小室 重弘(こむろ しげひろ、1858年(安政5年9月)- … 小室 重弘(こむろ しげひろ、1858年(安政5年9月)- 1908年(明治41年)6月13日)は、明治期のジャーナリスト、政治家、詩人。衆議院議員。号・屈山。 武蔵国江戸、のちの東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町(東京市渋谷区を経て現東京都渋谷区)の宇都宮藩江戸藩邸で同藩士の家に生まれる。漢籍を修めた。 佐久山で自由民権運動を進めた。田中正造の要請で栃木新聞(現下野新聞)幹事に就任し、栃木県会書記となる。国会開設運動に加わる。1881年(明治14年)自由新聞に転じ、新中新報に移った。その後、長野県で活動。1889年(明治22年)新愛知新聞主筆に就任した。 1894年(明治27年)3月、第3回衆議院議員総選挙(愛知県第2区、自由党)で初当選し、その後、第5回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続3期在任した。
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浅田 次郎(淺田、あさだ じろう、1858年(安政5年8月)… 浅田 次郎(淺田、あさだ じろう、1858年(安政5年8月)- 1899年(明治32年)11月14日)は、明治期の実業家・政治家。衆議院議員。 肥前国彼杵郡、のちの長崎県東彼杵郡大村(現大村市)で生まれた。漢籍を修めた。 活版印刷業、貿易商を営む。また、長崎米穀石油取引所理事長、長崎新報社監査役、遠洋捕鯨取締役、長崎商業会議所議員などを務めた。 政界では、長崎市会議員、長崎市参事会員、徴兵参事員などを務めた。1898年(明治31年)8月の第6回衆議院議員総選挙(長崎県第1区、憲政党)で当選し、衆議院議員に1期在任した。議員在任中の1899年11月に死去した。
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久保田 右作(くぼた うさく、1858年(安政5年1月) -… 久保田 右作(くぼた うさく、1858年(安政5年1月) - 1923年(大正12年)6月8日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)。 越後国魚沼郡小千谷町(のち新潟県北魚沼郡小千谷町、現・小千谷市)生まれ。漢学と英語を学ぶ。学務委員、小千谷町会議員、同助役、町村組合会議員、新潟県会議員となる。 1894年3月の第3回衆議院議員総選挙において新潟7区から立憲改進党所属で立候補して初当選する。同年9月の第4回衆議院議員総選挙で再選した。衆議院議員を2期務め、1898年3月の第5回衆議院議員総選挙は不出馬。1923年に死去した。
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厚地 政敏(あつち まさとし、1858年(安政5年1月)- … 厚地 政敏(あつち まさとし、1858年(安政5年1月)- 1921年(大正10年)2月11日)は、明治から大正期の政治家、実業家。衆議院議員、鹿児島県会議長。 薩摩国谿山郡谷山郷、のちの鹿児島県谿山郡谷山村(鹿児島郡谷山村、谷山町、谷山市を経て現鹿児島市)で生まれた。15歳で上京しバラ塾で英語を学んだ後に大学予備門に入学。病のため帰郷し、九州改進党鹿児島部の結成に参画し、政治活動と共に青年の指導を行う。谷山小学校(現鹿児島市立谷山小学校)の初代校長を務めた。 1883年(明治16年)1月、鹿児島県会議員に当選し、鹿児島同志会が発足し理事に就任して自由民権運動を進めた。第7代県会議長に就任。その後、吏党派の独立クラブに転じた。
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植田 理太郎(うえだ りたろう、1858年(安政5年9月) … 植田 理太郎(うえだ りたろう、1858年(安政5年9月) - 1919年(大正8年)1月2日)は、日本の政治家。衆議院議員(3期)。 大和国葛下郡、のちの奈良県北葛城郡磐城村(當麻村、當麻町を経て現葛城市)生まれ。漢学と法律学を学ぶ。農業と林業を営む。奈良県会議員となる。 1892年(明治25年)第2回衆議院議員総選挙において奈良2区から独立倶楽部所属で立候補して初当選した。1894年(明治27年)3月の第3回衆議院議員総選挙では政務調査所所属で立候補して再選した。同年9月の第4回衆議院議員総選挙では大手倶楽部所属で立候補して三選。衆議院議員を3期務め、1898年(明治29年)3月の第5回衆議院議員総選挙では国民協会から立候補したが次点で落選した。
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渋江 公寧(澁江、しぶえ きみやす、1858年(安政5年11… 渋江 公寧(澁江、しぶえ きみやす、1858年(安政5年11月)- 1896年(明治29年)11月30日)は、明治期の教育者、政治家。衆議院議員。字・子静、号・龍伏。 肥後国菊池郡、のちの熊本県菊池郡隈府町(菊池町を経て現菊池市)で、儒学者渋江公木の息子として生まれた。父から学び、1876年(明治9年)熊本県師範学校を卒業。漢学塾・遜志堂を開き子弟の教育を行った。 政界では熊本県会議員に就任。1894年(明治27年)9月、第4回衆議院議員総選挙(熊本県第3区、国民協会)で当選し、衆議院議員に1期在任した。議員在任中の1896年11月に死去した。
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川上 源一(かわかみ げんいち、1858年〈安政5年1月〉 … 川上 源一(かわかみ げんいち、1858年〈安政5年1月〉 - 1926年〈大正15年〉4月13日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 信濃国筑摩郡苅谷原村(現長野県松本市)生まれ。中山道塩尻宿(同県塩尻市)の脇本陣川上家の養子となる。慶應義塾で学んだ。1885年(明治18年)に塩尻町ほか11ヶ村の戸長に任命され、1891年(明治24年)長野県会議員となった。同年12月に発足した鉄道期成同盟会では評議員となり、篠ノ井線、中央本線敷設問題に尽力した。1892年(明治25年)の第2回衆議院議員総選挙に長野第4区から立候補したが、この時は落選している。1894年(明治27年)の第3回総選挙に再び長野第4区から立候補して当選した。
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河野 岩吉(こうの / かわの いわきち、1858年(安政5… 河野 岩吉(こうの / かわの いわきち、1858年(安政5年1月) - 1930年(昭和5年)6月22日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 播磨国印南郡曽根村(のち兵庫県印南郡曽根村→曽根町、現・高砂市)生まれ。漢学を学ぶ。曽根村会議員、同村長、曽根町長、印南郡会議員、同議長、兵庫県会議員、学務委員、所得税調査委員、宅地賃貸価格調査委員、土地賃貸価格調査委員、小作調停委員となる。 1890年の第1回衆議院議員総選挙において兵庫5区から自由党所属で立候補したが次点で落選。1892年の第2回衆議院議員総選挙でも次点で落選。1894年3月の第3回衆議院議員総選挙では立憲改進党から立候補したが次点で落選。
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北川 武(きたがわ たけし、1858年(安政5年) - 19… 北川 武(きたがわ たけし、1858年(安政5年) - 1913年(大正2年)1月2日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等功級は、従四位・勲三等・功四級。陸軍電信部隊の創設者。
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堀内 賢郎(ほりうち かしくろう、安政5年10月(1858年… 堀内 賢郎(ほりうち かしくろう、安政5年10月(1858年)- 大正8年(1919年)8月25日)は、衆議院議員(自由党)。号は如風。 信濃国埴科郡粟佐村(現長野県千曲市)生まれ。明治維新後、上京して 中江兆民の仏学塾に学ぶ。明治17年(1884年)自由党に入党し、同21年(1888年)長野県会議員となり、翌22年(1889年)第1回衆議院議員総選挙で初当選した。条約改正中止の建白書を政府に提出したほか、地元で埴科郡自由党を結成した。自由党中央委員となり、同31年(1898年)、党合同により憲政党が発足すると、北海道庁事務官に就任し、高等官二等、正五位に叙せられた。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
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川本 達(かわもと とおる、1858年(安政5年2月) - … 川本 達(かわもと とおる、1858年(安政5年2月) - 1940年(昭和15年)1月24日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 対馬国下県郡府中今屋敷町(のち長崎県下県郡厳原町、現・対馬市)生まれ。漢学を学ぶ。厳原町会議員、下県郡会議員、長崎県会議員、上県郡仁田村(のち上県町、現・対馬市)、下県郡雞知村(のち雞知町→美津島町、現・対馬市)各村長、第百二国立銀行頭取、対馬漁業組合頭取、対馬汽船会社社長となる。 1892年の第2回衆議院議員総選挙において長崎6区から中央交渉会で立候補して当選、対立候補とは1票差の11票だった。衆議院議員を1期務め、1894年3月の第3回衆議院議員総選挙は不出馬。
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臼井 幾蔵(うすい いくぞう、安政4年(1857年) - 昭… 臼井 幾蔵(うすい いくぞう、安政4年(1857年) - 昭和10年(1935年)1月)は、日本の医師。旧姓田淵。 二男・宗の妻は元鳥取県知事石破二朗(政治家石破茂の父)の姉。 鳥取県八上郡本角村(現鳥取市河原町)の医師・田淵養玄の二男。 幼時より学問もよく出来、佐貫の円浄寺の住職に漢書を学び、長じて鳥取川端一丁目で外科を開業していた黒川樹平について医学を学んだ。 明治17年(1884年)医師開業試験に合格。はじめ小畑で開業していたが臼井宗順の家を継いでからは市場で開業した。幾蔵は性格は厳格であったが常に西洋医学を学び新しい医療器具や技術を取入れて診療していたという。 外科が得意で、開業して間もない頃壊疽の患者の大腿切断術を施して村人達を驚服させたと伝えられている。
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鄭 永慶(てい えいけい、1858年〈安政5年〉 - 189… 鄭 永慶(てい えいけい、1858年〈安政5年〉 - 1894年〈明治27年〉7月17日)は、明治時代の日本の実業家。日本で最初の本格的な喫茶店「可否茶館」(かひさかん)を開いたことで知られる。父(養父)は唐通事・外交官の鄭永寧。兄弟に外交官の鄭永昌・鄭永邦がいる。 1858年(安政5年)、肥前国長崎に鄭幹輔の庶子として生まれる。家は代々唐通事を務めた鄭氏の一族で、養父は外交官の鄭永寧(唐通事呉家出身)。同じく外交官の鄭永昌や鄭永邦は兄弟。義弟の楊龍太郎は内閣書記官長などを務めた伊東巳代治の従兄弟。幼少期に漢学・書道を学び、1869年(明治2年)からは父・永寧に伴い清へ渡り、永昌とともに北京に滞在して中国語を学ぶ。
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深山 聳峮(ふかやま たかつら、1858年(安政5年2月)-… 深山 聳峮(ふかやま たかつら、1858年(安政5年2月)- 1912年(大正元年)9月9日)は、明治期の政治家。衆議院議員。 伊賀国名張郡、のちの三重県名張郡箕曲村(一次)(名賀郡箕曲村、名張町、箕曲村(二次)を経て現名張市)で生まれる。漢学を修めた。 三重県会議員に選出され、同常置委員も務めた。1894年(明治27年)3月、第3回衆議院議員総選挙(三重県第6区、自由党)で初当選し、以後、第5回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続3期在任した。
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中村 信夫(なかむら のぶお、1858年(安政5年10月) … 中村 信夫(なかむら のぶお、1858年(安政5年10月) - 1933年(昭和8年)4月6日)は、明治から昭和時代初期の政治家。衆議院議員(1期)。岐阜県吉城郡古川町長。幼名は三喜造。 酒造業・中村善右衛門の長子として飛騨国吉城郡、のちの古川町(現岐阜県飛騨市)に生まれる。秋月橘門や岡田呉陽などの門で漢学を修めた。1882年(明治15年)4月、帰郷し1883年(明治16年)古川銀行取締役となり、ついで桐山孫兵衛らとともに癸未義塾を創立し幹事として後進の教育に努めた。1883年(明治16年)4月、父の病没を受け母と共に上京し慶應義塾に学んだ。のち、東京市本所区にて織物工場を興し社長を務めたほか、古川町長、飛州木材会社相談役などを歴任した。
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畠中 三太郎(はたなか さんたろう、安政5年(1858年) … 畠中 三太郎(はたなか さんたろう、安政5年(1858年) - 昭和7年(1932年)7月)は、明治時代から昭和時代にかけての農業指導者。通称、畠中三左衛門。 安政5年(1858年)薩摩国川辺郡川辺郷田部田村(現在の鹿児島県南九州市川辺町田部田)の農家の次男として生まれる。 明治22年(1889年)各郡役所に農業技手の配置が始まり、これを契機に農業技術指導員として奄美大島に赴任。当初は、短期間の予定だったが茶畑づくりや木炭製造等の技術が優れていたため住用戸長役場に雇われる事となり西仲間集落(現在の奄美市住用町大字西仲間)に移り住む。三太郎は奄美大島のサトウキビ作り一色の農業を打開するため三太郎峠周辺に農園を開くことを思いつき、明治32年(1899年)住用周辺にあった峠(現在の三太郎峠)の山林を入手し妻のシゲと共に開墾を始めた。
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須田 万右衛門(萬右衛門、すだ まんえもん、1858年(安政… 須田 万右衛門(萬右衛門、すだ まんえもん、1858年(安政5年9月) - 1901年(明治34年)8月21日)は、明治時代の政治家。実業家。銀行家。大地主。衆議院議員。 美濃国武儀郡上有知村(岐阜県武儀郡上有知町、美濃町を経て現美濃市)出身。先代万右衛門(清信)の二男として生まれ、須田万右衛門(清堅)を襲名。漢学を修める。 村会議員、上有知町会議員、武儀郡会議員、岐阜県会議員、製紙改良組合副会頭、美濃紙輸出、美濃鉄道会社各取締役、上有知銀行頭取を歴任した。 1894年(明治27年)3月の第3回衆議院議員総選挙では岐阜県第5区から無所属で出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
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杉本 重遠(すぎもと しげとお、弘化3年11月14日〈184… 杉本 重遠(すぎもと しげとお、弘化3年11月14日〈1846年12月31日〉 - 1921年〈大正10年〉2月24日)は、幕末の館林藩士、明治期の内務官僚・実業家。大分県知事。従四位勲四等。幼名、太郎吉。 弘化3年(1846年)、江戸浜町の館林藩中屋敷に生まれる。父は杉本重好。3歳の時に父とともに館林へ移った。館林藩主・秋元志朝が創設した藩校・求道館(のち造士書院)に学び、表小姓として出仕した。また藩外交官補助、国事外交係を務める。 明治維新後は鎮将府に召し出された。明治2年(1869年)館林藩権少参事となり、権少検事、大警部などを歴任する。1884年(明治17年)には欧米を歴訪。徳島県書記官、警視庁警務局長、新潟県書記官などを歴任する。
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屋須 弘平(やす こうへい / Juan José de J… 屋須 弘平(やす こうへい / Juan José de Jesús Yas / 1846年〈弘化3年〉12月27日 - 1917年〈大正6年〉11月29日)は、岩手県(陸奥国)で生まれ、アンティグア・グアテマラへと移住した日本人写真家である。日本の写真創成期の写真家達(上野彦馬や下岡蓮杖など)とは無縁に、グアテマラで写真術を習得した。 1846年、岩手県一関市藤沢町藤沢に生まれた。父は蘭学医の尚安。幼少期より父から蘭学を学び、1863年、15歳で上京し叔父より漢学を学ぶ。その後医学や天文学などを修学し、1868年に帰郷。3年ほど医業に携わり、再び上京。 1874年に神奈川県横浜市で通訳として金星観測を行った著名なメキシコン人天文学者コバルビアス率いるメキシコ科学調査隊との出会いをきっかけとして、メキシコへ渡った。
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山本 貴三郎(やまもと きさぶろう、1846年12月20日(… 山本 貴三郎(やまもと きさぶろう、1846年12月20日(弘化3年11月3日)- 1899年(明治32年)12月22日)は、幕末の佐賀藩士、明治期の実業家・政治家。衆議院議員。 肥前国高来郡、のちの長崎県北高来郡諫早町(現諫早市)で生まれた。郷校で学び、その後、熊本に遊学し漢学、武術を修めた。16歳で帰郷し、佐賀藩の選抜生となり長崎の江戸町英学校で学び、さらに何礼之に師事し英学を修めた。 1868年(慶応4年)戊辰戦争が開戦すると、副島種臣らと長崎に赴き、振遠隊として長崎、島原、大村から隊員を募り、その後、秋田に向かい新政府軍に加わった。 その後、官途には就かず天草、肥前松島、平戸などで採炭事業を営む。
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野々村 久次郎(ののむら きゅうじろう、1846年12月12… 野々村 久次郎(ののむら きゅうじろう、1846年12月12日(弘化3年5月30日) - 1925年(大正14年)11月4日)は、明治から大正時代の政治家。銀行家。貴族院多額納税者議員。 美濃国方県郡、のちの岐阜県本巣郡西郷村(現岐阜市)出身。野々村佐太郎の子として生まれ、のち叔父佐兵衛の養子となり1887年(明治20年)4月、家督を相続する。 1879年(明治12年)以降、下西郷村戸長、同衛生委員、本巣郡会議員のほか、第九十五国立銀行取締役、野々村銀行頭取を歴任した。 1918年(大正7年)9月には岐阜県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1921年(大正10年)7月6日まで務めた。
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正木 退蔵(まさき たいぞう、弘化3年10月24日(1846… 正木 退蔵(まさき たいぞう、弘化3年10月24日(1846年12月12日) - 1896年(明治29年)4月5日)は、明治時代の教育者、外交官。旧萩藩士で、維新後ロンドンに留学し、開成学校講師で化学を教えた。その後、同校留学生監督として再び渡英し、帰国後東京職工学校初代校長に就任、晩年は在ハワイ王国総領事を務めた。正五位勲六等。 弘化3年(1846年)10月24日、長門国萩城外土原村渡り口筋で、萩藩大組士正木治右衛門の三男として生まれた。間もなく佐伯丹下の養子となったが、後に正木姓に復した。 安政5年(1858年)松下村塾で数ヶ月間吉田松陰に学んだ後、毛利元徳小姓として長州正義派に与し、大村益次郎の三兵学科塾で蘭学、兵学、三田尻海軍学校で英学を学んだ。
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内藤 魯一(ないとう ろいち、弘化3年10月6日(1846年… 内藤 魯一(ないとう ろいち、弘化3年10月6日(1846年11月24日) - 明治44年(1911年)6月29日)は、幕末から明治にかけて活躍した自由民権運動家。衆議院議員(立憲政友会)。東海地方の民権運動の嚆矢として知られる。 弘化3年10月6日(1846年11月24日)、陸奥国福島(現在の福島県福島市)に生まれた。内藤家は福島藩藩士の家であり、代々譜代大名板倉氏の家老職を務めた家柄だった。 慶応4年 (1868年)の戊辰戦争の際、福島藩は奥羽越列藩同盟に参加したが、内藤はこれに反対して孤立したが、福島藩が敗北すると事態の収拾に尽くした。その後、三河国の重原藩(現在の愛知県刈谷市)に転封されたものの、執政大参事として藩政の立て直しに参画し、廃藩置県後も藩士の授産活動に尽くした。
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5代淡谷 清蔵(あわや せいぞう、1846年11月11日(弘… 5代淡谷 清蔵(あわや せいぞう、1846年11月11日(弘化3年9月23日) - 1923年(大正12年)7月10日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員、青森市長。幼名・清作。 陸奥国津軽郡青森(現青森県青森市)で、淡路島を祖とする呉服商「大世」の家に生まれる。成人となり家業に従事し、安方町組頭となる。1889年(明治22年)5月22日に清蔵と改名した。同年、青森町会議員に当選した。1891年(明治24年)、銀行に類似した「盛融会」(ため講)を創立。1892年(明治25年)にも町会議員に当選したが、1895年(明治28年)4月に辞職した。その後、商業会議所会頭、農工銀行取締役、青森電燈会社取締役、青森倉庫会社社長、青森貯蓄銀行専務取締役、青森銀行頭取、第五十九銀行取締役などを務めた。
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飯淵 七三郎(飯渕、いいぶち しちさぶろう、1846年11月… 飯淵 七三郎(飯渕、いいぶち しちさぶろう、1846年11月8日(弘化3年9月20日)- 1926年(大正15年)4月20日)は、明治から大正時代の政治家、銀行家。貴族院多額納税者議員。 素封家・飯淵藤七の長男として陸奥仙台藩領柴田郡船岡村(船岡町を経て現柴田町)に生まれる。1874年(明治7年)11月、家督を相続した。1879年(明治12年)船岡村会議員に当選。翌年、宮城県会議員となる。1893年(明治26年)久保寺豊太郎から仙台の日進学舎を買収し、同校の改革に努めた。ほか、柴田郡会議員、同議長代理などを歴任した。また、農家の指導啓発に尽力するとともに、船岡村農会を設立して肥料購入、資金融資の便宜を図った。
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田宮 勇(たみや いさむ、1846年11月5日(弘化3年9月… 田宮 勇(たみや いさむ、1846年11月5日(弘化3年9月17日)- 1895年(明治28年)11月13日)は、明治期の農業経営者・政治家。衆議院議員。幼名・千太郎。号・松雨。 山城国綴喜郡上村(京都府綴喜郡普賢寺村大字上小字小田垣内、田辺町大字普賢寺を経て現京田辺市普賢寺)で、南山郷士、組頭、農業・田宮喜平次の長男として生まれる。相楽郡木津町の沢井石芸に師事し漢学を修めた。 1872年(明治5年9月)大区小区制の設置に伴い副区長に就任し1874年(明治7年)まで在任。1876年(明治9年)6月、西川義延の後任として地租改正事件郡総代人となり、事業終了の1877年(明治10年)7月まで務めた。
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雨宮 敬次郎(あめのみや けいじろう、あめみや けいじろう、… 雨宮 敬次郎(あめのみや けいじろう、あめみや けいじろう、弘化3年9月5日〈1846年10月24日〉 - 1911年〈明治44年〉1月20日)は日本の実業家・投資家。「天下の雨敬」「投機界の魔王」「明治の鉄道王」などの異名をとった。 結束して商売にあたった甲州商人、いわゆる「甲州財閥」と呼ばれる集団の一人であり、「政治の伊藤博文、金の安田善次郎」とともに「事業の雨宮敬次郎」とまで謳われた。最も知られる功績として、現在の長野県軽井沢町の基礎となる植林事業や、日本製粉の設立、東京市街鉄道や大日本軌道といった鉄道分野での事業などがある。 甲斐国山梨郡牛奥村(現・山梨県甲州市塩山牛奥)に名主・雨宮總右衛門の三男として生まれる。
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今村 和郎(いまむら わろう / かずろう、弘化3年9月3日… 今村 和郎(いまむら わろう / かずろう、弘化3年9月3日〈1846年10月22日〉 - 1891年〈明治24年〉5月4日)は、明治時代の日本の法制官僚・教育者。 土佐国出身。大学南校(東京大学の前身の1つ)教員を経て岩倉使節団の随員としてフランスに渡り、パリ東洋語学校(フランス国立東洋言語文化学院の前身)に勤務。帰国後は内務省取調局長、法制局(内閣法制局の前身)部長、明治法律学校(明治大学の前身)講師、貴族院議員、行政裁判所評定官を歴任し、法律取調委員会の報告委員として旧民法のうち日本政府法律顧問ボアソナードが起草した財産法部分(ボアソナード民法典)の制定に尽力した。 弘化3年9月3日(1846年10月22日)、土佐国高岡郡高岡村に商家の長男として生まれる。
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田村 宗立(たむら そうりゅう、弘化3年8月20日(1846… 田村 宗立(たむら そうりゅう、弘化3年8月20日(1846年10月10日) - 大正7年(1918年)7月10日)は、明治期の洋画家、画僧。別号に月樵、十方明。京都において浅井忠に先立って洋画普及の礎を築いた。 丹波国船井郡上河内村(現在の京都府南丹市園部町船岡)に田村宗貫と佐野忠左衛門の次女尚子との間に生まれる。宗立は僧名とする説もあるが、師・憲海は弟子に法諱を授ける際に「憲」の字を与えるのが基本で、父の名が宗貫な事や遺族の証言から戸籍名で、本名を法諱に転用した可能性が高い。公卿中山家に仕えた父に従い、幼時を京都、亀岡で過ごした。3歳ではじめて絵筆を持ち、9歳の時百人一首を模写して周囲を驚かせたという。
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中島 信行(なかじま のぶゆき、旧名:中島 作太郎〈なかじま… 中島 信行(なかじま のぶゆき、旧名:中島 作太郎〈なかじま さくたろう〉、1846年10月5日〈弘化3年8月15日〉 - 1899年〈明治32年〉3月27日)は、明治時代の官僚、政治家。号は長城。元土佐脱藩浪士(海援隊士)。初代衆議院議長。先妻は陸奥宗光の妹初穂で長男は中島久万吉。後妻は男女同権論者の岸田俊子(中島湘煙)。 明治維新後、外国官及び兵庫県に徴され、通商正・出納正、紙幣権頭、横浜税関長、神奈川県令、元老院議官(国憲取調委員)を歴任後、野に下って民選議院開設・自由民権運動に加わり自由党副総理・立憲政党総理を兼任。民権派の大同団結の立場を堅持し、第1回衆議院議員選挙で当選、初代衆議院議長を務めた。
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山本 梅荘(やまもと ばいそう、弘化3年8月13日(1846… 山本 梅荘(やまもと ばいそう、弘化3年8月13日(1846年10月3日) - 大正10年(1921年)2月24日)は、明治・大正期の南画家。「梅荘」は雅号で、名は倉蔵、字は子埜。また、最初の号は「半邨」だった。 碧海郡新川鶴ヶ崎村(現・碧南市新川町鶴ヶ崎地区)で出生。幼少の頃、書画骨董商山本滄洲堂(名は公平)の養嗣子となり、知多郡半田村(現・愛知県半田市)に移住する。 その後、京都に出て貫名菘翁、三谷雪崦に師事して南画を学んだ。 明治15年(1882年)の内国絵画共進会で褒状を授与されたほか、各種の博覧会共進会で受賞を重ね、明治45年(1912年)には文部省美術展覧会審査員に任命された。作品は山水画が多い。
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飯田 俊助(いいだ としすけ、1846年9月30日(弘化3年… 飯田 俊助(いいだ としすけ、1846年9月30日(弘化3年8月10日) - 1914年(大正3年)3月23日)は、日本の陸軍軍人、華族。最終階級は陸軍中将。男爵。 長門国厚狭郡宇部村(現・山口県宇部市)生まれ。長州藩家老福原家家臣・飯田直規(勘右衛門)の四男として生まれる。幼名は益雄。幼少期に両親を失う。豊後国の広瀬青邨に漢学を学ぶが、下関戦争の報を聞き直ちに帰国、福原越後に従って国事に奔走。その後奇兵隊に入隊し第二次長州戦争・戊辰戦争に従軍した。 1873年(明治6年)2月、歩兵少尉に任官。1874年(明治7年)9月、歩兵中尉となり、西南戦争では歩兵第2連隊第一中隊長として田原坂の戦いに参加した。
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法貴 発(ほうき はつ / たかし、1846年9月29日〈弘… 法貴 発(ほうき はつ / たかし、1846年9月29日〈弘化3年8月9日〉 - 1890年〈明治23年〉12月23日)は、明治時代の政治家、官吏、裁判官。自由民権運動家。衆議院議員(1期)。幼名は篤介、信保。 丹波篠山藩士・法貴新治の二男として丹波国多紀郡篠山山内町(兵庫県多紀郡篠山町、篠山市を経て現丹波篠山市)として生まれた。のち上京し昌平黌に入り塩谷宕陰、中井履軒、芳野金陵などに漢籍を学んだ。長州征討、戊辰戦争に従軍したのち開国論および佐幕主義に目覚め、各地を転々としたのち鹿児島の兵学寮に入校した。1871年(明治4年)の廃藩置県を機に篠山へ帰郷し、間もなく上京し大蔵省地租改正局に出仕し同職を5年間に渡り務めた。
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12代 稲葉 市郎右衛門(稻葉 市郎右衞門、いなば いちろう… 12代 稲葉 市郎右衛門(稻葉 市郎右衞門、いなば いちろうえもん、1846年9月14日(弘化3年7月24日)- 1915年(大正4年)7月8日)は、丹後国熊野郡久美浜村(現・京都府京丹後市)出身の地主・銀行家・政治家。衆議院議員。幼名・正吉、元服後は新一郎。稲葉市郎右衛門英裕(いなば いちろうえもんひでひろ)とも呼ばれる。 弘化3年7月24日(1846年9月14日)、丹後国熊野郡久美浜村(京都府熊野郡久美浜村、久美浜町を経て現京丹後市)に生まれた。父は地主である11代稲葉市郎右衛門太訓(餘庵)、母はりうであり、二男だった。稲葉家は糀屋を屋号とし、廻船業や金融業で富を成した豪商である。幼少期から出石藩の儒学者である島村弘輔と土岐新之丞に漢学を学んだ。
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小崎 義明(こざき よしあき、1846年9月2日(弘化3年7… 小崎 義明(こざき よしあき、1846年9月2日(弘化3年7月12日)- 1904年(明治37年)4月20日)は、明治期の地主、政治家。衆議院議員。幼名・律五郎、のちに清、義明。号・篠州(じょうしゅう)。 肥後国天草郡大浦村(熊本県天草郡大浦村、有明村、有明町を経て現天草市有明町)で、大庄屋・小崎武一郎重謙(しげかね)、清の息子として生まれる。漢籍を値賀盛純、高尾道一郎に、書を城野静軒に学び、広瀬淡窓の咸宜園にも入塾した。 1858(安政5年2月)職務見習勤務を命ぜられ、1864年(文久3年12月)父の死去に伴い天草郡栖本組大庄屋を世襲した。1865年(慶応元年)九品寺閻魔堂に寺子屋を開設。1869年11月(明治2年10月)から1870年1月(明治2年12月)まで長崎県掌郡方刑法掛勤務を務めた。
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栗林 得太郎(くりばやし とくたろう、弘化3年7月11日(1… 栗林 得太郎(くりばやし とくたろう、弘化3年7月11日(1846年9月1日) - 明治17年(1884年)2月11日)は新潟県の豪農。第七大区第二小区戸長、第十大区長、南蒲原郡書記を歴任した。子に栗林五朔。 弘化3年(1846年)7月11日、越後国蒲原郡三条町に六代目栗林七郎治の五男三女の長男として生まれた。安政3年(1856年)父が西大崎村名主を命じられたため、同村に移り、安政6年(1859年)14歳で家督を継いだ。 幼少より帯織村岩崎塾に学び、江戸に出て蒲生重章に入門し、片桐省介、岩崎幸太郎等と交わったが、明治元年(1868年)戊辰戦争勃発に伴い帰郷した。 明治2年(1869年)御徒士取扱として新潟県商館御取立取締役を命じられ、明治5年(1872年)9月第七大区第二小区戸長となった。
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松岡 康毅 (まつおか やすたけ、1846年8月14日〈弘化… 松岡 康毅 (まつおか やすたけ、1846年8月14日〈弘化3年6月23日〉- 1923年〈大正12年〉9月1日)は、日本の司法官僚・政治家。徳島県板野郡上板町七条出身。位階・勲等・爵位は贈従一位勲一等男爵。検事総長、農商務大臣、貴族院議員。日本法律学校第2代校長、日本大学初代学長・初代総長。幼名は毅之進、のち康毅。 検事総長や農相を歴任。学問的遺業の中には拷問制度の廃止と裁判所構成法を中心とする訴訟制度近代化の提唱が特筆されている。 山田顕義の死後、廃校決議まであった日本法律学校を立て直し、30年間にわたり日本大学の発展に寄与し、同学の礎を築いた。
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森 犀助(もり さいすけ、1846年8月7日〈弘化3年6月1… 森 犀助(もり さいすけ、1846年8月7日〈弘化3年6月16日〉 - 1908年〈明治41年〉12月31日)は、日本の政治家。山形県南村山郡東村長。山形県会議員。 現在の上山市菖蒲出身。森作右衛門の長男として出生。1891年(明治24年)5月18日に南村山郡会議員選挙に東村選挙区から立候補して、当選。その後、1893年(明治26年)、1897年(明治30年)、1899年(明治32年)、1903年(明治36年)、1907年(明治40年)の選挙でも当選した。 1899年(明治32年)9月25日に山形県会議員総選挙に南村山郡選挙区から憲政党公認で立候補して、当選を果たした。1903年(明治36年)は立憲政友会公認で立候補して、再選を果たした。
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池松 豊記(豐記、いけまつ とよき、1846年7月23日(弘… 池松 豊記(豐記、いけまつ とよき、1846年7月23日(弘化3年6月1日)- 1921年(大正10年)9月13日)は、明治期のジャーナリスト、農業経営者、政治家。衆議院議員、熊本県球磨郡上村長。 肥後国玉名郡上小田村(熊本県玉名郡上小田村、小田村を経て現玉名市上小田)で、医師・池松玄操の二男として生まれた。 明治の初めころに東京に出て自由民権運動に加わる。1875年(明治8年)評論新聞が創刊され、記者となる。西南戦争後に帰郷し、民権活動家に呼びかけ1878年(明治11年)5月、民権結社・相愛社を組織し社長に就任。1881年(明治14年)7月、その機関紙「東肥新報」発刊して民権思想を広めた。1882年(明治15年)2月、相愛社は実学党と公議政党を形成し、その後、九州改進党となった。
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山口 素臣(やまぐち もとおみ、1846年6月8日〈弘化3年… 山口 素臣(やまぐち もとおみ、1846年6月8日〈弘化3年5月15日〉- 1904年〈明治37年〉8月7日)は、日本の陸軍軍人。第5師団長、歩兵第3・10旅団長を歴任し数々の戦役に悉く従軍した事から「戦将中の戦将」と評された。階級は陸軍大将従二位勲一等功二級子爵。 山口藩士・山本芳の息子として萩に生まれ、同藩士・山口義惟の養子となる。戊辰戦争に奇兵隊嚮導役として従軍し北陸、奥羽を転戦。維新後は陸軍に仕官する。 明治3年(1870年)9月に大坂陸軍教導団第2教導隊に入り明治4年(1871年)4月、陸軍軍曹に任命される。同年中に少尉、中尉、大尉と累進し1873年(明治6年)10月より陸軍少佐。翌年1月、近衛歩兵第1連隊が創設されると第1大隊長に就任し、佐賀の乱に参戦。
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佐藤 清右衛門(さとう せいえもん、1846年6月7日(弘化… 佐藤 清右衛門(さとう せいえもん、1846年6月7日(弘化3年5月14日)- 1929年(昭和4年)2月5日)は、明治から昭和時代初期の政治家、実業家。徳清の9代目、貴族院多額納税者議員。幼名は種次郎。 盛岡出身。佐藤徳次郎の長男として生まれる。幼少期に小野組の銭店で丁稚奉公する。1879年(明治12年)10月、祖父清右衛門から家督を相続した。ほか、北上回漕会社、交話会、第九十国立銀行重役などを歴任した。1896年(明治29年)には盛岡銀行の創立に参画し、岩手農工銀行の重役も務めた。 1892年(明治25年)岩手県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年6月29日から1897年(明治30年)9月28日まで在任。
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緒方 道平(おがた みちひら、1846年6月3日〈弘化3年5… 緒方 道平(おがた みちひら、1846年6月3日〈弘化3年5月10日〉 - 1925年〈大正14年〉7月23日)は、明治時代の日本の山林官僚。オーストリアで山林学を修めた。次男は医学者の緒方大象、三男はジャーナリスト・国会議員の緒方竹虎、四男は医師の緒方龍。 備中国下道郡矢田村(現・岡山県倉敷市)において郷士であった父妹尾康信の三男として生まれた。 1866年(慶応2年)、摂津国名塩村の蘭医伊藤慎蔵に師事し、次いで伊藤の師である大阪の緒方洪庵について蘭学を学んだ。ここで蘭学者緒方研堂から子弟を託され、研堂の養子となって緒方姓を名乗ることとなる。1872年(明治5年)、緒方は上京し、ドイツ語通訳としてウィーン万国博覧会で日本館を出展する田中芳男、津田仙、佐野常民らに随行してオーストリアに渡航した。
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新井 奥邃(あらい おうすい、1846年5月29日(弘化3年… 新井 奥邃(あらい おうすい、1846年5月29日(弘化3年5月5日) - 1922年(大正11年)6月16日)は、元仙台藩士で、「有神無我」を唱え、自らを「クライストの志願奴隷」と定義した明治後期から大正時代の特異なキリスト教思想人。 戊辰戦争後に森有礼に認められ、1871年1月23日(明治3年12月3日)、米国に渡る。アメリカでキリスト教系新興宗教団体教祖トマス・レイク・ハリスの弟子となり、労働と冥想の日々を送る。 1899年(明治32年)、53歳のとき、英語の自著Inward Prayer and Fragments(『内観祈祷録』)一冊を携えて帰国する。 1904年(明治37年)、巣鴨に「謙和舎」を開き、奥邃独特の伝道生活に入る。
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白井 遠平(しらい えんぺい、1846年5月24日(弘化3年… 白井 遠平(しらい えんぺい、1846年5月24日(弘化3年4月29日)- 1927年(昭和2年)10月9日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・佐藤、幼名・常松。 父・佐藤愛之助(幸助)は三春藩領陸奥国田村郡菅谷村(現田村市)の名主を務めていたが、天保の大飢饉の際に藩主の許可を得ずに蔵米の放出を行ったため一家で他国に逃れた。その後、下野国芳賀郡真岡(現栃木県真岡市)の円林寺の寺代官となり、その地で遠平は誕生した。その後一家は水戸藩の西丸帯刀の食客となり、遠平は松霜塾で学問を修めた。1856年(安政3年)陸奥国磐城郡上小川村(福島県石城郡上小川村、小川町を経て現いわき市)の名主、酒造業・白井佐平太の死跡を継いで一家養子となり白井に改名した。
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松田 正久(まつだ まさひさ、1846年5月6日〈弘化3年4… 松田 正久(まつだ まさひさ、1846年5月6日〈弘化3年4月11日〉- 1914年〈大正3年〉3月4日)は、日本の政治家、男爵(依勲功特授)。幼名は又之輔(又之助)、大之助。号は牛州・江村など。 肥前国小城郡牛津(現在の佐賀県小城市(旧牛津町))において[要出典]、小城藩士横尾唯七(岡氏より婿入り)と妻・まちの次男として生まれた。12–13歳頃におじである松田勇七の養子となるが、実際に松田家へ移る前に勇七とその妻ルイが亡くなったため、そのまま実の父母のもとで養育された。松田家が副業として営んでいた酒造業は廃業し、財産分与ののち、二町余歩が松田のもとに残った。その後、14歳で小城藩の藩校・興譲館へ入学する。
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海野 謙次郎(うんの けんじろう、1846年5月2日(弘化3… 海野 謙次郎(うんの けんじろう、1846年5月2日(弘化3年4月7日)- 1913年(大正2年)10月16日)は、幕末から明治期の大庄屋・銀行家・政治家。衆議院議員、三重県会議長。 伊勢国安濃郡粟加村(三重県安濃郡明合村大字粟加村、協和村、安濃村、安芸郡安濃村、安濃町を経て現津市安濃町粟加)で生まれる。津藩士・野田竹渓に師事し漢学を修めた。大庄屋役を務める。 廃藩置県後、小区戸長に就任。安濃郡書記、明合村会議員、所得税調査委員、所得税審査委員などを務める。1880年(明治13年)11月、三重県会議員に選出され1900年(明治33年)3月まで在任し、この間、同常置委員、同副議長、同議長(4期)なども務めた。
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荒木 徳三郎(あらき とくさぶろう、1846年4月18日〈弘… 荒木 徳三郎(あらき とくさぶろう、1846年4月18日〈弘化3年3月23日〉 - 没年不明)は、日本の商人(荒木屋、肥料・綿・米穀商)、海運業、醤油醸造業、鳥取県の大地主、荒木合名会社社員、実業家、政治家。鳥取県西伯郡境町会議員。 鳥取県西伯郡境町(現・境港市)の人で、生家は代々醤油醸造業を営む。 海運業を営み、主に地方の物産を蒐集し、これを北国中国等に輸送し帰港には肥料を積載して年数回往復航行する。危難や損失がなかったため収利は夥しく頓に資財を増殖し声望が大いに起り、地位は益々高まる。 1902年、境製糸社員の荒木久九郎、渡辺広太郎、里見五平は各々その出資額全部を共に社員の荒木徳三郎へ譲渡して退社し、荒木徳三郎はこれを譲り受けてその出資額を金3400円と変更する。
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渡辺 兵四郎(渡邉、わたなべ ひょうしろう、1846年4月1… 渡辺 兵四郎(渡邉、わたなべ ひょうしろう、1846年4月16日(弘化3年3月21日) - 1932年(昭和7年)5月11日)は、日本の実業家、漁業家、政治家。衆議院議員、小樽区長。初名・佐助。 出羽国能代港(現秋田県能代市)で渡辺甚四郎の二男として生まれる。12歳まで能代の商家で奉公し、万延元年(1860年)家出して小樽に渡り、山田兵蔵家の店員として勤め、主人からの信頼を得てその一字をもらい受けて兵四郎と改名。1877年に独立し荒物商を営む。 また漁業経営にも乗り出し、ニシン漁網の改良を行い、漁業組合、水産組合を創設して、小樽郡漁業組合頭取、小樽外六郡漁業組合連合会長、小樽水産組合長など務め、北海道水産界の振興に貢献した。
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佐藤 八郎右衛門(さとう はちろうえもん、1846年4月2日… 佐藤 八郎右衛門(さとう はちろうえもん、1846年4月2日(弘化3年3月7日)- 1909年(明治42年)5月23日)は、明治期の日本の政治家、蚕種業者。衆議院議員、初代長野市長。幼名は勝彦。号は柏堂、忠恕。 信濃国小県郡上塩尻村(長野県小県郡塩尻村を経て現上田市)で生まれた。和漢学を修めた。家業の蚕種業に従事し、1872年(明治5年)には上塩尻村の戸長となる。1875年(明治8年)蚕種製造業上田組を設立して頭取に就任し、東京蚕種会事務局議員兼幹事、東京蚕種取締所委員として蚕種の改良と輸出振興に尽力した。1886年(明治19年)には東京蚕種組合中央部長野県総代から長野県蚕糸業組合取締所副頭取となり、1896年(明治29年)信濃蚕種業組合長に就任するなど、一貫して蚕種業の発展に尽力した。
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渡辺 国武(わたなべ くにたけ、旧字体: 渡邊 國武、184… 渡辺 国武(わたなべ くにたけ、旧字体: 渡邊 國武、1846年3月29日〈弘化3年3月3日〉- 1919年〈大正8年〉5月11日)は、明治期の日本の官僚、政治家。位階・勲等・爵位は正二位勲一等子爵。旧姓は小池。第2次伊藤内閣の大蔵大臣、逓信大臣、第4次伊藤内閣の大蔵大臣を歴任した。兄は伯爵渡辺千秋。 1846年3月29日(弘化3年3月3日)、信濃国諏訪郡東堀村(後の長野県岡谷市)にて諏訪高島藩士の家に生まれた。父渡辺政徳は、武士が桃の節句に生まれたのでは具合が悪いということで、藩庁に端午の節句の5月5日生まれと届けている。両親と早く死別したため、兄の千秋とともに祖母の手によって養育された。10歳の時にコレラにかかるが、一命を取り留める。
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