西沢 吉治(にしざわ きちじ、1872年 - 1933年)は… 西沢 吉治(にしざわ きちじ、1872年 - 1933年)は、日本の実業家。明治時代に東沙諸島の無人島がどこにも所属していないことを知り、「西沢島」と名付けて占有し事業を展開した。 鯖江藩の蔵役を務めた為治の二男として鯖江町(現福井県鯖江市)に生まれた。貧困のため9歳で家族とともに上京したが、早くに父を亡くし、農商務省地質調査所の初代所長・和田維四郎に預けられ、同調査所の給仕をしながら夜学に通った。神戸で西沢商会を起こし、海外の鉱物採集に励んだ。[要出典] 伊豆諸島の開発に従事したが、1892年頃に結核を患い、八丈島で療養生活を送り、1894年の日清戦争勃発から近衛師団の酒保商人として中国大陸に渡り、さらに台湾へと従軍した。
外村 義郎(とのむら よしろう、1872年 - 1939年)… 外村 義郎(とのむら よしろう、1872年 - 1939年)は、日本の信徒伝道者。植村正久の弟子。 明治5年(1872年)に滋賀県彦根市に生まれる。明治21年(1888年)に上京し、銀行で働きながら、東京商業学校(現一橋大学)で学ぶ。その中で、明治22年1889年頃、キリスト教に触れ、明治23年1890年に植村正久から洗礼を受ける。 ドワイト・ムーディーとアイラ・サンキーの伝記を読んで影響を受けて、献身した。神学校に入り、卒業後日本基督教会の信徒伝道者として、埼玉県で巡回伝道をした。その後、全国を巡回する。明治26年(1893年)には、北海道滝川市で滝川教会を開拓する。 明治27年(1894年)に滝川村から、開村4年目の旭川村に徒歩で入村し、旭川村2条5丁目に「日本基督教会旭川講義所」(現・日本キリスト教会旭川教会)を開設する。
三條 栄三郎(さんじょう えいさぶろう、1872年 - 19… 三條 栄三郎(さんじょう えいさぶろう、1872年 - 1964年)は日本の建築家。明治・大正時代に福岡県で活躍した。 山形県山形市鍛治町出身。1898年蔵前高等工業学校附属教員養成所卒業。旧制仙台市立工業学校教諭、熊本県での教諭を経て、1901年旧制福岡県立工業学校教諭。1905年から1908年まで佐賀県土木部技師、1908年から1924年まで福岡県土木部技師を務めた。同年9月に退職するまでの16年間は、福岡県の多くの施設が洋風建築に建て替えられる時期で、俗に“三條時代”とよばれるように、県の建築業界を牽引した。 三條が設計を担当した建築物は、旧福岡県公会堂貴賓館(明治43年竣工、国の重要文化財)、旧福岡県庁舎(大正4年竣工)、福岡県立図書館(大正7年竣工)、宮地嶽神社、香椎神宮、筥崎宮拝殿・廻廊・楼門(大正3~6年竣工)、太宰府天満宮楼門(大正1年竣工)などで、その他福岡県立福岡高等学校本館も手がけている。
落合 恒雄(おちあい つねお、1872年〈明治5年〉 - 1… 落合 恒雄(おちあい つねお、1872年〈明治5年〉 - 1940年〈昭和15年〉)は、日本の武道家、政治家。 鳥取県出身。米子市西町、落合甚大夫の養子。少時より剣道を修業する。米子中学校(現・米子東高校)修学。1905年、大日本武徳会教員養成所に入所、内藤高治範士の門下生となる。卒業後米子中学校(現・米子東高校)武道教員を拝命する。 1912年に師範学校、中学校教員剣道講習会において課程を修了する。1917年12月より1921年10月まで西区長として自治に尽力する。1921年9月より1927年3月まで米子町会議員として町政に参与する。1927年7月、西区長に再任。 1921年に剣道精錬証を取得、武徳会地方幹事、青年演武大会審判員となる。
木村 曙(きむら あけぼの、"明治5年"3月3日("1872… 木村 曙(きむら あけぼの、"明治5年"3月3日("1872年"4月10日) - 明治23年(1890年)10月19日)は兵庫県出身の作家。本名、岡本ゑい(えい子、栄子)。 牛鍋チェーン店"いろは"の経営者木村荘平とその愛人(のち正妻)岡本政の娘として神戸市に生まれる。官立東京高等女学校(東京女子師範学校附属高等女学校/現:お茶の水女子大学附属中学校・附属高等学校)在学中、ヨーロッパで刺繍を学ぶことを望み、フランス語の学習に熱中。卒業後、文部省にフランス留学を命じられた女性から同行するよう誘われ、父荘平に留学の許可を求めたが許されず、母と共に浅草広小路の"いろは"第十支店に住み込んで帳場を担当。
金子 おなじ(かねこ おなじ、1872年(明治5年) - 1… 金子 おなじ(かねこ おなじ、1872年(明治5年) - 1964年(昭和39年)5月17日)は、日本の社会事業家である。旧姓は伊藤。愛称は「お母さん」。 仙台藩付の儒学者だった伊藤祐順の長女として、東京府(現在の東京都)に生まれる。名の「おなじ」の由来は、彼女の実兄と同じ誕生日であった事から祖父(祐順の父)が命名したといわれている。共立女子職業学校(現在の共立女子大学)に入学し、造花の研究に携わった。卒業後に18歳で私立女子工芸学校(現在の実践女子大学)にて教鞭を執る。 1894年(明治27年)に上毛孤児院(現在の上毛愛隣社)の設立者であった金子尚雄と結婚し、夫が務めた院長の秘書を務めた。その後は夫の補助として孤児への資金やその賛同者集め、後に孤児たちが通園した前橋幼稚園の創設や北海道にて開拓農業の経営も携わった。
稲見 貞蔵(いなみ ていぞう、1872年(明治5年5月)- … 稲見 貞蔵(いなみ ていぞう、1872年(明治5年5月)- 没年不詳)は、三重県四日市市長。 秋田県秋田市出身。1892年(明治25年)、東京法学院(現在の中央大学)を卒業。滋賀県属、奈良県属、内務省地方局勤務、新潟県佐渡郡長、同北蒲原郡長、新潟県勧業課長、北海道庁空知支庁長を歴任した。1916年(大正5年)に退官し、三井炭鉱庶務課長、新潟市貯蓄銀行支配人を務めた。 1918年(大正7年)、四日市市長に選出され、1期在任。退任後の1923年(大正12年)、旭川市助役に選ばれた。 その後東京市麻布区長を務めた。
福井 順平(ふくい じゅんぺい、1872年(明治5年)[出典… 福井 順平(ふくい じゅんぺい、1872年(明治5年)[出典無効] - 1940年(昭和15年)1月31日[出典無効])は、大正・昭和初期、戦間期の大日本帝国海軍の軍人。横須賀工廠造船部造船官。最終階級は海軍造船少将。 静岡県出身[出典無効]。静岡県尋常中学校卒業。東京高等工業学校卒業[出典無効]。1910年、造船少監。1914年、関東工作部員。1919年9月、造船中佐。同年12月、造船大佐。1920年、横須賀工廠造船部員兼富士教官、1922年、八雲教官。1924年、造船少将[出典無効]。1925年、予備役。1926年-1929年、艦船救難引揚事項調査技術記録収集業務嘱託。1930年、後備役。1935年、退役[出典無効]。
安野 譲(やすの じょう、1872年 - 没年不明)は岐阜県… 安野 譲(やすの じょう、1872年 - 没年不明)は岐阜県大垣出身の実業家、貿易商。大阪を本拠地とする岩井財閥の大番頭として岩井商店(後の双日)専務取締役をはじめ、関西ペイントの初代社長など傘下企業の役員を歴任した。 1872年(明治5年)10月18日、士族・安野芳三郎の長男として大垣に生まれる。幼くして両親を亡くし、1885年(明治18年)岩井文助を主人とする大阪の加賀屋に入店。当時は石油と西洋雑貨が主な取り扱い品で、店員は総数20名もいなかったが既に大阪では名の通った店であった。1889年(明治22年)には文助の長女・栄子と結婚した甥・蔭山勝次郎が岩井家の婿養子となる。岩井勝次郎は1896年(明治29年)7月に義父・文助より二十万円の貸与を受けて独立すると、大坂東区南久太郎町に店を開いた。
藤村 與六(ふじむら よろく、1872年〈明治5年〉 - 1… 藤村 與六(ふじむら よろく、1872年〈明治5年〉 - 1967年〈昭和42年〉11月29日 )は、日本の教育者、易学者。号は蒙斎、のちに蒙軒と改めた。従五位、勲六等瑞宝章に叙せられる。 1872年(明治5年)に青森県弘前に生まれた。実父は明治維新後に郵便御用取扱人を務めた馬渡周助で、10人兄弟の末子として生まれた。幼少時に旧弘前藩士の藤村家の養子となった。 1893年(明治26年)に青森県尋常師範学校を卒業し、小学校訓導となる。その後高等師範学校文科に進み、1900年(明治33年)3月に卒業した。 卒業後の同年4月、国語及漢文科の教諭として鳥取県第一中学校に赴任し、その後神奈川県師範学校、滋賀県立第一中学校、私立明倫中学校、高知師範学校の教諭・主事・教頭を歴任した。
小鷹 鋭健(おだか えいけん、1860年12月31日〈万延元… 小鷹 鋭健(おだか えいけん、1860年12月31日〈万延元年11月20日〉 - 没年不明)は、明治時代の政治家。山形県山形市長(第7代)。 小鷹勇の弟として、のちの山形県米沢市に生まれる。山形県警部、最上郡長を歴任し、1910年(明治43年)11月に退官。その後、山形市助役を経て、1917年(大正6年)前山形市長の林兎喜太郎の満期退任に伴う詮衡で、高橋貞治と争い約1ヶ月を掛けて山形市長に選出された。この頃、第一次世界大戦の好況で生まれた戦争成金により生活物資が買い占められ、特に米穀の投機的買い占めに走るものが多く、のちの米騒動に繋がった。当時の山形市では小鷹市長の指揮のもと市幹部の米穀商への説得や皇室からの御下賜金、市民有志の寄付金を加え14万円の予算で市が米を購入し、困窮市民に廉売等を行うことで騒動を回避した。
浮田 和民(うきた かずたみ、安政6年12月28日(新暦18… 浮田 和民(うきた かずたみ、安政6年12月28日(新暦1860年1月20日) - 昭和21年(1946年)10月28日)は、日本の思想家・政治学者。法学博士、早稲田大学高等師範部長。同志社英学校最初の卒業生。熊本バンドの一人。 軍人の石光真清、石光真臣兄弟は従兄弟にあたる。和民の母は漢学者・栃原知定(東皐)の姉、先妻・末、後妻・五女は共に下村孝太郎の妹である。長女・操は原安三郎の妻、次女・恵美子の子は若林貴世志、三女・東子の子は浮田克躬。弟の浮田真郷は陸軍三等主計で、その子で外交官の浮田郷次、陸軍大佐の浮田家雄、海軍中将の浮田秀彦は甥。 熊本藩の下級武士の三男として生まれる。幼名は栗田亀雄。11歳の時に浮田姓を名乗る。
辻 密太郎(つじ みつたろう、1860年12月28日(万延元… 辻 密太郎(つじ みつたろう、1860年12月28日(万延元年11月17日) - 1945年(昭和20年)12月21日)は、明治時代から昭和時代初期にかけて活動した日本組合基督教会の牧師。 播磨国加西郡在田村字中富(現・兵庫県加西市中富町にて、辻退蔵と阿以(愛子)の長男として生まれる。1874年姫路病院で医療伝道者ベリーから聖書について学び、1878年に大阪英学校に入学し、11月11日浪花教会で澤山保羅(パウロ)により洗礼を受けた。その後1881年に同志社英学校三年に編入学した後、江州彦根年堂派遣を振り出しに、岡山県高梁教会、熊本県熊本教会などに派遣された。1888年大阪島之内教会で按手礼を受け牧師になった後、三重県津市での伝道、群馬県甘楽教会・高崎教会での牧会を経て、熊本県大牟田教会牧師に就任するなど、日本国内各地で伝道に当たった後ハワイや米国カリフォルニア州・ユタ州の各地で牧会、伝道にあたった。
佐野 春五(さの しゅんご、万延元年11月11日(1860年… 佐野 春五(さの しゅんご、万延元年11月11日(1860年12月22日) – 昭和5年(1930年)8月14日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党)。弁護士。 淡路国津名郡塩田村(現在の兵庫県淡路市)出身。徳島慶應義塾で学んだ後、1876年(明治9年)から慶應義塾本校で学んだ。一度郷里に戻った後、1885年(明治18年)に再び上京し、東京専門学校(現在の早稲田大学)を経て、英吉利法律学校(現在の中央大学)に入った。1887年(明治20年)、英吉利法律学校を卒業し、代言人試験に合格した。神戸市で弁護士を開業し、神戸弁護士会長を務めた。また塩田村会議員、兵庫県会議員を歴任した。 1908年(明治41年)、第10回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした。
保利 眞直(ほり まさなお、1860年12月22日(万延元年… 保利 眞直(ほり まさなお、1860年12月22日(万延元年11月11日) - 1929年(昭和4年)12月6日)は、明治から昭和初期の眼科医、医学博士、陸軍軍医学校長、宮内省侍医寮御用掛。最終階級は陸軍軍医監。位階および勲等、軍功は正四位・勲三等・功四級。 1860年12月22日((旧暦)万延元年11月11日)、唐津藩典医保利文溟の次男として誕生する。1887年(明治20年)度に東京帝国大学医科大学を卒業し、大学同期には猪子吉人等がいた。大学卒業後日本陸軍講習生として大学院に入り、7月陸軍三等軍医(少尉相当)に任官した大学院修了後、医術開業試験試験委員・日本赤十字社病院眼科主幹等を歴任した。 1893年(明治26年)1月ドイツ留学を命じられベルリン大学に入り眼科学を修め、同年イタリアで開催された第11回国際医学会に出席、翌1894年(明治27年)6月オーストリアのウィーン大学に移り、1895年(明治28年)には再びドイツのハイデルベルク大学に、そしてフランスのパリ大学で学んだ後、1896年(明治29年)6月帰国した。
長谷部 倉蔵(はせべ くらぞう、1860年12月9日(万延元… 長谷部 倉蔵(はせべ くらぞう、1860年12月9日(万延元年10月27日) - 1939年(昭和14年)2月8日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 伊予国周敷郡小松村新屋敷(愛媛県周桑郡小松村、小松町を経て現西条市小松町)で、小松藩士・長谷部多内の長男として生まれた。小松藩校養正館で学ぶ。家業を継ぎ農業を営む。 越智郡波止浜村(現・今治市)、新居郡橘村(現・西条市)各村長、小松町長、愛媛県会議員、西条銀行取締役、周桑銀行監査役となる。 1904年の第9回衆議院議員総選挙において愛媛県郡部から立憲政友会公認で立候補してトップ当選した。衆議院議員を1期務め、1908年の第10回衆議院議員総選挙には不出馬。
大川 平三郎(おおかわ へいざぶろう、万延元年10月25日〈… 大川 平三郎(おおかわ へいざぶろう、万延元年10月25日〈1860年12月7日〉 - 1936年〈昭和11年〉12月30日)は、明治から昭和初期の実業家。王子製紙 (初代)はじめ数多くの製紙会社に関わったことから「日本の製紙王」と呼ばれ、「大川財閥」を築いた。位階勲等は正五位勲三等。 江戸時代の撃剣の免許取りで農民の出ながら武蔵国川越藩の剣術師範となった大川平兵衛は平三郎の祖父にあたる。 大川平三郎は、川越藩三芳野村(現・埼玉県坂戸市横沼)で剣術道場を構えていた大川修三の次男として生まれる。道場は修三の父で撃剣の免許を取得した大川平兵衛の興したものである。平三郎の母は富岡製糸場を作った尾高惇忠の妹・みち子である。
神中 糸子(じんなか いとこ、1860年12月2日(万延元年… 神中 糸子(じんなか いとこ、1860年12月2日(万延元年10月20日) − 1943年(昭和18年)2月4日)は、日本の洋画家。 和歌山県海草郡雑賀村(現・和歌山市)生まれ。父は紀州藩士・陸軍士官学校教官を務めた神中義次、母は紀州藩御用絵師の笹川遊泉の娘・増で、7人きょうだいの4番目(三女)。 1877年工部美術学校に入学するが、1880年退学。1881年より小山正太郎の私塾で学んだ。1887年明治女学校で洋画講師嘱託となり、1894年まで勤めた。また、戸田伯爵家の絵画の家庭教師も務めている。1907年から私立日本女子美術学校(東京都立忍岡高等学校の前身)で西洋画科講師嘱託となり、1910年から1914年までは東京女子高等師範学校図画講師嘱託を務めた。
井上 角五郎(いのうえ かくごろう、万延元年10月18日〈1… 井上 角五郎(いのうえ かくごろう、万延元年10月18日〈1860年11月30日〉 - 昭和13年〈1938年〉9月23日)は、日本の実業家、政治家。東京府平民。 壬午事変後に朝鮮政府の顧問となる。1883年10月に「漢城旬報」を発刊、1886年1月には「漢城周報」を創刊。甲申政変に深く関与し、金玉均・朴泳孝と関係を持った。第1回の帝国議会衆議院議員に当選以来連続当選14回、第47回まで14回代議士を務める。北海道炭礦鉄道社長、日本製鋼所設立者、会長、国民工業学院理事長、慶應義塾評議員等を歴任し、大正9年(1920年)緑綬褒章下賜。京釜鉄道、南満州鉄道の設立にも関わった。号は閔妃の実甥・閔泳翊から贈られた琢園。
水之江 文二郎(みずのえ ぶんじろう、1860年11月29日… 水之江 文二郎(みずのえ ぶんじろう、1860年11月29日(万延元年10月17日)- 1929年(昭和4年)2月11日)は、明治から昭和初期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、大分県会議長、大分県宇佐郡封戸村長。旧姓・鶴田、号・孤峰。 豊前国宇佐郡、のちの大分県宇佐郡和間村鶴田新田(長洲町を経て現宇佐市)で、鶴田文左衛門(文左ヱ門)の二男として生まれる。漢学、詩学、歌道を修める。上京して独逸学校で独逸学、数学を学び、1882年(明治15年)東京大学医学部に入学したが病のため退学し、書法を研究した後に帰郷した。 1886年(明治19年)8月、宇佐郡封戸村水崎(現豊後高田市)の素封家で父の異母兄・水之江浩の養嗣子となった。
奥宮 衛(おくみや まもる、1860年11月29日(万延元年… 奥宮 衛(おくみや まもる、1860年11月29日(万延元年10月17日)- 1933年(昭和8年)1月7日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍少将。横須賀市長。 土佐国土佐郡潮江村(現・高知県高知市)で、土佐藩士・奥宮暁峰(正路)、亀江の二男として生まれる。1883年10月、海軍兵学校(10期)を卒業し、1886年4月、海軍少尉任官。 以後、「武蔵」分隊長、「海門」分隊長、海兵砲術教官兼生徒分隊長、「龍驤」分隊長兼教官、横須賀鎮守府海兵団分隊長などを歴任。日清戦争には「厳島」分隊長、「高雄」分隊長として参戦。1898年3月、「笠置」回航委員として米国へ出張し、1899年5月に帰国した。
岡村 庄兵衛(おかむら しょうべえ、万延元年10月15日(1… 岡村 庄兵衛(おかむら しょうべえ、万延元年10月15日(1860年11月27日) - 大正12年(1923年)9月22日)は明治時代から大正時代にかけての書籍出版、販売業者。 盛花堂と号す。万延元年(1860年)10月15日に近江国甲賀郡(後の滋賀県甲賀郡北杣村、現・甲賀市)に生まれた。明治23年(1890年)6月に出京し直ちに銀華堂野村銀次郎に雇われ1年余り勤め、さらに順成堂瀬山佐吉方に半年勤務した。明治25年(1892年)3月5日に浅草区左衛門町に盛花堂という出版および書籍取次販売業を開始している。明治36年(1903年)3月に浅草区下平右衛門町9番地に移転、各種の出版を行って大正期にいたる。
東条 良平(東條、とうじょう りょうへい、1860年11月2… 東条 良平(東條、とうじょう りょうへい、1860年11月22日(万延元年10月10日)- 1911年(明治44年)5月8日)は、明治期の医師、政治家。衆議院議員、千葉県会議長。 上総国市原郡山木村(千葉県市原郡八幡町山木、市原町を経て現市原市山木)で、代々医を業とした東条家で東条養仙の長男として生まれる。父は高野長英門下。嶺田士徳(楓湖)から英漢の学を学んだ。1874年(明治7年)に上京し、華岡真節に医学を学び、1877年(明治10年)8月、医術開業試験に合格し、医術内外科開業免状が交付され医師を開業した。千葉市原郡医会会頭、千葉医学会副会頭なども務めた。 1887年(明治20年)4月、八幡町会議員に選出され1889年(明治22年)7月まで在任。
服部 金太郎(はっとり きんたろう、1860年11月21日(… 服部 金太郎(はっとり きんたろう、1860年11月21日(万延元年10月9日) - 1934年(昭和9年)3月1日)は日本の実業家。服部時計店(現セイコーホールディングス)の創業者。輸入時計の販売店を開業し、のちに掛時計・腕時計の製造・販売へと事業を拡大して世界のセイコーの礎を築き、「日本の時計王」とも呼ばれる。
清水 精三郎(しみず せいざぶろう、万延元年10月25日(1… 清水 精三郎(しみず せいざぶろう、万延元年10月25日(1860年11月19日) - 昭和9年(1934年)12月5日)は、日本の外交官。駐ペルー公使。位階および勲等は従三位・勲二等。 武蔵国大里郡大幡村(現在の埼玉県熊谷市)に四分一啓次郎の二男として生まれ、清水賢良の養子となった。1890年(明治23年)に高等文官試験に合格し、外務省試補となった。1894年(明治27年)ホノルル領事官補。1895年香港領事官補。1896年(明治29年)香港二等領事。1897年(明治30年)バンクーバー二等領事。1902年(明治35年)待命。1903年(明治36年)シカゴ領事。1908年(明治41年)オタワ総領事。
松岡 鼎(まつおか かなえ、1860年11月15日(万延元年… 松岡 鼎(まつおか かなえ、1860年11月15日(万延元年10月3日) - 1934年(昭和9年)1月28日)は、松岡5兄弟(柳田國男、井上通泰、松岡静雄、松岡映丘)の長男で医師。父は儒者松岡操(約斉)。 神戸師範学校を卒業後、19歳にして昌文小学校(現在の田原小学校)の校長に就任するが、後に東京帝国大学に入学、卒業して医師資格を得、千葉県布佐町(現・我孫子市)に住む。 20歳で家督を継ぎ、近くの村出身の女性と結婚したが離婚した。原因はひとえに「小さな家」のためであった。 最も長命だった弟の柳田國男は、晩年に口述筆記の回想記『故郷七十年』において、「長兄は二十歳で近村から嫁をもらった。しかし私の家は二夫婦住めない家だった。
有賀 長雄(ありが ながお、万延元年10月1日(1860年1… 有賀 長雄(ありが ながお、万延元年10月1日(1860年11月13日) - 大正10年(1921年)5月17日)は、日本の法学者、社会学者。法学博士。文学博士。姓はあるがとも。
小林 重威(こばやし しげたけ、万延元年9月23日(1860… 小林 重威(こばやし しげたけ、万延元年9月23日(1860年11月5日) – 1917年(大正6年)2月6日)は、日本の内務官僚。山口県下関市長。 信濃国佐久郡小諸(現在の長野県小諸市)出身。1890年(明治23年)、内務属となり、県治局市町村課長、大分県参事官、福岡県参事官・内務部第一課長、同事務官・第三部長、京都府事務官・第三部長、徳島県事務官・第二部長を歴任した。1908年(明治41年)、韓国政府の応聘により全羅南道書記官に就任。 韓国併合後は下関市長に転じた。退任後、大阪市助役・港湾部長を務めた。
田部 芳(たなべ かおる、1860年11月1日(万延元年9月… 田部 芳(たなべ かおる、1860年11月1日(万延元年9月19日) - 1936年(昭和11年)11月18日)は明治から昭和期の法曹家。大審院検事・大審院部長判事等を歴任し商法起草委員として新商法成立に尽くした。滋賀県出身者として司法省法学校同期の河村譲三郎と共に最初の法学博士(博士登録番号22番)。 田部芳は、1860年11月1日((旧暦)万延元年9月19日)に彦根藩士下士の家(犬上郡彦根上藪下町)に生まれる。父田部密は桜田門外の変後彦根藩内に台頭した尊攘派下級藩士の結社である至誠組に近い立場にあり、明治維新後の藩政に関与。維新後は大和国の高市郡・葛上郡・葛下郡・忍海郡の郡長を務めると共に大阪・名古屋間の運送業を起こした。
持田 若佐(もちた / もちだ わかさ、1860年10月30… 持田 若佐(もちた / もちだ わかさ、1860年10月30日(万延元年9月17日)- 1931年(昭和6年)2月28日)は、明治から昭和初期の神職・政治家・実業家。衆議院議員。1913年(大正2年)「若狭」に改名した。 下野国都賀郡高椅村(栃木県下都賀郡絹村字高椅、桑絹村、桑絹町を経て現小山市高椅)で、持田和泉の長男として生まれる。明治元年(1868年)結城藩黌に入り和漢学を修め、栃木県中教院を終えて上京し、専修学校(現専修大学)で法律学、経済学を学んだ。 1875年(明治8年)教導職試補となり、郡吏、絹村戸長、少講義などを歴任。1885年(明治18年)高椅神社祠官に就任。1887年(明治20年)栃木県会議員に選出され4期在任し、同常置員、絹村会議員、下都賀郡会議員、同参事会員、教育諮問会員、郡徴兵参事会員、農林会特別会員、地方森林会議員、神道栃木分局顧問、神道教師尋常検定委員なども務めた。
伊賀 保太郎(いが やすたろう、1860年10月21日(万延… 伊賀 保太郎(いが やすたろう、1860年10月21日(万延元年9月8日) - 1903年(明治36年)10月19日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 播磨国神西郡、のちの兵庫県神崎郡香呂村(香寺町を経て現姫路市)出身。普通学を学ぶ。戸長、香呂村会議員、神崎郡会議員、同参事会員、所得税調査委員、徴兵参事員、兵庫県会議員、同常置委員となる。また、播但鉄道(株)発起人、姫路電燈(株)重役、増位温泉(株)社長、播磨採鉄(資)専任業務担当社員を務めた。 1902年の第7回衆議院議員総選挙において兵庫県郡部から憲政本党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1903年の第8回衆議院議員総選挙は不出馬。
井坂 直幹(いさか なおもと、万延元年9月1日(1860年1… 井坂 直幹(いさか なおもと、万延元年9月1日(1860年10月14日) - 大正10年(1921年)7月27日)は、日本の木材実業家、秋田木材株式会社社長。 常陸国水戸にて水戸藩士の子として生まれた。幼名は亮太郎。藩の俊才が学ぶ自彊舎に入学し水戸学と漢書を学び、さらに栗田寛の彰考館にて『大日本史』の資料編集に従事したが、次第に洋学を志し彰考館を辞めることになる。このころ福澤諭吉と同郷で門下生である茨城師範学校長松木直己が福沢の依頼で優秀な若者を探していたが、井坂はこの推薦する4人の中に選ばれ、明治14年(1881年)に石河幹明、高橋義雄らと共に慶應義塾に入学する。在学中は福沢諭吉の家に寄宿し、優秀な成績を修めた。
馬場 愿治(ばば げんじ、1860年10月8日(万延1年8月… 馬場 愿治(ばば げんじ、1860年10月8日(万延1年8月24日) - 1940年(昭和15年)11月13日)は、日本の裁判官。大審院部長で退官後、中央大学学長を務めた法学博士である。 会津藩に士籍を有し、のち福島県議を5期務めた馬場庄平の次男である。会津若松英語学校などで修学したのちに上京し、中村正直の私塾、東京英語学校(官立)を経て東京大学予備門に進む。 1885年(明治18年)7月、東京大学法学部を次席で卒業。 馬場は司法省御用掛となり、東京始審裁判所詰として裁判官のキャリアを開始する。横浜地裁、東京地裁、東京控訴院での勤務を経て1896年(明治29年)に浦和地裁裁判長、翌々年に大審院判事となる。
野口 能毅(のぐち のうき、万延元年8月17日(1860年1… 野口 能毅(のぐち のうき、万延元年8月17日(1860年10月1日) - 昭和15年(1940年)5月22日)は、日本の内務官僚、政治家。秋田市長や佐賀市長を務めた。 肥前国小城郡小城町(現在の佐賀県小城市)に小城藩剣道師範波多野信倚の子として生まれ、家老野口雲斎の養子となった。1880年(明治13年)に任官して、佐賀県警部、同警察署長、三重県警察署長などを務めた。さらに1899年(明治32年)から小城郡長、大分県警察部長、佐賀県警察部長、秋田県警察部長を歴任した。 1905年(明治38年)から1906年(明治39年)にかけて秋田市長を務め、その後、1912年(明治45年)から1931年(昭和6年)まで佐賀市長を5期務めた。
高杉 金作(たかすぎ きんさく、1860年(萬延元年)10月… 高杉 金作(たかすぎ きんさく、1860年(萬延元年)10月 - 1931年(昭和6年)4月22日)は、日本の政治家、実業家。 陸奥国津軽郡高杉村(青森県中津軽郡高杉村を経て現弘前市)出身。明治法律学校(明治大学)卒業。青森県会議員、弘前商工会議所会頭などを務め、1915年には第12回衆議院議員総選挙に立憲政友会から出馬し、当選した。第五十九国立銀行(現青森銀行)の第5代頭取や、青森貯蓄銀行(現みちのく銀行)取締役なども務めた。勲四等。
高橋 鉉太郎(たかはし げんたろう、1860年9月29日〈万… 高橋 鉉太郎(たかはし げんたろう、1860年9月29日〈万延元年8月15日〉 - 1949年〈昭和24年〉2月28日)は、日本の化学者、教育者。香川県尋常中学校校長、第三高等学校(現・京都大学)教授等を歴任。第三高等学校名誉教授。 旗本永井左門の代官であった河内国大和田庄野口村(現・門真市)在住の漢学者・高橋俊太郞篤敬の長男として生まれる。父篤敬は柔術剣術の目録を取り、囲碁の才に長け、江戸で近藤真琴に就いて算術・代数学を、明治維新後は敷田年治の門人として国学を学び、明治4年(1871年)より堺県に出仕、新暦1874年(明治7年)より奈良県学校掛となり、一時は奈良師範学校長を務めた博学多芸の人物であった。
大久保 徳明(おおくぼ のりあき、1860年9月29日(万延… 大久保 徳明(おおくぼ のりあき、1860年9月29日(万延元年8月15日) - 1917年(大正6年)4月20日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 1860年(万延元年)、土佐国土佐郡小高坂村後町(現在の高知県高知市)居住の土佐藩士・大久保幸策の三男として生まれた。 1875年(明治8年)、陸軍幼年学校を経て陸軍士官学校(旧3期)に進み1879年(明治12年)12月22日、工兵少尉に任官。1883年(明治16年)2月28日工兵中尉に、1886年(明治19年)10月4日工兵大尉に昇進。1888年(明治21年)11月17日、陸軍士官学校教官に補される。 1895年(明治28年)3月23日工兵少佐に昇進し、陸軍大学校教官、宇品運輸通信支部員などを経て、1898年(明治31年)10月1日、工兵中佐に昇進。
渡辺 専次郎(わたなべ せんじろう、1860年9月27日 (… 渡辺 専次郎(わたなべ せんじろう、1860年9月27日 (万延元年8月13日) - 1916年(大正5年)9月26日)は、日本の実業家。三井物産専務理事や、三井同族会管理部会員など務めた。 横浜の医師渡邊顯哉の次男として生まれる。商法講習所(現一橋大学)を経て、矢野二郎校長の紹介で岩下清周とともに1879年に三井物産に入社した。1881年横浜支店詰。その後ロンドン支店詰となり、長年イギリスで勤務し、妻の満里はイギリス人。 1885年ロンドン支店副支配人。1886年ロンドン支店支配人。1895年には理事兼ロンドン支店支配人(1899年から支店長に名称変更)となり、紡績機の輸入や米の輸出、山本条太郎上海支店長との連携による石炭の購入などを進めた。
並河 理二郎(なびか りじろう、1860年9月25日(万延元… 並河 理二郎(なびか りじろう、1860年9月25日(万延元年8月11日)- 1926年(大正15年)6月4日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、島根県会議長、島根県能義郡安来町長。本家並河家14代当主。号・適處(てきしょ)。 出雲国能義郡安来町(島根県能義郡安来町を経て現安来市)で、本家並河家12代・三郎兵衛方月の二男として生まれた。山村勉斎に師事し漢学を修めた。1877年(明治10年)6月、本家並河家14代の家督を相続した。 安来村戸長、学務委員、所得税調査委員、安来町会議員、徴兵参事員、島根県会議員、同議長、安来町長、能義郡会議員、島根県農会長、地方森林会議員、能義郡教育会長などを務めた。
小山 善(こやま ぜん、1860年9月24日(万延元年8月1… 小山 善(こやま ぜん、1860年9月24日(万延元年8月10日) - 1933年(昭和8年)5月6日)は、日本の医師。宮内省侍医寮御用掛、日本赤十字社医員。伊藤博文や李王世子一家の侍医を務めた。 1860年、現在の新潟県新発田市に生まれる。小山家は医者の家系であった。1891年に発生した濃尾地震に際しては、当時の岐阜県武儀郡関町に設置された赤十字社仮病院で被災者の救護活動に従事した。1909年(明治42年)10月26日、枢密院議長伊藤博文の侍医として彼のハルビン訪問に隨行した際、朝鮮の独立運動家であった安重根の銃撃により重傷を負った伊藤博文の救命処置をする。小山善はこの際のことについて「伊藤公がハルビン駅に到着しロシア軍隊の前を通っていたとき、爆竹のような音を聞き同時に伊藤公が負傷したことを確認したため、直ちに救命活動を行った。
司天龍 政吉(してんりゅう まさきち、1860年9月21日(… 司天龍 政吉(してんりゅう まさきち、1860年9月21日(万延元年8月7日) - 1917年(大正6年)9月22日もしくは9月26日)は、大和国葛下郡(現在の奈良県葛城市)出身で小野川部屋、玉垣部屋、雷部屋、八角部屋に所属した力士。本名は勇川 政吉。7代大嶽、5代中立。身長不明、体重は70kg。最高位は西小結。 大坂相撲の小野川部屋から、1880年5月に三段目格で初土俵。1885年5月には新入幕を果たした。所属が八角部屋になったことから、四股名を鶴ヶ濱から司天龍に改めている。以後幕内20場所を務め、その間にはのちの横綱・小錦八十吉に幕内初黒星を付けた。1895年1月限りで引退し、年寄大嶽を襲名した。
植田 謙輔(うえだ けんすけ、1860年9月13日(万延元年… 植田 謙輔(うえだ けんすけ、1860年9月13日(万延元年7月28日) - 1927年(昭和2年)2月3日)は、日本の篤農家、政治家(山口県豊浦郡彦島村長)、実業家。彦島電気取締役。族籍は山口県平民。大彦島建設第一の功労者であった。 長門国彦島(現・山口県下関市)出身。植田藤左衛門の長男。第2代村長田代寅次郎に用いられて1890年、助役に就職し、1891年、第3代村長の要職に就いた。一意村治のために村長として約30年の永きにわたり心血を注いだ。 郡の町村長会副会長となり、種々な公的名誉職に関与した。自治功労者として表彰された。『彦島大観』で「彦島の元勲として崇敬すべき歴史的人物である。」と紹介されている。
中安 信三郎(なかやす しんざぶろう、1860年9月7日(万… 中安 信三郎(なかやす しんざぶろう、1860年9月7日(万延元年7月22日)- 1932年(昭和7年)10月27日)は、日本の政治家。衆議院議員、大日本国粋会・第2代会長。旧姓は小林。 1860年(万延1年7月)に丹波国南桑田郡にて生まれる。和仏法律学校(現・法政大学)を卒業する。 京都市会議員・参事会員、京都府会議員などを経て、1908年(明治41年)に第10回衆議院議員総選挙に当選する(以後2期当選、立憲同志会)。 1919年(大正8年)に大日本国粋会の設立に参加し、理事長に就任し、1929年(昭和4年)に会長に就任する。 1932年(昭和7年)10月27日に死去、72歳。 この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。
高安 右人(たかやす みきと、万延元年7月19日(1860年… 高安 右人(たかやす みきと、万延元年7月19日(1860年9月4日) - 昭和13年(1938年)11月20日)は、日本の医学者で高安動脈炎(高安病)の発見者。 この項目は、医学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:医学/Portal:医学と医療)。
山谷 虎三(やまや とらぞう、万延元年7月14日(1860年… 山谷 虎三(やまや とらぞう、万延元年7月14日(1860年9月1日) - 昭和2年(1927年)1月15日)は、日本の衆議院議員(立憲国民党)。弁護士。 美作国真島郡勝山(現在の真庭市)出身。1882年(明治15年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業。代言人、弁護士として活動した。勝山町会議員、中国鉄道株式会社支配人、阿哲銀行頭取などを務めた。 1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。1916年(大正5年)の補欠選挙でも再選を果たした。
和田垣 謙三(わだがき けんぞう、1860年8月30日〈万延… 和田垣 謙三(わだがき けんぞう、1860年8月30日〈万延元年7月14日〉 - 1919年〈大正8年〉7月18日)は明治時代から大正時代にかけての日本の経済学者。法学博士。号は吐雲。 但馬国(現兵庫県)出身。豊岡藩士・和田垣譲の次男。1881年東京帝国大学卒業後、ヨーロッパに留学し、ケンブリッジ大学・ベルリン大学で学び、1883年に帰国。文部省御用掛を経て、1886年帝国大学法科大学教授となり、金井延とともに学部を主導、シュタインやワグナーの社会政策学派財政学を導入、自由主義経済学からの転換を促した。1891年法学博士。1898年の農科大学教授に転じる。また日本女子商業学校校長、東京商業学校校長として民間実業教育に尽力。
依田 銈次郎(よだ けいじろう、1860年8月26日〈万延元… 依田 銈次郎(よだ けいじろう、1860年8月26日〈万延元年7月10日〉 - 1933年〈昭和8年〉9月28日)は、日本の弁護士・内務官僚。政友会系官選県知事。 篠山藩士・依田秀実の長男として同藩江戸藩邸で生まれる。1876年に上京して芳野金陵塾や二松学舎に通った。一時帰郷後再び上京し、講法学舎に入ったが、舎監大岡育造と対立して退学し、斎藤孝治らとともに明治法律学校に入学。1882年、同校を卒業し代言人(弁護士)となり、自由民権運動に参画。 1894年、富山区裁判所判事となり、宮津区裁判所判事に異動。1898年、宮崎県警部長に転じた。以後、福島県警部長、奈良県警部長、高知県警部長、山口県警部長、山口県事務官・第四部長、新潟県事務官・警察部長、石川県事務官・内務部長、東京府事務官などを歴任。
比留間 邦之助(ひるま くにのすけ、1860年8月16日(万… 比留間 邦之助(ひるま くにのすけ、1860年8月16日(万延元年6月30日) - 1924年(大正13年)12月25日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 武蔵国多摩郡三ツ木村(現東京都武蔵村山市三ツ木)出身。漢学と兵学等を学ぶ。農業と牧畜業に従事する。学務員、三ツ木村(のち村山村、村山町を経て、現・武蔵村山市)会議員、三ツ木村外三ヶ村長、神奈川県会議員、東京府会議員、同常置委員、同参事会員、所得税調査委員、地方衛生会委員、日本農民会北多摩郡支部長、東京物品火災保険(株)相談役となる。 1898年3月の第5回衆議院議員総選挙において東京13区から無所属で立候補したが落選。同年9月の第6回衆議院議員総選挙では憲政党公認で立候補して落選した。
青木 磐雄(あおき いわお、1860年8月14日(万延元年6… 青木 磐雄(あおき いわお、1860年8月14日(万延元年6月28日) - 1939年(昭和14年)6月28日)は、日本の政治家(衆議院議員)。 江戸の徳島藩邸で生まれた。廃藩後、徳島県名東郡住吉島村(現徳島市)に移った。藩校長久館、洋学所などで学んだ。 東京帝国大学法科大学を卒業後、地方裁判所検事、弁護士、地方裁判所検事正、控訴院検事、京都府書記官を歴任した。1912年(明治45年)の第11回衆議院議員総選挙に立憲政友会より出馬するも一坂俊太郎に敗れ落選。しかし1915年(大正4年)の第12回衆議院議員総選挙で武市彰一と争い初当選した。 1917年(大正6年)の第13回衆議院議員総選挙にも出馬したが武市彰一に敗れ落選となった。
日比 翁助(ひび おうすけ、1860年8月12日(万延元年6… 日比 翁助(ひび おうすけ、1860年8月12日(万延元年6月26日) - 1931年(昭和6年)2月22日)は、明治時代から昭和前期にかけての実業家。三越百貨店を創業し三越の経営改革を進め、日本初の百貨店をつくった人物。号は美勲。 娘のシゲノは陸軍大将・緒方勝一の妻。 幕末の1860年(万延元年)に筑後国久留米藩士・竹井安太郎(馬廻格・高良山別荘臨番)の次男として生まれる。1876年(明治9年)18歳で江崎済の黒木塾にて学ぶ。海軍軍人になることを志し、竹崎氏に漢学を、剣術を藩主指南役・津田氏に、南画を同藩の狩野氏に学んだ。1879年(明治12年)日比家の養嗣子になった事で転向する。 剣も相当の腕だったが、久留米藩御納戸役時代に福澤諭吉の著作を読んで傾倒し、上京して1884年(明治17年)、慶應義塾を卒業。