小林 静雄(こばやし しずお、1909年(明治42年)9月2… 小林 静雄(こばやし しずお、1909年(明治42年)9月2日 - 1945年(昭和20年)1月24日)は、日本の能楽研究者。研究のみならず能評、さらに新作能の創作など才気にあふれた活動で将来を嘱望されたが、第二次世界大戦で戦死した。 東京世田谷の生まれ。1932年(昭和7年)、早稲田大学文学部国文学科卒業。卒業論文は能作者・観世信光について研究した「観世小次郎信光事蹟考」。これら能作者の研究は後に、代表作『謡曲作者の研究』(1942年(昭和17年))に結実することとなる。大学卒業後から読売新聞・国民新聞などに能評を掲載する一方、大学院在学中の1933年(昭和8年)には『能楽史料・第一輯』を刊行。
森岡 俊男(もりおか としお、1909年8月25日 - 19… 森岡 俊男(もりおか としお、1909年8月25日 - 1979年10月29日)は、日本の実業家。関西電力元社長、会長。愛媛県松山市出身。 1934年に早稲田大学法学部を卒業し、宇治川電気(のちの関西電力)に入社した。 取締役、専務、副社長を経て、1975年7月からは社長を務め、電源開発問題などに取り組むが、体調不良により1977年6月に辞任。労務畑が長く、荒れた労使関係の調整に尽力した。 日本万博博覧会協会理事、宇治電ビル会長、山陽電気鉄道取締役などを歴任した。 1968年10月に藍綬褒章を受章。 1979年10月29日脳血栓により京都市内の自宅で死去。70歳没。
松平 賴明(まつだいら よりひろ、1909年8月13日 - … 松平 賴明(まつだいら よりひろ、1909年8月13日 - 1990年2月23日)は、高松松平家13代当主。華族制度廃止までは伯爵。第2代本郷学園理事長、第4代本郷中学校・高等学校長。ボーイスカウト日本連盟理事、同国際コミッショナー、日本ユネスコ協会連盟理事長などを歴任した。ブロンズ・ウルフ章受章者。戦前は陸軍技術将校(最終階級は技術少佐)。 1909年(明治42年)、東京市本郷区池之端七軒町(東京都文京区七軒町)に、松平胖・俊子夫妻の長男として生まれる。初名は廣。父胖は高松松平家の12代当主・伯爵松平頼寿の同母弟で海軍軍人(のちに海軍大佐)であり、母俊子は侯爵鍋島直大の六女。 1915年(大正4年)、暁星小学校へ入学。
福永 英二(ふくなが えいじ、1909年8月11日 - 20… 福永 英二(ふくなが えいじ、1909年8月11日 - 2002年11月18日)は、朝日新聞記者、翻訳家であり、アフリカとの民間外交も担った。 山口県生まれ。1936年早稲田大学法学部卒。1939年パリ大学修了、朝日新聞社入社、欧米部員、海外特派員などを経て、1956年退社。在フランス日本大使館勤務ののち、1959年社団法人日本アフリカ協会専務理事。1985年日本とアフリカの民間外交の功績で勲三等瑞宝章を受章(『日本企業の体験的アフリカ』略歴)。ほかフランス語の翻訳も行った。 2002年11月18日、心不全のため死去。
竹林 隆二(たけばやし たかじ、1909年(明治42年)8月… 竹林 隆二(たけばやし たかじ、1909年(明治42年)8月8日 - 1995年(平成7年))は、昭和時代の競泳選手。水球選手。 中泉農学校卒業、静岡県浜名郡豊西村貴平(笠井町を経て現浜松市中央区貴平町)出身。早稲田大学在学中、1928年アムステルダムオリンピックに競泳日本代表として男子1500m自由形に出場したが準決勝棄権に終わった。さらに、1932年ロサンゼルスオリンピックでは水球に出場し4位に入賞した。 大学卒業後、中泉農学校の教諭となり、水泳部の強化に尽力した。
小田 基義(、1909年〈明治42年〉7月21日 - 197… 小田 基義(、1909年〈明治42年〉7月21日 - 1973年〈昭和48年〉10月21日)は、日本の映画監督。1940年代、1950年代にプログラムピクチャーを量産した。 息子は、ジャッキー吉川とブルー・コメッツのキーボーディスト小田啓義。 前衛芸術家の糸井貫二は従弟。 福岡県門司市(現在の北九州市門司区)に生まれる。早稲田大学文学部英文科卒業後、1935年にP.C.L.(現在の東宝)入社。山本嘉次郎の助監督を経て、1940年『姑娘(くうにゃん)の凱歌』で監督デビューする。 初期は叙情的な女性映画を監督するが、3作目の『歌へば天国』(山本薩夫と共同監督)では「一年に一度は馬鹿をやりたい」という主演・古川緑波の要望に応えてスラップスティック・コメディに挑戦。
浜田 尚友(はまだ ひさとも、1909年(明治42年)6月2… 浜田 尚友(はまだ ひさとも、1909年(明治42年)6月29日 - 1988年(昭和63年)3月3日)は、日本の政治家。帝国議会衆議院議員、国分市議会議長。 鹿児島県の国分村(現・霧島市)出身で国分小学校卒業。1927年(昭和2年)鹿児島県立加治木中学校 (旧制)卒業。1932年(昭和7年)早稲田大学政治経済学部政治科卒業。同年東京日日新聞社(現・毎日新聞社)に入社し、社会部・政治部記者。厚生大臣秘書官(1940年(昭和15年))などを経て、1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)で翼賛政治体制協議会推薦候補として鹿児島県第2区にて当選。1943年(昭和18年)現職議員中より第一号陸軍二等兵として応召、硫黄島戦闘参加。
木村 一夫(きむら かずお、1909年6月28日 - 198… 木村 一夫(きむら かずお、1909年6月28日 - 1987年11月4日)は、日本の陸上競技(走高跳)の選手。 1920年代後半から1930年代にかけて活躍し、日本陸上競技選手権大会優勝5回、1929年から1933年にかけて日本記録保持者。1928年アムステルダムオリンピックと1932年ロサンゼルスオリンピックに出場した。 兵庫県加古郡加古川町(現在の加古川市)出身。関西学院中学部に進み、1927年の第8回極東選手権大会(上海)の走高跳で2位。1926年・1927年の日本陸上競技選手権大会で優勝。 早稲田大学に進学。1928年の日本陸上競技選手権大会で優勝(以後、1929年・1931年と早稲田大学所属で優勝)。
中島 治康(なかじま はるやす、1909年6月28日 - 1… 中島 治康(なかじま はるやす、1909年6月28日 - 1987年4月21日)は、長野県松本市出身のプロ野球選手(外野手)・監督。
小島 安信(こじま やすのぶ、1909年6月1日 - 200… 小島 安信(こじま やすのぶ、1909年6月1日 - 2003年3月10日)は、日本の経営者。長崎新聞社社長を務めた。長崎県出身。 1934年3月に早稲田大学文学部を卒業し、1935年10月に朝日新聞社に入社。 1964年11月に長崎新聞社専務を経て、1968年11月から1976年12月までに社長を務めた。 2003年3月10日肺気腫のために死去。93歳没。
三神 良三(みかみ りょうぞう、1909年〈明治42年〉5月… 三神 良三(みかみ りょうぞう、1909年〈明治42年〉5月31日 - 1992年〈平成4年〉4月20日)は、日本の実業家、経営評論家。 山梨県生まれ。1933年早稲田大学経済学科卒。東宝劇場に入り、日劇支配人、大東亜会館支配人。1947年東京會舘取締役総支配人、50年常務、61年社長、70年取締役、73年顧問。1966年世界貿易会館社長。有楽書房社長。俳句も詠んだ。
狩野 近雄(かのう ちかお、1909年〈明治42年〉4月5日… 狩野 近雄(かのう ちかお、1909年〈明治42年〉4月5日 - 1977年〈昭和52年〉3月10日)は、日本のジャーナリスト。毎日新聞社取締役、スポーツニッポン新聞社社長。 群馬県群馬郡古巻村八木原(現・渋川市八木原)に生まれる。旧制高崎中学校を経て、1932年(昭和7年)早稲田大学法学部を卒業。福田赳夫は高崎中学校の同級。 大学卒業後毎日新聞記者となる。東京裁判の取材ではキャップとして活躍。中部本社編集局長、印刷局長、東京出版局長、東京編集局長を歴任し、1965年(昭和40年)取締役に就任。中部本社代表、西部本社代表、常務取締役も務める。 1971年(昭和46年)よりスポーツニッポン新聞社社長、1975年(昭和50年)同会長。
戸井田 道三(といだ みちぞう、1909年3月25日 - 1… 戸井田 道三(といだ みちぞう、1909年3月25日 - 1988年3月24日)は、日本の評論家、能・狂言の評論家。 東京生まれ。旧制早稲田中学を経て早稲田大学国文科卒。 1933年、中央公論社に入社するが、その年のうちに退社。1948年、天皇制と能楽の関係を説いた『能芸論』を上梓、民俗学、人類学を援用した能や狂言の考察で知られた。1954年より毎日新聞の能評を担当、のち映画評もおこなった。『戸井田道三の本』4冊がある。「きものの思想」で第17回日本エッセイスト・クラブ賞受賞。
小西 健一(こにし けんいち、1909年(明治42年)3月2… 小西 健一(こにし けんいち、1909年(明治42年)3月20日 - 1986年(昭和61年)3月20日)は、日本のフィールドホッケー選手、スケート指導者。 朝鮮の咸興市で生まれた。1932年、早稲田大学経済学部を卒業した。 1932年、日本のフィールドホッケーチームのメンバーとして、1932年ロサンゼルスオリンピックに出場し銀メダルを獲得した。彼はフォワードとして2試合に出場した。 1933年、大日本スケート競技連盟(現日本スケート連盟)理事、大日本体育協会(現日本スポーツ協会)理事に就任。1972年札幌オリンピックの日本スケート代表チームの選手強化本部長を務めた。 その他、日本アイスホッケー連盟参与、日本スケート連盟参与、小西産業社長などを務めた。
川副国基(かわぞえ くにき、1909年3月18日―1979年… 川副国基(かわぞえ くにき、1909年3月18日―1979年)は、日本近代文学者、早稲田大学名誉教授。 長崎県生まれ。早稲田大学国文科卒。早稲田大学教授。78年定年退任。
禹 甲麟(ウ・ガムニン、朝鮮語: 우갑린、1909年2月21… 禹 甲麟(ウ・ガムニン、朝鮮語: 우갑린、1909年2月21日 - 2000年3月11日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の独立運動家、労働運動家、ジャーナリスト、政治家。第6代韓国国会議員。本貫は丹陽禹氏。 ソウル出身。中学校中退、早稲田大学法政学部卒。新幹会代議員、朝鮮日報記者、朝鮮青年総同盟調査部次長、大韓独立促成国民会創立委員・宣伝委員、反託闘争国民総動員委員、米ソ共同委員会団体代表、大韓労働総連盟事務総長、自由党訓練部長、民政党組織委員長・選挙対策委員会副委員長、新民党指導委副議長を務めた。 2000年3月11日、ソウルの新村セブランス病院で持病により死去。享年93。 柳津(朝鮮語版)と林次周が新民党を離党したことにより第6代国会議員職を喪失した後、禹は1967年6月26日に繰り上げ当選したが、任期満了日は同月30日だったため、議員を5日間しか務めなかった。
工藤 孝一(くどう こういち、1909年2月4日 - 197… 工藤 孝一(くどう こういち、1909年2月4日 - 1971年9月21日)は、岩手県岩手郡川口村(現:岩手町)出身のサッカー選手、サッカー指導者。ベルリンオリンピックのサッカー日本代表コーチを務めた。 旧制・岩手県立盛岡中学校(現:岩手県立盛岡第一高等学校)から1927年に第一早稲田高等学院へ進学。ゴールキーパーとして全国高等学校ア式蹴球大会に出場、1929年の第6回大会の優勝に貢献した。1930年に早稲田大学商学部に入学し、ア式蹴球部に入部。一時はフォワードに転向して競技を続けたが、体格に劣ることから選手生活に見切りを付け、マネージャーとして活動するようになった。 1933年に大学を卒業後、一時大同生命保険に就職したが、後に同盟通信社に転職。
福井 順一(ふくい じゅんいち、1909年1月26日 - 没… 福井 順一(ふくい じゅんいち、1909年1月26日 - 没年不明)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。 福岡県出身。早稲田大学卒。東邦精工、中央商事、政治経済研究所、新政、泰西映画各社長を歴任。1949年の第24回衆議院議員総選挙で千葉3区から民主自由党公認で立候補したが落選。1952年の第25回衆議院議員総選挙で自由党公認で立候補して初当選。以来3期務めた。この間、第1次岸内閣北海道開発政務次官、衆議院国土総合開発特別委員長を歴任した。1960年の第29回衆議院議員総選挙で落選。1963年の第30回衆議院議員総選挙から選挙区を福岡1区に移したが、3回続けて落選した。
柴田 隆二(しばた りゅうじ、1909年(明治42年) - … 柴田 隆二(しばた りゅうじ、1909年(明治42年) - 1984年(昭和59年))は、静岡県掛川市出身の写真家。国画会会員。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
新井 信男(あらい のぶお、1909年(明治42年) - 1… 新井 信男(あらい のぶお、1909年(明治42年) - 1990年(平成2年)6月15日)は、日本の競泳選手。1928年アムステルダムオリンピック男子800m自由形リレー銀メダリスト。旧制同志社中学、早稲田大学専門部政治経済科卒業。京都武徳会所属。 1928年のアムステルダムオリンピック競泳男子800m自由形リレーで米山弘、佐田徳平、高石勝男とともに銀メダルを獲得。
横山 林二(よこやま りんじ、1908年(明治41年)12月… 横山 林二(よこやま りんじ、1908年(明治41年)12月20日-1973年(昭和48年)2月25日)は、日本の自由律俳句の俳人。層雲の荻原井泉水に師事、のちプロレタリア俳句運動に転じ、新興俳句弾圧事件により投獄された。戦後は新俳句人連盟常任委員、現代俳句協会会員。東京都生まれ、本名は吉太郎。 東京都港区に生まれ、芝新網町に育つ。父は露天商、母は日雇労働者、二人の姉は芸者と女工という貧しい家庭だった。新網の特殊小学校、専修商業学校を経て早稲田大学政経学部を卒業。14歳の時に関東大震災を経験。関東大震災朝鮮人虐殺事件や甘粕事件を契機に社会性俳句に目覚め、その年の1923年、荻原井泉水が選者をしていた朝日新聞の自由律俳句欄に投句、翌年にはその井泉水が主宰する層雲に入会、同じ層雲の栗林一石路や橋本夢道らとプロレタリア俳句運動を展開する。
大和 与一(やまと よいち、1908年〈明治41年〉12月3… 大和 与一(やまと よいち、1908年〈明治41年〉12月3日 - 1988年〈昭和63年〉4月29日)は、昭和期の労働運動家、政治家。参議院議員(3期)。剣道5段で日本武道館常任理事を務めた。 大韓帝国、のちの京城府(現ソウル特別市)で運送店経営・大和興次郎、露子の長男として生まれる。龍山中学校(現龍山高等学校)を経て、1934年(昭和9年)早稲田大学専門部政経科を卒業した。 朝鮮総督府鉄道局に入局し、終戦時は釜山駅旅客主任を務めていた。朝鮮半島からの引揚者60万人の輸送に従事し最終船で日本に戻り、1946年(昭和21年)運輸省鉄道総局東京鉄道局桐生駅駅手に就任。日本国有鉄道が発足し高崎鉄道管理局勤務となる。
井出 多米夫(いで ためお, 1908年11月27日 - 1… 井出 多米夫(いで ためお, 1908年11月27日 - 1998年8月17日 )は、静岡県清水市(現:静岡市)出身のサッカー選手、サッカー指導者。 静岡県立静岡中学校(現・静岡県立静岡高等学校)を卒業。 早稲田大学に入学後はア式蹴球部に入部した。工藤孝一が同期に当たる。在学中の1930年5月に開催された第9回極東選手権競技大会の日本代表に選出され、1試合に出場した。 1933年10月開催されたア式蹴球全國優勝競技會(第13回天皇杯全日本サッカー選手権大会)に東京OBクラブの一員として優勝した。 1942年に地元の清水市に戻って静岡県立庵原中学校(現:静岡県立清水東高等学校)などで指導し、1948年には同年に創設された清水サッカー協会の初代理事長に就任した。
橘 直治(たちばな なおじ、1908年11月15日 - 19… 橘 直治(たちばな なおじ、1908年11月15日 - 1997年9月10日)は、日本の実業家。政治家。衆議院議員(3期)、参議院議員(1期)。長男は橘康太郎(衆議院議員)、孫は橘慶一郎(高岡市長、衆議院議員)。 富山県射水郡守山村(現:高岡市)出身。実業家橘林太郎の二男として生まれる。1931年早稲田大学商学部卒。伏木海陸運送社長、守山村議、高岡市議、同議会議長を務め、1946年の第22回衆議院議員総選挙において日本進歩党で富山県から出馬し初当選。翌年より富山2区となり、衆議院議員を3期務めた。1949年第3次吉田内閣で賠償政務次官。1959年より高岡市商工会議所会頭。1969年春の褒章で長年、海陸運送業に携わって貿易関係団体要職に就いて特にソ連との貿易尽力し輸出の振興に寄与したとして藍綬褒章受章。
星川 長七(ほしかわ ちょうしち、1908年10月13日 -… 星川 長七(ほしかわ ちょうしち、1908年10月13日 - 1996年9月17日)は、日本の法学者。 山形県新庄市出身。早稲田大学法学部卒業。早稲田大学法学部教授を務めた後、1987年から1991年まで初代駿河台大学学長を務めた。1980年、勲三等瑞宝章を受章。1996年9月17日、腎不全のため死去。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、法学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
吉村 貞司(よしむら ていじ、1908年9月24日 - 19… 吉村 貞司(よしむら ていじ、1908年9月24日 - 1986年1月4日)は、日本の文芸評論家・美術評論家。 福岡県生まれ。本名・彌吉三光(やよし かずみつ)。早稲田大学文学部独文科卒。雑誌記者をへて戦後『新婦人』編集長、のち杉野女子大学教授。福士幸次郎の晩年の弟子。文芸評論のほか日本文化や日本美術、中国美術の評論を多く書いた。特に川端康成を高く評価した。
児井 英生(こい えいせい、1908年8月21日 - 199… 児井 英生(こい えいせい、1908年8月21日 - 1992年3月10日)は、日本の映画プロデューサー、映画監督、脚本家、作詞家、実業家である。日活の契約プロデューサーだった時代に石原裕次郎を売り出し、小林旭をスターにした人物として知られる。本名は兒井 英男(こい ひでお)、大都映画でのペンネームは高樹 彦九郎(たかぎ ひこくろう)である。児井プロダクション代表。 1908年(明治41年)8月21日、兵庫県神戸市に鉄道院の高級官吏(神戸運輸事務所長)だった児井英松と公卿の娘だった母の長男として出生。姉が2人の末っ子だった。父の転職により、東京の渋谷に移住し、旧制中学校の私立芝中学校を経て、早稲田大学法学部に入学するが、2年次に政経学部に、3年次に文学部に転部し卒業後、衣笠貞之助に誘われ1931年に松竹キネマ京都撮影所監督部に入社した。
井田 誠一(いだ せいいち、1908年(明治41年)8月13… 井田 誠一(いだ せいいち、1908年(明治41年)8月13日 - 1993年(平成5年)10月12日)は、昭和期の作詞家。 東京都八王子市出身。早稲田大学文学部卒業。 戦後、ビクター専属作詞家として活躍し、「東京シューシャンボーイ」、「水色のスーツケース」、「若いお巡りさん」などを作詞。明るい内容の歌詞が特徴的だった。その他、外国曲の訳詞を行った。 1993年(平成5年)10月12日死去。享年85。墓所は八王子市の富士見台霊園。 1999年、高尾山薬王院の境内に「若いお巡りさん」の歌詞を刻んだ歌碑が建立された。
植草 甚一(うえくさ じんいち、1908年〈明治41年〉8月… 植草 甚一(うえくさ じんいち、1908年〈明治41年〉8月8日 - 1979年〈昭和54年〉12月2日)は、ジャズ、ミステリー、映画評論家で1970年代・サブカルチャーの旗手だった、通称“J・J氏”。 植草は東京市日本橋区小網町(現・東京都中央区日本橋小網町)にて、木綿問屋の一人息子として生まれた。1915年東華小学校に入学。10歳あたりから、姉に連れられ地元の映画館「水天館」に通った。1921年渋谷鉢山町の東京府立第一商業学校に入学、ここでは首席を通した。1923年9月1日の関東大震災で被災し、これをきっかけに植草家は没落した。 1926年、旧制第一高等学校を受験するが失敗。このため、東京府立第五中学校の補習科に通学。
窪田 章一郎(くぼた しょういちろう、1908年8月1日 -… 窪田 章一郎(くぼた しょういちろう、1908年8月1日 - 2001年4月15日)は、日本の歌人・国文学者。早稲田大学名誉教授。 窪田空穂の長男として、東京府東京市牛込区(現在の東京都新宿区)南榎町に生まれる。旧制私立豊山中学校(現在の日本大学豊山高等学校)4年修了後、早稲田大学文学部国文科卒。1943年、武川忠一らが創設した早稲田大学短歌会に指導役として参加。そこから発展した歌誌『まひる野』を創刊主宰した。早稲田大学講師・教授を歴任、名誉教授の称号を受く。国文学者としては西行研究の第一人者であった。 1980年、「素心臘梅」で第14回迢空賞受賞。1988年、「窪田章一郎全歌集」で第11回現代短歌大賞受賞。
高木 俊朗(たかぎ としろう、1908年(明治41年)7月1… 高木 俊朗(たかぎ としろう、1908年(明治41年)7月18日 - 1998年(平成10年)6月25日)は、日本の映画監督、脚本家、ノンフィクション小説家である。 東京生まれ。1933年早稲田大学政治経済学部卒業後、松竹蒲田撮影所に入社し、清水宏に師事した。 その後、富士スタジオ、日本映画社に勤務した。1939年から陸軍映画報道班員として、日中戦争に従軍し、記録映画を製作した。 太平洋戦争中、1942年に陸軍航空本部映画報道班員として、マレーシア、インドネシア、タイ、仏印などに従軍。映画報道班員としての体験をもとに、新聞や放送の発表と現実の戦況の違い、戦場の苛酷なありさまの見聞等々、インパール作戦の悲惨さを明らかにして陸軍指導部の無謀さを告発することを決意した。
岩村三千夫(いわむら みちお、1908年6月8日 - 197… 岩村三千夫(いわむら みちお、1908年6月8日 - 1977年5月16日)は、日本の中国問題評論家。 新潟県生まれ。早稲田大学卒業。1937年読売新聞社に入社し、上海特派員・香港支局長・東亜部次長・シンガポール支局長・論説委員を務める。 1946年、中国研究所の創立に携わり、理事を務める。1949年には日中友好協会の設立に携わり、日中友好事業を進めた。
小杉 一雄(こすぎ かずお、1908年6月4日 - 1998… 小杉 一雄(こすぎ かずお、1908年6月4日 - 1998年10月22日)は、日本の美術史学者。早稲田大学名誉教授。専門は中国美術史。 当時は洋画家で、後に日本画を多く描いた小杉放庵の長男として東京市本郷区千駄木町に生まれる。1927年に第一早稲田高等学院に入学した後は一貫して早稲田大学系列の学校に在籍し、1929年に早稲田大学文学部史学科東洋史学専攻に入学。大学院進学後は父とも親交があった会津八一の指導を受けた。1945年に早稲田大学講師、1949年には同大学文学部教授となり、美術史を担当。同年設立の美術史学会では10人が加わった発起人のうちの一人となった。1957年に「中国美術史に於ける伝統の研究」で文学博士号を取得。
坂本 元雄(さかもと もとお、1908年5月29日 - 20… 坂本 元雄(さかもと もとお、1908年5月29日 - 2003年1月31日)は、日本の経営者。井関農機社長を務めた。神奈川県出身。 1931年に早稲田大学政治経済学部を卒業し、同年に日本勧業銀行に入行。 1961年に取締役を経て、1962年に井関農機副社長に就任し、1966年から1970年までに社長を務めた。三菱電機監査役も務めた。 2003年1月31日肺炎のために死去。94歳没。
長見 義三(おさみ ぎぞう、1908年5月23日 - 199… 長見 義三(おさみ ぎぞう、1908年5月23日 - 1994年4月21日)は、日本の小説家。 北海道夕張郡長沼町生まれ。北海道農産物検査所に勤めるかたわら創作を始める。1928年「母胎より塚穴へ」が「小樽新聞」の懸賞小説1等入選となる。上京して谷崎精二に師事、早稲田高等学院卒後、1938年早稲田大学文学部仏文科卒。八木義徳と親交を結ぶ。1939年『姫鱒』で第9回芥川賞候補。敗戦後は千歳市の米軍キャンプで通訳を務める。最初の妻(死別)は野村尚吾の妹。1985年千歳市文化功労賞受賞、1990年北海道文化賞受賞。
平田 冨太郎(ひらた とみたろう、1908年5月22日 - … 平田 冨太郎(ひらた とみたろう、1908年5月22日 - 1995年3月20日)は、日本の社会学者。早稲田大学名誉教授。 秋田県横手市に生まれる。横手中学校(現・秋田県立横手高等学校)卒、早稲田第二高等学院卒、1931年早稲田大学政治経済学部卒。 1936年同助手、1938年講師、1941年助教授、1945年教授、1954-56年社会政策学会代表幹事、1964-66年社会政策学会代表幹事、1969-72年附属図書館長、1979年定年退任、名誉教授、日本社会事業大学学長・教授、86-92年日本生産性本部会長、91年退任、名誉教授、1955年「社会政策論研究 社会政策と資本主義との関連を中心として」で、経済学博士(慶應義塾大学)の学位を取得。
杉田屋 守(すぎたや まもる、1908年4月15日 - 19… 杉田屋 守(すぎたや まもる、1908年4月15日 - 1972年5月11日)は、アメリカ合衆国ハワイ準州(Territory of Hawaii)生まれのプロ野球選手(外野手)・監督。ハワイ移民の日系2世。
井深 大(いぶか まさる、1908年(明治41年)4月11日… 井深 大(いぶか まさる、1908年(明治41年)4月11日 - 1997年(平成9年)12月19日)は、日本の電子技術者、実業家、教育者、弁理士。位階は正三位。 栃木県上都賀郡日光町(現在の日光市)出身。盛田昭夫とともにソニーの創業者の一人。 祖先は会津藩の家老であり、親戚には飯盛山で自刃した白虎隊の井深茂太郎や明治学院総理を歴任した井深梶之助、ハンセン病に一生を捧げカトリック看護師協会の会長を歴任した井深八重がいる。日露間で樺太・千島交換条約が締結された後、祖父基が公務員として千島列島を巡回し、明治11年に占守島を訪れているが、その際に現地で撮影された集合写真に収まっていた吏員の一人が祖父基であることを後に井深大自身が確認している。
入交 好脩(いりまじり よしなが、1908年(明治41年)4… 入交 好脩(いりまじり よしなが、1908年(明治41年)4月8日 - 1999年(平成11年)6月8日)は、日本の日本経済史学者、早稲田大学名誉教授。 早大卒、早大商学部教授を1978年まで務め、徳川時代の経済史、および幕末土佐藩史を研究した。兄は坂本龍馬の銅像を建てた入交好保。死没日付をもって正五位に叙された。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
高木 純一(たかぎ じゅんいち、1908年3月25日 - 1… 高木 純一(たかぎ じゅんいち、1908年3月25日 - 1993年10月29日)は、日本の工学者。 東京市麻布生まれ。1931年早稲田大学理工学部電気工学科卒、1950年工学博士。私立中野中学校講師、1933年早稲田第一高等学院専門部工科講師、早大理工学部助教授、教授、理工学部長、高等学院長、理事、1978年定年、名誉教授。 1971年紫綬褒章受勲、1973年NHK放送文化賞受賞、1980年勲三等旭日中綬章。 啓蒙的な著作を多く書いた。高木は、日本で最初の電気技術史家と言うべき人物である。
伊地知 鉄男(いぢち てつお、1908年3月5日 - 199… 伊地知 鉄男(いぢち てつお、1908年3月5日 - 1998年3月23日)は、日本の国文学者、書誌学者。 鹿児島県鹿児島市で生まれる。早稲田大学文学部国文学科で学び、1932年に卒業。 卒業後は、光塩高等女学校に教員として勤務。1936年に宮内省図書寮に入省し、1966年に宮内庁書陵部を定年退職。その後は早稲田大学教授となり、1978年に定年退職。 1998年、肺炎のため死去。 専攻は国文学で、特に中世連歌を専門とした。また、書誌学に関連した研究も行っている。 連歌関係の資料1,122点が、1988年に早稲田大学図書館に寄贈され、「伊地知鉄男文庫」となっている。1992年には『伊地知鉄男文庫目録』が刊行されている。
塩 まさる(しお まさる、本名:塩 正吉、1908年〈明治4… 塩 まさる(しお まさる、本名:塩 正吉、1908年〈明治41年〉2月12日 - 2003年〈平成15年〉10月16日)は、昭和時代前期を代表する歌手である。 福島県いわき市出身。上田中学、早稲田大学卒業後、千葉運輸事務所に勤務する。中野忠晴が吹き込んだ『鉄道精神の歌』のその普及のため同曲を歌唱したところ、上司にその美声を認められ、キングレコードに推薦されることとなる。 1937年(昭和12年)、キングレコードから歌手デビュー。同年9月発売の「軍国子守唄」、1939年(昭和14年)4月テイチクレコード発売の「九段の母」が大ヒット。その後は、軍国調の歌を多数吹き込む。 戦後もしばらくは歌手活動を行っていたが「自分の時代は終わった」と昭和20年代後半に歌手を止め、実業家に転進。
西川 満(にしかわ みつる、1908年2月12日 - 199… 西川 満(にしかわ みつる、1908年2月12日 - 1999年2月24日)は日本の装幀家、小説家、詩人。長男は経済学者の西川潤。 福島県会津若松市生まれ。父親の仕事の関係で、3歳で台湾に渡る。台北一中を経て、早稲田大学仏文科へ進学、吉江喬松に師事。卒論のテーマはアルチュール・ランボー。1933年に卒業して台湾日日新報に就職。『台湾風土記』(1939年)、『華麗島』(1939年)、『文芸台湾』(1940年)などを創刊。敗戦後の1946年、日本に引き揚げる。1947年、小説「会真記」で第1回夏目漱石賞の佳作に入選。 台湾の真理大学に蔵書2万冊余りを寄贈した。占星術もやり、天中殺の占いを得意とした。
木村 象雷(きむら しょうらい、1908年(明治41年)2月… 木村 象雷(きむら しょうらい、1908年(明治41年)2月7日 - 1986年(昭和61年)1月26日)は、昭和時代の競泳選手、スポーツジャーナリスト。選手としては1928年アムステルダムオリンピックに出場。ジャーナリストとしては第二次世界大戦をまたいでオリンピック5大会の取材に当たり、『サンケイスポーツ』の創刊に携わった。 岡山県美作地方(現在の勝田郡勝央町)出身。おじに文学者の木村毅がいる。 京都市の同志社中学(現在の同志社中学校・高等学校)に学ぶ。水泳は大日本武徳会遊泳部(のちの京都踏水会)で習得したという。 早稲田大学に入学。大学在学中、1928年アムステルダムオリンピックに競泳日本代表として男子100m背泳ぎに出場したが予選落ちに終わった。
暉峻 康隆(てるおか やすたか、1908年〈明治41年〉2月… 暉峻 康隆(てるおか やすたか、1908年〈明治41年〉2月1日 - 2001年〈平成13年〉4月2日)は、日本の国文学者(近世文学)。俳号は桐雨。早稲田大学名誉教授。 鹿児島県囎唹郡東志布志村(後の曽於郡志布志町、現在の志布志市志布志町)生まれ。金剛寺の長男。旧制鹿児島県立志布志中学校(現在の鹿児島県立志布志高等学校)、早稲田第一高等学院、旧制早稲田大学文学部国文科卒業。1932年から1939年にかけて、真山青果の下で西鶴研究の助手を務める。1951年「西鶴 評論と研究」で早稲田大学より博士号を取得。のち早稲田大学教授、1978年、定年退職、名誉教授。1996年、第8回現代俳句大賞受賞。 井原西鶴研究の権威の一人で、自然主義文学やプロレタリア文学の影響を受けた西鶴作品の批評を発展させ、「作家は書きながら現実認識を深める」という文芸観に基づき、多くの西鶴作品の新たな鑑賞を示した。
清水 睦(しみず むつみ、1908年〈明治41年〉1月6日 … 清水 睦(しみず むつみ、1908年〈明治41年〉1月6日 - 1979年〈昭和54年〉6月23日)は、昭和時代の政治家。神奈川県高座郡相模原町長、相模原市長。位階は従六位。勲五等瑞宝章。 相模原に生まれる。1932年(昭和7年)3月、早稲田大学法科を卒業し、翌8年に神奈川県信用組合連合会書記となる。以後、産業組合中央会事業部書記、神奈川県農業会主事、上溝農業協同組合長、上溝地区農地委員会委員、相模原市農業委員会委員などを務め、農業振興に尽力した。1951年(昭和26年)4月、相模原町長に当選。1954年(昭和29年)11月20日、市制施行に伴い、初代相模原市長に就任した。市長としての在任期間は5か月であったが、町長として市制施行の実現、都市行政と農村行政の協調融和を目指した新しい相模原市の建設に尽力した。
佐藤 次郎(さとう じろう, 1908年(明治41年)1月5… 佐藤 次郎(さとう じろう, 1908年(明治41年)1月5日 - 1934年(昭和9年)4月5日)は、日本の男子テニス選手。1930年代前半にグランドスラムシングルスベスト4、ウィンブルドン選手権ダブルス準優勝、全豪オープン混合ダブルス準優勝など国際的に活躍し、1933年に世界ランキング3位となった。グランドスラムシングルス ベスト4進出5回は現在も日本人歴代最多記録。現在日本人男子シングルス最後の全豪・全仏・全英ベスト4進出者である。現役中に26歳で自殺した。 1908年1月5日、群馬県北群馬郡長尾村(現渋川市)の豪農に生まれる。旧制渋川中学校入学後、1926年4月、早稲田大学予科に進学。早稲田大学在学中に日本ランキング1位となる。
藤田 明(ふじた あきら、1908年1月1日 - 2001年… 藤田 明(ふじた あきら、1908年1月1日 - 2001年5月29日)は、日本の水泳・水球選手。ロサンゼルス五輪(1932年)水球日本代表選手主将兼コーチ。元日本水泳連盟会長。実業家、元日本ゼオン専務、関東ゴム社長。早稲田大学商学部卒業。広島県広島市出身。 後年、広島平和記念公園となる広島市中島町の生まれ。中島小学校の先生に水泳にも堪能だった多田徳雄がいて正しい泳法を習う。広島一中(現広島県立国泰寺高校)で水泳部を創部し水泳・水球の名選手として鳴らした。尊敬する中学の先輩・沖田芳夫、織田幹雄を追い早稲田高等学院、早稲田大学と進学する。その全てで主将を務めた。全国から水の英才が集結し、第一次黄金時代を誇った早稲田大学水泳部で活躍する。
時任 巌(ときと いわお、1908年(明治40年)- 没年不… 時任 巌(ときと いわお、1908年(明治40年)- 没年不明)は、日本の水球選手で1932年ロサンゼルスオリンピックに出場した。 1908年、北海道函館区(現在の函館市)に生まれる。北海道庁立函館中学校(現在の北海道函館中部高等学校)で水球に励み、早稲田大学を卒業した後は中華民国大連市の南満洲鉄道本社に勤務し、地方部地方課に所属した。1932年のロサンゼルスオリンピックでは水球の日本代表として出場した。フルバックのポジションでハンガリー戦、アメリカ戦、ドイツ戦の全てに出場したが、他の全ての日本選手と同じく、ゴール数は全て0に終わった。戦後は東京都北多摩郡保谷町(現在の西東京市)に暮らし、日本水泳連盟理事を務めた。
米山 弘(よねやま ひろし、1908年(明治41年) - 1… 米山 弘(よねやま ひろし、1908年(明治41年) - 1987年(昭和62年)1月24日)は、茨城県出身の競泳選手。旧制茨城県立水戸中学校、第一早稲田高等学院、早稲田大学商学部卒業。1928年アムステルダムオリンピック男子800m自由形リレー銀メダリスト。 1928年のアムステルダムオリンピック競泳男子800m自由形リレーで佐田徳平、新井信男、高石勝男とともに銀メダルを獲得。