佐久間 国三郎(さくま くにざぶろう、1845年(弘化2年1… 佐久間 国三郎(さくま くにざぶろう、1845年(弘化2年10月) - 1915年(大正4年)4月8日)は、明治時代の政治家。衆議院議員。岐阜県会議長。 美濃国安八郡、のちの岐阜県安八郡蛇池村(海西郡蛇池村、海津郡蛇池村、海西村、平田町を経て現海津市)に生まれる。角田俊作に漢学を学ぶ。 海西村戸長を経て、1879年(明治12年)同村会議員に当選。ほか、水利土工会議員、同議長、所得税調査委員、組合村長を歴任した。 1882年(明治15年)2月、岐阜県会議員に当選し、同年10月、常置委員に推され、1885年(明治18年)3月、県会副議長、のち同議長を歴任した。 1898年(明治31年)8月の第6回衆議院議員総選挙では岐阜県第3区から出馬し当選。
秋山 儀四郎(あきやま ぎしろう、1845年(弘化2年) -… 秋山 儀四郎(あきやま ぎしろう、1845年(弘化2年) - 1915年(大正4年)10月27日)は、岡山県倉敷市出身の実業家。 1845年、備中国倉敷で秋山文三郎の二男として生まれた。生家である天城屋は、代々米問屋と味噌糀の製造を兼業していた。 14歳で家業を手伝い、後に伯母の繁井屋を継ぎ、米問屋を経営した。 1865年(慶応元年)大坂堂島で仲買を始める。明治維新の際に一旦岡山へ帰り、「繁儀」の商号で米穀仲買を営む。 1870年(明治3年)再び堂島で開業する。1884年(明治17年)堂島で売買両派の対立があった際、売派の頭取の五代友厚一派の不正を摘発し、注目された。 1892年(明治25年)堂島より引退する。
服部 嘉十郎(はっとり かじゅうろう、弘化2年(1845年)… 服部 嘉十郎(はっとり かじゅうろう、弘化2年(1845年) - 明治13年(1880年))は、越中国高岡(現在の富山県高岡市)の文化・教育などに功績のあった江戸時代・明治時代の町役人・政治家。高岡城址を公園として整備した「高岡古城公園」の創設者である。 高岡由緒町人天野屋の13代目として、弘化2年(1845年)8月9日に生まれる。父は高岡町藩政時代最後となる総町年寄、服部三郎左衛門元業、母は同じく由緒町人富田家(横町屋)8代善五郎の長女、民子である。名は元善、初め嘉十郎を通称とし、のちに伝兵衛、再び嘉十郎と改めた。姉に正子、妹に利久子がいたがいずれも夭折したため、嘉十郎は一人息子と同じように育った。
林 宗右衛門(はやし そうえもん、1845年(弘化元年12月… 林 宗右衛門(はやし そうえもん、1845年(弘化元年12月)- 1896年(明治29年)12月30日)は、明治期の地主、政治家。貴族院多額納税者議員。 伊勢国員弁郡で生まれる。のち奄芸郡林村(三重県河芸郡明村、安芸郡芸濃町を経て現津市)の代々久居藩の大里正を務めた林家の養子となる。 1868年(明治元年)養父の跡を継いで林組大庄屋(大里正)に就任。農業、酒造業を営む。その後、楠平尾・林・中縄3村戸長、学務委員などを務めた。道路、橋梁改築のため私費を投じ、また学校に教材を寄付するなど公共のための出費を惜しまなかった。 1880年(明治13年)2月に三重県会議員に奄芸郡選挙区から選出されたが同年10月に辞職した。
氏家 直綱(うじいえ なおつな、弘化2年(1845年) - … 氏家 直綱(うじいえ なおつな、弘化2年(1845年) - 明治44年(1911年))は、江戸時代から明治時代の人物。庄内藩士、官吏、初代西田川郡長。
浜野 定四郎(はまの さだしろう、1845年(弘化2年) -… 浜野 定四郎(はまの さだしろう、1845年(弘化2年) - 1909年(明治42年)11月14日)は、日本の教育者・英語学者・翻訳家。「慶應義塾仮憲法」制定後の初代慶應義塾長をつとめた。 1845年(弘化2年)、豊前中津藩士浜野覚三の子に生まれ、はじめは丑之助と称す。1864年(元治元年)、福澤諭吉帰郷の際、小幡篤次郎ら同藩の子弟五人とともに福澤に伴われて出府、同年6月に慶應義塾に入塾した。卒業後は教員となり、1874年(明治7年)から1878年(明治11年)までの間、中津市学校の校長として赴任した以外は一貫して慶應義塾に教鞭をとった。中津市学校の校長を辞してのち、再び義塾に戻って、1878年(明治11年)ごろから塾長の任についていたが、1881年(明治14年)1月「慶應義塾仮憲法」の制定により改めてそれにもとづいて初代慶應義塾長に選ばれた。
津田 嘉一郎(つだ かいちろう、1845年(弘化2年2月)-… 津田 嘉一郎(つだ かいちろう、1845年(弘化2年2月)- 1914年(大正3年)6月1日)は、明治から大正初期の実業家、政治家。衆議院議員。 能登国鹿島郡七尾町(石川県鹿島郡七尾町を経て現七尾市)で生まれた。物品依託販売業、倉庫業を営む。七尾銀行頭取、中島商業銀行頭取などを務めた。 1890年(明治23年)9月、石川県会議員に当選し、1891年(明治24年)10月まで在任した。1894年(明治27年)9月、第4回衆議院議員総選挙(石川県第3区、自由党)で当選し、衆議院議員に1期在任した。
松延 玹(まつのべ げん、1845年〈弘化2年1月〉 - 1… 松延 玹(まつのべ げん、1845年〈弘化2年1月〉 - 1921年〈大正10年〉9月20日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 水戸出身。弘道館に学ぶ。1871年(明治4年)藩命を受け諸国を遊歴したのち帰郷し、1874年(明治7年)の台湾出兵に際しては北京に渡った。1876年(明治9年)在北京公使館附学生となり、1878年(明治11年)書記生となった。翌年、上海領事館に転任。1882年(明治15年)朝鮮で壬午軍乱が勃発すると花房義質の随伴員として同地に赴いた。1884年(明治17年)帰朝し外務省一等属となるが、間もなく朝鮮で甲申政変が勃発すると井上馨に従い再び同地に赴いた。
立花 親信(たちばな ちかのぶ、1845年(弘化2年4月)-… 立花 親信(たちばな ちかのぶ、1845年(弘化2年4月)- 1916年(大正5年)9月29日)は、幕末の柳河藩士、明治期の公吏・実業家・政治家。衆議院議員、福岡県会議長。 筑後国山門郡柳川城下(柳河県、三潴県、福岡県山門郡城内村、柳川町を経て現柳川市)で、柳河藩で中老を務めた立花家(家禄350石)に生まれた。1863年(文久3年6月)家督を相続した。1868年(慶応4年)侍頭となる。藩の軍政改革で断隊が設けられ、同年4月17日(旧暦3月25日)後断隊の隊長に就任。戊辰戦争で断隊に東京警固が命ぜられ藩主立花鑑寛と共に同年7月31日(旧暦6月12日)大坂を出発し、1869年2月3日(慶応4年12月22日)に帰藩した。
菅原 白龍(すがわら はくりゅう、天保4年11月13日(18… 菅原 白龍(すがわら はくりゅう、天保4年11月13日(1833年12月23日) - 明治31年(1898年)5月24日)は明治時代に活躍した日本画家。 天保4年(1833年)11月13日に出羽国置賜郡白龍時庭村(現・山形県長井市時庭)において菅原道栄(号・源龍斎)の長男として生まれた。本名は源暁。明治15年(1882年)から道雄の名を、明治17年(1884年)から白龍の号を本名とした。大岳、泰嶽、梵林、日本橋隠士、爽気龍人、五石十水楼、和楽斎など20を超える号をもつ。家は代々続いた真言宗の修験で、地元の諏訪神社に仕えていた。また、村に学校を開き子供たちに漢籍、手習いなどを教えていたので、白龍も父から書、習字などを学んだ。
大原 孝四郎(おおはら こうしろう、1833年12月12日(… 大原 孝四郎(おおはら こうしろう、1833年12月12日(天保4年11月2日) - 1910年(明治43年)7月6日)は、日本の実業家。大原孫三郎の父。 岡山藩士藤田傳吉の三男として生まれる。1858年(安政5年)に備中国窪屋郡倉敷村の庄屋・豪商大原壮平の養嗣子となり、幼名幸三郎を孝四郎と改名。儒学者森田節斎の簡塾、犬飼松窓の三餘塾に学んだ。呉服、繰綿、米、金融を手広く営むとともに大地主であり、学問、絵、書を好む文化人でもあった。 1888年(明治21年)に倉敷紡績所(クラボウ)の初代社長に就任すると、養父壮平が森田節斎から学んだ謙受説を社訓とした。これは「満は損を招き、謙は益を受く」という思想で、常にへり下った気持ちで、より高いものを求めて努力すべし、という内容であった。
長 三洲(ちょう さんしゅう、天保4年9月23日(1833年… 長 三洲(ちょう さんしゅう、天保4年9月23日(1833年11月3日) - 明治28年(1895年)3月13日)は、豊後国生まれの勤皇の志士、官僚、漢学者、書家、漢詩人。諱は炗(ひかる)。幼名は富太郎、のち光太郎、太郎。字は世章。号は三洲(三州)のほか、蝶生、韻華、秋史、紅雪、楂客など。 勤皇の志士として倒幕運動に半生を捧げ、戊辰戦争を戦う。その後、山口藩の藩政改革に携わる。明治3年、上京し、太政官制度局の官僚となる。明治5年には文部官僚として、師の広瀬淡窓の咸宜園の学制を基礎に据え、日本の学制の礎を築いた。また、明治書家の第一人者で、近代学校制度の中に習字を位置づけた第一の功労者である。また漢学者、漢詩人としての名声高く、漢学の長三洲、洋学の福澤諭吉として明治前半期の教育界の双璧を成した。
多久 茂族(たく しげつぐ、1833年11月1日〈天保4年9… 多久 茂族(たく しげつぐ、1833年11月1日〈天保4年9月20日〉 - 1884年〈明治17年〉12月20日)は、江戸時代後期の武士、明治時代前期の政治家。肥前国佐賀藩重臣家の多久鍋島家(後多久氏)11代当主で、維新後は内政官僚となり、浜松県・伊万里県・佐賀県各権令を歴任。 松千代(幼名)、美族(よしつぐ)、茂尚、長門と称された。 10代多久邑主・多久茂澄の長男として誕生。天保7年12月24日(1837年1月30日)家督を相続。弘化4年5月1日(1847年6月13日)元服し名を茂族と改めた。 嘉永元年(1848年)長崎警備に従事。武具方・御小物成方頭人、長崎仕組頭人、弘道館頭人を歴任。安政2年(1855年)江戸桜田藩邸に入り翌年京都を経て帰国。
金井 之恭(かない ゆきやす、天保4年9月18日(1833年… 金井 之恭(かない ゆきやす、天保4年9月18日(1833年10月30日) - 明治40年(1907年)5月13日)は幕末期の志士、明治期の官僚、書家。通称は文八郎。字は子誠。号は金洞(きんどう)・錦鶏など。変名に金井五郎・桑原梧楼などがある。長女は弁護士で政治家の小川平吉に嫁ぐ。錦鶏間祗候。 1833年9月、上野国佐位郡島村(現在の群馬県伊勢崎市)に画家で勤皇家の父・烏洲の四男として生まれる。金井氏は新田氏支族岩松氏の流れを汲むとされる。幼少の頃から文学を好み、また書もよくした。1867年、新田義貞の末裔とされる新田満次郎を擁し倒幕の挙兵を企てるが、事が露顕して投獄される。1868年9月、東京府市政局に出仕。
石原 信樹(いしはら のぶき、1833年8月28日(天保4年… 石原 信樹(いしはら のぶき、1833年8月28日(天保4年7月14日)‐ 1892年(明治25年)1月6日) は、幕末の今治藩士・漢学者、明治期の公吏・政治家。衆議院議員。 伊予国越智郡今治(現愛媛県今治市) で、今治藩士・石原信順の三男として生まれた。藩校・克明館で刻苦精励して同校の助教に就任。嘉永5年(1852年)句読司となり、安政2年5月(1855年)江戸在勤となり学習館の句読司に就任。安政3年7月(1856年8月)帰藩して克明館句読司に復帰。安政4年(1857年)、学識の不足を感じ句読司を辞して京都・摂津に遊学した。安政6年3月(1859年)帰藩して句読司、素読指南、助教を歴任した。 明治元年5月25日(1868年7月14日)甲府警備の参謀に発令され同年12月まで派遣された。
木戸 孝允(きど たかよし/きど こういん、天保4年6月26… 木戸 孝允(きど たかよし/きど こういん、天保4年6月26日〈1833年8月11日〉- 明治10年〈1877年〉5月26日)は、日本の幕末の長州藩士、勤王志士、明治時代初期の政治家。雅号は松菊、木圭、広寒、猫堂、老梅書屋、竿鈴(干令)。明治維新の元勲として、大久保利通、西郷隆盛とともに維新の三傑の一人に数えられる。幕末期には桂 小五郎(かつら こごろう)の名で活躍した。 長州藩出身。同藩藩医和田家の生まれだが、7歳で同藩藩士桂家の養子となる。1852年には江戸に留学して斎藤弥九郎の道場で剣術を学び、また洋式の砲術や兵術、造船術、蘭学などを学んだ。 1858年の安政の大獄以降、薩摩藩、水戸藩、越前藩、会津藩など諸藩の尊王攘夷の志士たちと広く交わるようになり、周布政之助・久坂玄瑞・高杉晋作らと結び、藩の尊王攘夷派における指導者的立場となった。
千葉 勝五郎(ちば かつごろう、1833年8月〈天保4年7月… 千葉 勝五郎(ちば かつごろう、1833年8月〈天保4年7月〉 - 1903年〈明治36年〉4月13日)は、日本の実業家、東京の金貸し。 信濃国伊那郡中沢村有賀(現・長野県駒ヶ根市)出身。貧家の生まれで、三人兄弟の内の次男である。12、3歳の頃に逃亡した実父を探しに故郷を飛び出す。江戸へ来る途中で路銀に尽き、宿屋のかまどの上に載った二朱銀一つをそっと袂へ入れ、それで芋を買ってかじりながら江戸へたどり着く。 父は両国広小路の自身番をあずかる番太郎を勤めていた。勝五郎は本町の町年寄北村市左衛門の玄関番となった。同家を出て、自立したけれど失敗をかさねて、吉原京町二丁目の姿海花屋の妓夫とまで零落したが、のちに古着の行商を行う。
佐藤 昌蔵(さとう しょうぞう、1833年7月31日(天保4… 佐藤 昌蔵(さとう しょうぞう、1833年7月31日(天保4年6月25日)- 1915年(大正4年)11月30日)は、日本の政治家。衆議院議員。 1833年(天保4年)6月、岩手県盛岡市に生まれる。盛岡藩士となり、明治維新後は藩の公用人を務める。 廃藩置県後は青森県・岩手県・茨城県などの勧業課長や郡長を経て、1890年(明治23年)の第1回衆議院議員総選挙に岩手県第3区より立候補して当選。以後、第3回衆議院議員総選挙まで3回連続して当選する。当時の佐藤は政党には所属せず、第1回総選挙後は院内会派の大成会、第2回総選挙後は同じく院内会派の中央交渉会に所属したが、第3回総選挙時は、中央交渉会の後身に当たる国民協会を脱退して無所属であった。
福島 大順(ふくしま だいじゅん、天保4年5月29日〈183… 福島 大順(ふくしま だいじゅん、天保4年5月29日〈1833年7月16日〉 - 大正3年〈1914年〉2月22日)は、広島県出身の浄土真宗の僧侶、教育者。浄土真宗本願寺派明円寺11世住職。 広島市の『佐東町史』(1980年3月)[要ページ番号]によれば、天保4年(1833年)5月29日安芸国沼田郡中調子村(現在の広島市安佐南区川内)の浄土真宗本願寺派明円寺第10世住職福島大乗の長男として生まれる。嘉永2年(1849年)5月、大順が16歳の時に旧豊田郡川尻町(現呉市)の光明寺の訶提の門に入り、嘉永4年(1851年)12月までの2年7か月間で仏学の基礎を学んだ。嘉永5年(1852年)2月に本願寺学林(京都、現龍谷大学)に入り、安政元年(1854年)7月まで学んだのちに帰郷した。
清瀬 善三(きよせ ぜんぞう、1833年6月26日(天保4年… 清瀬 善三(きよせ ぜんぞう、1833年6月26日(天保4年5月9日 )- 1912年(明治45年)7月4日)は、明治期の醸造家・銀行家・政治家・慈善家。貴族院多額納税者議員。幼名・秀吉。慈善事業にも資金を提供した。 豊前国宇佐郡四日市村(大分県宇佐郡四日市村、四日市町を経て現宇佐市四日市)で醸造業・清瀬亀助の六男として生まれた。敷田年治(吉松伊勢守)から読書算術習字などを学んだ。父からその優れた資質を見込まれ、1855年(安政2年6月)に家督を相続した。 1856年(安政3年)四日市の宿役に就任。その後、里掌、四日市村戸長を務め、1879年(明治12年)四日市村会議員に選出され、同町会議員、宇佐郡会議員なども務めた。
初代 相馬 哲平(そうま てっぺい、1833年6月22日〈天… 初代 相馬 哲平(そうま てっぺい、1833年6月22日〈天保4年5月5日〉 - 1921年〈大正10年〉6月6日)は、日本の政治家・貴族院議員・北海道多額納税者・資産家・実業家・慈善家。函館貯蓄銀行頭取。相馬合名代表社員。族籍は北海道平民。北海道屈指の豪商だった。多くの公共施設や神社仏閣、凶作救済資金などに多額の私財を寄付した。 越後国蒲原郡荒井浜(のち新潟県北蒲原郡乙村大字荒井浜、現胎内市)で、相馬熊次郎の二男として生まれる。生家は木造和船を一艘所有した回漕業と綿屋の兼業で生計を立てていた。家計が豊かでなかったので、少年時代から「何か腕に芸を覚えよう」と考えていた。 文久元年(1861年)、28歳で箱館に移り、岩船屋春蔵宅で奉公(住み込み労働)。
長谷川 直則(はせがわ なおのり、1833年6月22日(天保… 長谷川 直則(はせがわ なおのり、1833年6月22日(天保4年5月5日) - 1896年(明治29年)5月4日)は、幕末から明治時代の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 豪商・佐藤伊兵衛の四男として出羽国村山郡天童(山形県東村山郡天童町を経て現天童市)に生まれ、のち長谷川吉内の養子となる。山形藩主秋元家に仕えたのち、実業界に入り、1888年(明治21年)7月には第八十一国立銀行頭取に就任した。ついで翌年5月、山形市会議員に当選し、所得税調査委員、山形興業幹事を経て、1890年(明治23年)山形県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1895年(明治28年)12月7日まで在任した。
岸田 吟香(きしだ ぎんこう、天保4年4月28日〈1833年… 岸田 吟香(きしだ ぎんこう、天保4年4月28日〈1833年6月15日〉、一説に天保4年4月8日〈1833年5月26日〉 - 1905年〈明治38年〉6月7日)は、日本の新聞記者、実業家、教育家。美作国久米北条郡垪和村(現岡山県久米郡美咲町)出身。目薬「精錡水」を販売するなど、薬業界の大立者としても知られる。 幼名を辰大郎。名前は大郎、大郎左衛門、達蔵、称子麻呂、清原桜、作良(さくら)、さくら、まゝよ、銀次あるいは銀次郎などがある。また墨江岸国華、墨江桜、墨江岸桜、岸国華、岸吟香、岸大郎、岸桜、小林屋銀次、岸田銀治、岸田屋銀治、京屋銀治郎、桜井銀治郎などとも名乗った。号は吟香、東洋、桜草。筆名には吟道人がある。
島本 仲道(しまもと なかみち、天保4年4月18日(1833… 島本 仲道(しまもと なかみち、天保4年4月18日(1833年6月5日) - 明治26年(1893年)1月2日)は、明治時代の官僚、法律家である。通称は審次郎、号は北洲。 土佐国土佐郡潮江村(現高知県高知市)で土佐藩士・島本卓次の二男として生まれた。土佐勤皇党に参加し終身刑の宣告を受けたが、戊辰戦争で伊予松山藩の征伐を命じられる。明治維新後、明治新政府で兵部省、司法省の官僚を歴任、江藤新平の右腕として近代日本国家の検察、警察、弁護士の機構制度の確立に尽力した。1873年、江藤の下野とともに司法省を退職し、東京と大阪に弁護士事務所を開く。 その後、自由民権運動に参加、1887年に保安条例で東京退去の処分を受けるも、明治憲法発布の恩赦で赦免された。
重城 保(じゅうじょう たもつ、天保4年4月17日(1833… 重城 保(じゅうじょう たもつ、天保4年4月17日(1833年6月4日) - 大正元年(1912年)9月13日)は、上総国高柳(現在の木更津市)の名主。後に千葉県の初代県会議長、衆議院議員を務める。幼名は安次郎。 代々名主の家に生まれ、若い頃に正木幽谷・大槻磐渓に学んだ後、故郷に戻り家業に励んだ。明治5年(1872年)、当時の木更津県の郡中地券係に任じられて、当時の県令柴原和の面識を得る。その後千葉県の成立で柴原がそのまま同県令に転じると、柴原が力を入れた育児政策を実施する育児取締頭取を務めた。明治9年(1876年)に千葉県会が設置されると、保は初代県会議長となった。 当時、自由民権運動が盛んになり、各地で県令と県会の衝突が起こったが、保は柴原県令と県会双方に自重を求めて対立の回避に努めた。
小野崎 通亮(おのざき みちすけ / みちあき、天保4年2月… 小野崎 通亮(おのざき みちすけ / みちあき、天保4年2月29日〈1833年4月18日〉 - 1903年〈明治36年〉7月21日)は、幕末から明治期の久保田藩士、国学者、神職、政治家。貴族院勅選議員。通称・鉄蔵。雅号・琴廼屋、烟水、九春軒。 出羽国秋田郡久保田城下亀ノ丁新町(現秋田県秋田市)で、久保田藩士、郡奉行・小野崎通孝の長男として生まれる。平田篤胤と親交があり神道家であった父通孝から神道を伝えられ、吉川忠行の惟神館で和魂洋才を学び、文久3年(1863年)同志と雷風義塾を設立して講師に就任。慶応4年1月(1868年)藩校明徳館教授兼砲術頭となる。戊辰戦争では吉川忠安らと勤皇を主張して藩論を導き、遊撃隊参謀として秋田戦争に従軍した。
石橋 八九郎(いしばし はちくろう、旧姓・阪本、幼名・甚七、… 石橋 八九郎(いしばし はちくろう、旧姓・阪本、幼名・甚七、1833年〈天保4年〉 - 没年不明)は、日本の商人・会社役員・慈善家。救恤を致す。 紀州の人。海草郡加太村(現・和歌山市)生まれ。阪本甚右衛門の子である。家は代々網綱を商とし、「十一屋」と称する。成長すると紀泉両州に行商し、網綱を販ぎ1日も懈怠せず、「十一屋」の名が大に揚がる。 安政5年、石橋家を嗣ぐ。当時石橋家の資産は富裕ではなく、僅かに米穀と肥物を商い唯数畝の菜園あるのみであったが、八九郎が励精刻苦、家事を見るとまもなく漸く富裕となった。紀州銀行取締役、南陽肥料取締役などをつとめる。 性格は慈善を好み、救恤を致し、官は褒賞を賜うことになったが、八九郎は固辞して受けなかった。
高橋 卯之助(たかはし うのすけ、男性、1833年(天保4年… 高橋 卯之助(たかはし うのすけ、男性、1833年(天保4年) - 1902年(明治35年)1月26日)は、日本の数学者。明治6年の太陰暦の廃止、太陽暦への改暦の準備を行った。通称は卯之助だが、後に卯と改めた。本名は高橋義泰。
高橋 勝政(たかはし かつまさ、天保4年(1833年) – … 高橋 勝政(たかはし かつまさ、天保4年(1833年) – 明治14年(1881年)1月20日)は、幕末から明治初期にかけて活動した日本の武士、陸軍軍人。陸軍大佐。従五位・勲四等旭日小綬章。幼名は熊太郎。号は重陰。 高橋勝政は、常陸国新治郡下青柳村(現・茨城県石岡市)に生まれた。高橋平衛門の長男。幼少時は手に負えぬ性格であったが、成長すると文武に優れたという。17歳頃に家督を姉に譲り、医師を志したが、幕末の動乱を目の当たりにして尊皇攘夷運動に身を投じることを決意した 当初は水戸藩に赴いたが、当時の藩内は内紛が激しく活動は困難であったため、同志とともに上京して長州藩の有志に加わった。熱意は来島又兵衛らに認められ、遊撃隊568人の一隊の隊長に抜擢される。
鈴木 定七(すずき さだしち、天保4年(1833年) - 明… 鈴木 定七(すずき さだしち、天保4年(1833年) - 明治39年7月13日(1906年7月13日))は、日本の武士。越前勝山藩の剣術師範。 出生地は現在の福井県勝山市である。弘化4年(1847年)、15歳のときに江戸へ出て、直心影流の男谷精一郎に入門した。修行すること3年、直心影流の皆伝の域に達した。20歳のとき江戸へ帰り、神道無念流の斎藤弥九郎に入門した。定七は弥九郎の信頼を得て塾頭も務めたこともあるという。23歳で勝山に帰り、藩の剣術師範になった。斎藤門下に鈴木定七ありといううわさが広まり、水戸藩から弘道館の剣術指南役に迎えたいと申し入れてきたが、定七は断った。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。
高木 元右衛門(たかぎ もとえもん、天保4年(1833年) … 高木 元右衛門(たかぎ もとえもん、天保4年(1833年) - 元治元年7月19日(1864年8月20日))は、江戸時代後期から幕末にかけての肥後国菊池郡深川村(現熊本県菊池市深川)の肥後藩士。深川村の郷士・高木甚之助の次男。諱は直久。変名は深川策助。 武芸に優れ、成童の頃に父・甚之介の剣術仲間であった荒尾村の郷士・宮崎政賢の養子となる。宮部鼎蔵に山鹿流兵法を学び、地元の学者、高山蘭痴からも教えを受けた。宮崎家からは家督相続人として迎えられていたが、国事を志して宮崎家を飛び出し、武者修行の旅へ出る。 尊王攘夷派と親交を深め、肥後勤王党に加わる。文久2年(1862年)、肥後藩親兵隊として上洛。文久3年(1863年)、八月十八日の政変による七卿落ちの際には、七卿を護衛して長州に赴いた。
石川 鴻斎(いしかわ こうさい、1833年 - 1918年9… 石川 鴻斎(いしかわ こうさい、1833年 - 1918年9月13日)は、日本の詩文家、漢学者、画家。 本名は英。字は君華。通称は英助。芝山外史、雲泥居士などの号をもつ。 1833年5月20日(天保4年4月1日)、三河国吉田(豊橋)花園町の紙商大野屋石川平五郎の長男として生まれる。数学を彦坂菊作、漢学を西岡翠園、太田晴軒、曽我耐軒らに学んだ。 神奈川県傭史になったが、1877年(明治10年)東京に転居。同じ三河出身の和泉屋市兵衛が経営する書店に勤め、編集に携わる。また、1887年(明治20年)芝増上寺の浄土宗学校の開校に際し、漢学の教師に就任。 同年、清国の全権公使、副使、随員らが宿所として増上寺に滞在した際に、筆談をもって会談に加わり、後に贈答した詩中文より十数編を選んで1878年、東京文昇堂より詩文集『芝山一笑』を刊行。
鈴木 由哲(すずき ゆうてつ、1833年 - 1917年6月… 鈴木 由哲(すずき ゆうてつ、1833年 - 1917年6月21日)は、幕末の久世家関宿藩の藩士、代官、関宿町町長。旧姓は倉持(くらもち)[要出典]。通称は為之助もしくは為輔(ためのすけ)。 海軍大将・枢密院議長・内閣総理大臣の鈴木貫太郎、陸軍大将の鈴木孝雄の父。 下総国久世家関宿藩4万8千石の藩士であった由哲は身分の高い武士では無かったが、体も大柄で剣の腕も立った為久世広周が亡くなる1862年(文久2年)まで籠の警備をしていた。また、関宿藩に招聘されていた田口俊平に師事し西洋砲術を学び大筒頭取となる。 1864年(元治元年)、久世家関宿藩の和泉国大鳥郡および和泉郡の飛地(1万石)の代官に抜擢され35俵2人扶持で赴任した。
平村 ペンリウク(ひらむら ペンリウク、1833年 - 19… 平村 ペンリウク(ひらむら ペンリウク、1833年 - 1903年(明治36年)11月28日)は、明治期のアイヌ指導者の一人。平取コタンのコタンコロクル(首長)。 1833年(天保4年)、平取コタンにシュロクの長男として生まれ、松浦武四郎『左留日誌』のなかにも名前が記されている。幼年の頃から勇敢で知られ、成長してからは同胞の苦難を救うためにしばしば北蝦夷地(樺太)に渡った。 1876年(明治9年)、イギリス人宣教師のウォルター・デニングはペンリウクの家に来てアイヌ語を学んだという。1878年(明治11年)、ハインリヒ・フォン・シーボルト次いでイギリス人の旅行者イザベラ・バードを迎え、バードはその滞在の思い出を紀行文に残した。
鯉江 方寿(こいえ ほうじゅ、通称:伊三郎とも、1821年1… 鯉江 方寿(こいえ ほうじゅ、通称:伊三郎とも、1821年12月30日(文政4年12月7日) - 1901年(明治34年)5月12日)は、尾張国知多郡常滑村(現:愛知県常滑市)出身の陶芸家。鯉江小三郎家三代目である。 父の鯉江方救と共に常滑焼の鉄砲窯(大窯)にかわる、真焼間窯を導入した。1835年に真焼間窯を親子で完成させたとされ(後述)、1874年には真焼土管(常滑陶管)の国産化に成功し、常滑焼の基礎を築いたとして名高い。 中国人を招聘、また、常滑焼を代表する朱泥の急須作りを導入し、その他には美術研究所や埋め立て事業(鯉江新開)を行った。 1821年(文政4年)12月7日、尾張国知多郡常滑村に陶芸家の鯉江方救の元に長男として生まれる。
富永 有隣(とみなが ゆうりん、文政4年5月14日(1821… 富永 有隣(とみなが ゆうりん、文政4年5月14日(1821年6月13日) - 明治33年(1900年)12月20日)は、江戸時代末期(幕末)の長州藩士・儒学者。諱は徳、後に悳彦。通称は弥兵衛。有隣は字で、『論語』の「徳は孤ならず必ず隣あり」から命名したとされる。 文政4年(1821年)、周防国吉敷郡陶村(現在の山口県山口市)にて誕生。 幼少の頃に天然痘にかかり右目を失明する。9歳で長州藩藩校・明倫館に入り、13歳で藩世子(藩主嫡男)に『大学』を講じた。成人後、小姓を務めるが、他人と打ち解けなかったために、同僚・親族らに憎まれ、嘉永5年(1852年)に冤罪で見島に流され、嘉永6年(1853年)には萩野山獄に移された。
若尾 逸平(わかお いっぺい、文政3年12月6日(1821年… 若尾 逸平(わかお いっぺい、文政3年12月6日(1821年1月9日) - 大正2年(1913年)9月7日)は日本の実業家・銀行家・政治家。貴族院議員、初代甲府市市長。従六位。 根津嘉一郎・雨宮敬次郎らとともに、郷土意識で緩やかな資本連合を持ち、中央経済界で影響力を持った甲州財閥と呼ばれるグループのひとりで、若尾家はその中核にあたる。 甲斐国西郡筋在家塚村(現在の山梨県南アルプス市在家塚)に生まれる。生家は百姓で、父は若尾林右衛門。逸平は長男。若尾逸平の来歴や逸話などは、1914年に内藤文治良の記した伝記『若尾逸平』に記されている。十代の頃、江戸に出て材木奉行の清水新右衛門に仕えたもののうまくいかず帰郷。
魚住 樂處(うおずみ らくしょ、文化6年9月(1809年) … 魚住 樂處(うおずみ らくしょ、文化6年9月(1809年) - 明治8年(1875年)2月)は、江戸時代後期の儒学者(朱子学派)。明治時代の教育者、政治家。名は明識(「名誠」との記載もあり)。字(あざな)は明晶。通称は三郎八。樂處はその号。福岡藩藩儒。 魚住明倫の子として筑前国に生まれる。藩校修猷館に学ぶ。 天保5年(1834年)修猷館指南加勢見習となり、天保14年(1843年)郡代となる。嘉永3年(1850年)致仕する。 慶応元年(1865年)勤王の国事に奔走したため、志士と共に禁錮せらること3年。明治2年(1869年)抜擢されて修猷館の文学教授兼伴読となり、明治4年(1871年)藩政に参画し、福岡藩権大参事に任ぜられる。
笠原 良策(かさはら りょうさく、文化6年5月10日(180… 笠原 良策(かさはら りょうさく、文化6年5月10日(1809年6月22日) - 明治13年(1880年)8月23日)は、江戸時代末期(幕末)の蘭方医。名は良、字(あざな)は子馬、号は鉄仏無涯堂、天香楼、桂窓、白翁。福井藩の町医。越前国足羽郡深見村(現・福井市)生まれ。父は福井城下の町医笠原龍斎。種痘の継続に尽力し、領内諸地域や北陸の近隣諸藩(府中・鯖江・大野・敦賀・大聖寺・金沢・富山)に種痘を広めた。 15、6歳の頃から福井藩の医学所へ通い、妻木陸叟から本草学を学んだ。文政12年(1829年)から天保3年(1832年)にかけて江戸に出て磯野公道(漢方)に入門し、その後福井城下木田中町で開業。天保7・8年(1836年-1837年)頃、湯治に出かけた山中温泉で蘭方医の大武了玄(藤林普山、小石元瑞に学んだ大聖寺藩町医)に出会い、蘭方医学に興味を持ち入門した。
大須賀 清光(おおすが せいこう、文化6年(1809年)4月… 大須賀 清光(おおすが せいこう、文化6年(1809年)4月 - 明治8年(1878年)6月17日)は、日本の江戸時代末期に活躍した町絵師。名は清光、通称は喜知松、号ははじめ蘭斎、のちに皎斎。地元・会津を題材にした郷土愛あふれる作品を数多く手掛けた。 先祖は蒲生家旧臣で、蒲生家が会津を去った後に商人となったという。清光も裕福な商人出身で、幼少から画を好み、旦那芸として佐藤香斎に書画を学んでいたが、後に画道に熱中するあまり家産を傾けたという。一方、漢学を山内穆斎、和歌を相川功垂に学んだという。 代表作としては、下記のように複数確認されている「若松城下絵図」が挙げられる。これらは作品ごとに書き込まれている武家屋敷の名称が変わっていたり、藩の施設や寺院の描写も変化が認められる。
柴田 花守(しばた はなもり、文化6年1月8日〈1809年2… 柴田 花守(しばた はなもり、文化6年1月8日〈1809年2月21日〉- 1890年〈明治23年〉7月11日)は、幕末の武士、宗教家(神道家)。富士講一派の不二道の10代教主。教派神道である実行教の初代菅長。 文化6年(1809年)1月8日、佐賀藩支藩の小城藩藩士・柴田礼助の子として、肥前国小城郡桜岡東子路の鍋島大学邸に生まれる。6歳にして藩校興譲館 (小城藩) に入学し、元服後、藩主の命により西洋医学の伝習生として長崎に留学。シーボルトの高弟で、眼科医の高良斉に師事。その後、病を得て帰宅したためにシーボルト事件に巻き込まれることはなかったが、師の良斉の依頼で日本の動植物の模写をシーボルトに渡している。
吉村 秋陽(よしむら しゅうよう、寛政9年2月4日(1797… 吉村 秋陽(よしむら しゅうよう、寛政9年2月4日(1797年3月2日) - 慶応2年11月15日(1866年12月21日))は、江戸時代後期の安芸広島藩出身の儒学者。広島藩筆頭家老の三原浅野家の儒者。朱子学からのち陽明学を重んじた。諱は晋、字は麗明。通称は重介、秋陽と号した。
鵜飼 舎杖(うかい しゃじょう、1797年(寛政9年) - … 鵜飼 舎杖(うかい しゃじょう、1797年(寛政9年) - 1883年(明治16年)8月21日)は、幕末から明治時代の日本の医師。近江国(現・滋賀県甲賀市)の出身。本名は実秀、通称は良輔で舎杖は雅号である。 寛政9年、三本柳鵜飼氏に生まれた。父は鵜飼玄達で、家は代々医業を営んでいた。若い頃から京都に遊学し、庫島松南に師事した。帰郷後は医師として活動した。舎杖が最も力を注いだのは、精神病患者の治療であったといわれる。「医は仁述なり」との信念を持ち、病気で貧しい人物がいると聞けば好んで施療した。また水口藩儒の中村栗園(中村確堂の養父)と交際を持った。明治維新に貢献した城多董を弟子に持つた、城多は経世済民に興味を持ち、学問を求め遊学を希望するが、父の賛同を得られず家業の傍らで勉学に励んだ。
高畠 式部(たかばたけ しきぶ、天明5年(1785年) - … 高畠 式部(たかばたけ しきぶ、天明5年(1785年) - 明治14年(1881年)5月28日)は、日本の幕末期から明治初期にかけての歌人。本名は刀美。式部は雅号である。 伊勢国松坂の商家に生まれる。 香川景樹から桂園流の歌を学び、景樹の歿後は千種有功に師事。和歌以外に書画、彫刻、琵琶、笙、茶道等も学んだ。 歌集に、『麦の舎集』、『式部蓮月二女和歌集』などがある。 墓は、京都市東山区円山町626の時宗寺院、黄台山長楽寺にある。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。
大含(だいがん、安永2年4月1日(1773年5月21日)- … 大含(だいがん、安永2年4月1日(1773年5月21日)- 嘉永3年10月9日(1850年11月12日))は、江戸時代後期の浄土真宗(大谷派)の僧。豊後国満徳寺で生まれ、豊前国古城正行寺鳳嶺の養子となる。別名、末広雲華(すえひろうんげ)、雲華院。 東本願寺の高倉学寮(現・大谷大学)に入って修学し、1834年(天保5年)、講師職(現在の学長に当たる職)に就任した。 ・詩文・書・絵画に秀で、笑社の中心となった儒者の頼山陽や南画家田能村竹田などと交流があった。特に蘭の絵を得意とした。 ・豪放磊落で天衣無縫な人物として知られ、身辺を飾ることなく、越中褌一丁で酒を飲み、書物を読むのが常だった。 ・なお、当時の学僧が説教の傾向を評した「易は上手 含は短し 蛇ながし 野洲ははなやか 徳なみだかな」という戯れ歌が残っている。
山東 京伝(さんとう きょうでん、旧字体: 山東 京傳、宝暦… 山東 京伝(さんとう きょうでん、旧字体: 山東 京傳、宝暦11年8月15日(1761年9月13日) - 文化13年9月7日(1816年10月27日))は、江戸時代後期の浮世絵師、戯作者。浮世絵師としては北尾 政演()と号し、葎斎()、北尾葎斎政演、北尾京伝、山東政演とも号して寛政元年(1789年)まで活動した。作画期は安永7年ころから文化12年前後(1778年-1815年)であった。寛政の改革における出版統制により手鎖の処罰を受けた。本業として現在の銀座1丁目に喫煙用の小物販売店「京屋」を開き、自分がデザインした紙製煙草入れが大流行した。「京屋」は京伝の作品中に宣伝として頻繁に登場している。 本名は岩瀬 醒()、または田臧()。
小谷田 子寅(こやた しいん、1761年(宝暦11年)4月4… 小谷田 子寅(こやた しいん、1761年(宝暦11年)4月4日 - 1831年(天保2年)4月11日)は八王子千人同心の一人。1761年(宝暦11年)4月4日、武蔵国多摩郡川口村(現・八王子市川口町)に生まれる。通称は権右衛門、諱は昌亮。 学問を塩野光廸(鶏沢、塩野適斎の養父)に、剣術を真鏡斎(若菜主計)に、医術を岑貉丘に学んだ。また、天文学にも詳しく、西洋学を好んだという。1831年(天保2年)4月11日、死去。享年71。1964年7月23日、心源院(八王子市下恩方町)に建つ「子寅先生碑」が八王子市の文化財に指定された。同碑の撰文は塩野適斎、書は植田孟縉が担当した。
青柳 文蔵(あおやぎ ぶんぞう、宝暦11年〈1761年〉 -… 青柳 文蔵(あおやぎ ぶんぞう、宝暦11年〈1761年〉 - 天保10年3月14日〈1839年4月27日〉)は、仙台藩領磐井郡東山町(現在の岩手県一関市東山町松川)出身の江戸時代後期の商人。医師・小野寺三達の三男として生まれる。名は茂明、号は東里、近水楼主人。青柳文庫の名前の由来となった人物である。 清和源氏佐竹氏あるいは武田氏の後裔と称し、兄2人、姉3人の末子であった。父は私塾もやっていたので幼いころから和漢の書物に触れる機会を持っていた。18歳で江戸に出て、苦労しながら学問を続け、井上金峨に儒学を学んだ。その後、公事師として財をなすに至った。 墓所は東京都豊島区高田の金乗院にある。 1831年(天保2年)、仙台藩に書籍2,885部、9,937冊、また100両を贈り、藩はこれを公開図書館として一般に供することとなり、これが日本の最初の公開図書館となる。
佐渡嶽 沢右エ門(さどがたけ さわえもん、1737年 - 1… 佐渡嶽 沢右エ門(さどがたけ さわえもん、1737年 - 1795年)は、上野国群馬郡(群馬県前橋市)出身で伊勢ノ海部屋に所属した江戸時代の大相撲力士。最高位は前頭2枚目。現代に続く年寄名跡・佐渡ヶ嶽の初代である。
丸山 権太左衛門(まるやま ごんだざえもん(ごんたざえもん)… 丸山 権太左衛門(まるやま ごんだざえもん(ごんたざえもん)、1713年(正徳3年)- 1749年12月23日(寛延2年11月14日))は、仙台藩・陸奥国領出身で七ツ森部屋に所属した大相撲力士。第3代横綱。本名は芳賀 銀太夫(はが ぎんだゆう)。 陸奥国遠田郡中津山村(現・宮城県登米市米山町中津山)出身。元文年間頃に初土俵を踏む。家老衆の家来になって江戸見物に出たが、体が重く歩くのが下手だったため、二足用意した草鞋をすぐ踏み潰しては徹夜で編み直すこととなり、馬に乗せれば足が地に着いてしまうほどだった。やっとの思いで江戸に到着したが、これでは故郷に帰るのもおぼつかないために入門したと伝わる。1737年(元文2年)4月大坂堀江で行われた興行に西大関として出場。