川島 芳子(かわしま よしこ、1907年5月24日(光緒33… 川島 芳子(かわしま よしこ、1907年5月24日(光緒33年4月12日) - 1948年3月25日)は、清朝の皇族・第10代粛親王善耆の第十四王女。本名は愛新覺羅顯㺭(あいしんかくら けんし)、字は東珍、漢名は金璧輝、俳名は和子。他に芳麿、良輔と名乗っていた時期もある。 8歳のとき、粛親王の顧問だった川島浪速の養女となり日本で教育を受けた。1927年に旅順のヤマトホテルで、関東軍参謀長の斎藤恒の媒酌で蒙古族のカンジュルジャブと結婚式をあげた。カンジュルジャブは、川島浪速の満蒙独立運動と連携して挙兵し、1916年に中華民国軍との戦いで戦死したバボージャブ将軍の次男にあたり、早稲田大学を中退後1925年「韓紹約」名で陸軍士官学校に入学していた。
影山 光洋(かげやま こうよう、本名:影山 正雄、1907年… 影山 光洋(かげやま こうよう、本名:影山 正雄、1907年5月23日 - 1981年3月1日)は、日本の報道写真家である。 静岡県浜松市に生まれ、若い頃から写真撮影に親しむ。浜松商業卒業後、画光舎に勤める。その後、東京高等工芸学校(現・千葉大学)に進み(一期生)、卒業後朝日新聞社写真部に勤める。報道写真を中心に、戦前から戦後にかけて、日本の世相を写し続けた。作品の対象となった事件性のある出来事としては、例えば、二・二六事件、南京陥落、山下・パーシバル会談などを挙げることができる。写真の記録性を著しく重視し、その点を徹底したことから「記録の鬼」と呼ばれ、戦後はフリーカメラマンとして活動した。
坂本 浩(さかもと ひろし、1907年5月21日 - 198… 坂本 浩(さかもと ひろし、1907年5月21日 - 1988年1月17日)は、日本近代文学研究者。成城大学名誉教授。 熊本県生まれ。1932年東京帝国大学国文学科卒業。1978年まで[要出典]成城大学教授。国木田独歩、夏目漱石などを研究した。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・作詞家・作家・放送作家・随筆家(コラムニスト)・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ:作家)。
小林 倭文(こばやし しずり、1907年5月21日 - 20… 小林 倭文(こばやし しずり、1907年5月21日 - 2005年1月17日)は、日本の女性教育者。長野県長野市に本部のある学校法人長野家政学園創設者で、当学園設置の長野女子高等学校初代校長、および長野女子短期大学初代学長を務めた。 長野県更級郡八幡村(現・千曲市八幡)にて、小川今朝治(倭文の後年の回想では「区長のような役を務めていた」とある)と妻の和佐の長女(兄が2人いた)として生まれる。当時の八幡村は、武水別神社の門前として栄えていた。縄文人が植物の表皮を爪ではがして織った倭文織にちなんで倭文(しずり)と名付けられる。 小さい頃より父親より、実践女子大学の創立者下田歌子や共立女子大学の創立者鳩山春子の話を聞いて育ったため、徐々に女子教育に興味を持つようになる。
江沢譲爾(江澤譲爾、えざわ じょうじ、1907年5月20日 … 江沢譲爾(江澤譲爾、えざわ じょうじ、1907年5月20日 - 1975年1月23日)は、日本の地理学者。専門は経済地理学。学位は、経済学博士(一橋大学・論文博士・1955年)。経済地理学会初代会長。江澤譲爾とも表記される。
渡辺 文蔵(わたなべ ぶんぞう、1907年5月20日 - 2… 渡辺 文蔵(わたなべ ぶんぞう、1907年5月20日 - 2002年11月4日)は日本の実業家。味の素社長を1973年から8年務めた。敬虔なクリスチャンとしても知られ東京女子大学理事長などを務めた。食品産業功労賞。
谷 一郎(たに いちろう、1907年5月20日 - 1990… 谷 一郎(たに いちろう、1907年5月20日 - 1990年5月28日)は、日本の流体力学者。
谷 一郎(たに いちろう、1907年5月20日 - 1990… 谷 一郎(たに いちろう、1907年5月20日 - 1990年5月28日)は、日本の流体力学者。 東京府生まれ。1924年府立一中卒。1927年旧制一高卒。1930年東京帝国大学工学部航空学科卒。1943年「層流境界層ニ関スル研究」で工学博士の学位を取得。 東京帝国大学工学部講師から、1933-1944年航空研究所兼務、1942年第二工学部助教授。その間、特攻兵器「桜花」開発のため、木村秀政助教授の風洞実験用の木型設計を基に空気力学の実験に携わる(桜花 (航空機)#歴史参照)。 1951年東京大学生産技術研究所助教授、1952年東大理工学研究所教授、1958年東大航空研究所教授、1964年東大宇宙航空研究所教授、68年定年退官、名誉教授。
佐々木 直(ささき ただし、1907年(明治40年)5月19… 佐々木 直(ささき ただし、1907年(明治40年)5月19日 - 1988年(昭和63年)7月7日)は、日本の第22代日本銀行総裁。 父の任地、仙台市で誕生。釜山中学校(現釜山高等学校)、東京府立四中、第一高等学校を経て、東京帝国大学経済学部卒業(本位田祥男ゼミ)。日本銀行入行。戦前は総力戦研究所にも出向し,模擬内閣で日銀総裁役を務めた経験もある。 戦後、“日銀のプリンス”と称され、日銀総裁の座が近づいた時、池田勇人や、時の田中角栄蔵相らの意向で市中銀行(三菱)出身の宇佐美洵に総裁の座をさらわれ、日銀もすっかり大蔵省による金融行政の脇役に収まっていた。日銀副総裁時代には山一證券の破綻時、田中角栄の意向で日銀特別融資で乗り切り、さらに田中角栄内閣時代には日銀総裁を務めた。
秋庭 太郎(あきば たろう、1907年5月19日 - 198… 秋庭 太郎(あきば たろう、1907年5月19日 - 1985年3月17日)は、日本演劇学者。永井荷風研究で著名である。 東京府東京市深川区生まれ。1930年東洋大学支那哲学文学科卒業。同大学在学中の1929年に江戸時代から明治時代にかけての文学や演劇、風俗の資料収集し『軟文学研究』を刊行。1937年に『東都明治演劇史』を刊行後、応召。陸軍少佐として従軍し、中国および南方を転戦する。戦時中、特にニューギニアでの体験談をまとめた『ニューギニアの戦い: 秋庭太郎遺稿』が秋庭の死後、鈴木元明監修によって発刊されており、奇跡的な生還だったとのこと。戦後復員し、1946年から日本大学図書館に勤務、館長を務めた。
小林 亦治(こばやし またじ、1907年〈明治40年〉5月1… 小林 亦治(こばやし またじ、1907年〈明治40年〉5月19日 - 1982年〈昭和57年〉8月10日)は、日本の弁護士、政治家。参議院議員(1期)。 山形県最上郡出身。1931年(昭和6年) 日本大学法律学科を卒業した。 1941年(昭和16年)司法官試補に任官し、判事として東京地方裁判所、仙台地方裁判所、青森地方裁判所の各地裁で勤務。1944年(昭和19年)山形市で弁護士を開業した。山形県農地相談所長、山形新聞論説委員、労農救援会長などを務めた。 1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙に山形地方区から日本社会党所属で出馬して当選し、参議院議員を1期務めた。この間、日本社会党山形県連会長、同顧問、参議院決算委員長、裁判官弾劾裁判所裁判長などを務めた。
朝融王妃知子女王(あさあきらおうひともこじょおう、1907年… 朝融王妃知子女王(あさあきらおうひともこじょおう、1907年〈明治40年〉5月18日 - 1947年〈昭和22年〉6月28日)は、日本の皇族。伏見宮博恭王と同妃経子の第3王女子。久邇宮朝融王の妃。香淳皇后の義姉。 1907年(明治40年)5月18日午前10時45分、伏見宮博恭王と同妃経子の第3王女子(第6子)として誕生。15分先に生まれた敦子女王(清棲幸保伯爵夫人)とは一卵性の双生児姉妹である。なお、後から生まれたほうを兄または姉とする風習もあるが、出生順通り、先に生まれた敦子女王が姉である。双生児であることは誕生当初から公表され、2人は引き離されることなく、ともに養育された。1925年(大正14年)に結婚し、朝融王妃となる。
村野 辰雄(むらの たつお、1907年(明治40年)5月18… 村野 辰雄(むらの たつお、1907年(明治40年)5月18日 - 1992年(平成4年)12月16日)は、日本の実業家。三和銀行元頭取。 奈良県御所市出身。1932年に東京帝国大学経済学部を卒業し、三和銀行の前身である山口銀行に入行。1952年5月に取締役、1957年10月に常務、1961年11月に専務を経て、1971年4月から1976年4月までに頭取を務め、銀行間のオンライン提携の推進とJCBの設立などにより、消費者金融により力を入れ、加州三和銀行の設立などで国際業務にも力を入れた。 その一方で、日本銀行参与、全国銀行協会副会長、日本経済団体連合会常任理事、大阪銀行協会会長なども歴任。ローマ字の普及にも力を入れたことでも知られる。
清棲 敦子(きよす あつこ、1907年〈明治40年〉5月18… 清棲 敦子(きよす あつこ、1907年〈明治40年〉5月18日 - 1936年〈昭和11年〉2月24日)は、日本の元皇族。伯爵清棲幸保夫人。伏見宮博恭王と同妃経子の第2王女子。旧名は、敦子女王(あつこじょおう)。皇籍離脱前の身位は女王で、皇室典範における敬称は殿下。 1907年(明治40年)5月18日午前10時30分、伏見宮博恭王と同妃経子の第2王女子(第5子)として誕生。15分後に生まれた知子女王(久邇宮朝融王妃)とは一卵性の双生児姉妹である。なお、後から生まれたほうを兄または姉とする風習もあるが、出生順通り、先に生まれた敦子女王が姉である。双生児であることは誕生当初から公表され、2人は引き離されることなく、ともに養育された。
塩見 俊二(しおみ しゅんじ、1907年(明治40年)5月1… 塩見 俊二(しおみ しゅんじ、1907年(明治40年)5月17日 - 1980年(昭和55年)11月22日)は、日本の政治家。位階は正三位。参議院議員(4期)。自治大臣、厚生大臣。自由民主党高知県連会長。板垣退助先生顕彰会顧問。土佐市名誉市民。 1907年(明治40年)5月17日、塩見熊吉の二男として高知県高岡郡戸波村浅井(現土佐市)に生まれる。初代土佐市長の塩見俊雄は実兄。母は塩見良。 1921年(大正10年)4月、高知県立第一中学校(翌年「高知県立高知城東中学校」と改称。現高知県立高知追手前高等学校)に入学。この時の同期生に板垣退助の孫・乾一郎がいた。同校卒業後、旧制高知高等学校に進み、更に東京帝国大学法学部で学を修める。
小林 義雄(こばやし よしお、1907年5月17日 - 19… 小林 義雄(こばやし よしお、1907年5月17日 - 1993年1月6日)は日本の菌類学者。理学博士(東京帝国大学、1940年)。 熊本市生まれ。1931年に東京帝国大学を卒業し、東京文理科大学の助手、講師を務めた後、1941年から1945年まで満州国立中央博物館の薦任官を務め、1946年から2年間、長春大学の教授を務めた。1948年から国立科学博物館の植物研究部員として働き、後に研究部長となった。 菌類の分類学的研究の他に、南方熊楠が残した菌類図譜稿本を整理し、1987年に「南方熊楠菌誌」を出版した。1970年に南方熊楠賞の第1回の受賞者となった。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。
雷山 勇吉(らいざん ゆうきち、1907年5月17日 - 1… 雷山 勇吉(らいざん ゆうきち、1907年5月17日 - 1973年1月7日)は、東京都荒川区出身で伊勢ノ海部屋に所属した大相撲力士。本名は豊田 光三。身長167cm、体重101kg。最高位は東前頭12枚目(1933年5月場所)。引退後は一時期年寄として後進の指導につとめた。 伊勢ノ海部屋に入門して、1923年1月場所初土俵を踏む。出世は遅く、三段目から序二段に陥落したり、幕下から三段目に陥落したこともあったが、1931年5月・10月と三段目上位で好成績を残し(10月場所は全勝して三段目優勝をとげた)、1932年1月に幕下に復帰したところに、春秋園事件で大量の脱退者が出たため、2月場所では繰り上がって幸運な新十両昇進となった。
牧屋 善三(まきや ぜんぞう、1907年5月17日 - 19… 牧屋 善三(まきや ぜんぞう、1907年5月17日 - 1977年5月11日)は、日本の作家。本名・岡田五郎。作家岡田三郎の弟。第2代小樽区長山田吉兵衛は伯父。 北海道松前町生まれ。明治学院高等部在学中、三・一五事件で退学。大宅壮一の下で『千一夜物語』を翻訳、浅草の軽演劇団で脚本を執筆。1940年丹羽文雄の推薦で『文学者』に小説を発表、41年青年芸術派同人となる。
杉本 勲(すぎもと いさお、1907年5月16日 - 199… 杉本 勲(すぎもと いさお、1907年5月16日 - 1991年4月28日)は、日本の歴史学者。 東京府豊多摩郡大久保村(現・東京都新宿区)生まれ、岐阜県出身。1932年東京帝国大学文学部国史学科卒。宮内省図書寮編修員、日本大学助教授、教授、九州大学九州文化史研究施設教授を経て、1969年九大文学部教授、1971年定年退官、名誉教授、高知県立大学教授、武蔵工業大学教授を務めた。近代日本技術史が専門。 1991年4月28日、脳梗塞のため死去。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
島田 一男(しまだ かずお、1907年5月15日 - 199… 島田 一男(しまだ かずお、1907年5月15日 - 1996年6月16日)は日本の小説家、脚本家。 京都府京都市出身。明治大学中退。1931年に「満洲日報」に入社し新聞記者となり、敗戦までの約15年間をほぼ従軍記者として過ごす。終戦後は同社の社員たちと「大陸情報通信社」を設立、在満邦人の引揚げ運動に尽力する傍ら執筆活動を続けた。 1946年に短編「殺人演出」が雑誌「宝石」の第1回短編懸賞に入選し、翌年掲載される。 デビュー当初は『古墳殺人事件』や『錦絵殺人事件』のような衒学的な本格推理を得意としていたが、1949年からは自身の経験を生かした新聞記者ものの推理小説を書き始め、1951年に短編「社会部記者」(別題「午前零時の出獄」)「遊軍記者」、「新聞記者」、「風船魔」で第4回探偵作家クラブ賞を受賞する。
伊藤 勝三(いとう かつぞう、1907年5月14日 - 19… 伊藤 勝三(いとう かつぞう、1907年5月14日 - 1982年2月10日)は、秋田県秋田市千秋矢留町(旧上中城町)出身のプロ野球選手(捕手、一塁手)、監督。 日本プロ野球における選手兼任監督第1号である。 秋田中学(現・秋田県立秋田高校)時代は、捕手として2度の全国中等学校優勝野球大会(第8回大会、第10回大会)に出場した。慶應義塾大学では控え捕手に甘んじたが、社会人野球の東京倶楽部では慶大時代のチームメイトである宮武三郎らと共に活躍し、1931年に開催された第5回全日本都市対抗野球大会で優勝した。 全日本職業野球連盟が発足した1936年、大東京軍に入団すると、永井武雄監督解任の後を受けて選手兼任監督に就任したが、2勝27敗3分、勝率.069という惨憺たる成績を受けシーズン途中で解任された。
樋口 謙太郎(ひぐち けんたろう、1907年5月14日 - … 樋口 謙太郎(ひぐち けんたろう、1907年5月14日 - 1994年3月8日)は、日本の医学者、皮膚科医。久留米大学、九州大学、福岡大学で皮膚科の教授を務め、多くの弟子を育てた。 エッセイストとしても知られている。教科書を多数著した。専門は真菌学、梅毒などである。
佐藤 朝生(さとう ともお、1907年〈明治40年〉5月14… 佐藤 朝生(さとう ともお、1907年〈明治40年〉5月14日 - 1999年〈平成11年〉 12月4日)は、日本の内務官僚。人事院事務総長(初代)、総理府総務副長官。位階は正三位。 大正13年(1924年)旧制府立一中4年修了、昭和2年(1927年)旧制第一高等学校、昭和5年(1930年)東京帝国大学法学部政治学科卒業後、内務省へ入省。昭和11年(1936年)内閣書記官、昭和13年(1938年)内閣官房会計課長、昭和20年(1945年)内閣官房総務課長に就任する。 鈴木貫太郎内閣では迫水久常内閣書記官長の下で終戦事務に関わる。ポツダム宣言後の8月1日に、内閣情報局総裁の下村宏が、久富達夫次長から「終戦するには、陛下に自らマイクの前に立って放送していただく。
周 襄吉(しゅう じょうきち 1907年5月12日 - 19… 周 襄吉(しゅう じょうきち 1907年5月12日 - 1978年4月25日)日本の西洋画家、モダンアート作家。映画美術作家。教育者。 1907年、愛媛県今治市に生まれる。1924年に上京、川端画学校で学んだ後、1925年に東京美術学校西洋画科に入学。1927年、在学中に第14回二科展で『草花の園』が初入選した。1931年に松竹映画に入社し美術を担当、1938年に退社。1951年にはモダン・アート協会創立に参加し、毎年、モダンアート展に出品するとともに協会の発展に尽力した。1958年から1973年まで文化学院美術科講師を勤めた。 1978年4月25日、肺がんのため神奈川県川崎市の関東労災病院にて死去。
川津 尚彦(かわづ なおひこ、1907年5月11日 - 19… 川津 尚彦(かわづ なおひこ、1907年5月11日 - 1962年11月10日)は、日本のラグビー選手・功労者。福岡県のラグビー先駆者の一人。 東京都に生まれる。1925年福岡県中学修猷館、1927年旧制福岡高等学校文科甲類を経て、慶應義塾大学法学部へ進学し、ラグビー部において全日本東西対抗選手として活躍した。 1930年慶應義塾大学を卒業し、東邦電力福岡支店に入社。東邦電力ラグビーチームの主力として、福岡県ラグビーの普及とレベルアップに貢献した。 戦後は、山本太郎、松隈保、安武一道、速見伝吉らと共に、九州ラグビーフットボール協会設立に尽力し、九州ラグビーフットボール協会の理事長から会長、日本ラグビーフットボール協会専務理事を務めた。
野口 茂夫(のぐち しげお、1907年5月11日 - 199… 野口 茂夫(のぐち しげお、1907年5月11日 - 1993年)は、日本の児童詩人、教育者。 福島県小名浜(現いわき市)生まれ、茨城県平潟町育ち。1928年東京府立青山師範学校卒、29年同専攻科卒、詩人・大関五郎に師事。東京府北多摩郡砧小学校教師、滝野川小学校教諭。小砂丘忠義の『綴方生活』同人。1944年浅草区新堀国民学校教諭、集団疎開、敗戦ののち46年小島小学校教諭、日本作文の会創立に参加。中央区月島小学校長を最後に1968年定年退職。作文、児童詩の指導を行った。「のぐちしげお」とひらがなの筆名を用いた。
森脇 一夫(もりわき かずお、1907年(明治40年)5月1… 森脇 一夫(もりわき かずお、1907年(明治40年)5月10日 - 1978年(昭和53年)3月25日)は、歌人、国文学者。 アメリカ合衆国ハワイに生まれ、生後4カ月で帰国して広島県豊田郡沼田西村(現・三原市)で育つ。1927年東京府豊島師範学校卒業後、小学校訓導となる。1932年日本大学高等師範部国語漢文科卒業、1936年東京高等師範学校研究科卒業、1939年日本大学法文学部文学科卒業。1942年東京市本所高等実践女学校教諭、1946年日本大学予科教授、1949年日本大学助教授、1956年日本大学教授。1960年「万葉の美意識」で日本大学文学博士。1977年定年。 若山牧水系の歌人で、1928年菊池知勇の『ぬはり』に参加。
福永 操(ふくなが みさお、1907年5月8日‐1991年1… 福永 操(ふくなが みさお、1907年5月8日‐1991年1月11日)は、日本の社会運動家、著述家。兵庫県出身。東京女子大学中退。旧姓は波多野、是枝。 1907年、大浦事件の裁判長を務めた波多野高吉と高等女学校教師はまの間に生まれた。1924年、北海道庁立札幌高等女学校(現北海道札幌北高等学校)を卒業し、東京女子大学英語専攻部に入学。在学中に社会科学研究会を結成し、女子学生運動を指導した。 1927年日本共産党に入党後、『無産者新聞』編集長だった是枝恭二と結婚。翌年、三・一五事件で検挙された。1934年2月、治安維持法再犯として起訴され、服役した。 戦後は1955年に日本共産党復党後、地域活動に従事する傍ら、思想研究や運動史研究を行った。
申 奎植(シン・ギュシク、朝鮮語: 신규식、1907年5月8… 申 奎植(シン・ギュシク、朝鮮語: 신규식、1907年5月8日または1910年 - 2003年6月10日)は、大韓民国の官僚、政治家。第3・4代韓国国会議員。 本貫は高霊申氏(朝鮮語版)、号は雪巌。儒教の信者。 全羅北道(現・全北特別自治道)扶安郡舟山面出身。福知中学校、早稲田大学専門部政経科卒。米軍政庁農務部農産局総務課長・農産局副局長・農経局農政課長、内務部長官秘書室長、国防部長官高級副官・秘書課長、関税庁長、除隊将兵補導会(現・韓国在郷軍人会)副会長、中央管財庁長署理、三南中学校(朝鮮語版)校長、第4代国会農林委員長を務めた。 2003年6月10日、老衰により死去。享年101。 2003年に死去した時点で生存中の議員経験者のうち最高齢であった。
船越 弘(ふなこし ひろむ、1907年(明治40年)5月7日… 船越 弘(ふなこし ひろむ、1907年(明治40年)5月7日 - 1967年(昭和42年)9月7日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、広島県三次市長。 広島県出身。松山高等学校を経て、1932年(昭和7年)京都帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。 1942年(昭和17年)5月、三次町会議員に選出された。2期在任し、1947年(昭和22年)5月、町議会議長となる。双三郡町村会議長会長も務めた。 1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙に広島県第3区から民主自由党から出馬して初当選。1952年(昭和27年)10月の第25回総選挙で自由党から立候補したが落選。1953年(昭和28年)4月の第26回総選挙では再選され、衆議院議員に通算2期在任した。
杉原 周一(すぎはら しゅういち、1907年5月7日 - 1… 杉原 周一(すぎはら しゅういち、1907年5月7日 - 1972年6月21日)は、日本の経営者、工学博士。東陶機器(現在のTOTO)社長を務めた。 大分県大分市出身。1931年に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業。 三菱重工業での勤務を経て、1948年5月に東洋陶器に転じ、専務、副社長を経て、1967年7月に社長に就任。 1972年6月21日、脳卒中のために死去。65歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
井上 靖(いのうえ やすし、1907年(明治40年)5月6日… 井上 靖(いのうえ やすし、1907年(明治40年)5月6日 - 1991年(平成3年)1月29日)は、日本の小説家・詩人。主な代表作は「闘牛」「氷壁」(現代小説)、「風林火山」(時代小説)、「天平の甍」「おろしや国酔夢譚」(歴史小説)、「敦煌」「楼蘭」(西域小説)、「あすなろ物語」「しろばんば」(自伝的小説)、「わが母の記」(私小説)など。1950年(昭和25年)「闘牛」で芥川賞を受賞、私小説・心境小説が主流だった敗戦後の日本文学に物語性を回復させ、昭和文学の方向性を大きく変えた戦後期を代表する作家のひとり。劣等感から来る孤独と人間の無常を、時間と空間を通した舞台と詩情あふれる文体・表現によって多彩な物語のなかに描き、高い評価を得た。
力武 一郎(りきたけ いちろう、1907年5月6日 - 19… 力武 一郎(りきたけ いちろう、1907年5月6日 - 1994年9月9日)は、日本の教育者、山口大学第4代目学長。同大学工業短期大学部元学長。専門はドイツ語。 山口県立医学専門学校ドイツ語講師 。 大学紛争時の1969年8月から1970年3月まで山口大学教養部長を務め、その後、学長代行を経て、1971年4月に、2年間空席となっていた学長職に就き、学長として1973年まで務めた。 同大学構内吉田遺跡の調査団長の一人。他に市川禎治、中村正二郎も加わった。同大学工業短期大学部の学長。
国松 登(くにまつ のぼる、1907年5月6日 - 1994… 国松 登(くにまつ のぼる、1907年5月6日 - 1994年4月18日)は、日本の水彩画家。「北海道を代表する芸術家」の1人に挙げられる。 北海道の気候や風土を意識したテーマで描き、幻想的で静謐感の漂う作風が特徴。 1907年5月6日、函館区鶴岡町(現・函館市大手町)で書画骨董などを商っていた父・美登利、母・キクの六男(男6人女1人の末子)として生まれるが、同年8月25日の函館大火で生家は丸焼けになり、その後は住居を転々としつつ1914年には宝小学校に入学する。1916年8月2日の函館大火でも罹災し、両親と1人の兄と4人とで小樽区山田町(現・小樽市山田町)へ移住した。 1924年に小樽区立堺尋常小学校(現・小樽市立堺小学校)高等科を卒業して上京。
松平 頼則(まつだいら よりつね、1907年5月5日 - 2… 松平 頼則(まつだいら よりつね、1907年5月5日 - 2001年10月25日)は、日本の作曲家、ピアニスト。 子爵松平頼孝の長男として東京市小石川区久堅町(現・東京都文京区小石川)に生まれる。母の治子は公爵徳大寺実則の四女。大叔父に内閣総理大臣西園寺公望がいる。 学習院初等科から暁星中学校に進む。16歳のとき生家が没落し、久堅町の邸宅を手放すことを余儀なくされ、父と別居した母に伴われ、妹とともに青山に仮寓。一高入試に失敗して2年間の浪人ののち、慶應義塾大学文学部仏文科に進む。国立音楽学校に転学したが1年ほどで慶應義塾大学に戻り、叔母の学資援助により、大学時代からピアノをチャーレス・ラウトロプに、和声学と対位法と楽式論をハインリヒ・ヴェルクマイスターに、作曲を小松耕輔に師事。
仁戸田 六三郎(にえだ ろくさぶろう、1907年(明治40年… 仁戸田 六三郎(にえだ ろくさぶろう、1907年(明治40年)5月5日 - 1981年(昭和56年)4月2日)は、昭和時代の宗教哲学者、文学博士、早稲田大学名誉教授。 日本統治時代の台湾の台北にて生まれる。仁戸田家は佐賀藩士で、千葉氏の一族の末裔であった。1920年、不入斗尋常小学校を卒業。1925年、正則中学校を卒業。1928年、早稲田大学附属第二早稲田高等学院文科を卒業。1931年、早稲田大学文学部哲学科西洋哲学専攻を卒業後の1932年から同大学の非常勤講師となる。 1943年より助教授となり、1948年から1978年まで教授を務め宗教哲学の講義を行った。定年後に名誉教授となった。文化学院や駒沢大学、明星大学の講師も務めた。
浜島 昇(はまじま のぼる、1907年5月5日 - 1963… 浜島 昇(はまじま のぼる、1907年5月5日 - 1963年9月17日)は、日本光学工業(現ニコン)社長。長野県出身。 1930年に東京帝国大学法科に卒業し、日本光学工業に入社した。 1941年1月に取締役に就任し、1963年5月には社長に就任。 1963年9月17日に肺臓癌のため在職中のまま死去。56歳没。
長坂 端午(ながさか たんご、1907年5月5日 - 197… 長坂 端午(ながさか たんご、1907年5月5日 - 1977年4月9日)は、日本の教育学者、文部官僚。東京教育大学名誉教授。 長野県諏訪郡上諏訪町(現・諏訪市)出身。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)を経て、第一高等学校卒業。 1928年下諏訪尋常高等小学校(現・下諏訪町立下諏訪南小学校)代用教員。東京文理科大学(現・筑波大学)教育科卒業。1932年山梨県女子師範学校教諭。1936年和歌山師範学校教諭。1941年静岡師範学校教諭、同附属国民学校(現・静岡大学教育学部附属静岡小学校)主事。1945年応召により中国へ出征。 1947年文部省(現・文部科学省)教科書局に入省、同局小学校社会科主任、文部事務官 。
吉田 孝吉(よしだ たかよし、1907年 <明治40年> 5… 吉田 孝吉(よしだ たかよし、1907年 <明治40年> 5月5日 - 1982年 <昭和57年> 6月17日)は、日本の銀行家。岩手銀行頭取を務めた。位階は従五位。 岩手県出身。1929年に福島高等商業学校を卒業し、同年に盛岡銀行 (のちの岩手銀行) に入行。 1948年に取締役に就任し、1950年11月に常務、1968年4月に専務を経て、1973年11月には頭取に就任。1977年12月に会長に就任。 1978年11月に勲四等旭日小綬章を受章。 1982年6月17日白血病のために死去。75歳没。死没日付をもって正七位から従五位に進階した。
小口 優(おぐち まさる、1907年5月5日 - 1970年… 小口 優(おぐち まさる、1907年5月5日 - 1970年1月4日)は、日本のドイツ文学者。 栃木県烏山町出身。1930年早稲田大学文学部独文科卒。第一早稲田高等学院教授をへて、早大教授。18世紀ドイツ文学が専門で、ヘルダーリン、ゲーテなどの研究や翻訳をおこない、グンドルフを日本に紹介した。
岡崎 真一(眞一、おかざき しんいち、1907年〈明治40年… 岡崎 真一(眞一、おかざき しんいち、1907年〈明治40年〉5月4日 - 1971年〈昭和46年〉1月20日)は、昭和期の実業家、政治家。岡崎財閥の2代目総帥岡崎忠雄の長男。義父に大谷尊由。 兵庫県出身。慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部、慶應義塾大学予科を経て、慶應義塾大学経済学部を1932年(昭和7年)に卒業し鐘紡、岡崎汽船を経て、神戸海上運送火災保険に入社した。同社取締役を歴任して、昭和19年(1944年)3月、戦時経済・金融統制の下、横浜火災海上保険、共同火災海上保険、朝日海上火災保険(楽天損害保険との旧社名と同じだが無関係)と4社が合併して誕生した、同和火災海上保険の新社長に就任した。 戦後は、東京衡機製造所、日豊海運など岡崎家系列の企業の社長や、日本航空、日本テレビ、東洋パルプなどの取締役、1955年(昭和30年)から1964年(昭和39年)に掛けて神戸商工会議所会頭を務めたのに加え、日本商工会議所副会頭も歴任した。
大江 巳之助(おおえ みのすけ、本名:大江 武雄、1907年… 大江 巳之助(おおえ みのすけ、本名:大江 武雄、1907年(明治40年)5月4日 - 1997年(平成9年)1月24日)は、徳島県鳴門市出身の人形製作者。撫養中学(現徳島県立鳴門高等学校)中退。 2009年現在、文楽で用いられている人形の首(かしら)の大部分は彼が製作したものである。 板野郡大津村大代(現鳴門市大津町大代)の人形師の二男として生まれる。1930年(昭和5年)に人形師見習いとして大阪文楽座に入る。同年8月に美之助(のちに巳之助)四代目大江巳之助を襲名。 1969年に学術功労者として徳島県知事表彰、1971年に紫綬褒章、1974年に第十回キワニス文化賞、1976年に吉川英治文化賞、徳島県文化賞、1982年に勲四等瑞宝章、1988年に文楽協会功労者表彰、1990年に国際ソロプチミスト千嘉代子賞、第三回文化庁長官賞、鳴門市市民栄誉賞など、数々の賞を受賞している。
森 荘已池(もり そういち、1907年〈明治40年〉5月3日… 森 荘已池(もり そういち、1907年〈明治40年〉5月3日 - 1999年〈平成11年〉3月13日)は、日本の作家。 岩手県盛岡市出身。本名:森 佐一(もり さいち)。旧制盛岡中学(現岩手県立盛岡第一高等学校)、東京外国語学校(現東京外国語大学)ロシア語科中退。岩手日報記者をへて、文筆業へ。岩手県在住で最初の直木賞作家。宮沢賢治と深い親交があり、賢治作品や賢治に関する文章を多く残している。 妹の夫である大村次信(写真家大村次郷、考古学者大村幸弘の父)は、盛岡藩で火業師(砲術師)をつとめ、エトロフ島事件に遭遇しロシア人の捕虜となった大村治五平の子孫にあたる。その縁から、大村家で門外不出の書として伝えられていた治五平の手記『私残記』を託され、1943年6月に現代語訳と解説をつけて大和書店より翻刻出版した。
大塚 久雄(おおつか ひさお、1907年〈明治40年〉5月3… 大塚 久雄(おおつか ひさお、1907年〈明治40年〉5月3日 - 1996年〈平成8年〉7月9日)は、日本の経済史学者。東京大学名誉教授。専攻は英国経済史で、西洋諸国における近代資本主義、近代市民社会の研究で知られ、マックス・ウェーバーの社会学とカール・マルクスの唯物史観論の方法を用いて構築した大塚史学は国際的評価を受けた。 高柳暁と井手久登は娘婿。 1907年京都府生まれ。京都府立京都第一中学校(現・京都府立洛北高等学校・附属中学校)卒業後、旧制第三高等学校入学。このとき、片足を負傷し、後に切断することになる。1930年、東京帝国大学経済学部卒業。大学時代は本位田祥男や内村鑑三に師事した。法政大学非常勤講師(1933年)、同大助教授(1935年)、同大教授(1938年)、東京帝大経済学部助教授(1939年)を経て、1947年同大学教授、1968年から同大学名誉教授。
藤木 邦彦(ふじき くにひこ、1907年5月3日- 1993… 藤木 邦彦(ふじき くにひこ、1907年5月3日- 1993年5月6日)は、日本の日本史学者。
野上 俊静(のがみ しゅんじょう、1907年5月3日 - 1… 野上 俊静(のがみ しゅんじょう、1907年5月3日 - 1994年10月7日)は、日本の仏教学者。大谷大学教授・同学長を歴任。勲三等瑞宝章受章。 1907年、福岡県生まれ。大谷大学文学部史学科を卒業。大谷大学教授を経て、1967年から1969年まで第18代大谷大学学長を務めた。 専門は中国仏教史(遼・金・元の征服王朝時代)。 この項目は、仏教に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 仏教/ウィキプロジェクト 仏教)。
鹿島 俊雄(かしま としお、1907年5月2日 - 1995… 鹿島 俊雄(かしま としお、1907年5月2日 - 1995年11月4日)は、日本の歯科医師、政治家。郵政大臣(第34代)参議院議員(3期、自由民主党)。東京歯科大学理事長、日出学園理事、医学博士。 1933年、東京歯科医学専門学校を卒業。 1959年、日本歯科医師連盟をバックにして全国区から第5回参議院議員通常選挙に立候補し当選。1963年、科学技術政務次官に就任。その後1965年、1971年の参院選でも全国区で当選した。1974年11月、第2次田中角栄第2次改造内閣の郵政大臣として初入閣。しかし、この内閣は田中金脈問題で28日後に総辞職をし、鹿島はその後再入閣することがなかったため、わずか29日間しか閣僚を経験することができなかった。
樫山 欽四郎(かしやま きんしろう、1907年〈明治40年〉… 樫山 欽四郎(かしやま きんしろう、1907年〈明治40年〉5月1日 - 1977年〈昭和52年〉8月7日)は、日本の哲学者。元早稲田大学文学部教授。研究対象は、ドイツ近世哲学・実存哲学。 長野県北佐久郡小諸町(現・小諸市)出身。旧制上田中学(長野県上田高等学校)、早稲田大学文学部哲学科卒。同助教授、1949年教授。早稲田大学高等学院長、第二文学部長、第一文学部長を経て大学院文学研究委員長に就任。 ヘーゲル研究で知られ1951年ヤスパース協会、1957年実存主義協会設立に参画、理事を務めた。1960年「ヘーゲル精神現象学の研究」で文学博士。また1969年早大野球部長に就任、東京六大学野球連盟理事、日本学生野球協会理事を務めた。
杉山 誠(すぎやま まこと、1907年(明治40年)5月1日… 杉山 誠(すぎやま まこと、1907年(明治40年)5月1日 - 1968年(昭和43年)12月30日)は、日本の演劇評論家、翻訳家。 東京出身。東京帝国大学文学部卒。新関良三に師事。戦前は尾上菊五郎劇団文芸部長、戦時中は1943年召集されて南方に赴き、将校として芝居を上演したことは、部下だった加東大介の『南の島に雪が降る』に杉山大尉(マノクワリ守備隊司令部)と実名で描かれている。 戦後は俳優座付属俳優養成所主事・共立女子大学文芸学部教授。イプセンなどの近代戯曲を翻訳・紹介、新聞に歌舞伎評も書いた。妻は尾上菊子(きくし)の名で菊五郎に師事していたが戦時中死去。 1968年12月30日、劇団民芸稽古場での年忘れパーティで、スピーチのさなかに心筋梗塞で倒れ、死去。
南家 恭一(なんけ きょういち、1907年〈明治40年〉5月… 南家 恭一(なんけ きょういち、1907年〈明治40年〉5月1日 - 没年不明)は、日本の実業家。南家商事社長。 鳥取県西伯郡外江村(現・境港市外江町)出身。父は南家清一。鳥取県信用組合理事長、境港市監査委員会委員、境港商工会議所副会頭、鳥取県中小企業団体中央会理事などをつとめる。住所は境港市外江町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。