亜久津 歩(あくつ あゆむ、1981年4月 - )は、日本の… 亜久津 歩(あくつ あゆむ、1981年4月 - )は、日本の詩人、装幀家。女性。東京都生まれ。早稲田大学第二文学部卒業。 2010年に第2詩集『いのちづな うちなる“自死者”と生きる』により、第1回萩原朔太郎記念「とをるもう」賞を受賞した。東京新聞、静岡新聞、しんぶん赤旗などにも作品が掲載された。日本現代詩人会会員。装幀家としても多くのブックデザインや装画を担当しており、自著はみずから装幀を手がけている。
花山 周子(はなやま しゅうこ、1980年5月18日 - )… 花山 周子(はなやま しゅうこ、1980年5月18日 - )は、日本の歌人、画家、装幀家。同人誌「外出」所属。 東京都出身。武蔵野美術大学造形学部油絵科卒業。1999年、短歌結社「塔」に入会。2007年に第1歌集『屋上の人屋上の鳥』を出版し、第16回ながらみ書房出版賞を受賞。同人誌「豊作」「[sai]」にも所属。祖父の玉城徹、母の花山多佳子も歌人。父はビジネス小説家の杉田望。歌集を中心に装幀も多く手がけている。母として、子との触れ合いを歌った歌が近年多い。 2017年から今橋愛とのユニット「主婦と兼業」としても活動。2019年、短歌同人誌「外出」創刊に加わる。2021年末に「塔」を退会。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
水戸部 功(みとべ いさお、1979年 - )は日本の装幀家… 水戸部 功(みとべ いさお、1979年 - )は日本の装幀家。 多摩美術大学美術学部情報デザイン学科卒業。メディアアートを専攻。大学在学中から装幀の仕事を始め、のち菊地信義に師事。 2004年、造本装幀コンクール展 審査委員奨励賞受賞。2011年、『ハヤカワ・ポケット・ミステリ』シリーズの装幀で第42回講談社出版文化賞ブックデザイン賞受賞。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
川名 潤(かわな じゅん、1976年 - )は日本の装幀家、… 川名 潤(かわな じゅん、1976年 - )は日本の装幀家、ブックデザイナー、エディトリアルデザイナー。主に文芸書、人文書、コミックスなど、幅広いジャンルの書籍のデザインを手掛ける。 1976年千葉県生まれ。インフォバーン、プリグラフィックスを経て2017年に川名潤装丁事務所を設立。 2021年、『現代日本のブックデザイン史1996-2020』(誠文堂新光社)を長田年伸、水戸部功と共に編著。
松 昭教(まつ あきのり、1972年5月10日 - )は日本… 松 昭教(まつ あきのり、1972年5月10日 - )は日本のブックデザイナー、装幀家である。株式会社ブックウォール 代表取締役。 種子島で生まれる。奈良県育ち。京都精華大学ヴィジュアルコミュニケーション学科 卒業 1997年 STRATA3Dで、キャラクターやイラストを製作。イラストレーターおよび、デザイナーとして数年活動する。 1998年 樋口陽介氏と一緒に3DCGを中心にしたデザインユニットInherirt visualsを結成。その後、個人名義でフリーの装丁家として活動。バンタンデザイン研究所の特別講師として1年務める。 1999年 書籍の装丁、エディトリアルデザインを中心に活動するデザイン事務所として、松昭教デザイン事務所を設立。
樋口 真嗣(、1965年〈昭和40年〉9月22日 - )は、… 樋口 真嗣(、1965年〈昭和40年〉9月22日 - )は、日本の特撮監督・映画監督・映像作家・装幀家。 ガイナックス、GONZO、Motor/lieZを経てオーバーロード所属。アニメ特撮アーカイブ機構副理事長や、IT企業のユビキタスエンターテインメントにおいてチーフ・ビジョナリー・オフィサーも務める。 愛称は「シンちゃん」(由来などは#人物像で詳述)。妻は、スタジオジブリでのハーモニー処理をしている高屋法子。 東京都新宿区生まれ、茨城県古河市育ち。茨城県立古河第三高等学校卒業。1984年(昭和59年) 、高校卒業後に『さよならジュピター』の撮影見学時に特撮技術を志望、同年『ゴジラ』の怪獣造形に携わることで映画界に入る。
山田 英春(やまだ ひではる、1962年 - )は、日本の装… 山田 英春(やまだ ひではる、1962年 - )は、日本の装幀家、写真家。東京都出身。 1962年、東京都国分寺市生まれ。生後まもなくから3歳までアメリカで暮らす。桐朋中学校・高等学校、国際基督教大学教養学部卒業。出版社の編集部勤務を経て、書籍の装丁を専門にするデザイナーとなる。メノウ、ジャスパーなどの模様石のコレクターとしても知られ、石関連の著作が複数ある。世界各地の古代遺跡、洞窟壁画などを撮影する写真家でもあり、特にブリテン諸島の巨石遺跡を多数記録したことで知られる。 2003年、造本装幀コンクール展 日本書籍出版協会理事長賞(名嘉睦稔『紅逢黒逢の刻―ボクネン版画絵本』、マガジンハウス)受賞。
鈴木 成一(すずき せいいち、1962年 - )は日本の装幀… 鈴木 成一(すずき せいいち、1962年 - )は日本の装幀家。北海道出身。 筑波大学芸術専門学群卒業。同大学院芸術学研究科修士課程中退(グラフィックデザインを専攻)。大学4年生の時に鴻上尚史の戯曲集の装丁を手がけてブックデザイナーとしてデビュー。1985年、独立する。1992年に鈴木成一デザイン室を設立。1994年に講談社出版文化賞ブックデザイン賞を受賞。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
近藤 一弥(こんどう かずや、1960年 - )は、東京都出… 近藤 一弥(こんどう かずや、1960年 - )は、東京都出身のグラフィックデザイナー、装幀家。東北芸術工科大学教授。 現代美術、音楽、コンテンポラリーダンスなど、アート関連のポスター、書籍デザインを中心にグラフィックデザイナーとして幅広く活動している。 また、アーティストとしても活動しており「作家の創造の軌跡」をテーマに、映像/音響を用いたインスタレーション作品も発表している。 実父は日本画家の近藤弘明である。 芸術とデザインを区別しておらず、「デザインは世界とつながる動機付けの上に成り立つ。水溜まりに映し出される世界のように、心に映し出される形でのみ世界を知り得ることができる。そういう意味では芸術とデザインとを根本的に区別する必要はないと考えている。
蔵前 仁一(くらまえ じんいち、1956年1月2日 - )は… 蔵前 仁一(くらまえ じんいち、1956年1月2日 - )は日本のイラストレーター、旅行作家、編集者、装幀家。 鹿児島県生まれ。実家は鹿児島・霧島温泉にある1917年(大正6年)創業の老舗旅館。現在は旅行人山荘として営業している。鹿児島県立鶴丸高等学校を経て、慶應義塾大学法学部政治学科を卒業。 インド旅行の体験を楽しいイラスト入りでまとめた『ゴーゴー・インド』(凱風社)でデビュー。1990年代にヒット作を連発。若い旅行者から支持を得た。 バックパッカーを対象とした月刊誌『旅行人』(のちに季刊、さらに年2回刊に)を主宰したが、同誌は2011年12月発売号をもって休刊。編集長を務めた『旅行人』からは、岡崎大五、グレゴリ青山、宮田珠己、田中真知、大倉直らの若手作家が登場した。
金井田 英津子(かないだ えつこ、1955年(昭和30年) … 金井田 英津子(かないだ えつこ、1955年(昭和30年) - )は、日本の版画家、装幀家、造本家。群馬県桐生市出身。1980年(昭和55年)筑波大学大学院修了。
芦澤 泰偉(あしざわ たいい、1948年 - )は日本の装幀… 芦澤 泰偉(あしざわ たいい、1948年 - )は日本の装幀家、アートディレクター。静岡県静岡市出身。 1970年、「第10回現代日本美術展」に入選。この展覧会のレセプション会場で松澤宥と出会い、コンセプション・アートの運動体「ニルバーナ」に参加。以後4年間、現代美術家としてグループ展、個展を開催する。 1976年、工作舎に入社して装幀やエディトリアルデザインの魅力を松岡正剛から教授される。すでに入社していた戸田ツトムの繊細なデザイン作法を学ぶ。同じ年に株式会社イッセイ(広告プロダクション)入社。2年後にアートデレクターになり、川端一誠のプレゼンテーションの方法を身につける。その頃に荒川洋治と出会い、彼の主宰する「紫陽社」の詩集の装幀が10年で130冊に達した。
高麗 隆彦(こま たかひこ、1947年3月8日 - )は、日… 高麗 隆彦(こま たかひこ、1947年3月8日 - )は、日本のエディトリアルデザイナー、装幀家である。東京生まれ。武蔵野美術大学卒業。哲学、思想書、文学書等を中心に多数の本の装幀を手がけている。本名長尾信(ながおまこと)。1992年より東京造形大学教授。 青土社、なくなった小沢書店の本等を多く手がける。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
渋川 育由(しぶかわ いくよし 1946年6月28日 - )… 渋川 育由(しぶかわ いくよし 1946年6月28日 - )は日本のグラフィック・デザイナー、風景評論家、装幀家。 島根県出身。1969年、武蔵野美術大学産業デザイン学部商業デザイン学科卒業。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
菊地 信義(きくち のぶよし、1943年10月19日 - 2… 菊地 信義(きくち のぶよし、1943年10月19日 - 2022年3月28日)は、日本の装幀家(菊地は「装幀者」と称する)。東京都出身。 多摩美術大学を中退後、広告代理店に入社。大学1年のとき、モーリス・ブランショの『文学空間』で、装幀に魅了される。1977年に装幀家として独立後、2008年までに1万数千冊の装幀を手がけた。タイトルの文字をぼかしたりゆらぎを持たせたりするデザインや、著者名のローマ字表記など、さまざまな特徴的なデザインを考案した。1984年、装幀の業績により第22回藤村記念歴程賞を受賞。1988年、第19回講談社出版文化賞ブックデザイン賞を受賞。2019年、菊地を取り上げたドキュメンタリー映画『つつんで、ひらいて』が公開された。
辰巳 四郎(たつみ しろう、1938年3月24日 - 200… 辰巳 四郎(たつみ しろう、1938年3月24日 - 2003年11月5日)は、日本のイラストレーター、装幀家。イラスト、ポスター、ブックデザイン、舞台美術など幅広く活動。娘はイラストレーターの辰巳(藤森)玲子、姪はシンガーソングライターの椎名林檎。 早稲田大学法学部卒業後、武蔵野美術大学に学んだ。ペン・鉛筆・筆・エアーブラシ等を使い、ヒヤリとした雰囲気の中に見る者を引きつける抽象画、緻密でありながら大胆なリアルイラストレーション、装幀では多重露光を用い、写真とイラストをフィルム上で合成するなど、常に新しい表現に挑戦しながら多種多様な作品を発表した。 電通に勤務していた頃から優れたブックデザイナーとして知られ、独立後はフリーのイラストレーターとして広告・エディトリアルなどを手掛け、晩年はデザイナーとして小説のブックカバーや装幀・装画の分野でも第一人者となった。
栃折 久美子(とちおり くみこ、1928年12月7日 - 2… 栃折 久美子(とちおり くみこ、1928年12月7日 - 2021年6月25日)は、日本の装幀家、製本工芸家、エッセイスト。 東京生まれ。東京女子大学卒業。 筑摩書房に勤務ののち、1967年に退社。フリーの製本家となる。森有正を知り、以後森の死去まで恋愛関係にあった。 1972年、ベルギー国立高等視覚芸術学校でルリユール((仏語))と呼ばれる製本技術を学び、帰国後は後進の指導にも当たった。1975年国井喜太郎賞受賞、1981年、国際製本家協会よりマイスターの認定を受け正会員となる。1985年、国際女流芸術文化協会連盟の現代芸術展審査員賞受賞。 エッセイストとしては、2003年に『森有正先生のこと』を刊行した。
安野 光雅(あんの みつまさ、1926年3月20日 - 20… 安野 光雅(あんの みつまさ、1926年3月20日 - 2020年12月24日)は、日本の画家・装幀家・絵本作家。元美術教員。島根県鹿足郡津和野町出身。東京都小金井市在住。文化功労者。 40年以上にわたって描かれた代表作の1つ『旅の絵本』シリーズ全10冊のうち9冊までの累計発行部数は、152万部を記録している(2022年1月末時点)。 子供の頃より画家になる夢を抱いていた。美術のみならず、科学・数学・文学などにも造詣が深く、豊かな知識と想像力を駆使して独創性あふれる作品を発表した。原色や派手な色をほとんど使わない淡い色調の水彩画で、細部まで書き込まれながらも落ち着いた雰囲気の絵を描く[要出典]。
大塚 清六(おおつか せいろく、1923年8月18日 - 1… 大塚 清六(おおつか せいろく、1923年8月18日 - 1974年6月5日)は、日本の画家、イラストレーター、装幀家、グラフィックデザイナー。先駆的なミニマリストとしても知られる。 1950年代から1970年代前半にかけて、小説の挿絵や装幀、油彩画などを手がける一方、商業デザインでも活躍。1962年(昭和37年)からは広瀬鎌二設計の自邸「SH-60」に居住した。 1923年(大正12年)8月18日、福島県喜多方町(現:喜多方市)に生まれる。女手ひとつで育てられ、町立喜多方幼稚園、喜多方小学校を経て、1941年(昭和16年)に喜多方商業学校を卒業する。1943年(昭和18年)、父親の位牌を鉈で割って上京し、東京美術学校に入学。
田村 義也(たむら よしや、1923年3月30日 - 200… 田村 義也(たむら よしや、1923年3月30日 - 2003年2月23日)は、日本の編集者、装幀家。 東京生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。1948年3月、初の公募社員として岩波書店に入社。当時の岩波では大卒社員が珍しかったため、かなりの反感と嫉妬を社内で受けたという。1985年に退社するまで、岩波新書編集部や『世界』、『文学』などの編集長をつとめた。 数多い書籍の装幀(ブックデザイン)を行い、その装幀は独特の書体と風合いを持つ特徴的なもので、多くのファンがいた。第13回講談社出版文化賞ブックデザイン賞受賞。2003年に、骨髄異形成症候群により、79歳で死去したが、人となりを偲び『田村義也—編集現場115人の回想』が刊行された。
德川 義恭(とくがわ よしやす、1921年(大正10年)1月… 德川 義恭(とくがわ よしやす、1921年(大正10年)1月18日 - 1949年(昭和24年)12月12日)は、日本の美術研究者、装幀家。 尾張徳川家の分家の当主である男爵・徳川義恕の四男。母方の祖父・津軽承昭は弘前藩主。長兄・徳川義寛は昭和天皇の侍従・侍従長。姉・祥子の夫は北白川宮永久王。次兄・義孝(津軽英麿の養子となる)の娘は、常陸宮正仁親王妃華子で、義恭の姪にあたる。 夫人・雅子(のりこ)は田安徳川家の徳川達成の長女。 1942年(昭和17年)、学習院高等科を卒業し、東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学。同年7月1日、三島由紀夫や東文彦と共に同人誌『赤絵』を創刊した。同誌および、1944年(昭和19年)10月発行の三島の処女作品集『花ざかりの森』(七丈書院)の装幀を担当した。
西川 満(にしかわ みつる、1908年2月12日 - 199… 西川 満(にしかわ みつる、1908年2月12日 - 1999年2月24日)は日本の装幀家、小説家、詩人。長男は経済学者の西川潤。 福島県会津若松市生まれ。父親の仕事の関係で、3歳で台湾に渡る。台北一中を経て、早稲田大学仏文科へ進学、吉江喬松に師事。卒論のテーマはアルチュール・ランボー。1933年に卒業して台湾日日新報に就職。『台湾風土記』(1939年)、『華麗島』(1939年)、『文芸台湾』(1940年)などを創刊。敗戦後の1946年、日本に引き揚げる。1947年、小説「会真記」で第1回夏目漱石賞の佳作に入選。 台湾の真理大学に蔵書2万冊余りを寄贈した。占星術もやり、天中殺の占いを得意とした。
逸見 享(へんみ たかし、1895年(明治28年)1月29日… 逸見 享(へんみ たかし、1895年(明治28年)1月29日 - 1944年(昭和19年)10月19日)は、大正時代から昭和時代戦前にかけての版画家、装幀家。 和歌山県和歌山市生まれ。1913年(大正2年)に和歌山市立和歌山商業学校を出て上京し、1914年(大正3年)中央大学に入学する。1915年(大正4年)12月に同郷で3学年先輩に当たる田中恭吉の遺作展覧会を東京・日比谷美術館で見て感銘を受ける。 1916年(大正7年)に小林富次郎商店(後のライオン歯磨本舗小林商店)に入社し、同社意匠部に勤めるかたわら木版画を始めた。詩人の大手拓次が小林商店広告部の文案係に入ると彼と知り合い、共に詩や短歌を作りながら詩集『異香』(1917年)、『あをちどり』(1918年)、『詩情』(1924年)、後に大手の遺作となる『藍色の蟇』(1936年)などの装幀を手がけるようになった。
恩地 孝四郎(おんち こうしろう、1891年(明治24年)7… 恩地 孝四郎(おんち こうしろう、1891年(明治24年)7月2日 - 1955年(昭和30年)6月3日)は、東京府南豊島郡淀橋町出身の版画家・装幀家・写真家・詩人。長女は児童文学翻訳家の恩地三保子。 創作版画の先駆者のひとりであり、日本の抽象絵画の創始者とされている。前衛的な表現を用いて、日本において版画というジャンルを芸術として認知させるに至った功績は高く評価されている。 木版画、装幀、写真など様々な分野で活躍した。版画においては、抽象絵画の創始者であるワシリー・カンディンスキーらの影響を受け、日本における最初期の抽象版画作品を制作している。大正期には具象・非具象問わず数々の版画の名作を生みだしたが、第二次世界大戦後はもっぱら抽象版画に傾倒し、葉や紐、木片などを用いる手法(マルチブロック)も編み出した。
小村 雪岱(こむら せったい、明治20年(1887年)3月2… 小村 雪岱(こむら せったい、明治20年(1887年)3月22日 - 昭和15年(1940年)10月17日)は、大正から昭和初期の日本画家、版画家、挿絵画家、装幀家。 明治20年(1887年)、埼玉県川越市郭町に父小村繁門(しげかど)、母もんの長男として生まれる。本名は泰助。明治24年(1891年)に父が病没し、翌年母が小村家より離縁されたため、幼くして両親を失い、伯父の小村万吉に養育されることになった。明治33年(1900年)、坂戸尋常高等小学校を卒業した雪岱は、翌明治34年(1901年)、東京の神田神保町に住む叔母の家に寄宿し始めた。明治35年(1902年)、叔母の世話で、日本橋檜物町に住む外務省勤務の書家安並賢輔方で学僕となる。