井上 虎治(いのうえ とらじ、1876年〈明治9年〉6月29… 井上 虎治(いのうえ とらじ、1876年〈明治9年〉6月29日 - 1929年〈昭和4年〉12月29日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 飾磨県飾西郡飾西村(のちの兵庫県飾磨郡余部村を経て現姫路市)出身。逓信省通信書記、姫路郵便局電信課長となり、その後は大阪商船(株)助役、(資)台湾組支配人、(名)富島組総務理事、帝国サルベージ、阪堺電鉄各(株)取締役社長、木津川運河土地、木代発動機製造各(株)監査役、大阪商業会議所議員、大阪税関貨物取扱人連合会会長、港湾協会評議員となる。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において兵庫10区から政友本党公認で立候補して当選した。のち立憲政友会に移り、衆議院議員を1期務めた。
中原 謙助(なかはら けんすけ、1876年(明治9年)6月1… 中原 謙助(なかはら けんすけ、1876年(明治9年)6月19日 - 1928年(昭和3年)5月16日)は、日本の陸軍軍医、政治家。旧姓は小林、野村、柏村。元山口町議会議員。元湯田医院(中原医院)長。従五位勲四等。 山口県厚狭郡厚東村(現宇部市)の農家小林八九郎、フデの次男として生まれた。小学生の頃、父親の八九郎が離婚、浜田スミという女性と再婚。謙助は八九郎の姉のミキが嫁いでいた野村家の養子になる。棚井小学校(現・宇部市立厚東小学校)の教師から苗字が変わったことを告げられた謙助はその場で泣き出したという。 小学校卒業と同時に、母の実家・藤井家の従兄藤井幸八のすすめによって上京を決意する。藤井幸八は名医として聞え、藤井眼科医院は遠近からの患者で大いに栄え、入院患者を収容するのに付近の農家を借りるほどだった。
烏賀陽 然良(うがや しかよし、1876年(明治9年)6月1… 烏賀陽 然良(うがや しかよし、1876年(明治9年)6月18日 - 1946年(昭和21年)3月11日)は、日本の法学者。 専門は民法および商法(特に海商法)。学位は法学博士。京都帝国大学名誉教授。第16代京都帝国大学法学部長。族籍は京都府平民。正三位勲二等受賞者。雅号は旭山人又は都水。 京都府京都市出身(本籍地は京都府京都市上京区)。烏賀陽然冏(または恒正)の長男として生まれる。 1884年(明治17年)家督を相続する。京都市立小川小学校、1899年(明治32年)第四高等学校(旧制)卒業を経て、1903年(明治36年)京都帝国大学法科大学法律科を卒業。 1904年(明治37年)に神戸高等商業学校講師となり、1906年(明治39年)から1920年(大正9年)まで同教授を務める。
井上 源一(いのうえ げんいち、1876年(明治9年)6月1… 井上 源一(いのうえ げんいち、1876年(明治9年)6月15日 – 没年不詳)は、日本の弁護士。愛媛県宇和島市長。 愛媛県出身。1903年(明治36年)、明治大学を卒業。同年、弁護士試験に合格し、弁護士業務に従事した。宇和郡会議員、宇和島市会議員、同議長に選出された。 1933年(昭和8年)に宇和島市長に選出された。 その後、第二十九銀行取締役、宇和島材木会社取締役、南予文化協会理事などを務めた。
津村 秀松(つむら ひでまつ、1876年6月14日 - 19… 津村 秀松(つむら ひでまつ、1876年6月14日 - 1939年12月23日)は日本の経済学者、実業家。神戸高等商業学校(現・神戸大学)教授、大阪鐵工所(現・日立造船)取締役会長等を歴任した。 1876年、和歌山県日高郡御坊村(現・御坊市)生まれ。旧制和歌山県立和歌山中学校(現・和歌山県立桐蔭高等学校)を経て、1899年東京高等商業学校 (現・一橋大学)専攻部を卒業。東京高等商業学校校長だった小山健三の娘と結婚した。 1900年から1903年まで欧米に留学し、留学中に石川巌・石川文吾・神田乃武・瀧本美夫・志田鉀太郎・福田徳三・関一とともに「商業大学の必要」を建議し、東京高商の大学昇格運動を始めた。
岡野 昇(おかの のぼる、1876年(明治9年)6月14日 … 岡野 昇(おかの のぼる、1876年(明治9年)6月14日 - 1949年(昭和24年)4月28日)は、明治時代後期から昭和時代前期の土木工学者、鉄道官僚、実業家。 東京市出身。1899年(明治32年)東京帝国大学工科大学土木科を卒業し、日本鉄道技師となり水戸保線事務所長を発令される。1905年(明治38年)信号や連鎖装置の視察のため欧米諸国の出張を経て、翌年同社が解散すると逓信省鉄道作業局に転じ、ベルリンに学んだ。ついで、帝国鉄道庁技師、鉄道院技師兼内務技師、鉄道院工務局長、鉄道省工務局長を経て、1924年(大正13年)鉄道次官に就任した。 のち実業界に転じ、西武鉄道副社長を経て、1926年(大正15年)同社社長に就任。
赤井 春海(あかい はるみ、1876年6月12日 - 195… 赤井 春海(あかい はるみ、1876年6月12日 - 1954年12月14日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
古谷 重綱(ふるや しげつな、1876年6月12日 - 19… 古谷 重綱(ふるや しげつな、1876年6月12日 - 1967年9月17日)は、大正・昭和初期の外交官。古谷綱武と古谷綱正は子息。 愛媛県東宇和郡明間村(現在の西予市宇和町明間)の庄屋・古谷綱紀の次男として生まれた。同志社を卒業後、米国ミシガン大学に学ぶ。国民新聞社勤務を経て、1902年に外交官及領事官試験に合格した。外務省通商局長、メキシコ駐在、アルゼンチン兼ウルグアイ兼パラグアイの特命全権公使等を歴任。アルゼンチンでは、よく在留邦人の世話をし、「平民公使」として親しまれた。1928年、官を辞しブラジルに移住した。ブラジルでは、80アルケールス(1アルケールスは2町5反)の大農場に、コーヒー栽培、養蚕等を経営。
栗延 敬太郎(くりのぶ けいたろう、1876年6月10日 -… 栗延 敬太郎(くりのぶ けいたろう、1876年6月10日 - 1949年3月24日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 広島県出身。1903年、明治大学法律科卒。農業を営み、村長、郡会議員を務める。西備織物同業組合副組合長、備後水力電気、両備軽便鉄道、芦品製糸、備後銀行各(株)取締役となる。 1924年の第15回衆議院議員総選挙において広島12区から憲政会公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務めた。1928年の第16回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。1949年死去。
小川 郷太郎(おがわ ごうたろう、1876年(明治9年)6月… 小川 郷太郎(おがわ ごうたろう、1876年(明治9年)6月9日 - 1945年(昭和20年)4月1日)は、大正・昭和期の財政学者、政治家。京都帝国大学経済学部教授、拓殖大学学監、衆議院議員、商工大臣、鉄道大臣などを歴任。従三位勲一等、法学博士。旧姓・村山。 岡山県浅口郡、のちの里庄村(現里庄町)で村山菊蔵の長男として生まれる。岡山県医局長で医師の小川知彰の養子となり、岡山中学、開成中学、旧制第一高等学校を経て、1900年(明治33年)東京帝国大学に入学。 1903年(明治36年)東京帝国大学法科大学政治学科次席卒業。首席は小野義一(大蔵官僚、高文次席)、3位が上杉慎吉(東大教授、憲法学者)、4位は馬場鍈一(大蔵官僚、高文首席)。
野村 淳治(のむら じゅんじ、1876年(明治9年)6月8日… 野村 淳治(のむら じゅんじ、1876年(明治9年)6月8日 - 1950年(昭和25年)12月15日)は、石川県出身の法学者。 石川県士族・野村宗貞の長男として生まれる。1900年(明治33年)東京帝国大学法科大学法律学科を卒業し、大学院に入り、1901年(明治34年)文官高等試験に合格し、東京帝国大学法科大学助教授となる。1902年(明治35年)法学研究のためフランスとドイツに留学する。 1906年(明治39年)から退官まで、一木喜徳郎の後任として国法学講座を担当した。1910年(明治43年)に法学博士となり、後に教授となる。1937年(昭和12年)に退官し、東京帝国大学名誉教授となる。専門は行政法及び憲法。
河合 亀太郎(かわい かめたろう、1876年6月8日 - 1… 河合 亀太郎(かわい かめたろう、1876年6月8日 - 1959年7月19日)は、日本の薬学博士、実業家、薬剤師。肝油ドロップの創製者でもある。 静岡県豊田郡中瀬村(現浜松市浜名区中瀬)で河合八蔵の子として生まれ、1888年に豊田郡下野部村(現磐田市下野部)にある野部小学校(現磐田市立豊岡北小学校)を卒業する。その後、将来は官吏になる夢を描いていたが、父親の病死のために16歳の時に官吏になる夢を諦めて中学を中退する。中学を中退した後は、東京薬学校(現東京薬科大学)に入学する。1893年には東京薬学校(現東京薬科大学)を首席で卒業し薬剤師となり、北里研究所に入り第一高等学校教授の助手をつとめた。
三宅 磐(みやけ いわお、1876年(明治9年)6月8日 -… 三宅 磐(みやけ いわお、1876年(明治9年)6月8日 - 1935年(昭和10年)5月23日)は、日本の衆議院議員(立憲民政党)。 岡山県岡山市出身。東京専門学校(現在の早稲田大学)英語政治科卒業。大阪朝日新聞記者、東京日日新聞記者を経て、1909年(明治42年)、横浜市市政顧問に就任。1910年(明治43年)に横浜貿易新報社を創設し、初代社長に就任した。大正期に横浜市会議員、神奈川県会議員を経て、1927年(昭和2年)の衆議院補欠選挙に出馬し、当選。以後、4回の当選回数を数えた。1932年(昭和7年)に発足した立憲民政党横浜支部の初代支部長に就任。党内では同じく新聞人出身の永井柳太郎と親しかった。
篠原 助市(しのはら すけいち、1876年(明治9年)6月6… 篠原 助市(しのはら すけいち、1876年(明治9年)6月6日 - 1957年(昭和32年)8月2日)は、日本の教育学者、文部官僚。東京文理科大学教授。文学博士。 愛媛県に越智孫七の二男として生まれ、篠原亀吉の養子となった。1905年(明治38年)、東京高等師範学校を卒業し、福井県師範学校教諭となった。1916年(大正5年)、京都帝国大学文科大学哲学科を卒業。大日本武徳会武道教師、東京高等師範学校教授、東北帝国大学教授を経て、1930年(昭和5年)に東京文理科大学教授兼東京高等師範学校教授となった。1934年(昭和9年)より、東京文理科大学教授に文部省督学官・教育調査部長を兼ね、1937年(昭和12年)より東京文理科大学教授専任となった。
石橋 和訓(いしばし かずのり/わくん、1876年〈明治9年… 石橋 和訓(いしばし かずのり/わくん、1876年〈明治9年〉6月6日 - 1928年〈昭和3年〉5月3日)は日本の日本画家・洋画家。英国ロイヤル・アカデミー初の日本人学生。代表作に『美人読詩』や松方正義・渋沢栄一・大隈重信らの肖像画がある。 「和訓」の読みは「かずのり」だが「わくん」とも呼ばれる。「かずよし」とする文献もある。幼名は倉三郎。27歳のとき師の滝和亭の一字をもらい「和訓」に改名した。画号は耕雲、雅原、中雅。 1876年、島根県飯石郡西須佐村(現・出雲市佐田町反辺)の農家石橋熊三郎とマツの間に生まれる。幼少から画才に秀で、須佐建真(須佐神社祠官)と永瀬雲山から南画を学ぶ。1892年、松江に出て後藤魚洲(島根師範学校教員)と堀櫟山(小豆沢亮一門下)から南画・洋画を学ぶ。
片岡 安 (かたおか やすし、 1876年6月4日- 194… 片岡 安 (かたおか やすし、 1876年6月4日- 1946年5月26日) は、日本の建築家・都市計画家。工学博士(東京帝国大学)。関西工学専修学校(現:大阪工業大学)初代校長・理事長。日本建築協会初代理事長・会長。大阪商工会議所第13代会頭。大阪工業会第3代会長。金沢市長(1期)。 「日本近代建築の父」といわれる辰野金吾(日本銀行本店・東京駅等を設計)と共同で、辰野片岡建築事務所を大阪に開設し、大阪市庁舎・大阪市中央公会堂等多くの建築作品を残した。また日本における都市計画研究のパイオニア(わが国最初の都市計画大著「現代都市之研究」を公刊)であり、大阪を代表する御堂筋等のまちづくりに欠かせなかった建築法規(旧都市計画法、市街地建築物法)の整備にも尽力した。
中野 浩(なかの こう、1876年(明治9年)6月3日 -… 中野 浩(なかの こう、1876年(明治9年)6月3日 - 没年不明)は日本の政治家。青森県青森市長。 青森県中津軽郡弘前に生まれる。青森県立弘前中学校(現・青森県立弘前高等学校)を経て、明治大学法科を卒業する。卒業後は台湾総督府官吏となったが、風土病により短期間で辞職した。その後は、時事新報、東京毎日新聞の各記者を経て、東京市に入り、赤坂(1920年4月から1925年8月まで)、深川(1925年8月1日から1926年8月7日まで)の各区長を務めた。 1926年、青森市長に就任。在任中に東津軽郡滝内村と造道村の一部を編入。練兵場の移転と青森港の拡張問題には苦慮した。1930年に市長を退任。東京に戻り、碑衾町最後の町長(1931年10月17日から1932年9月30日まで)を務めた後に淀橋(1932年10月1日から1933年11月2日まで)、板橋(1933年11月から1934年6月まで)の各区長を務めた。
森 環(もり たまき、1876年(明治9年)6月1日 - 1… 森 環(もり たまき、1876年(明治9年)6月1日 - 1950年(昭和25年)12月21日)は、明治から昭和期の農業指導者、実業家、政治家。衆議院議員、大分県議会議員、大分県大野郡上井田村長を務めた。 大分県大野郡下野村(上井田村大字下野、朝地村、朝地町を経て、現在の豊後大野市朝地町下野)で、大地主、酒造業・森鵜吉の長男として生まれた。1898年(明治31年)大分県立大分中学校(現在の大分県立大分上野丘高等学校)を卒業した。1905年(明治38年)3月、家督を相続し、農業、酒造業を営む。 有限責任信用販売購買組合を設立し組合長に就任し、上井田村農会長も務めて18年間在任した。1914年(大正3年)大野郡畜産組合長となり30年間在任し、豊後牛の改良などに尽力した。
白石 正明(しらいし まさあき、1876年6月1日 - 19… 白石 正明(しらいし まさあき、1876年6月1日 - 1954年6月14日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 東京都出身。1901年東京法学院卒。東北鉱業会理事、福島県地下資源開発研究所所長、武蔵野食品科学研究所、白石鉱業各(株)社長、福島自家用自動車協会会長となる。 1947年の第23回衆議院議員総選挙において福島2区から日本民主党公認で立候補して落選。1949年の第24回衆議院議員総選挙でも落選。1952年の第25回衆議院議員総選挙では自由党公認で立候補して当選した。衆議院議員は1期務め、1953年の第26回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。
井上 徳治郎(いのうえ とくじろう、1876年6月 - 没年… 井上 徳治郎(いのうえ とくじろう、1876年6月 - 没年不明)は、澁澤倉庫取締役。麻布銀行、武蔵銀行協議役。 岩手県人井上覚兵衛の長男として1876年6月に生まれ、1903年に家督を相続する。1897年、東京高等師範学校(現・一橋大学)を卒業後、第一銀行に入行。銀行時代は、本店及び神戸、名古屋、兵庫、四日市各支店を歴任し、営業部次長より兜町支店長に転じ退任する。退任後は、澁澤倉庫取締役、麻布銀行、武蔵銀行協議役を務めた。
今給黎 誠吾(いまきいれ せいご、1876年(明治9年)5月… 今給黎 誠吾(いまきいれ せいご、1876年(明治9年)5月30日 - 1953年(昭和28年)2月16日)は、明治から昭和時代前期の政治家。衆議院議員(1期)、第3代東南方村長・初代枕崎町長(現枕崎市)。枕崎市名誉市民。 鹿児島県出身。鹿児島県川辺郡鹿籠村西鹿籠(後に西鹿籠村、東南方村、枕崎町、枕崎市)の今給黎久清(児玉久清、初代東南方村長)の長男として生まれる。1878年(明治11年)家督を相続する。長谷場敦(衆議院議員、串木野町長)は実弟。 市立大阪商業学校に学ぶ。農業を営む傍ら、同県川辺郡東南方村長、鹿児島県会議員、同参事会員、枕崎町長を歴任する。1910年(明治43年)第3代東南方村長に就任してから初代枕崎町長を1947年(昭和22年)に退任するまで、連続36年8カ月在任した。
志田 順(しだ とし、1876年5月28日 - 1936年7… 志田 順(しだ とし、1876年5月28日 - 1936年7月19日)は、日本の地球科学者。理学博士(京都帝国大学)。 千葉県佐倉出身。1895年千葉県立千葉中学校卒業。1901年東京帝国大学理科大学物理学科卒業。1909年に第一高等学校教授を経て、京都帝国大学理工科大学に着任。理学博士(京都帝国大学)。京都帝国大学名誉教授。 地震のP波初動が地表面を押し引きする向きの地理的な分布、初動分布が四象限分布することを発見した。また、和達清夫よりも早く、深発地震の存在を指摘した(観測結果から存在を完全に証明したのは和達)。また、月と太陽の引力による地球の弾性変形(地球潮汐)に関する研究でも世界の先端を走り、「志田数」にその名を残した。
相良 歩(さがら あゆみ、1876年(明治9年)5月25日 … 相良 歩(さがら あゆみ、1876年(明治9年)5月25日 – 1955年(昭和30年)11月20日)は、金沢市長。 石川県士族相良豊の長男として生まれる。1899年(明治32年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、内務属となる。その後、高等文官試験に合格し、愛媛県参事官、長崎県参事官、群馬県事務官・第一部長兼第三部長、宮城県事務官、和歌山県内務部長、山形県内務部長を歴任した。1917年(大正6年)より樺太庁内務部長を務めた。 1922年(大正11年)、金沢市長に選出され、2期8年在任した。
吉田 平吾(よしだ へいご、1876年(明治9年)5月25日… 吉田 平吾(よしだ へいご、1876年(明治9年)5月25日 - 1942年(昭和17年)11月11日)は、日本の宮内官僚。台湾総督府官僚。 佐賀県出身。1903年(明治36年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、高等文官試験に合格した。大蔵省に勤務した後、宮内省に入り、宮内書記官・帝室林野局主事、調度頭を務めた。その後、台湾総督府逓信局長に転じた。 退官後は共同信託株式会社常務取締役、八王子電気株式会社監査役、小谷商店監査役を務めた。
浜田 初次郎(はまだ はつじろう、1876年(明治9年)5月… 浜田 初次郎(はまだ はつじろう、1876年(明治9年)5月25日 - 1953年(昭和28年)4月29日)は、日本の発明家。日本で初めてオフセット輪転機を完成させた。 石川県江沼郡三谷村出身。1900年(明治33年)に上京し、芝浦製作所、中村鉄工所などに勤務し、1910年(明治43年)に自動紙差装置を発明した。1914年(大正3年)に日本最初のオフセット輪転機であるH型オフセット輪転機を完成させた。1917年(大正6年)に東京ギヤー製作所を設立し、自動車などの歯車の制作を開始した。1921年(大正10年)に浜田印刷機製造所(後のハマダ印刷機械)を設立し、オフセット印刷機、新聞輪転機を改良した。
石川 三四郎(いしかわ さんしろう、1876年5月23日 -… 石川 三四郎(いしかわ さんしろう、1876年5月23日 - 1956年11月28日)は、日本の社会運動家・アナキスト・作家。筆名の「旭山」も使用する。 1876年5月23日、埼玉県児玉郡山王堂村に、戸長であった五十嵐九十郎・シゲの三男として生まれる。生家は、利根川沿岸で江戸時代から船着き問屋を営み、名主も務めてきた家であった。父は三四郎が兵役にとられるのを嫌い、「一家の主人」には兵役免除が適用されるため、1880年に同村の石川半三郎の養子とした。 本庄小学校高等科卒業後、茂木虎次郎の勧めで1890年に上京し、茂木とその友人橋本義三らが住む家の玄関番として1年ほど住み込み、初めて社会主義や無政府主義などを知る。
山田 純三郎(やまだ じゅんざぶろう、1876年(明治9年)… 山田 純三郎(やまだ じゅんざぶろう、1876年(明治9年)5月18日 - 1960年(昭和35年)2月18日)は日本の革命運動家、大陸浪人。孫文の革命活動に参加した山田良政の実弟である。 青森県弘前生まれ。伯父・菊池九郎が創立した東奥義塾を卒業後、室蘭炭礦汽船を経て上京、青森リンゴ販売商となる。東亜同文会の清国派遣留学生選考に合格して上海に渡り、その後南京同文書院(後の東亜同文書院)に入学した。この頃、兄に孫文を紹介されている。卒業後は同院教員、日露戦争での通訳従軍を経て南満州鉄道に入社した。 兄の遺志を継いで孫文を支援し続け、第一次世界大戦中の第2次大隈内閣による対華21か条要求など日本政府と袁世凱政権の関係悪化による孫文の対日不信の中にあっても山田は信頼を受けた。
江崎 幸太郎(えさき こうたろう、1876年〈明治9年〉5月… 江崎 幸太郎(えさき こうたろう、1876年〈明治9年〉5月18日 - 1923年〈大正12年〉2月24日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 福岡県下妻郡、のちの八女郡水田村(現筑後市)出身。1895年(明治28年)東京専門学校政治科卒。福岡県会議員、同参事会員、福岡県地方森林会議員となる。 1920年(大正9年)第14回衆議院議員総選挙において福岡14区から立憲政友会公認で立候補して当選する。衆議院議員を1期務め、1923年、在職中に死去した。
杉浦 非水(すぎうら ひすい、1876年〈明治9年〉5月15… 杉浦 非水(すぎうら ひすい、1876年〈明治9年〉5月15日 - 1965年〈昭和40年〉8月18日)は、近代日本のグラフィックデザイナー。本名は杉浦朝武(すぎうら つとむ)。日本のグラフィックデザインの黎明期より活動し、商業美術の先駆けであり現代日本のグラフィックデザインの礎を築いた人物の一人として重要である。 1876年愛媛県松山市で、白石朝忠の長男として生まれる。のち杉浦祐明の養子になる。 当初は日本画家を志し、四条派の画家松浦巖暉に師事。1897年の上京後は川端玉章に師事し、東京美術学校日本画選科に入学。 この東京美術学校在学中に洋画家の黒田清輝より洋画や欧風図案の指導を受け、図案家へ転向する。
山本英輔(やまもと えいすけ、1876年(明治9年)5月15… 山本英輔(やまもと えいすけ、1876年(明治9年)5月15日 - 1962年(昭和37年)7月27日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。鹿児島県出身。山本権兵衛元内閣総理大臣の甥(権兵衛の兄吉蔵の息子)にあたり、「封じ袴の大将」と呼ばれた。
田中 徳次郎(たなか とくじろう、1876年(明治9年)5月… 田中 徳次郎(たなか とくじろう、1876年(明治9年)5月15日 - 1933年(昭和8年)5月15日)は、明治末期から昭和初期にかけて活動した日本の実業家。主として電気事業に関与し、戦前期の大手電力会社東邦電力の専務などを務めた。愛知県出身。長男の田中精一は中部電力第4代社長。甥に洋画家の佐分眞がいる。 1876年(明治9年)5月15日、田中嘉七の次男として生まれる。生家は愛知県海西郡弥富町(現・弥富市)で酒造業を営んでいた。1895年(明治28年)慶應義塾理財科を卒業し、横浜の豪商若尾幾造の商店に入る。その後三井銀行に招かれて同社に転じ、1903年(明治36年)より大阪支店にて勤め、支店長代理を経て大阪支店次長まで昇進した。
古島 宮次郎(こじま みやじろう、1876年5月15日 - … 古島 宮次郎(こじま みやじろう、1876年5月15日 - 1946年1月19日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 東京都出身。1896年、東京築地工手学校卒。渡米し、サクラメントにおいて建築学を研究する。その後帰国し、土木建築請負業に従事する。深川区会議員、東京市会議員、市政調査会長となる。 1930年の第17回衆議院議員総選挙において東京4区から立憲民政党公認で立候補してトップ当選し、衆議院議員を1期務めた。1932年の第18回衆議院議員総選挙で落選した。1946年死去。
森 総之助/森 總之助(もり そうのすけ、1876年5月11… 森 総之助/森 總之助(もり そうのすけ、1876年5月11日-1953年4月23日)は、明治-昭和期の物理学者・教育者。 高知県香美郡野市村(現在の香南市)出身。1892年高知尋常中学校を卒業後、第三高等学校・第二高等学校を経て1899年に東京帝国大学理科大学を卒業する。 卒業後、新潟県立長岡中学校教諭になるが、1901年に第三高等学校教授に迎えられる。 「森総」の愛称を持ち、多くの物理学の著書を著したことから、その著書は”森総の物理学"の異名を得た。また、教育者としても湯川秀樹や朝永振一郎などを物理を教えて彼らに大きな影響を与えたとされる。 1935年、同じ高知県出身でもある前任の校長・溝淵進馬の急逝を受けて第三高等学校校長に就任する。
赤司 鷹一郎(あかし たかいちろう、1876年(明治9年)5… 赤司 鷹一郎(あかし たかいちろう、1876年(明治9年)5月10日 - 1933年(昭和8年)11月7日)は、文部官僚、教育者。錦鶏間祗候。 福島県令・検事の赤司欽一の長男として東京に生まれる。東京府立一中[要出典]、旧制第一高等学校を経て、1897年(明治30年)に東京帝国大学法科大学を卒業し、内務省に勤めた。翌年、文部省に移り参事官に任ぜられた。1902年(明治35年)から2年間、教育制度と行政法の研究のため欧米留学を命じられた。1911年(明治44年)、維新史料編纂会事務局長に就任した。1916年(大正5年)に普通学務局長に昇進し、1922年(大正11年)からは文部次官を務めた。その間、臨時教育行政調査会や教育評議会の委員となった。
本庄 繁(ほんじょう しげる、1876年〈明治9年〉5月10… 本庄 繁(ほんじょう しげる、1876年〈明治9年〉5月10日 - 1945年〈昭和20年〉11月20日)は、日本の陸軍軍人。第10師団長・関東軍司令官・侍従武官長を歴任し階級は陸軍大将正三位勲一等功一級男爵に至る。軍を退いてからは軍事保護院総裁や枢密顧問官を務める。 長男一雄は陸軍主計中佐。彼は父の死後、襲爵の手続きを行わなかった。娘は山口一太郎陸軍大尉に嫁ぐ。本庄は書を心得、剣華と号す。渾名は「たくわん石」。 1876年(明治9年)5月10日、本庄常右衛門と母ひろ子の長男として兵庫県多紀郡城南村真南条中村(現:丹波篠山市)に生まれる。生家は大地主で、本庄氏は多紀郡の有力国人酒井氏に仕えた名家であった。
齋藤 専吉(さいとう せんきち、明治9年4月16日(1876… 齋藤 専吉(さいとう せんきち、明治9年4月16日(1876年5月9日) - 昭和37年(1962年)3月13日)は、日本の教育者、文化人。渥美半島における文化交流に寄与した。 愛知県渥美郡畠村(現・田原市福江町)に間瀬伴蔵、里うの次男として生まれる。1883年(明治16年)、7歳のときに母の実家、畠村の齋藤重左衛門の養子となる。 1899年(明治32年)に清田尋常小学校(現・田原市立清田小学校)の教員となり、1920年(大正9年)には亀山尋常小学校(現・田原市立亀山小学校)校長として1927年(昭和2年)の退職まで務めた。その後は、福江町助役や愛知県民生委員、亀山保育園長を務めた。 専吉は、文化人としても活躍し、俳句、短歌、郷土史、考古学にも興味を持ち、地域の歴史や民族に関する研究を行った。
近松 秋江(ちかまつ しゅうこう、1876年〈明治9年〉5月… 近松 秋江(ちかまつ しゅうこう、1876年〈明治9年〉5月4日 - 1944年〈昭和19年〉4月23日)は、日本の小説家、評論家。岡山県生まれ。本名は徳田丑太郎。17歳のとき、浩司と改名。 露骨な愛欲生活の描写によって、代表的な私小説作家の一人とされる。 1876年(明治9年)、岡山県和気郡藤野村田ヶ原(現和気町藤野)に農家の四男として生まれる。少年時代は『雪中梅』(末広鉄腸)や『経国美談』(矢野龍渓)などの政治小説を好んだ。家は代々農業を営んでおり、1892年(明治25年)、岡山県尋常中学校(後の岡山一中、現在の岡山県立岡山朝日高等学校)に入学するが翌年退学。1894年、父に書置一通を残し上京。
稲田 三之助(いなだ さんのすけ、1876年(明治9年)5月… 稲田 三之助(いなだ さんのすけ、1876年(明治9年)5月2日 - 1952年(昭和27年)2月18日)は、日本の逓信官僚。早稲田大学教授。錦鶏間祗候。勲三等瑞宝章受章。 愛知県名古屋市出身。1900年(明治33年)、東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業。通信技手、逓信技師、新潟郵便局工務課長、通信局工務課長などを経て、1925年(大正14年)に逓信省工務局長に就任した。 退官後、1932年(昭和7年)9月27日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた。その他、早稲田大学理工学部教授を務めた。
和田 純(わだ じゅん、1876年〈明治9年〉5月2日 - … 和田 純(わだ じゅん、1876年〈明治9年〉5月2日 - 没年不詳)は、日本の判事、内務官僚、朝鮮総督府官僚。弁護士。 東京府東京市に津田仙の子として生まれ、和田謙吉の養子となった。1902年(明治35年)、早稲田大学邦語行政科を卒業。司法官試補、平壌控訴院判事、海州地方法院部長を務めた。その後、高知県警察部長、和歌山県警察部長、愛媛県内務部長、新潟県内務部長、慶尚南道知事を歴任した。 1928年(昭和3年)に退官した後は弁護士を開業し、海軍協会常務理事を務めた。
大角 岑生(おおすみ みねお、1876年〈明治9年〉5月1日… 大角 岑生(おおすみ みねお、1876年〈明治9年〉5月1日 - 1941年〈昭和16年〉2月5日)は、大正から昭和にかけての日本の海軍軍人、政治家、華族。海軍大将。男爵。位階および勲等、軍功は正二位・勲一等・功五級。 愛知県出身で本籍は高知県。自邸は東京市芝区高輪下町にあった。 1876年(明治9年)、愛知県中島郡三宅村(現:稲沢市平和町上三宅上屋敷)で、農業・大角藤平の長男として生まれた。幼名は親一。 1891年(明治24年)3月に中島郡高等小学校を卒業後、愛知一中(現:愛知県立旭丘高等学校)より攻玉社を経て海軍兵学校に入校。 1897年(明治30年)、24期を3位の成績で卒業。同期の次席は山本英輔大将。
井川 洗厓(いがわ せんがい、1876年5月1日‐1961年… 井川 洗厓(いがわ せんがい、1876年5月1日‐1961年10月13日)は明治時代の口絵画家、大正時代の版画家。本名:井川 常三郎。 稲野年恒及び富岡永洗の門人。本名は井川常三郎。1876年5月1日、資産家井川與兵衛の次男として岐阜県岐阜市上大久和町に生まれる。4歳の時に父と死別し母に育てられる。小学校卒業後漢学塾に通う傍ら家業である製紙原料商を手伝ったが、絵画に親しみ土佐派を槇田種麿に学ぶ。大阪に出て稲野年恒に師事した後、名古屋師団に入隊し威海衛守備隊に派遣される。ここでは風俗画を揮毫し侍従武官に献上したこともある。除隊後東京へ出て永洗に就き、師とともに『都新聞』に挿絵を描いているほか、多くの木版口絵を手がけている。
高木 敏雄(たかぎ としお、1876年5月 - 1922年1… 高木 敏雄(たかぎ としお、1876年5月 - 1922年12月18日)は、日本の神話学者・民俗学者・ドイツ文学者。 熊本県生まれ。1900年東京帝国大学文学部独文科卒業、第五高等学校教授、1912年東京高等師範学校教授、愛媛師範学校教授、1922年大阪外国語大学教授。1913-14年柳田国男と共に『郷土研究』を編集。欧米 (特にドイツ) の方法によった神話・伝説研究の体系化を試み、先駆的業績を残した。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
井上 匡四郎(いのうえ ただしろう、1876年〈明治9年〉4… 井上 匡四郎(いのうえ ただしろう、1876年〈明治9年〉4月30日 - 1959年〈昭和34年〉3月18日)は、明治後期から昭和前期の工学者、政治家。工学博士、貴族院子爵議員。 熊本県出身。熊本藩儒学者・岡松甕谷の四男として生まれ、井上毅の養嗣子となる。1895年(明治28年)4月5日、養父の死去に伴い子爵を襲爵。東京府尋常中学、第一高等学校を経て、1899年(明治32年)7月、東京帝国大学工科大学採鉱冶金学科を優等で卒業し銀時計を授与された。さらに大学院に進み、同時に工科大学講師に就任。1900年(明治33年)2月、東京帝大工科大学助教授に進んだ。1901年(明治34年)9月、採鉱冶金学研究のため留学し、ドイツ、アメリカで学んだ。
西川 光二郎(にしかわ こうじろう/みつじろう、1876年(… 西川 光二郎(にしかわ こうじろう/みつじろう、1876年(明治9年)4月29日 - 1940年(昭和15年)10月22日)は、日本の社会主義者。号は白熊。妻の西川文子は婦人運動家。 兵庫県津名郡佐野村(現在の淡路市津名町)の生まれ。札幌農学校に入学し新渡戸稲造の教え子となる。後に上京し東京専門学校(現在の早稲田大学)に転校し、1896年から1899年まで社会学を学ぶ。 その後、1901年(明治34年)に社会民主党の創設者となり、1903年(明治36年)に平民社、1906年(明治39年)に日本平民党(後の日本社会党)の創設にも携わった。また、同時期に足尾銅山事件や東京市内電車値上げ反対運動に関与したため、大杉栄と共に投獄刑を受けるといった不運があった。
喜田村 朔治(きたむら さくじ、1876年(明治9年)4月2… 喜田村 朔治(きたむら さくじ、1876年(明治9年)4月26日 - 1950年(昭和25年)9月23日)は、日本の医師、医学者。医学博士。 南満洲鉄道大連医院元眼科医長兼南満医学堂元教授。喜田村眼科病院元院長。義父は日本電気(NEC)創業者の岩垂邦彦。孫は弁護士(ミネルバ法律事務所所属)の喜田村洋一。族籍は福岡県士族。 福岡県築上郡千束村田淵、世々庄屋の西村敬治(福岡県士族)の次男として生まれる。第五高等学校在学中に、当時豊津中学校(現:福岡県立育徳館中学校・高等学校)教師であった喜田村寛治の養子となった。喜田村家は、小倉藩士の家柄で福岡県京都郡豊津村豊津に住み、養父寛治は工部大学校採鉱冶金科を卒業したが、病気のため郷里の豊津中学校の教師となった。
木原 清(きはら きよし、1876年(明治9年)4月25日 … 木原 清(きはら きよし、1876年(明治9年)4月25日 - 1940年(昭和15年)9月23日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
寺田 市正(てらだ いちまさ、1876年〈明治9年〉4月25… 寺田 市正(てらだ いちまさ、1876年〈明治9年〉4月25日 - 1958年〈昭和33年〉8月21日)は、日本の衆議院議員(政友本党→立憲民政党→立憲政友会)、拓務政務次官。川内市長。 鹿児島県高城郡水引郷五代村(現在の薩摩川内市五代町)に寺田宗七の長男として生まれた。小学校教師を務めた後、上京して明治法律学校(現在の明治大学)で学び、1900年(明治33年)に卒業した。卒業後の2年間、明治法律学校の舎監を務め、やがて時事新報の記者となった。1915年(大正4年)、時事新報社を退社し、自由通信社の主幹となった。 1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。以後、連続当選回数は7回を数えた。
小川 悌(おがわ よし、1876年(明治9年)4月17日 -… 小川 悌(おがわ よし、1876年(明治9年)4月17日 - 没年不詳)は、日本の裁判官。 千葉県山武郡東金町(現在の東金市)出身。1903年(明治36年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、司法官試補となる。名古屋地方裁判所判事、東京区裁判所判事、東京地方裁判所判事、東京地方裁判所予審掛、東京地方裁判所部長、東京控訴院判事、宇都宮地方裁判所所長を歴任した。 1920年(大正9年)、朝鮮総督府裁判所判事となり、高等法院判事、大邱地方法院長、高等法院判事、同部長、京城覆審法院長を歴任し、1934年(昭和9年)に高等法院長に就任した。
井上 秀二(いのうえ ひでじ、1876年(明治9年)4月16… 井上 秀二(いのうえ ひでじ、1876年(明治9年)4月16日 - 1943年(昭和18年)4月4日)は、日本の土木技術者。 井上成美海軍大将の実兄。井上秀二の家族関係については、井上成美#親族を参照。 宮城県仙台に生まれる。宮城県尋常師範学校附属小学校、宮城県尋常中学校、第二高等学校を経て京都帝国大学理工科大学土木工学科に進み、1900年(明治33年)に卒業(京都帝大土木工学科 第1期生)。成績優秀で恩賜の銀時計を受けた。 京都帝大を卒業した直後に母校の助教授を短期間務めた後は、教職・研究職に就かず、内務省などの中央官庁の官吏にもならず、「求められればどこにでも行く」フリーランス的な土木技術者として生涯を送った。
有吉 明(ありよし あきら、1876年〈明治9年〉4月15日… 有吉 明(ありよし あきら、1876年〈明治9年〉4月15日 - 1937年〈昭和12年〉6月25日)は、明治、大正、昭和前期の外交官。国際連盟設立メンバー。上海総領事、スイス公使、ブラジル大使、中華民国公使を経て、大使館昇格に伴い初代駐中華民国大使となる。対中国外交に尽力、軍部の中国侵略に抵抗。 京都府丹後国与謝郡宮津町(現:宮津市)出身。 父は宮津藩藩士・京都留守居役・郡長の有吉三七。 1899年(明治32年)に東京高等商業学校(一橋大学の前身)を卒業し、外務省入省。駐ブラジル大使として日本人のアマゾナス州進出を支援。 国際連盟設立メンバーの1人で、第2回から第4回までの国際連盟総会で日本代表を務めた。