木村英夫(きむらひでお、明治42年3月20日 - 平成13年… 木村英夫(きむらひでお、明治42年3月20日 - 平成13年8月22日)は、日本の造園系都市計画家。日本都市計画学会名誉会員。都市計画学会はもとより,日本造園学会の名誉会員さらに日本造園修景協会の会長や顧問をつとめたほか,審議会関係では,歴史風土審議会,埼玉県都市計画審議会,群馬県都市計画審議会に関係し、活動の足跡を残す。また東京農業大学造園学科,東洋大学工学部,東京大学農学部や国土建設学院の非常動講師も歴任。 技術士。 戦時中は皇紀2600年記念事業に関係した神都計画や神宮関係施設等の計画,東京緑地計画に続く戦時体制下での防空を含む総合都市計画、戦後は戦災復興事業,昭和31年に制定された都市公園法の運用に当たり、埼玉県時代は江戸川の改修事業に関連した土地区画整理事業,国道17号バイパス計画,県立自然公園指定に尽力し1964年東京オリンピック関連施設計画でも力量を発揮。
田辺 三郎(たなべ さぶろう、1909年3月20日 - 19… 田辺 三郎(たなべ さぶろう、1909年3月20日 - 1987年9月15日)は、日本の経営者。伊奈製陶(INAXを経て、現在のLIXIL)社長を務めた。 東京都出身。1929年に東京高等工業学校窯業学科を卒業し、同年に伊奈製陶に入社した。1948年9月に取締役に就任し、1961年12月に常務、1963年12月に専務、1967年12月に副社長を経て、1968年10月に社長に就任した。1976年1月に会長を経て、1980年1月に相談役に就任した。 1974年10月に藍綬褒章を受章し、1980年5月に勲三等瑞宝章を受章した。 1987年9月15日、心不全のため死去した。78歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
小西 健一(こにし けんいち、1909年(明治42年)3月2… 小西 健一(こにし けんいち、1909年(明治42年)3月20日 - 1986年(昭和61年)3月20日)は、日本のフィールドホッケー選手、スケート指導者。 朝鮮の咸興市で生まれた。1932年、早稲田大学経済学部を卒業した。 1932年、日本のフィールドホッケーチームのメンバーとして、1932年ロサンゼルスオリンピックに出場し銀メダルを獲得した。彼はフォワードとして2試合に出場した。 1933年、大日本スケート競技連盟(現日本スケート連盟)理事、大日本体育協会(現日本スポーツ協会)理事に就任。1972年札幌オリンピックの日本スケート代表チームの選手強化本部長を務めた。 その他、日本アイスホッケー連盟参与、日本スケート連盟参与、小西産業社長などを務めた。
小松 多喜雄(こまつ たきお、1909年(明治42年)3月2… 小松 多喜雄(こまつ たきお、1909年(明治42年)3月20日 - 1982年(昭和57年)8月4日)は、昭和期の実業家、政治家。塩尻市長(初代)。位階は正六位。勲四等旭日小綬章。 長野県東筑摩郡塩尻村(塩尻町を経て現塩尻市)で生まれた。1922年(大正11年)旧制松本商業学校5年次中途退学。家業の運送業に従事。1928年(昭和3年)から鉄道小運送業に従事(美勢運送合資会社勤務)し、1941年(昭和16年)から貨物自動車業を営む(塩尻陸運取締役)。1944年(昭和19年)5月、中信興業代表取締役に就任。1946年(昭和21年)に小松組(信州急送などを経て現信州名鉄運輸)を創業し、長野県内におけるトラック運送業の先駆けとなる。
川副国基(かわぞえ くにき、1909年3月18日―1979年… 川副国基(かわぞえ くにき、1909年3月18日―1979年)は、日本近代文学者、早稲田大学名誉教授。 長崎県生まれ。早稲田大学国文科卒。早稲田大学教授。78年定年退任。
鈴木 恭二(すずき きょうじ、1909年3月18日 - 19… 鈴木 恭二(すずき きょうじ、1909年3月18日 - 1998年5月3日)は、日本の実業家。味の素創業家三代目鈴木三郎助の娘婿で、同社代表取締役社長を務めた。京都の政財界に君臨した田中源太郎の孫。 田中源太郎の長男・一馬(貴族院議員・京都織物株式会社会長)の子として京都市に生まれる。東京帝国大学法学部政治科卒業後、第一銀行(現みずほ銀行)入行。1938年鈴木商店(現味の素)入社。1948年取締役に昇格。1949年常務取締役。1959年副社長。1965年から第5代社長務め、「大企業病」の打破を訴え、組織改革などにあたった。1968年藍綬褒章を受章。1973年会長に就任。1975年監査役。次女の睦子はヒゲタ醤油代表の浜口勝久(12代浜口吉右衛門)に嫁ぐ。
久保 伊津男(くぼ いつお、1909年3月16日 - 196… 久保 伊津男(くぼ いつお、1909年3月16日 - 1968年4月10日)は、日本の動物学者、海洋生物学者。東京水産大学教授。水産動物資源学を研究し、クルマエビの権威だった。 鹿児島県日置郡東市来村(現・日置市)出身。1928年錦城中学校卒業。1934年水産講習所本科養殖科を卒業、翌月講習所助手となる。1945年5月22日、理学博士の学位を修得(北海道帝国大学審査)。論文は「本邦およびその近海産車蝦科蝦類の研究」。 1952年東京水産大学教授に就任。1955年日本水産学会賞を受賞。1968年4月10日、教授会の最中に心筋梗塞のため死去。
井上 友一郎(いのうえ ともいちろう、1909年3月15日 … 井上 友一郎(いのうえ ともいちろう、1909年3月15日 - 1997年7月1日)は、大阪府出身の小説家。 大阪府西成郡中津町(後の大阪市東淀川区。その後大淀区を経て現・北区)生まれ。本名は友一。 商業学校在学中、野球と小説乱読で学業を怠け、そのために中退し、その後各中学を転々とする。1929年、関西大学第二商業学校を卒業し、1930年に早稲田大学専門部法科入学。1931年『森林公園』を発表して川端康成に認められる。また坂口安吾、田村泰次郎らとの同人誌『桜』で活動し、1934年「道化者」を発表。 1936年、早稲田大学仏文科卒業。同年「人民文庫」に参加。 「都新聞」記者となり、1938年特派員として中国戦線に従軍した。
秋山 博(あきやま ひろし、1909年3月15日 - 199… 秋山 博(あきやま ひろし、1909年3月15日 - 1990年4月11日)は、日本の電気工学・半導体物理学者。工学博士。大阪工業大学名誉教授。元電気工学教室担当。 専門は、半導体物理学・電磁気学。 愛媛県今治市出身。東京帝国大学工学部卒業。1950年大阪工業大学工学部電気工学科に着任し、電気工学教室を担当。その後、同学部電気工学科教授を経て、1973年大阪工業大学名誉教授。 大阪工業大学工学部電気工学科にて20年以上の長きに渡り教鞭を執り、大学初期の半導体物理学(のちの半導体工学)・電磁気学の研究育成に貢献した。 主な所属学会は、電気学会、日本物理学会、応用物理学会など。
菊池 真一(きくち・しんいち、1909年3月15日 - 19… 菊池 真一(きくち・しんいち、1909年3月15日 - 1997年2月15日)は、応用化学・物理化学・電気化学、特に写真化学の化学者である。東京写真大学(東京工芸大学)の学長として著名なほか、写真界において天然色写真の研究者(日本写真協会会長)、またフランス語学者として「仏和理工学辞典」の編纂に携わり、日仏理工科会の功労者・日仏工業技術会設立者(1954年設立)としても著名であり、新制の「東京工芸大学」の工学部と短期大学部の綜合化と同学部の芸術学部化の発展功労者でもある。 愛媛県出身。暁星中学校・高等学校卒、アテネ・フランセ卒。東京帝国大学工学部応用化学科を1933年卒。東京帝国大学大学院工学研究科応用化学専攻修士課程を1936年卒。
清元 寿國太夫(きよもと じゅくにだゆう、1909年3月13… 清元 寿國太夫(きよもと じゅくにだゆう、1909年3月13日 - 1998年12月6日)は、清元節の太夫。本名、新野剛一。東京都墨田区出身。
古賀 杉夫(こが すぎお、1909年(明治42年)3月12日… 古賀 杉夫(こが すぎお、1909年(明治42年)3月12日 - 1996年(平成8年)8月27日)は、昭和時代の政治家。福岡県柳川市長(5期)。 福岡県三潴郡久間田村(現柳川市)出身。 1938年(昭和13年)満州国政庁役員に就任。 1943年(昭和18年)満州国興安省参事官。 1956年(昭和31年)福岡県大川市助役。 1959年(昭和34年)柳川市長就任、以後1979年(昭和54年)までの5期連続で柳川市長に就任する。
菊岡 久利(きくおか くり、1909年3月8日 - 1970… 菊岡 久利(きくおか くり、1909年3月8日 - 1970年4月22日)は、日本の作家、詩人。本名、高木陸奥男(みちのくお)。横光利一に師事する。
滝沢 克己(たきざわ かつみ、1909年3月8日 - 198… 滝沢 克己(たきざわ かつみ、1909年3月8日 - 1984年6月26日、正字では「瀧澤」)は、日本の哲学者、キリスト教神学者。号は「等石」。 1909年、栃木県宇都宮市に生まれた。小・中学と1年飛び級で卒業。九州帝国大学法文学部哲学科で学び、1931年に卒業した。ドイツに渡ってボン大学にてカール・バルトに師事。 帰国後、山口高等商業学校教授となった。その後、母校である九州帝国大学助教授に就任。1949年より九州大学文学部哲学科教授。1969年からは文学部長を務めた。大学闘争では全共闘の学生を支持して大学を批判、1970年に辞職した。海外では、ハイデルベルク大学、マインツ大学ほかで客員教授を務めた。
小林 重四郎(こばやし じゅうしろう、1909年3月8日 -… 小林 重四郎(こばやし じゅうしろう、1909年3月8日 - 1996年6月6日)は、日本の俳優、歌手。本名は小林 義雄(こばやし よしお)。 神奈川県横須賀市汐入町出身。日本映画俳優学校卒業。新国劇出身。中里事務所に所属していた。 1924年、劇団「宝塚国民座」に入り、『砂絵呪縛』で初舞台を踏む。 1929年、日活に入社し『雲井竜雄』で映画デビュー。その後、松竹下加茂に移籍するが、1935年、再び日活へ復帰。映画『国定忠治』の劇中歌を唄い評判を得、ポリドールよりレコードも発売。歌う映画スターのはしりとなる。 1938年、一座を結成し、舞台俳優に転じ、テイチクレコード専属歌手としても人気を得る。
関 衛(せき まもる、1909年(明治42年)3月8日 - … 関 衛(せき まもる、1909年(明治42年)3月8日 - 1942年(昭和17年)10月26日)は、日本の海軍軍人。南太平洋海戦において戦死。海兵58期。最終階級は海軍中佐。 山形県米沢市に父・関才右衛門と母・ヤスのもとに生まれる。父は海軍大佐で、日本海海戦に第19艇隊所属の水雷艇「雉」艇長として参戦している。母は旧米沢藩士・左近司政記の娘。左近司政三海軍中将は伯父にあたる。 府立五中を経て、1926年(大正15年)11月海軍兵学校58期に入校。この時期はダルトンプランによる教育が実施されていた。1930年(昭和5年)11月18日卒業。58期生は少尉候補生として装甲巡洋艦「出雲」・「八雲」に乗組し練習航海に出発(関は「八雲」に乗組み)。
大森 義夫(おおもり よしお、1909年3月7日 - 198… 大森 義夫(おおもり よしお、1909年3月7日 - 1983年11月17日)は、日本の俳優。本名は菅沼 常吉。
大岡 昇平(おおおか しょうへい、1909年〈明治42年〉3… 大岡 昇平(おおおか しょうへい、1909年〈明治42年〉3月6日 - 1988年〈昭和63年〉12月25日)は、日本の小説家、評論家、フランス文学の翻訳家・研究者。 東京牛込に生まれた。父は相場師で、社会的身分の変動が激しく、それが自我の目覚めを早熟にしたという。戦前はスタンダールを研究した。フィリピンのミンドロ島での俘虜経験をもとにした『俘虜記』(1948年)で作家の地位を確立。『武蔵野夫人』(1950年)などの恋愛小説の秀作も書くが、その目は一貫して戦争に向けられていた。戦記文学『レイテ戦記』『野火』が代表作である。1972年に日本芸術院会員に推されたが、俘虜の経験を理由に辞退した。 1909年(明治42年)3月6日、 東京市牛込区(現:新宿区)新小川町に父・貞三郎、母・つるの長男として生まれた。
高 凰京(コ・ファンギョン、朝鮮語: 고황경、1909年3月… 高 凰京(コ・ファンギョン、朝鮮語: 고황경、1909年3月6日 - 2000年11月2日)は、大韓民国の社会学者、大学教授、女性運動家。ソウル女子大学校初代総長。 本貫は済州高氏、号はパロム(바롬)。 1909年3月6日、ソウルにて1男3女中の次女として生まれた。黄海道恩津義塾を経て、1924年に京城女子高等普通学校(現・京畿女子高等学校)、1928年に同志社女子専門学校(現・同志社女子大学)英文学科、1931年に同志社大学法学部、1933年にミシガン州立大学大学院卒(経済学修士)。1935年にミシガン州立大学で社会学の博士課程を修了して帰国し、1944年までに梨花女子専門学校(現・梨花女子大学校)の教授を務め、法学、経済学、社会学、英語などを教えた。
鳴海潟 陸奥雄(なるみがた むつお、1909年3月6日 - … 鳴海潟 陸奥雄(なるみがた むつお、1909年3月6日 - 没年不明)は、青森県南津軽郡浅瀬石村(現・黒石市)出身で出羽海部屋に所属した元大相撲力士。本名は鳴海 源吉。最高位は西十両9枚目(ただし、後述のように十両力士として土俵に上がらなかった)。 1925年郷里の大関大ノ里に憧れて上京し出羽海部屋に入門した。翌1926年1月場所「鳴海潟」の四股名で番付についた。その後は順調に番付を上げ、1932年1月場所で十両に昇進した。しかし、番付発表後天竜は角界の改革を訴えこれに大ノ里も同調したため春秋園事件が起きた。天竜、大ノ里らは相撲協会を脱退。鳴海潟も大ノ里と行動を共にし脱退した。天竜率いる「大日本新興力士団」に加わった。
岡田 洲二(おかだ しゅうじ、明治42年(1909年)3月5… 岡田 洲二(おかだ しゅうじ、明治42年(1909年)3月5日 - 没年不明)は日本の実業家、政治家。岡田商店の元代表取締役会長。元境港商工会議所会頭。元境港魚市場顧問、境港海陸運送相談役。元鳥取県会議員、境町会議員。 父親の岡田庄作は境港海運界の重鎮として境港発展に尽くした。叔父岡田信吉朗も海運業者である。 鳥取県西伯郡境町栄町(現在の境港市)出身。父は岡田庄作。 米子中学(現米子東高校)を経て、昭和9年(1934年)旅順工科大学機械科卒業。新潟県立長岡工業学校、米子高等女学校(現米子西高校)に勤務。昭和14年(1939年)岡田回漕店勤務。昭和19年(1944年)境港海陸運送を日本通運と創業、常務を経て社長に就任。
高田 静雄(たかだ しずお、1909年(明治42年)3月5日… 高田 静雄(たかだ しずお、1909年(明治42年)3月5日 - 1963年(昭和38年)12月10日)は、日本の砲丸投選手、写真家。 広島県広島市出身。旧制広陵中学校中退。日本陸上競技選手権大会では、1927年から1935年までの間に砲丸投げで6回優勝。1934年(昭和9年)に大連で開催された日米対抗陸上競技大会において14m13の日本記録を樹立した。この記録は1953年まで保持された。通称「砲丸王」と呼ばれた。 1936年ベルリンオリンピックに砲丸投げで出場したが予選で失格。 1945年(昭和20年)8月6日、広島市への原子爆弾投下の際、爆心地から約680メートルの中国配電(現中国電力)本店で被爆。
土方 正巳(ひじかた まさみ、1909年3月4日 - 199… 土方 正巳(ひじかた まさみ、1909年3月4日 - 1997年2月7日)は日本のジャーナリスト、評論家。 弟は、飯沢匡作のNHK人形劇のデザインなどで知られる、画家の土方重巳。 北海道生まれだが、父が日本郵船勤務で幼時は各地を転々とする。 1926年6月、開成中学(旧制)同級生の川尻東次、中村伸郎、鳥山榛名、青柳忠正らとともに「ダナ人形座」の名で人形劇の公演を行う。これが人形劇団プークの始まりである。 1932年、東京帝国大学文学部心理学科を卒業し、都新聞社(1942年に國民新聞社と合併して東京新聞社となる)に入社。同期に北原武夫がいる。1940年、文化部長。1950年、論説委員。1956年、編集局長。
赤松 啓介(あかまつ けいすけ、1909年3月4日 - 20… 赤松 啓介(あかまつ けいすけ、1909年3月4日 - 2000年3月26日)は、日本の在野の民俗学者、郷土史家、社会運動家。本名は栗山一夫。 兵庫県加西郡下里村(現加西市)出身。昭和初期に10代から独学で、行商をしながら都市とムラを行き来し民俗学的調査に取り組む。戦前非合法であった日本共産党に入党し、治安維持法違反で検挙され収監された経験を持つ。 戦後は神戸市史編集委員、神戸市埋蔵文化財調査嘱託などを務めた。 柳田國男などが性とやくざと天皇の民俗学を話題にしない事に反発し、階級闘争史観の視座とフィールドワークを中心とした研究手法で「非常民」の民俗学を研究発表した。関西を中心に活動し、ムラを維持するための公事でありムラの性的規範として夜這いに注目し、庶民の性生活を調査研究、それを体系化したことで知られる。
松田 甚次郎(まつだ じんじろう、1909年(明治42年)3… 松田 甚次郎(まつだ じんじろう、1909年(明治42年)3月3日 - 1943年(昭和18年)8月4日)は、日本の農業指導者、著述家。 宮沢賢治の影響を受けて、郷里で後世の村おこしに当たる活動を実践し、その経験を記した著作『土に叫ぶ』はベストセラーとなった。 山形県出身。1909年(明治42年)3月3日、山形県最上郡稲舟村鳥越(現新庄市)において、当時集落一番の大地主である松田甚五郎の長男として生まれた。 盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)在学中に宮沢賢治と出会い、卒業後に「小作人たれ」「農村劇をやれ」という賢治の言葉を実践する。以後、農民生活の向上と農村文化・芸術の確立に生涯をかけて取り組んだ。
北山 茂夫(きたやま しげお、1909年(明治42年)3月3… 北山 茂夫(きたやま しげお、1909年(明治42年)3月3日 - 1984年(昭和59年)1月30日)は、日本の日本史学者(日本古代史専攻)、立命館大学教授などを歴任する。 和歌山県有田郡鳥屋城村(現在の有田川町)生まれ。和歌山県立耐久中学校、第三高等学校をへて、1934年東京帝国大学文学部国史学科卒業。西洋史の羽仁五郎に傾倒し、近代史を学ぶため大学院に進むが古代史で業績をあげる。横浜の潤光学園講師、ついで郷里に帰り和歌山県立田辺中学校教諭となり、敗戦を迎える。戦後、排斥運動に遭って野に下るが、立命館大学法学部専任講師となり、文学部教授に転じるが学生運動で辞職した。 左翼的な立場に立ちつつ文学的関心が深く、人物史を排斥せず、一般向けに奈良時代史についての書物を多く著した。
石原 三起子(いしはら みきこ、1909年 <明治42年> … 石原 三起子(いしはら みきこ、1909年 <明治42年> 3月3日 - 1999年 <平成11年> 1月19日)は、元福島県教育委員会委員長。観世流名誉師範。位階は従六位。 夫石原幹市郎は自治大臣、福島県知事を務めた。元衆議院議員、元参議院議員の石原健太郎の母。父井上孝哉は戦前の内務次官、衆議院議員、各府県知事を歴任。 1958年5月22日投開票の第28回衆議院議員総選挙に、夫・幹市郎が所属した派閥の領袖大野伴睦より勧められ、衆議院の福島1区に出馬を決意、立候補するが次点に終わる。この選挙には同じく新人の天野光晴が前福島県知事の大竹作摩の支援を受け、河野一郎派から出馬当選している。三起子の衆議院議員選挙の出馬・落選により、福島1区での夫・幹市郎の基盤に陰りが生じ、参議院議員選挙落選へとつながっていく(幹市郎の引退後は息子や孫が地盤を引き継いでいる)。
渡邊 浦人(わたなべ うらと、1909年〈明治42年〉3月2… 渡邊 浦人(わたなべ うらと、1909年〈明治42年〉3月2日 - 1994年〈平成6年〉10月18日)は、日本のクラシック音楽の作曲家。
高木 和男(たかぎ かずお、1909年3月2日 - 2004… 高木 和男(たかぎ かずお、1909年3月2日 - 2004年5月26日)は、日本の労働栄養学者。 東京府東京市深川区(現東京都江東区)木場出身。旧制湘南中学(現神奈川県立湘南高等学校)卒、横浜高等工業学校応用化学科(現横浜国立大学)卒、1953年新潟大学医学博士。管理栄養士。東京市衛生試験所、労働科学研究所(労働栄養学研究部長)、立正女子大学教授、相模女子大学教授、東京栄養食糧専門学校校長を務めた。民主栄養協会に属し、マルクス主義的な立場から労働者の栄養について研究した。 もともと病弱であった高木は家族の勧めで1918年(大正7年)東京から神奈川県高座郡藤沢町(現・藤沢市)鵠沼海岸にて療養を始めた。
岳野 慶作(たけの けいさく、1909年3月2日 - 199… 岳野 慶作(たけの けいさく、1909年3月2日 - 1992年3月26日)は、日本の神学者。上智大学名誉教授。 長崎県西彼杵郡(現・長崎市)生まれ。1936年東洋大学卒業。1961年パリ大学哲学博士。1953年南山大学仏文科講師、1956年上智大学講師、1961年助教授、1966年上智大学教授に就任、1980年定年により名誉教授となる。また、1979年聖カタリナ女子短期大学教授、1980年学長となった。 1978年フランス学術文化勲章オフィシエ章、1981年勲四等旭日小綬章受章。 1992年3月26日、肝臓癌のため死去。
河上 英一(かわかみ ひでかつ、1909年(明治42年)3月… 河上 英一(かわかみ ひでかつ、1909年(明治42年)3月2日 - 1992年(平成4年)8月12日)は、日本の演劇評論家。 1909年(明治42年)3月2日に東京府京橋で生まれる。1934年(昭和9年)、法政大学法文学部を卒業する。 1937年(昭和12年)に読売新聞に入社し、レビュー担当記者になる。読売新聞娯楽部長を経て、演劇評論家になる。 読売新聞夕刊娯楽面に毎週「月曜ジャーナル」を掲載した。 また、芸術選奨文部科学大臣賞の演劇部門の選考委員を務めた。 1992年(平成4年)8月12日に死去、83歳。
吉田 豊(よしだ ゆたか、1909年3月1日 - 1980年… 吉田 豊(よしだ ゆたか、1909年3月1日 - 1980年5月22日)は、日本の裁判官。最高裁判所判事。福井県出身。 東京帝国大学法科在学中に高等文官試験司法科に合格。1932年(昭和7年)3月に同大学を卒業。1935年(昭和10年)12月に判事となる。京都、福岡、大阪、東京各地裁に勤務。 1947年(昭和22年)12月から1952年(昭和27年)7月までの4年半、最高裁長官の下で最高裁事務局会計課長、経理課長を務めた。その後、東京地裁、東京高裁に勤務。1967年(昭和42年)5月に最高裁事務総局次長に、1970年(昭和45年)7月に最高裁事務総長に就任。最高裁事務総長としては青法協問題等に取り組む。
出羽ノ花 國市(でわのはな くにいち、1909年3月1日 -… 出羽ノ花 國市(でわのはな くにいち、1909年3月1日 - 1987年5月30日)は、元大相撲力士。位階は正五位。 石川県能美郡(現:石川県小松市)出身(出生地は東京都江東区)、出羽海部屋に所属した。本名は市川 國一(いちかわ くにいち)(旧姓:駒澤)。 1909年3月1日に東京府南葛飾郡大島町(現:東京都江東区大島)で肥料会社を営む家に生まれ、石川県能美郡(現:石川県小松市)で育つ。既に9歳で体重が60kgに達して怪童と話題になり、実家の得意先の世話で出羽ノ海部屋を紹介された。毎週土曜日には地元の巡査の迎えで部屋に行って関取と相撲を取らせてもらったり、出羽海によって遊びに連れて行ってもらったり、部屋に宿泊する時は豪華な文房具をお土産に貰ったりするなど可愛がられた。
金光 義邦(かねみつ よしくに、1909年(明治42年)3月… 金光 義邦(かねみつ よしくに、1909年(明治42年)3月 - 1978年(昭和53年)1月5日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。
松丸 貞一(まつまる ていいち、1909年2月28日 - 1… 松丸 貞一(まつまる ていいち、1909年2月28日 - 1997年1月6日)は、東京都文京区本郷出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはハーフバック(現在のミッドフィールダー)、フォワード。 東京府立第五中学校(現在の東京都立小石川中等教育学校)3年生時の1924年に同校で蹴球部が創設されたことを機にサッカーを始める。慶應義塾大学に進み、1932年に慶應義塾大学法学部法律学科を卒業した。ソッカー部では1931年より主将を務め、1932年に関東大学リーグと東西大学1位対抗に初優勝した。 天皇杯は1933年4月に慶應BRBの選手として第12回大会で優勝、同年10月には東京OBクラブの選手として第13回大会で優勝、1936年には再び慶應BRBの選手として第16回大会で優勝した。
村上 浩三(むらかみ こうぞう、1909年2月28日 - 没… 村上 浩三(むらかみ こうぞう、1909年2月28日 - 没年不詳)は、日本の機械工学者。大阪工業大学名誉教授、工学博士(京都大学)。大阪工業大学機械工学科同窓会第2代会長。 専門は、機械動力学(特に歯付ベルト・振動ドリル・ワインダー)、精密工学・繊維機械。 京都帝国大学工学部機械工学科卒業。のちに、工学博士(京都大学)。1951年大阪工業大学工学部機械工学科教授、機械工学教室を担当。同大学機械工学科研究室で多数の研究室生を輩出し、その研究室卒業生により「かつら会」が1969年に結成される(2019年同会発足50周年を迎えた)。その後、1973年大阪工業大学名誉教授。 20年以上の長きに渡り大阪工業大学機械工学科にて教鞭を執り、大学初期の機械動力学・精密工学・繊維機械の研究の発展・育成に貢献した。
村田 潔(むらた きよし、1909年2月28日 - 1973… 村田 潔(むらた きよし、1909年2月28日 - 1973年11月3日)は、西洋美術史学者。東北大学名誉教授。専門は古代ギリシア美術、フランス印象派。 長野県松本市出身。東北帝国大学文学部美学美術史学科で児島喜久雄に学び、1932年卒業後、東北帝大文学部助手。イギリスなどヨーロッパに学び、帰国後1937年講師、1939年助教授、1947年東北帝国大学教授、東北大学文学部教授、1950年「印象派美術論」で東北大学文学博士。1972年定年退官、名誉教授、武蔵野美術大学教授。
土橋 寛(つちはし ゆたか、1909年2月27日 - 199… 土橋 寛(つちはし ゆたか、1909年2月27日 - 1998年6月11日)は、日本の国文学者、万葉学者、同志社大学名誉教授。『万葉集』や記紀歌謡など、古代和歌を専門とした。 長崎県生まれ。京都帝国大学文学部文学科国文学専攻卒業、立命館大学予科教授、立命館短期大学教授、奈良学芸大学教授を経て、1962年に同志社大学教授。1978年に『万葉開眼』で毎日出版文化賞受賞。1979年に定年退職、名誉教授。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。
三島 重人(みしま しげと、1909年2月27日 - 20… 三島 重人(みしま しげと、1909年2月27日 - 2009年8月9日)は、日本の経営者、銀行家。筑邦銀行頭取を務めた。 福岡県出身。1932年に神戸商業大学を卒業し、1933年に日本勧業銀行に入行した。1962年5月に筑邦銀行頭取に就任。1981年6月に会長に就任し、1988年6月に取締役相談役を経て、1989年6月には取締役名誉会長に就任。 1981年4月に勲四等瑞宝章を受章し、1990年4月に勲四等旭日小綬章を受章。 2009年8月9日、老衰のために死去。100歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
壇上 春清(だんじょう はるきよ、1909年(明治42年)2… 壇上 春清(だんじょう はるきよ、1909年(明治42年)2月27日 - 1979年(昭和54年)9月13日)は、和歌山県田辺市出身の童謡詩人。本名は春之助。別号を芳花、青華。 金子みすゞや島田忠夫の童謡集を出版したことでも知られる。 第16回久留島武彦賞を受賞。 1924年(大正13年)頃より童謡を書き始め、『赤い鳥』『童話』『金の船』(のち金の星と改題)などの雑誌に作品を発表する。 同志社高等商業学校を卒業後、1974年(昭和49年)まで外務省に勤務する。 その間、1970年(昭和45年)に季節の窓詩舎から『金子みすず童謡集 繭と墓』を発行した。同書のあとがきには「下関の商品館から投稿していた」という記述があり、これが後に金子みすゞが再発見される大きな手がかりとなった。
木村 健康(きむら たけやす、1909年2月26日 - 19… 木村 健康(きむら たけやす、1909年2月26日 - 1973年12月7日)は、日本の経済学者、東京大学名誉教授、成蹊大学経済学部初代学部長。
知里 真志保(ちり ましほ、1909年〈明治42年〉2月24… 知里 真志保(ちり ましほ、1909年〈明治42年〉2月24日 - 1961年〈昭和36年〉6月9日)は、アイヌの言語学者。文学博士。北海道大学名誉教授。専攻はアイヌ語学。姉は『アイヌ神謡集』著者の知里幸恵、伯母は口承文芸伝承者の金成マツ。 1909年2月24日、北海道幌別郡登別村(現在の登別市登別本町)で生まれた。。1929年3月、北海道庁立室蘭中学校(現在の北海道室蘭栄高等学校)を卒業し、地元の幌別役場に勤務する。その後、喜田貞吉と金田一京助が両親に大学進学を勧め、進学を決意した。 1930年、上京して東京・杉並の金田一家に逗留し、第一高等学校に150人中12番の成績で合格し入学。1933年3月に卒業。
伊藤 義教(いとう ぎきょう、1909年2月23日 - 19… 伊藤 義教(いとう ぎきょう、1909年2月23日 - 1996年10月23日)は日本のイラン学者。京都大学名誉教授。 1909年、山口県大津郡三隅町で生まれた。旧制福井中学校、旧制姫路高等学校を経て、京都帝国大学文学部に進むと、梵語梵文学を専攻し榊保三郎、足利惇氏に師事。1935年に卒業した。 1940年、京都帝国大学大学文学部副手に採用された。翌1941年に同講師昇格。1947年からは新制大学発足に伴い、京都大学文学部講師。1953年、学位論文『マーヌシュチフル書翰集の解読』を京都大学に提出して文学博士号を取得。1968年、文学部教授に昇格。1972年に京都大学を定年退官し、1974年名誉教授となった。
矢島 武(やじま たけし、1909年(明治42年)2月23日… 矢島 武(やじま たけし、1909年(明治42年)2月23日 - 1992年(平成4年)3月17日)は、日本の農業経済学者。農学博士(北海道大学)。北海道大学名誉教授・元旭川大学学長。位階は正四位。北海道旭川市出身。北海道昭和期中頃における農業経済学の大家。渡邊侃門下。弟子には志賀永一や七戸長生、久保嘉治らがいる。 この他、農林省開拓営農振興審議会委員、文部省学術審議会専門委員、日本農業経済学会会長などを務めた。 この項目は、経済学者(経済評論家を含む)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ウィキポータル 経済学、ウィキプロジェクト 経済)。
内田 藤雄(うちだ ふじお、1909年2月22日 - 199… 内田 藤雄(うちだ ふじお、1909年2月22日 - 1992年12月21日)は、日本の外交官。法務省入国管理局長、外務省大臣官房長、駐オーストリア特命全権大使、駐ドイツ特命全権大使。 岡山県出身。1928年東京高等学校文科甲類卒業、東京帝国大学法学部法律学科入学。1930年高等試験外交科本試験に合格し、1931年に外務省に入省した。1949年公正取引委員会事務局総務部長。1954年法務省入国管理局長。1957年外務省移住局長。1958年外務省大臣官房長。1960年オーストリア国駐箚特命全権大使、国際原子力機関理事会理事たる日本政府代表。1965年ドイツ国駐箚特命全権大使。1973年海外移住審議会委員。
片倉 信光(かたくら のぶみつ、1909年(明治42年)2月… 片倉 信光(かたくら のぶみつ、1909年(明治42年)2月22日 - 1985年(昭和60年)5月3日)は、宮城県仙台市青葉区青葉町、仙台藩藩祖伊達政宗公を祭神とする、仙台市の一ノ宮、青葉神社の宮司。旧仙台藩家老・白石片倉氏第15代当主。父は14代健吉。
金 判述(キム・パンスル、朝鮮語: 김판술/金判述、1909… 金 判述(キム・パンスル、朝鮮語: 김판술/金判述、1909年2月22日 - 2009年3月31日)は、大韓民国の官僚、政治家。保健社会部長官、第3・5・11代韓国国会議員を歴任した。 本貫は金海金氏。カトリック教徒。号は道庵、漢字表記は金判術とも。 全羅北道沃溝郡北面新豊里(現・全北特別自治道群山市)出身。群山公立中学校、栃木県宇都宮高等農林農学科を経て、1937年京都帝国大学(現・京都大学)農学部卒。 1937年から満州新京大陸科学院研究士を務め、1945年から全羅北道裡里農事試験場長、新光日報創刊者、群山漁業組合組合長、国立水原農事試験場化学部長、ソウル大学校農科大学講師、農林部第2農政課長、民主国民党群山市最高委員・全羅北道党最高委員、高麗大・東国大講師、民主党農民部次長・産業部長、第2共和国の保健社会部(現・保健福祉部)長官(通算第7代、1961年1月30日~5月18日)、民主党企画委員・政策委員会議長・党務委員会議長・事務総長、許政新政党発起準備委員、民衆党中央常務委員会議長・事務総長、新民党指導委員(1967年)・中央常務委員長、三選反対汎国民闘争委員会発起人、国会議員同友会運営委員会副議長、民主韓国党ソウル第1地区党委員長・諮問委員会議長・顧問・常任顧問、平民党顧問・党務指導委員会議長、民主党党務委員、ウジン学園理事、統一院統一顧問、大韓民国憲政会(朝鮮語版)元老会議議長、天主教正義平和委員、駕洛ソウル宗親会長、第1次国際鍼灸学術大会大会長、雲石張勉博士記念会発起人、韓国葬儀文化研究会会長を歴任した。
和村 幸得(わむら こうとく、1909年 <明治42年> 2… 和村 幸得(わむら こうとく、1909年 <明治42年> 2月21日 - 1997年 <平成9年> 10月18日)は日本の政治家。岩手県普代村長。位階は従五位。勲四等瑞宝章。 普代村出身。盛岡中学(現岩手県立盛岡第一高等学校)から慶應義塾大学に進むが、健康を害して中退、普代に戻った。 1933年、普代村で約600人の死傷者を出した昭和三陸地震の津波を体験した。後に著した回想録『貧乏との戦い四十年』では「阿鼻叫喚とはこのことか。堆積した土砂の中から死体を掘り起こしている所を見た時にはなんと申し上げてよいか、言葉も出なかった」と述懐している。 普代村役場で働いたのち、1947年に村長選挙に出馬して当選し、以後1987年まで10期40年に亘り務める。
小野木常(おのぎ つね/じょう、1909年2月21日 - 1… 小野木常(おのぎ つね/じょう、1909年2月21日 - 1991年2月19日)は、日本の法学者。専門は破産法。学位は法学博士(京都大学・論文博士・1947年)。大阪大学名誉教授。山田正三門下。弟子に中野貞一郎など。 大阪市出身。1932年京都帝国大学法学部卒、1947年 法学博士の学位を取得。広島地方裁判所検事局検事、京都大学法学部助教授、京都大学法学部教授、大阪大学法学部教授兼任(のち大阪大学専任)、1971年大学紛争により退職、名誉教授。
飯田 汲事(いいだ くめじ / くみじ、1909年 <明治4… 飯田 汲事(いいだ くめじ / くみじ、1909年 <明治42年> 2月21日 - 2000年 <平成12年> 7月17日)は、日本の地震学者・地球科学者。学位は、理学博士(東京大学・論文博士・1944年)。名古屋大学名誉教授。1980年勲三等旭日中綬章。位階は正四位。 1939年(昭和14年)6月に石本巳四雄と共同で、「ある観測点で記録された地震動の最大振幅と出現頻度との関係についての式」(石本・飯田の式)を発表した。 津波研究の世界的権威として知られる。今村明恒とともに設定した津波等級は現在でも広く使われている。また、過去に起こった地震の調査を多数行った。とくに濃尾地震の研究は有名。 そのほか、公害、都市計画、物理探査、温泉など、幅広い分野で活躍した。