船越 作一郎(ふなこし さくいちろう、1885年〈明治18年… 船越 作一郎(ふなこし さくいちろう、1885年〈明治18年〉9月20日 - 1967年〈昭和42年〉5月14日)は、日本の実業家、政治家、鳥取県多額納税者、地主。船越合名会社社主。日本クローム工業社長。鳥取県会議員(政友会系中立→中立)。 鳥取県米子市出身。船越熊治郎の長男。1909年、家督を相続する。1907年、早稲田大学専門部政経科を卒業。鉱山業に従事。また貸金業を営む。 1915年、鳥取県議に当選し、少壯團を組織。1925年9月に鳥取県立米子工業学校建築費金1千円を寄附したため1928年8月14日に褒状が下賜される。1927年、米子市議に当選。 『陰陽八郡郡勢一斑』によると、船越の人柄は「資性活達、荘重明敏で、義気に富む」という。
三好 英之(みよし ひでゆき、旧名栄次郎、明治18年(188… 三好 英之(みよし ひでゆき、旧名栄次郎、明治18年(1885年)8月29日 - 昭和31年(1956年)2月14日)は、日本の実業家、政治家。元衆議院議員、参議院議員。元国務大臣北海道開発庁長官。鳥取県米子市名誉市民。三好家第10代当主。鳥取県平民。 大正13年(1924年)衆議院議員に初当選し、戦前に6回の当選を重ねた。地元振興の貢献としては、山陰鉄道開通記念の博覧会に尽力したのをはじめ、山陰実業銀行を設立、戦後はラジオ山陰(現山陰放送)の開局に携わるなど調整能力、行動力は抜群であった。家系は清和源氏、小笠原氏の支流・三好氏。 米子道笑町の商家に生まれる。三好常次郎の次男。 県立第二中学校(現米子東高校)、東京の京華中学を経て明治39年(1906年)に早稲田大学政治経済科を卒業。
3代 高広 次平(たかひろ じへい、1885年(明治18年)… 3代 高広 次平(たかひろ じへい、1885年(明治18年)8月3日 - 1950年(昭和25年)9月25日)は、大正から昭和時代前期の政治家、銀行家、実業家。貴族院多額納税者議員。幼名は欣蔵。 2代高広次平の長男として富山県礪波郡福岡町(西礪波郡福岡町を経て現高岡市)に生まれる。早稲田大学政治経済科修了。1914年(大正3年)時点で県内で4番目の多額納税者だった。1920年(大正9年)3代次平を襲名した。 1915年(大正4年)中越鉄道の3代目社長に就任し、全線を開通させた。ついで1919年(大正8年)西礪波郡会議員を経て、福岡町会議員、同農会長を歴任する。ほか、山又機業社長、北陸信託、中越鉄道、富山県農工銀行、富山日報社各監査役などを歴任した。
藤井 浩然(ふじい こうねん、1885年(明治18年)8月 … 藤井 浩然(ふじい こうねん、1885年(明治18年)8月 - 1938年(昭和13年)10月23日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。ジャーナリスト。 新潟県高田町(現在の上越市)出身。1908年(明治41年)、早稲田大学哲学科を卒業。『高田日報』主筆、『新潟毎日新聞』編集局長を経て、越佐新報社社長・主筆となった。 1938年(昭和13年)、衆議院議員補欠選挙で当選を果たした。 その他、高田英語学校を創設し校長に就任した。
竹下 文隆(たけした ぶんりゅう、1885年(明治18年)7… 竹下 文隆(たけした ぶんりゅう、1885年(明治18年)7月28日 - 1975年(昭和50年)4月6日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 山口県出身。竹下満蔵の二男として生まれる。1918年、早稲田大学法律科を卒業した。 1915年、政治雑誌『国論』を創刊し、その社長兼主筆に就任。1918年、東京医学専門学校の創立に参画し、同校主幹、同理事を務めた。その他、丸之内銀行監査役、横浜倉庫監査役、有限責任信用組合共同金庫理事長、日出貯蓄銀行取締役頭取などを歴任。 1928年2月、第16回衆議院議員総選挙に輸入候補として沖縄県から立憲政友会所属で出馬し当選。運動員が大がかりな選挙違反を行い「金権候補」と言われた。
北 昤吉(きた れいきち、1885年(明治18年)7月21日… 北 昤吉(きた れいきち、1885年(明治18年)7月21日 - 1961年(昭和36年)8月5日)は、日本の思想家、思想評論家、教育者、政治家・衆議院議員、日本自由党政調会長。多摩美術大学創立者。別名・礼華。 二・二六事件の首謀者の一人である北一輝の実弟。 新潟県佐渡市(旧新潟県佐渡郡湊町)出身。初代両津町長で酒屋と肥料屋を営む北慶太郎の二男。高等小学校入学と同時に漢学塾に通い、漢学と習字を習う。新潟県立佐渡中学校(新制:佐渡高校)に入学したが、兄と同学年になることを嫌った父親の命令で中学入学が遅れたため、希望していた陸軍幼年学校進学を年齢制限により絶たれる。早稲田大学政治経済学部に入学するも、1年で哲学科に移り、1905年(明治38年)の予科卒業時には首席となり各科総代を務めた。
永田 善三郎(ながた ぜんざぶろう、1885年(明治18年)… 永田 善三郎(ながた ぜんざぶろう、1885年(明治18年)6月11日 - 1950年(昭和25年)12月6日)は、日本のジャーナリスト・政治家。政治家としては憲政会→立憲民政党に所属し衆議院議員選挙に連続5回当選し海軍参与官を務めた。 静岡県周智郡久努西村(現在の袋井市)出身。1907年(明治40年)、早稲田大学政治科を卒業。台湾日日新聞社記者、満洲日日新聞社編集長、大連汽船株式会社天津支店長、永田鉱業株式会社社長を歴任した。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第19回に至るまで5回連続当選を果たした。その間、廣田内閣で海軍参与官に就任した。 さらに大連の漢字紙『関東報』の社長や静岡民友新聞社の社長も務めた。
2代板谷 宮吉(いたや みやきち、1885年(明治18年)5… 2代板谷 宮吉(いたや みやきち、1885年(明治18年)5月16日 - 1962年(昭和37年)12月22日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、小樽市長。旧名・真吉。 北海道出身。実業家、初代・宮吉の長男として生まれる。1909年(明治42年)早稲田大学商科を卒業。 1912年、板谷商船取締役に就任。1924年(大正13年)先代の死去により家督を相続して2代・宮吉を襲名し、板谷商船社長、樺太銀行頭取に就任。その他、板谷生命保険社長、 (株) 十合呉服店会長、北海貯蓄銀行頭取、尾張時計監査役、黒姫汽船 (資) 代表社員、肥料調査委員会委員、北海道拓殖計画調査会委員などを務めた。 1926年(大正15年)北海道多額納税者として補欠選挙で貴族院多額納税者議員に互選され、同年6月25日に就任し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
小沢 治(小澤、おざわ おさむ/はる、1885年(明治18年… 小沢 治(小澤、おざわ おさむ/はる、1885年(明治18年)3月28日 - 1976年(昭和51年)3月17日)は、大正から昭和時代の政治家。大日本帝国陸軍軍人。衆議院議員。 茨城県信太郡木原村(稲敷郡木原村を経て現美浦村)出身。小沢金蔵の長男として生まれ、1934年(昭和9年)家督を相続する。1904年(明治37年)成城学校を卒業し、のち東京専門学校に学ぶ。陸軍に入り歩兵中尉に進んだ。 茨城県会議員となり、帝国在郷軍人会稲敷郡連合分会長、稲敷郡養蚕組合長、同農会長、同壮年団長を歴任した。ほか、東邦産金会社専務取締役、松本電機計器監査役を務めた。 1942年(昭和17年)4月の第21回衆議院議員総選挙では茨城県第1区から翼賛政治体制協議会推薦で出馬し当選。
殷 汝耕(いん じょこう、1885年〈明治18年〉 - 19… 殷 汝耕(いん じょこう、1885年〈明治18年〉 - 1947年〈昭和22年〉12月1日)は、中華民国の政治家。中国同盟会に属した革命派の人物で、民国期には中国国民党に加入している。後に、親日地方政権である冀東防共自治政府の政務長官となった。字は亦農。兄は殷汝驪。 地方名望家の家庭に生まれ、1902年(明治35年)に日本に留学した。日本文学院で日本語を学んだ後、1905年(明治38年)に第一高等学校予科に入学した。その翌年には、鹿児島第七高等学校造士館に転入している。この頃、留学生の間で革命思想が流行していたこともあって、留学中に中国同盟会に参加した。なお、殷汝耕は日本留学中に日本人女性と結婚している。
中田 正輔(なかた まさすけ、1884年12月14日 - 1… 中田 正輔(なかた まさすけ、1884年12月14日 - 1960年11月28日)は、昭和期の日本の政治家で、非公選最後及び公選初代の佐世保市長である。 佐世保市出身。早稲田大学政経科(現在の政治経済学部)を卒業し、帰郷して地元の佐世保軍港新聞の記者になったが体調を崩し2年ほどで退職して実家で農業を営む。1916年7月の長崎県議会議員補欠選挙に擁立され初当選、以後佐世保市議会議員(5期、1918年~1936年)、同議長(1930年6月~1932年3月)、さらに衆議院議員(1期、1932年~1936年)を務めた後、戦後間もない1946年8月に第12代佐世保市長に就任。翌年の初の市長選で引き続き当選、非公選1期、公選2期の計9年間に及び市長を務めた。
安部 俊吾(あべ しゅんご、1884年(明治17年)11月2… 安部 俊吾(あべ しゅんご、1884年(明治17年)11月23日 - 1970年(昭和45年)2月3日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(2期)。位階は正五位。 宮城県桃生郡野蒜村山の坊(鳴瀬町を経て現東松島市)で生まれる。早稲田大学専門部政治経済科を卒業。19歳で渡米し、苦学してシカゴ大学大学院政治科、同法科などで学び、1912年(明治45年)ホイトン大学文科を卒業した。在米中は、南加州日本人会長、中央ロスアンゼルス日本人会長、商工会議所会頭などを務め、日米親善、在留邦人人権擁護などに尽力した。 帰国後、塩釜市行政顧問、宮城県地方労働委員(中立代表)、徳海屋(株)支配人、不二貿易取締役社長などを務めた。
沢田 権左エ門(さわだ ごんざえもん、1884年〈明治17年… 沢田 権左エ門(さわだ ごんざえもん、1884年〈明治17年〉10月16日 - 1959年〈昭和34年〉1月9日)は、日本の政治家。釜石市長(2期)。 岩手県南閉伊郡釜石村(のち釜石町、現・釜石市)に生まれる。早稲田大学法科卒。電友社を経て、東京朝日新聞社に入る。その後、帰郷し、1911年(明治44年)釜石電気会社を設立する。ほか、運送倉庫会社や製氷会社などを興し、その経営に当たる。 政治面では1917年(大正6年)から1925年(大正14年)まで釜石町会議員を2期務めた。1931年(昭和6年)12月20日、岩手県会議員補欠選挙に上閉伊郡選挙区から立憲政友会公認で立候補して、初当選を果たした。同月22日に就任した。
上條 信(かみじょう しん、1884年(明治17年)10月3… 上條 信(かみじょう しん、1884年(明治17年)10月3日 - 1950年(昭和25年)10月8日)は、日本の実業家、政治家。筑摩鉄道(現・アルピコ交通上高地線)やバス事業を始め、多くの事業経営に携わった他、戦前・戦後に新村村長・長野県会議員・衆議院議員をも務めた。 長野県東筑摩郡新村(現松本市)で元衆議院議員の上條謹一郎の長男として生まれる。 松本中学校から早稲田大学に進み、のち帰郷して家を継いだ。1913年に新村村長になる。上条を中心とする有志が、1915年(大正4年)に 安筑軽便鉄道として、松本 - 稲核間の鉄道敷設免許を出願するも却下された。次いで、1918年に安曇鉄道が、松本 - 稲核間の鉄道敷設免許を出願するも却下される。
粟山 博(もみやま ひろし 1884年〈明治17年〉10月2… 粟山 博(もみやま ひろし 1884年〈明治17年〉10月2日 - 1959年〈昭和34年〉9月20日)は日本の政治家。衆議院議員(10期)。位階は正四位。勲等は勲二等。 戦前は憲政会・立憲民政党に所属したが、戦後に公職追放された。追放の解除後は、旧民政党左派の松村謙三・鶴見祐輔・小山邦太郎・中村三之丞・松浦周太郎・川崎末五郎らと行動を共にした。政界復帰(1952年)の後は、改進党・日本民主党に所属した。日本民主党が保守合同した後は、自由民主党にて松村・三木派に所属した。 1884年(明治17年)、福島県安積郡(現在の郡山市富久山町)に生まれる。 1911年(明治44年)、第10回衆議院議員総選挙補欠選挙に出馬していた古島一雄の選挙を手伝う。
石橋 湛山(いしばし たんざん、1884年〈明治17年〉9月… 石橋 湛山(いしばし たんざん、1884年〈明治17年〉9月25日 - 1973年〈昭和48年〉4月25日)は、日本のジャーナリスト、政治家、教育者(立正大学学長)。階級は陸軍少尉(陸軍在籍時)。位階は従二位。勲等は勲一等。 大蔵大臣(第50代)、通商産業大臣(第10・11・12代)、内閣総理大臣(第55代)、郵政大臣(第9代)などを歴任した。総理大臣在任期間は65日であり、日本国憲法下では羽田孜の64日に次いで2番目に短く、日本の憲政史上でも3番目の短さである。 早稲田大学から法学の名誉博士(Doctor of Laws)を贈られた(1957年10月20日授与)。 「明治国家のミリタリズム、インペリアリズムは世界の趨勢であったとしても、見落とされてはならないのがデモクラシーの醸成である。
佐藤 正(さとう まさし、1884年〈明治17年〉9月8日 … 佐藤 正(さとう まさし、1884年〈明治17年〉9月8日 - 1951年〈昭和26年〉1月12日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党、東京府第6区)、拓務参与官。教育者。実業家。勲等は勲四等。位階は正五位。 宮城県仙台市生まれ。1909年(明治42年)に早稲田大学文科哲学科を卒業し、翌年に同研究科を修了した。鉄道院総裁官房嘱託を経て、1912年(大正元年)から東北帝国大学講師や宮城県立工業学校講師を務め、1915年(大正4年)に早稲田大学学長秘書に転じ、1920年(大正9年)からは教育新聞社社長となり、さらに日本社会教育協会専務理事を務めた。 1928年(昭和3年)、第16回衆議院議員総選挙に出馬し当選。
於勢 升(おせ のぼる、旧姓・柴田、1884年(明治17年)… 於勢 升(おせ のぼる、旧姓・柴田、1884年(明治17年)9月 - 没年不明)は、日本の実業家、政治家。城東土地社長。大阪府会議員。族籍は大阪府平民。 大阪府・柴田平學の三男。於勢眞十郎の養子となり、1919年、家督を相続する。1909年、早稲田大学商科を卒業。 会社の重役で、推されて大阪府参事会員である。三十二銀行、日ノ丸電線各取締役、城東土地社長、同取締役などをつとめる。宗教は仏教、真宗。趣味は碁、謡曲。住所は大阪市大正区三軒家町2丁目。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
三木 武吉(みき ぶきち、1884年(明治17年)8月15日… 三木 武吉(みき ぶきち、1884年(明治17年)8月15日 - 1956年(昭和31年)7月4日)は、日本の政治家。衆議院議員(11期)。 鳩山一郎の盟友で、自由民主党結党による保守合同を成し遂げた最大の功労者。「ヤジ将軍」「策士」「政界の大狸」などの異名を取った。1917年に衆議院議員となり、一時疑獄事件で失脚するも復帰。1945年に鳩山一郎らと日本自由党を結成するが公職追放。1952年政界に復帰。1954年反吉田勢力をまとめて日本民主党を結成し、鳩山内閣を実現させる。さらに1955年の保守合同、自民党成立に尽力した。 寝業師型、調整型の代表的な政治家として知られる。 同姓で名前も似ている三木武夫とは縁戚関係にはない。
南郷 武夫(なんごう たけお、1884年(明治17年)3月2… 南郷 武夫(なんごう たけお、1884年(明治17年)3月22日 - 1976年(昭和51年)1月26日)は、明治末から昭和期の林業家、政治家。衆議院議員、鹿児島県日置郡東市来村長、同郡東市来町長。 鹿児島県日置郡市来郷伊作田村(東市来村伊作田、東市来町伊作田を経て現日置市東市来町伊作田)で、鉱山業・南郷徳之助の長男として生まれる。1904年(明治37年)鹿児島県立第一中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)を卒業。早稲田大学を中退。 帰郷して父の鉱山業に従事。1930年(昭和5年)家督を相続。政界を目ざし1931年(昭和6年)鹿児島県会議員に選出され3期在任。1932年(昭和7年)東市来村長に就任。
比佐 昌平(ひさ しょうへい、1884年(明治17年)3月3… 比佐 昌平(ひさ しょうへい、1884年(明治17年)3月3日 - 1941年(昭和16年)11月23日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)。 福島県石城郡湯本村(常磐市を経て、現在のいわき市)出身。早稲田大学政治経済科卒業。 1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙に出馬。対立候補は星製薬社長の星一(立憲政友会)であったが、「薬は星、政治は比佐」のキャッチフレーズで勝利を収めた。 以後、当選回数は6回を数え、第2次若槻内閣と第1次近衛内閣で陸軍参与官を務めた。 1941年(昭和16年)現職のまま死去。戦後、『公職追放に関する覚書該当者名簿』に公職追放者として掲載された(追放理由は「陸軍政務官」)。
中村 又七郎(なかむら またしちろう、1884年(明治17年… 中村 又七郎(なかむら またしちろう、1884年(明治17年)1月26日 - 1963年(昭和38年)6月7日)は、日本の衆議院議員、初代糸魚川市長。位階は従五位。勲四等瑞宝章。 新潟県西頸城郡糸魚川町(現在の糸魚川市)出身。1907年(明治40年)、早稲田大学政治経済科を卒業した。一年志願兵として陸軍主計少尉に任じられた。早稲田大学講師、『中央新聞』記者、『自由通信』記者を務めた後、『高田日報』主筆となり、後には高田日報社社長に就任した。また糸魚川町会議員、糸魚川町長、新潟県会議員、同参事会員に選ばれ、糸魚川町長時代には北陸線列車雪崩直撃事故の対応に尽力した。その他に帝国在郷軍人会糸魚川町分会長、同西頸城郡分会副会長、西頸城郡教育会副会長、西頸城郡水産会長、新潟県漁業組合聯合会長などを務めた。
木原 七郎(きはら しちろう、1884年(明治17年)1月2… 木原 七郎(きはら しちろう、1884年(明治17年)1月25日 – 1951年(昭和26年)12月24日)は、衆議院議員(立憲民政党)、最後の官選広島市長。ジャーナリスト。 広島県安芸郡矢野村(現在の広島市安芸区)出身。1906年(明治39年)、早稲田大学政治経済科を卒業。芸備日日新聞社に入り、1919年(大正8年)に副社長に就任し、1925年(大正14年)には社長の早速整爾の死に伴い後任の社長になった。その他に日本鋼鎖株式会社取締役、帝国通信社副社長などを務めた。 広島県会議員を経て、1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。合計で3期務めた。 1945年(昭和20年)8月6日、原爆投下で広島市が壊滅し粟屋仙吉市長も被爆死すると、同年10月その後任として同市長に就任、最後の官選広島市長となった。
林 為良(はやし ためよし、1884年(明治17年)1月25… 林 為良(はやし ためよし、1884年(明治17年)1月25日 - 1933年(昭和8年)6月22日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 鹿児島県徳之島の花徳(現大島郡徳之島町花徳)出身。素封家林元俊の長男として生まれた。1909年、早稲田大学商科卒。農業を営み、所得税調査委員、相続税審査委員、大島郡電気(株)取締役となる。 1917年の第13回衆議院議員総選挙において鹿児島県大島選挙区から立憲政友会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1920年の第14回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1933年死去。
蔡 培(さい ばい、1884年〈光緒10年〉 - 1960年… 蔡 培(さい ばい、1884年〈光緒10年〉 - 1960年)は、中華民国の政治家・外交官。字は子平。南京国民政府(汪兆銘政権)で南京市長、駐日大使などを務めた。 清末に日本に留学する。1912年(民国元年・明治45年)に早稲田大学専門部法律科を卒業し、併せて法学士の称号を取得した。帰国後は、柳亜子らが組織した南社に所属し、衆議院議員にもなった。1928年(民国17年)1月、国民政府交通部秘書となる。6月、参事となった。1930年(民国19年)1月、交通部航政司司長となる。1935年(民国24年)8月、内政部民政司司長に異動した。 1940年(民国29年)3月、汪兆銘が南京国民政府を組織すると、蔡培は工商部政務次長に任命された。
小林 三郎(こばやし さぶろう、1883年(明治16年)12… 小林 三郎(こばやし さぶろう、1883年(明治16年)12月21日 - 1968年(昭和43年)7月31日)は、大正から昭和期の警察官、実業家、政治家。衆議院議員。 鹿児島県大島郡、のちの天城村(現天城町)で、小林義志孝の二男として生まれた。1913年(大正2年)早稲田大学専門部を卒業し、警視庁に入庁した。 警視庁警部補、二日市警察署(現筑紫野警察署)長、鴻巣警察署長、越谷警察署長、松山警察署(現東松山警察署)長、本庄警察署長、大宮警察署長、熊谷警察署長、府中警察署長、警視庁刑事部捜査課強力犯係長、同特高課労働係長、小石川警察署(現富坂警察署)長、大塚警察署長などを歴任。1929年(昭和4年)鹿児島県庁に転じて大島支庁長に就任し1936年(昭和11年)まで在任した。
春名 成章(はるな せいしょう、1883年(明治16年)12… 春名 成章(はるな せいしょう、1883年(明治16年)12月17日 - 1952年(昭和27年)9月21日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→昭和会)、外務参与官。ジャーナリスト。 静岡県富士郡今泉村(現在の富士市)出身。鳥取県立鳥取第一中学校を経て、1906年(明治39年)に早稲田大学政治経済学科を卒業した。『時事新報』『東京朝日新聞』『東京日日新聞』の各社で記者を務めた。 1932年(昭和7年)、第18回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第19回、第20回でも再選を果たした。犬養内閣では床次竹二郎鉄道大臣の秘書官を務め、岡田内閣で床次が逓信大臣に就任すると再度秘書官を務めた。1935年(昭和10年)には昭和会の結党に参加。
川橋 豊治郎(かわはし とよじろう、1883年〈明治16年〉… 川橋 豊治郎(かわはし とよじろう、1883年〈明治16年〉12月10日 - 1967年〈昭和42年〉10月30日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(3期)。旧姓は井村。 奈良県北葛城郡新庄町(現葛城市)生まれ。井村萬三の三男として生まれ、川橋鉄之助の養子となる。1904年(明治37年)、早稲田大学専門部法律科を卒業した。 東西電球取締役、寿重工業取締役、尾平鉱業取締役、東洋硫黄工業取締役などを務めた。 政界では京都市会議員、同参事会員、京都府方面委員などを務めた。1922年(大正11年)1月26日から1925年(大正14年)5月20日まで第21代京都市会副議長を務めた。1932年(昭和7年)2月、第18回衆議院議員総選挙に京都府第1区から立憲民政党所属で出馬して当選。
2代 見目 清(けんもく きよし、1883年(明治16年)1… 2代 見目 清(けんもく きよし、1883年(明治16年)11月16日 - 1963年(昭和38年)4月5日)は、明治から昭和期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。幼名・清三。 栃木県塩谷郡太田村(北高根沢村を経て現高根沢町)で、素封家・初代見目清の長男として生まれる。県立宇都宮中学校(現栃木県立宇都宮高等学校)を経て、早稲田大学政治経済科を卒業。父の死去に伴い1904年(明治37年)5月に家督を相続し2代清を襲名した。 矢口長右衛門らと宝積寺銀行を立上げて取締役となり、1915年(大正4年)頭取に就任。下野実業銀行頭取にも就任し、その後、6銀行合併して下野中央銀行が創立され副頭取に就任し、1926年(大正15年)2月、頭取に就任した。
米原 章三(よねはら しょうぞう、明治16年(1883年)1… 米原 章三(よねはら しょうぞう、明治16年(1883年)11月16日 - 昭和42年(1967年)10月19日)は日本の実業家、政治家。鳥取県多額納税者。鳥取県会議員、貴族院議員。鳥取市名誉市民。旧姓藤縄。 鳥取県八頭郡河原町(現・鳥取市)に生まれた。実父の範七は1885年に県会議員となったが1890年に病没、その後家運は衰退した。国英村の八上高等小学校を終えると鳥取県立簡易農学校(現・鳥取県立倉吉農業高等学校)に入った。17歳の春に同校を卒業すると、若桜小学校で代用教員として短期間勤務した。 1900年9月、大日本農会附属私立東京農学校(現・東京農業大学)に入学、1903年に卒業。続いて早稲田大学専門部政治経済科に入学。
安倍 邦太郎(あべ くにたろう、1883年〈明治16年〉11… 安倍 邦太郎(あべ くにたろう、1883年〈明治16年〉11月8日 - 1946年〈昭和21年〉4月26日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員(1期)、新潟市会議員(6期)、第14・15代新潟市会議長。 新潟県中蒲原郡流作場新田(現 新潟市中央区三和町)の名家・安倍家の11世当主・安倍周平の長男として出生。 1902年(明治35年)3月に新潟中学校を卒業、4月に東京専門学校高等予科(現 早稲田大学高等学院)に入学、新潟中学校の2年先輩の会津八一とともに東京府東京市牛込区牛込原町(現 東京都新宿区原町)の玉川温徳方に下宿。 1903年(明治36年)7月に早稲田大学高等予科を修了、9月に早稲田大学大学部政治経済学科に入学、1906年(明治39年)7月に卒業、ウラジオストクと樺太を視察、鍵三銀行支配人、新潟保育院理事などに就任。
中野 猛雄(なかの たけお、1883年〈明治16年〉11月2… 中野 猛雄(なかの たけお、1883年〈明治16年〉11月2日 - 1950年〈昭和25年〉8月27日)は、日本の政治家。衆議院議員(4期)。 熊本県天草郡碇石村(現・天草市)生まれ。1907年(明治40年)早稲田大学政治経済科卒。宮地岳村長を務めた。1923年(大正12年)、熊本県会議員選挙に天草郡選挙区から立憲政友会公認で立候補して当選した。1927年(昭和2年)に退任した。1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙で熊本2区(当時)から立憲政友会公認で立候補して初当選。以来4回連続当選した。 他、肥州窯業、九州新聞(現:熊本日日新聞)の各社長、中西銀行、九州商船などの取締役も務めた。
大藪 守治(おおやぶ もりじ、1883年(明治16年)10月… 大藪 守治(おおやぶ もりじ、1883年(明治16年)10月14日 - 1945年(昭和20年)10月15日)は、日本の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。 福岡県久留米市苧扱川町(現:久留米市本町)で、実業家・大藪房次郎の三男として生まれる。両替町(現: 城南町)に分家した。早稲田大学を修了後、欧米に遊学した。 1909年(明治42年)以降、筑後水力電気社長、九州水力電気取締役、筑後電気取締役、昭和電灯取締役、九州電気協会評議員、久留米商工会議所顧問などを務めた。筑後水力電気が九州水力電気に合併した際に、その分配金について紛争が生じたが、他の重役よりも社員を優先する立場に立って処理を行った。
坂口 武市(明治16年(1883年)7月23日 - 昭和33… 坂口 武市(明治16年(1883年)7月23日 - 昭和33年(1958年)3月5日))は、日本の実業家、政治家。旧姓井上。米子商工会議所会頭、県会議員、米子市議会議員を務めた。鳥取県平民。 鳥取県人・井上豊治郎の二男、井上喜代太の弟、初代平兵衛の養子。坂口家は藩政時代“沢屋”と称し、綿、木綿仲買業を営んでいた。初代平兵衛が、「坂口財閥」と呼ばれるように家業を発展させた。 明治39年(1906年)7月早稲田大学法学科卒業。山陰電気常務取締役に就任。明治42年(1909年)、分家して一家を創立す。 大正15年(1926年)8月合併により広島電気(中国電力の前身)取締役山陰支社長となる。 大正2年(1913年)9月の町会議員当選以来、昭和2年(1927年)3月まで13年7か月にわたり町勢伸展に尽くし、同6年(1931年)6月に市会議員当選と共に市会議長に選任され、同10年(1935年)6月再選まで通算20有余年議員の職にあり、その間2期県会議員に当選した。
堀川 美哉(ほりかわ よしや、1883年(明治16年)5月1… 堀川 美哉(ほりかわ よしや、1883年(明治16年)5月17日 - 1963年(昭和38年)6月22日)は、衆議院議員(立憲国民党→立憲民政党)。津市長。 三重県名賀郡比奈知村(現在の名張市)出身。旧制三重県立津中学(現・三重県立津高等学校)を経て、1908年(明治41年)、早稲田大学大学部政治経済科を卒業。『東京日日新聞』記者となり、また一年志願兵として陸軍三等主計に任じられ、さらにアメリカ合衆国のコロンビア大学、イギリスのロンドン大学に留学した。 1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 1922年(大正11年)から1927年(昭和2年)まで『中外商業新報』記者を務めた。
清水 留三郎(しみず とめさぶろう、1883年〈明治16年〉… 清水 留三郎(しみず とめさぶろう、1883年〈明治16年〉4月28日 - 1963年〈昭和38年〉4月18日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、外務政務次官。 現在の群馬県前橋市大手町に生まれる。群馬県立前橋中学校を経て、1902年(明治35年)に早稲田大学法科を卒業した。その後渡米し、ワシントン大学とミネソタ大学で学び、法学修士の称号を得た。帰国後は関東産業新聞社長、上野新聞社専務、上毛機械合資会社代表社員、合資会社桜組支配人などを務めた。 1920年(大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に憲政会から出馬し、当選。第16回より立憲民政党に所属し、第21回に至るまで7回当選を果たす。
松村 謙三(まつむら けんぞう、1883年〈明治16年〉1月… 松村 謙三(まつむら けんぞう、1883年〈明治16年〉1月24日 - 1971年〈昭和46年〉8月21日)は、日本の政治家。 富山県福光町(現在の南砺市)出身の実業家、政治家。 5回にわたり中国を訪問。1970年には、周恩来首相から日中貿易継続を許される企業の条件を示された。そこで、台湾に多くの投資を行い、援助している企業との取引は拒否すると言い渡される。そうして、日中国交正常化の地固めをした。幣原内閣では農林大臣として第1次・第2次農地改革に携わった。 生家は薬種商を営む地主の素封家で、その長男である。実母は事情があって2歳の時に松村家を離れ、継母によって育てられる。腹違いの弟と妹がいた。 立本小学校尋常科・高等科を優秀な成績で卒業して富山の県立一中(富山中学)に入学した。
13代 稲葉 市郎右衛門(いなば いちろうえもん、1882年… 13代 稲葉 市郎右衛門(いなば いちろうえもん、1882年〈明治15年〉12月31日 - 1954年〈昭和29年〉8月2日)は、京都府熊野郡久美浜村(現・京都府京丹後市)出身の実業家・銀行家・政治家。京都府会議長、久美浜町長。稲葉市郎右衛門景介(いなば いちろうえもん けいすけ)とも呼ばれる。国鉄峰豊線(現・京都丹後鉄道宮津線)の開業に際して多額の私財を投じたことで知られる。 1882年(明治15年)12月31日、京都府熊野郡久美浜村(現・京丹後市)に生まれた。幼名は景介。 父は12代稲葉市郎右衛門(稲葉市郎右衛門英裕)、母はきせ。12代稲葉市郎右衛門は前妻のきせとの間に一男三女、後妻のとしとの間に四女を儲けており、景介は長男だった。
水島 彦一郎(みずしま ひこいちろう、1882年(明治15年… 水島 彦一郎(みずしま ひこいちろう、1882年(明治15年)11月1日 - 1953年(昭和28年)2月13日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。旧舞鶴市長。 京都府加佐郡中筋村(現在の舞鶴市)出身。1906年(明治39年)、早稲田大学政治経済科を卒業。東京日日新聞記者、東京毎日新聞記者を経て、富士製紙に勤めた。第一次世界大戦中は大阪で松田製作所、大阪金工などの軍需工業の経営に従事した。その後郷里に戻り、中筋村会議員、加佐郡会議員、同参事会員に当選。また京都府会議員に2回選出され、参事会員、郡部会議長、議長を歴任した。また舞鶴町長に選ばれ、加佐郡町村長会会長、京都府町村長会会長、全国町村長会副会長に就いた。
田中 萬逸(田中 万逸、たなか まんいつ、1882年〈明治1… 田中 萬逸(田中 万逸、たなか まんいつ、1882年〈明治15年〉9月23日 - 1963年〈昭和38年〉12月5日)は、日本の政治家。位階は正三位。 衆議院議員(14期)、国務大臣・衆議院副議長。 現在の大阪府富田林市に生まれる。早稲田大学を中退後、報知新聞記者を経て、1916年故郷の大阪府から衆議院補欠選挙に繰り上げ当選。以後当選14回。戦前は憲政会・立憲民政党に所属し、1939年阿部内閣において逓信政務次官を務める。 戦後は日本進歩党の結党に参加し幹事長を務める。1947年第1次吉田内閣が発足すると、党総裁幣原喜重郎の推挙により国務大臣(無任所)として入閣。同年新憲法下初の衆議院副議長となる。
堀部 久太郎(ほりべ きゅうたろう、1882年(明治15年)… 堀部 久太郎(ほりべ きゅうたろう、1882年(明治15年)7月9日 – 1941年(昭和16年)2月5日)は、衆議院議員(国民同志会)。彦根町長。 滋賀県犬上郡彦根町(現在の彦根市)出身。1908年(明治41年)、早稲田大学政治経済科を卒業。一年志願兵として陸軍三等主計に任じられた。彦根町会議員を経て、彦根町長を務めた。 1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に出馬し当選を果たした。
山道 襄一(やまじ じょういち、1882年(明治15年)3月… 山道 襄一(やまじ じょういち、1882年(明治15年)3月15日 - 1941年(昭和16年)5月11日)は、日本の政治家、ジャーナリスト。所属政党は憲政会→立憲民政党→国民同盟→立憲民政党。衆議院議員を10期務めた。 広島県賀茂郡板城村福本(現・東広島市西条町福本)出身。1906年(明治39年)に早稲田大学大学部政治経済学科卒業。鳥取新聞社の主筆を務めた後、韓国に渡り、『大韓日報』の主筆となり、また習俗慣行の調査にあたった。韓国併合後、大韓日報が廃刊になると、雑誌『新半島』を経営し、朝鮮総督府の嘱託として引き続き習俗調査を行った。のちに『中国新聞』主筆も務めた。 1912年(大正元年)、衆議院広島県郡部補欠選挙に当選した。
田渕 豊吉(たぶち とよきち、1882年〈明治15年〉2月2… 田渕 豊吉(たぶち とよきち、1882年〈明治15年〉2月23日 - 1943年〈昭和18年〉1月15日)は、明治・大正・昭和期の政治家。衆議院議員を通算5期務めた。 和歌山県日高郡薗浦(現:御坊市)の大地主であり、造り酒屋伊勢屋を営む田渕善兵衛・かめの四男として生まれる。戦前の田渕家は、大地主であると共に、日高銀行(現紀陽銀行に一部営業・店舗を譲渡)、由良臨海鉄道、日高物産、南海信託、御坊臨港鉄道(現紀州鉄道)などの事業も営む、和歌山屈指の名門であった。善兵衛死後は次男の田渕榮次郎が家督を継いだ。 1905年(明治38年)早稲田大学政治経済科入学。1908年(明治41年)から1915年(大正4年)まで欧米に留学。
牧山 耕蔵(まきやま こうぞう、1882年1月20日 - 1… 牧山 耕蔵(まきやま こうぞう、1882年1月20日 - 1961年6月5日)は、日本の政治家。衆議院議員(8期)。所属政党は立憲政友会→政友本党→立憲民政党→同交会。 現在の長崎県壱岐市出身。1906年早稲田大学政治経済科卒。朝鮮に渡り、京城居留民団議員、京城学校組合会議員、朝鮮新聞(英語版)社社長などを務める。1917年の第13回衆議院議員総選挙で初当選。以来連続8期務める。第二次若槻内閣で海軍政務次官に就任、1936年には列国議会同盟会議(開催国ハンガリー)に日本議員団の団長として参加した。1942年の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)で非推薦で立候補したが落選した。戦後は公職追放となり、追放解除後の1953年の第26回衆議院議員総選挙で長崎2区から分党派自由党公認で立候補したが落選。
西村 佐兵衛(にしむら さへい、1882年〈明治15年〉1月… 西村 佐兵衛(にしむら さへい、1882年〈明治15年〉1月15日 - 1963年〈昭和38年〉10月12日)は、日本の政治家(兵庫県城崎郡城崎町長)、実業家(西村屋会長)。 兵庫県城崎郡城崎町(現豊岡市)出身。東京専門学校(現早稲田大学)に学び、中途にて退学し家業の温泉旅館を経営する。地方有力者として各種の業務に関係する。1924年、町長に選任され震災後の城崎温泉復興に尽力。 1912年、早稲田大学推薦校友。宗教は日蓮宗。住所は兵庫県城崎郡城崎町。著書に『山陰空のあゆみ』、『日本海制空小史』、『建武中興と隠岐』などがある。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
安国 幸左衛門(安國 幸左衛門、やすくに こうざえもん、18… 安国 幸左衛門(安國 幸左衛門、やすくに こうざえもん、1881年〈明治14年〉11月8日 - 1949年〈昭和24年〉5月12日)は、日本の政治家、地主・家主。神戸市会議員。 兵庫県武庫郡西灘村(現・神戸市)出身。安国幸右衛門の長男。早稲田大学政治経済科卒業。一年志願兵として軍務に服し、三等主計に進む。除隊後父業に従事する。在郷軍人分会長に推される。 1929年、西灘村が神戸市に編入されるにあたって推されて市会議員に当選する。岩屋青年会会長、灘信用組合理事、神戸商業大学柔道師範、兵庫県柔道有段者会会長等の名誉職を兼ねる。1948年、公安委員に任命される。 趣味は柔道、銃猟、釣魚、乗馬。住所は兵庫県神戸市灘区岩屋町。
佐々木 千秀(ささき ちひで、1881年10月21日 - 1… 佐々木 千秀(ささき ちひで、1881年10月21日 - 1947年12月20日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 広島県出身。東京専門学校で学ぶ。呉市会議員、同参事会員、呉商工会理事、呉銀行取締役頭取、ハート麦酒(株)取締役副社長、呉劇場、呉酒造(株)取締役社長となる。 1920年の第14回衆議院議員総選挙において広島2区から憲政会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1924年の第15回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1947年に死去した。
伊江 朝助(いえ ちょうじょ、1881年(明治14年)10月… 伊江 朝助(いえ ちょうじょ、1881年(明治14年)10月10日 - 1957年(昭和32年)11月26日)は、沖縄県出身の実業家、政治家、華族。貴族院男爵議員、向氏伊江家十四世。号・馬巖。 首里当蔵村(現那覇市首里当蔵町)で、伊江家十三世・伊江朝真の長男として生まれる。父が尚侯爵家御用係兼家扶となり首里小学校卒業後に上京。私立順天中学校、早稲田大学高等予科を経て、1907年(明治40年)7月、同大学部政治科を卒業した。1908年(明治41年)12月、一年志願兵として歩兵第48連隊に入隊し、1909年(明治42年)12月に満期除隊。 帰郷後、1911年(明治44年)5月、沖縄電気軌道会社常任監査役に就任。
斎藤 真三郎(さいとう しんざぶろう、1881年(明治14年… 斎藤 真三郎(さいとう しんざぶろう、1881年(明治14年)8月12日 - 1925年(大正14年)7月18日)は、衆議院議員(革新倶楽部)。新聞編集者。 山形県東田川郡渡前村(現在の鶴岡市)出身。1903年(明治36年)、早稲田大学邦語政治科を卒業。渡前村長、東田川郡会議員、同参事会員、同副議長、同議長、東田川西田川両郡組合会議員、同参事会議員を歴任した。 1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。 その他、両羽実業新聞を経営した。
細田 忠治郎(ほそだ ちゅうじろう、1881年7月14日 -… 細田 忠治郎(ほそだ ちゅうじろう、1881年7月14日 - 1968年6月10日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 兵庫県多可郡松井庄村(現・多可町)生まれ。1907年、早稲田大学商科卒。農業の傍ら、松井庄村議、多可郡議、同参事会員、兵庫県参事会員となる。また、松井庄商事(株)専務理事、多可郡工業会長、兵庫県播州織工業組合、工業組合中央会、商工組合中央会各理事、兵庫県織物組合連合会、同県織物統制組合各理事長を歴任した。 1923年9月25日の兵庫県会議員選挙に多可郡選挙区から立候補して、当選した。しかし、1924年4月11日に失職した。その後、1927年9月25日に返り咲いた。1931年、1935年、1939年の選挙にも当選した。