スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
髙原 慶一朗(たかはら けいいちろう、1931年〈昭和6年〉… 髙原 慶一朗(たかはら けいいちろう、1931年〈昭和6年〉3月16日 - 2018年〈平成30年〉10月3日)は、日本の実業家。位階は従四位。 ユニ・チャーム創業者で、同社初代代表取締役社長や、日本経団連評議員会副議長等を務めた。第2代ユニ・チャーム代表取締役社長の髙原豪久は長男。 愛媛県川之江市(現四国中央市)生まれ。地元の中学校を総代で卒業し、松山高等学校を経て、大阪市立大学でマルクス経済学を学び、3年で卒論以外の必要単位を取得したため、指導教官の紹介状をもらい、4年目は一橋大学でケインズ経済学を学んだ。1953年大阪市立大学(現大阪公立大学)商学部卒業。卒業論文は「我が国の紙パルプ工業の実証的研究」。
高橋 敷(たかはし おさむ、1929年12月11日-2015… 高橋 敷(たかはし おさむ、1929年12月11日-2015年7月6日)は、宇宙物理学者、教育評論家。 大阪府堺市出身。松山高等学校(旧制)卒、京都大学理学部卒、1959年同大学院宇宙物理学博士課程満期退学、小・中・高校教師ののち、宇宙学者・教育研究者として南米、ヨーロッパに招かれ、八年間を過ごす。ペルー中部大学教授(教育学)、ベネズエラ東部大学教授(理学部)を務め、その体験に基づいた『みにくい日本人』がベストセラーとなる。のち大阪府教育研究所。東海学園大学教授を務めた。
関 榮次(せき えいじ、1929年7月 - 2020年7月2… 関 榮次(せき えいじ、1929年7月 - 2020年7月21日[要出典])は、日本の外交官、ノンフィクション作家。沖縄県北大東島出身。 沖縄県北大東島生まれ。旧制松山高等学校を経て、1953年に東京大学法学部卒業、外務省入省。 1954年オハイオ州アンティオーク大学留学、1955年在米国日本大使館外交官補 。 帰国後は、経済局、通商産業省出向、経済協力局を経て、インドネシア、連合王国(イギリス)、タイ、ユーゴスラビア、ブラジルに在勤 。本省では、国際連合局経済課長、法務省入国管理局総務課長、国際連合局担当審議官などを歴任。 1981年‐1983年駐ザンビア大使、駐連合王国特命全権公使、海外経済協力基金理事、1989年‐1992年駐ハンガリー大使を歴任した。
山田 恭一(やまだ きょういち、1928年3月31日 - … 山田 恭一(やまだ きょういち、1928年3月31日 - 2010年7月2日)は、日本の経営者。そごう社長を務めた。 兵庫県神戸市出身。旧制松山高等学校を経て、京都大学農学部水産学科へ入学した。在学中は学生運動を行っていた一方、同じ大学・学部の出身者という縁で李登輝と接点を持つことになる。 1952年に大学を卒業し、そごうに入社。そごう神戸店(現在の神戸阪急)に配属後、7年ほど東京店を中心に新人研修など人事を担当していた。1964年に神戸店に復帰後、1970年4月に取締役に就任した。神戸店に戻る際、水島廣雄に将来のため神戸店を何とかするよう言われたところから、水島はサラリーマン経営者ながらロマンに情熱を燃やす男であり、将来の人のためを思っていると感じた。
増田 芳雄(ますだ よしお、1928年1月1日 -2017年… 増田 芳雄(ますだ よしお、1928年1月1日 -2017年3月22日)は、日本の植物学者。理学博士(京都大学・1961年)。大阪市立大学名誉教授。スイス・ローザンヌ大学名誉博士。 関東州大連市生まれ。敗戦で引き揚げ、松山高等学校卒。1953年、京都大学理学部植物学科卒業。1961年、「オーキシン作用機作の細胞生理学的研究」で京都大学より理学博士の学位を取得。1965年、大阪市立大学理学部助教授、のち1971年に教授。1991年、定年退官、名誉教授、帝塚山学園人間科学研究所所長、帝塚山短期大学教授。1997年、退任。スイス・ローザンヌ大学名誉博士、国際植物成長物質学会会長。退任後は、ウィーン音楽に関する論文をいくつか執筆している。
砂田量爾(すなだ りょうじ、1926年5月21日 - 201… 砂田量爾(すなだ りょうじ、1926年5月21日 - 2015年3月23日)は、日本のシナリオ作家。 愛媛県今治市出身。旧制松山高校から大阪帝国大学(現・大阪大学)理学部化学科卒。理学部へ進んだのは「一種の徴兵拒否」が目的と話したことがある。教師になるが一年で上京、欧文のタイピング、翻訳、オーディオの製造販売から物作りが得意なことを活かして闇市で売るなどさまざまな職を転々とする。初めて書いた脚本は、岩波映画の子供向け科学映画。友人にTBSの「七人の刑事」のスタッフに紹介されて脚本を1本書いたら採用され、1962年から「七人の刑事」のシナリオに参加、以後テレビドラマ、演劇台本などを多く書いた。「風の色」「風の町」「娘たちの四季」などがある。
佐藤 博(さとう ひろし、1923年3月18日 - 1991… 佐藤 博(さとう ひろし、1923年3月18日 - 1991年10月26日)は、日本の病理学者、専門は、実験腫瘍学、実験動物。 岡山県に生まれ、旧制松山高校から1947年東北大学医学部卒業、同大学病理学教室助手、薬理研究所所員を経て、1956年12月 東京大学 医学博士 論文の題は 「吉田肉腫の移植性に關する研究」。 1957年佐々木研究所研究員となり、吉田富三所長の下、制がん剤のスクリーニング試験に従事、のち同所病理・臨床病理部長。吉田肉腫、腹水肝癌などを用いた膨大な実験に基づき、癌に個性があることを強調した。平成3年、心筋梗塞のため急逝、享年68。
福田 純(、1923年〈大正12年〉2月17日 - 2000… 福田 純(、1923年〈大正12年〉2月17日 - 2000年〈平成12年〉12月3日)は、日本の映画監督、脚本家。満洲出身。日本大学芸術学部卒業。 1923年、中国吉林省長春県(現・長春市)で生を受ける。父が南満洲鉄道に勤務していたため、幼少期を満洲で過ごす。 1941年(昭和16年)、日本本土へ渡り、松山高等学校へ入学。1943年、日本大学に進学したが、講義にはほとんど出ず、1日の大半を読書と映画鑑賞に費やしていた。在学中、学徒動員に従事。第二次世界大戦中に外地で鑑賞した映画『無法松の一生』に感銘を受け、映画監督を志す。 1946年(昭和21年)、東宝へ入社。助監督募集を聞いて試験に参加し、200人が応募する中で合格であった。
檜垣 徳太郎(ひがき とくたろう、1916年〈大正5年〉10… 檜垣 徳太郎(ひがき とくたろう、1916年〈大正5年〉10月31日 - 2006年〈平成18年〉10月15日)は、日本の農林官僚・政治家。自由民主党参議院議員(3期)。 愛媛県松山市出身。旧制松山高校を経て、1941年(昭和16年)東京帝国大学法学部卒業。農林省に入省(水産局嘱託)。入省成績は下から2番目。短期現役海軍主計科士官(8期)を志願し、1942年1月、海軍主計中尉に任官し海軍経理学校に入校。同年5月に卒業。1943年11月、海軍主計大尉に昇進。1945年に解員(復員)。 農林経済局肥料課長、大臣官房予算課長、農地局管理部長、大臣官房長、畜産局長、大臣官房長(再任)、1968年(昭和43年)食糧庁長官を経て、1969年(昭和44年)農林事務次官。
村瀬 興雄(むらせ おきお、1913年7月17日 - 200… 村瀬 興雄(むらせ おきお、1913年7月17日 - 2000年3月2日)は、日本の歴史学者。ドイツ帝国およびナチズム、ナチス・ドイツを研究。成蹊大学名誉教授。 東京都出身。1938年東京帝国大学文学部西洋史学科卒。松山高等学校教授、愛媛大学助教授、1953年成蹊大学教授、1977年定年退任、名誉教授。立正大学教授、1984年退職。創価大学客員教授。1993年退職。 1987年秋、勲三等瑞宝章受勲。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
八木 毅(やぎ つよし、1910年4月16日生まれ)は、英文… 八木 毅(やぎ つよし、1910年4月16日生まれ)は、英文学者、俳人。 愛媛県生まれ。松山中学校、松山高等学校卒、1934年東京帝国大学文学部英文科卒。外務省嘱託、世界経済調査会主事、1946年明治大学文学部教授、1981年定年。俳句は1933年臼田亜浪に師事し「石楠」に拠る。1981年から『河原』に参加、俳号は八木絵馬。
武藤 誠(むとう まこと、1907年8月5日 - 1995年… 武藤 誠(むとう まこと、1907年8月5日 - 1995年4月7日)は、日本の考古学者。関西学院大学教授、文学部長を歴任した。 1907年、東京都生まれ。兵庫県立第一神戸中学校、松山高等学校を経て、1930年、京都帝国大学文学部史学科(国史専攻)を卒業。1932年、関西学院大学予科教授(日本史・東洋史)。関西学院専門学校政経科、高等商業学部、短期大学の教授を歴任し、1957年、文学部教授(史学科)。1969年3月、大学紛争の激化する中で院長事務取扱に就任した。1949年、兵庫県文化賞受賞。1967年、第7回西宮市市民文化賞受賞。
船越 弘(ふなこし ひろむ、1907年(明治40年)5月7日… 船越 弘(ふなこし ひろむ、1907年(明治40年)5月7日 - 1967年(昭和42年)9月7日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員、広島県三次市長。 広島県出身。松山高等学校を経て、1932年(昭和7年)京都帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。 1942年(昭和17年)5月、三次町会議員に選出された。2期在任し、1947年(昭和22年)5月、町議会議長となる。双三郡町村会議長会長も務めた。 1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙に広島県第3区から民主自由党から出馬して初当選。1952年(昭和27年)10月の第25回総選挙で自由党から立候補したが落選。1953年(昭和28年)4月の第26回総選挙では再選され、衆議院議員に通算2期在任した。
小野 忍(おの しのぶ、1906年(明治39年)8月15日 … 小野 忍(おの しのぶ、1906年(明治39年)8月15日 - 1980年(昭和55年)12月18日)は、日本の中国文学者。東京大学名誉教授。 1906年、東京・神田で生まれた(広島県呉市出身)。1926年に松山高等学校を卒業し、東京帝国大学文学部支那文学科に入学。塩谷温に師事し、1929年に卒業。 アプトン・シンクレアの評伝の翻訳などをした後、1934年に冨山房に入社。百科辞典の編纂に携わったほか、戦時中には満鉄調査部員として上海に駐在したり、民族研究所嘱託として内モンゴルの西北研究所に出向し現地で中国ムスリムの調査に参加するなどした。 1946年より國學院大學で講師を務めたのを皮切りに、東京大学、九州大学、京都大学などで非常勤講師を務めた。
岡本 薫(おかもと かおる、1905年10月9日 - 198… 岡本 薫(おかもと かおる、1905年10月9日 - 1987年1月9日)は、日本の作家、教育者。 大分県臼杵生まれ。松山高等学校卒、1929年東京帝国大学文学部独文科卒。1932年横浜市役所社会課勤務。1938年浦賀造船所勤務。39-41年陸軍中尉として応召。敗戦により浦賀造船を退社、文筆家となる。1964年光明学園理事。75年理事長。19歳のころから山崎弁栄の「光明主義」に帰依していた。
李 升基(リ・スンギ、朝鮮語: 리승기、1905年10月1日… 李 升基(リ・スンギ、朝鮮語: 리승기、1905年10月1日 - 1996年2月8日)は、北朝鮮の化学者、政治家。ビニロンの発明者の一人。 日本統治時代の朝鮮の全羅南道潭陽郡生まれ。中央普通学校を経て松山高等学校理科甲類を1928年3月に卒業した。その後、京都帝国大学工学部に進学して1931年3月に卒業し、その後、京都帝国大学化学研究所では助教授を務めた。1939年には桜田一郎、川上博(大日本紡績)らと共にビニロンを合成し、世界で2番目の合成繊維を作成した。しかし戦時中の日本の軍事政策に協力しなかったために治安維持法により拘束され、終戦を迎えるまでとらわれの身となった。なお同時期の京大化研では同じ朝鮮人化学者の李泰圭も助教授・教授として在籍している。
李 海翼(イ・ヘイク、朝鮮語: 이해익、1905年9月13日… 李 海翼(イ・ヘイク、朝鮮語: 이해익、1905年9月13日 - 1984年9月24日)は、日本統治時代の朝鮮・大韓民国の官僚、政治家、実業家。創氏名は和永 博光。京畿道知事や、大韓民国農林部長官を務めた。 本貫は全州李氏。漢城府の現在の西大門区出身。京城第一公立高等普通学校を経て、1930年松山高等学校理科甲類卒業。1933年文官高等試験行政科合格。1934年東北帝国大学法文学部法科卒業。 朝鮮総督府に入庁し、黄海道新渓郡守を経て、1937年黄海道黄州郡守。1939年黄海道農村振興課長。1941年江原道地方課長。1943年開城府尹。1945年米軍政期の京畿道内務部長。 1947年自由新聞社専務。
真室 亜夫(まむろ つぐお、1903年(明治36年)8月6日… 真室 亜夫(まむろ つぐお、1903年(明治36年)8月6日 - 1945年(昭和20年)5月31日)は、昭和時代前期の台湾総督府官僚、海軍司政官。 香川県綾歌郡山田村(現・綾川町)に生まれる。松山高等学校を卒業。1927年(昭和2年)12月、高等試験行政科に合格し、1928年(昭和3年)3月、東京帝国大学法学部法律学科を卒業する。 卒業後直ちに渡台し、交通局書記逓信部庶務課に勤務。1932年(昭和7年)3月、地方理事官に進み、台北州新荘郡守に就任。1934年(昭和9年)9月、台北州内務部勧業課長に転じ、ついで拓務事務官殖産局勤務、拓務事務官管理局管理課長、企画院書記官、拓務書記官、拓殖調査部第二課長、殖産局商工課長、水産課長兼務、殖産局水産課長、殖産局水産課事務官などを経て、1942年(昭和17年)5月、海軍司政官に選任された。
藤 直幹(ふじ なおもと、1903年3月6日 - 1965年… 藤 直幹(ふじ なおもと、1903年3月6日 - 1965年8月24日)は、日本の日本史学者。 徳島県徳島市に生まれる。松山高等学校を経て、1928年京都帝国大学文学部史学科卒業。1931年に同大学院を退学し、京都帝国大学文学部講師となる。1936年助教授。戦後は、1948年に大阪大学法文学部教授(1953年、文学部教授)となり、1958年には文学部長。 専門は日本中世史。「中世武家故実の研究」によって1948年に京都大学から文学博士の学位を授与される。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
斎藤 武雄(さいとう たけお、1902年(明治35年)12月… 斎藤 武雄(さいとう たけお、1902年(明治35年)12月4日 - 没年不詳)は、日本の内務官僚、実業家。官選福井県知事、兵庫県教育委員長。 広島県出身。斎藤元四郎の長男として生まれた。松山高等学校を卒業。1926年12月、文官高等試験行政科試験に合格。1927年、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。内務省に入省し北海道庁属となる。 以後、和歌山県社寺兵事課長、同秘書課長、同学務課長、同商工課長、同水産課長、岐阜県社会課長、同庶務課長、兵庫県都市計画課長、青森県書記官・警察部長、満州国奉天省警務庁長、満州国民政部労務司長、兵庫県第一部長、京都府内政部長などを歴任。 1946年1月25日、福井県知事に就任。
角 信雄(すみ のぶお、1901年2月19日 - 1989年… 角 信雄(すみ のぶお、1901年2月19日 - 1989年7月17日)は、日本のドイツ文学者。 京都府生まれ。松山高等学校卒、1926年東京帝国大学文学部独文科卒。横浜市立大学教授を務め、1964年定年退官、名誉教授。
清瀬 保二(きよせ やすじ、1900年1月13日 - 198… 清瀬 保二(きよせ やすじ、1900年1月13日 - 1981年9月14日)は、大分県生まれの作曲家。 大分県宇佐郡四日市町(現宇佐市)で清瀬善三の二男として生まれる。生家は、地元で一、二を争う素封家。少年のころからヴァイオリンを嗜み、1919年、旧制松山高等学校在学中に作曲家を志すようになる。同年12月、作曲家になるため同校を中退して上京、まず友人に紹介された田辺尚雄を訪ね、山田耕筰に約2ヶ月間師事。以後、鹿児島にこもり、ほぼ独学で作曲を学ぶ。1930年には「新興作曲家連盟」の結成に発起人の一人として参加。1932年から3年間クラウス・プリングスハイムに理論を師事する。1940年、皇紀2600年記念として委嘱を受け、「日本舞踏組曲」を作曲。
那波 光正(なわ みつまさ、1899年11月3日 - 196… 那波 光正(なわ みつまさ、1899年11月3日 - 1968年12月7日)は、岐阜県出身の実業家・興行師。京都帝国大学卒業。株式会社東京楽天地社長などを歴任した。土木工学者・鉄道官僚の那波光雄は父。日本郵船社長の有吉義弥は義兄。 1899年(明治32年)11月3日に岐阜県に生まれた。父は土木工学者・鉄道官僚の那波光雄である。愛媛県の旧制松山高等学校を第1回生として卒業後、1926年(大正15年)に京都帝国大学法学部を卒業した。旧制松山高校の同窓には後に三和銀行頭取となる上枝一雄、後に日本郵船社長となる有吉義弥などがいた。大学卒業後には小林一三が率いる東宝グループの阪神急行電鉄、東京瓦斯、東京宝塚劇場などに勤務した。
岩田 義道(いわた よしみち、1898年(明治31年)4月1… 岩田 義道(いわた よしみち、1898年(明治31年)4月1日 - 1932年(昭和7年)11月3日)は、日本の労働運動家、社会運動家、政治活動家。戦前期の非合法政党時代の日本共産党幹部であった。愛知県葉栗郡北方村(現・一宮市)出身。 松山高等学校を卒業。京都帝国大学経済学部に入学し、河上肇に師事する。だが在学中に京都学連事件に連座して逮捕され、禁錮10か月の判決を受けたため中退した。産業労働調査所で活動し、1927年(昭和2年)には日本共産党(第二次共産党)に入党する。「非常時共産党」時代には党中央委員に選出され、宣伝煽動部(アジプロ)、農民部で部長を務めたほか、活版印刷による『赤旗』の発行を指導した。
橋本 吉郎(はしもと よしお、俗称きちろう、1896年 - … 橋本 吉郎(はしもと よしお、俗称きちろう、1896年 - 1985年8月29日)は、日本の化学者(無機化学)。生涯にわたって15冊の化学辞典を執筆した。 広島県豊田郡本郷村(現・三原市)に生まれる。国民中学(台湾総督府中学校第一部)から1914年に札幌の東北帝国大学予科(現・北海道大学)に進学する。その後、東北帝国大学理学部に進む。 1922年から松山高等学校 (旧制)教授。1933年から「タングステンの容量分析」を8年間行うが第二次世界大戦で中断を余儀なくされる。学制変更で愛媛大学教授(化学)となり、1949年、行政から委託され道後温泉など松山市内の温泉の化学分析を行った。1955年からは文理学部長。
林原 耕三(はやしばら こうぞう、1887年12月6日 - … 林原 耕三(はやしばら こうぞう、1887年12月6日 - 1975年4月23日)は、日本の英文学者、俳人。俳号は耒井(らいせい)。 福井県出身。旧姓・岡田。1918年東京帝国大学英文科卒。在学中から夏目漱石に師事し、芥川龍之介らを漱石に紹介した。年下の芥川らが東大を卒業して数年たってなお大学にいたというので「万年大学生」と呼ばれた。臼田亜浪に俳句を師事した。1925年松山高等学校教授、ついで台北高等学校教授、台湾総督府在外研究員として欧米に滞在。のち法政大学、明治大学、専修大学、東京理科大学の教授を務めた。1975年没、墓所は東京都世田谷区の豪徳寺。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。