松平 親義(まつだいら ちかよし、1904年(明治37年)8… 松平 親義(まつだいら ちかよし、1904年(明治37年)8月16日 - 1968年(昭和43年)3月16日)は、昭和期の法学者、政治家、華族。貴族院子爵議員。 子爵・松平親信の長男として生まれる。父の死去に伴い、1915年(大正4年)1月11日、子爵を襲爵した。 1925年(大正14年)学習院高等科を卒業し、1928年(昭和3年)東京帝国大学法学部を卒業。1930年(昭和5年)陸軍省嘱託となる。以後、拓務省嘱託、貴族院事務局嘱託、外務大臣秘書官付嘱託などを務めた。 1941年(昭和16年)10月25日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
高橋 勝之(たかはし かつゆき、1904年8月15日 - 1… 高橋 勝之(たかはし かつゆき、1904年8月15日 - 1986年6月8日)は、日本のジャーナリスト、翻訳家。 高知市出身。1927年早稲田大学第二高等学院ロシア文科卒。筆名・里見三吉。日本共産党、新日本文学会に属し、マルクス主義について執筆・翻訳を行った。
米田 正文(よねだ まさふみ、1904年8月14日 - 19… 米田 正文(よねだ まさふみ、1904年8月14日 - 1984年6月20日)は、日本の内務及び建設官僚、政治家。参議院議員(3期)。 現在の福岡県田川郡添田町出身。佐賀高等学校理科甲類を経て、1928年(昭和3年) 九州帝国大学工学部土木学科卒業後、内務省入省、内務技師として奉職する。 1933年(昭和8年)8月、満洲国国道局技正(薦任七等)へ採用(この際、内務省は依願退職の形となっている)。満洲国では、時期不明ながら、満洲国国道局技正、奉天省交通庁長を務めており、1940年(康徳7年・昭和15年)9月に安東省公署土木廳から交通部遼河治水調査處に転じていることが確認できる。その後、1941年(康徳8年・昭和16年)までには大東港建設局處長となっており、岸信介、直木倫太郎らの支持の下、事業の推進にあたっている。
平山 諦(ひらやま あきら、1904年8月13日 - 199… 平山 諦(ひらやま あきら、1904年8月13日 - 1998年6月22日)は、日本の数学者、和算史研究家。 千葉県成田生まれ。第二高等学校を経て、1930年東北帝国大学数学科卒業。1950年「和算に関する研究」で理学博士(理学)の学位を取得。林鶴一、藤原松三郎に師事。中学校教師をへて、1941年東北帝大講師。1968年退任。息子は天文学者の平山智啓(東京天文台)。
九重 年支子(ここのえ としこ、1904年〈明治37年〉8月… 九重 年支子(ここのえ としこ、1904年〈明治37年〉8月11日 - 2002年〈平成14年〉8月13日)は、日本の発明家、実業家。簡易織り機である「九重手織り機」の発明、その普及と織物制作に努めたことや、婦人発明家協会の創立で知られ、日本の女性発明家の草分けとも呼ばれる。東京府深川区(後の東京都江東区)出身。本名、坂野 敏子。東京女子高等師範学校(後のお茶の水女子大学)専攻科卒業。 1904年(明治37年)シンガーミシン裁縫女学院設立者の父秦敏之と女学院院長母利舞子の間に生まれる。6歳下の妹はニットデザイナーの秦万紀子。東京女子高等師範学校付属高女・専攻科英語科卒業、翌年建築技師坂野秀雄と結婚。
森 桂一(もり けいいち、1904年8月10日 - 1988… 森 桂一(もり けいいち、1904年8月10日 - 1988年3月16日)は、洋画家、美術教育者。 岐阜県恵那市生まれ。号・林人子。1928年東京美術学校卒。同年帝展初入選。1952年千葉大学教育学部教授、1970年定年退官、名誉教授。1975年千葉明徳短期大学学長、81年退任、名誉学長。1974年勲三等旭日中綬章受勲。
蛯原 徳夫(えびはら とくお、1904年8月10日 - 19… 蛯原 徳夫(えびはら とくお、1904年8月10日 - 1988年8月4日)は、フランス文学者。生涯にわたりロマン・ロラン研究・翻訳を行った。 東京生まれ。1934年法政大学文学部仏文科卒業。1965年名古屋大学文学博士(「ロマン・ロランの思想的原理」)。1953年大阪市立大学文学部助手、54年助教授、58年教授、68年定年退任、名誉教授、青山学院大学教授、聖徳学園短期大学教授を歴任した。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
中野 勝義(なかの かつよし、1904年(明治37年)8月1… 中野 勝義(なかの かつよし、1904年(明治37年)8月10日-1960年(昭和35年)11月16日)は、日本の実業家。全日本空輸創立の中心的人物であった。 1904年(明治37年)8月10日、北海道上川郡東旭川村に中野光造の次男として生まれる。旭川中学校を経て、1924年(大正13年)法政大学予科に入学し、1930年(昭和5年)に法政大学法文学部仏法科を卒業する。 朝日新聞に入社し、日本学生航空連盟理事などを務め、法政大学による軽飛行機『青年日本号』の訪欧飛行(1931年)、朝日新聞による『神風号』の訪欧飛行(1937年)の実現に尽力した。1940年(昭和15年)、大日本飛行協会参与に就任し、1942年(昭和17年)に朝日新聞を退社し、大日本飛行協会常任参与・庶務部長に就任。
古賀 了(こが さとる、1904年(明治37年)8月8日 -… 古賀 了(こが さとる、1904年(明治37年)8月8日 - 1997年(平成9年)5月5日)は、昭和期の農業指導者、政治家。衆議院議員、佐賀県佐賀郡久保田町長、久保田町名誉町民。位階は従五位。 佐賀県 佐賀郡久保田村久富(久保田町久富を経て現佐賀市久保田町久富)で、古賀銀三郎、トクの長男として生まれる。1917年(大正6年)久保田村立新田尋常小学校卒業。1921年(大正10年)佐賀県立佐賀中学校(現佐賀県立佐賀西高等学校)4年を修了し、佐賀高等学校に入学。1924(大正13年)同校を卒業し、東京帝国大学経済学部に入学。1928年(昭和3年)同大経済学部を卒業。 卒業後、久留米歩兵第48連隊に入隊し、1929年(昭和4年)に除隊して農業に従事した。
武見 太郎(たけみ たろう、1904年8月7日 - 1983… 武見 太郎(たけみ たろう、1904年8月7日 - 1983年12月20日)は、日本の医師である。日本医師会会長、世界医師会会長を歴任した。
澤瀉 久敬(おもだか ひさゆき、1904年8月7日 - 19… 澤瀉 久敬(おもだか ひさゆき、1904年8月7日 - 1995年2月26日)は、日本の哲学研究者。大阪大学名誉教授。専門はフランス哲学。 1904年、三重県伊勢市で生まれた。京都帝国大学文学部に入学し、哲学科で九鬼周造に師事した。1929年に卒業。1935年、フランス政府招聘留学生として渡仏。 1938年に京都帝国大学講師となり、1941年に大阪帝国大学講師に転じた。1954年、大阪大学文学部教授に昇格。1960年、学位論文『医学概論』を大阪大学に提出して医学博士号を取得。1968年、大阪大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は、南山大学教授を務めた。1986年、日本学士院会員に選出された。
李 相佰(イ・サンベク、1904年8月6日 - 1966年4… 李 相佰(イ・サンベク、1904年8月6日 - 1966年4月14日)は、朝鮮(大韓帝国)に生まれ、日本および大韓民国で活動した歴史学者・社会学者、バスケットボール選手・指導者。 早稲田大学に留学、日本における黎明期の大学バスケットボール選手となり、スポーツ理論・競技技術の普及や、スポーツ組織の結成・運営に大きな足跡を残した。戦後の韓国においてもスポーツ界の重鎮として活動、国際オリンピック委員会(IOC)委員を務めた。学生バスケットボールの日韓対抗戦である李相佰盃に名を残している。また、学者としてはソウル大学校教授を務め、歴史学・社会学に業績を残している。号は想白(サンベク/상백、発音は本名と同じ)、百無一斎。
坂本 泰良(さかもと たいら、1904年(明治37年)8月6… 坂本 泰良(さかもと たいら、1904年(明治37年)8月6日 - 1982年(昭和57年)9月6日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(6期)。中央大学名誉教授。衆議院功労議員表彰。日本社会党熊本県支部連合会会長。 1970年4月の春の叙勲で、勲二等に叙され旭日重光章を受章する。 1982年9月6日、死去。78歳没。同月10日、特旨を以て位記を追賜され、死没日付で正四位に叙された。
細田 徳寿(ほそだ とくじ、1904年8月5日 - 1991… 細田 徳寿(ほそだ とくじ、1904年8月5日 - 1991年3月25日)は、内務省官僚、大分県知事(1945年 - 1947年、1947年 - 1955年)。官選も含めると第37・39・40代、公選のみでは初代・第2代にあたる。 茨城県水戸市出身。旧制水戸中学校(現在の水戸第一高校)、旧制水戸高等学校を経て、東京帝国大学法科政治学科を卒業。1928年に内務省入省。厚生省医務課長、警視庁保安衛生部長、陸軍司政官、内務省河川課長、内閣総理大臣秘書官等を経て、1945年10月27日に大分県知事に発令された。 1947年3月14日には、地方自治法施行にともなう県知事選挙への出馬のため県知事を辞職。この後、選挙までの約1ヶ月は和久田鉄雄が第38代県知事に短期間発令されている。
橋本 明治(はしもと めいじ、1904年(明治37年)8月5… 橋本 明治(はしもと めいじ、1904年(明治37年)8月5日 - 1991年(平成3年)3月25日)は、昭和期の日本画家、日本芸術院会員、日展常務理事、文化勲章受章者。 1904年に橋本太一郎、トメ夫妻の長男として島根県那賀郡浜田町(現・浜田市田町)に生まれる。祖父の市太郎は絵画や俳諧を愛好しており、明治はこの祖父の強い感化を受けて成長した。1917年(大正6年)に浜田町立松原尋常小学校を卒業した後に高等科へと進み、1920年(大正9年)には島根県立浜田中学校へ入学した。通信教育によって日本画を学び、中学4年となる1923年(大正12年)、妹をモデルとして描いた「ガラシャ婦人像」を島根県展に初めて出品し、入選を果たした。
伊東 俊夫(いとう としお、1904年(明治34年)8月5日… 伊東 俊夫(いとう としお、1904年(明治34年)8月5日 - 1991年(平成3年)7月6日)は、愛知県出身の日本の解剖学者、医学博士。 1956年(昭和31年)、群馬大学医学部で教授として務めていた際に発見した伊東細胞の発見者として名高い。 慶應義塾大学を卒業し、慶應義塾大学にて助教授を務め、東京女子医学専門学校(現:東京女子医科大学)で教授を務める。その後は前橋医科大学、群馬大学、帝京大学にて教授を務める。 1956年に群馬大学医学部で教授を務めていた際に、肝臓を構成する微小組織で、ディッセ腔に存在する線維芽細胞の1つである伊東細胞を発見する。なお、伊東が発見報告した際の名称は「脂肪摂取細胞」であった。
大山 功(おおやま いさお、1904年8月5日 - 1993… 大山 功(おおやま いさお、1904年8月5日 - 1993年8月)は、日本の演劇評論家。 岡山市生まれ。1932年早稲田大学文学部演劇学科卒、『藝術殿』『東宝』『日本演劇』『演劇界』などの雑誌編集のかたわら演劇評論を行う。1945年戦災で山形県へ疎開。 文筆活動を続け、1974年『近代日本戯曲史』で第6回河竹賞受賞。山形県嘱託。
大木 金次郎(おおき きんじろう、1904年(明治37年)8… 大木 金次郎(おおき きんじろう、1904年(明治37年)8月3日 - 1989年(平成元年)8月3日)は、日本の教育者、経済学者、経済学博士。青山学院大学第11代院長、青山学院理事長。 1904年8月3日、山梨県甲府市に生まれる。1922年3月、甲府商業学校を卒業し、校長の推薦により同年4月に朝鮮銀行に就職する。同年10月、同行大邱支店在勤中にF.H.スミスから洗礼を受け、さらにクリスチャンだった支店長の薦めにより、1925年に青山学院高等学部商科に無試験入学する。1929年3月に卒業した後、同年6月に同学院の留学生として渡米し、アメリカのオハイオ・ウェスリアン大学経済学部に留学し、その卒業後さらにコロンビア大学大学院で経済政策を専攻してマスター・オブ・アーツの学位を取得する。
藤井 斉(ふじい ひとし、1904年〈明治37年〉8月3日 … 藤井 斉(ふじい ひとし、1904年〈明治37年〉8月3日 - 1932年〈昭和7年〉2月5日)は、日本の海軍軍人。海兵53期卒。五・一五事件を起こした海軍青年士官の指導者で革命児と称された人物であり、また、日本海軍搭乗員最初の戦死者の一人である。戦死による一階級昇進で最終階級は海軍少佐。 1904年〈明治37年〉8月3日、長崎県平戸に生れる。本籍は佐賀県。 父は炭鉱主であったが事業に失敗し、藤井は祖父、次いで親族の山口半六に引き取られ養育を受けた。山口は孫文の革命運動に協力した人物であり、藤井は大きく影響を受けたといわれる。 佐賀中学を卒業するにあたり、山口は藤井に外交官を勧めたが、海軍士官の道を選ぶ。
小山 寛二(こやま かんじ、1904年8月3日 - 1982… 小山 寛二(こやま かんじ、1904年8月3日 - 1982年11月27日)は、熊本県八代市出身の小説家。 八代中学校卒業。早稲田大学中退。クロポトキンの影響を受け、アナキズム、左翼運動家の道を歩むが、1928年(昭和3年)、転向する。 三上於菟吉に師事し、大衆文学などを執筆した。作品に、1934年(昭和9年)に映画化された「明暦名剣士」、宮崎滔天を主人公とした「波浪の歌」、細川忠興の妻ガラシャを描いた「細川ガラシャ」、「曠野の父」、「風雲万里」、「江南碧血記」などがある。 随筆雑誌「騒友」主宰。1982年(昭和57年)、東京にて没した。
今村 武雄(いまむら たけお、1904年8月2日 - 199… 今村 武雄(いまむら たけお、1904年8月2日 - 1993年8月6日)は、日本のジャーナリスト、経済学者。 東京生まれ。1929年慶應義塾大学経済学部卒。報知新聞社に入り、日本経済新聞で論説委員、東京商工会議所理事、慶大新聞研究所教授、1970年定年、奥州大学教授、富士大学教授。女子学院理事長。
直原 玉青(じきはら ぎょくせい、1904年8月1日 - 2… 直原 玉青(じきはら ぎょくせい、1904年8月1日 - 2005年9月30日)は、日本の画家、禅僧、俳人。 岡山県赤磐郡(現:赤磐市)生まれ、兵庫県の淡路島で育つ。本名は正。大阪美術学校卒業。帝国美術展に初入選後、日展に16回入選する。南画の第一人者。社団法人日本南画院会長・理事長、現代南画協会理事長、財団法人青少年文化研修道場理事、守口市美術協会会長、青玲社主宰、黄檗宗国清寺住職、俳誌「早春」選者などを務める。洲本市名誉市民、守口市名誉市民、南あわじ市名誉市民。 52歳の時、「自然の実相が禅」との柴山全慶老師(当時)の言葉に触れ、禅に傾倒。以来、老師の提唱は欠かさず聞いた。また当時の村瀬玄妙黄檗宗元管長とも幼馴染みで、臨済宗黄檗宗の僧籍をもつ。
杉 勇(すぎ いさむ、1904年8月1日- 1989年11月… 杉 勇(すぎ いさむ、1904年8月1日- 1989年11月25日)は、日本の歴史学者、東京教育大学名誉教授。専攻は古代オリエント史。 1904年、大阪で生まれた。東京帝国大学文学部西洋史学科で学び、1927年に卒業。 卒業後は東京教育大学助教授に就いた。後に教授昇格。1968年に東京教育大学を定年退官し、名誉教授となった。その後は明治大学教授、跡見学園女子大学教授を務めた。1989年に死去。死去と同時に正四位受勲。
渡部 肆郎(わたなべ しろう、1904年(明治37年)8月 … 渡部 肆郎(わたなべ しろう、1904年(明治37年)8月 - 1963年(昭和38年)12月14日)は、昭和時代前期の朝鮮総督府官僚。咸鏡北道知事。 渡部春吉の二男として愛媛県温泉郡に生まれる。1926年(大正15年)東京帝国大学法学部政治科を卒業し、朝鮮総督府に奉職する。逓信事務官保険運用課長、拓務書記官管理局地方課長、殖産局商工、物資調整、鉱務各課長、企画部第二物資調整第一課長、総督官房文書課長兼国勢調査課長を経て、1942年(昭和17年)10月、司政局地方課長に就任した。のち咸鏡北道知事に任じた。
太田 可夫(おおた よしお、1904年(明治37年)7月31… 太田 可夫(おおた よしお、1904年(明治37年)7月31日 - 1967年(昭和42年)7月4日)は、日本の哲学者である。 三重県に生まれ、東京商科大学(現在の一橋大学)に入学する。1928年(昭和3年)に卒業後は、母校の予科教授として活動し教鞭を執った。1943年(昭和22年)には教授に昇格し、同大学が一橋大学に校名変更した際に新しい教育体制の確立に携わる。 その後はジョン・ロックやトマス・ホッブズ等イギリス哲学やイマヌエル・カント等ドイツ哲学といったヨーロッパの哲学者の研究に携わり、社会思想の研究者の育成にも力を入れた。 この項目は、哲学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:哲学)。
津田久(つだ ひさし、1904年7月30日 - 2002年6… 津田久(つだ ひさし、1904年7月30日 - 2002年6月9日)は、日本の実業家。第二代住友商事社長。住友家評議員会委員長、住友老壮会会長。 三重県出身。東京目白中学、一高を経て、1928年東京帝国大学法学部卒業。同年住友合資会社(住友本社の前身)に入社。財閥解体後の1946年、日本建設産業(現住友商事)総務部長に転じ、財閥解体で宙に浮く本社社員や軍隊や海外から復員してくる社員の雇用確保のため、商事進出を提唱。 1947年常務、1953年専務を経て、1956年社長に就任。初代社長田路舜哉の拡大路線を継承し大陸棚の海洋資源開発や住宅関連など他社に先駆けて新規分野の進出。大手総合商社への発展の礎を築いた。
平山 亮太郎(ひらやま りょうたろう、1904年7月30日 … 平山 亮太郎(ひらやま りょうたろう、1904年7月30日 - 1971年2月15日)は、日本の経営者。野村不動産社長を務めた。 大阪府大阪市出身。1929年に京都帝国大学経済学部を卒業し、同年に野村證券に入社。野村財閥の創始者である野村徳七にかわいがられ、指導を受け、1946年4月に取締役に就任し、1947年8月に常務、1952年8月に専務、1956年11月に副社長を経て、1959年6月に野村不動産社長に就任した 大阪証券取引所理事、大阪証券業協会理事、京都大学講師、読売テレビ放送取締役なども歴任した。 著書に「証券市場論講義」がある。
那須 辰造(なす たつぞう、1904年7月30日 - 197… 那須 辰造(なす たつぞう、1904年7月30日 - 1975年4月5日)は、日本の小説家・児童文学者。 和歌山県西牟婁郡田辺町(現田辺市)生まれ。東京帝国大学仏文科卒業。第10次『新思潮』同人で、福士幸次郎に師事し、小説、翻訳を発表した。戦後は児童文学者となった。子供向けに外国文学の再話を多く行い、『ぞうさんババール』シリーズなどフランスの児童文学を訳した。1956年に『緑の十字架』で第3回サンケイ児童出版文化賞受賞。 福島正実、茂市久美子は弟子。SF作家・翻訳家の野田昌宏によると、福島が早川書房に入社したのは、那須の紹介によるという。 1960年代、鳥越信の再話・抄訳批判に、福島とともに反論した。
筑紫 歌都子(ちくし かつこ、1904年〈明治37年〉7月3… 筑紫 歌都子(ちくし かつこ、1904年〈明治37年〉7月30日 - 1984年〈昭和59年〉10月28日)は日本の音楽家。 1904年(明治37年)、山口県都濃郡鹿野村(現在の周南市)に生まれる。出生名は竹田カツノであったが、14歳の頃に大日本家庭音楽会の会長、坂本五郎に才能を認められ、彼の養女となったことで坂本姓となる。また、同時期に歌都子の芸名を付け、坂本歌都子として活動している。この芸名は自分の好きな「歌」と郷里の都濃郡の「都」を取って自分でつけたという。坂本家の養女となる際に福岡市に移り住んでいる。 坂本家で琴の他、ヴァイオリン、大正琴、ピアノ等を学んだ後に18歳で琴の作曲活動を始める。
若松 満則(わかまつ みつのり、1904年7月29日 - 1… 若松 満則(わかまつ みつのり、1904年7月29日 - 1945年9月2日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中佐。
三谷 十糸子(みたに としこ、1904年〈明治37年〉7月2… 三谷 十糸子(みたに としこ、1904年〈明治37年〉7月28日 - 1992年〈平成4年〉2月11日)は兵庫県出身の日本の日本画家。本名敏子。女流日本画家の代表的作家の一人。 戦前から戦後しばらくは和服姿の少女を、1950年頃からは洋装姿の女性をメインに描き、厚く柔らかな色彩によって画に詩的な味わいを込めた。 また、1932年(昭和7年)第13回帝展出品作「女」で特選受賞以降はそれまでの暗い色調から澄んだ色調へと移行した。 1904年(明治37年)、兵庫県加古郡(現高砂市)に、裕福な医者の家に一人っ子として生まれる。少女時代には文学と詩に憧れた。 1922年(大正11年)、18歳で兵庫県立第一高等女学校(現兵庫県立神戸高等学校)卒業、同年女子美術専門学校(現女子美術大学)に入学。
我堂 武夫(がどう たけお、1904年〈明治37年〉7月27… 我堂 武夫(がどう たけお、1904年〈明治37年〉7月27日 - 1984年〈昭和59年〉4月15日)は、日本の政治家。大阪府堺市長(第15代)。1976年(昭和51年)、堺市の政令指定都市移行を目標として発表(移行は2006年〈平成18年〉)。行政改革や財政再建と都市再開発を進め「名市長」と呼ばれた。位階は従四位。勲三等旭日中綬章。 堺市出身。大阪府立堺中学校(旧制中学校。現大阪府立三国丘高等学校)、1930年(昭和5年)九州帝国大学(現九州大学)法文学部を卒業。 帝塚山学院講師を経て1936年(昭和11年)堺市役所に入った。堺市の助役などを経て、1972年(昭和47年)10月に浪速医科大学(仮称、不認可)をめぐる詐欺・横領で堺市長(第14代)を辞職した土師半六の出直し選挙に出馬し、第15代の市長に当選した。
北川 一栄(きたがわ かずえ、1904年7月26日 - 19… 北川 一栄(きたがわ かずえ、1904年7月26日 - 1978年11月17日)は、日本の実業家、工学博士。住友電気工業元社長。 大阪府大阪市出身。1927年に東京帝国大学工学部を卒業し、住友電線製造所(のちの住友電気工業)に入社した。 1956年11月から社長を務め、1966年11月から会長を務めた。 その一方で、原子力委員会委員、通産省電子情報処理振興審議会会長、産業構造審議会情報産業部会長、関西経済同友会幹事、日本電線工業会会長、関西情報センター理事長なども歴任した。大阪大学工学部電気工学科で非常勤講師も務めた。1956年に紫綬褒章を受章し、1967年に藍綬褒章を受章し、1974年に勲一等瑞宝章を受章。
矢崎 虎夫(やざき とらお、1904年(明治37年)7月25… 矢崎 虎夫(やざき とらお、1904年(明治37年)7月25日 - 1988年(昭和63年)9月24日)は、日本の彫刻家である。 長野県諏訪郡永明村(現・茅野市)生まれ。平櫛田中に師事。 1929年(昭和4年)院展に初入選、以降院展白寿賞を3回受賞する。1964年(昭和39年)に渡欧し、オーストリアのウィーン大学で仏教芸術を講義した後、フランス・パリでオシップ・ザッキンに師事。 1959年(昭和34年)結成された茅野市美術協会で顧問を勤めた(会長小川由加里)。 1966年(昭和41年)日本画府展で文部大臣賞を、1973年(昭和46年)には長野市野外彫刻賞を受賞。 晩年は仏教を主題に木彫像を制作していた。
平塚 武二(ひらつか たけじ、1904年7月24日 - 19… 平塚 武二(ひらつか たけじ、1904年7月24日 - 1971年3月1日)は、日本の児童文学作家。代表作に「風と花びら」「太陽よりも月よりも」「玉むしのずしの物語」などがある。 1904年(明治37年)7月24日、父・平塚福太郎、母・ハナの二男として、神奈川県横浜市中区末吉町に生まれる。1911年(明治44年)4月、横浜市立南吉田尋常高等小学校に入学。翌年、中区本牧三の谷に転居し、横浜市立本牧尋常高等小学校に転校する。1915年(大正4年)、平塚定吉、タケに養子縁組みする。1917年(大正6年)4月、神奈川県立第二中学校(現:翠嵐高校)に入学。1919年(大正8年)4月、東京の市立荏原中学校(現:日本体育大学荏原高等学校)に転入する。
村崎 敏郎(むらさき としろう、1904年(明治37年)7月… 村崎 敏郎(むらさき としろう、1904年(明治37年)7月23日 - 1962年(昭和37年)4月19日)は、日本の演劇活動家、翻訳家。 東京府東京市深川区(現・東京都江東区深川)生まれ。1927年東京商科大学卒。演劇運動を行い、東京文化学園教諭。武蔵野高等学校教諭。戦後はもっぱら推理小説の翻訳を行った。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
大浜晧 / 大濱晧(おおはま あきら、1904年7月22日ー… 大浜晧 / 大濱晧(おおはま あきら、1904年7月22日ー1987年12月20日)は、日本の中国哲学者。 1904年(明治37)沖縄県石垣市登野城生まれ。実姉に『八重山生活誌』の著者である宮城文がいる。 1934年(昭和9)九州帝国大学法文学部支那哲学科卒業、1939年(昭和14)東京帝国大学大学院満期退学。1941年(昭和16)台北帝国大学予科教授となり、敗戦により内地に帰還。1947年(昭和22)東京帝国大学文学部副手着任、1948年(昭和23)11月名古屋大学文学部助教授、1949年(昭和24)同大学教授昇格。1957年(昭和32)文学博士学位授与、1968年(昭和43)定年退官、名古屋大学名誉教授となる。
浦路 輝子(うらじ てるこ、1904年7月22日 - 没年不… 浦路 輝子(うらじ てるこ、1904年7月22日 - 没年不詳)は、日本の女優である。本名は堀内 照子(ほりうち てるこ)。 1904年(明治37年)7月22日、東京府東京市小石川区(現在の東京都文京区)に「堀内照子」として生まれる。 名古屋市内の旧制・尋常小学校を卒業、京都市内の旧制・高等小学校を一年次で終了、長崎県佐世保市の長崎県立佐世保高等女学校(長崎県立佐世保北高等学校と長崎県立佐世保南高等学校の前身)に入学した。1921年(大正10年)、同女学校を三年次で中途退学し、東京少女歌劇団に入団する。1925年(大正14年)には、渡瀬淳子が主宰する「渡瀬淳子演劇研究所」に参加、舞台女優を目指す。
結城 一朗(ゆうき いちろう、1904年7月20日 - 19… 結城 一朗(ゆうき いちろう、1904年7月20日 - 1988年9月15日)は、日本の俳優、演劇プロデューサーである[3][4][5][6][7]。本名松崎 龍雄(まつざき たつお)、旧芸名結城 一郎(ゆうき いちろう)[3][4][6][7]。1930年代、松竹蒲田撮影所の青年スターであり、戦後は舞台や音楽のプロデューサー、テレビ出演に進出した。
鈴木 俊(すずき しゅん、1904年7月20日 - 1975… 鈴木 俊(すずき しゅん、1904年7月20日 - 1975年7月25日)は、日本の東洋史学者。 1904年、東京で生まれた。東京帝国大学文学部東洋史学科で学び、1929年に卒業。 修了後は、東洋大学教授に就いた。後に法政大学教授。戦後は九州大学教授、中央大学教授。1975年に死去。
佐藤 俊夫(さとう としお、1904年〈明治37年〉7月20… 佐藤 俊夫(さとう としお、1904年〈明治37年〉7月20日 - 1990年〈平成2年〉1月12日)は、日本の実業家。新潮社の第3代代表取締役社長。東京府出身。 1928年に法政大学法文学部を卒業と同時に、父・義亮の経営する新潮社に入社。1947年に『小説新潮』を創刊し、その編集長に就任する。1958年に新潮社3代目代表取締役社長に就任。1967年に兄・義夫が急逝し、社長の座を兄の息子・亮一に譲り代表取締役会長となった。 1990年1月12日に肺炎のため死去、86歳。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
丸山 武夫(まるやま たけお、1904年〈明治37年〉7月1… 丸山 武夫(まるやま たけお、1904年〈明治37年〉7月19日 - 1997年〈平成9年〉10月29日)は、日本のドイツ文学者。獨協大学名誉教授。 群馬県吾妻郡中之条町生まれ。旧制中之条農学校、旧制静岡高等学校文科乙類を経て、東京帝国大学文学部独文科卒。旧制第五高等学校講師、旧制松本高等学校教授を経て、1950年東京大学助教授、1953年には教授に就任。1965年に定年退官し、獨協大学教授となる。1969年文学博士。外国語学部長を経て1975年定年退任、名誉教授。 1997年、呼吸不全のため死去。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
荒井 源吉(あらい げんきち、1904年(明治37年)7月1… 荒井 源吉(あらい げんきち、1904年(明治37年)7月19日 - 1983年(昭和58年)9月18日)は、昭和期の政治家。武蔵野町長、武蔵野市長。 東京府北多摩郡武蔵野村の生まれ。1947年(昭和22年)4月、それまで勤めていた武蔵野町職員を辞し、町長選挙に無所属(保守系)で立候補し初当選、武蔵野町第4代町長に就任した。その約7カ月後にそのまま初代市長に就いた武蔵野町最後の町長でもある。武蔵野市が市制施行した1947年(昭和22年)11月から1963年(昭和38年)4月までの間、4期15年と6ヶ月に渡り市長を務める。 1948年(昭和23年)の小学校給食の開始を始めとして、上水道・下水道計画の決定・着工、市立小・中学校の建設(合計11校。
木村 文男(きむら ふみお、1904年7月18日 - 19… 木村 文男(きむら ふみお、1904年7月18日 - 1965年3月20日)は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員(3期)。息子は青森県知事や衆議院議員を務めた木村守男。孫は元衆議院議員の木村太郎、木村次郎。 青森県南津軽郡藤崎町出身。父健一は藤崎町の助役や町長を務めた。1925年青森県師範学校を卒業。卒業後は教員となり、その後は青森県属、小学校校長、地方事務官などを務めた。 戦後、政治家を志し、1947年に青森県議に当選。1952年の第25回衆議院議員総選挙で青森2区から自由党公認で立候補して初当選。以来連続3回当選した(その後、所属は日本民主党→自由民主党)。この間、第1次鳩山内閣で北海道開発政務次官に就任した。
松本 雅男(まつもと まさお、1904年7月16日 - 19… 松本 雅男(まつもと まさお、1904年7月16日 - 1993年2月10日)は、日本の会計学者。一橋大学名誉教授。 1904年、和歌山県伊都郡妙寺町(現かつらぎ町)出身。1922年和歌山県立和歌山商業学校卒、1925年山口高等商業学校卒業、同年歩兵第8連隊入営、1927年青島学院商業学校教諭、1929年大日本帝国陸軍少尉、1931年東京商科大学(現一橋大学)本科卒。金融論の井浦仙太郎ゼミ出身で、本科2年時に、論文「戦時戦後におけるわが国為替相場変動の研究」が鳳聚会二等上席に入選し出版される。 大学卒業後は彦根高等商業学校金融論担当助教授就任が一旦決まったが、その後担当が専門外の原価計算及び簿記と変わり、辞任も考えた末以降会計学専攻に転じて高瀬荘太郎に師事し同職を務めた。
山岸 外史(やまぎし がいし、1904年(明治37年)7月1… 山岸 外史(やまぎし がいし、1904年(明治37年)7月16日 - 1977年(昭和52年)5月7日)は日本の評論家。 東京出身。大倉喜八郎の片腕で日本製靴(現在のリーガルコーポレーション)社長などを歴任した山岸覺太郎(1867年-1937年; 米国留学後、山岸藪鶯の筆名でダグラス・フォウセット『空中軍艦』などの翻訳もおこなった)の息子。第七高等学校を経て、東京帝国大学文学部哲学科で出隆に師事。1931年(昭和6年)、同人誌『アカデモス』を主宰。1934年(昭和9年)に『散文』を創刊。創刊号掲載の「『紋章』と『禽獣』の作家たち」で川端康成に、「佐藤春夫論」で佐藤春夫にそれぞれ認められた。 1934年、太宰治や檀一雄たちと共に同人誌『青い花』に参加。
千田 是也(せんだ これや、1904年7月15日 - 199… 千田 是也(せんだ これや、1904年7月15日 - 1994年12月21日)は、日本の演出家、俳優。東京市出身、建築家・伊藤為吉の五男。本名は伊藤 圀夫。
高島 善哉(たかしま ぜんや、1904年7月13日 - 19… 高島 善哉(たかしま ぜんや、1904年7月13日 - 1990年1月10日)は、日本の経済学者、社会学者。専攻はマルクス主義及びアダム・スミス研究。一橋大学名誉教授、関東学院大学名誉教授。 岐阜県出身。旧制岐阜中学校(現岐阜県立岐阜高等学校)首席を経て、1927年東京商科大学(現一橋大学)卒。大学では当初福田徳三ゼミナールに参加したが、福田の留学のため大塚金之助の指導を受けた。卒業論文「経済静学と経済動学の国民経済学的意義:ヨセフ・シュンペーターの研究」だが、おもにマルクス主義とアダム・スミスを研究した。 1927年指導教官大塚金之助の推薦を受け、母校東京商科大学助手に就任。1927年、渋沢栄一の孫である尾高豊作や尾高朝雄の支援を得て設立され、大塚が所長を務める東京社会科学研究所研究員を兼務し、杉本栄一とともに同研究所での活動に従事。
河角 廣(かわすみ ひろし、1904年7月12日- 1972… 河角 廣(かわすみ ひろし、1904年7月12日- 1972年12月12日)は、日本の地震学者。東京帝国大学教授を歴任。 長野県諏訪郡富士見村(現富士見町)出身。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)、旧制第一高等学校を経て、1928年東京帝国大学理学部地震学科卒業。同年東京帝国大学地震研究所嘱託となる。1944年教授となり1963年所長に就任。退官後は東京都防災会議地震部会会長などを歴任した。 日本各地の地震危険度と最高震度の期待値を示す「河角マップ」は耐震基準における地震地域係数の根拠となった。また鎌倉や江戸などの古地震を調査し、相模トラフ巨大地震の69年周期説を唱えた(なお当該地震は1923年を最後に発生していない)。
藤沢 桓夫(ふじさわ たけお、1904年7月12日 - 19… 藤沢 桓夫(ふじさわ たけお、1904年7月12日 - 1989年6月12日)は、日本の小説家。「藤沢恒夫」と表記される場合もあるが、これは誤記である。