内海 忠勝(うつみ ただかつ、1843年9月12日〈天保14… 内海 忠勝(うつみ ただかつ、1843年9月12日〈天保14年8月19日〉- 1905年〈明治38年〉1月20日)は、日本の武士、官僚、政治家。内務大臣(第16代)、長崎県令、三重県令、兵庫県知事(第9代)、長野県知事(第2代)、神奈川県知事(第3代)、大阪府知事(第8代)、京都府知事(第8代)、会計検査院長、貴族院議員などを歴任。吉田治助の四男。長州藩士である。従三位勲三等、死後に従二位勲一等旭日大綬章。男爵。 周防国吉敷郡吉敷村(現在の山口県山口市)出身。長州藩士として禁門の変に参加。維新後新政府に登用され、岩倉使節団に大使随行員として参加。地方官として長崎、三重、兵庫、長野、神奈川、大阪、京都の各県令・知事を歴任。
大井 憲太郎(おおい けんたろう、天保14年8月10日(18… 大井 憲太郎(おおい けんたろう、天保14年8月10日(1843年9月3日) - 大正11年(1922年)10月15日)は、日本の政治家、弁護士、社会運動家。自由民権運動に携わり、衆議院議員を務めた。旧姓、高並。別名、馬場城二郎、馬城山人。 天保14年8月10日(1843年9月3日)に豊前国宇佐郡高並村(現在の大分県宇佐市)に農民・高並彦郎とサノの三男として出生。幼名は彦六。幼少から漢学の手ほどきを受け、文久3年(1863年)に、長崎で蘭学・英学を学び、大井卜新との知遇を得て、義兄弟となり、大井の名字を名乗る。更に江戸に出て仏学・化学を学ぶ。江戸幕府の開成所舎密局に出仕する。戊辰戦争では幕軍砲兵隊に属し官軍と戦う。
塚本 さと(つかもと さと、天保14年8月6日(1843年8… 塚本 さと(つかもと さと、天保14年8月6日(1843年8月30日) - 昭和3年(1928年)1月4日)は、明治時代から大正時代の教育者。近江商人の妻。名は里子とも。 塚本さとは、天保14年(1843年)に近江神崎郡川並村(現滋賀県東近江市五個荘川並町)の豪商初代塚本定右衛門の五女として誕生した。数え21歳の時に店の奉公人であった源三を婿に迎え塚本源三郎家を立て、近江商人の妻として5男3女を儲けた。さとは、「読み、書き、算盤」を寺子屋で学び、女子としての嗜みとして家庭で「裁縫、生け花、茶道」を学んだが、明治に入り新しい世の中の商家の妻として女子教育の大切さを痛感するようになっていた。『女子として時勢に順応すると共に、古来の美風と祖先の偉業を継承せしめるには、義務教育に加え、商業上の常識を養い、日常の業務に習熟させることが必要』との考えを持つようになった。
井上 勝(いのうえ まさる、天保14年8月1日(1843年8… 井上 勝(いのうえ まさる、天保14年8月1日(1843年8月25日) - 明治43年(1910年)8月2日)は、日本の幕末から明治にかけて活躍した武士(長州藩士)、官僚。正二位勲一等子爵。幼名は卯八(うのはち)、通称は弥吉(やきち)。鉄道発展に寄与し、日本の鉄道の父と呼ばれる。長州五傑の1人。ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン卒業。
西村 捨三(にしむら すてぞう、天保14年7月29日(184… 西村 捨三(にしむら すてぞう、天保14年7月29日(1843年8月24日) - 明治41年(1908年)1月14日)は、日本の武士、官僚、政治家。沖縄県令(第4代)、大阪府知事(第6代)、初代内務省警保局長などを務めた。
弘田 琢磨(ひろた たくま、1843年8月7日(天保14年7… 弘田 琢磨(ひろた たくま、1843年8月7日(天保14年7月12日) - 1920年(大正9年)2月12日)は、明治時代の教育家。 土佐国高岡郡押岡村(現:高知県須崎市)に生まれる。父は高知藩士の弘田潤造。 真面目な性格で、特に武技を好み激剣柔道の奥義を究めた。少壮藩に謹志して藩士の鼓舞教導に努めた。 戊辰戦争に従軍し、廃藩置県後、県立高知中学校が創立した際には教師となって漢文を教えた。厳格でよく生徒を諭し、多くの生徒から敬慕されていた。また、郷里の為に基金を投じ、学校を設立して子どもたちの教育に力を注いでいた。 山河を開拓して公園を作るなど公共事業に大きく貢献した。村町の人たちはこれを讃えて弘田公園と呼んだ。
朝倉 親為(親爲、あさくら ちかため、1843年7月12日(… 朝倉 親為(親爲、あさくら ちかため、1843年7月12日(天保14年6月15日)– 1901年(明治34年)5月9日)は、幕末の岡藩士、明治期の公吏・政治家・実業家。衆議院議員。 豊後国直入郡下木村(大分県直入郡会々村、豊岡村、竹田町、豊岡村(第二次)を経て現竹田市)で、岡藩士・朝倉親安の長男として生まれる。吟味見習を経て1865年(慶応元年)地方吟味役兼山林奉行となる。1869年(明治2年)岡藩租税司に就任。さらに郡尹補助、郡宰介、神社執事、刑法局管事、副検地司、山林司、少属などを務めた。廃藩置県により岡県が設置され、さらに大分県となり従前の事務取扱に任じられ、1872年(明治5年)大分県十四等出仕となる。
萩原 鐐太郎(はぎわら / はぎはら りょうたろう、1843… 萩原 鐐太郎(はぎわら / はぎはら りょうたろう、1843年7月2日(天保14年6月5日)- 1916年(大正5年)7月31日)は、明治から大正初期の養蚕家、篤農家、政治家。衆議院議員。 上野国碓氷郡東上磯部村(群馬県碓氷郡東上磯部村、磯部村東上磯部、磯部町、安中町を経て現安中市)で、豪農・萩原四郎左衛門、とま子の第二子(二男)として生れた。母が出産直後に死去したため、代々里正を務める家の叔父・萩原弥左衛門の養子となる。佐々木愚山に師事し和漢の群書を学び、山口藤十郎に剣術を、水戸藩士・黒田健之助に柔術・居合を学んだ。 1858年(安政5年)養父の死去に伴い家督を相続し、同年7月11日(6月1日)里正に就任した。
岡村 為蔵(おかむら ためぞう、天保14年5月25日〈184… 岡村 為蔵(おかむら ためぞう、天保14年5月25日〈1843年6月22日〉 - 1915年〈大正4年〉2月21日)は、幕末期の桑名藩士、明治時代の司法官僚、大審院判事。 越後国山室(現在の新潟県柏崎市)に、行田常冶改め常左衛門の次男として生まれ、まもなく山室の庄屋岡村家第14代権之丞の娘と入婿して岡村家を継ぐ。14歳で庄屋見習。慶応3年(1867年)桑名藩柏崎陣屋から郡中取締役を申し付けられ、その年の6月には一代苗字帯刀を許され武士となる。桑名藩が戊辰戦争で鯨波戦争を最後に敗走し、新政府が柏崎民政局を置くと、民政局御用掛となり、敗戦処理の経験を買われて会津戦争の戦後処理のため、若松県に2年出向。
渡辺 千秋(わたなべ ちあき、旧字体: 渡邊 千秋、1843… 渡辺 千秋(わたなべ ちあき、旧字体: 渡邊 千秋、1843年6月17日〈天保14年5月20日〉- 1921年〈大正10年〉8月27日)は、明治・大正期の日本の官僚。位階・勲等・爵位は、正二位勲一等伯爵。 信濃国諏訪郡東堀村(現:長野県岡谷市)に諏訪高島藩の下級武士・渡辺斧蔵政徳の子として生まれる。楓関と号する。生家は、岡谷市長地柴宮に「旧渡辺家住宅」(県宝指定)として保存されている。 明治維新後、鹿児島県大書記官・北海道庁長官などを歴任する。大久保利通の計らいで宮内省に奉職し、内蔵頭・宮内次官の後、1910年(明治43年)4月には宮内大臣に就任する。1911年(明治44年)4月、朝鮮併合の功により伯爵になるも、渡辺に何の関係があるのかと疑を生じ、井上馨も大いに憤慨する。
伊東 祐亨(いとう すけゆき/ゆうこう、1843年6月17日… 伊東 祐亨(いとう すけゆき/ゆうこう、1843年6月17日〈天保14年5月20日〉- 1914年〈大正3年〉1月16日)は、日本の海軍軍人。元帥海軍大将従一位大勲位功一級伯爵。初代連合艦隊司令長官を務めた。通称は四郎左衛門、四郎。号は碧海。家紋は庵木瓜。 薩摩藩士・伊東祐典の四男として鹿児島城下清水馬場町に生まれる。飫肥藩主・伊東氏に連なる名門の出身である(伊東祐安の養子で弟の右衛門の子孫という)。開成所にてイギリスの学問を学んだ。当時、イギリスは世界でも有数の海軍力を擁していたため、このとき、祐亨は海軍に興味を持ったと言われている。江川英龍のもとでは砲術を学び、勝海舟の神戸海軍操練所では塾頭の坂本龍馬、陸奥宗光らと共に航海術を学ぶ。
髙梨 正助(たかなし しょうすけ、1843年6月12日(天保… 髙梨 正助(たかなし しょうすけ、1843年6月12日(天保14年5月15日)- 1925年(大正14年)7月18日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員、千葉県会議長、千葉県夷隅郡東村長。 上総国夷隅郡佐室村(千葉県夷隅郡佐室村、東村佐室、大原町を経て現いすみ市佐室)で、農業・髙梨正作、モトの長男として生まれる。堀江文同に師事し漢学を修めた。1867年(慶応3年)組頭、名主に就任。1869年(明治2年)から1879年(明治12年)まで、宮谷県、木更津県、千葉県の捕亡掛、第6大区副区長、同戸長を歴任した。この間、自由民権運動に加わり、1879年、以文会の発会式に参加した。 1880年(明治13年)1月、補欠選挙で千葉県会議員に選出され、1891年(明治24年)11月まで在任し、この間、同副議長(1889年11月-1890年10月)、同議長(1890年10月-1891年11月)を務めた。
8代 式守 伊之助(はちだい しきもり いのすけ、天保14年… 8代 式守 伊之助(はちだい しきもり いのすけ、天保14年5月14日(1843年6月11日) - 明治30年(1897年)12月18日)は、大相撲の立行司。本名は後藤文次郎(与太夫)。出身地は現在の岩手県北上市。 6代式守伊之助の弟子。初代の式守錦太夫で、安政3年(1856年)11月に初めて番付に載る。明治4年(1871年)3月に3代式守与太夫を襲名し、地道に昇進していった。明治17年(1884年)5月に8代式守伊之助を襲名。1年後に次席となった。堅実な軍配裁きに定評があった。明治30年(1897年)12月18日死去した。享年54。墓所は東京都江東区の万徳院。 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。
四代目 滝 兵右衛門(たき へいえもん/ひょうえもん、瀧 兵… 四代目 滝 兵右衛門(たき へいえもん/ひょうえもん、瀧 兵右衛門、1843年6月11日(天保14年5月14日) - 1918年(大正7年)1月27日)は、明治から大正時代前期の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。タキヒヨーの始祖。 尾張国丹羽郡東野村(現・愛知県江南市)出身。1875年(明治8年)名古屋へ進出し、先代が築いた呉服太物商絹兵を拡張し滝兵右衛門商店とした。さらに京都、東京に支店を出し1912年(大正元年)11月滝兵商店(現タキヒヨー)を組織した。 ほか、名古屋銀行頭取、愛知織物、帝国撚糸各社長、尾張紡績取締役、関西鉄道監査役、名古屋市参事会員、同市会議員などを歴任した。1897年(明治30年)愛知県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1904年(明治37年)9月28日まで在任した。
篠 民三(しの たみぞう、1843年5月(天保14年4月)-… 篠 民三(しの たみぞう、1843年5月(天保14年4月)- 1910年(明治43年)8月28日)は、明治期の漁業家、実業家、政治家。衆議院議員。 陸奥国閉伊郡浦鍬ヶ崎村(岩手県閉伊郡浦鍬ヶ崎村、東閉伊郡浦鍬ヶ崎村、鍬ヶ崎町、下閉伊郡鍬ヶ崎町、宮古町を経て現宮古市鍬ヶ崎)で、徳三郎の長男として生まれた。独学で学問を修めた。 1878年(明治11年)汽船を用いて天然氷40トンを初めて東北から東京へ輸送することに成功。1880年(明治13年)閉伊川沿岸埋立工事を計画し、3年間の工期で切通しを開削して交通の利便性を向上させた。1882年(明治15年)宮古湾漁業会社を設立して、鮭建網、鮭留網の新漁場を開いた。
大道 長安(だいどう ちょうあん、おおみち ちょうあん、18… 大道 長安(だいどう ちょうあん、おおみち ちょうあん、1843年4月30日(天保14年4月1日)- 1908年(明治41年)6月15日)は、明治期の曹洞宗の僧。救世教の祖。初め機外禅透と号したが、のち大道長安。救世教を開いてからは救世仁者とも号した。越後国(新潟県)出身。 蒲原郡新発田(新発田市)の本田文八の次男として生まれる。幕末の1848年(嘉永元年)越後国長岡の曹洞宗長興寺で得度し、1854年(安政元年)長興寺の兄弟子である大雲寺・柏庭大樹に師事し、その養子となった。駒込吉祥寺旃檀林(今の駒澤大学)に学ぶ。 明治維新後の1873年(明治6年)大樹のあとを受けて岡山県津山・長安寺の住職となり「大道山長安寺」から大道長安に改名。
鈴木 信教(すずき しんきょう、1843年4月23日(天保1… 鈴木 信教(すずき しんきょう、1843年4月23日(天保14年3月24日) - 1892年(明治25年)10月2日)は幕末から明治初期の僧、社会事業家。孤児や貧しい子供たちの養育などで知られ、育てた子供の数は200人とも言われる。 1843年(天保14年)、出羽国村山郡(後の山形県東村山郡大郷村、現・山形市)生まれ。7歳で出家して陸奥国安達郡大玉村(現・福島県大玉村)の相応寺で修行、13歳からは京都の智積院で修行、その後は安達郡岩代町(現・二本松市)の東福寺、次いで息王寺の住職となり、1868年(明治元年)からは安積郡郡山町(現・福島県郡山市)の如宝寺の住職となる。 当時の郡山地域は戊辰戦争などで荒れ果てており、生まれたばかりの子供を育てられない家庭も多かったため、そうした子どもたちを引き取り、寺にて自費で育てて教育したり、「門前縞」という織物を教えたという。
有地 品之允(ありち しなのじょう、1843年4月14日〈天… 有地 品之允(ありち しなのじょう、1843年4月14日〈天保14年3月15日〉- 1919年〈大正8年〉1月17日)は、日本の陸軍軍人、海軍軍人、華族、政治家。貴族院議員、第2代連合艦隊司令長官。爵位は男爵。最終階級は海軍中将。別名は信政。 長州藩士で武術指南役を務め、禄高1千石の大身である有地信敏(通称は藤馬)の長男として生まれる。戊辰戦争では干城隊士として奥羽に出陣した。 明治2年(1869年)から同4年(1871年)まで欧州へ出張して普仏戦争を視察。帰国後に陸軍少佐、御親兵6番大隊長となり、同年から明治6年(1873年)まで侍従を務める。同年に海軍に転じ、海軍少佐となって提督府分課に勤務。
小野寺 順太(おのでら じゅんた、1843年4月12日(天保… 小野寺 順太(おのでら じゅんた、1843年4月12日(天保14年3月13日) - 1910年(明治43年)7月22日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(1期)。通称は友直。 大組頭小野寺惣三郎の長男として出羽鶴岡藩領飽海郡飛鳥村(山形県飽海郡南平田村、平田村、平田町を経て現酒田市)に生まれる。1868年(明治元年)家督を相続し肝煎、ついで戸長となり、1882年(明治15年)から1902年(明治35年)まで20年間に渡り山形県会議員を務めた。1902年(明治35年)8月の第7回衆議院議員総選挙では山形県郡部から憲政本党所属で出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。 この間、区書記兼村長、学務委員、町村連合会議員、山形県参事会員、南平田村会議員、飽海郡会議員、同議長、郡教育会議員、地方森林会議員など多くの公職を歴任した。
先代塩田 忠左衛門(しおた ちゅうざえもん、旧字体: 鹽田 … 先代塩田 忠左衛門(しおた ちゅうざえもん、旧字体: 鹽田 忠左衞門、1843年2月27日〈天保14年1月29日〉 - 1925年〈大正14年〉9月23日)は、日本の政治家、実業家、資産家、大地主、香川県多額納税者。衆議院議員(香川県第五区選出、当選1回)。西讃銀行取締役。族籍は香川県平民。 讃岐国三野郡仁尾村(現・香川県三豊市)に生まれた。忠左衛門の長男。早くから家庭の薫陶を受け、また金光寺信元に就いて漢籍を修めた。商業を営んだ。 1874年、三野郡仁尾村学務委員となり、それ以来仁尾村会議員、三野豊田郡地位等級会議員、香川県会議員、仁尾村勧業世話係、仁尾村第六聯合会長、仁尾村家の浦聯合会議員、仁尾尋常小学校建築委員長、仁尾村長等の各公職に就任。
網野 善右衛門(あみの ぜんえもん、1843年2月9日(天保… 網野 善右衛門(あみの ぜんえもん、1843年2月9日(天保14年1月11日) - 1926年(大正15年)4月18日)は、明治時代の政治家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 雨宮彦兵衛の二男として甲斐国東八代郡祝村(現・山梨県甲州市)に生まれる。1865年(慶応元年)同郡錦村の網野治郎右衛門の養子となり、1870年(明治3年)2月、家督を相続する。1872年(明治5年)11月、同村戸長に就任し、ついで八代郡第四区第五区蚕種製造世話掛、錦村副戸長、八代郡第五区長兼学区取締役、学区取締総理、学事会員嘱託を経て、1882年(明治15年)9月に錦村村会議員に当選した。 1884年(明治17年)9月、東八代郡錦生学校教育連合会議員に転じ、英村錦村所得税調査委員、東八代郡会議員、同郡参事会員、同郡所得税調査委員補欠などを経て、1902年(明治35年)1月、山梨県多額納税者として補欠選挙で貴族院議員に互選され、同年1月10日から1904年(明治37年)9月28日まで在任した。
安保 清康(あぼ きよやす、1843年1月30日(天保14年… 安保 清康(あぼ きよやす、1843年1月30日(天保14年1月1日) - 1909年10月27日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。男爵。旧姓は林。通称は謙三。海軍の先覚者の一人。 備後国御調郡向島西村(現在の広島県尾道市)の医師・林金十郎の四男として生れる。12歳で広島に出て漢学、医学を学ぶ。1860年、長崎で医学を学び、英国軍艦に乗組んで二年間軍学を学んだ。1865年何礼之が開設した私塾で前島密らとともに学ぶ。 薩摩藩の講師として招かれた前島に誘われ薩摩藩へ移る。1866年、小松清廉、西郷隆盛に請われ薩摩藩の海軍養成に携わる。1867年薩摩藩に軍艦「春日丸」を購入するよう島津久光に進言。
蛯子 末次郎(えびこ すえじろう、天保13年12月27日(1… 蛯子 末次郎(えびこ すえじろう、天保13年12月27日(1843年1月27日) - 大正元年(1912年)8月29日)は、幕末から明治期の日本の航海者。函館大経・深瀬鴻堂と共に「函館三士」と称される。 天保13年12月27日(1843年1月27日)、箱館に生まれる。箱館の諸術調所で蘭学者・武田斐三郎より航海術を学び、箱館奉行企画の黒竜江出貿易及び上海出貿易航海で測量方を務めた。 大政奉還後の明治5年(1872年)正月、開拓使御用掛に任ぜられ「樺戸丸」の船長となる。その際に開拓長官・黒田清隆の指示で航海に際しての旗印として夜空に赤く光る北極星をイメージした「北辰旗」をデザインし、この旗印は1882年まで開拓使のシンボルとして使用された。
千葉 胤昌(ちば たねまさ、1843年1月11日(天保13年… 千葉 胤昌(ちば たねまさ、1843年1月11日(天保13年12月11日)- 1914年(大正3年)1月11日)は、明治期の公吏、農業経営者、政治家。衆議院議員。幼名・丹三郎。 陸奥国栗原郡文字村上葛峰(宮城県栗原郡文字村、栗駒町を経て現栗原市栗駒文字)で、素封家・千葉忠蔵の長男として生まれた。農業を営む。 1870年(明治3年)水沢県附属に就任し同年12月に辞職。1873年(明治6年)7月、水沢県第6大区学区取締掛に任じられ、1874年(明治7年)8月に廃職となる。 1877年(明治10年)県会の前身である共議会議員に就任。1879年(明治12年)1月、宮城県会議員に選出され1890年(明治23年)2月まで3期在任し、常置委員も3期務めた。
下郷 久道(しもごう ひさみち、1843年1月7日(天保13… 下郷 久道(しもごう ひさみち、1843年1月7日(天保13年12月7日) - 1898年(明治31年)5月19日)は、明治時代の政治家。実業家。貴族院多額納税者議員。 近江国坂田郡長浜(現・滋賀県長浜市)出身。1876年(明治9年)以降、南新町副戸長、同戸長、長浜町会議員のほか、大阪製紙抄造場、近江製糸所などを経営した。 1890年(明治23年)滋賀県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1897年(明治30年)9月28日まで務めた。
山田 省三郎(やまだ しょうざぶろう、1843年1月5日(天… 山田 省三郎(やまだ しょうざぶろう、1843年1月5日(天保13年12月5日)- 1916年(大正5年)3月8日)は日本の政治家。 衆議院議員。現在の東海地方を代表する木曽三川の水害対策(木曽三川分流工事)に翻弄し、生涯を治水に捧げた人物。 1929年(昭和4年)、岐阜公園に像高2m余の台座付きの銅像が建立された。後に、太平洋戦争時の金属類回収令より撤去。 1957年(昭和32年)、岐阜市内の長良川金華橋近くの四ッ屋公園に顕彰記念碑が立てられ、現在も存在する。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
逸見 宗助(へんみ そうすけ、1843年〈天保14年〉 - … 逸見 宗助(へんみ そうすけ、1843年〈天保14年〉 - 1894年〈明治27年〉)は、幕末から明治の武士、剣術家、警察官。 生年は1834年(天保5年)ともいわれる。佐倉藩藩士・逸見信敬(立身流第17代宗家)の子として生まれ、家伝の立身流を修行する。立身流は袋竹刀で打ち合う古式の剣法であったが、江戸で竹刀防具を用いる撃剣試合が盛んになると、佐倉藩も1850年(嘉永3年)に他流試合を許し、北辰一刀流や鏡新明智流などを招いて学んだ。鏡新明智流からは高弟の上田馬之助が来て、逸見は上田の指導を受けた。 1860年(万延元年)、父より立身流居合目録を受ける。父の計らいで藩から剣術留学の許しを得て、1861年(万延2年)に江戸に出て、鏡新明智流士学館道場を主として1年間撃剣を修行。
原 豊穣(はら ほうじょう、1843年(天保14年) - 1… 原 豊穣(はら ほうじょう、1843年(天保14年) - 1917年(大正6年))は、日本の政治家。南多摩郡長および八王子町長を務めた。 1843年に武蔵国多摩郡調布の上布田村(現在の東京都調布市)で生まれる。幼名は泰輔。1880年4月、神奈川県勧業課御用掛になる。1882年6月、南多摩郡長に就任。1886年に愛甲郡長になる。1891年11月、再び南多摩郡長に就任。1893年に南多摩郡は神奈川県から東京府になる。1897年に郡長を辞任。1900年4月、八王子町長に就任し、1901年3月辞任。 豊穣は1870年から1913年まで日記を書いており、調布市で公開されている(ただし、1889年 - 1912年10月は空白になっている)。
久光 与市(ひさみつ よいち、1843年(天保14年)- 1… 久光 与市(ひさみつ よいち、1843年(天保14年)- 1913年(大正2年))は、日本の実業家・起業家。久光常英堂(久光製薬の前身)の代表者である。 肥前国基肄郡田代村(現・佐賀県鳥栖市)出身。小松屋(現・久光製薬)の創業者である久光仁平の長男として生まれる。新しい薬の開発に力を注ぎ、1869年(明治2年)に健胃清涼剤「奇神丹(きしんたん)」を発売する。日清戦争の際に出征する兵士に販売し、そのことを契機として軍用薬に指定され業績を大いに伸ばしていった。 1871年(明治4年)、仁平より家業を譲り受ける。小松屋を「久光常英堂」と改称する。1881年(明治14年)、田代村で起こった大火に巻き込まれ久光常英堂も全焼したため、養父郡轟木村大字鳥栖字三角屋(現・鳥栖市)の徳渕家に身を寄せながら行商を続けた。
海老名 季昌(えびな すえまさ/えびな としまさ、1843年… 海老名 季昌(えびな すえまさ/えびな としまさ、1843年(天保14年)- 1914年(大正3年)8月23日)は、幕末の会津藩家老。明治時代の警察官、地方官吏である。幼名秀次郎、通称郡治。郡次とも表記される。 父は海老名季久。海老名家は家禄250石であった。季久は1851年(嘉永4年)房総半島の警備を命じられた会津藩の軍事奉行として出動。その後品川砲台(金杉陣屋)、蝦夷地警備でも軍事奉行として活躍した。海老名は父と行動を共にし、ペリー来航の際は、父に貰った陣羽織を手に開戦に備えていた。 幼少の頃は天然痘に罹患するなど、3度も死に瀕する重病を患った。安政の大地震の際は歩行もできなくなっていた。弓馬刀槍に加え砲術、儒学と厳しい教育に耐え切れず、家出を図ったことさえあったという。
足立 孫六(あだち まごろく、1843年(天保14年9月) … 足立 孫六(あだち まごろく、1843年(天保14年9月) - 1911年(明治44年)7月27日)は、明治時代の政治家。衆議院議員(2期)。 遠江国城東郡丹野村(静岡県城東郡川野村、小笠郡川野村、小笠村、小笠町を経て現菊川市)の三橋家に生まれ、周智郡平宇村(山科村、山梨村、山梨町を経て現袋井市)の足立家の養子になる。和漢学を学ぶ。1873年(明治6年)浜松県第二大区小区長となるが、1875年(明治8年)凶荒に際し減租を訴え県官と対立し罷免された。この頃、協同会を結成し小作米基準地価算定論や公選民会開設論を展開した。1876年(明治9年)2月、浜松県15等出仕、同年6月、権少属として民会係となり、浜松県民会設立に尽くした。
浅部 和七郎(あさべ わしちろう、1843年 - 1883年… 浅部 和七郎(あさべ わしちろう、1843年 - 1883年11月22日)は、岡山県窪屋郡子位庄(現・倉敷市)出身の実業家。 1843年、窪屋郡小位庄で生まれる。叔父である忠義と木綿栽培、材木業、漁業を営んでいたが成功しなかった。 1876年、開業資金を得て、廃坑となっていた中庄村の猿曳山銅山の再掘を始める。出費がかさむ事から、採掘事業は解散したが、和七郎一人踏みとどまり、新抗を試みていたところ鉱脈に接することに成功した。 また、早島村金田山廃坑の再掘を開始。多くの銅鉱を採掘し、巨額の富を得た。 巨額の利益を得たことから、数十町の田畑を買い、更に船舶を買い、海運業を始めた。 1883年11月22日、病で死去。
勝ノ浦 与一右エ門(かつのうら よいちえもん、1843年〈天… 勝ノ浦 与一右エ門(かつのうら よいちえもん、1843年〈天保14年〉 - 1888年〈明治21年〉7月22日)は、勝ノ浦部屋及び境川部屋に所属した力士。 本名は吉井→川島 力之助。身長162cm,体重105kg(成人時)。出身地は現在の千葉県山武市(旧・上総国武射郡)。 最高位は東前頭筆頭。 農家の次男として出生。子供の時から体格が大きく、怪童力士として1850年11月に初土俵を踏んだ。当時数え8歳で、121cm,68kgあったと伝わる。嘉永年間は土俵入りのみだった(番付上は西張出前頭。当時の四股名は鬼若力之助だった)が、1860年10月に序ノ口として相撲を取り始めた。最初は苦労したが、明治に入って力を付け始め、1870年4月に十両昇進(西二段目7枚目となり十両相当となった)。
吉田 常三郎(よしだ つねさぶろう、1843年(天保14年1… 吉田 常三郎(よしだ つねさぶろう、1843年(天保14年1月) - 1918年(大正7年)5月23日)は、明治から大正時代の政治家。銀行家。衆議院議員。岐阜県武儀郡吉田村長。 美濃国武儀郡吉田村(岐阜県武儀郡関町を経て現関市)出身。漢学を修める。 戸長、地租改正地価監定役、岐阜県会議員、武儀郡学務委員、郡書記、郡徴兵参事員、吉田村長、所得税調査委員、吉田村会議員となる。ほか、吉田倉庫銀行頭取、上有知銀行取締役を歴任した。 1894年(明治27年)9月の第4回衆議院議員総選挙では岐阜県第5区から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
大纒 長吉(おおまとい ちょうきち、1843年(天保14年)… 大纒 長吉(おおまとい ちょうきち、1843年(天保14年) - 1889年(明治22年)12月2日)は、現在の東京都出身で玉垣部屋に所属した大相撲力士。本名は竹馬 長吉。7代出来山。最高位は関脇。 実家は神田の蕎麦屋で、幼少期から体が大きく、玉垣部屋に入門。1856年(安政3年)1月に怪童力士として1場所だけ番付に載り、土俵入りをつとめた。翌1857年(安政4年)に角界に入り直し、11月場所で序ノ口に就いた。1867年(慶応3年)に入幕し、同期、同時入幕の境川浪右衛門(のち横綱)と出世を争い、その取組は人気を集めた。番付を順調に上げ、1869年(明治2年)4月に小結に昇進、8年に渡って三役の座を維持し、1871年(明治4年)3月関脇に昇進した。
小柳 卯三郎(おやなぎ / こやなぎ うさぶろう、1843年… 小柳 卯三郎(おやなぎ / こやなぎ うさぶろう、1843年(天保14年3月)- 1915年9月6日)は、幕末の庄屋、明治期の政治家。衆議院議員、新潟県西蒲原郡小吉村長。大河津分水路建設の功労者。 越後国蒲原郡東中村(現:新潟市西蒲区東中)で庄屋の家に生まれる。長善館で漢学を学び、京阪地方を遊学。15歳で家督を相続した。 明治2年(1969年)大河津分水路工事用弁掛に就任。その後、新潟県会議員、小吉村長などを歴任。1880年、国会開設懇望協議会で国会開設懇望上申書の起草委員、同本部長に就任。西蒲原郡自由党を組織し、北辰自由党理事、越佐同盟会評議員などを務め、山際七司を補佐して県内の自由民権運動などを推進した。
梅津 喜八(うめづ きはち、1843年(天保14年2月)- … 梅津 喜八(うめづ きはち、1843年(天保14年2月)- 1909年(明治42年)2月26日)は、明治時代の政治家、実業家。貴族院多額納税者議員。 沿岸部との交易により一代で財を成した花巻の豪商。大地主として小間物商、薬種商を営んだ。1879年(明治12年)岩手県会議員に当選。ほか、花巻銀行取締役、稗貫郡花巻川口町会議員、同郡会議員などを歴任した。 1908年(明治41年)岩手県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年10月2日から務めたが、在任中に死去した。小学校の教科書を出版するなど教育振興にも務めた。
小森沢 長政(こもりさわ ながまさ、1843年(天保14年)… 小森沢 長政(こもりさわ ながまさ、1843年(天保14年) - 1917年(大正6年)3月13日)は、幕末の米沢藩士、明治期の海軍法務官。初期海軍の法制度確立に努め、海軍省法務部長に至る。また郷里の後進を海軍に勧誘し、米沢海軍の祖とされる人物である。米沢有為会第二代会長。 旧名は宮島琢蔵。父は米沢藩右筆・宮島吉利、兄は宮島誠一郎である。 明治維新後に米沢藩少属となり、次いで兵部省海軍所文官に採用され、海軍省発足とともに海軍大録に任じられた。小森沢の海軍入りは兄の宮島誠一郎と親しかった勝海舟の影響があったともいわれる。 長く海軍大臣を務めた西郷従道の知己を得たといわれ、1877年(明治10年)太政官権大書記官、翌年には海軍大書記官を兼ねる。
小間 粛(こま しく、1843年(天保14年8月) - 19… 小間 粛(こま しく、1843年(天保14年8月) - 1900年(明治33年)12月1日)は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。 1843年(天保14年)8月 能登国鳳至郡清水村の藤九郎の次男に生まれる。父は加賀藩の寺社奉行であった。小間は藩校に学び漢学を修め、藩から山廻役を命ぜられていた。廃藩後は養蚕業を営み、製糸工場を経営した。その一方で戸長を務めのちに門前小学校で訓導や珠洲郡書記も務めた。1879年県会議員選挙に鳳至郡選挙区から出馬し当選、以後当選を重ねる。1883年2月には盈進社発起の北陸道有志大懇談会に参加し、1884年の県会では河瀬貫一郎に反対の立場をとったが同志少なく主導権を握ることはできなかった。
山崎 豊(やまざき ゆたか、1831年12月21日(天保2年… 山崎 豊(やまざき ゆたか、1831年12月21日(天保2年11月18日) - 1912年(明治45年)2月25日)は、幕末から明治時代の実業家。 天保2年(1831年)11月18日、武蔵国川越(現在の埼玉県川越市)に生まれる。幼名は文次郎。生家は志義町(現在の仲町)で菓子商を営む山崎家で、初代の山崎嘉七が信州中野(現在の長野県中野市)から川越に出て、天明3年(1783年)に和菓子店・亀屋を創業した。以来、武蔵国川越藩の御用達となった。 山崎家は代々「嘉七」を襲名し、文次郎はその4代目であった。15歳で江戸西久保の壺屋に修業し、亀屋を江戸風の洗練された和菓子商店に変革した。文久2年(1862年)7月に父である先代嘉七が死去すると、文次郎は家督を相続し4代目嘉七を襲名した。
巌谷 龍一(いわや りゅういち、天保元年12月〈1831年〉… 巌谷 龍一(いわや りゅういち、天保元年12月〈1831年〉 - 1900年〈明治33年〉5月24日)は、日本の裁判官・陸軍軍人。肥前国武雄出身の佐賀県士族。号を玄龍という。巌谷竜一。 天保元年12月(1831年)、肥前国武雄に生まれる。幼少より武雄の医師・清水宗庵に師事して医学を志すが、のちに脱藩して京都へ上り、苦学のかたわら夜陰に按摩や阿呆陀羅経を語って学資を得たという。京都の町で高杉晋作と行き逢って意気投合し、のち長州に赴いて井上馨らと交わり、大村益次郎に蘭語を学んで洋式兵学を研鑽したと伝わる。 幕末に帰郷し、領主鍋島茂昌により身教館の監督と洋式兵術の指南を命ぜられる。戊辰戦争では茂昌に従い、武雄軍団参謀として秋田方面に出征し武雄藩の軍功に寄与した。
小野 五平(おの ごへい、天保2年10月6日(1831年11… 小野 五平(おの ごへい、天保2年10月6日(1831年11月9日) - 大正10年(1921年)1月29日)は、江戸時代から明治・大正時代にかけての将棋指し・将棋棋士、十二世名人。通説では天野宗歩門下とされるが十一代大橋宗桂門下とすることもある。日本将棋連盟ではウェブサイト上の小野の紹介記事において通説は天野門下説であるとした上で大橋門下説を採っていたが、現在該当ページは削除されており、棋士系統図においても小野の師匠の欄は空欄としている。 1831年(天保2年)、阿波国美馬郡脇町(現在の徳島県美馬市)の旅籠の長男として生まれる。青年時代までは「土井喜太郎」を名乗っていた。 1846年(弘化3年)、皮膚病の治療のため有馬の温泉に滞在中、天野宗歩の門下とされる長崎出身の三段格の棋士(氏名不詳)に見いだされる。
吉田 耕平(よしだ こうへい、1831年10月15日(天保2… 吉田 耕平(よしだ こうへい、1831年10月15日(天保2年9月10日) - 1905年(明治38年)6月4日)は、明治時代の政治家、銀行家。衆議院議員(1期)。 吉田詠甫の子として美濃高須藩領石津郡高須町(岐阜県下石津郡高須町、海津郡高須町、海津町を経て現海津市)に生まれる。漢学、和歌、茶道を修める。学区取締、地租改正掛を経て、1879年(明治12年)4月、岐阜県会議員に当選。同議長を歴任し、1881年(明治14年)1月、病のため辞した。その後、1884年(明治17年)に再び県議となった。ほか、第七十六国立銀行を興し同頭取を務めた。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では岐阜県第3区から出馬し当選。
海部 ハナ(かいふ ハナ、1831年9月16日(天保2年8月… 海部 ハナ(かいふ ハナ、1831年9月16日(天保2年8月11日) - 1919年(大正8年)6月30日)は、日本の染織家。阿波しじら織の創始者。 阿波国那賀郡平易村(現徳島県阿南市横見町)出身。幼い頃から機織りを得意とし、25歳のときに名東郡安宅村(徳島市安宅)の差し物大工・海部勝蔵に嫁いだ。嫁いでからも農業の傍ら内職として機織りをして家計を助けていた。その後、1866年(慶応2年)に阿波しじら織を創案し、各地で開かれる供進会、博覧会などに出品し、数多くの表彰を受けた。 しじら織は安部重兵衛らの宣伝と販売により有力な地場産業に発展した。また徳島市眉山町大滝山(眉山)には阿波しじら創製紀功碑が建てられている。
福羽 美静(ふくば びせい(「よししず」とも)、天保2年7月… 福羽 美静(ふくば びせい(「よししず」とも)、天保2年7月17日(1831年8月24日) - 明治40年(1907年)8月14日)は、日本の国学者・宮内官僚。通称は「文三郎」、号は「木園」、「硯堂」。 1831年(天保2年)、津和野藩士・福羽美質の長男として生まれた。幼少の頃に軽業(かるわざ、曲芸)師の真似をしようとして綱渡りをした際に誤って転落、腰部の関節を挫傷したために身長が伸びず、大人になっても5尺(約151.5cm)に満たなかったといわれる。父の友人から諭されて勉学に励み、1849年、19歳で藩校・養老館に入学して漢学や山鹿流兵学を学んだ。また荒木田守武の和歌に感銘を受け、歌道にも精進した。
印南 丈作(いんなみ じょうさく、1831年8月23日(天保… 印南 丈作(いんなみ じょうさく、1831年8月23日(天保2年7月16日) - 1888年(明治21年)1月7日)は、江戸期及び明治期の実業家。矢板武とともに那須野が原開拓の功労者として知られる。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
伊藤 房次郎(いとう ふさじろう、1831年8月12日〈天保… 伊藤 房次郎(いとう ふさじろう、1831年8月12日〈天保2年7月5日〉 - 1907年〈明治40年〉2月3日)は、日本の実業家・地方政治家。山口県赤間関市(現・下関市)の初代市長。慶長から代々薬種商を営む亀屋伊藤家の当主。 下関市成立期において公職・要職を歴任。商業活動、地方自治、商工会、社会事業など、老舗の家業運営と並行し多方面で活動。地域社会の行政・経済に広く携わった人物である。 伊藤房次郎は、山口県出身。山口市中市古熊・河野善九郎の次男。伊藤源左衛門の養子となり、薬種商の老舗「亀屋喜三郎商店」の家督を相続。当家は鎌倉時代の嘉禎年間に、祖先が長門國目代として京都から下向したことに始まり、慶長から薬舗を開業したと伝わる亀屋伊藤家である 1863年(文久3年)攘夷の令にあたり、赤間関在番所の用務を任命される。
井上 高格(いのうえ たかのり/こうかく、1831年7月19… 井上 高格(いのうえ たかのり/こうかく、1831年7月19日(天保2年6月11日) - 1893年(明治26年)4月24日)は、日本の政治家。初代徳島市長。徳島藩士。阿波国名東郡徳島(現・徳島県徳島市大岡本町・渭北地区)出身。次男は英語学者の井上十吉。玄孫は歌手の井上真紀。 1831年に徳島藩士である井上高超の嫡子として生まれる。その後、家督を相続、徳島藩の目付を務める。そのすぐ後に京都にて長州藩士らと交わり、尊王攘夷運動に参加。徳島に戻り、14代藩主である蜂須賀茂韶の下で力を発揮する。 1871年に徳島県の大参事に抜擢。1874年に後の徳島市長である一坂俊太郎らと共に自由民権運動を訴える「自助社」を結成し代表となる。
入沢 恭平(いりさわ きょうへい、旧字体: 入澤 恭平 18… 入沢 恭平(いりさわ きょうへい、旧字体: 入澤 恭平 1831年7月18日(天保2年6月10日) - 1874年(明治7年)1月10日)は、幕末・明治初期の在野の洋方医教育者、陸軍軍医。 幼名は恭助、字は尊典、号は松塢。初代東京帝国大学医学部綜理(初代の東京大学医学部長に相当)である池田謙齊の兄。入沢達吉は息子。 越後国蒲原郡中之島村西野(現・新潟県長岡市)に生まれる。蘭方医学者が縁戚に複数いたことで医学を志した(弟の池田謙斎も同様)。江戸に出て蘭医学者の戸塚静海と土生玄昌に教えを受ける。その後、万延元年(1860年)に長崎に赴いて、ポンペから医学を教授された。この長崎滞在中に記した日記が残されている。
河鍋 暁斎(かわなべ きょうさい、1831年5月18日〈天保… 河鍋 暁斎(かわなべ きょうさい、1831年5月18日〈天保2年4月7日〉 - 1889年〈明治22年〉4月26日)は、幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師、日本画家。号は「ぎょうさい」とは読まず「きょうさい」と読む。それ以前の「狂斎」の号の「狂」を「暁」に改めたものである。 明治3年(1870年)に筆禍事件で捕えられたこともあるほどの反骨精神の持ち主で、多くの戯画や風刺画を残している。狩野派の流れを受けているが、他の流派・画法も貪欲に取り入れ、自らを「画鬼」と称した。 天保2年(1831年)、下総国古河石町(現茨城県古河市中央町2丁目)にて、河鍋記右衛門ときよの次男として生まれる。父は古河の米穀商亀屋の次男の生まれで、古河藩士・河鍋喜太夫信正の養嗣子で、母は浜田藩松平家の藩士三田某の娘。