原 撫松(はら ぶしょう、慶応2年1月27日(1866年3月… 原 撫松(はら ぶしょう、慶応2年1月27日(1866年3月13日) - 大正元年(1912年)10月27日)は、明治期の洋画家。今日、知名度は高いとはいえないが、明治期において本格的な油彩技法を修得した最も優れた画家の一人とされ、肖像画を得意とした。 岡山市出石村で、岡山藩士原金兵衛久則の長男として生まれる。幼名は熊之介、のち改め熊三郎、1883年(明治16年)からは熊太郎を名乗る。父・久則は岡山藩の御融通方に勤務し、後に第二十二国立銀行創設に加わった。1879年(明治12年)化成小学校卒業後は進学せず、当時岡山にいた洋画家多賀清光と平野雄也に就いて、主に水彩画を習う。1881年(明治14年)3月に京都府画学校に入学し、小山三造、田村宗立に洋画を学ぶ。
田辺 郷左衛門(田邊 郷左衛門、たなべ ごうざえもん、前名・… 田辺 郷左衛門(田邊 郷左衛門、たなべ ごうざえもん、前名・榮重郎、1866年3月11日〈慶應2年1月25日〉 - 没年不明)は、日本の政治家(神奈川県会議員、横浜市会議員)、会社重役、神奈川県多額納税者、地主、神奈川県教員互助会理事。族籍は神奈川県平民。田辺家19代目である。 神奈川県久良岐郡中村出身。先代・郷左衛門の二男。神奈川師範卒業。1886年、家督を相続し、前名・榮重郎を改め襲名する。貸地業を営む。 横浜市会議員、神奈川県会議員、同参事会員に挙げられる。戸塚銀行、横浜植木、横浜農薬各取締役などをつとめる。1937年、退隠する。 教育界と農村産業の革新等に尽力する。宗教は真言宗。趣味は碁、将棋、読書、旅行。
守屋 善兵衛(もりや ぜんべえ、慶応2年1月25日(1866… 守屋 善兵衛(もりや ぜんべえ、慶応2年1月25日(1866年3月11日) - 昭和5年(1930年)12月10日)は、日本の実業家。幼名は、久太。父は、彌作。 備中国小田郡大井村東大戸2087番地(現在の岡山県笠岡市)に生まれる。1876年、祖父の名を継いで善兵衛と改名する。地元の学校に学ぶが1880年上京し、東京外国語学校(旧外語)および独逸学協会学校でドイツ学を学ぶ。1883年、東京に欧亜学館を設立する。 1885年からは政府各省の依頼により、種々のドイツ語文書を翻訳する。その後台湾総督府の後藤新平、児玉源太郎などの知遇を得、1898年、台湾日報社と台湾新報社を合併して台湾日々新報社を創立し、社長となる。
九鬼 紋七(くき もんしち、1866年3月10日(慶応2年1… 九鬼 紋七(くき もんしち、1866年3月10日(慶応2年1月24日) - 1928年(昭和3年)3月15日)は、三重県四日市市出身の政治家、また九鬼産業グループを経営する実業家。四日市電灯・三重人造肥料・四日市倉庫社長・東洋紡績取締役・四日市商工会議所副会頭等。四日市の政財界の指導者。四日市九鬼家当主で8代目九鬼紋七を襲名した。国政に進出して衆議院議員(1期)を務める。甥は四日市政財界の大御所であった九鬼紋十郎。家業を継いだ長男・徳三(9代目紋七)も衆議院議員を務めた(妻は外交官市河彦太郎の妹)。 1886年(慶応2年)1月に四日市の中納屋町69番地在住の大地主である四日市九鬼家に誕生する。四日市九鬼家は戦国時代から安土桃山時代に活躍した九鬼水軍の末裔である。
秋山 雅之介(あきやま まさのすけ、慶応2年1月23日(18… 秋山 雅之介(あきやま まさのすけ、慶応2年1月23日(1866年3月9日) - 昭和12年(1937年)4月11日)は、日本の官僚、法政大学学長。 広島藩の足軽秋山恂一の長男として生まれる。1890年(明治23年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業。外務省に入り、イギリス公使館やロシア公使館で書記官として勤務した。しかし病により官を辞した後は、国際法を研究し法学博士の称号を得た。 和仏法律学校や明治法律学校で講師を務めていたが、日露戦争の直前に陸軍省参事官に任命され、さらに法制局参事官も兼ねた。国際法の顧問として尽力したのが寺内正毅陸軍大臣に認められ、後に朝鮮総督となった寺内の招きで朝鮮総督府参事官に就任した。
武藤 互三(むとう ごぞう、1866年3月9日(慶応2年1月… 武藤 互三(むとう ごぞう、1866年3月9日(慶応2年1月23日) - 1937年(昭和12年)1月20日)は、明治から昭和時代戦前の政治家。実業家。銀行家。衆議院議員。岐阜県郡上郡八幡町長。 美濃国郡上郡八幡町(岐阜県郡上郡八幡町を経て現郡上市)出身。関谷楠平の三男、関谷貫三の弟として生まれ先代の武藤喜一郞の養子となり、1903年(明治36年)3月、家督を相続する。1880年(明治13年)鈴木重遠に漢学を学び、1886年(明治19年)岐阜県師範学校、1890年(明治23年)東京専門学校法律科卒業。生糸製造業を営んだ。 八幡町長、蚕糸業諮問会、中央種繭審査会各委員となる。また第百二十八銀行頭取、八幡町仏教慈善会長、県製糸同業組合長、製糸講習所長、大日本蚕糸会、帝国蚕糸会社各評議員、濃飛農工銀行取締役となるほか、大谷派本山講頭格に列せられ、同派本願寺会計評議員を歴任した。
山屋 他人(やまや たにん、慶応2年3月4日(1866年)4… 山屋 他人(やまや たにん、慶応2年3月4日(1866年)4月18日 - 昭和15年(1940年)9月10日)は、日本の海軍軍人。海軍大将。皇太子徳仁親王妃雅子は曾孫にあたる。
藤島 華僊(ふじしま かせん、慶応2年〈1866年〉3月 -… 藤島 華僊(ふじしま かせん、慶応2年〈1866年〉3月 - 1929年〈昭和4年〉2月18日)は明治時代から昭和時代にかけての浮世絵師、日本画家。 慶応2年3月に上野国利根郡沼田倉村(現・群馬県沼田市)において生まれた。通称は徳四郎。浮世絵師としては藤島年美と号しており、後に永柳、華僊と号した。幼時より絵画を好み、12歳で青山翠山(福島柳圃の弟子)に師事、南宗画を習得し、後に東京へ上京して月岡芳年について風俗画を学び、小林永濯に師事し、永濯から画技を認められ、彼の養嗣子となった。1886年(明治19年)頃、芳年から門人27名にあてた書状『芳年門人一覧』の23番目に「上松本町二十番地細山方 藤嶋徳四郎殿」とみられる。
安藤 和風(あんどう はるかぜ、慶応2年1月12日(1866… 安藤 和風(あんどう はるかぜ、慶応2年1月12日(1866年2月26日) - 昭和11年(1936年)12月26日)は、日本のジャーナリスト、マスメディア経営者、俳人、郷土史研究家。通名および俳号は「和風」をそのまま音読みして「わふう」。秋田県の地方紙「秋田魁新報」の事業拡大に貢献し、秋田魁新報社三大柱石の一人と称された。「魁の安藤か、安藤の魁か」と言われるほど、新聞記者としての名声を全国にとどろかせた。 俳号・雅号として他に、柳外、夢蝶、時雨庵、大蕗軒、白松子、太平山人、城南陰士、自適庵、布々木園、蝶々、松陰舎、松庵など十数以上を用いていた。 秋田藩士安藤和亭(通名は和市)、イクの長男として生まれる。
河口 慧海(かわぐち えかい、1866年2月26日(慶応2年… 河口 慧海(かわぐち えかい、1866年2月26日(慶応2年1月12日) - 1945年(昭和20年)2月24日)は、日本の黄檗僧、仏教学者、探検家。幼名は定治郎。僧名は慧海仁広(えかいじんこう)。チベット名はセーラブ・ギャムツォ。チベットでの通称はセライ・アムチー。 日本や中国の漢語仏典に疑問をおぼえ、仏陀本来の教えの意味が分かる書物を求めて、梵語原典やチベット語訳仏典の入手を決意し、日本人として初めてチベットへの入国を果たした。その旅行記は英訳もされ、チベットの聖地伝説化に拍車をかけた。 『西蔵旅行記』『在家仏教』『正真仏教』をはじめとして数多くの著作を残し、慧文社から著作選集も出版されている。
藤原 元太郎(ふじわら もとたろう、1866年2月24日(慶… 藤原 元太郎(ふじわら もとたろう、1866年2月24日(慶應2年1月10日)- 1933年(昭和8年)3月6日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。衆議院議員、岡山県会議長、岡山県児島郡八浜村長、同郡八浜町長。 備前国児島郡八浜村(岡山県小島郡玉井村、八浜村、八浜町を経て現玉野市)で、藤原久三郎の長男として生れ、1890年(明治23年)7月に家督を相続した。旧制岡山中学校(現:岡山県立岡山朝日高等学校)で学んだ。 玉井村(のち八浜村に改称)助役を経て、1892年(明治25年)10月、玉野村長に就任し、1925年(大正14年)2月まで連続して八浜村長、八浜町長を務めた。また、1898年(明治31年)岡山県会議員に選出され1915年(大正4年)3月まで在任し、1909年(明治42年)から1911年(明治44年)まで県会議長を務めた。
長與 稱吉(新字体:長与 称吉、ながよ しょうきち、慶応2年… 長與 稱吉(新字体:長与 称吉、ながよ しょうきち、慶応2年1月7日〈1866年2月21日〉 - 明治43年〈1910年〉9月5日)は、明治時代の医師。男爵。長與專齋の子。岳父に後藤象二郎。 内務省衛生局長:長與專齋の長男として、肥前国大村(現・長崎県大村市)に生まれる。1884年に東京帝国大学医科(現在の東京大学医学部)を中退して、7年間ドイツのミュンヘン大学、ヴュルツブルク大学医学部に私費留学する。このころ、現地の女性に子供を産ませるも、手切れ金を渡して解決する(その面倒を見たのが、衛生局で專齋の部下であり、ドイツ留学中の後藤新平だった)。 帰国後、1893年に開業。東京日本橋や麹町に胃腸病院を設立。
野沢 武之助(のざわ たけのすけ、旧字体: 野澤武之助 慶応… 野沢 武之助(のざわ たけのすけ、旧字体: 野澤武之助 慶応2年1月7日(1866年2月21日) - 昭和16年(1941年)8月1日)は、日本の衆議院議員(山下倶楽部)。国際法学者。 慶応2年1月7日(1866年2月21日)下野国芳賀郡下籠谷村(現在の栃木県真岡市)で野澤泰次郎の長男として生まれる。泰次郎は下野紡績株式会社や千住煉瓦株式会社を経営するほか、栃木県議会議員も務めた実業家である。その父の意向を受けて、品川弥二郎に従い織物研究のためドイツに留学し、1888年(明治21年)、ドイツのミュールハイム市工業学校を卒業する。しかし、経緯は不明であるが、スイスに渡り、1895年(明治28年)にジュネーヴ大学で法学を学び卒業する。
浅井 郁太郎(あさい いくたろう、慶応2年1月5日(1866… 浅井 郁太郎(あさい いくたろう、慶応2年1月5日(1866年2月19日) - 没年不詳)は、金沢出身の地質学及び鉱物学者であり教育者。従五位。 加賀藩士、浅井弘五郎の長男。1890年(明治23年)に東京帝国大学理科大学地質学科を卒業し、島根県中学校校長、札幌中学校校長、岐阜中学校校長を歴任した。1900年(明治33年)に足尾銅山技師、1902年(明治35年)に文部省図書審査官・視学官となり、1913年にはこれを辞して文部省嘱託となった。1907年(明治40年)に家督を相続。その他、東京高等工業学校講師、東京女子高等師範学校講師なども歴任している。 1920年(大正9年)に同郷の香村小録が再婚する際には夫婦で媒酌人を務めた。
副島 義一(そえじま ぎいち、慶応2年1月5日(1866年2… 副島 義一(そえじま ぎいち、慶応2年1月5日(1866年2月19日) - 昭和22年(1947年)1月27日)は、日本の衆議院議員、法学者。専門は憲法学で、天皇機関説を唱えた。 肥前国佐賀郡本庄村(現在の佐賀県佐賀市)出身。1894年(明治27年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、大学院に進んだ。さらにベルリン大学に留学し、1901年(明治33年)から1902年(明治34年)にかけて、渡辺廉吉に代わって東京高等商業学校(現一橋大学)で憲法を講じた。 1908年(明治41年)に法学博士の学位を受けた。早稲田大学で教授・評議員を務めるかたわら、辛亥革命の際には寺尾亨とともに南京の臨時政府の法律顧問に就任し、また1920年(大正9年)には第14回衆議院議員総選挙に出馬して当選を果たした。
中川 小十郎(なかがわ こじゅうろう、1866年2月18日(… 中川 小十郎(なかがわ こじゅうろう、1866年2月18日(慶応2年1月4日) - 1944年(昭和19年)10月7日)は、元貴族院議員、文部省官僚で、京都法政学校(現在の立命館大学)創立者。丹波国南桑田郡馬路村(現在の京都府亀岡市馬路町)生まれ。 官僚 教育者 実業家
荒川 高三郎(あらかわ たかさぶろう、慶応2年1月4日〈18… 荒川 高三郎(あらかわ たかさぶろう、慶応2年1月4日〈1866年2月18日〉- 1935年〈昭和10年〉12月23日)は、明治から昭和初期の農業経営者、政治家。衆議院議員、群馬県邑楽郡三野谷村長。旧姓・島田。足尾鉱毒問題における田中正造の同労者。 下野国足利郡村上村(栃木県足利郡村上村、吾妻村を経て現佐野市村上町)で島田次郎次の三男として生れ、群馬県邑楽郡三野谷村上三林(現館林市上三林)の豪農・荒川家の養子となる。漢学、国学を修めた。 1889年(明治22年)三野谷村収入役に就任。以後、三野谷村会議員、学務委員などを務めた。1896年(明治29年)群馬県会議員に選出され、1907年(明治40年)9月まで在任。
遠藤 於莵(えんどう おと、1866年2月13日(慶応元年1… 遠藤 於莵(えんどう おと、1866年2月13日(慶応元年12月28日) - 1943年(昭和18年)2月17日)は、日本の建築家。日本における鉄筋コンクリート技術の先駆者の一人で、「日本のペレ」とも評される。 信濃国筑摩郡福島(現・長野県木曽郡木曽町)生まれ。東京大学予備門・第一高等中学校を経て、帝国大学工科大学校造家学科で建築学を学び、1894年卒業。野口孫市・大澤三之助・矢橋賢吉と同期生。 卒業後、神奈川県技師に就任、また横浜税関倉庫、生糸検査所などの建設に関わった。1898年、横浜正金銀行技師になり、妻木頼黄設計の本店建設に従事した(1904年竣工)。以降、鉄筋コンクリートの本格的研究を開始。
内山 安兵衛(安兵衞、うちやま やすべえ、1866年2月13… 内山 安兵衛(安兵衞、うちやま やすべえ、1866年2月13日(慶応元年12月28日)- 1936年(昭和11年)9月28日)は、明治から大正期の林業家、実業家、政治家。衆議院議員。本名・末太郎。 武蔵国多摩郡五日市村(神奈川県西多摩郡五日市町、東京府西多摩郡五日市町、東京都西多摩郡五日市町を経て現あきる野市)で、豪農・内山善右衛門の長男として生まれ、1883年(明治16年)家督を相続。同人社で学んだ。林業を営む。 1880年(明治13年)深沢権八らと五日市学芸講談会を設け、自由民権運動の学習活動を行う。その後、キリスト教に入信。1892年(明治25年)神奈川県会議員に選出。三多摩の東京府編入後は東京府会議員、同郡部会副議長などを務めた。
渡辺 兼二(渡邉、わたなべ けんじ、1866年2月11日〈慶… 渡辺 兼二(渡邉、わたなべ けんじ、1866年2月11日〈慶応元年12月26日〉 - 1928年〈昭和3年〉12月9日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。新潟市長。 越後国蒲原郡一ノ木戸村(現新潟県三条市)で渡辺正友の二男として生まれる。1885年12月、陸軍教導団砲兵科に入団。1890年7月26日、陸軍士官学校(1期)を卒業、ちなみに 1890年(明治23年)7月29日の官報によると、陸軍士官学校第1期を工兵科1番/8名で卒業している。1891年3月26日、陸軍工兵少尉に任官し工兵第1大隊附となる。 日清戦争に工兵第1大隊第2中隊小隊長として出征。1895年11月、陸軍砲工学校(3期)を優等で卒業。
関口 安太郎(關口、せきぐち やすたろう、慶応元年12月25… 関口 安太郎(關口、せきぐち やすたろう、慶応元年12月25日〈1866年2月10日〉 - 1911年〈明治44年〉7月11日)は、明治期の畜産業者、実業家、政治家(衆議院議員、群馬県会議員)。 上野国勢多郡下大島村(群馬県南勢多郡木瀬村、勢多郡木瀬村を経て現前橋市下大島町)で、代々前橋藩の御蔵番を務めた関口家当主・仲次郎、りせ の長男として生まれた。大島梨の栽培で知られる関口長左衛門は祖父の兄にあたる。その後、前橋曲輪町(現:前橋市大手町)に転居した。前橋中学校(現群馬県立前橋高等学校)を卒業し、1890年(明治23年)東京法学院(現中央大学)を卒業。 1894年(明治27年)群馬県会議員に選出され1896年(明治29年)まで在任。
大瀬 甚太郎(おおせ じんたろう、1866年2月9日(慶応元… 大瀬 甚太郎(おおせ じんたろう、1866年2月9日(慶応元年12月24日) - 1944年(昭和19年)5月29日)は、明治時代から昭和初期にかけての日本の教育学者。文学博士。号は金城。 近代日本における体系的な教育学の樹立者、西洋教育史学の開拓者として評価されている。 現在の石川県金沢市生まれ。加賀藩士族・大瀬直温の長男。上京後、進文学舎、東京大学予備門を経て、帝国大学文科大学(現・東京大学文学部)哲学科に入学。 文科大学の同級生には大西祝、渡部董之介、三上参次(国文学科)、谷本富(選科生)がいる。卒業後、同大学院に進学し心理学を専攻する。1891年に第五高等中学校に赴任、嘉納治五郎が同校の校長だった時期と重なっている。
池田 詮政(いけだ のりまさ、1866年2月9日〈慶応元年1… 池田 詮政(いけだ のりまさ、1866年2月9日〈慶応元年12月24日〉- 1909年〈明治42年〉6月1日)は、侯爵・貴族院議員。旧岡山藩池田家第13代当主。 1866年(慶応元年)、備前国岡山城下鴨方藩邸(現在の岡山県岡山市)生まれ。幼名銀三郎。明治維新後に鴨方藩池田家から池田宗家を継承し、備前岡山藩の最後の藩主となった池田章政(政詮)の三男(名前は父の初名を逆にしたようなものになっている)。母は大垣藩主戸田氏正の娘鑑子。 1882年(明治15年)、フランスに留学。公爵島津忠義の次女充子と結婚したが、1889年(明治22年)に離婚し、翌1890年(明治23年)に久邇宮朝彦親王の三女安喜子女王と再婚している。
大鳥 富士太郎(おおとり ふじたろう、慶応元年12月23日(… 大鳥 富士太郎(おおとり ふじたろう、慶応元年12月23日(1866年2月8日)- 1931年(昭和6年)11月7日)は、日本の台湾総督府官僚、外交官。貴族院男爵議員。 江戸で幕臣・大鳥圭介の長男として生まれる。父の死去に伴い、1911年(明治44年)7日10日に男爵を襲爵した。 1890年(明治23年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科第一部を卒業。同年、外務省試補となるが、1896年(明治29年)台湾総督府に転じ台北県書記官となり、台湾総督府民政局参事官・台北県支庁長、総督秘書官を務めた。1901年(明治34年)外交官及領事官試験に合格。外交官に転じ、大韓帝国公使館勤務、オランダ公使館勤務、ウラジオストク総領事、外務書記官、フランス大使館参事官、駐メキシコ公使を歴任した。
名出 保太郎(ないで やすたろう、1866年2月7日(慶応元… 名出 保太郎(ないで やすたろう、1866年2月7日(慶応元年12月22日) - 1945年(昭和20年)9月6日)は、日本の聖職者、教育者。元田作之進とともに日本人として聖公会初の監督(主教)を務めた。日本聖公会大阪教区初代主教。築地・聖三一教会(立教教会)初代牧師。 紀伊国那賀郡名手村(現・和歌山県紀の川市)で庄屋の家に生まれる。和歌山の小学校で教員を務める。 その後、大阪に出て、テオドシウス・ティング(米国聖公会宣教師)の大阪・川口の英和学舎(立教大学の前身の一つ)で学び、ティングのもとで聖職者としての道に進む。 1879年(明治12年)、日本の聖公会として初代の日本人牧師に就任。聖公会としては横山錦柵が1877年(明治10年)に米国で按手を受け日本人初の聖職者となっている。
松崎 蔵之助(まつざき くらのすけ、1866年2月1日(慶応… 松崎 蔵之助(まつざき くらのすけ、1866年2月1日(慶応元年12月16日) - 1919年(大正8年)11月12日)は明治時代から大正時代にかけての日本の経済学者。法学博士。
橋本 又吉郎(はしもと またきちろう、1866年1月31日(… 橋本 又吉郎(はしもと またきちろう、1866年1月31日(慶応元年12月15日) - 1928年(昭和3年)6月3日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。現在の広島県出身。
佐瀬 熊鉄(佐瀨 熊鐵、さぜ / させ くまてつ、1866年… 佐瀬 熊鉄(佐瀨 熊鐵、さぜ / させ くまてつ、1866年1月31日(慶応元年12月15日)- 1929年(昭和4年)9月5日)は、日本の医師、政治家。衆議院議員。旧姓・一瀬。 陸奥国会津郡若松城下(現福島県会津若松市)で、会津藩家老・一瀬要人の二男として生まれる。15歳で上京し山川浩の世話を受けて苦学し、1887年(明治20年)海軍医学校を卒業し海軍少軍医候補生となるが、2年ほどで退官した。その後帰郷して、河沼郡金上村の豪農・佐瀬家を継いだ。 1893年(明治26年)に再度上京し、同盟倶楽部の理事に就任し、また立憲革新党の運営に加わった。1894年(明治27年)大韓帝国に渡り、朴泳孝内務大臣の知遇を得て、同国の警務庁・監獄署医務、訓練隊衛生事務、裁判医事の顧問となった。
沢 来太郎(さわ らいたろう、慶応元年12月15日(1866… 沢 来太郎(さわ らいたろう、慶応元年12月15日(1866年1月31日) - 大正11年(1922年)3月23日)は、日本の衆議院議員(憲政本党→立憲国民党→立憲政友会)。 宮城県栗原郡沢辺村(現在の宮城県栗原市)出身。自由民権運動に加わり、1881年(明治14年)に公愛会という政社を結成した。1894年(明治27年)、県下の自由党員を糾合して血誠義団を組織し、その会長となった。さらに雑誌「新東北」や仙台新聞を発刊して自由党の勢力拡大に貢献したが、1897年(明治30年)に河野広中が自由党を離党すると、それに従い、東北同盟会を組織した。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。
鵜飼 猛(うかい たけし、1866年1月29日(慶応元年12… 鵜飼 猛(うかい たけし、1866年1月29日(慶応元年12月13日) - 1948年(昭和23年)5月6日)は、日本の牧師。法学者の鵜飼信成や、アメリカ共産党員でアメリカOSS(戦略情報局)にも所属した鵜飼宣道(ジョー・コイデ)、銀座教会名誉牧師の鵜飼勇の実父でもある。 1866年1月29日(慶応元年12月13日)に松江に生まれる。1879年(明治12年)同郷の鵜飼渚の養子となる。 1885年(明治18年)東京府立第一中学校を中退して、美山貫一を頼ってサンフランシスコに行く。 1886年(明治19年) サンフランシスコの中国人伝道館で洗礼を受ける。その後、アイオワ州のシンプソン大学で学ぶ。 1894年(明治27年) アメリカ・メソジスト教会で按手礼を受けて牧師になる。
上原 鹿造(うえはら しかぞう、慶応元年12月13日(186… 上原 鹿造(うえはら しかぞう、慶応元年12月13日(1866年1月29日) - 昭和10年(1935年)10月4日)は、日本の衆議院議員(憲政本党)。弁護士。 府内藩士上原平馬の四男として大分に生まれる。1883年(明治16年)、大分師範学校に入学して4年間学び、小学校訓導・校長を務めた。1888年(明治21年)に上京し、国民英学会を経て、1892年(明治25年)に東京専門学校(現在の早稲田大学)行政科を卒業した。同年、弁護士試験に合格し、鳩山和夫事務所に勤務した。日本弁護士協会の結成に加わり、機関雑誌の編集主任を務め、理事となった。 1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
上埜 安太郎(うえの やすたろう、1866年1月27日(慶応… 上埜 安太郎(うえの やすたろう、1866年1月27日(慶応元年12月11日) - 1939年(昭和14年)4月4日)は、日本の政治家・衆議院議員(立憲政友会→政友本党→立憲政友会)。富山県高岡市長。富山市長。族籍は富山県平民。 越中国礪波郡上向田村(富山県西礪波郡西五位村、福岡町を経て現高岡市福岡町)出身。上埜次平の長男。家は農を業とし、蚕業を営んでいた。自由党に加入して、富山県内の党勢拡大に貢献した。養蚕業を営み、県下の大地主であり、1887年(明治20年)、初めて富山県会議員に当選、副議長、議長を歴任し、庄川改築工事や富直鉄道建設計画に尽力した。また北陸公論を創刊してその社長となり、さらに越中新報社、東洋漁業会社などの経営に当たった。
木内 重四郎(きうち じゅうしろう、慶応元年12月10日(1… 木内 重四郎(きうち じゅうしろう、慶応元年12月10日(1866年1月26日) - 大正14年(1925年)1月9日)は、戦前日本の官僚・政治家。
山内 晋卿(やまのうち しんきょう、旧名: 晋(すすむ)、1… 山内 晋卿(やまのうち しんきょう、旧名: 晋(すすむ)、1866年1月26日(慶応元年12月10日) - 1945年(昭和20年)9月9日)は、仏教学者、漢文学者、中国史学者。石見国(現島根県)生まれ。 浄土真宗本願寺派勧学、旧制第三高等学校(現京都大学)教授。定年後は、旧制福岡県立女子専門学校(現福岡女子大学)専任講師、旧制九州帝国大学専任講師等を歴任。 旧制三高の学校誌である『第三高等学校 神陵史』に名前が挙げられている。九州帝国大学の仏教青年会、浄土真宗本願寺派安居本講でも活躍した。島根県大田市にある浄土真宗本願寺派明恩寺第12世住職。 在日本,也有许多不同的议论。开头,山内晋卿认为是真的,他根据的是明清人的说法;总之,常盘大定认为是假的
高見 松太郎(たかみ まつたろう、1866年1月23日(慶応… 高見 松太郎(たかみ まつたろう、1866年1月23日(慶応元年12月7日) - 1930年(昭和5年)1月5日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 長崎県出身。1910年、法政大学卒。長崎県会議員、長崎市会議員、同議長代理、所得税調査委員、長崎港湾改良調査会幹事、私立長崎盲啞学校(現・長崎県立盲学校)理事、長崎慈善学会幹事、日本海員掖済会地方委員、長崎麦粉会社、九州生命保険(株)各取締役、長崎米穀株式取引所、長崎勧業信託(株)各監査役、長崎電気瓦斯、長崎ラジウム鉱泉(株)各取締役となる。 1902年の第7回衆議院議員総選挙において長崎市選挙区から無所属で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1903年の第8回衆議院議員総選挙は不出馬。
日野 強(ひの つとむ、1866年1月23日(慶応元年12月… 日野 強(ひの つとむ、1866年1月23日(慶応元年12月7日)- 1920年(大正9年)12月23日)は、日本の探検家、大日本帝国陸軍の軍人である。幼名は熊吉。「強」の読み方は戸籍上は「つとむ」であるが、中国で活動していた時期には一般に「きょう」と読まれ、東京地学協会や出口王仁三郎は「つよし」と呼んでいた。日野本人は「きょう」という読み方を使い、「つとむ」の読み方を使っていたのは改まった場面だけだったという。 伊予小松町(現西条市)の常吉、ツヤ夫妻の家に生まれ、一家には強のほかに兄一人、弟二人、妹二人がいた。小学校卒業後に愛媛県師範学校に進み、教職に就くが、転勤先の堀江の小学校の環境に失望する。
川島 浪速(かわしま なにわ、慶応元年12月7日(1866年… 川島 浪速(かわしま なにわ、慶応元年12月7日(1866年1月23日) - 昭和24年(1949年)6月14日)は、日本の大陸浪人。満蒙独立運動の先駆者として知られる。 信濃国松本城下(現長野県松本市)に松本藩士川島良顕と、その妻・栄子の長男として生まれる。出生時には父親が長州征討のため大坂に出陣中であったため、「浪速」と命名された。明治8年(1875年)に一家で東京に移住。その後、東京外国語学校に入学し中国語を学ぶ。明治19年(1886年)に同校を退学、同年に上海に渡航し、中国各地を見聞する。明治22年(1889年)、病を得て帰国。 明治27年(1894年)、日清戦争が勃発すると、陸軍通訳官として従軍、中国大陸から台湾に転戦する。
岸本 能武太(きしもと のぶた、慶応元年12月16日(186… 岸本 能武太(きしもと のぶた、慶応元年12月16日(1866年1月22日) - 昭和3年(1928年)11月16日)は、日本の宗教学者。宗教学者の岸本英夫は次男である。 慶応元年12月16日(1866年1月22日)、岡山県岡山市花畑に岡山藩士である滝義夫の次男として生まれる。 1880年7月、岡山中学校を卒業し、同年9月、京都同志社英学校普通科に入学する。1882年2月5日、新島襄から洗礼を受ける。1884年6月、京都同志社英学校普通科を卒業する。 1885年4月、同志社英学校神学科に入学し、1887年6月、卒業する。 仙台の東華学校で教師を務めた後、1890年9月、ハーバード大学神学科に留学し、宗教哲学、比較宗教学、サンスクリット語、パーリ語を研究する。
畠山 勇子(はたけやま ゆうこ、慶応元年12月6日(1866… 畠山 勇子(はたけやま ゆうこ、慶応元年12月6日(1866年1月22日) - 明治24年(1891年)5月20日)は、1891年の大津事件で日露関係が緊張した際、被害者のロシア皇太子ニコライに謝罪の遺書を残して自殺した女性である。 1865年、安房国長狭郡横渚(よこすか)村(のち鴨川町の一部。現・千葉県鴨川市横渚)に畠山治兵衛の長女として生まれる。畠山家は横渚の農家で、かつては資産家であったが、明治維新のおりに私財を投じたため、生活は貧困であったという。5歳で父を失い、17歳で朝夷郡安馬谷村(のち千歳村。現・南房総市)の商家の若松吉蔵というものに嫁いだが、勇子は勝気で商業には不向きな性格であり、また『南総里見八犬伝』や『釈迦八相倭文庫』、政治小説や新聞『日本』などを読むことを好んでいたため、周囲との折り合いが悪かったようで、不縁になり1887年(明治20年)23歳で離婚した。
佐藤 寅太郎(さとう とらたろう、慶応元年12月5日(186… 佐藤 寅太郎(さとう とらたろう、慶応元年12月5日(1866年1月21日) - 昭和18年(1943年)9月21日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会)。教育者。 信濃国佐久郡長土呂村(現在の長野県佐久市)出身。長野県師範学校を卒業。同級生に河野齢蔵や矢澤米三郎がいた。師範卒業後、北佐久郡で教職につき、他府県出身者の勢力を駆逐し、小諸小学校長時代には、学校を 一村教化の中心にすえることを主唱し、全校生徒の浅間山登山や職員による浅間山研究を行った。さらに郡長が会長の官製教育会のあり方を改め、みずから北佐久郡教育会長に当選するなど、後半の教育官僚・政治家としての地歩を築いた。 明治43年(1910年)に長野県視学に就任し、同理事官、同視学官、大正6年(1917年)同学務課長を歴任したが、「天下の公選によって学務の府に立った」と折にふれ称したという。
矢野 恒太(やの つねた、慶応元年12月2日(1866年1月… 矢野 恒太(やの つねた、慶応元年12月2日(1866年1月18日) - 昭和26年(1951年)9月23日)は、明治期から大正期に生命保険業界の基礎を築いた実業家。第一生命保険創業者。医師。日本アクチュアリー会初代代表。「相互会社の産みの親」と呼ばれ、「蒼梧」と号した。 備前国上道郡角山村(現・岡山県岡山市東区)で生まれる。播磨国赤穂郡砂野庄矢野(現・兵庫県相生市北部)を本貫とした清和源氏山県氏流矢野氏の末裔と称した。 1889年、第三高等中学校医学部(後の岡山医専、現・岡山大学)を卒業、日本生命に診査医として就職する。 しかし、1892年に経営陣との対立から退社し、安田生命(現・明治安田生命保険)の前身である共済生命保険の設立に関わり、その後、支配役となる。
木村 久寿弥太(きむら くすやた、1866年1月18日(慶応… 木村 久寿弥太(きむら くすやた、1866年1月18日(慶応元年12月2日) - 1935年(昭和10年)11月23日)は、日本の実業家。三菱財閥の総理大臣と言われた。 土佐国土佐郡石立村(現・高知県高知市内)の出身。土佐藩の下級武士である田岡亨一の二男に生まれる。もともとは農民の出だが、祖父の代に家老の家に出仕し、武士の身分を得た。藩校の致道館教授も務めた叔父の養子となり、木村家を継ぐ。16歳の時に叔父が大阪で役人になると大阪へ出て、のちに模範中学と改称された専門学校に通い、19歳の時に東京へ出て、大学予備門を経て、帝国大学法科大学政治科へ入学する。学生時代に桐島像一が監督していた岩崎弥之助の息子と一緒に熱海の別荘に避寒すると、豊川良平から岩崎小弥太の監督を頼まれ、卒業まで三菱の寄宿舎から大学へ通った。
近藤 次繁(こんどう つぐしげ、1866年1月17日(慶応元… 近藤 次繁(こんどう つぐしげ、1866年1月17日(慶応元年12月1日) - 1944年(昭和19年)3月4日)は、日本の明治から昭和期における医学博士・外科医。東京帝国大学医学部教授・病院長。日本で最初に胃がんの手術を成功させた外科医である。。
松方 幸次郎(まつかた こうじろう、1866年1月17日(慶… 松方 幸次郎(まつかた こうじろう、1866年1月17日(慶応元年12月1日) - 1950年(昭和25年)6月24日)は、日本の実業家、政治家。川崎造船所社長、衆議院議員(日本進歩党)、美術収集家。エール大学、ソルボンヌ大学卒業。
本田 増次郎(ほんだ ますじろう、1866年1月15日〈慶応… 本田 増次郎(ほんだ ますじろう、1866年1月15日〈慶応2年11月29日〉 - 1925年〈大正14年〉11月25日)は、明治・大正期の英語教育者、イギリス文学者、ジャーナリスト、民間外交家。柔道3段。 美作国久米北条郡上打穴里村(現・岡山県久米郡美咲町打穴里)にて、農家の本田杢蔵・やゑの3男として生まれる。村の小学校(2006年3月廃校)を卒業後、医学を志し岡山県福渡の医師吉岡寛斎(吉岡弘毅の兄)のもとで2年修業した後、上京。 高木兼寛の紹介で、井上馨外務大臣の主治医などをしていた愛宕下田村町の医師松岡勇記の薬局生となる。高木らが設立した海軍軍医学校への進学を志し、試験に必要な英語を習得するため三田英語学校に通ったが、1883年より柔道を習えば無料で英語を学べることから神田神保町にあった嘉納治五郎の英語学校・弘文館に在籍し、講道館で柔道を学んだ。
渡辺 芳太郎(わたなべ よしたろう、慶応元年11月28日(1… 渡辺 芳太郎(わたなべ よしたろう、慶応元年11月28日(1866年1月14日) - 大正12年(1923年)9月23日)は、日本の冶金学者。 尾張国中島郡下祖父江村(現在の愛知県稲沢市)出身。1887年(明治20年)、東京帝国大学工科大学を卒業し、大学院に進んだ。三菱社に入社し、吉岡鉱山技術係、同副支配人を務めた。1894年(明治27年)、採鉱冶金学研究のためドイツに留学し、フライベルク鉱山大学に学んだ。1897年(明治30年)に帰国し、東京帝国大学工科大学教授となり、海軍機関学校教授や海軍大学校教授を兼ねた。1899年(明治32年)には工学博士の学位を得た。1906年(明治39年)、病のため退官。
若林 賚蔵(わかばやし らいぞう、1866年1月14日(慶応… 若林 賚蔵(わかばやし らいぞう、1866年1月14日(慶応元年11月28日)- 1941年(昭和16年)11月27日)は、明治から昭和前期の内務官僚、政治家。官選府県知事、貴族院議員。錦鶏間祗候。 村上藩士・若林安静の長男として越後国岩船郡三ノ町(現在・村上市村上)に生まれる。1893年(明治26年)に帝国大学法科大学を卒業。 1896年(明治29年)警視となり6月、警視庁小松川警察署長に就任、1897年4月、群馬県警察部長に就任。同年10月には沖縄県警察部長に転じ、その後警察監獄学校幹事、兼内務書記官、山形県・石川県の各書記官などを歴任。 1908年(明治41年)3月、島根県知事に就任するも、同年8月、招聘により大韓帝国警視総監となる。
作田 右手雄(さくた うたお、1866年1月12日 - 不明… 作田 右手雄(さくた うたお、1866年1月12日 - 不明)は、日本の裁判官。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
佐藤 友熊(さとう ともくま、1866年1月10日(慶応元年… 佐藤 友熊(さとう ともくま、1866年1月10日(慶応元年11月24日)- 1923年(大正12年)9月1日)は、明治から大正期の検察官、警察官僚。関東都督府警視総長、札幌区長。夏目漱石の友人。 薩摩国給黎郡喜入郷前之浜村(現鹿児島県鹿児島市喜入前之浜町)で、神官・佐藤彦松、比佐夫妻の長男として生まれる。1883年頃に上京し、東京大学予備門受験準備のため成立学舎に入り英語を学び、夏目漱石と交流。牛乳配達、新聞配達などをしながら学費を稼いだ。1884年9月、東京大学予備門予科に入学し、「成立学舎」の出身者らを中心に夏目漱石、中川小十郎、太田達人、中村是公、橋本左五郎らとともに「十人会」を組織した。
湯河 元臣(ゆかわ もとおみ、慶応元年11月24日(1866… 湯河 元臣(ゆかわ もとおみ、慶応元年11月24日(1866年1月10日) - 昭和7年(1932年)9月25日)は、日本の逓信官僚。 静岡県士族の後藤家に生まれ、湯河はまの養子となった。1884年(明治17年)に司法省法学校に入学し、1893年(明治26年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。逓信属となり、逓信事務官、高等海員審判所審判官、逓信書記官、逓信参事官、海事局長、高等海員審判所長、管船局長を歴任した。1914年(大正3年)、逓信次官に就任。 退任後は日本郵船株式会社取締役や近藤記念海事財団理事長などを務めた。