1912年〈明治45年〉1月31日 - 没年不明)は、香川県綾歌郡出身の実業家、政治運動家。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。 この項目は、政治に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 政治学/ウィキプロジェクト 政治)。
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鈴木 幸夫(すずき ゆきお、1912年1月28日 - 198… 鈴木 幸夫(すずき ゆきお、1912年1月28日 - 1986年12月24日)は、英文学者、推理作家、早稲田大学名誉教授。 大阪府出身。早稲田大学文学部英文科卒業、旧制大学院修了。1939年、早稲田大学理工学部講師。1954年、早稲田大学文学部教授。1982年定年退職、名誉教授。その後は跡見学園短期大学教授、同大学学長を務めた。 1951年、探偵作家クラブ新年会の犯人当てゲームで2年連続して正解した実績を買われ、同ゲームのために「痴人の宴」を書き下ろし、同作が千代 有三の筆名で『宝石』に掲載されて探偵作家としてデビューする。 1954年、日本初のSF商業誌『星雲』を創刊された際、同年に組織された日本科学小説協会の参与となった。
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鴻池 藤一(こうのいけ ふじかす、1912年1月23日 - … 鴻池 藤一(こうのいけ ふじかす、1912年1月23日 - 1994年3月9日)は、日本の経営者。鴻池組元会長。全国建設業協会元会長。 大阪府大阪市出身。1937年に早稲田大学理工学部建築学科を卒業し、大林組での勤務を経て、1939年に鴻池組に入社した。1943年に副社長に就任し、1944年には社長に昇格。1962年には会長も兼任し、1985年から会長に専任した。 1994年3月9日腎不全のために京都大学医学部附属病院で死去。82歳没。
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上村 千一郎(うえむら せんいちろう、1912年1月17日 … 上村 千一郎(うえむら せんいちろう、1912年1月17日 - 1991年3月20日)は、日本の政治家、弁護士。位階は正三位、勲等は勲一等。衆議院議員(10期)、環境庁長官(第10代)。 1912年(明治45年)1月17日、愛知県渥美郡福江町(現田原市福江町)に生まれた。祖父は実業家の上村杢左衛門であり、父は上村武太郎。12歳のときに父親を亡くした。 愛知県成章中学校(現愛知県立成章高等学校)、早稲田大学法学部卒業。大学卒業後にはドイツ留学の話があったが、千一郎を跡取りと考えていた祖父の杢左衛門が難色を示したことで御破算となった。大学院で憲法を学んだあと、豊橋市で弁護士を開業した。そのかたわら青年塾を開設し人材の育成に情熱を傾けた。
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阪上 安太郎(さかがみ やすたろう 1912年(明治45年)… 阪上 安太郎(さかがみ やすたろう 1912年(明治45年)1月9日 - 1984年(昭和59年)2月27日)は、日本の政治家、水球選手。衆議院議員を6期務め、衆議院功労議員として表彰された。 1932年ロサンゼルスオリンピック、1936年ベルリンオリンピックに出場した。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。 この項目は、水泳選手(飛込競技選手・アーティスティックスイミング選手・水球選手を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:スポーツ/PJスポーツ人物伝)。
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野村 尚吾(のむら しょうご、1912年1月2日 - 197… 野村 尚吾(のむら しょうご、1912年1月2日 - 1975年5月15日)は、日本の編集者、作家、評論家。本名・利尚。 富山県富山市生まれ。早稲田大学英文科卒業。在学中から『早稲田文学』の編集に携わる。早稲田大学卒業後、毎日新聞社出版部に勤務。1940年、『嫩葉の木立』を刊行して作家デビュー。以後、『早稲田文学』を中心に作品を発表。戦後、谷崎潤一郎の担当となり、1949年、毎日新聞への「少将滋幹の母」連載、1962年、「サンデー毎日」連載の「台所太平記」を担当する。1950年、「遠き岬」で、1960年、「花やあらむ」で芥川賞候補、1962年、『乱世詩人伝』で直木賞候補、1963年、『戦雲の座』で直木賞候補、小説新潮賞受賞。
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法月 惣次郎(のりづき そうじろう、1912年(明治45年)… 法月 惣次郎(のりづき そうじろう、1912年(明治45年)1月1日 - 1995年(平成7年)3月12日)は望遠鏡製作者。静岡県焼津市生まれ。 鉄工所を経営するかたわら、日本初のパラボラ式電波望遠鏡の製作をはじめとし、約400台の望遠鏡を作った。その多くが天文台、研究所、大学で使用され、日本の天文学を支えた。「日本には、秘密の精密工場があるに違いない」と、世界中の技術者に言わしめた、天体望遠鏡製作の世界的権威であったが、本人は生涯を職人気質で通した。大胆かつ緻密な手法に、世界中の天文学者、技術者からの信頼を得ていた。 製作した主な望遠鏡には、美星天文台101cm赤道儀式天体望遠鏡、早稲田大学2.4m電波望遠鏡、栃木県子ども総合科学館75cm赤道儀式天体望遠鏡などがある。
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佐藤 誠治(さとう せいじ 1912年 - 1938年)は、… 佐藤 誠治(さとう せいじ 1912年 - 1938年)は、日本の元アマチュア野球選手。栃木県出身。 宇都宮中学(現・栃木県立宇都宮高等学校)から早稲田大学に進み、野球をプレーした。ポジションは遊撃手だったと伝わる。 早大卒業後応召され、中国で従軍。しかし、戦地で病を得て1938年(正確な死没月日は不明)に韓国の龍山陸軍病院で戦病死した。享年26。 東京ドーム内の野球殿堂博物館にある戦没野球人モニュメントに、彼の名が刻まれている。
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北垣 隆一(きたがき りゅういち、1912年 - 没年不詳)… 北垣 隆一(きたがき りゅういち、1912年 - 没年不詳)は、日本の文芸評論家。北山 隆(きたやま りゅう)という名義でも知られている。 1912年に東京の文京区で生誕する。1934年に早稲田大学文学部史学科を卒業し、東京精神分析学研究所に入会する。著書『夏目漱石の精神分析』でフロイト賞を受賞し、後に本書の全面的な改稿である『改稿 漱石の精神分析』を出版した。 夏目漱石の盲人嫌悪について分析している。 小阪知弘は、北垣が三島由紀夫について、興味深い見解を提示していると評した。野坂昭如は、北垣の著作活動に感謝を表明した。
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鶴崎 俊篤(つるさき としあつ、1912年 - 1944年7… 鶴崎 俊篤(つるさき としあつ、1912年 - 1944年7月26日)は、日本の元アマチュア野球選手。佐賀県出身。 佐賀中学(現・佐賀県立佐賀西高等学校)在学中は、甲子園に2回(夏2回〈1928年、1929年〉)出場した。 1932年早稲田大学に入学、東京六大学リーグ戦でも外野手として出場した。しかし早大卒業後応召され、1944年7月26日、朝鮮・釜山の傷痍軍人療養所て戦病死した。享年32。 東京ドーム内の野球殿堂博物館にある戦没野球人モニュメントに、同郷で、高校・大学の後輩である酒井治彦と共に、彼の名前が刻まれている。
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福田 英雄(ふくだ ひでお、1911年(明治44年)12月2… 福田 英雄(ふくだ ひでお、1911年(明治44年)12月25日 - 1999年(平成11年)8月20日)は、日本の実業家。フジテレビジョン副社長。サンケイアトムズオーナー(球団社長兼務)。東京府出身。 1934年に早稲田大学政経学部政治学科を卒業。専攻は「交通論」だった。卒業と同時に満鉄に入社。その後華北交通に派遣され、終戦まで勤務した。 戦後は、母校の早稲田大学で講師と秘書役を務める。 1954年にニッポン放送に入社し、総務部長、編成部長、編成局次長などを歴任した。日本テレビ、NHKがともに活気を帯びて、受像機が次第に茶の間に進出するようになったことを受け、1956年9月、ニッポン放送がテレビ実施本部を作ると、福田は総括責任者となった。
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大軒 順三(おおのき じゅんぞう、1911年(明治44年)1… 大軒 順三(おおのき じゅんぞう、1911年(明治44年)12月4日 - 1982年(昭和57年)1月28日)は、日本の実業家。日本経済新聞社元社長。静岡県出身。 1934年に早稲田大学政治経済学部卒業。同年に日本経済新聞社の前身である中外商業新報社に入社した。 シンガポール支局長、日本経済新聞大阪本社代表などを経て、1954年には取締役に就任し、常務、専務を経て、日本経済新聞の創刊100周年になる1976年3月からは社長に就任。積極的な営業展開により発行部数を着実に伸ばしていき、経営基盤をより強化していった。 テレビ東京、日経マグロウヒル社などの取締役にも兼任し、1979年からは日本新聞協会会長を務め、新聞業界の販売正常化と電算機による新聞製作の推進を務めた。
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田村 泰次郎(たむら たいじろう、1911年11月30日 -… 田村 泰次郎(たむら たいじろう、1911年11月30日 - 1983年11月2日)は、日本の小説家である。三重県三重郡富田村(現・四日市市富田)出身。早稲田大学在学中より小説を多く書いたが、応召して中国を転戦。戦中の経験に基づく独特の生命観に裏打ちされた「肉体派作家」として熱狂的に支持された。 高知県出身の中学教師である父親と、京都府出身の母親のもとに生まれる。母親は文章や歌を書くことが好きな人だった。11歳上の姉と5歳上の兄がおり、姉も文学好きだった。父親が校長を務めていた四日市の旧制富田中学(現三重県立四日市高等学校)を経て、1929年第二早稲田高等学院に入学。1931年早稲田大学文学部仏文科に進学した。
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河田 誠一(かわだ せいいち、1911年〈明治44年〉11月… 河田 誠一(かわだ せいいち、1911年〈明治44年〉11月23日 – 1934年 〈昭和9年〉2月3日)は、香川県出身の日本の詩人であり小説家。 早稲田大学第二高等学院では田村泰次郎と出会い、深い交流があったほか井上友一郎や坂口安吾などと文学活動を行った。文芸誌『東京派』や『桜』を創刊し、豊かな才能を認められながらも、結核により22歳で没した。 あまり知られた存在ではないが、詩人・作家として昭和初期に期待されたホープであった。代表作は「新城榛名の手記」『河田誠一詩集』。 1911年(明治44年)に香川県三豊郡仁尾町中津賀(現在の三豊市)に父武治、母マスノの間に4人兄弟の次男として生まれる。生まれてすぐ叔母の家に預けられるものの5歳ごろに実家に戻る。
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三原 脩(みはら おさむ、1911年11月21日 - 198… 三原 脩(みはら おさむ、1911年11月21日 - 1984年2月6日)は、香川県仲多度郡神野村(現:同県同郡まんのう町)出身のプロ野球選手(内野手。右投右打)・監督・球団経営者。
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鹿内 信隆(しかない のぶたか、1911年11月17日 - … 鹿内 信隆(しかない のぶたか、1911年11月17日 - 1990年10月28日)は、日本の実業家。フジサンケイグループ会議議長。 津軽藩の御蔵番だった祖父が、御維新で北海道樺太監獄の典獄長(刑務所長)に左遷され、北海道に渡る。 北海道の夕張郡の当時は人口6,000人程度の村だった由仁町に父・鹿内徹、母・モヨの長男として生まれた。母・モヨは写真館を経営していた。父・徹は撮影技師だったが由仁町に来てからは歯科医になった。 1924年、岩見沢中学に進むと弁論部に入って主将を務めていたが、鹿内は「小生意気な子供であった」という。通学用の革靴が買えなくて、母親の婦人靴をぱかぱかいわせながら穿いていた。
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入江 稔夫(いりえ としお、1911年(明治44年)11月5… 入江 稔夫(いりえ としお、1911年(明治44年)11月5日 - 1974年(昭和49年)5月8日)は、日本の水泳選手。大阪府高槻市出身。オリンピック出場2回。1932年ロサンゼルスオリンピックでは100メートル背泳ぎで銀メダルを獲得した。 1924年(大正13年)に茨木中学(現・大阪府立茨木高等学校)に入学。茨木中学校は、体育教諭杉本伝が指導に当たった水泳強豪校で、当時珍しい学校プールを擁し、高石勝男や石田恒信といったオリンピアンを輩出していた。3年生時に早くも背泳ぎの日本新記録を作る。1928年アムステルダムオリンピックには男子100m背泳ぎで参加。なお、アムステルダムオリンピックには茨木中から入江・高階富士夫(およびOBの高石)が選手として、杉本が飛込コーチとして参加している。
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安寿吉(An Su Kil, アン・スギル、1911年11月… 安寿吉(An Su Kil, アン・スギル、1911年11月3日 - 1977年4月18日)は、韓国の小説家。号は南石。安は幼年期を間島で過ごした。間島は朝鮮独立運動の盛んな場所であったため、安は亡国人の苦しみを特に目の当たりにしていたのだろう。安の文学は、亡国という苦しみをひとつのテーマに置いている。 1911年11月3日、咸鏡南道咸興市に生まれる。父は安鎔浩、母は金淑卿の2男1女の長男。父の安鎔浩は間島の龍井にある光明高等女学校の校監を務めていた。安が5歳のとき、興南市西湖里に引越し、ここで戸籍を登録したので、原籍は興南市である。興南市の小学校に通い、13歳で満州の間島に引っ越す。間島中央学校を卒業し、再び咸興市に戻り、1926年3月、咸興高等普通学校に入学する。
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近藤 天(こんどう たかし、1911年(明治44年)10月2… 近藤 天(こんどう たかし、1911年(明治44年)10月29日 - 1994年(平成6年)1月23日)は、元体操選手、実業家。 東京市神田区に生まれる。1936年(昭和11年)早稲田大学専門部法科卒。在学中に、1932年ロサンゼルスオリンピックに出場した。 現役引退後は、体操指導者となり、1956年メルボルンオリンピックおよび1960年ローマオリンピックでは体操総監督を務めた。ほか、1968年の第8回参議院議員通常選挙に全国区から自由民主党公認で立候補したが落選。日東鉄工社長、国際体操連盟副会長、日本オリンピック委員会常任委員、アジア体操連合会会長を歴任し、1982年(昭和57年)日本体操協会会長となり、1991年(平成3年)名誉会長に就任した。
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森田 素夫(もりた もとお、1911年〈明治44年〉10月2… 森田 素夫(もりた もとお、1911年〈明治44年〉10月24日 - 1961年〈昭和36年〉11月17日)は、日本の小説家。1942年、「冬の神」で芥川賞にノミネートされた。 1911年、群馬県北群馬郡伊香保町の旅館・古久屋に生まれる。前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に学び1930年準卒業。第一早稲田高等学院を経て、早稲田大学文学部英文科を卒業。在学中に『早稲田文科』を創刊、『象徴時代』『泉』『文芸主潮』『早稲田文学』などの雑誌にも関与した。神近市子などから高い評価を受けた。1942年より応召。同年、「冬の神」で芥川賞にノミネートされる。 戦後は一時期東西出版社で『旬刊ニュース』の編集に携わる。
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早瀬 喜太郎(はやせ きたろう、1911年10月22日 - … 早瀬 喜太郎(はやせ きたろう、1911年10月22日 - 1977年3月17日)は、日本の地球科学者。専門は鉱床学。北海道奥尻島生まれ。 1929年旧制東京府立第五中学校を卒業後、朝鮮の金山や日本の喜茂別・大土森鉱山などに勤務。1940年早稲田大学理工学部採鉱冶金学科に入学、1943年に同学科を修業、1945年に早稲田大学専門部工科講師となる。1949年4月新制大学発足に伴い理工学部鉱山学科講師となり、同年10月助教授に昇進。1950年同大学より工学博士の学位取得。博士論文の表題は「松尾硫黄鉱床の成因と採鉱」。退任まで鉱物学実験・岩石学実験などを担当、該博な知識と長年の実務経験を生かし、多くの学生を育てる。
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八木 義徳(やぎ よしのり、1911年(明治44年)10月2… 八木 義徳(やぎ よしのり、1911年(明治44年)10月21日 - 1999年(平成11年)11月9日)は、日本の小説家。日本芸術院会員。位階は従四位。 北海道胆振国室蘭郡室蘭町大字札幌通4丁目(現在の室蘭市中央町1丁目)に、父・田中好治、母・八木セイの次男(庶子)として生まれる。父の好治は山梨県東山梨郡春日居村(現在の笛吹市春日居町)の出身で、東京帝国大学医科大学を卒業し、義徳が出生した時点では町立室蘭病院(現在の市立室蘭総合病院)に務めていた。名医と評判であり、その後独立して室蘭市内に田中病院を開業している。一方、母のセイは青森県東津軽郡油川村(現在の青森市大字油川字大浜)出身で、小樽市の海産物商の養女となるが養家が没落し、室蘭で芸妓となり田中好治と知り合った。
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冷水 茂太(ひやみず しげた、1911年(明治44年)10月… 冷水 茂太(ひやみず しげた、1911年(明治44年)10月8日 - 1986年(昭和61年)10月3日)は、日本の歌人。土岐善麿の高弟として評伝などや研究書を執筆したほか、善麿と関わりの深かった石川啄木についての研究も残した。 東京生まれ。早稲田大学専門部法科在学中の1932年(昭和7年)に「短歌街」創刊に参加した。1934年(昭和9年)に卒業後は詠歌に専念し、多くの歌人と親交を持った。 1957年(昭和32年)に横田専一らと「橋」を創刊し、1972年(昭和47年)には土岐善麿を中心とする文芸誌「周辺」の編集者ともなる。1981年(昭和56年)には自身の歌が収録された「短歌周辺」を創刊した。 運輸省勤務を経てトヨタ自動車の役員を歴任した。
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酒井 暊(さかい あきら、1911年(明治44年)9月29日… 酒井 暊(さかい あきら、1911年(明治44年)9月29日 - 1993年(平成5年)11月28日)は、日本の政治家。元小松島市長(4期)。徳島県小松島市出身。 1933年(昭和8年)、早稲田大学専門部商科卒業。同年に徳島県庁に就職。県庁では秘書課長・労政課長・福祉課長・建築課長・板野地方事務所長・農政課長を歴任。 1957年(昭和32年)に小松島市長に当選。1973年(昭和48年)まで4期を務めた。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
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小野寺 喜得 (おのでら きとく、1911年 <明治44年>… 小野寺 喜得 (おのでら きとく、1911年 <明治44年> 9月16日 -1993年 <平成5年> 4月4日) は、日本の地方政治家。岩手県一関市長(5期)。位階は従五位。勲四等旭日小綬章。 岩手県西磐井郡真滝村(現・一関市)生まれ。1936年早稲田大学政治経済学部政治学科卒。卒業後は岩手県庁に入り、6年間勤務したのち、一関市役所に移る。1958年教育長、翌1959年助役となり、1963年一関市長に当選する。 市長在職中は国立一関工業高等専門学校や日本電気の誘致、駅前など土地区画整理事業の実施、両磐地区広域市町村圏指定、同地区広域消防組合の発足、市役所の移転、国土庁モデル定住圏策定圏域選定、東工業団地の造成と工場誘致などに参画した。
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川崎 秀二(かわさき ひでじ、1911年(明治44年)9月1… 川崎 秀二(かわさき ひでじ、1911年(明治44年)9月14日 - 1978年(昭和53年)2月22日)は、日本の政治家。位階は正三位勲一等、勲章は瑞宝章。父親は立憲民政党代議士の川崎克。元厚生労働大臣の川崎二郎は次男。 大阪府大阪市生まれ。1929年(昭和4年)旧制芝中学校卒業。1935年(昭和10年)早稲田大学政治経済学部を卒業。早大時代は陸上部に所属する傍ら、学内の弁論大会に参加し、痛烈な軍部批判を行って入賞したこともある。卒業後はNHKに入局するも、戦時中は応召により中国大陸を転戦、この時の経験から、戦後日中友好運動に挺身することとなる。 企画部副部長を最後にNHKを退職し、戦後初の総選挙となった1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙に父親の地盤を引き継いで旧三重1区から日本進歩党公認で立候補し当選、以後当選11回を数える(当選同期に小坂善太郎・二階堂進・江﨑真澄・小沢佐重喜・石井光次郎・坂田道太・水田三喜男・村上勇・井出一太郎・早川崇・中野四郎など)。
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額田 巌(ぬかた いわお、1911年9月12日- 1993年… 額田 巌(ぬかた いわお、1911年9月12日- 1993年11月)は、日本の工学者。包結研究家。学位は工学博士、文学博士。 1911年(明治44年)岡山県生まれ。1935年早稲田大学理工学部を卒業し日本電気に入社。配属先で位相幾何学を知り、岡田幸雄と小泉四郎の指導を受ける。回路接続から「結び」に興味を持つようになり、1940年(昭和15年)頃から結びについて本格的に研究を開始。結びが閉回路である点に着想を得て、結びの表示に円表示を用いる。1945年「格子にて消弧可能なる放電管に依る継電方式の確立」で早大工学博士、1962年「日本における結縛の歴史、民俗学的研究」で東京教育大学文学博士。 また、世界各地の結びについて調査。
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安田臣(やすだ かたし、1911年9月11日 - 1977年… 安田臣(やすだ かたし、1911年9月11日 - 1977年2月9日)は日本人の建築家。建設省営繕局監督課長を経て、1963年に独立。建設省時代に手がけた大分県庁舎、島根県庁舎及びその周辺整備計画にて日本建築学会賞を受賞した。山陰地方に多く作品が見られる。 島根県邑智郡邑南町に生まれる。1937年(昭和12年)早稲田大学理工学部建築学科卒業。卒業後、同潤会技師を経て、住宅営団技師。戦後は広島県の戦災復興都市計画に参加。建設省発足後は営繕局建築課建設専門官、九州地方建設局営繕部長を経て、1962年営繕局監督課長に就任。1963年に退官し、東京都港区赤坂に安田臣建設設計事務所を開設し、代表取締役となる。
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木村 宗男(きむら むねお、1911年9月6日 - 2005… 木村 宗男(きむら むねお、1911年9月6日 - 2005年)は、日本語教育の研究者、実践者。早稲田大学名誉教授。
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田坂 敬三郎(たさか けいざぶろう、1911年〈明治44年〉… 田坂 敬三郎(たさか けいざぶろう、1911年〈明治44年〉8月15日 - 1998年〈平成10年〉4月25日)は、日本の政治家。愛媛県今治市議会議員、今治市長などを歴任した。 1935年(昭和10年)に早稲田大学を卒業。1947年(昭和22年)4月に今治市議会議員に初当選。2期目には今治市議会の副議長を務めた。 1954年(昭和29年)1月に行われた今治市長選挙に立候補し、稲本早苗、山沢和三郎、福島照一を破り初当選。田坂は当時で42歳であり、若き市長の誕生となった。 1958年(昭和33年)1月の今治市長選挙では無投票当選し、再選。1962年(昭和37年)1月の今治市長選挙では3選を目指して立候補したが、羽藤栄市に破れ落選した。
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佐々 栄三郎(戸籍名:榮三郎、ささ えいざぶろう、1911年… 佐々 栄三郎(戸籍名:榮三郎、ささ えいざぶろう、1911年(明治44年)8月10日 - 1990年(平成2年)1月28日)は、昭和期の農民運動家、政治家、郷土史学者。衆議院議員。 香川県出身。1935年(昭和10年)早稲田大学法律科を卒業した。 華北綜合調査研究所所員、香川県購買農業協同組合理事を務めた。また、香川県議会議員、四国地方開発審議会委員、日本社会党香川県本部書記長、同副委員長なども務めた。 1953年(昭和28年)4月、第26回衆議院議員総選挙で香川県第2区から左派社会党公認で出馬したが落選。以後、第29回、第30回総選挙でも落選した。1967年(昭和42年)1月の第31回総選挙で当選し、衆議院議員に1期在任した。
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山本 秀雄(やまもと ひでお、1911年8月6日 - 199… 山本 秀雄(やまもと ひでお、1911年8月6日 - 1991年11月16日)は、日本の柔道家(講道館9段)。 東京市品川の二本榎に生まれた。父が寺の住職をしていた関係で小学校と中学校時代は北海道の函館で過ごし、函館中学校(後の函館中部高校)を経て早大一高に進学、この頃から柔道で頭角を現し始めた。同時期、小内落を考えだし研究し完成させた。膝を柔らかく保って両足の指先は左右に開かず真っ直ぐ平行に構え、小柄な体格と他人には真似のできないその独特の足運びから小さな大選手として名を馳せた。1933年10月の第7回明治神宮大会柔道競技では準決勝戦で東京高等師範学校の加藤幸蔵5段を小内落で降し、同門対決となった決勝戦では早大専門部の山口利雄5段の払釣込足に辛酸を舐めたものの準優勝という成績を残した。
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佐藤 良邦(さとう よしくに、1911年7月10日 - 19… 佐藤 良邦(さとう よしくに、1911年7月10日 - 1991年9月21日)は、日本の実業家。東京12チャンネル(現在のテレビ東京)の社長を務めた。 東京都出身。佐藤信四郎の二男。1936年、早稲田大学文学部を卒業。日本経済新聞社の前身である中外商業新報に入社し、整理部、社会部、工業部各記者、通信、社会各部長、大阪支社編集長、編集局次長、総務部長、工務局長を経て、1959年2月に取締役に就任し、1965年4月には常務大阪本社代表に就任した。1972年3月に退任し、同年4月に東京12チャンネル副本部長、1973年4月に本部長を経て、株式会社に改組したのち同年11月から1975年10月まで社長を務めた。
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近衛 敏明(このえ としあき、1911年7月3日 - 没年不… 近衛 敏明(このえ としあき、1911年7月3日 - 没年不明)は、日本の俳優。北海道岩見沢市出身。本名は柿崎 敏一、旧芸名は近江敏明。趣味は音楽鑑賞。 早稲田大学経済学部卒業。 1934年、松竹蒲田撮影所に入り、同年の『会社員閣下』で主演する。誠実な青年役で注目を集めた。また、松竹の看板スターだったが、1935年に松竹を退社した藤井貢が主演していた『若旦那』シリーズに藤井の跡を継いで主演した。1930年代半ばから清水宏監督などのメロドラマで主役を演じたが、次第に脇役に回っていった。本人も「脇役のほうに持ち味があると自他ともに認めた」と語っている。1937年頃に上原謙、夏川大二郎、徳大寺伸と第八芸術(=映画)にちなんだ研究会「8クラブ」を結成し、毎月、演劇や音楽関係の有識者を呼んで、講演会を開いていた。
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斎藤 良輔(さいとう りょうすけ、1911年〈明治44年〉5… 斎藤 良輔(さいとう りょうすけ、1911年〈明治44年〉5月20日 - 1996年〈平成8年〉11月27日)は、日本の玩具研究家、新聞記者。 群馬県伊勢崎市生まれ。旧制太田中学校を経て、1935年(昭和10年)に早稲田大学文学部英文科を卒業。 1936年(昭和11年)朝日新聞社に入社。社会部に勤務する。編集出版局、応召でジャワに渡る[要出典]。1954年(昭和29年)からは『週刊朝日』副編集長を務めた。1966年(昭和41年)定年退職し、朝日新聞社客員となる。 1970年(昭和45年)より女子聖学院短期大学の講師を勤める。 1996年(平成8年)心不全により死去。 弟は芸能音楽評論家の斎藤茂(1922年 - )。
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